第八章 恋人の肖像

●徳岡かえで

「母さん、ごめん、ごめん、ごめん…」
 今夜もそう嘆く晃を抱きしめてから私はその部屋を出た。ふすまを閉めて長い廊下を進むと窓ガラスには流れる水滴…雨が降っているようだ。外を覗いてもそこには深い闇と雨音しかない。
 その暗黒のスクリーンに今朝ここに訪ねてきた彼の姿が浮かび上がる。かつての教え子であり、数奇な運命で晃の起こした事件を担当する刑事となった彼。さすがに晃のいるあの部屋まではたどり着かなかったが、それでも私が晃をかくまっていることは確信していた。それに…そう、彼はあの人の名前も挙げた。私が広島で教師をしている間ずっと支えてくれたあの人。
「一成さん」
 何十年ぶりに二度と呼んではいけない名前を呟いてみる。私の人生で唯一恋愛をしたと思える男性…槇尾一成。生徒たちにはもちろん、保護者にも、他の同僚の教師にも誰にも知られないように育んだ関係。こっそり彼と過ごす時間は私にとってこの上ない幸福だった。
 しかし恋愛感情を完全に秘匿するのは難しい。お互い20代できっとはしゃいでもいた。事実子供たちの純粋な瞳にそれは見抜かれていたようだし、思っていた以上に自分たちの関係は周囲で噂を呼んでいたのかもしれない。それがきっと私の素行を調査していた徳岡家の人間の耳にも入ったのだ。
 私は徳岡家からも実の両親からも激しく叱責され、問答無用で京都へ連れ戻された。そして陽一郎さんの妻になるための手解きを、仕打ちを、裁きを受けた。せめて教え子たちの卒業式までは待ってほしいと懇願したがそんな訴えが通用する余地はどこにもなかった。
 わかっている、悪いのは私だ。許婚がいる身でありながら別の男性を愛してしまった私、幻想に期待していた私が全ていけないのだ。私が退職した後、一成さんも教師を辞めて故郷の北海道へ帰ったらしい。あの人の人生も…私は狂わせてしまった。
 自室に戻って窓を開ける。雨が降り込むのも構わず私は北の空を見上げた。
 あの人はどうしているのだろう。優しい奥さんと子供に囲まれて、幸福な家庭を築いているだろうか。それとも画家の夢を追い続け、今でも鼻唄混じりに筆を走らせているのだろうか。どちらでもいい、両方でもいい。私の存在など忘れて笑って生きていてほしい。
「一成さん」
 もう一度だけその名を呼ぶ。どうして女の心はこうもまどろっこしくできているのだろう。忘れてほしいなんて思いながら、逆の願いを捨てられずにいるのだろう。
 そう、二度と会えなくてもいい。別の誰かを愛していてもいい。ただ、あの一枚の絵…描いてくれたあの絵だけは今でも持っていてほしい。

●ムーン

「そこで何をしてるんだ!」
 夜の美術教室に怒声が響く。我に返って振り返ると、部屋の中央には槇尾が立っていた。どうやら私は彼の接近にも気付かず絵を見つめたまま呆然としていたらしい。
「何を…何を見てるんだ!」
 先ほどまでのかすれ声とは全く違う、激情を含んだ声がぶつけられる。咎められても仕方がない。私は無断で心の奥の秘密を覗いたのだ。しかし彼の二つの瞳には憎悪よりも狼狽が浮かんでいるように私には見えた。
「申し訳ありませんでした」
 頭は下げずにそう伝える。
「この絵は…かえでさんですね?」
 そう、見つけた絵に描かれていたのは紛れもなく徳岡…いや、小寺かえでの若かりし頃の姿だった。椅子に腰掛けて穏やかに笑む彼女…昨日徳岡家の屋敷で会った時よりもその表情はあどけなく、髪もアップにしているが、二つの漆黒の瞳は変わらない。背景には花瓶に生けられた一輪の花も描かれている。その花弁が開いていることに気付いた時、私は全てを察した。
「この絵はあなたが描いたんですね、槇尾先生。ちゃんとサインも入っています」
 元美術教師は口惜しげに視線を逸らす。
「あなたとかえでさんは男女の関係だった。そうですね?」
「ち、違う。ただ絵のモデルになってもらっただけです」
 彼は大きくかぶりを振ったがそれは通らない。
「いいえ。先ほどあなたはおっしゃいました、直接目で見た物歯科描かないと。そしてここに描かれている花は…」
 私は古い絵の一点を指す。
「月下美人です。その名の通り夜中に花びらが全開になり、朝には散ってしまう花です。つまりこの絵は深夜に描かれた物ということになります。そんな時刻に一緒にいて、ただの同僚だったとおっしゃるんですか?」
 がっくりと肩を落とす槇尾。続いて小さな拍手が聞こえる。見ると女カイカンが廊下からの戸口に立っていた。
「さくらさん」
「成長したわね、ムーンちゃん。すっかり刑事の顔になったわ」
 彼女は室内に足を進める。また床が軋んだ。
「槇尾先生、騙すような真似してごめんなさい」
 そして彼の隣まで来ると深く頭を下げた。
「もう認めてもよろしいんじゃないんですか。あの絵を三十年間保管していたのが何よりの証拠ですし」
 彼女はそっと彼の肩に手を置き、優しい目で絵を見つめる。
「十分過ぎるくらい伝わってきますよ、これを描いた画家はモデルを心から愛してるんだってことが」
「う、うう…」
 彼は嗚咽を漏らしながらその場に座り込んだ。
「僕は守れなかった。かえでさんが不本意な結婚をさせられるのは知っていたのに、彼女を連れて逃げることが…僕にはできなかったんだ。許してくれ、かえでさん、許してくれ!」
 キャンバスが乱立する室内に懺悔と悔恨の叫びが散った。そんな無情の構図を見ながら冷徹な私は考える。
 これでかえでが徳岡家に嫁ぐ前に槇尾と愛し合っていたという事実は示された。この事実はさらに悲しい真実を明らかにするのかもしれない。
 それでも…それでも私はこの事実を手にして戻らねばならない。
 もう一度、あの街へ!

「もう、うちだけ仲間外れにしてひどいやないですか」
 11月9日午後2時、河原町署のロビー。朝の便で北海道から戻って警部と合流したところに八尋そよかが押しかけて来た。
「カイカンはんもムーンさんも昨日は一日捕まらへんし、二人でどこに行っとったんですか」
「それぞれ捜査で京都を離れていたんですよ」
 と、変人上司。若きテレビディレクターは子供のように頬を膨らませる。
「それやったらうちも一緒に行ったのに。まったくもう」
「そんなに怒らないでください。ちょっと早いですが3時のおやつに甘い物でも食べましょう。ええと、何がいいかな」
「それやったら」
 そよかの顔がぱっと明るくなる。
「とびっきりの抹茶アイスがありますよ」
 あどけなく笑むその顔が一瞬、昨夜キャンバスの中で微笑んでいた恋人の肖像と重なって見えた。

「いやあ、さっすが法崎さんだ。槇尾先生が保管していた絵に気付くなんて」
 池田ショッピングパークの裏の喫茶店。そよかがトイレに立った隙に私が昨夜のことを報告すると警部は嬉しそうに頷いた。
「かぶせてある布が古い物だったんで、きっとこっそり大切にしてる絵だとピンときたってさくらさんはおっしゃってましたよ。槇尾先生に承諾を得て、一応撮影もさせてもらいました」
 スマートフォンの画面を示す。
「うわあ懐かしい。確かにあの頃のかえで先生だ。そうそう、こんなふうに髪をポニーテールにしてたっけ」
 優しく目を細める警部。思い出に浸っているのか、しばらくそのまま黙視が続いた。
「何を見てはるのん?」
 そよかが戻って来たので私はさっとスマートフォンを引っ込める。
「あ、隠した! またうちは仲間外れどすか? いけずせんといてえな」
「捜査上の機密ですから」
 説明する私の対面にプンスカしながらそよかは着席。すると警部はそんな彼女の横顔をじっと見つめている。視線に気付いてハスキーボイスが言った。
「カイカンはん、どないしはったん? うちのことじっと見て。いややわ、こんな怒っとる顔。ほな可愛くせな」
 彼女はまた笑顔になると、この店の抹茶アイスの魅力を語り始める。そして間もなくウエイトレスがその品を運んできた。冬季のお皿に深緑色のまん丸なアイスクリームが三人分振る舞われる。
「こりゃおいしい」
 一口食べるや警部が舌鼓。
「ですやろ? 気に入ってもろうてよかった。うちのイチオシ、ムーンさんもはよ食べて」
 促されて一口。その瞬間、抹茶の濃厚な甘さが芳醇な香りと共に口の中に広がった。確かにこれは美味。
「どうです? まったりしてはるやろ」
「はい、食べられないことありません」
 私は京都の婉曲表現でコメント。そよかはさらに嬉しそうに「わかってきたやないですか」と自らもスプーンを口に運んだ。
 しばし氷菓子を堪能していると警部が窓の外を向く。昨夜は雨も降ったようで道路は少し濡れていたが、今日は見事な秋晴れ。
「あそこに少しだけ見えてるのはもしかして高速道路ですか?」
「そうです。京都は観光の街やから、景観を損なわんように気を付けてバイパスが敷かれとるんです」
「ナルホド。それにしてもこの抹茶アイスはすごいですね。甘いだけかと思ったら後から渋みもちょっと出てくる。甘いおまんじゅうと渋いお茶を一緒に味わってるみたいな感じです」
「そこが魅力なんですよカイカンはん。どういう仕組みになっとるんか、ほんま不思議やわあ」
「色鉛筆のヨシコママならわかるんじゃないですか? 隠し味の天才なんですよね」
 私が言うと彼女はスプーンをくわえたままかぶりを振った。
「あかんあかん、ヨシコママの企業秘密は徹底しとるから、わかっても教えてくれへんわ。うちの就職が決まった時に拝み倒してようやっと一つだけ教えてくれたんは、元気カフェオレの隠し味だけや」
「ちなみにそれはどんな?」
 警部が尋ねる。本来はこんな雑談をしている場合ではないのだが、もしかしたら今の時間は苦い真実を口にする前のささやかなスイーツのようなものなのかもしれない。昨日、私が北海道に旅立つのと同時に警部は東京へ向かった。行き先は病院。蛍ちゃんがアレルギーの治療で通っている病院である。一見この事件と何の関係もなさそうだが、実はそこに大きな意味があるかもしれないと警部は読んだ。かえでと槇尾の関係を知った今なら、私にもその意図がわかる。この人が蛍ちゃんの主治医に確認したのはきっと…。
「ひょっとしてカフェオレに塩を入れるとかでしょうか」
「なんでそないに思いはるんです?」
「東京の喫茶店で伊藤さんに会った時、トマトジュースに塩を入れて飲んでらっしゃったのを思い出したんです。だからそんな感じかなって」
「さっすがカイカンはん、鋭いわあ。でも塩やあらへん。元気カフェオレの隠し味は二つ、シナモンと胡桃の粉末です。これを秘密の割合で調合した魔法の粉をカフェオレに入れる…あったかいのでもええし、アイスカフェオレでもええ」
「魔法の粉ですか」
「ほんまですよ、それを入れるだけでめっちゃおいしくなるんやから」
「シナモンと胡桃の組み合わせというのは斬新ですね」
「そこがヨシコママの天才的な所なんです。うち、その秘密の調合で魔法の粉を作って寧々にもプレゼントしました。めっちゃ喜んでくれました」
 そこですっと笑顔が陰る。病床の親友を思い出したのだろう。
「寧々、はよ元気になってほしいな」
「…そうですね」
 何か考え事をしていたのか、警部の返答がワンテンポ遅れる。
「いつか八尋さんがおっしゃったように、この事件をハッピーエンドにするためにはまず寧々さんに助かってもらわないといけません」
「そう…そうですね。わかっとります。ほなしんみりしててもあかん、元気出さんと。お二人ともスプーンが止まってはります。抹茶アイス食べましょ」
「はい」
 私もまた一口。
「本当に甘味の後に時間差で来る渋味が絶妙ですね。そういえば八尋さん、一昨日赤井さんたちにもこのアイスをお勧めしてましたもんね」
 そう伝えると彼女は大いに頷く。
「そうや。ちゃんと食べてくれたみたいで昨日すみれちゃんからメール来てました、死ぬほどおいしかったって。ほんまええ子らやったなあ。あの子ら、今日はバスで奈良の方へ観光するみたいです」
「バス…」
 先にアイスをたいらげた警部が呟いた。
「そうか、修学旅行はバスで移動することも多いわけか」
 そして謎の納得を見せている。
「ムーン、一昨日の事件の時、池田ショッピングパークの店内は修学旅行生でいっぱいだったんだよね。じゃあ駐車場にバスは停まってた? よく思い出して」
 私は記憶をたどる。池田ショッピングパークに駆け付けた時に隣の駐車場を見たが、そこには数台のマイカーしかなかった。
「いえ、バスは一台も」
「うちも見た記憶はあらへん」
「そう、となると」
 変人上司は右手の人差し指を立てた。
「店内にいたたくさんの修学旅行生はみんな歩いてきたのかな」
 そう言われるとおかしい気もする。あれだけの人数、全員が大名行列みたいに店にやって来たとは考えにくい。逆に駐車場に何台かバスが乗り付けていれば、それに乗って来たんだなと腑に落ちる。
「バスは学生を降ろした後、別の場所で待っていたんじゃないですか?」
「池田ショッピングパークは観光客用のお土産屋さんでしょ? そんなに駐車場が狭いのかい?」
 確かに。あの時、駐車場も全く込んでいなかった。じゃあどうして…。
「あっ!」
 次の瞬間、そよかが甲高い声で叫んだ。そして彼女のスモールサイズの手からスプーンが落ちる。

 喫茶店を出て小走りに池田ショッピングパークへ。三人で正面の自動ドアをくぐると一昨日と同じ壮年の警備員が立っていた。
「すいません、ちょっとよろしいですか」
「あ、この前の刑事さん。どうなさいました?」
 私が言うより先にそよかが口を開く。
「この店、高速道路からも乗り入れできます?」
「あ、はい。観光バスでいらっしゃるお客さんも多いですから」
「その人たちはどこから店内に出入りしてはるんですか?」
「店の裏に高速道路から直接つながってる駐車場がありまして、そこから専用の出入り口で」
 警部と私、そしてそよかは教えられた場所を目指す。本日も店内は修学旅行生で溢れている。かき分けてたどり着くと、店の奥にそれらしき扉があった。一昨日は見過ごしていた…というよりも、他に出口はないと聞いていたので防火扉の類かと判断して意識に残っていなかった。
「開けゴマ!」
 そよかが勢いよく開けると目の前には秋空、そして先ほど喫茶店から見た高速道路が分岐してつながる駐車場。そこには修学旅行生を乗せる観光バスがしっかり駐車している。
「フフフ」
 変人上司が不気味に笑った。
「これで犯人消失の謎は解けたね」
 右手の人差し指が立てられる。
「古高さんは車で高速道路に乗ってここへやって来たんだ。そしてこの扉から店内に入り、正面の自動ドアから入ってきた晃さんとトイレで落ち合う。野球帽やサングラスを交換、今度は晃さんがこの扉から出て、古高さんが乗ってきた車で逃げた」
「さっすがカイカンはん、名推理! ああ、カメラ回したいわあ」
 若きテレビディレクターが嬉しそうに悶える。
「いえいえ、これは八尋さんのおかげです。あなたがひらめいてくれたんですから」
「お土産ショップの中には高速道路と直結しとるとこもあったなあって思うたんです。うちもうっかりしとった、あの時すぐ気付けばよかった」
「しかし」
 私は気になったことを口にする。
「あの時、警備員さんにちゃんと確認したんですよ。他に出口がないかって。どうして教えてくれなかったんでしょう」
「ムーン、君はこんなふうに質問したんじゃないのかい? 『この自動ドアから入ってきた客がここ以外に外へ出られるドアはあるか』って。
 だったら警備員さんがないって答えるのが当然だ。正面の自動ドアから入った客が仮にこの扉から裏の駐車場へ出ても、そこからどこへも行けないんだから。見てごらん、裏の駐車場は壁で隔てられてて高速道路にしかつながっていない。そりゃそうだよね、高速道路と一般道が自由に往来できちゃまずいから」
 そういうことか。だから通常は自動ドアから入った客はそこからしか出られない。しかし、車に乗った共犯者が高速道路で乗り付ければ、裏の駐車場からその車で脱出することができるわけだ。ただそうなるとまた新たな疑問。
「警部、それならわざわざ古高さんとすり替わらなくても、一緒に車で逃げればいいじゃないですか」
「あくまで古高さんが身代わりになることが重要だったんだろうね。でなけりゃこんなややこしいことはしないさ」
「そこまでして、晃さんを守りたかったってことですか」
「だろうね」
 警部は立てていた指を下ろすとポケットから昆布を取り出して口にくわえる。
「こうなると、晃さんを何が何でも見つけなきゃ。徳岡のお屋敷、あるいは料亭のどこかにいるはずだ。お屋敷の方は見せてもらったけど見つからなかった」
「あ!」
 またそよかが甲高い声を上げる。
「あれやないですか。ほら、廊下に飾ってあった鎧兜。あの中に入っとるとか」
「フフフ、私ももしかしてって思って確認しました。残念ながら鎧の中に人はいませんでしたよ」
 そりゃそうだ、そんな所に隠れてもメリットは何もない。
「そうなんや。いや、あの鎧、ちょっと気になっとったんです。刀がなくなっとったから」
「刀はもともとなかったと確か古高さんがおっしゃってましたよ。ほら、一緒にあのお屋敷に行った時に」
 私が言うと彼女は「そうやなくて」と真顔になる。
「言うたやないですか、うち、子供の頃にこっそりあのお屋敷に忍び込んだって。その時にもあの鎧を見たんやけど、ちゃんと刀はあった気がするんです。うちはそれが怖くて逃げ出したんやから」
「刀があった…それはいつ頃のことですか?」
 低い声が尋ねる。
「小学校に上がってすぐの頃やったと思います。そやから…二十年前くらい。なあカイカンはん、ひょっとして晃さん、その刀を持ってどっかに立てこもってはるんやないやろか」
「さすがにそれはないと思いますけど…それにしても、その立てこもっている場所がわからないことには」
「警部、お屋敷でないとすればやはり料亭のどこかでしょうか」
「そうだね。ただ客間はランダムに使われるみたいだから難しい。従業員が頻繁に出入りする厨房に隠れているとも思えない。もしかして料亭に秘密の部屋でもあるのかな。確認がてら徳岡屋に夕食を食べに行ってみようか」
「あかんあかん」
 そよかは笑ってかぶりを振る。
「ああいう所はイチゲンさんお断りどす」
「え、お金さえちゃんと払うならどんなお客さんでも歓迎だってかえで先生が言ってましたよ」
「そんなん建て前どす。徳岡屋は老舗の高級料亭、特に夕食の予約なんて、ご紹介がないと取れまへんえ」
「それでも飛び込みのお客が来てしまったらどうするんですか? 追い返すのはイメージが悪いですよね」
 私が尋ねると彼女はまた優越感の目でニヤリと笑う。
「ほんまムーンさんは京都のことに疎いどすなあ。ええですか、そういうお客は…」
 彼女の答えを聞いた瞬間、警部はおしゃぶり昆布を飲み込んだ。

 そこからの数日間は警部の推理を裏付けるための作業に忙殺された。正直不思議な気持ちだった。一報で推理の的中を確信しながら、しかしもう一方では推理が的外れであることを願いながら、私は警部と共に東京や京都を奔走した。
 そして彼女…八尋そよか。彼女は一度東京へ戻ったが、これまでのように捜査に同行させろとは言わなかった。それは彼女自身、警部から大きな決断を迫られていたからだ。これまで猪突猛進だった彼女も、さすがに心を立ち止まらせなければ答えを出すことができなかったのだろう。
 警部は彼女にこう尋ねた…「ご自身のルーツを知る勇気はおありですか?」。
 その返答は警部にではなく私の方に告げられた。裏付け捜査の結果をまとめていた深夜の警視庁のいつもの部屋。初めて彼女が私のスマートフォンを鳴らしてきたのだ。
「こんばんは、ムーンさん」
 そのハスキーボイスはいつものように明るかったが、どこか頼りない響きを帯びていた。今彼女がどんな顔をしているのかうまく想像できない。
「今日、寧々のお見舞いに行ったんや」
「そうですか。寧々さん、どんどん反応が出てきてるみたいですね」
「そうそう、うちが手を握ったらちょっと握り返してもくれて。それで寧々に話し掛けながら考えたんです」
 そこで沈黙。私はあえて何も言葉を挟まなかった。
「ムーンさん」
 数秒の後、決断が届けられる。彼女にとっては世界の景色を一変させかねない決断。
「うち、検査に同意します」
「…わかりました。私から警部にお伝えしますね」
「お言葉に甘えまーす!」
 可愛い調子で通話は切れる。私は椅子の背もたれに身を任せて天井を見上げた。ふっと息を吐く。

 残酷な扉が開かれようとしている。それでも、この事件の真相はその扉の先にしかないのだ。