第二章①

 腕時計が時報で午後9時を告げた。緑川を突き落としてからもうじき丸一日が経過する。未だに俺の心は波一つなく固まっている。後悔にさいなまれることも、恐怖におののくこともない。まるで真夜中の森のように不気味な静寂に包まれている。
一人の室内、麦茶でも飲もうかとソファを立ったところで玄関のインターホンが鳴った。
「はい、どちら様?」
そう問いかけると相手は「警察の人間です。警視庁で刑事をしているカイカンと言います」と答えた。警察…いよいよ来たか。まあマンションでオーナーが転落死したのだから住人に聞き込みが行なわれても特に不思議はない。それにしてもカイカンとは聞き慣れない名字だ。まあその語り口から礼節と理知を備えた人間であることはわかる。
小さく深呼吸し、俺はロックを解除してドアを開けた。
「どうも、夜分にすいません」
低い声が玄関に入ってくる。カイカンと名乗ったその刑事は俺の名前を確認し、「ご家族はお留守ですか?」と尋ねた。
「妻は里帰りしてるんですよ。明日には戻る予定です。刑事さん、僕に何か?」
「少々込み入った話がありましてね。あの…上がらせてもらってよろしいですか?」
正直躊躇はあったが、俺はどうぞと答えてリビングに促した。刑事は座ろうとしなかったので俺も立ったままで会話を続ける。
「それで刑事さん、どのようなご用件でしょう」
「実はですね…オーナーの緑川さんが亡くなられたことはご存じですか?」
「ええ、ニュースで聞きました。朝ゴミを出しに行った時にもお隣さんから伺いました。昨夜のことだそうですね、救急車やパトカーも来ていたって」
「転落されたのは昨夜の午後10時35分です。通報を受けて警察が来たのは0時を過ぎた頃ですが…お気付きじゃありませんでしたか?」
「夕べは早めに休んでいたもので…」
こんな会話に何の意味があるのだろう。相手の意図が察せない。あえて言葉を止めてみると刑事も黙ったためその場に不自然な沈黙が生まれる。
「緑川さんの死についてですが…」
やがて刑事が会話を動かした。
「自宅の801号室の窓から転落されたのは間違いありません。しかし当初はそれが事故なのか、それとも自殺なのか、はたまた他殺なのか…皆目見当がつきませんでした。
…あの、緑川さんとおつき合いはありましたか?」
「まあ普通程度には。家賃を払いに行ったり、実家から届いたお菓子を差し入れしたり…あとはそうですね、水漏れとかあった時に部屋に来てもらったりとかです」
「あなたが緑川さんの部屋を訪ねることもあったのですね?」
「ええ、家賃を届けるのは僕がしてましたから」
「階段で8階まで上がるとなると大変でしょう」
「慣れればなんてことないですよ。普段家にいることが多いので運動不足解消になりますしね。ところで刑事さん、こうやって住人を回って緑川さんのことを尋ねていらっしゃるのですか?」
カイカンは言葉を止める。そして室内にその低い声を響かせて答えた。
「いえ…ピンポイントであなたに会いに来ました」

 今のはどういう意味だ?どうしてピンポイントで俺に?それを尋ねるべきか迷っている間に刑事はさらに語りを進めた。
「話を戻しましょう。緑川さんの死は果たして事故か自殺かそれとも他殺か。真っ先に消えたのは事故の可能性です。何年も暮らしているお部屋の窓から誤って落ちるというのは考え難いですし、現場には遺書も残っていましたから」
「遺書があったのなら自殺では?」
「ところがそうでもないんです。確かに遺書は自殺説を裏付けますが、いささか裏付け過ぎていましてね。というのも現場からは遺書が二通も発見されたのです。一通は机の上に置いてあり、文面は手書き、人間として最低なことをしたから死んで謝罪するという内容でした。ところがもう一通は転落した緑川さんの内ポケットから発見されました。こちらはワープロ打ちで、将来に光が見えないから死を選ぶという内容でした。
…いかがです?いくら自殺でも遺書を二通も残すのは不自然だと思いませんか?書き直したにしても内容が違い過ぎます」
「…確かにそうですね」
「ということで自殺説もなんだか怪しいわけです。では他殺説を考えてみましょう。これが殺人事件だとすると、犯人は何らかの方法で緑川さんの体の自由を奪い、彼を窓から突き落としたことになります」
刑事はそこでスタンガン、麻酔薬など相手の意識を失わせるいくつかの方法を説明した。俺の背中に冷たい汗が伝う。
「ただここで問題なのは突き落とした方法ではないんです。私が不思議だったのは犯人が現場から逃走した方法です。警察が801号室に踏み込んだ時、室内には誰もいませんでした。廊下や階段には身を隠す場所はありません。さらにその後の捜査で、マンションの外に出た痕跡もなかったことがわかっています。
…どういうことかおわかりですか?」
「犯人がいたとすれば、逃げ込む先は2階の部屋しかないってことですか」
俺は慎重に言葉を選んで答える。
「そのとおりです。しかしここにも問題がありましてね。実は緑川さんが転落した約五分後に名塚さんという住人が2階から801号室まで歩いているのです」
…なんだって?
「おわかりですか?名塚さんは道中で誰とも会っていません。つまり犯人がいたとすれば、緑川さんを突き落としてから僅か五分の間に2階まで移動したことになるのです。
…不可能な時間ではありません。老化を走り抜け階段を跳んで下りれば数分で2階まで行けます」
「では犯人はとても運動神経の良い人物、ということですか?」
「フフフ…通常ならそうなのですがね」
刑事は不気味に笑った。
「今回の事件はそうではありません。あなたはお気付きじゃなかったかもしれませんが、緑川さんが転落した際に送電線に触れてしまいこのマンションは一時的な停電になったのです。よろしいですか?廊下も階段も真っ暗だったんですよ。いくら運動神経が良くても暗闇の中で走ったり跳んだりできません」
俺は言葉を失う。
「では犯人は一体何者か?考えているうちに思い付きました。確かに突然の暗闇では誰だって身動きがとれなくなります。しかし突然ではなかったとしたら?普段から暗闇の中にいる人だったらどうか?もともと光に頼らず廊下や階段を歩いている人ならば停電になったって何の変化もない。慣れ親しんだルートなら走ったり跳んだりもできる」
声はどんどん圧力を増していく。
「つまりこの事件の犯人の条件はただ一つ…それは目の不自由な人間。このマンションの住人でそれに該当するのはあなただけなのです」

 …なんと言うことだ。緑川を突き落としたことでマンションが停電していたなんて。光を感じることのできない俺の瞳にはそれを知る術がなかった。そういえば、自分の部屋に戻って冷蔵庫を開けた時、いつものブーンという音を聞かなかった気がする。クソ、そういうことか。
「あなたは家賃を払いに行くために緑川さんの部屋には何度も往復されていますね。もしかしたら普段から運動不足解消に階段の上り下りをしていたのかもしれません。あなたなら五分で逃走することができるのです。
…何かご意見はありますか?」
カイカンとかいうこの刑事、一体どんな顔をして推理を披露してやがるんだろう。声色から大抵の人間の表情は想像がつくが、どうもこいつだけはよくわからない。
「刑事さん、本気でおっしゃってるのですか?僕が緑川さんを殺害したと」
「残念ながら、犯人はあなた以外にはいないと考えています。あなたが防犯用にスタンガンを所持しておられることも、購入履歴から調べがついています。あなたが自殺に見せかけて緑川さんを突き落としたのです」
「ちょっと待ってくださいよ、それはあくまで他殺説を支持した場合の推理ですよね?自殺説が完全に否定されたわけではないでしょう。確かに遺書が二通あったのは不自然ですが、それは他殺の場合も同じじゃないですか。犯人はどうして二通も遺書を偽造するんです?」
「犯人が偽造した遺書は一通だけです」
そこでカイカンは少し穏やかな声になる。
「あなたはワープロで作った偽物の遺書を緑川さんの内ポケットに仕込みました。もちろんそれは自殺説を裏付けるためです。しかしあの部屋にはもう一通もともと遺書があった…そう、緑川さん本人が用意した遺書です」
…驚愕。心臓が大きく脈打った。
「緑川さんは作や、自殺するおつもりだったのです。手書きの遺書は確かに彼の筆跡でした。それに室内には…首吊り用のロープも用意されていました。ロープで輪っかを作り鴨居から垂れ下げられていました。
…よろしいですか?あの部屋を見れば誰だって緑川さんが自殺しようとしているのはわかったはずです。遺書と書かれた封筒が机の上に置かれ、首吊り用のロープが垂れ下がっていたわけですから。しかし…あなたがそれを知る術はありませんでした。緑川さんも訪ねてきたのがあなた以外の人だったら、けして部屋には上げなかったでしょう。遺書やロープを見られたら自殺を止められてしまいますからね」
そういう…ことか。そういえばあの時、顔に垂れ下がった紐のような物が触れた。あいつの声にもどこか元気がなかった。俺が手を下さなくても緑川は自分で死ぬつもりだったのか。なんて皮肉な巡り合わせだろう。なんて最低なタイミングだろう。
「偽物と本物で遺書は二通になってしまったわけです。つまりあの場には緑川さん以外の誰かが存在した。そしてその誰かは一目瞭然な部屋の様子に気付かなかった。つまり…」
「もういいです」
俺は腹をくくってそう言った。特に怒りの感情は湧いてこない。
「認めます。緑川さんを殺したのは僕です」
「…了解しました」
優しく言うカイカン。俺には微笑んでくれたように感じた。
「刑事さん、ありがとうございます。こんなこと言うのも変ですが、ちゃんと容疑者として疑ってくれて嬉しかったです。目を悪くしてから、やっぱりどこか…普通の扱いをしてもらっていない気がしていたので」
「こちらこそ…あなたもご立派でした。もちろんなさったことは褒められたものじゃありませんが、私に糾弾されてもあなたはご自身の障害を盾にしようとはなさらなかった。言い訳にも使わなかった。だから私も一人の責任ある人間としてあなたを追い詰めたつもりです」
「…はい。悪いことをしたんですから、ちゃんと罪を償わせてください」
不思議な気持ちだった。昨夜憎しみに任せて緑川を葬った時よりずっと心が軽くなったように感じた。