第四章 油菜小路の変

●ムーン

「なんか懐かしいわあ」
 11月7日午前。京都駅の改札を出ると第一声に八尋そよかが言った。
「しばらく帰ってへんかったけど、やっぱり京都はええなあ。空気からしてちゃうわ」
 さっきまで一緒に新幹線に乗っていたのだが、彼女はずっとノートパソコンで年明け放送予定の特番『おしゃぶり昆布の名刑事(仮)』の企画書を作っていた。まったく、まだあきらめていないのか。小さく溜め息をつく私に彼女はゆっくり振り返る。そして穏やかな笑みで告げた。
「お越しやす、ムーンさん」
「あ、はい」
 どう答えてよいかわからずそう返した。どうもリズムが狂わされるな、私は咳払いすると仕事口調に戻す。
「ではさっそく晃さんのご実家へ参りましょう。事前にアポは取ってますから」
「ほんまムーンさんは情緒がないわ、せっかくの京都やのに」
「観光じゃないんです。晃さんの実家にはここからどうやって行けばいいんですか?」
「ちゃんとエスコートしますよって、心配せんといてください。あのお屋敷は西陣にあります」
「西陣って西陣織の西陣ですか?」
「それしかあらへんやないですか。上京区の一部の地域をそう呼ぶんです。ここは下京区やからバスで近くまで行って歩くんが一番簡単や。ほなバス乗り場へ行きましょう」
 駅の外へ出るとそこには学生服の一団がいた。水色よりも青に近い空の下、リュックサックを背負った彼ら彼女らはキャッキャッとその抑え切れない興奮を笑顔とお喋りで交し合っている。
「修学旅行の高校生やな。やっぱ若い子は肌のつやがちゃうわ。うちらはもうあんな短いスカートは履けへんもん」
「そうですね」
 私は大いに同意する。
「でも楽しそうでええなあ。ムーンさんの修学旅行はどうやったんですか?」
「ええ、まあ普通です」
「つれへん返事やなあ」
 あまり思い出したくない高校時代を過ごしていた私にとってその話題は少々きつい。そこでちょっと強引に話の方向を転換する。
「先ほど晃さんの実家を『あのお屋敷』っておっしゃいましたけど、行ったことがあるんですか?」
「うちの実家も西陣で、地元じゃ有名ですもん。子供の頃からあのお屋敷の中をじっくり見てみたいと思うとったから、これで願いが叶います」
 そよかは家の中まで私に同行するつもりなのだろうか。それを尋ねようとした時、思わぬ声が私を呼んだ。
「ムーンさん!」
 京都に私の知り合いはいない。しかもその恥ずかしいニックネームを知っているのは警察関係のごくわずかな人間だけのはず。それなのにこの地で私をムーンと呼ぶ者はいったい誰? 声がした方を振り向くと、修学旅行の一団から一人の女子高生が駆けてきた。
「やっぱりムーンさんだ、お久しぶりです!」
 淡く笑んだその少女と過去の事件の記憶が重なる。
「もしかして赤井…赤井このみさんですか」
「よかった、憶えててくれたんですね。うわあ、懐かしい」
「もちろん憶えています。お元気そうですね。修学旅行ですか」
「はい、今日は一日京都市内の観光なんです」
 赤井このみ…彼女と知り合ったのは二年前、彼女が中学3年生の時に巻き込まれた事件でのこと。あの時はボブの髪を真っ赤に染めていたが今は黒のセミロングを肩まで垂らし、緑色を基調とした高校の制服に身を包んでいる。容姿が少し大人びて見えるのは一回り背丈が大きくなっているせいもあるだろう。
「大人っぽくなられましたね。一瞬わかりませんでした。赤井さんこそよく私がわかりましたね」
「そりゃもちろん! あたしの人生の中でムーンさんより綺麗な人に会ったことないですから」
 屈託なくそんなことを言われても困ってしまう。隣のそよかが一瞬ムッとした顔をする。
「ムーンさんはどうして京都にいらしたんですか?」
「ちょっと事件の捜査で出張です」
「そうなんですね。カイカンさんは一緒じゃないんですか?」
「警部は東京にいらっしゃいます」
 そこでそよかが私の肘をツンツンと小突いた。
「なあムーンさん、この可愛い子はどちらさん?」
「こちらは赤井さんという方で…」
 説明しかけるとこのみの友人らしき少女も駆け寄ってくる。こちらは茶髪のポニーテール。
「ちょっとこのみ、何してんの? もうすぐ点呼始まるよ。この綺麗なお姉様方は誰?」
「すみれ、前に話したことあるでしょ。あたしが事件に巻き込まれた時に助けてくれた刑事さん」
「あ、あの時の! 初めましてカイカンさん、うち、橘すみれっていいます」
 目を輝かせて挨拶してくれるのは有難いが、その間違いは心から勘弁してほしい。
「ちゃうちゃう、この人はムーンさん、カイカンはんの部下や」
 そして訂正するのは何故かそよか。
「うちは八尋そよか、東京ピーチテレビのディレクターどす」
「うわ、このみ、今の聞いた? めっちゃ可愛い京都弁。しかもテレビのディレクターだって、すごくない?」
 まさに箸が転げるだけでもおかしい年頃なのか、すみれは一人で笑って大騒ぎしている。
「あの、橘すみれっていいます。実はうち、推理作家を目指してて…ピーチテレビでやってるサスペンスもよく見てます!」
「そうなんや。それやったら将来一緒に仕事ができるかもしれへんね。頑張ってや、すみれちゃん」
「はい、頑張ります! うわあ、やっぱ京都弁がめっちゃ可愛い。そよか姉さんって呼んでもいいですか? よかったらメアド交換してください!」
「ええよええよ。今度すみれちゃんが書いた小説読ませてえな」
「感激です! 実はせっかく京都に来たから歴史ミステリーを一本書きたいって思ってるんです」
 嬉しそうに番号とアドレスを交換する二人。男相手だけかと思ったら、そよかのコミュニケイション能力は若い女子にも効果抜群らしい。
「すみれちゃん、京都観光はどこ行くん?」
「はい、午前中は金閣とか銀閣とかあと清水寺とかの定番コースです。午後からは自由行動なんでこのみとブラブラする予定です。このみ、どこだっけ、行こうって言ってたお店」
「池田ショッピングパークでしょ」
「そうそう、そこも行く予定です」
「ナイスチョイス。お土産のバリエイションなら池田ショッピングパークが一番や。それと池田ショッピングパークの裏にある喫茶店の抹茶アイスは絶対食べてな。めっちゃおいしいから」
「はい、ありがとうございます」
 このみも微笑む。
「でもなんでムーンさんがテレビ局の人と一緒にいるんですか?」
「うち、今カイカンはんを取材しとるんや。年明けに特番をやろうと思うて。そうや、このみちゃんもカイカンはんと知り合いなんやったら今度インタビューさせてえな。カメラマンも連れていくから、巻き込まれたっていう事件の話を聞かせてえな」
「だから取材はしませんって!」
 私が制しても若きテレビディレクターの暴走は止まらない。
「頼むで、このみちゃんならええ絵が撮れるわ」
「無理です無理です、テレビなんて」
 慌てる彼女には二年前のあどけなさの面影があった。私は声を大にする。
「八尋さん、いい加減にしてください。捜査の協力に来たんじゃないんですか」
「ほんまムーンさんは情緒がおまへんなあ。旅は道連れやないですか」
「おーい、赤井、橘、何してる!」
 引率教官らしき男性が呼んでいる。
「じゃあもう行きますね。ムーンさん、会えてよかったです」
「こちらこそ」
 笑顔で別れを交わす私たちの隣では、そよかとすみれがまるで旧知の間柄のように別れを惜しんでいる。そして修学旅行の一団へ戻っていく女子高生二人。
「一期一会、旅の醍醐味やなあ」
 しみじみと言うそよか。本当に思わぬ再会だった。
 私たち警察官は悲しみの中で色々な人に出会う。そして事件が終わればまたそれぞれの日々へと離れていく。けっして一緒に生きていくわけではない。それでも…不幸の中で出会った人たちだからこそ、その幸せを願わずにはいられない。
 遠ざかっていく少女の後姿を見ながら私はそんなことを思った。

 徳岡晃の実家はそよかがお屋敷と呼ぶのも納得だった。まずはその敷地の広さが尋常ではなく、住所に到着しても白壁伝いに歩くこと数分、ようやく正門までたどり着くことができた。その門構えもまるで時代劇に出てくる奉行所のような風格で、さすがに江戸時代からの建物ということはないだろうが、徳岡家が由緒正しい家柄であることは十分過ぎるほど伝わってきた。
「すごいお屋敷やろ?」
 そよかに言われて私は素直に頷いた。
「はい。これ全部がお家なんですか?」
「料亭の徳岡屋もこの敷地の中にあります。そっちは別の門から入るんやけど。こっちは住まいの方の玄関です」
「お詳しいですね。では」
 私はインターホンを鳴らす。
「どちら様でございましょう」
 間もなく答えたのは年配の男性の声。
「お電話でお約束した警視庁の者ですが」
「少々お待ちを」
 待つこと数分、使用人とおぼしき白髪の男がやって来る。彼は愛想笑い一つなく「古高と申します」と挨拶した。インターホンで応対してくれたのと同じ声だ。
「奥様がお会いになられますのでこちらへどうぞ」
「お言葉に甘えまーす!」
 そよかはいつもの調子で返したが厳粛な雰囲気をまとった彼はやはりニコりともしない。彼女を同席させるべきかは迷ったが、晃からすれば妻の親友というポジションでありけっして赤の他人ではない、そんな彼女にいてもらった方が相手も自然体で話してくれるのではとの目論見から一緒に面会することとした。
「入られたらお履物をお脱ぎください」
 門から続く石畳を進んで玄関に到着、木造の引き戸が引かれるとこれまた大きな土間。きっと私の住んでいるワンルームよりも広い。そよかと揃えて靴を脱ぎ、また古高の案内で細い廊下を進む。本当に広い平屋造りだ。しばらく行くとまずはその曲がり角に鎮座する物が目を引いた。
「この鎧…」
 そよかが反応。
「こちらは戦国時代の武将が着用していた鎧兜でございます」
 古高が説明する。大きな五月人形かと思ったらまさか本物とは。よく見ると実際の刀傷もついている。ただ鎧自身は帯刀していなかった。
「刀はないのですか?」
 私が尋ねると古高は「最初からございません」と答えて先に進む。私たちも続いたが、そのことが不思議だったのかそよかは何度か振り返って鎧を見ていた。その後にも千利休の弟子が使った茶器だの、戊辰戦争で用いられた銃器だの、そういった物が廊下の所々に陳列されていた。まるでちょっとした歴史博物館、本当に修学旅行に来ているような気分になる。
「こちらで少々お待ちください」
 通されたのは中庭に面した二十畳はありそうな和室…襖を取っ払えばもっと和室が続いているのだろう。まるで柔道場だ。そのほぼ中央に敷かれた二枚の座布団にひとまず私たちは正座。「ご無礼致します」と出ていった古高に頭を下げ、その足音が遠ざかってからようやく二人で一息。
「ああ、緊張したわあ」
 そよかが大袈裟に畳に上半身を投げ出す。
「噂どおりのすごいお屋敷や。特集したら一時間の番組も組め層や」
「噂って何です?」
「子供の頃にお父さんやお母さんによう言われたんです。徳岡のお屋敷は怖い所やから絶対に近付いたらあかんって。でも行くなって言われたら行きとうなるやないですか。特にうちは好奇心が旺盛な子供やったから。何遍かこっそり見に来て、一遍だけちょこっと忍び込んだこともあります。ただこわなってすぐに逃げてまいましたけど」
 まさに三つ子の魂百まで。彼女が取材好きのテレビディレクターになったのもわかる気がする。
 ふと見上げると正面の壁の高い位置にずらりと大きな人物画が並んでいる。小学校の音楽室に飾られている作曲家の絵さながらだ。描かれているのはいずれも正装の男性であり、古い物はその装いから江戸時代や明治時代の人物であることがわかる。
「あれは徳岡家の歴代当主の絵やね」
 私の視線を追ってそよかが言った。
「一番右の人が晃さんのお父さんや」
「ああ、確か事故で亡くなられた方ですね」
「そうです。結婚式のムービー作る時に写真を見たことあるから憶えてます。お名前は…陽一郎さんやったかな」
「そう…ですか」
 少し身震いした。三百年の伝統を誇る料亭・徳岡屋。ずっと順風満帆だったはずはない。江戸から明治、大正、昭和、そして平成へと時代のうねりを越えて続く老舗の店には、きっと歴代当主の並々ならぬ情念があったに違いない。
 そのまま言葉を失っていると遠くで鹿威しが鳴る音。見ると中庭にはもみじの木が植えられており、風が吹いてそこから緋色の数枚が散り落ちていた。

 やがて廊下から近付いてくる足音。そよかは崩していた上半身をすぐに立て直した。襖が引かれて入ってきたのは50代半ばの女性…結婚式の写真で見た晃の母親、徳岡家の現当主の未亡人だった。本日も紺色の着物に身を包み、こちらを全く見ないまま2メートルほどを挟んで私たちの対面に正座する。ようやくすっと視線は上げられたが、言葉は何も発されずそのまま数秒の沈黙が流れた。私は固唾を飲む。
「徳岡かえでどす」
 ついに口火が切られる。とてつもない眼力…その漆黒の瞳は心の内を全く覗かせない。圧倒されて返事をするのがワンテンポ遅れてしまう。
「警視庁の…む、ムーンと申します」
 ああどうして私はこんなニックネームなのだろう。この空気でこんな名を名乗るのはある種の拷問だ。しかし彼女は特に表情を崩さなかった。
「本日は少々お伺いしたいことがあって参りました」
「左様どすか、賜りましょう」
「ではさっそくなのですが…」
「失礼致します」
 私の言葉は遮られる。見ると襖が引かれて和服の女性がお茶を乗せたお盆を手に入ってきた。襖を開け閉めする際には床に正座する丁寧な所作。彼女は私、そよか、そしてかえでと順番に湯呑みを振る舞う。その間は誰も口を開かない。
「ありがとう岸本さん。下がってええ」
「ご無礼致しました」
 かえでの一言を受けて彼女が退室。そしてふすまが閉まると女当主が静かに言った。
「粗茶ですがお上がりください。お口に合えばよろしいんやけど」
 えっとこれは…まさか婉曲表現? すぐ帰れって意味? 戸惑っていると隣から「これは飲んでええやつです」と小声でアシスト。そういえば緊張して彼女を紹介するのを忘れていた。どこかのタイミングでそれも伝えねばと思いつつ、ひとまず私は湯呑みを両手でそっと口に運ぶ。渋い番茶だ。まるでお茶のコマーシャルの演出のように、遠くでまた鹿威しが鳴る。
「飲めんことありません。ええお味です」
 一口飲んでからそよかが返す。ちょっとハラハラしたが、対面の彼女は無表情のまま「恐縮です」と頭を下げた。
「それで、はるばる東京の刑事さんがどないなご用件やろか」
「はい。あの…徳岡寧々さんのことはお聞き及びですか?」
「一昨日連絡をもろうとります。土手から通り魔に突き落とされたと…ひどい話どす。ほんまはすぐお見舞いに行かなあかんのやけど、まだガラス越しにしか会われへんと聞きました。一般の病室へ移られたらすぐ行こうと思うてます」
「そうでしたか。あの、ご連絡はどなたから?」
「息子の晃どす。可哀そうに、随分消沈しとる様子やった。無理もないわ、ほんまに寧々さんのことを好いとったから。根ねさんも気立てのええ娘さんで、晃のためにほんまにようしてくれはりました」
「晃さんから最後に連絡があったのはいつですか?」
「昨日のお昼頃どす」
 まだ逃亡する前か。はたして、彼女は息子が現在失踪中であることを知っているのか。
「あの、実はですね」
 私は彼への容疑についてはなるべく強調しないようにして、晃が突然逃げるようにいなくなってしまったことを説明。その間も彼女は表情をほぼ動かさず、吐息のような弱い相槌だけを打っていた。そして聞き終えてからわずかに漆黒の瞳を細める。
「つまり、うちの息子が昨日から行方不明っちゅうことどすか。しかも警察に疑われて逃げとると」
「その、直接的な嫌疑をお掛けしたわけではありません。何度か事件についてのお話を伺っただけで」
「それやったら逃亡中いうんは大袈裟やあらしまへんやろか。あの子は確かに純粋過ぎる所はおますけど、その分えらくまっすぐな性分どす。人様に悪いことしてそのまま逃げてまうなんて…考えられまへん。しかも寧々さんをどうこうするなんて…天地が引っくり返っても絶対おまへんわ」
「では、晃さんは今どこにおられるのでしょうか」
「それは…それはわかりまへんが、男には一人になりたい時があるんやおまへんか? 死んだうちの人もそうやった。何日も誰とも会わずに部屋に閉じこもりはった時がありました。そやけどちゃんと戻ってきなはりました。晃も、寧々さんが大変なことになってもうて、一人で気持ちを整理したいんとちゃうやろか」
 彼女の瞳の漆黒がさらに深まる。
「大の大人が一日連絡が取れんだけで、警察は犯人やと言わはるんどすか?」
 穏やかだが毅然とした声だった。彼女の後ろに飾られている白い象牙が余計にその迫力を引き立てる。加えて頭上からは歴代当主からのいくつもの視線。耐え難い圧迫感。しかし…とそこで私は膝の上の拳を握る。気圧されてはいけない。ここは心理ではなく論理で抗さねば。
「寧々さんは襲われた時、手にドリンクを持っていました。そして襲われた拍子にそれを落とし、中身が犯人の足に付着した可能性があるんです」
 私は彼女の眼光に正面から切り込んだ。
「晃さんの靴から同じ成分が検出されています」
 広い和室を緊張が貫く。遠くでまた鹿威しが鳴った。沈黙のまま対峙する私と彼女。隣のそよかは何も言わない。
「刑事さん、ええ根性してはるわ」
 かえでの口元が初めて綻んだ。そしてゆっくり笑みを見せる。
「うちの会社の重役会議でも今みたいにすごんだら大抵のお人は引き下がりはるんやけど、刑事さんは真っ向ショウブされはった。ほんまええ度胸、うちの社員に欲しいくらいやわ」
 彼女はそこで一口お茶を飲む。
「警察にもそれなりの根拠がおありなんは承りました。そやけど私はあの子の母親どす。そう簡単に息子を殺人犯なんて信じとうない。晃の靴にくっついとった飲み物にしたって…ちなみにそのドリンクっちゅうんは何なんどすか?」
「すいません、それは捜査上の機密なので申し上げられません」
「そうどすか、まあええわ。そのドリンクが何やっても、世界に一つだけのもんっちゅうことはおまへんやろ。おんなじもんが世の中にぎょうさんあるんやないどすか?」
「それは…否定できません」
「それやったら晃の靴にたまたまの偶然でおんなじドリンクがくっついとってもおかしいことあらへんなあ。私にはあの子が犯人やとは思えまへんけど…変やろか」
 穏やかな語りだった。私も言葉の切っ先を下ろす。
「お母様としては当然のお気持ちです。ドリンクのことについても、それが決定的な証拠になると警察も考えてはおりません。言葉が過ぎたことを謝罪致します」
 私は深く頭を下げる。
「そもそも晃が寧々さんを襲う理由が見当たりまへん。夫婦喧嘩でもしとったんどすか?」
「まだ…はっきりしません」
 顔を上げて私は濁した。寧々の浮気疑惑をここで議論しても仕方ない。
「そうどすか」
 独り言のように呟く女当主。そのまま室内はまた沈黙しかけたが、ふいに隣の若きテレビディレクターが口を開いた。
「うちもお話させてもろうてええですか?」
 かえでが目を丸くしてそよかを見る。
「自己紹介が遅れました、うち、八尋と申します。よろしゅうおたの申します」
「八尋…下のお名前は何とおっしゃるの?」
「そよかです。うち、寧々の親友なんです。結婚式にも参加しました。その時にかえでさんの姿も見とります」
 かえでは一瞬戸惑いを浮かべてからぱっと明るい顔を見せた。
「あら、そうやったの。随分可愛い刑事さんやなあと思うとったんどす。寧々さんのお友達…ごめんなさいね、結婚式の時はお偉いさん方の対応に追われてもうてお友達にまで気が回らんで。堪忍してください」
「ええんです、新婦の友人にまで気を回しとったら大変ですから。それよりうち、ここにお邪魔させてもろうて…こんな時に不謹慎かもしれまへんけど、とっても有難いと思うとるんです。実はうちも京都の出身で」
「それはお話の仕方で丸分かりどす」
「あ、そうですよね、すいません。それで子供の頃…」
 ここでさすがのコミュニケイション能力が発動、彼女は子どもの頃からずっとこの屋敷の中を見てみたかったことを面白おかしく語った。両親から恐ろしい屋敷だから近付くなと言われていたというくだりではかえでもせつなそうな目をしたが、彼女が中を見ようと白壁を登って落ちた話、こっそり忍び込んだが窓を覗いで見えた鎧兜に驚いて慌てて逃げた話などでは声を出して笑ったりもした。最初の厳しい眼光の時と同一人物とは思えないくらいだ。
「ホホホ、お転婆な娘さんどすなあ。そんなことせんでもいつでも中を案内してさしあげましたのに」
「今日拝見できて驚きました。歴史博物館みたいやなあって」
「あの鎧兜は応仁の乱で使われた物やそうどす。まあほんまかどうかわかりまへんけど」
「えっと応仁の乱っていつでしたっけ、確か憶え方がありましたよね。…何やったかな」
「ひとよむなしく応仁の乱で1467年どす。人寄るな応仁の乱っちゅう語呂合わせもありますけど」
「そうや、そうでした。京都での内乱ですよね。それで京都の街のかなりが燃えたって勉強しました」
「そうどす。ただし語呂合わせで年号を憶えるとその年だけの出来事みたいに思うてまいますけど、実は応仁の乱は1467年から十一年間も続いとるんどす」
「そうなんや」
「この辺りの西陣いう通称も応仁の乱の時の陣地が由来どす」
「すごい、かえでさんも歴史がお好きなんですね。まるで学校の先生や」
 そよかは本当に会話を転がすのが上手い。室内の緊張もいつしか和らぎ、同席してもらってよかったと私はこっそり思う。
「あら、そう? 実は結婚する前、少しだけ小学校の先生をしとったんどす。もう何十年も昔のことやけど」
「それやったら質問があります、先生!」
 そよかがおどけて右手を挙手。かえでも笑って「はい、八尋さん」と応じた。
「昔からずっとようわからんことがあったんです。江戸時代の終わり、幕府の開国政策に反対して維新志士は幕府を倒そうとしたんですよね?」
「ホホホ、ほんまにおもろい娘さんやなあ。そうどす、いわゆる攘夷派の志士は外国を日本から遠ざけようとしたんどす」
「それやのにいざ明治維新が起こったら、新しい政府はめっちゃ開国政策をしたやないですか。岩倉使節団が外国を見に行ったり、文明開化で外国の文化を取り入れたりして。ほな何のための倒幕やったんです?」
 女当主はまた目を丸くする。私も彼女の指摘に驚いた。
「ほんまに…おもろい子や」
 かえでが漆黒の瞳を優しく細める。
「すいません、変な質問してしもうて」
「ええんどす、こういう単純な疑問が一番大事なんや。なんで攘夷派やった志士たちが作った新政府は開国を推進したんか…もちろん歴史学者なら筋の通った説明ができはるやろうけど、私は…筋の通った理屈よりも、そもそも人間っちゅうんはそういうもんやと感じます」
 彼女はお茶を一口飲むと、そよかと私に交互に視線を注いだ。鹿威しが控え目に鳴る。
「信念や理性だけで人間は生きとるわけやありまへんえ。私欲とか、情欲とか、保身とか、恋慕とか…色んな気持ちで揺れ動くもんどす。幕府を倒した人たちもそうやったんやないかなあ。色んな気持ちに振り回されて、迷いながら、翻意しながら、時には自分でもようわからんけど戦ったりもしながら、明治維新を成し遂げたんやないやろか。
 ほんまに初志貫徹で節義を突き通したんは新撰組くらいやないかなと思います」
「すごい、勉強になります」
 そよかが無邪気に笑む。
「実はこのムーンさんも新撰組みたいなお人です。差し詰め土方さんやろか」
 よく意味がわからなかったが彼女の言葉を受けてかえではあたたかく私を見る。
「そう…どすな。わかりました」
 いったい何がわかったんだろう。釈然としないままひとまず私は会釈。そしてその後もしばし日本史談義のお茶会が続いた。これ以上の収穫もなさそうなので私もそれに加わる。
「お喋りしてたら甘いもんが欲しゅうなりますね。柿でええどすか?」
 ふいにかえでが言った。来た、今度こそ、これは『早く帰れ』の婉曲表現!
「ではそろそろ…」
 そう私が言い掛けるとそよかが「はい、大好きです」と返答。
「それやったらちょっとお待ちください。剥いて来るわ」
 女当主はそつない身のこなしで立ち上がるとそのまま部屋を出て行った。
「八尋さん、いいんですか? 帰りなさいの合図なのに居座っちゃって」
「何を言う手はりますのん、今のはほんまのお誘いやないですか。わからんのんですか?」
 だからわからんっつーの!

 待つこと数分、お盆に切った柿を乗せたかえでが戻ってくる。振舞われたのは法隆寺の鐘の音が聴きたくなるほど甘くておいしい柿だった。
「お口に合いますやろか」
 そう問われて私たちはモグモグしながら頷く。
「ほんならよろしかった。たんと上がってください」
「恐縮です。あの…」
 せっかく和んだ空気ではあるが、やはり言うべきことは言っておかねば。
「もし晃さんから連絡があったら教えていただけますか?」
 かえではすっと真顔になる。
「刑事さんは私があの子をかくまうんやないかとお疑いどすか?」
「それは…」
「ええんどす、それが警察さんのお仕事やろうから。でもこれだけは言わせてもらいます。親は子どもをかばいますよ。それこそ命懸けで…他の何を犠牲にしても。それが親いうもんやと思います。そやけど…」
 また彼女の瞳の漆黒が深まる。
「そやけど、ほんまに子供らが悪い時はかばったりしまへん。その時は首根っこ掴んで私が警察に突き出します」
「…承知しました」
 もうそれしか言えなかった。私は一礼する。そこでふと黙ったままの隣を見ると、そよかは目を潤ませて柿を口に運んでいた。

 かえでは玄関を出てそのまま見送ってくれた。三人で石畳を進むとふわりと落ち葉が薫る風が吹く。見れば庭では先ほどの古高が竹ぼうきで掃除をしていた。
「ご苦労様」
 かえでが声を掛ける。
「お客様はお帰りですか。奥様、午後からのお見舞いはどうされます?」
「予定どおりで。昼食が終わったら車を回してください」
「承知致しました」
 一礼する古高。
「かえでさん、お見舞いって…どなたか入院されてはるんですか?」
 そよかが尋ねる。
「死んだ主人の母親どす。もうお歳だから仕方あらへんけど年々弱ってはって、施設におられるんどす」
「そうですか」
 彼女が呟いたところで私たちは正門にたどり着いた。
「本日はご協力ありがとうございました」
 私はもう一度頭を下げる。
「わざわざ京都までお勤めご苦労様どした。八尋さんもおおきに、寧々さんの回復を祈っとります」
「大丈夫です、寧々は絶対元気になります。うち、ハッピーエンドしか信じてへんから」
 そよかがガッツポーズ。
「ほんまおおきにな…八尋さん」
「こちらこそ、柿をご馳走様でした。めっちゃ楽しかった」
「私も楽しかったわ、特に歴史のお話なんか久しぶりで。先生をやっとった頃を思い出しましたよ。そういえばあんたみたいな奇抜な質問をする生徒がおったなあ」
 かえでは遠い日を思うように天高い秋空を見上げた。
「どんな質問やったんですか?」
「確かこんな質問どす。倒幕派の志士は江戸幕府を倒したかったのになんで江戸やのうて京都で戦っとったんですかって。ほんま、おもろい男の子やったわ」

「そう…逃亡中の晃さんからご実家に連絡は入ってないんだね」
 電話の向こうで東京の変人上司が言った。
「はい、母親はそうおっしゃっていました。ただもちろん、実際には連絡を取り合っている…あるいはすでに家の中でかくまっている可能性もなくはないと思います。とても大きなお屋敷でしたから」
「君の意見はどう? 勘でいい」
「そうですね…母親は気品があって優しい感じの人でしたけど、厳しい…と言いますか、心の底を覗かせない雰囲気のある人でした。なので…何かを隠しているような気がします」
「そう、わかった」
 低い声は穏やかに返す。
「お疲れムーン、報告は以上かな?」
「報告…と申しますか」
 私はスマートフォンを耳に当てたまま少しためらう。ここは公園のベンチ、昼下がりの淡い陽光が注いでいる。そよかは久しぶりの故郷を懐かしむように、落ち葉の積もった園内をブラブラ歩いていた。
「あの、警部がおっしゃっていた小学校6年生の時の京都弁の先生ですが」
 私は意を決する。
「お名前は何とおっしゃるんですか?」
「え? どうしてだい? 小寺先生だけど」
「下のお名前はわかりますか?」
「小寺かえで先生」
 やっぱり…なら間違いない。立ち去り際に確認したら、彼女が教師をやっていたのは広島の小学校だと言っていた。
「警部、晃さんの母親なんですが、お名前をかえでさんとおっしゃって、若い頃に広島県で小学校の先生をされていたそうなんですよ」
 電話の向こうは絶句する。私が彼女の容姿の特徴などを伝えると、低い声は小さく笑い、そしてしみじみと言った。
「そう…かえで先生だったんだ」
「すいません、事件と関係はないのですが、一応お伝えしておこうと思いまして」
「ありがとうムーン。こりゃ私もそっちへ行かなきゃいけない感じだな」
「え? 警部もいらっしゃるんですか。どうしてです?」
「そりゃあお世話になった先生に立派になった姿を見せたいからさ」
 立派になった姿…に見えるだろうか? そんな私の疑問などお構い梨に明らかにウキウキしている変人上司は「それじゃまた後で」と通話を切った。
「まったくもう」
 ちょっと悪態をついてスマートフォンをしまう。するとそれに気付いたそよかが駆け寄ってきた。
「電話終わったんですね。カイカンはん、うちのこと何か言うてはりました?」
「いえ、特には」
「え、ほんまですか? おかしいなあ、嘘ついたらあきまへんよ」
「本当ですって」
 あきれながら腰を上げる私。
「ムーンさんはこのまま東京へ戻りはるんですか?」
「いえ、警部もいらっしゃることになったんで」
「ほんまですか! やっぱりうちに会いとうなったんですね。カイカンはんと京都…おもろい絵になるわあ。カメラ回してええですか?」
「ダメです。何度も言いますがこれは取材じゃないんです」
「冗談や。そないにカリカリせんといてえな。せっかく女二人旅なんやから仲良うしましょう。そうや、ハグしましょ」
「遠慮しときます」
「そやから冗談やって。ほなお食事でも行きますか。柿だけやとお腹すきますもんね」
「そういえば、どうして柿を食べながら涙ぐんでおられたんですか?」
 彼女は数秒考えてから答えた。
「だって…誰かが剥いてくれた果物って優しさのかたまりやないですか。有難いなあって思うたらホロリときたんです。かえでさんの優しさが伝わってくる気がして。うちはあの人はええ人やと思います」
「そう…ですか」
 私にはわからない。その辺りを汲み取るセンサーが欠落していることはとうに自覚している。
「ほな、ランチに行きましょう! うちが案内します」
 くるりとスカートの裾を翻すと小柄なテレビディレクターは鼻唄で歩き出した。

 碁盤の目のように敷かれた通りをウネウネ進んでたどり着いたのは小さな商店街。その古びたビルに入って階段を上ると、薄暗い廊下にポップな書体で『スナック色鉛筆』と書かれたドア。
「ここです」
「あの、スナックって書いてありますけど」
「大丈夫大丈夫、お食事も出してくれはりますから」
「にしたってまだ昼間だからやってないんじゃ…」
「大丈夫やって。こんにちはー!」
 勢い良くドアを開けるそよか。カランとカウベルも鳴る。
「ヨシコママ、おる?」
 消灯されて客のいない…というか店員もいない店内。どう見ても営業中ではない。すると「はいはーい」とコーラスでもやっていそうなソプラノボイスが奥から返された。
「いらっしゃいませ…って、そよちゃんやないの! いつ帰って来たん?」
 エプロン姿で出てきたのは少しふっくらした体型にボリュームの多い黒髪を後ろでまとめた女性…50歳前後だろうか。そよかを見て飛び上がらん勢いで喜んでいる。
「今朝や。ヨシコママ、何か食べさせて」
 彼女は慣れた様子でカウンター席に腰を下ろす。
「何年ぶりやろか。そよちゃんの作った番組を見たいんやけど、こっちやとやってへんのよ」
「うちがやっとるのはまだ東京ローカルの番組やもん。でもそのうち全国に進出するから楽しみにしといてや。それより何か作って! 腹ペコなんや」
「相変わらずやなあ。おっと、そちらの別嬪さんはお連れ?」
「そう、ムーンさん。ほら、何してますのん、はよ座ってください。ここですここ」
 戸口で佇んでいた私をそよかが隣の椅子を叩いて呼ぶ。すごすごと座るとカウンターの向こうの彼女が女神のように優しく笑む。
「色鉛筆にご来店いただきありがとうございます、あたしはヨシコです。ムーンちゃんっていうのは素敵な源氏名やね、どちらのお店にお勤め?」
「いえ、その、源氏名というわけではなくて」
「ママ、この人は今うちが取材しとる警視庁の刑事さんの部下。ムーーンっていうんは仕事上のニックネームなんやって」
「そないですか。ほなジーパンとかマカロニみたいな、はあ…テレビドラマだけやと思うてましたけど、ほんまの刑事さんにもニックネームがあるんですね」
 いや、普通はないのだが…説明するのも恥ずかしいので私は笑って誤魔化す。
「ではお二人さん、ご注文はどないしはる? まずはお飲み物から」
「うちは生ビール!」
「こら、お日様が出てはるうちからお酒はあかんって言うたやろ」
「久しぶりに京都へ帰ったんやからええやん」
「あかんもんはあかん、今の時間帯はソフトドリンクだけになっとりますんであしからず」
「いけずやなあ」
 漫才みたいにテンポの良いやりとりの後で結局そよかはオレンジジュース、私は烏龍茶を注文した。すぐに二つのグラスが振る舞われる。
「じゃあママ、料理はお任せで!」
「アイアイサー!」
 バレエを踊るように軽やかに奥に消えるヨシコママ。同じ関西でも彼女は京都よりも大阪が似合いそうな感じだ。すると隣でそよかがフッと息を吐く。
「どうかされました?」
 私が尋ねると彼女はゆっくりかぶりを振った。
「どうもしまへん。ただ…久しぶりに来たんでちょっと気が抜けたんです。高校生の頃はしょっちゅうここにおったから」
「高校生でスナックに通ってたんですか?」
「ちゃうちゃう、非行少女やないですよ。アルバイトしとったんです。その頃からヨシコママにはようしてもろうて」
 漆黒の瞳が懐かしそうに店内を見回す。
「大学の時も帰省したら必ず顔出しとりました。でも就職してからはほとんど来られてへんかったんです。そやから…ここが変わってなくてよかったわ」
「なんだか八尋さんのルーツがわかった気がします」
「え?」
 彼女は驚いた顔で私を見る。
「人当たりの良さというか、相手の心を掴む上手さというか…八尋さんのコミュニケイションの力はこのお店の接客で培われたんじゃありませんか?」
「そんなふうに勝手にストーリーを作らないの!」
 真顔で言われて私は黙る。そして頭を下げて不用意な発言をしたことを詫びようとしたが…途端にそよかはケラケラ笑い出してしまう。
「すんまへん、うち、怒ってません。今のは寧々のセリフを真似したんや」
 私は下げかけた頭を戻す。
「昔、寧々に言われたんです。そうそう、結婚式で流すムービーを作る時や。うちが『晃さんのこと好きになったきっかけは?』とか『いつから相手の好意に気付いとったん?』とかって質問攻めにしたら、そんなふうにストーリーを作らないでって。きっかけとかいつからとかわからないって」
 彼女はオレンジジュースを一口。
「何でもかんでもルーツを見つけようとするんはテレビディレクターの職業病なんやなあって反省しました。テレビってひと筆書きのメディアなんですよ。視聴者は本みたいに途中で読むのを止めて考えたり、ページを戻して確認したりできへんから。それに少し見てつまらんかったらすぐチャンネルを変えられてまうし。
 そやからどうしてもこっちはわかりやすいようにルーツと今をつなげる演出をしてまうんやけど…ほんまの人生はそんなに単純やないですもんね。かえでさんも言うてはったけど人間って一つの気持ちで生きとるわけやないし、それこそ愛情がいつからあったかなかったかなんて、正直いつの間にやらですもん」
「私もですよ」
 珍しく頭で考える前に唇が動いた。
「事件の捜査でもつい都合の良いストーリーを作りそうになります。目の前の犯罪を解釈するために、わかりやすいルーツを見つけようとして、それで人を疑って…それが刑事の職業病です」
 そう、徳岡かえでの言葉はまさに真理。人間は揺れ動くもの、一本筋が通った行動なんてそうそうできるものではない。私も烏龍茶を一口。
「実際、自分のおこがましさが嫌になる時がありますよ」
「そうなんや」
 彼女は何故か優しく頷く。
「うちらお互い変な仕事しとりますね。フフフ、うち、ちょっとムーンさんのこと見直しましたわ」
「どういう意味です?」
「カイカンはんの特番の時はムーンさんにもインタビューもらいますね」
「絶対嫌です!」
 私がムッとすると彼女はまたケラケラ笑う。
「それにしてもなあ」
 そしてカウンターに向き直るとそっとグラスを置いた。
「恋愛ドキュメンタリーやったら愛情は気が付いたらそこにありましたでもええですけど、ムーンさんの仕事やとそうもいかへんですもんね。殺意がいつからどうして生まれたんか、ちゃんと解明せなあかん。もしほんまに晃さんが犯人やとしたら…なんでそんなもんが生まれてもうたんやろか」
 そう、結局はそこに立ち戻る。この事件の動機…徳岡寧々を襲った殺意はどこから来たのか。
「夕べカイカンはんとムーンさんが病院のロビーで話してはるのを聞いてまいましたけど、寧々には…浮気の疑惑があったんですか?」
 そよかは冷静に尋ねた。
「晃さんは一度疑ったことがあるようです。ただ物的証拠があるわけではありません。あの、寧々さんに…晃さん以外の男の影があったと思いますか?」
 ためらいがちに尋ねてみる。彼女は「ほんまに嫌な職業病や」と呟いてからこちらは見ずにはっきりと答えた。
「絶対ないわ、あの子に限って」

「お待たせいたしました!」
 ヨシコママがソプラノボイスで奥から現れる。そして無言になっていた彼女と私の前にそれぞれ皿を振る舞った。
「色鉛筆特製、元気焼きそばです。どうぞご賞味ください」
 また女神の微笑みが向けられる。そよかが「これやこれ、いっただきまーす!」と割り箸を割ったので私もそれに倣う。
「うん、食べれんことない。ママ、腕は落ちとらんね」
「生意気言わはるなあ。落ちるどころかメキメキ上がっとるわ」
 私も一口。そして思わず「おいしい」と呟いた。
「あ、ごめんなさい。京都ではおいしいって言っちゃいけないんでしたね」
「え? ああ、そんなん気にせんでええんですよ。あたしはストレートに言う方やし言われるのも好きやから。お口におうたんなら嬉しいわあ。どんどん食べて」
「はい」
 本当においしかった。一見普通のソース焼きそばなのだが独特の風味があって非常に食が進む。野菜がたっぷりなのも私好みだ。
「不思議な味やろ、ムーンさん。ヨシコママは隠し味の天才なんや。ねえママ、うちにも元気焼きそばの作り方教えてえな」
「あかんあかん、企業秘密でーす」
「いけずやなあ」
 ヨシコママの人柄と料理のおかげでその場の雰囲気も回復する。そして三人での会話に花が咲き、二人して焼きそばをたいらげた頃に店の電話が鳴った。
「はいはい、スナック色鉛筆です。あら野々村さん、どないしはったん?」
 歌うように受話器を取ったヨシコママだったが、表情が少し曇りソプラノボイスもテナーに変わった。
「そう、わかりました、気い付けます。ご丁寧にどうも。はい、おおきに」
「何かあったん? 野々村さんってあの町内会長の野々村さん?」
 受話器が置かれるとすかさずそよかが尋ねた。
「そうや。なんかこの近くで事件があったにゃて。男の人が頭から血い流して倒れとって、犯人が走って逃げたみたいや。まだこの近辺におるかもしれへんから気い付けてって言うてはった」
「ついさっきっていつ?」
「ほんまに今の今みたいや。男の人らがもめる声がして、たまたま通りかかった野々村さんが見に行ってみたら、その現場やったみたい。救急車と警察呼んで、今町内会に連絡網を回しとるって」
「ママ、場所はどこやの?」
「油菜小路やって。ほんま昼間から物騒やなあ」
 次の瞬間、椅子を倒す勢いでそよかが立ち上がった。
「ちょっとうち、見てくる」
「え? 何言うてんの、そよちゃん、危ないからやめとき」
 制止する彼女を無視してその小柄な体躯は店の外へ消えた。私も慌てて腰を上げる。
「私も行きます。お会計は後で」
「そんなんええですから、そよちゃんをお願いします。ああ、余計なこと言うてしもうたなあ、あの子の無鉄砲は全然変わってへんわ」
「失礼します。念のためドアは施錠しておいてくださいね」
 反射的に壁の時計を見る。午後2時ジャスト。っ私はそのままスナックを飛び出した。

 屋外へ出ると八尋そよかの後ろ姿はかなり遠くにあった。スカートの裾が舞い上がるのも構わず猛ダッシュ、あの小柄でとんでもない脚力だ。
「ちょっと待ってください!」
 私も髪を振り乱して呼び掛けながら、全速力でその後を追う。角をいくつか曲がってようやく追いつくと、彼女も私も肩で息をしていた。焼きそばの満腹のせいで脇腹も痛い。
「八尋さん、どういうことですか」
「だって事件やっていうから。これもテレビマンの職業病やね」
「それにいしたって、まったくもう」
 息を整えながら確認する。見るとちょうど救急車が到着したところらしい。
「この通りが油菜小路なんですか?」
「そうです。油菜小路いうんは通称やけど、昔は油菜の花がここにぎょうさん咲いとったからそう呼ばれとるみたいです。ねえムーンさん、ちょっとあそこにおるお巡りさんにお話を聞いてきてくださいよ」
「はい?」
「だってうちが訊いてもきっと教えてくれはらしまへんもん。でもムーンさんやったら天下御免の警察手帳があるやないですか。ね、お願いします。ね、ね!」
 可愛く両手を合わされても女の私には効果がない。だがまあ、一応状況だけ確認ということで私は救急車に近付いた。その場にいるのは救急隊二名、近所の交番から駆け付けたらしい制服警官一名、そして初老の男性一名…きっと目撃者の町内会長だろう。私の存在に気付いた彼らに警察手帳を示して会釈。
「ご苦労様です。すぐそこの交番におります近藤巡査です。あの、府警本部の方ですか? 随分お早いですね」
 制服警官が尋ねる。30代半ばの小太りの男だ。
「いえ、警視庁の者です。たまたま近くにいて騒ぎを聞き付けまして」
「はあ、そうですか」
 どうしたものか戸惑っているようだ。無理もない、いきなり管轄外の刑事が声を掛ける方が間違っている。
「傷害事件ですか?」
 こちらが尋ねると彼は反射的に頷いた。
「そうなんです、どうやら男二人が喧嘩しとったみたいで。それで一方が一方を突き飛ばしたら壁に後頭部をぶつけてしもうたようで」
 指差された壁には緋色の液体がべったり。私の脳内で徳岡寧々の事件現場で見た石段の下の血痕の映像がオーバーラップする。
「それをこちらの野々村さんが目撃されたんです」
 やはり初老の男性は目撃者だった。彼は私を見ると紳士的な振る舞いで一礼。
「たまげましたよ。タバコを買いに出たら言い争う声が聞こえてきて、なんやと思うて野次馬根性で見に来たら、ちょうどその場面やったんですから。壁に突き飛ばされた方はそのままズルズル倒れこんで、突き飛ばした方は私を見ると一目散に逃げて行きました」
「ちょっとどいてください、はい、すいません」
 救急隊員が言った。被害者を乗せたストレッチャーを救急車に積み込むようだ。私たちは邪魔にならないよう離れる。そして私はそこでようやく運ばれる男の顔を見た。
「どうして…」
 心の声が漏れる。そして自分の目を疑った。しかし何度瞬きして確かめても目の前の事実は変わらない。坊主頭に特徴的なゲジゲジ眉毛。

 ぐったりしてそこにいたのは、伊藤平助だった。