第一章①

「久しぶりの実家なんだからゆっくり親孝行してこいよ」
そう言って妻との電話を切ると俺は窓辺に立つ。目の前には黒い闇が広がる。腕時計が時報で午後10時を告げた。
「よし、行こう」
誰にでもなく言った。もはや迷いはない。肉体も精神もただ一つの目的に向かって突き進んでいる。両手に手袋を装着し例の物をポケットに忍ばせると玄関を出た。
廊下に人の気配はない。予想どおりだ。日曜の夜、他の住民はもう各々の部屋でゆっくりしているのだろう。足音を立てないよう気を付けながら廊下を進み階段にたどり着く。ここから8階まで上がるのは骨だが焦ることはない。俺は誰もいない階段を一歩ずつ踏みしめるように進んでいく。
特に問題なく8階に到着、少し乱れた息を整えてから俺は歩みを再開する。当然ながらこのフロアにも人の気配はない。抑えた足音だけが不気味に聞こえている。間もなく目的の801号室の前まで来た。ここに至っても全く心が波立つことはない。落ち着き過ぎている自分が逆に心配になるくらいだ。
…殺意とはこれほどまでのものなのか。これほど自分を凝り固めるものなのか。僅かに手が震える。恐怖や緊張ではない、これは武者震いだ。
余裕の息を吐いて俺はインターホンを鳴らした。この計画で唯一不安要素だったのは犯行に及ぶ時刻の設定だ。他の住人に目撃されないためにはできるだけ夜遅い方が望ましい。かといってあまり深夜になってしまうとターゲットが就寝してしまう可能性がある。それらを鑑みての午後10時という設定だったのだが、果たして…。
しかし俺の不安は杞憂に終わった。
「はい、緑川です」
優しい口調にどこか冷たさを秘めた声が俺を出迎えた。
「夜分にすいません」
俺はそこで名を名乗る。相手は「ああ、211号室の…どうされました?」と答える。部屋番号までさすがによく憶えていやがる。
「少しだけお話よろしいでしょうか。すぐに終わりますので」
返される数秒の沈黙。「わかりました」とどこか元気のない声がしてガチャリと玄関のドアが開かれた。
「こんばんは、こんな時間にごめんなさい」
「いえいえ、構いませんよ。どうかなさいましたか?」
「あの、内々のお話なので上がらせてもらってよろしいですか?」
躊躇されたのがわかったが、緑川は小さく「どうぞ」と言って俺を促した。玄関を上がってまっすぐ進んだ部屋に通される。
「そこに椅子がありますのでどうぞ」
「いえ、立ったままで大丈夫です」
「そうですか。それでお話というのは?」
「はい、実はですね…」
そう言いながら俺は緑川に歩み寄る。そして左手を相手の右肩にそっと添え、それとほぼ同時にポケットからスタンガンを握った右手を取り出し相手の腹部に押し当てる。一瞬怪訝な反応をしたのがわかったが俺は素早く左手を離すとためらわずスイッチを入れた。そう、これまで溜め込んできた膿んだ感情を一気に噴出するように力を込めてしっかりと。

 パシュッと音がして緑川がこちらに倒れこんでくる。スタンガンをポケットに戻すと俺は緑川を抱えたまま「誰かいますか」と一応室内を呼んでみるがもちろん返答はない。緑川も完全に意識を失っている。一度床に下ろし、俺は壁を手でなぞりながら窓を探す。どうやら居間と仕事部屋を兼ねているらしく机の上にはノートパソコンや書類、封筒などが置かれている。おっと、いくら手袋をしているとはいえできるだけ触らないようにしなくては。
やがて手ごろな窓が見つかる。開け放つと生ぬるい夏の夜風が控えめに流れ込んできた。コインを一枚投げてみる。間をおいてチャリンの音…間違いなく地上までかなりの距離がある。
ここでいいだろう。おっとそうだ、あれを忘れてはいけない。俺は用意しておいた偽物の遺書を取り出す。
これでよし、と。遺書を仕込むと俺は最後の仕上げにかかる。床に転がる男に肩を貸す形で立ち上がらせ、窓に向かってゆっくり進む。顔に紐のような物が触れた。電灯のスイッチに結ばれている紐だろう。首を捻ってそれを払ってから俺は眠る男を窓辺に立たせた。
心は恐ろしく落ち着いたままでいる。今からこの手で人一人の命を奪おうというのに。
頭の中で帰りのルートをおさらいした。誰かが転落した緑川を発見してここに駆け上がってくる可能性もなくはない。できるだけ素早く闘争しなければ。よし、問題ないな。
「それじゃあ緑川さん、妻が色々とお世話になりました」
丁寧にそう言って俺は緑川を窓から落とした。

 行きと同じく誰とも会うことなく俺は自分の部屋に帰り着いた。ほっとして大きく息を吐く。手袋を脱いで衣装箪笥の奥に放り込む。スタンガンも電池を抜いて収納の奥の棚に戻した。
「…完璧だ」
また誰にでもなく言った。喉が渇いたので冷蔵庫を開く。いつもはブーンブーンわめく冷蔵庫がやけにおとなしいじゃないか。妙な高揚感で麦茶を出して一杯飲むと、俺はベッドに倒れこんだ。
終わった…これで全部終わったんだ。
そのうちにサイレンの音が近付いてきたのがわかったが俺は構わずそのまま眠りに落ちた。