第九章 禁門の部屋

●ムーン

 11月16日午後。警部と私が京都駅の改札を出ると、松平が出迎えてくれた。あまり弾まない挨拶を交わしてから彼の車に乗り込む。車窓には天高い秋空に映える歴史の街が流れていくが、今はそれを味わう気分には到底なれない。
「何度もお手数をお掛けしてすいません」
 助手席から低い声が言った。
「お気になさらず。それより裏づけ捜査の方はうまくいきはったんですか?」
「ええ」
 短く答えた警部に運転席からは「そうですか」と溜め息混じりの返事。
「徳岡のお屋敷の方は大丈夫ですか?」
「はい、ちゃんと24時間体制で見張っとります。地下の抜け穴でもない限り、晃がどこかに脱出した形跡はありません。かえでさんには本日の面会アポももらっとります」
「ありがとうございます。古高さんはいかがです?」
「全て自分がやったという以外は、ずっと緘黙しとります」
「そうですか」
 その言葉を最後に二人の会話は止まる。私も後部座席で一言も発さなかった。やがて徳岡家の広大な敷地を囲む白壁が見えてくる。
 白昼夢か、目の錯覚か。一瞬その白壁が緋色に染まった気がした。

●徳岡かえで

 もうじき警察がやってくる。連絡をしてきたのは京都府警の松平だが、おそらく筆頭にいるのはあの子…私の教え子だった彼だ。この数日は不気味なくらい穏やかに日々が過ぎた。晃に対する嫌疑が晴れたのかとも思ったが、それはさすがに楽観が過ぎる。油断して晃を外出させてそこを押さえる作戦かもしれない。そう思うと息子をあの部屋から出すわけにはいかなかった。
 自室の鏡に映った自分と頷き合う。私は戦う。罪のない息子を守らなければならない。たとえその相手がかつての愛しい教え子であったとしても。
「奥様」
 ふすまの向こうから岸本さんの声。
「お越しになりました」

 前と同じ和室に通す。やって来たのは三人…真ん中に彼、両脇に部下の美人刑事と松平。色白のその顔を見て思い出した。松平は二十年前、陽一郎さんが亡くなった時にも捜査で来ていた刑事だ。
「まず最初に言っておきますが、お茶は結構です」
 座布団に座るやいなや、教え子は牽制のように第一声を放った。
「今日は事件の真相を明らかにします。今日で…終わりにしたいと思っています、徳岡かえでさん」
 『かえで先生』ではなく『かえでさん』と彼は呼んだ。それは宣戦布告、教え子として与太話をしに来たわけではないということだ。ならばこちらも迎え撃とう。目の前にいるのは私の知っているあの男の子ではなく、息子を狙う憎むべき敵・刑事カイカンなのだと。
「お話を伺います」
 正座すると私は一切笑わずに答えた。遠くでゴングのように鹿威しが大きく鳴る。
「それでは結論から」
 ボロボロのコートとハットの異様極まりない姿。一瞬その長い前髪の奥に隠れた右目が光ったように見える。
「何も忖度せず申し上げます。この事件の犯人はあなたの息子、徳岡晃さんです」

 沈黙。カイカンの両脇で女刑事も松平も唇を結んでじっとこちらを見ている。私の反応を伺っているのか? だが京女がそうやすやすと心情をおもてに出すものか。
「理由を賜りましょう」
 努めて冷静に返す。
「まずは東京で起きた第1の事件」
 彼は右手の人差し指を立てた。
「11月5日、徳岡寧々さんが夏帆川沿いの土手から突き落とされました。彼女は石段を転げ落ちて頭部を強打、今も意識が戻りません。これは悪戯や悪ふざけではなく、明確な殺意を持った犯行です」
「そうやろか。確実にお命を狙うんならもっと別の方法があるんやないかと思いますけど」
「犯人は不注意による転落事故に見せかけたかったんですよ。だからこんな方法を選んだ。実際には目撃者がいたためにその目論見は崩れ、すぐに殺人未遂事件として捜査が始まりましたが」
 理路整然と答える。そういえばこの子は昔もそうだった…と思い出に傾きそうになる心を私はとっさに制する。
「理解しました。そやけど、なしてその犯人が晃やということになるんどすか?」
「寧々さんが転落したのは午前9時半。晃さんはその時刻営業の外回りをしていましたが、同僚の忘れ物を取りに行くという口実で姿を消しています」
 カイカンはその忘れ物も晃が仕組んだものであり、その時刻に晃のアリバイがないことを説明した。
「アリバイがなかったら犯人どすか? 頭のおかしな通り魔が寧々さんを襲った可能性だってあるやないですか」
「続いて京都で起きた第2の事件」
 低い声は私を無視した。
「11月7日、伊藤平助さんが油菜小路で突き飛ばされ後頭部を壁に強打、幸い命に別状はありません。ここでも目撃者がいて、犯人の『ええじゃないか』と叫ぶ声を聞いています。そして犯人は現場から逃走。たまたま近くにいたムーンが追跡しますが、犯人が逃げ込んだ池田ショッピングパークのトイレで捕まったのはこの家の使用人の古高さんでした」
「それは犯人が古高ということやないですか」
「いいえ。彼が犯人でないことはあなたが一番ご存じのはずです。事件が起きた午後2時、古高さんはあなたの送迎のために徳岡和美さんの施設にいらっしゃいました。これは施設のスタッフから証言が取れています。そして和美さんもおっしゃっていました。午後2時、誰かからの電話を受けたあなたは慌てて帰ってしまったと。
 電話をかけてきたのは晃さんですね? 彼のSOSを受けたあなたと古高さんは急いで施設を飛び出し、古高さんがわざと逮捕されることで晃さんを窮地から救い出した」
 カイカンは高速道路から乗り入れられる裏駐車場を利用すれば池田ショッピングパークの中で晃と古高がすり替わることは可能だと説明する。
 自分の脈が少し速くなったのがわかる。まさか…まさかそこまで見抜いていたとは。あの時私は裏の駐車場に停めた車の中で待っていた。古高は「あとは私にお任せください」と店内に入り、やがて晃が出てきた。車に乗り込んだ晃は後部座席でうずくまりながら「ごめん、ごめん」と詫び続けた。そんな息子を私が車を運転してここまで連れ戻ったのだ。
 しかし…ここでそれを認めるわけにはいかない。断じていかない。
「そんなん、ただの想像や」
「高速道路の料金所のカメラを調べました」
 松平が口を開く。
「高速道路に乗る時は古高さんが運転してはりましたが、降りる時に運転してはったのはかえでさん、あなたでしたよ」
「そんなん、何の証拠にもならへん」
「まだお認めいただけませんか」
 残念そうに言うカイカン。
「私としてはできれば自首の形を取りたいと思っているのですが」
「晃は罪を犯してません!」
 私のためらいない怒声に女刑事と松平が目を見開いた。
「そうですか」
 彼は動じず、ただ小さく息を吐く。
「では証拠をお示しします。第1の事件で寧々さんが犯人に襲われた時、手にドリンクを持っていました。近くのアキナーマートで購入した物です。襲われた拍子にそれは彼女の手から落ち、地面にぶちまけられました。つまりドリンクが犯人の靴に付着した可能性があるわけです」
 反論がないのを確認して低い声は続ける。
「実は事件直後に病院で晃さんにお会いした時、私は晃さんの靴にその染みを見つけましてね、こっそりハンカチで拭き取っておきました。そして鑑識で調べた結果、アキナーマートのドリンクと一致したのです」
「それが証拠やと言わはるんどすか」
 私は鼻で笑う。
「この前もそちらのムーンさんからその話は聞きました。ちゃんちゃらおかしいわ、アキナーマートは世界に一つしかないんどすか? そんなことおまへん、東京だけでもぎょうさんある、もちろん京都にもある、日本中にいくらでもあるやないですか。カフェオレが靴に着いとっただけで犯人やというんは強引過ぎや」
「どうしてカフェオレだと?」
 カイカンの語調が変わる。一瞬質問の意味がわからなかった。
「今、カフェオレとおっしゃいましたよね。私もムーンも、一貫して『ドリンク』としか言っていなかったはずですが」
 人差し指を立てたままじっとこちらを見つめる左目。女刑事と松平の視線も注がれる。しまった、つい口が滑った。さらに脈が速くなる。落ち着け、焦るな、この程度の苦難はこれまでいくらでも薙ぎ払ってきたじゃないか!
 胸の中で深呼吸するとすっと脈も落ち着いていく。沈黙は金、私は一言も発さずただ三人の刑事を睨み返す。
「すごい気迫ですね」
 カイカンも目を逸らさずに答えた。
「ではその件は一度置いておきましょう。まずは第1の事件の犯人が晃さんだという話を続けます。おっしゃるように靴にカフェオレが付着していただけで決め付けるのは強引です。しかし付着していたのはただのカフェオレじゃない…元気カフェオレなんです」
 また意味がわからない。弱く鹿威しが鳴り、彼は指を下ろす。
「京都のとあるスナックのママが隠し味の天才でしてね、この人にかかればどんな料理もおいしくなってしまうんです。元気カフェオレもその一つ、通常のカフェオレに魔法の粉を加えてそのお店で元気カフェオレとして出しているわけです」
 低い声は語調を緩める。私にはまだ話が見えてこない。
「フフフ、魔法の粉の内容は企業秘密なのですが、実は作り方を教えてもらった人が一人だけいましてね。以前このスナックでアルバイトをしていた八尋そよかさんです」
 あの子が…。その名前が出て心が遠い沖でわずかに波立つ。
「八尋さんのことはご存じですよね?」
「先日ムーンさんとここにいらっしゃった方やね」
「ええ、寧々さんの親友です。八尋さんは自分で調合した魔法の粉を特別に寧々さんにもプレゼントしたそうなんですよ。そして寧々さんは襲われた日、アキナーマートで購入したカフェオレにもこの魔法の粉を入れて飲んでおられたんです。
 …ねえ、ムーン?」
 女刑事は突然水を向けられたにも関わらず淀みなく答えた。
「はい、彼女のポケットの中には粉を入れていたらしき小さなビニールケースがありました。そのビニールケースからも、現場に落ちていたカップからも、同じ粉の成分が検出されました。彼女が粉をカフェオレに入れたのは間違いありません」
「ありがとう」
 満足そうに頷いて彼は続ける。
「よろしいですか? つまり何が言いたいかと申しますと、寧々さんがこぼしたカフェオレは世界に一つしかない元気カフェオレだということです。そして晃さんの靴に付着していたのもその元気カフェオレでした。拭ったハンカチを改めて詳しく調べると、わずかですが魔法の粉の成分が検出されました。
 …おわかりですね? これは第1の事件の犯人が晃さんであるという十分な証拠なんですよ」
 悔しい。切り返す理屈が出てこない。しかし、ここで屈するわけにはいかない。私は言葉の代わりに視線の刃で迎え撃つ。
「続いて第2の事件の犯人が晃さんである証明を。証拠は、第2の事件で逮捕された古高さんの靴の染みからカフェオレが検出されたことです。ただし魔法の粉の成分は出ていない。つまりこの染みは真犯人の晃さんをかばうための偽装工作ということです」
「そ、そんなん古高が勝手にやっただけかもしれへんやないどすか」
 私の問いに彼は平然とかぶりを振った。
「いいえ、勝手にやることはできないんです。よろしいですか? 先ほども言いましたが、警察はカフェオレというワードを伏せて捜査をしていました。第1の事件で犯人の靴に付着したドリンクがカフェオレだと知っているのは警察を除けばたった一人、寧々さんを襲った犯人だけなんですよ。そしてそれが晃さんであることは先ほどご説明しました」
 そうか、そういう理屈か。
「古高さんが偽装工作できたということはカフェオレのことを知っていたということ。知っていたということは直接逃亡中の晃さんと接触しているということ。晃さんは京都にいて、第2の事件を起こしたのです。
 そしてかえでさん、先ほどあなたもカフェオレと口を滑らせた。あなたも関わっておられるということです。晃さんを今もここでかくまっている」
 刑事の声は圧力を増し、また右手の人差し指が立てられる。気付けば脈は引っ切り無しに全身を撃ち続けていた。着物の下の肌も冷や汗でじっとり湿っている。私は…追い詰められているのだ。
「私は…私は知りまへん。この前、家の中を見回って確認しはったやないどすか。まだ疑ってはるんならもう一度調べてください」
「まだお認めいただけないんですね」
「認めるも何も、晃はおりません」
 彼は指を下ろすと、また残念そうに先ほどより大きく息を吐く。
「このお屋敷にではなく、渡り廊下でつながった料亭のお部屋にいらっしゃるのです」

 心臓が跳ね上がるのと同時に鹿威しが強く鳴った。言い返す言葉が出てこない。まさか…まさかこの子は、この刑事は、カイカンは、そこまで見抜いているというのか。
「徳岡屋は老舗の料亭、お客さんは個室に通されます。どのお部屋に通すかは予約を受けた従業員が調整する。だから客間の一つに晃さんが隠れ住むなんてことは不可能だと最初は思いました。
 しかし八尋さんが教えてくれましてね。京都の料亭には嫌な客を追い返すための部屋があると」
 またあの子か。私は震える膝の上で拳を握る。
「本心を口にしないのが京都のルールです。どんなに嫌なお客でもストレートに追い返したりはしない、その代わり専用の部屋に通す。そこは質素で汚れていて場所も悪い。そんな失礼な部屋に通して丁寧に接客することが『早く帰れ』のメッセージ…まさに京都らしい婉曲表現です」
「そんな部屋、うちの料亭にはおまへん!」
「虎の間」
 私の反論を跳ね返して低い声は言い切った。
「虎の間がそうですよね? 先日ここへ伺った時、料亭の女将さんがあなたに相談していました。有栖川という客を虎の間に通しますか、と」
 そこでまた松平が補足。
「調べさせてもらいました。有栖川は評判の悪い男やそうですね。建設会社のボンボンやのに金と権力を持っとるからたちが悪い。大きな顔をして店に来るから困っとるって、西陣の界隈では有名でした」
「そう」
 居合い抜きのようにまた人差し指を立てるカイカン。
「そんな有栖川さんが徳岡屋に来たら、これまでは虎の間に通していたそうじゃないですか。しかし先日あなたはそうしなかった。別の部屋に通すように女将さんに指示していらっしゃいましたね。それは虎の間には先客が…晃さんがいたからです」
 パチン、と立てていた指が鳴らされる。
「まさに盲点。忙しく従業員が動き回る料亭の中にあって、虎の間は普段掃除もしなければふすまも開けない。建前としては存在しない禁門の部屋ですから」
 そしてゆっくり指を下ろすと、刑事は最終通告に臨んだ。
「本日料亭は定休日ですよね。もし今の推理が的外れだとおっしゃるなら、これから確認させていただいてもよろしいですか?」
 完敗だった。カイカンは私が晃を守るために必死にこしらえた幾重の衝立を論理で撃ち抜いてみせた。頭の奥がズキズキする。どんなに拳を握っても指先が震えている。
 私は刃を納めるように目を伏せた。少しずつ脈も落ち着いていく。誰も何も発さないまま、遠くで鹿威しだけが虚しく吠えていた。

「ほんまに、あの子に…罪はないんどす」
 頭は回っていなかったがそんな言葉が口から漏れた。
「わかってや。あの子は悪うないんやから。悪いんは…私なんやから」
 三人の刑事はやはり何も返さなかったが、やがてかつての教え子が口を開いた。
「私は捜査の早い段階から晃さんに目を付けていました。しかし確信が持てなかった、ずっとわからないことがあったからです。それは事件の動機。夫婦円満だったはずなのに、どうして晃さんが寧々さんに憎悪を向けたのか」
 低い声が少し沈む。
「私は一つ、晃さんの言葉を思い出しました。寧々さんが運ばれた病院で初めてお会いした時、蛍ちゃんの話題になって、こうおっしゃったんです…『僕ら夫婦の自慢の娘でした』と。
 『でした』と過去形だったのが気になりまして。まるで今は娘じゃないような言い方ですよね」
 胸の奥が鈍く痛む。私は目を細めた。
「そして第2の事件では晃さんが伊藤さんに対して『ええじゃないか』と叫んでいる。この言葉の意味もずっとわかりませんでしたが、やっとひらめきました。
 晃さんが最愛の奥さんを憎まざるを得なかった理由は…」
 数秒挟んで彼は真実を告げた。
「血液型です」
 胸に走る激痛。しかしもう驚きはなかった。きっとそこまで看破されているだろうと心のどこかで私は覚悟していた。
「病院で輸血の話題になった時に聞きました。寧々さんの血液型はO型、晃さんはB型。となれば生まれてくる子供はO型かB型のはず。でも…蛍ちゃんの血液型はA型だった。晃さんは事件の前の週、風邪を引いた寧々さんの代わりに蛍ちゃんの通院に付き添っています。その時にそのことを知ってしまったのです。
 蛍ちゃんの食物アレルギーはアルファギャル症候群といってA型とO型の人が罹患しやすい病気だそうですね。主治医の先生に確認して来ました。蛍ちゃんはA型だからかかりやすかった、そう晃さんに説明したと先生はおっしゃっていましたよ」
「うっ」
 思わず漏れる声。痛む胸の奥底を乱暴にえぐられるような感覚。それを聞いた時の晃の絶望はいかほどだっただろう。きっと足元に穴が空いて奈落の底へ落ちていくような気がしたのではあるまいか。あの子は本当に純粋でまっすぐな子だから。
「事件の数日前、晃さんはスマートフォンで豆の画像が映ったサイトを見ていたそうです」
「ああ」
 すぐにその意味がわかって私は嘆く。あの子はそうやって人知れず悩んでいたのだ。
「さすがは小学校の先生、もうおわかりですね。そう、晃さんはメンデルの遺伝の法則を確認していたのです。メンデルはエンドウマメを用いて遺伝を研究しましたから。
 愛する娘と自分は血がつながっていない、それは愛する奥さんが自分を裏切っていたということ…もともと寧々さんに対して浮気を疑っていた晃さんはこの血液型の不一致が決定打となって疑惑を燃え上がらせ、憎悪に任せて凶行に及んでしまったのです。
 これで第2の事件の謎の言葉の意味もわかります。寧々さんは浮気なんてしていないと説得に来た伊藤さんに対して晃さんはカッとなって叫んだ…『だって蛍の血液型はAじゃないか』と。
 こう考えれば犯行の動機は十分です」
 低い声はそこでもたつきを見せた。
「十分なんですが、ただ…」
 そして意を決したように言う。
「ただ、寧々さんは本当に不貞を働いていたのでしょうか?」
 祈るような問い掛けだった。私の脳裏に浮かぶお似合いの二人の姿。結婚式であたたかい拍手に包まれた晃と寧々さんは誰よりも幸福な光を放っていた。
「ご両親に寧々さんのスマートフォンや持ち物を確認してもらいましたが、どこにも浮気の痕跡はありませんでした。職場の同僚やご友人も誰一人そんなことは証言していません。彼女は周囲から慕われ、信頼される人物。妻として誠実に晃さんのことを愛していたんじゃないかと私は思います。
 では、どうして血液型だけが一致しないのか?」
 再び勢いを取り戻し推理は次の段階へと進む。私は押し黙る。押し黙るしかなかった。
「血液型は目に見えません。見えないからこそ人はつい説得力を感じる…しかし見えないからこそ間違っていても気付きにくい。どこかに錯誤があるんじゃないかと私は考えてみました。
 最近病院で検査を受けた蛍ちゃんと寧々さんの血液型は間違いないでしょう。ただ晃さんはどうか? 子供の頃から健康で病院に縁がなかった晃さんに血液型を調べる機会がはたしてあったでしょうか」
 また脈が少し揺れる。
「晃さんは本人がB型だと思い込んでいただけで、実際はA型だったとしたら? それなら蛍ちゃんがA型でも何も問題ありません。ではどうして晃さんがそんな思い違いをしていたのか?」
 そして優しい声が尋ねた。
「あなたがそう教えたからではありませんか、かえで先生?」
 彼はまた私を先生と呼ぶ。私もいつしかまた彼を刑事ではなく教え子として見ていた自分に気付く。
「先生は晃さんに嘘の血液型を教えていた。それは…陽一郎さんの目を誤魔化すためですね。生まれた晃さんがA型だと知った時、先生は驚いた。それは先生と陽一郎さんの間からは生まれない血液型だったからです」
 視界がぼやける。二つの瞳から溢れた涙が頬を伝った。京女は感情をおもてに出してはいけない、いけないのに…!
「先生には思い当たることがあった。広島の小学校で教師をしていた時に親しくしていた同僚の槇尾先生。陽一郎さんでないとすれば、晃さんの父親は槇尾先生しか考えられなかった」
「もうええ」
 私の口から情けない声が漏れる。
「もうええ、もう…やめといてんか」
 そして彼の名前を呼んだ。カイカンではない彼の本名を。低い声が黙ったので私は顔を上げる。
「全て…認めます。ただあの人の名誉のために言うておきます。槇尾先生…一成さんは、けっして軽はずみな人やなかった。無責任な人やなかった。
 あの人は私がいずれは京都へ帰って親が決めた相手に嫁ぐのを知ってはりました。そやからどれだけ仲良うなってもずっと紳士のままやった。ただ親しくしとるのを徳岡家の人間に知られてもうて、私はすぐに京都へ連れ戻されることになったんどす。生徒たちの卒業式に出ることも許されずに」
 教え子はそっと左目を細める。
「何の力もない若いだけの二人どす、逃げてもすぐに捕まってまうのはわかりきっとりました。そやから私は最後に…最後に思い出をくださいってあの人に言うたんどす。でもまさか、まさかその時に晃を身ごもってまうなんて」
 唇がわなわなと振るえだす。
「連れ戻されてすぐに結婚しました。そして妊娠もわかりました。ただ陽一郎さんは優しい人やった。ほんまに私を大切にしてくれはりました。あの人も私と同じように…抗えん節義に生きとる人でした。そんなあの人に、ほんまのことなんて言えるわけなかった。そやから辻褄を合わせて、晃の血液型はB型やってことにしとったんどす。
 いえ、わかっとります。全部私が悪いんや。我儘言わんで教師なんかせずにおとなしゅう嫁いどったら誰も…誰も傷つけずにすんだんどす。そやから!」
 思わず声が破裂した。同時に鹿威しも鳴ったが掻き消える。
「晃は悪うないんどす。あの子が寧々さんを疑う原因を作ったんは私、罪があるんは私なんや。逮捕するんなら私にしてください。このとおり、このとおりや!」
 額を畳にこすりつけると瞳に溜まっていた涙が一気に落ちた。
「このとおり、このとおりや!」
「もういいよ、母さん!」
 突然声がして隣室のふすまが開く。
 息を呑む。そこには…やつれた晃が立っていた。

「晃、お前」
 一瞬止まった時間はすぐに動き出す。しかし言葉が続かない。するとゆっくり教え子が腰を上げた。
「晃さん、ご無沙汰しています。警視庁のカイカンです。いつからそこにいらっしゃったんですか?」
「少し前から聞いてました」
 息子は室内に踏み込んでくる。
「自分でここに逃げ込んできたくせに何を言うと思われるでしょうが、もう、いつまでも隠れていたくないと思いまして。夕べ母と話した時、母は何も言いませんでしたがきっと今日警察の方がいらっしゃるんだろうなと雰囲気で察しました。だから…」
 晃は私を見ると深く頭を下げた。
「母さんごめん、馬鹿なことして。僕が悪いんだ」
「何を言うてんの!」
 私も立ち上がる。
「もういいんだ。僕が寧々と伊藤を…」
「やめなさい!」
 私が金切声を浴びせても晃はその決意の眼差しを変えなかった。そしてあの低い声が問う。
「東京で寧々さんを突き落したことをお認めになるんですね?」
「はい、間違いなく僕がやりました。刑事さんの推理どおりです。逮捕されるのが怖くなって実家に逃げ込んで、ずっと料亭の虎の間に隠れてました」
「京都で伊藤さんを突き飛ばしたのもあなたですね?」
「はい、それも僕がやりました。あいつは僕を自首させようとわざわざ京都まで説得に来たんです」
「正直におっしゃってくださってありがとうございます」
「刑事さん、古高さんは僕をかばってくれただけです」
「晃…」
 私の言葉を息子は目で制する。しかしそれで折れるわけにはいかない。
「違うんや、悪いんは私や。私がこの子に嘘の血液型を教えんかったらこんなことには!」
「かえでさん、落ち着いてください」
 女刑事、続いて松平も立ち上がる。
「いいんだ母さん。僕がちゃんと寧々に向き合えばよかったんだ。寧々が浮気なんかするはずないのに…信じ切れなかった。相談してちゃんと調べれば、こんなことにならなかったんだよ」
 私はちぎれそうなほど唇を噛む。たとえ、たとえそうでも、端を発したのは私の過ち。それでもこの子に罪があるというのか。この子が罰を受けねばならぬというのか。
「血液型だけじゃないんだよ、母さん。職場から寧々に電話した時、寧々が『早く抱いてちょうだい』って誰かに言ってるのを聞いたんだ。聞いた気がしたんだ。それからずっと…疑いが消えなかったんだ」
 息子の瞳からも涙が溢れる。思わず肩を抱こうとした次の瞬間…。

「アホやわ、晃さん!」