第一章 夢一夜

「おはようセージ、今日も暑いね」
金曜日。午前の講義が終わったタイミングで彼女…水沢イマルはキャンパスに姿を見せた。俺と同い年の大学4年生だが、その容姿は相変わらず幼い。ショートの黒髪にジーンズとワイシャツ姿、ピョンピョン跳ねながら俺の所へやって来る。
「おはようじゃねーよ、もう昼だろ」
ゾロゾロ講義室を出ていく群れの中、俺は立ち止まってそう返した。
「ごめんごめん、昨日なかなか寝付けなくてさ」
そう言いながら、ちょうだいなのポーズでイマルは両手を差し出す。俺はやれやれといった感じで、ボイスレコーダーをその手のひらに乗せてやった。
「ありがと、聞いたらすぐ返すから」
イマルは嬉しそうにバッグにしまう。お互い講義に出られない時は、このボイスレコーダーで録音して相手に渡すのがいつものこと。俺も何度かお世話になった。しかし、レコーダーは俺の私物なので、必然的に俺が録音する場合の方が多くなる。
「いつも借りてばっかりでごめんね」
「そう思うんならお前も自分のボイスレコーダー買えよ。そんなに高くないのも売ってるぞ」
「いいのいいの、あたしはメカ弱いから」
「まったくお前は…」
確かにイマルの機械音痴は筋金入りだ。ボイスレコーダーの録音と消去だって何度も説明してようやく習得した。パソコンだって、固まってしまったのを何度修理してやったか数知れない。まあ…その度に甘えられて悪い気はしないのだが。
「それよりセージ、今夜何か予定ある?」
学生たちがほとんど講義室からはけたところで、イマルが突然切り出した。
「いや、特にないけど?」
「よかった、じゃあ晩ごはんつき合ってよ。録音のお礼も兼ねてあたしがおごるから。実は…ちょっと相談したいことあって」
彼女は声を落として真顔になる。珍しい様子に俺は思わず「相談って何関係?」と尋ねた。
「う~ん、ちょっと言いにくいんだけど…恋愛関係」
「恋愛って…確か彼氏はバイト先の先輩だったよな。うまくいってないのか?」
そこで「ううん」と首を振り、彼女は実はもうそいつとは先月別れていることを告げた。
「じゃあ相談って…」
「だから、その、好きな…ね、人ができちゃったの。そのことで…」
照れたような困ったような表情をすると、彼女は肩をすくめて「まあとにかく詳しくは後で話すから」とそれ以上の追及を拒んだ。そして午後7時にいつもの店での待ち合わせを決めると、「じゃあまたね」と小走りに講義室を出ていった。
「まったく…いつも勝手なんだから」
後ろ姿にポツリと呟く俺。その心には動揺と淡い期待が複雑に入り混じっていた。恋愛関係…、好きな人ができた…、彼女のそんな言葉がどうしても頭の中で反響する。

イマルとは1年の頃に同じサークルで知り合った。サークルといっても時々旅行を企画して自由参加で行きたい奴だけ行くっていうゆるいものだ。そういえば倉橋誠司という俺の名前を外人みたいに『セージ』と呼ぶニックネームも、そのサークルから始まっている。就活や卒論が少しずつ忙しくなってからは俺もイマルもあまり顔を出さなくなっていたが、その分二人で飯を食べに行く機会は多くなった。
正直イマルはかなり可愛い。容姿だけでなく挙動も子供っぽい所はあるが、自分に厳しく何に対してもしっかりとした考えを持っている。だから友人からも信頼されているし、将来についてもデザイナーになりたいというはっきりした夢がある。まあ朝寝坊は玉に傷だが、そんなアンバランスもまた魅力的だ。
当然男共が放っておくはずもなく、サークル内外問わず何人もの男が彼女にアタックした。だがその辺りもイマルはしっかりしていて、けしていい加減な気持ちでの交際はしない。つき合っても相手や自分に少しでも邪気が生まれたらすぐに別れる。そんな彼女だから、モテモテではあるもののなかなか恋愛が長続きしない。俺の知る限り年単位での交際に達したことはないのではなかろうか。バイト先で出会った先輩とはうまくいきそうと話していたのに…これも半年弱で終わったようだし。相手にも自分にも少しの嘘も許せない性分…それが水沢イマルなのだ。
そんな中俺は自然と彼女に近い位置にいた。少しも無理はなかったというと嘘になるが、少なくとも大学内では一番の男友達だと自負している。もちろん俺にもイマルを意識している気持ちはある。それは恋愛感情と見てまず間違いない。でも俺は無理にそれを遂げようとは思わなかった。他に彼氏がいる状態でも、彼女と話したり笑ったりできるこの関係がとても幸せだったからだ。それを妥協とは思わない。恋愛感情は否定しないが、同じくらい友人として、人間として…俺は水沢イマルが好きだった。だから俺は俺で恋愛もしたし、将来はお互い結婚してもずっと良い関係でいられる…そんなふうに思っていた。

それなのに…今日のイマルの様子は違った。しっかりしている彼女は、こと恋愛に関してはこれまで全て自分で考え自分で決断してきた。結果を報告することはあっても俺に相談するなんてことはなかった。それが「好きな人ができた」とどうして俺に…?
もしかして俺のことを…?
ついそんなふうなことも考えてしまう。もしそうだったら俺は…。

 学食で適当に昼飯を済ませて午後の講義へ。イマルとは選択が異なるので室内に彼女の姿はない。講義の後もキャンパスで彼女を見かけることはなく、俺はブラブラと待ち合わせまでの時間を過ごした。

「あ、セージ、ごめんごめん」
イマルは息を切らして店の前に現れた。時刻は既に午後7時20分。
「まったくまた遅刻かよ。家で昼寝でもしてたんだろ」
「え~違うよ」
「嘘つけ、髪も乱れてるしシャツがシワになってるじゃん。家に帰って昼寝してた証拠だ。どうせまた寝坊して飛び起きて来たんだろ」
「もう、わかったよ名探偵。いいじゃん、ちょっと時間空いたから一回家に帰ったんだよ。そしたらうとうとしちゃって…悪い?」
ムキになる所もイマルらしい。そんないつもの調子で俺たちは店に入り席につく。大学から徒歩圏内の学生街にある居酒屋。もちろん高級料亭などではないが、一応全席小上がりの個室になっているためゆっくり話をするには重宝される店だ。イマルと食事する時は大抵使う。俺たちはそれぞれ好きな物をいくつか注文するとビールで乾杯した。
大学のことやテレビのことなど、とりあえずたわいもない話題が続く。イマルもいつもどおり笑っていたが、時折上の空…テンポが少しずれているように感じる時があった。やっぱり何か悩んでるんだろうな、と思いながらもひとまず俺からは何も尋ねず、ただ楽しくビールを口に運んだ。

 一時間ほど経って食事と世間話も一通り終わった頃、ようやく少し沈黙が訪れた。俺は彼女にことわってからタバコに火を着ける。そして食後の一服を深く吸い込んだ。そろそろ…かな。
イマルはどこか伺うような表情でこっちを見ている。やっぱり俺から話題を振るべきか。そのまま黙って一本吸い終えると、灰皿で消してから俺は切り出した。
「それで、相談って何?」
イマルはどう説明するか迷っていたようだが、やがて「実はね」と口を開いた。
「あのね、好きな人ができちゃって。気になりだしたのは二カ月前くらいからなんだけど。それで…よくないなって思ってバイト先の彼氏とも別れたの」
相変わらずの思い切りだ。ひとまず彼死をキープしておいて気になる男にモーションかけてみるなんてこと、こいつは絶対できないんだろうな。俺は黙って頷きを返した。
「それで…どうしたらいいかわからなくて」
「彼氏とも別れたんなら、遠慮せず好きな奴にアタックすればいいんじゃない?」
イマルは黙っている。どうやら悩んでいるポイントはそこではないらしい。
「あのね、その相手が結構親しい人だから…それで迷っちゃってて」
鼓動が速まる。これは…ひょっとして本当に?真っ赤な顔をしたイマルの次の言葉を、俺は喉をカラカラにしながら待った。三十秒もなかったと思うがとても長く感じた。
「それがね…本田くんなの」
あら、そっち?まあそんなもんだよな。俺は内心の落胆を悟られないように大袈裟に微笑んだ。
「輝夫か、そうなんだ」
恥ずかしそうに頷くイマル。俺は相手が自分ではなかったことにももちろんへこんだが、それ以上にイマルがあいつを好きだと言ったことがショックだった。
本田輝夫、俺たちと同じ大学の同期。出会いも同じく旅行のサークル。前はよく三人で飲みに行ったりもしていた。ただもともとメインはラグビー部だったあいつはだんだんサークルには顔を出さなくなり、今はたまに見かけたら挨拶するような関係だ。
輝夫は悪い奴じゃない…少なくとも男にとっては。ただ女性関係は派手で男だけで飲みに行ったりすると、やっかみは差し引いてもよろしくない噂をかなり聞く。交際相手以外と関係を持つなんてのは日常だし、大学の外でも手広く遊んでいるらしい。まあラグビー部のエースでイケメン、女性の方から言い寄る場合も多いらしいが。あまり修羅場になったという話は聞かないので、その辺りも含めて上手いということなのだろう。
「ねえ、どうしたらいい?あたしが今更好きなんて言っても大丈夫かなあ」
不安そうな彼女に俺はどう答えようか迷った。あいつはやめておけ…そう喉まで出かかったがグッとこらえる。それは…俺が言うことじゃない。俺はビールを一口飲み、また笑顔を作った。
「いつものイマルじゃないみたいだ。これまでだってさ、好きな奴には勇気出して自分から告白してきたじゃん、後悔したくないって言ってさ。今回もそれじゃダメなのか?」
「うん…やっぱりそうだよね」
頷いて彼女もビールを一口飲む。
「自分でもわかってるんだ、それしかないって。でも今回はなんだかとっても怖くて。それだけ好きってことなのかもしれないけど。それでね、セージには迷惑かけちゃうけど、勇気を分けてもらおうかなって」
「勇気?」
「あたし、電話で告白するから…そばにいてくれないかなあ?」
それが今日の本題か。もしかしたらイマルも知っているのかもしれない、あいつの女性関係が派手であることを。おそらく自分だけを見てくれる相手ではないことを。それでも好きな気持ちを伝えずにいられない、そのために彼氏とも別れる…本当にいじらしいくらい不器用な奴だ。俺は一生こいつの味方でいたいと心から思った。
「了解、いいよ。うまくいったらもちろん乾杯、いかなくても俺がちゃんと慰めてやっから」
彼女は「ごめんね、恩に着る」と弱く微笑む。すると意を決したように携帯電話を取り出した。
「おいおい、まさか今ここでやんのか?」
「そうだよ、思い立ったが吉日でしょ」
まったく…こういう所もイマルだよなあ。彼女は携帯電話を操作し耳に当てた。
「番号、昔と変わってなければいいけど…」
そう言いながらも持つ手が震えている。しばらくコールしていたが、どうやら輝夫は出ないらしい。彼女は一度切って電話をテーブルに置いた。
「…あいつ忙しいのかな」
俺が言うとイマルは「かもね」と呟く。せっかく膨らませた勇気も少ししぼんでしまったようだ。
「あたし、ちょっとトイレ行ってくるね」
居心地が悪くなったのか、彼女は席を立って個室を出る。残された俺は次のタバコに火を着けた。そして渋い紫煙を吐きながら考えた。
俺は…本当にこれでいいのか?
…ピルルルル。
ふいにテーブルの上のイマルの携帯電話が鳴り出した。まさか…でも勝手に出るのはまずいよなあ。俺が戸惑っているとコールは一度切れた。そしてまたすぐに鳴り始める。仕方なく俺は手に取って画面を見る。そこには『本田輝夫』の名前が表示されている。あいつがコールバックしてきたのだ。少し迷ったが、また繋がらなくなってもいけないので俺は通話ボタンを押した。「もしもし」と出ると「本田です」というかしこまった声が返される。
「ああ輝夫、俺だよ俺、倉橋」
出たのが俺なので戸惑っているのか、短い沈黙が挟まれる。やがて受話器から「…セージ」との声。電波が悪いのか少し割れた音だが間違いなく輝夫だ。
「ああ、俺だよ。実は今ちょっと席を外してるんだけど、イマルからお前に話があってさ。ほら、憶えてるだろ、サークルで一緒だった水沢イマル」
輝夫は「…イマル」と反復する。
「そうそう。ちょっと時間あるなら話聞いてやってくれないか。戻ってきたらすぐ代わるから」
輝夫からすればよく状況が飲み込めないのだろう。少し気まずい沈黙…。世間話でもするべきか、いやでも変に明るい雰囲気を作ると逆にイマルが話しづらいか…そんなことを考えていたところでふすまの向こうにイマルの気配がした。
「あ、今戻ってきたみたいだから代わるな」
輝夫は「お願いします」とかしこまった声で返した。廊下からはガサガサ靴を脱ぐ音が聞こえ、直後にふすまが開いてイマルが入ってくる。
「おい、輝夫から電話だぞ」
「え?」
「今かかってきて、お前が話をしたいって伝えたら聞いてくれるってよ」
彼女は緊張した面持ちでちょこんと席に正座する。小さく「ファイト」と伝えると、「ありがと」と自分の電話を受け取った。
「あ、本田くん?久しぶり…っていうか時々大学では見かけてたけどね」
ぎこちない彼女の言葉。その後少しだけ世間話をしてから彼女はすぐ本題に入ったようだ。人の告白場面に立ち会うなんてもちろん初めてだし、やっぱり聞かない方がいいんじゃないかと思った俺は席を立つジェスチャーをしてみたが、彼女は目でそのままいてと求めた。
「それでね、本当に今更なんだけど…ラグビーやってる姿とか見てたらね…好きに…なっちゃったみたいなの、本田くんのこと」
ついにその言葉が告げられた。あいつがどんな言葉を返したのかはわからないが、彼女の反応で結果はすぐわかった。その後「うん、うん」と何度か頷いてから彼女は電話を切った。
「イマル…」
力なく電話を置いた彼女に俺はそっと声をかける。
「本田くんね、あたしとは…つき合えないって」
答えた瞬間、彼女の二つの瞳から大粒の涙がこぼれた。そして顔を伏せて泣き出す。
「よしよし、よく頑張った、頑張ったぞ」
俺は精一杯の優しさでイマルの頭をポンポン叩き、ゆっくり短い髪を撫でた。本当にこいつは…純真な奴だ。そして輝夫のことも少し見直した。何人もいるだろう遊び相手の女の中にイマルを加えることはせず、ちゃんと誠意を持って断わってくれたようだから。
腕時計を見るともう午後9時。まあ明日は土曜日で予定もないし、イマルの気が済むまでつき合ってから家まで送ってやろう。

 その後カクテルなどをちびちび飲みながら俺たちは過ごした。イマルはまだグズついていたが、俺がおどけるとだんだん合わせて笑ってくれるようになった。そして午後11時を過ぎた頃、俺から切り出して店を出た。
夏の空気は夜でも熱を帯びていたが、それでも時折そよぐ風のおかげで涼しさを感じることはできた。俺たちは人通りも少なくなった道を並んで歩く。
イマルは黙っていた。俺も何も言わない。彼女のアパートまでこのペースで歩けば三十分くらいかかるかな。そこから俺のアパートまで歩くと…帰宅するのは0時過ぎるな。まあいいか、酔い覚ましの散歩だ。
やがて彼女のアパートが見えてくる。自室のドアの前まで行き、ようやくイマルが口を開いた。
「セージ…本当に今日はありがと。結局おごらせちゃったし」
「バーカ、頑張ったご褒美だよ。そんなんいいから早く元気出せよ」
「うん…」
ドアを開けて中に入りかけた彼女だったが、そこで止まって振り返る。
「ねえ…もう少しだけお話しない?あたしの部屋で」
正直迷った。これまでもパソコン修理とかで何度か部屋に上がったことはある。でもこういう夜の飲みの後にはいつも部屋の前まで送るだけにしていたからだ。やはり…少なからず意識している女だ。絶対自分を見失わないという自信はなかった。
「でもよ、もう眠いだろ?」
彼女は「ううん」と首を振り、「今夜は一人でいるの…つらい」とすがるような目をした。
…女はずるい。俺は…頷いてしまう。

 その後、深夜1時頃までコーヒーを飲みながら話した。俺はテーブルの対面に腰を下ろし、最後の理性で彼女が眠たくなったら帰ろうと思っていた。しかし、ふとした沈黙に再び大粒の涙が彼女の瞳からこぼれ始める。
「イマル…」
まるで子供のようにエーンエーンと泣き始める彼女。自分でも感情が込み上げてきて止められないのだろう。それだけ一つの恋に真剣、ということか。
…俺は腰を上げた。
わかっていたはずだ。隣に座ってはいけないと、肩に手を置いてはいけないと、抱きしめてはいけないと、俺が愛されているわけではないのだと…わかっていたはずだ。でも…目の前で奪われそうになったからなのか、一滴ずつ溜まっていた衝動がついに溢れたからなのか、怖いほどの愛しさが俺の全身を突き動かした。
卑怯者!
俺は何度もそう自分に叫びながら、自ら最低の称号に成り下がった。

 土曜日。目を醒ますと隣にイマルはいなかった。窓の外はもうすっかり明るい…壁の時計を見ると7時を回っている。身体を起こしベッドを出、服を着てから隣のキッチンのドアを開ける。
「あ、おはようセージ」
そこにはフライパンを動かす彼女の姿があった。俺は「おはよう」と少しぎこちなく返す。
「さっきコンビニ行ってね、食材買ってきたの。まあ朝ごはんくらい食べて行ってよ。ほら、そこ座って」
「ああ…」
「食パンはしっかり焼く派?それともちょこっとだけ焼く派?」
「え?ああ、じゃあしっかりかな」
どうしていいかわからずとりあえず腰を下ろす。やがてスクランブルエッグとトーストが運ばれてきた。とても…良い香りがする。彼女も正面に座った。
「では、いただきまーす!うん、やっぱりトーストはしっかり焼くとサクッとしておいしいね。ほら、セージも食べて」
「ああ…」
言われるままに俺もトーストをかじる。確かにうまい…ほんのり甘くて。昨夜とは打って変わって元気な彼女に圧倒されながら、俺は幸福な朝食を味わう。そして食後のコーヒーも残り少なくなった頃、イマルが言った。
「夕べは…ありがとね。おかげで元気出たよ」
「いや、こちらこそ」
「フフフ、なんか色々びっくりしたね」
彼女は淡く頬を染め、「これからもよろしくね」と微笑む。俺も恥ずかしいくらい元気な声で「うん」と答えた。そしてまた彼女を抱きしめる。

「あ、セージ、ちょっと待って」
部屋を出る玄関先で彼女が思い出したように言う。そして室内に引き返しあのボイスレコーダーを持って戻ってきた。
「はいこれ、返しとくね」
「あれ、もう聞いたのか?」
「うん、昨日空いた時間に。だから来週もまた、あたしが寝坊したら録音よろしく」
「まったくお前は」
受け取ったレコーダーをポケットにしまう。そしてドアノブに手を掛けると…郵便受けに紙が挟まっているのに気付いた。「あれ、なんか届いてるぞ」と俺はそれを読み上げる。
「え~とですね、水沢イマル様、宅配の不在届です。昨日の午後2時にお届けに上がりましたがお留守でしたので…」
「もう、勝手に見ないでよ」
調子に乗る俺からイマルは伝票をひったくる。
「通信販売の商品みたいだな。おいおい、何を買ったんだよ」
「うるさいなあ、別にいいでしょ。プライバシーの侵害!」
またムキになる所が可愛い。実は商品内容も見えてしまったのだが…どうやらデザインを学ぶための教材のようだった。夢を叶えるためにこっそり頑張ってるんだな、と俺は密かにほっこりする。
その後も少しいつもの調子のやりとりをしてから、俺は改めてドアノブを握った。
「じゃあ…そろそろ帰るよ」
「うん、またねセージ」
「ああ」
もう一度照れ笑いを交わすと俺は彼女の部屋を出た。目の前に広がる晴れた空…今日も暑くなりそうだ。

 自分のアパートに戻ってからも、俺は色々な気持ちや記憶を持て余して一人ニヤニヤしていた。夜までずっと夢想していられそうだったが、昼過ぎの携帯電話のコールがそれを断ち切る。大学の友人からだった。そしてそこで戦慄の事実が告げられる。
…本田輝夫が殺された、と。