第三章 白昼夢

 犯人は…彼女だ。
神の啓示を受けたように、俺にそれは告げられた。論理や証拠を並べる以前に、直感めいた確信が突然心を支配したのだ。次々にフラッシュバックするイマルの言動…それら全てが連結し、彼女が輝夫を殺害したというビジョンを描いている。

あの金曜日の夜、遅刻して居酒屋に現れた彼女はその時点で既に罪を犯していたのだ。俺にそばにいてもらって輝夫に電話で告白しようとしていたのは本当だろう。そう、あの火の昼間の時点ではきっとそうだった。だから講義室で会った時、相談に乗ってほしいと俺に頼んだのだ。
予定が狂ったのは午後の講義が終わった夕方、待ち合わせの7時までの間だ。キャンパス内か、あるいは街のどこかで偶然イマルは輝夫に出会ったのだろう。告白に向けて自分を高ぶらせていた彼女は、予定よりも早くそこで気持ちを伝えたのではないか。そして輝夫はそれを受け入れた…少なくとも表面的には。夢見心地になった彼女は誘われるままに奴のアパートに向かう。きっと俺との約束は電話で事情を伝えてキャンセルにする気でいたのだろう。
しかし、部屋に入ってすぐに輝夫の様子が変わった。恋が叶った喜びを確かめ合う間もなく、あいつはそれ以上の関係を要求したのだ。何事にもきっちりした考えを持っている彼女がそれに応じるはずはない。激しく抵抗する。そしてもみ合っているうちに相手を突き飛ばし、死に至らしめてしまったのだ。これがおそらく6時半過ぎ。女刑事の話では死亡推定時刻は6時半から9時半なので矛盾はしない。
俺の頭に部屋に呆然と立ち尽くすイマルの姿が浮かぶ。その足元には絶命した輝夫。精神的には脆い所がある彼女だ、激しく動揺しただろう。冷静な頭なら理性や良心によってすぐに救急車を呼んだかもしれない。警察に行き全てを話したかもしれない。しかしその時の彼女は人生を失うかもしれないという不安、自分は人を殺したのだという恐怖に支配されてしまった。恋愛や就職など人一倍真面目な彼女が、おそらく生まれて初めて自分の邪気に身を任せた瞬間だった。
…彼女は罪を逃れるために一つの計画を考え出したのだ。

 彼女は自分のアリバイを作る方法を考えた。当初の予定どおり俺と居酒屋で会い、そこから輝夫に電話する。そこで生きている輝夫と会話をしたとなれば彼女が疑われることはないと。
7時頃、急いでイマルは輝夫のアパートを出る。周囲には気を配ったのだろうがここを目撃されてしまう。しかしその証言が曖昧だったのは彼女にとってラッキーだった。
7時20分、遅刻して居酒屋に着いた彼女の髪やシャツには乱れが残っていた。あれも輝夫と争った痕跡だったのだ。それも昼寝のせいにして、彼女はいつもどおり俺と談笑する。会話中どこか上の空だったのもその状況なら当然だ。そして8時30分、いよいよ告白しようということになり彼女は輝夫の電話にコールした。
ポイントはこの時、輝夫の携帯電話は彼女が持っていたということ。着信音をサイレントに設定して、ポケットにでも入れていたのだ。当然相手は電話に出ないので彼女は一度切る。そしてさり気なく自分の携帯電話をテーブルの上に残し、トイレに立った。
ここから俺が大きく関わる。あの時、タバコを吸って待っていると彼女の電話が鳴った。俺は当然輝夫がコールバックしてきたと考える。そして…鳴りやまない電話を俺は取った。
この時、電話をかけていたのが実はイマルだ。輝夫の携帯電話を使用し、自分の携帯電話にコールしたのだ…居酒屋の空き部屋で。何度か鳴らせば俺が代わりに電話に出ると予測していたのだろう。
あの時の電話の会話を思い出してみる。俺がもしもしと出ると相手は「本田です」、俺が名前を名乗ると相手は「セージ」、彼女の話を聞いてやってほしいと伝えると「イマル」、そして電話を代わろうとすると「お願いします」…。そう、確かに短い言葉ではあったが輝夫の声は受け答えしていた。実はここに彼女の最大のトリックがある。
もちろんモノマネやボイスチェンジャーを使ったわけではない。彼女は事前に輝夫の声を細切れに録音し、それを俺の言葉に合わせて電話口で再生していたのだ。
いやいやそんな都合のいい道具があるか?…ある、あったのだ。あの時彼女の手元には俺から借りたボイスレコーダーが!機械音痴のイマルが頑張って操作を習得したあのメカが!
しかしそうなると新たな疑問が生じる。じゃあイマルは一体いつの間に輝夫の声を録音していたのか?そんな都合よく会話に使えそうな言葉を録音できるチャンスがあるか?
その謎の答えが、お袋からの電話で解けた。あの時再生された留守電の応答メッセージ…あれはもともと電話機に装備されていた物だが人によっては自分で応答メッセージを録音する。もし輝夫がそうだったとしたら?
カイカンという刑事が言っていた。あの日の6時半過ぎに輝夫の母親が輝夫の部屋に電話したが出なかったと。何度もコールされた電話は留守電に切り替わったのではないか?だとしたらそれはちょうど彼女が輝夫の死体の傍らで立ち尽くしていたタイミング。彼女は再生された留守電の応答メッセージを聞いたのだ。内容は輝夫の声でこんな感じだったのではないか?

「本田です。只今留守にしております。ご用の方はメッセージをお願いします」

これで彼女にアリバイ工作のアイデアがひらめいた。ひらめいてしまった。ボイスレコーダーを使い、メッセージの一部だけをうまく切り取って録音すればどうなる?

「本田です。只今留守にしております。ご用の方はメッセージをお願いします」

ここから『本田です』、『イマル』、『セージ』、『お願いします』の言葉を抜き出すことができるのではないか?それはまさに俺が聞いた輝夫の言葉だ。
彼女は巧みにそれを使って俺と輝夫の会話を成立させた。巧妙だったのは、戻ってくる寸前に「お願いします」と輝夫に言わせたことだ。これにより、まさかその直後にふすまを開けて入ってきた彼女がそんな小細工をしていたなんて俺は夢にも思わない。着席して俺から携帯電話を受け取った後は一人芝居をし、適当に電話を切ればよかったのだ。
あの時の輝夫の声はどこかかしこまっていた。それも留守電の応答メッセージだったのなら当然だ。音が割れていたように感じたのも、録音を流していたせいだ。

俺はそこまで考えて、ここから先の想像を断ち切りたかった。しかし…人間の頭はそんなに便利にできてはいない。

 電話によるアリバイ工作を成功させたイマルだったが、計画はまだ終わっていなかった。彼女は犯罪のプロではない、警察が輝夫の死亡推定時刻を何時から何時に割り出すかなんてわからない。とりあえず9時までは輝夫が生きていたことにできたのだから、後はできるだけ長く俺と一緒にいることでアリバイを強固にするしかなかったのだ。
11時過ぎに居酒屋を出て、彼女のアパートまで送ったあの時だ。彼女は部屋に入ろうとして足を止めた。そして振り返り、一人でいたくないからと俺を中に誘った。あれも…アリバイのためだったのだ!俺と一緒にいたかったわけじゃない、アリバイがなくなるのが怖かったのだ!
その後、抱きしめた俺を受け入れてくれたのも、明け方近くまで求め合ったのも…全てはアリバイのため。俺を愛していたわけじゃない。
そして俺が眠りにつくと、彼女には最後の仕上げが残っていた。輝夫の携帯電話をあいつの部屋に戻すこと。早朝にベッドを抜け出した彼女はあいつのアパートに急いだ。そして用を済ませるとその帰りにコンビニで買い物をした。もし彼女がいない間に俺が目を覚ましても、朝食の食材を買いに行っていたと誤魔化すためだ。そう、あの朝のトーストの甘い香りさえ、全てはイマルの計画の一部だったのだ。幸福を感じていたのは…愚かな俺一人だったのだ。

そこまで考えると、俺は自室のパソコンに向かった。電源を入れ、あのボイスレコーダーを接続する。
そう、もちろん全ては俺の想像だ。彼女がそんなことをしたと誰にも断言できない。しかし…もし電話のトリックが行なわれていたとすれば、このボイスレコーダーに痕跡が残っているはずだ。
マウスを操作する手が震える。額には玉の汗が浮かんでいるのがわかる。喉も痛いほど渇いていた。俺は慎重にレコーダーの録音データの一覧を表示する。

…ない。
事件の日に俺が録音した講義のデータを最後に、その後新しい録音が行なわれた形跡はなかった。しかし…これでほっとはできない。彼女はデータを消去する方法を知っている。まさかデータをそのままにして俺にレコーダーを返すわけがない。
俺は机から一枚のCDを取り出す。それは消去したデータの復元プログラム。例え消去したデータでも、新たに完全な上書きが行なわれない限りこれで復元できる。機械音痴のイマルはそんなこと思いつきもしないだろう。
俺はパソコンにCDを挿入する。そして手順に従いプログラムを作動させた。少し時間はかかるが…これで全てがはっきりするはずだ。

無機質に回るCDの音を聞きながら、俺の頭にはあの夜のイマルがまたフラッシュバックする。画面には『30%完了』の文字。
なあイマル、お前は俺を騙したのか?アリバイ工作に利用したのか?
あの時お前は相手のいない電話に向かって、自分が殺した男への愛の告白を口にしていたのか?その後の大粒の涙は…それを悲しんでのことだったのか?

画面には『56%完了』。
俺を受け入れたのも、あんなに優しくしてくれたのも…全ては罪を逃れるためだったのか?好きな男に怖い目に遭わされたその夜に、好きでもない男にお前は…。
俺が卑怯者と自分に叫びながら抱きしめたあの時、お前はどんな言葉を叫んでたんだ?

…『79%完了』。
答えてくれ、イマル!

「おはようセージ!」
月曜日。またいつものように寝坊したイマルがピョンピョン跳ねながら講義室に現れる。
「まったく、またかよ。そんなんで就職活動大丈夫か?ほらよ、レコーダー」
「まあいいじゃん、いつもありがと」
受け取ったボイスレコーダーを見て彼女は一瞬真顔になる。
「あれ?これ前の戸違うんじゃない?」
「前の壊れちまったんだ。だから買ったんだよ」
俺がそう伝えると、彼女は「え~使い方わかるかな」と困った顔をする。
「また俺が教えてやるよ。じゃあとにかく昼飯でも行こうぜ、お前のおごりで」
「そんなあ。もう、しょうがないなあ」
笑い合いながら俺たちはキャンパスを歩く。窓の外には青い夏空がどこまでも広がっていた。