第十章 紅葉のコンチェルト

●ムーン

 私は目を見張る。声がした方を向くと、庭先には八尋そよかが立っていたのだ。警部も私も今日徳岡家を訪れることを彼女には伝えないようにしていた。それなのに…。
「八尋さん、どうして」
 思わず問う私に彼女は冷たい目で笑んだ。
「どうせカイカンはんとムーンさんはうちを仲間はずれにするって思うたから、ずっと京都駅で張っとったんです。言うたやないですか、子供の頃にも一回ここに忍び込んだことがあるって。大人の今なら楽勝や」
 彼女は靴を脱ぐとそのまま縁側から和室に上がり込んだ。そして私を押しのける勢いで徳岡晃の前まで行く。彼はただ目を丸くしていた。
「ほんまにアホやわ、晃さん。なんでそんなんで寧々を疑うんや。あの子がどんだけ晃さんを好きやったか、うちはよう知ってます。それが晃さんに伝わってへんかったんかと思うたらほんまに、ほんまに情けないわ!」
「ちょっと…」
 彼女を止めようとする私の袖を警部が掴んだ。様子を見よう、とその左目は言っている。しかしいいのか? 確かに今の彼女は無遠慮なマスコミとしてここに押しかけたわけではない。寧々の親友として訴えているのだ。しかしこの場に彼女が存在することは危険ではないか? 何故なら彼女は…。
「確かに聞いたんだよ。電話で、寧々が誰かに『早く抱いてちょうだい』って言ってたんだ! あれがなかったら僕だって」
「聞き間違いかもしれへんやん。ほんまに好きやったらそんなんいくらでも吹き飛ばせるわ」
「聞き間違いって…何をどう聞き間違えるんだよ!」
「代金取引手形」
 突然警部の低い声が和室に響いた。言い争う二人も驚いて変人上司を見る。
「代金取引手形ですよ、晃さん。寧々さんは銀行で働いてらっしゃった、当然代金取引手形を扱うこともあった」
「それが何ですか」
「代金取引手形を、銀行員の業界用語で『ダイテ』と呼ぶそうです。先日改めて寧々さんの職場に行って確認してきました。私も何か聞き間違いの原因があるんじゃないかと思いましてね」
 警部はそっと右手の人差し指を立てる。
「だから『早くダイテちょうだい』は『早く代金取り引き手形を渡して』という意味なんですよ。同僚に向けた言葉でしょう。電話の向こうの寧々さんが落ち着かない様子だったのもきっと勤務中で忙しかったからです」
「そんな…そんな…。でも僕が電話したのは寧々が休みの日で」
「急な欠員が出た時に寧々さんは頼まれて臨時出勤していたそうです。ただ心配をかけないためにそのことをあなたには言わなかった。そういう性格の奥さんであることはあなたが一番ご存じのはずです」
 そういうことだったのか。あまりにも残酷な勘違いだ。寧々の気を遣い過ぎる性格と、晃のまっすぐ過ぎる性格が完全に裏目に出てしまった。
「ほら、やっぱりそうやん」
 そよかがほっとしたように頬を緩める。
「晃さん、これでわかったやろ? 寧々が晃さんを裏切るわけないんや。寧々が宝物をしまっとる箱、知っとるやろ」
「思い出ボックスだね」
「そうや。そこにレシートが入っとるの知ってます? どうしてそんなもん大事にとっとるんやと思う?」
「あれは、僕が京都弁で『ほかして』って言ったのを寧々が『保管して』って聞き間違えたから」
「アホ、そんなん照れて誤魔化したに決まっとるやん。ほんまは大切やから保管しとったんや。晃さんと初めて二人で喫茶店で過ごした、初デートのレシートなんやから」
 はっとする彼。そして全てを悔いるように全身をわなわなと震わせ始める。
「やっぱり男の人はあかんわ。想像力がなさ過ぎや。寧々が目を覚ましたらちゃんと謝るんやで。うちが晃さんを許すかどうかは寧々の意見を聞いてから決めさせていただきます。それまでは1ミリも許さへんから。このまっすぐアホ男!」
 言葉は厳しかったがもう彼女の瞳に憎悪は浮かんでいなかった。晃はそのままヨタヨタとあてもなく数歩進み、ペタンと畳にへたり込んだ。
「大丈夫ですか」
 歩み寄ったのは松平。
「もう逃げ隠れしはりませんね。詳しい話を署で伺えますか?」
 先ほどまでとは別の涙を浮かべて、彼は大きく頷いた。

「晃、晃」
 泣きすがるかえでを無視して晃は松平に連れて行かれた。我が子が警察に連行される姿を見るその胸中はいかほどのものだろう。せめてもの救いは彼がその場で逮捕されず、手錠も掛けられなかったことくらいか。
 ふすまが閉まり、やがて遠ざかるパトカーのサイレン。それも聞こえなくなってから警部が静かに言った。
「みなさん座りませんか。そろそろお茶も欲しいですし」
 そして隣の彼女を見る。
「ただし、八尋さんには席をはずしていただきましょうか」
「嫌や」
 若きテレビディレクターは即答した。
「カイカンはんがどう言わはっても、うちは絶対に動きません」

 警部と私は元いた座布団に、そよかは松平のいた座布団に落ち着く。女当主もまたその正面で正座をした。しばし岸本が振る舞ってくれたお茶を各自の口に運ぶだけの時間が流れる。気付けば差し込む日射しはオレンジ色を帯び始めていた。見ると庭のもみじが音もなく数枚散る。
「かえで先生」
 鹿威しが二度続けて鳴ると、低い声が穏やかに口火を切った。
「晃さんは罪を認めました。先生もお認めくださいますね、彼をかばっていたことを」
「かばったんや…ない。ほんまに…私が悪いんや。私があの子の血液型を誤魔化したりせんかったら」
 事実上息子は逮捕されたにも関わらず女当主はそう返す。絶望しているのか、放心しているのか、先ほどまでの鋭い眼光は消え失せ彼女の瞳には全くと言っていいほど覇気がない。警部はそっと湯呑みを置く。
「もう少しだけ続けさせてください。今からするお話が先生の救いになるかどうかはわかりません。ただ少なくとも、先生が思い込んでらっしゃる誤解は解けると思います。
 話してよろしいですか…八尋さん?」
 警部はかえでではなくそよかに確認を取った。彼女はかえでに似たその漆黒の瞳を正面から逸らさずに「はい」とだけ答える。これから語られることを察して私も息を呑んだ。
「かえで先生、とっくにご存じだと思いますが」
 警部は過去への扉を開いた。
「八尋そよかさんはあなたの実の娘さんです」

●徳岡かえで

 この時ばかりは自らの教え子に戦慄を覚えずにいられなかった。遠い遠い昔に封じ込めたはずのこと。二度と封を開くはずのなかったこと。そこに彼は鋭い爪を掛けたのだ。
 そう、目の前にいるこの子は紛れもなく私の娘、お腹を痛めて産んだ晃の双子の妹だ。だから先日、女刑事の同伴でこの子が現れた時には呼吸が止まりそうになった。私が知っている娘の姿は赤ん坊の頃。三十年近くも会っていなかったというのに、顔を見た途端に本能がそれを感じ取った。そして名前を聞いて確信したのだ、間違いなく私の娘、私が捨てた娘だと。
 まさか娘が東京で寧々さんと親しくなり、晃とも知り合っていたなんて。まるでバラバラに川面に散ったもみじが波に漂って下流で再び重なり合ったようだ。
 しかし今ここで素直に頷く度胸はない。彼女から注がれる無言の視線を避けるように私は目を伏せる。
「八尋さんの…そよかさんの生い立ちを伺った時におやと思ったんです。そよかさんは京都のご出身で晃さんと地元も近く年齢も同じ。最初はただの偶然かと思いましたが、そよかさんが晃さんに対してどんなに気が合っても恋愛感情は1ミリも生まれなかったというお話や、幼い頃に親から徳岡の屋敷には近付くなと言われていたというお話、そして実は八尋家の養子だったというお話を聞いて、少し気になっていました」
 返事をしない私に教え子は言葉を続ける。
「次に気になったのが先生の言葉です。あなたは『ほんまに子供らが悪い時はかばったりしまへん』とおっしゃった。子供は晃さん一人だけのはずなのに『子供ら』と複数のような言い方…そこでもしかしてって思ったんです」
 彼は穏やかにフッと息を吐く。
「実はそよかさんに初めて会った時、先生のことを思い出してとても懐かしい感じがしました。最初は京都弁のせいかなと思ったんですが、それだけじゃなかった。記憶の中の先生の姿がそよかさんに似ていたんです。
 もちろん三十年前の記憶だけで決め付けるわけじゃありません、実際に槇尾先生が描かれた若い頃のあなたの絵はそよかさんに似ていました」
「なんでその絵のことを知ってるの?」
 思わず顔を上げて尋ねると、代わりに女刑事が口を開いた。
「私は先日北海道の槇尾さんにお会いしてきました。槇尾さんは絵画教室の先生をしていらっしゃいます。そしてアトリエの奥に、その絵は大切に保管してあったんです。それを見た時に、私も八尋さんの姿が重なりました」
 また涙が滲みそうになるのをぐっとこらえる。一成さんはまだあの絵を持ってくれていたのだ。お互い小学校で働きながら夜な夜な彼のアパートでモデルを務めたあの絵を。
「かえで先生」
 低い声がまた少し厳しく言う。
「先ほど晃さんの実の父親は槇尾先生だと推理しましたが、推理はあくまで推理です。確証を得るには科学的な検証が必要でした。しかし失踪中の晃さんのDNA
を調べることはできません。そこで…」
「うちが協力したんです」
 娘が口を開いた。
「うちが晃さんと双子なら、うちのDNAを調べれば親子鑑定ができます」
 その漆黒の瞳には決意が宿っている。これは…私の目だ。徳岡家の女当主として数々の敵を薙ぎ払ってきた私と同じ目だ。
「カイカンはんが戸籍を詳しく調べてくれはりました。うちは確かにかえでさんの娘で、晃さんの双子の妹でした。そんな顔せんでください、うちだって今更あんたをお母さんなんて思えまへんから。なんでうちが養子に出されたんかも何となくわかりますし」
 その言葉一つ一つに身を裂かれるくらいの痛みが走る。
 結婚直後、私の懐妊が判明すると徳岡家の人間はもろ手を挙げて祝福した。しかし子供が双子、しかも男と女の組み合わせだとわかるとその声色は変わった。代々徳岡家の後継ぎは男と決まっている。息子を産めない嫁は無能とされ、どれだけ娘を産んでも何も評価されない。二卵性の双子の妹という稀な存在に対して、徳岡家はまるで忌むべき存在が晃に付随してきたかのように扱ったのだ。
 馬鹿げている。いかれている。狂っている。現代のモラルやリテラシーに照らし合わせればほとんどの者がそう口を揃えて言うだろう。しかしこの国にはそんな世間の常識とは全く違う非常識…いや異常識で回っている世界がいくつも存在する。周りからどれだけ異様に見えようとも、おぞましく思われようとも、伝統や世襲、忠誠や報恩の名のもとに命を懸けて貫かれているものがあるのだ。それが節義。これは正義ではない。正しいかどうかなど問題ではないのだ。
 徳岡家三百年の激流にちっぽけな嫁一人が抗えるはずもなく、生まれた娘はすぐに養子へ出された。そして晃とそよかの血液型は共にA型。それを知った時、私は愕然としたのだった。
「先生の血液型はO型でしたね」
 心の中を見透かすように彼が言う。
「理科の授業でメンデルの法則を教えてもらった時に先生がおっしゃっていたのを憶えています。そしてそよかさんの血液型はA型、これも自己紹介の時に教えてもらいました。そよかさんがあなたの娘なら、父親はA型かAB型のどちらかということになります。亡くなられた陽一郎さんの血液型はどうでしたか?」
「B型どす。そう言うてはった」
 私は素直に認めた。きっと予測していたのだろう、彼は小さく「そうですか」と返す。
「陽一郎さんがB型なら、O型の先生との間に生まれる子供はB型かO型。でも晃さんはA型。それで先生はB型だと偽った。そうするしかなかったんですね。晃さんが徳岡家の実子でないことがわかれば、どんな仕打ちを受けるかわからない、だから晃さんを守るために」
 私は思わず両手で顔を覆う。泣くな、泣くな。全ては自分がやってきたこと。安易に泣いたり悔やんだりする生半可な覚悟ではなかったはずだ。
 通り過ぎる静寂。鹿威しは鳴らない。教え子は続けた。
「でも先生、あなたは誤解しています。晃さんは槇尾先生の子供ではありませんでした」

 え? 今、何を言ったの?
 そう思っても声が出ない。頭もついていかない。彼の言葉の意味がわからず私は顔を覆う手をはずした。女刑事と娘は動じることなくこちらを見据えている。
「そよかさんと槇尾先生のDNA鑑定の結果です。あなたを救うことになるかもしれないとお伝えしたら、槇尾先生も協力してくださいました。そして間違いなく…二人に親子関係はありませんでした」
「そんな」
 まさしく驚天動地。言葉がまるで続かない。しかしそんな、そんなはずはないのだ。
「そよかさんが槇尾先生の子供でないのであれば、双子の兄の晃さんも当然違うことになります。先生、あなたは誰も裏切っておられません。晃さんは正真正銘ご主人の、陽一郎さんのお子さんなんですよ」
 教え子は正面の壁を見上げる。そこにはあの人の…私の亡き夫の肖像画。
 晃が…私たち夫婦の子供?
「で、でもあの子の血液型はA型で」
「間違っていたのはご主人の認識だったんです。陽一郎さんは自分の血液型をB型だと思い込んでいただけで実際は違っていた。A型だったんです」
「そんな」
「確かです。二十年前、このお屋敷の廊下で転倒し、陽一郎さんは金属製の棚の角に頭をぶつけて亡くなりました。その際に警察が血液型を調べています。捜査資料で確認しましたが、間違いなく陽一郎さんはA型でした。まあ当時は棚の血痕が本当に陽一郎さんの血液かを確認することが目的の検査でしたので、それがA型でも特に問題にされませんでしたが」
 にわかには信じられない。めまいを覚えた私は頼りなく「どうして」と尋ねる。
「歴史はくり返す、良いことも悪いことも」
 教え子はそう答えた。それはかつて私が授業で生徒たちに伝えた言葉。くり返す…晃と同じように陽一郎さんも偽りの血液型を教えられていたということか? だとしたらまさか!
「よ、陽一郎さんが徳岡家の実子ではなかった…?」
 震える唇がおぞましい推測を投げる。彼は優しくそれを受けた。
「そうです先生。僕も同じことを考えました。和美さんはなかなか家光さんとの間に子供ができなかったそうです。そのことでとてもつらい思いをされたんでしょう。そんな和美さんを見かねて代わりに父親になった人物がいた」
 低い声は一瞬ためらい、そして先を続ける。
「そう考えた時、どうしてあの人がここまで徳岡家に尽くすのか、自分の人生を捨ててまで晃さんをかばおうとしたのかも納得できました」
 私にも彼の顔が浮かぶ。若い頃に家光さんに拾われずっとここで働いてきた彼なら、和美さんと親しくなる機会はいくらでもあっただろう。
「ふ、古高が…?」
「はい。DNA鑑定を提案したら、全てお認めになりました。彼は非道な仕打ちを受ける和美さんを救うために密かに父親になったのです。もちろんこのことは口外しないと二人で誓い合って」
 優しさの中に時折厳しさを垣間見せる古高の微笑み。あの男は和美さんのお見舞いに私を送迎しても絶対に車から降りようとしなかった。どんなに誘っても部屋へ入ろうとしなかった。会わないように…顔を合わせないようにしていたのだ。
「こうして身ごもった和美さんは無事に出産、しかし陽一郎さんの血液型は家光さんが父親では生まれないものだった。だから辻褄を合わせるために和美さんは周囲にも本人にもB型という偽りを教えていたのです」
 私と全く同じだ。歴史はくり返す、和美さんの偽りの上に私はさらに偽りを重ねた。晃は正真正銘あの人の…陽一郎さんの子供だったのに。まるで真っ赤な嘘にさらに不要な真っ赤な嘘を重ねて、どす黒い緋色に濁ってしまったようだ。
「ほ、ほんなら、私は何のために」
 こらえていた涙がまた一気に溢れる。単純な悔しさや悲しさではない。どこへぶつけてよいかもわからない感情。同じ激流の中を生きた女として和美さんを咎める気持ちにはなれない。でも、だが、しかし…!
 私は気配を感じて後ろの壁を振り返る。家光さんと陽一郎さんの肖像画。当主としての威厳を讃えた在りし日の親子の姿。そう、彼らだって懸命にこの家を守ろうとしてきただけだ。抗うよりも従う戦いを選んだだけだ。
 ならば誰が悪い? 私は誰を憎めばいい? 誰を…。
「誰も悪くありません」
 また心を見透かしたように教え子は言った。
「みんな必死だった、誰も悪くはありません」
 しかしそれは必ずしも癒しだけの言葉ではなかった。
「それでも罪は存在します、先生。今からそれを確認します」
 気付けば涙は止まっていた。

 断末魔のように甲高く鹿威しが鳴る。教え子は最後の真実に爪を掛けた。
「二十年前のことです。先ほど私は陽一郎さんは事故死したと言いました。お酒に酔って転倒し頭を廊下の棚の角にぶつけて亡くなった…確かに当時の捜査資料ではそうなっていますが、これは事実でしょうか」
 彼は人差し指を立てた。教え子から再び刑事に戻ったことがわかる。
「一つ気になることがありましてね。ムーンが初めてこのお屋敷を案内してもらった時、廊下に飾られた鎧兜について古高さんにこう質問しました。『刀はないんですか?』と。彼は刀はもともとないと答えたそうですが…」
「うちは見ました」
 娘がきっぱりと言った。
「子供の頃、こっそりここに忍び込んだ時、鎧兜にはちゃんと刀がありました。よう憶えとります。うちはそれを見て怖くなって逃げたんやから。そやから古高さんから刀はもともとないって言われた時に変やなあって思うたんです」
 続いて女刑事が口を開く。
「八尋さんからそのお話を聞いて、私は当時の現場写真を確認しました。写真の中に鎧兜が写っている物がありましたが、そこにも刀はありませんでした」
「かえで先生」
 そして低い声がたたみ掛ける。
「陽一郎さんは亡くなる半年ほど前、何日も部屋に引きこもって出てこなかったことがあったそうですね。先生は料亭の経営のことで悩んでいたとおっしゃいましたが、本当にそうだったのでしょうか。誰にも会いたくないくらいショックを受ける出来事…もしかしたら何かのはずみで自分は家光さんの実子ではないと知ってしまわれたのではないでしょうか」
 私はまた驚愕する。そうか…そうかもしれない。あの時のふさぎ込み様は尋常ではなかったから。
「和美さんと古高さんが話しているのを聞いてしまったのか、それとも血液型の嘘に気が付いたのか…それはわかりません。ただどんなに覆い隠しても、真実とはふとした拍子にこぼれ出ることがある。いつまでも偽りを保つことの方が難しいんです」
 刑事は立ち止まらずに続ける。
「そよかさんが鎧兜の刀を見たのも同じ二十年前です。確かにあったはずの刀が陽一郎さんが亡くなった後の写真では消えている。通報したのは先生、あなたでしたね。もしも刀が消えたのがご主人の亡くなった夜だったとしたら…」
 その瞬間、あの夜の光景が雷鳴をまとって私の脳裏に蘇った。

***

 激しい雨が降っていた。引きこもり以来、酒の量が日に日に増えていたあの人は深酒をして深夜に帰宅、その言動はとても荒れていた。目が当てられないほど自暴自棄になり、「もう限界だ」「自分はここにいてはいけない」「薄汚れた存在だ」とくり返すばかりで、全く要領を得なかった。最初は晃の血液型の嘘がばれたのかと思ったがそれにしては私を糾弾する様子は何もない。むしろ私に詫びる言葉さえ漏らしていた。料亭の経営は何度も危ない橋を渡って維持されてきたと聞く。そんな汚い帳簿のことを嘆いているのかと私は解釈した。陽一郎さんも晃と同じまっすぐな人だったから。
 しかしそうではなかったのだ。自らが母親の不義の子だと知り、徳岡家当主として生きていたあの人の世界は足元から崩壊していたのだ。一時間ほどだったか、わめき続けた後、雷鳴が轟いて陽一郎さんの瞳には狂気が宿った。あの人はこう言ったのだ…「晃を殺して自分も死ぬ」と。
 どうしてそんな結論になるのかその時の私にはわからなかった。今にして思えば、徳岡家光の血を引いていない自分と息子には後継ぎの資格がない、だから消し去らねばと思い至ったのだろう。
 あの人の血走った目は裂けそうなほど見開かれ、両方の口角は不自然なほど上がっていた。それを見た時私は思ったのだ…悪魔、悪魔が憑りついていると。本気で晃を殺そうとしているのだと。
 あの人は私をはねのけると晃の眠る部屋へ向かおうとした。もはや一国の猶予もない。守らねば、晃を。もうそのことしか考えられなかった。私は飾られた鎧兜の刀を抜き、その錆びた一振りをあの人の後頭部目掛けて打ち下ろした。
 悲鳴もなく深夜の廊下に一つのむくろが崩れる。悪魔は陽一郎さんの精神を解放し、代わりにその生命を奪い去って消えた。
 聞こえるのは激しい雨音と遠い雷鳴、けたたましく鳴る鹿威し、そして自分の乱れた息遣いのみ。
「奥様」
 ふいに声がして心臓が止まる。振り返ると古高が立っていた。彼は何も言わずに動かなくなった陽一郎さんを運び、鉄製の棚の角にもう一度頭をぶつけさせそこで倒れたように見せかけた。
「これは私が処分致します」
 そして私の手から刀をもぎ取る。
「古高、何を言うてるの」
「陽一郎様は酔って転んで自分で頭を打たれたのです。そう警察に通報してくださいませ」
 穏やかに笑む使用人。
「そんな、そんなことできるわけないやないの」
「奥様に罪はございません。それにあなたまでおられなくなったら誰が晃様をお守りするのですか」
 座った目で諭される。私は応じた。どうして彼がそこまでしてくれるのか、混乱していた私に考える余裕はなかった。そして震える指先を電話のダイヤルに掛けたのだ。
「もしもし、警察ですか。しゅ、主人が…」

***

「先生」
 刑事の声が私を現実へと引き戻す。
「ただ刀がなくなったというだけで、その夜に起きたことを断定することはできません。本当に転んで頭を打たれたのかもしれないし、そうではないかもしれない。ご存じなのは先生だけです」
 立てていた指が下げられる。この子にはきっとわかっているのだろう。ただ推理…いや推測の域を出ないことを警察官としては口にできないのだ。古高もこれについてはきっと口を閉ざしているに違いない。血液型でもDNAでも、殺意までは証明できないのだから。
「教えてください、先生」
 愛しい教え子に頭を下げられても私は何も言えなかった。今更保身の気持ちなど微塵もない。ただ晃とそよかを殺人犯の子供にしたくなかった。実の父親を実の母親が手に掛けたと知らされて子供たちはどうなる? 目の前の漆黒の二つの瞳は少しだけ切なそうに細められていた。
 ふっとやわらかい風が部屋に舞い込む。見ると日はさらに傾き黄昏があでやかに庭を染めていた。もみじは風にそよぎ、風に揺られ、そして…散らない。
「そういえば」
 突然穏やかな声で彼が言う。
「僕、先生に謝らなくちゃいけないことがあります」
 顔を上げた教え子はハットを脱ぐ。そこには刑事になる前の懐かしい笑み。
「最後の授業で先生が出された宿題です。まだ全然できてなくて、一生かけてやるように言われたんですけど…憶えていますか?」
 最後の授業…京都へ連れ戻されることになったダメ教師の、人生最後の授業だ。五感が一瞬にして鮮明な記憶の中へ引きずり込まれる。あれはそう、2学期の最終日…。

***

 まるで甲子園球場のように緑色の蔦が外壁を覆う古い木造校舎の小学校。
「みんなとお勉強するんは今日が最後になりました」
 窓には澄んだ冬空が広がる6年1組の教室。
「急な話でほんまに、ほんまにごめんなさい」
 黒板の前に立った私は教え子たちに深々と一礼。その頭の中で生徒一人一人の名前を念じてから顔を上げた。
「3学期の授業は教頭先生が代わりにやってくれはるから安心してな」
 優しく微笑む。するとお茶屋の娘の女の子が「嫌だ」と呟く。
「嫌だよ先生、あたし、先生の授業がいい!」
「僕も!」
「俺だってそうだよ」
「先生やめないで!」
 運動会の玉入れのように、生徒たちから次々と言葉が飛んでくる。私はぐっと両手の拳を握り顎を反らして涙を耐える。そして声が止むのを待ってそっと頷いた。
「ありがとな。みんなの卒業式が見られへんのは残念やけど、そんなふうに言うてもらえて先生はほんまに幸せや」
 生徒の何人かは潤んだ瞳で鼻をグズグズ鳴らしている。そのまま涙の大合唱になってしまいそうだったので、私はパンと手を叩く。
「ほな、先生から最後の宿題を出します。プリントはありまへん、口で言います。そやからみんな、ちゃんと心のノートにメモしといてな」
 子供たちは唇を結んで背筋を正す。
「準備はええ? 言いますよ。最後の宿題です」

***

「先生」
 声変わりした教え子の声で私は再び我に返る。
「この調子じゃ僕、きっと一生かかってもできそうにありません。でも先生、あの宿題のおかげで今日までやってこれたと思ってます。本当にありがとうございました」
 彼は深く一礼すると、またゆっくり右手の人差し指を立てた。
「一つ、友達と家族を大切にすること」
 得意げに語る教え子。また涙が滲んでくる。
「二つ、努力なしに良い結果を期待せぬこと」
 ずっと…憶えていて…くれたのね。こんな、こんなダメ教師の戯言を。
「三つ…」
 彼の声に合わせて私も言った。もう宿題を採点する資格のない自分だが、せめてこの子たちの手本ではありたい。

「身の周りは常に綺麗にしておくこと」