第三章 何故に私は京都へ行くの

●ムーン

「こいつや!」
 一夜が明けて11月6日の朝。捜査の進捗状況を教えてと警視庁に押し掛けて来た八尋そよかをいつもの部屋まで案内して例の写真を見せると、彼女は即座に反応した。
「8月18日のあの時、寧々を見張っとったストーカーはこいつや。このゲジゲジ眉毛、絶対間違いあらへん」
 彼女の興奮のボルテージはどんどん高まっていく。
「こいつ、この写真やと陸上選手の格好してますね。そうか、陸上部やから逃げ足が速かったんやな。ということはカイカンはん、こいつ、晃さんの知り合いですのん?」
 写真全体ではなく問題の男の部分だけ拡大した物を見てもらったのだが彼女は看破した。
「どうしてそう思われるんです?」
「晃さんが大学で陸上やっとったって聞いてますもん。大会でメダルももろうたって。ここに写っとるゲジゲジマンもうちが見た時より若い感じやし、それで晃さんの学生時代の部活の写真やないかなって思うたんです」
「ご名答。実は昨夜晃さんのご自宅へお邪魔した時、偶然見せてもらった写真なんですよ。八尋さんはこの男が誰かご存じですか?」
「うちは知らんけど…晃さんは何て?」
「彼には直接訊いてません。実はこの写真を手に取ってたら、洗面所から戻ってきた晃さんに『インスタントでよければコーヒーでも入れましょうか?』って言われちゃったんで」
 そう、それで警部はそそくさと退散することにしたのだった。コーヒーをいただきながら世間話に見せかけて写真の男の素姓を伺う方がよいように思えたのだが。私がそれを口にすると若きテレビディレクターは大袈裟に溜め息。
「何を言うてはりますのん、ムーンさん。コーヒーを入れましょうかって言うのはそろそろお帰りくださいって意味やないですか。ねえカイカンはん」
「そうですね、フフフ」
 変人上司は不気味に笑い、彼女は漆黒の瞳に優越感を称えて私を見た。
「まさか…また謎の京都の婉曲表現ですか?」
「何が謎なんですか、こんなん常識や。ムーンさん、もっと勉強せなあきまへんよ」
「ほっといてください」
 昨夜ビンさんから京都人についてのレクチャーは受けたが…やっぱりこの女はただ単に性格が悪いんじゃないのか?
「まあ、それはともかく」
 警部が咳払い。
「それでまずは八尋さんに写真を見てもらおうと思ったわけです。お呼び立てする前に来てくださって助かりました」
「カイカンはんのテレパシーが届いたんやな。やっぱりうちら運命なんや。このまま密着取材しましょうか。ほな、ハグしましょ」
「まあそれはさておき」
 すり寄る彼女をうまく交わして変人上司は話を戻す。
「ムーン、ゲジゲジマンの正体は判明した…といってもまだ名前も住所もわからないけどね。さてどうやって調べよう」
「やはり晃さんに確認するのが早いと思いますが」
 警部は少し唸る。
「でもねえ、もし晃さんとゲジゲジマンが共犯だったりしたら、逆にはぐらかされちゃうかもしれない」
「共犯ってどういうことですのん?」
 彼女の問いに警部はしまったという顔をする。
「晃さんがゲジゲジマンに頼んで寧々を襲わせたんですか? 何か晃さんが怪しい根拠があらはるんですか?」
「いやあの、そのですね」
 変人上司はつい口が滑ったらしい。
「あくまで、もしかしたらの話です。もしもそうだったら大変だっていう。八尋さん、すいませんが今の発言はご内密に」
「ええですよ、刑事はそうやって色々考えはるんですね、取材の参考にします。それに」
 そこで冷たい笑み。
「うちが大事なんは寧々だけや。仮に晃さんでももし犯人やったら…絶対許さへん」
 その迫力に一瞬室内の温度が下がった気がした。しかし彼女はすぐにいつものあどけなさに戻る。
「まああんなに寧々を愛してくれとった晃さんやもん、犯人ってことはないと思いますけど。きっとゲジゲジマンの単独犯です。
 そうや、ゲジゲジマンは晃さんの陸上部の仲間なんやったら、結婚式にも招待されとったんとちゃいます? そこで花嫁の寧々を見て惚れてもうて、叶わぬ恋と友情の狭間で苦悩して、それでついにストーカーにまでなってもうたんですよ。そうやそうや、これで一本につながるやないですか」
 警部と私は唖然。よくそんなにスラスラ想像できるものだ。
「いやあの、まだその人が犯人と決まったわけではないですよ。あくまで寧々さんを見張ってたってことだけで」
 私が言うと、そよかはあからさまに頬を膨らませる。
「犯人は別のストーカーやって言うんですか? いくら寧々が別嬪でもそんなにぎょうさん変態に狙われたらかなんわ」
「しかしですねえ」
「そないに言わはるんやったらムーンさんの名推理を聞かせてくだはりますか? うち、寧々をあんな目に遭わせた奴が憎いんや」
「まあまあ二人とも」
 口論になりかける私たちを低い声がいさめようとしたところで、あの穏やかな語り口が部屋に入ってきた。
「おはよう。今朝は賑やかだな」
「おはようございます、ビンさん」
 警部と私が揃って一礼すると、ミットの長は当然異分子に目を向ける。
「こちらのお嬢さんはどなたかな?」
「この人は…」
 私は説明しようとしたが、それより先に彼女は一歩前に出る。
「お初にお目にかかります。八尋そよかと申します。ピーチテレビのディレクターで、カイカンはんの取材をやらせてもろうてます」
「ああ、あなたが噂の。どうもどうも、カイカンの上司のビンです」
「よろしゅうおたの申します。ぜひ撮影の時はビンさんのインタビューもさせてください」
 深々と頭が下げられる…だからそうやって胸を強調するなっつーの! それに取材も許可してないし!
「ハッハッハ、まあそれは考えておこう。それにしても職場でまで京都言葉が聞けるとはな、とっても癒されるよ。うちのカミさんも京女でして」
「そうなんですか? これはええご縁やわ。奥様にもよろしゅうお伝えください」
「ありがとう。まあゆっくりしていきなさい」
「お言葉に甘えまーす!」
 数々の取材で培われた技術の賜物なのか、とにかく八尋そよかという女はこうやって距離感を詰めるのがうまい。昨日一緒に街に出た時もそう、彼女にかかればみんな事情聴取に快く応じてしまう…特に男は。
「それでカイカンはん、これからどう動きはりますのん?」
 それは私のセリフ!
「まあ犯人かどうかは別にしても、八尋さんがおっしゃるようにゲジゲジマンが学友として結婚式に参列していた可能性はありますね。つまり参列者名簿を調べれば、彼の名前や住所がわかるかもしれません」
「それやったらうちに任せてください」
 彼女が体躯に比して豊かな胸をポンと叩く。
「結婚式の手伝いをしたんで、名簿のデータとか預かったんです。座席表とか当日の写真とかもあります」
「助かります。さっそくチェックしましょう」
「それやったら今からうちの部屋に来てください。データはパソコンにありますから」
「わかりました」
 そして変人上司はまたしても勝手に決めてしまう。
「頼んだよ、ムーン」

 八尋そよかは想像よりもずっと地味なワンルームに暮らしていた。業界人ということで華やかなイメージを私が持ち過ぎていたのかもしれないが、若い女の一人住まいにしては妙に落ち着いた室内、その片隅のデスクトップパソコンの前に二人で座る。
「あーあ、またムーンさんと二人っきりや。当てがはずれたなあ。カイカンはん、思うたよりもガードが堅いわ」
 またそんな嫌味の独り言から始まる。
「あの、ご協力いただくのは有難いんですが、これは主剤じゃなくて捜査ですから」
「わかっとります。ほな始めましょう。ええっと、結婚式の時のデータは…」
 慣れた手付きでキーボードが叩かれる。小柄な彼女は手もスモールサイズだったがその動きはピアニストのように機敏だった。
「あったあった、このフォルダや。こんなんやったら当日の受付をやっとればよかったなあ、そうしとけばゲジゲジマンのことも記憶に残ったかもしれへんのに」
「当日は何をされていたんですか?」
「うちは式の途中で流すムービーを担当したんや。ほら、二人の生い立ちから出会い、愛を育んだ軌跡ってやつです。晃さんが陸上部やってのもそん時に聞いたんです。一応プロやから気合い入れて造ったら、寧々、めっちゃ喜んでくれました。ほんま嬉しかったなあ」
 彼女は数秒間だけ懐かしそうに漆黒の瞳を細めた。
「えっとそれで…ありました。これが当日の座席表、新郎の友人席は…FテーブルとGテーブルや」
「当日の写真はありますか?」
「わかっとります。ええと、式が終わって寧々からもろうたのが…」
 しばらくハードディスクの中を探しているが見つからないらしい。
「そうや、あれはUSBでもろうたんやった。ちょっとお待ちください」
 彼女は席を立ち近くの机の引き出しをゴソゴソし始める。手持無沙汰の私は軽く室内を観察…やはりあまり彩りのない部屋。ただ仕事の資料なのか、CDやDVDは大量に積み上げられており豪華な大画面テレビも置いてあるが、それ以外は質素で使えればいいといった感じの家具が並んでいる。思い出の品や家族の写真の類もない。故郷を離れて一人東京のテレビ局で働く…それには少なからずのたくましさが必要なのだろう。よく見ると衣類も無造作にベッドに脱ぎ散らかされていた。
「うちの部屋が何か珍しいですか?」
 私の視線に気付いたようで、引き出しを探る手は止めずにハスキーボイスが言った。
「あ、いえ…失礼しました」
「何ですのん? ああ、服が散らかしっぱなしやね。まあええやないですか、女同士なんやし。普段忙しゅうしとるからなかなか片付けられへんのや」
「今日のお仕事は大丈夫なんですか?」
「休みもらいました。この前担当したクイズ番組の編集が上がってゆっくりできるタイミングやったからちょうどよかったわ。次の仕事は年明けに放送するカイカンはんの特番やし」
「だからそれは…」
「あ、あったあった、これや」
 戻って来て着席すると彼女はUSBメモリーをパソコンに挿入。
「よし。ほなこっからはムーンさんのお力も借ります。ゲジゲジマンを見つけてください」
 当日撮影された写真が順に画面に表示されていく。驚いたのは想像していたよりも大規模で豪勢な式だったこと。会場も広く、参列者は少なく見積もっても二百人以上…まるでテレビで中継される芸能人の結婚式のようだ。これならそよかとゲジゲジマンが同じ会場にいたのにお互い憶えていなかったとしても無理はない。
「すごく盛大な式だったんですね。これは東京の式場ですか?」
「京都の式場です。寧々もそこそこのお嬢様やけど、晃さんはかなりええとこのお坊ちゃんやから、京都のお偉いさんとかもぎょうさん来て挨拶してはったわ」
「晃さんのご実家は何をされてるんですか?」
「『徳岡屋』っていう料亭です。関西ではトップ3に入る老舗で、創業三百年とか聞きました。昔は大名はんも食べに来たりしてはったみたいです」
「三百年とはすごいですね」
「京都にはそんなお店が多いんや。まあ三百年は珍しいやろうけど、百年とか百五十年なんてのはゴロゴロあります。なのに東京のお人は五十年くらいでも老舗とか言うてはるから笑ってまう」
 ここでもまた感覚の差。昨日彼女が大正時代から続く喫茶店を「たいしたことないわ」と言ったのもそういうことなら頷ける。
 私はパソコンの画面に目を走らせた。確かに親族や学友ではない人たちの姿もたくさん写真に写っている。徳岡屋を御用達にしているどこぞの社長やら議員やらかもしれない。
「この時の料理も徳岡屋からの持ち込みが多かったです。料亭だけやのうて、仕出し弁当の会社もやってはるから」
「晃さんもいずれはそのお仕事を継がれるのでしょうか」
「一人息子やからね、大切な後継ぎで、そのための修行として東京で営業の仕事をしてはるんです。まあ今はお母さんも元気やし当分社長をされはるやろうから、まだまだ京都へ戻るんは先のことやって寧々も言うてましたけど」
「あの、お父さんは」
 そうやって反射的に尋ねてしまうのが私の悲しい職業病。
「もう亡くなってはります。確か、晃さんが小学生の頃に事故で」
 式場の親族席の写真を見ると、確かに新婦側には昨日病院で会った中里夫妻が座っているが、新郎側には女性一人だけ。紺色の着物に身を包んだその凛然とした佇まいは、写真からでも女手一つで老舗の料亭を切り盛りしている芯の強さが伝わってくる。
「どんどん写真を表示していきますね」
 おっとそうだ、今はあの男を見つけるのが任務。私は「お願いします」と返した。
 それにしても…他人の結婚式の写真を見るというのも不思議な気分だ。当然一番写っているのは新郎新婦。それはお世辞抜きにお似合いの二人で、晃は笑顔は少ないが真っ直ぐで頼もしく、寧々は惜しみない笑顔で優しく美しい。やはりこれが偽りの幸福だとは私には思えなかった。
 写真が進むと八尋そよかもその中に登場、式場で学友と共に新郎新婦を囲んでいたり、控室で新婦とツーショットだったり。写真の中の彼女は今と同じオカッパ頭だが今より若いせいもあってとても無邪気で可愛い。
「ほな次の写真行きます」
 感情を抑えるように小さな手がマウスをクリック。そしてまた数枚写真が進んだところで…。
「ストップ!」
 思わず声が出た。それは新郎を囲む男友達の写真、その中の一人に私の目が留まったのだ。
「この人、拡大できますか?」
 彼女は無言で応じる。私は手元の陸上部の集合写真と見比べた。画面に映った男の顔は…間違いなく同一人物。ただ結婚式の時は髪が長めで眉毛が目立たなかった。
 私はごくりと唾を飲み下す。そよかの推理は的中、本当に参列していたのだ。
「式の時は眉毛を隠しとったんやな。それで寧々にゲジゲジ眉毛の知り合いはおらんかって訊いても憶えとらんかったんや。さすがムーンさん、やるやないですか。よし、逃がさへんで、あとはこいつがどこに座っとったかがわかれば」
 写真を送るスピードが上がる。そして全員が着席した状態での会場全景の写真の中に、男がFテーブルに腰掛けているのを捕えた物があった。
「バッチリや、この席やということは…」
 先ほどの座席表で確認し、さらに参列者名簿とも照合する。その結果ついに彼の素姓が判明した。この東京に住んでいる。
「伊藤平助(いとう・へいすけ)…」
 そよかは口の中でその名前をくり返す。
「ご記憶にありますか?」
「ないです、寧々からも晃さんからも特に聞いたことあらへん」
「そうですか」
 それでも大きな進展だ。私は胸の中で意気込む。
「なあムーンさん」
 パソコンの電源を落としてから彼女が抑揚なく尋ねた。
「寧々は助かりますやろか?」
 私は黙ってしまう。きっと大丈夫ですなんて、そんな気休めの言葉を彼女が求めているわけではないと直感した。
「わかりません。ただ、手術は無事に終わったとのことなので、可能性はあるかと」
「クールな人やなあ」
 彼女は鼻で笑うとすっと腰を上げた。
「絶対助かりますよ。言うたやないですか、ハッピーエンドにするって。これからムーンさんはゲジゲジマンに会いにいかはるんですよね?」
「まず警部に報告してからですが、おそらくそうなると思います」
 私も席を立って答える。
「うちも一緒に行ってええですか?」
「それはやめてください。彼が本当に事件に関わっていた場合、あなたに危害が及ぶようなことがあっては大変です。あなたは8月18日の時にも彼と顔を合わせているんですから」
「うちが警察に協力したことがバレて逆恨みされるっちゅうことですか?」
「あくまで可能性ですが」
「つれへんなあ。まあカイカンはんもどうせ許可してくれへんやろうし、しゃあない、ほなうちは寧々のお見舞いに行きます。ムーンさん、ゲジゲジマンがもし犯人やったらしっかり捕まえてくださいよ」
「わかりました。ご協力ありがとうございました。ではこれで失礼します」
「あ、ちょっと」
 玄関まで行こうとした私を彼女は呼び止める。
「そない急かんでも、お茶など一杯いかがどす?」
 驚いた。彼女の方から寄り添ってくれるなんて。思わず「じゃあ…」と言いかけて私ははっとする。違う違う、この言葉の意味は…!
「いえ、せっかくのお気遣いですが失礼致します」
 私が一礼すると彼女は「わかってきたやないですか」と満足そうに頷いた。やっぱりここは断わって帰るのが正解だったらしい。
「お邪魔しました」
 部屋を出てから私は胸の中で叫んだ。
 …ストレートに言ってくれっつーの!

 警視庁に戻って警部を拾うとそのまま伊藤平助のアパートへ向かう。結婚式の参列者名簿と住所は変わっておらず表札には確かに彼の名前があったが、何度かインターホンを鳴らしてみても応答はなかった。時刻は正午前。
「お仕事ですかね。電話してみますか?」
「…そうだね」
 名簿にあった携帯電話番号にかけると数回のコールで彼は出た。男性にしてはやや高めの声質。こちらが警察で捜査のために話しを伺いたいことを伝えると、伊藤は午後1時頃には体が空くからと了解してくれた。
 そのため少し時間を潰してから彼と待ち合わせた喫茶店へと再び車を走らせる。到着して店内に入ると、彼はすでに四人掛けのテーブルに着席しており、こちらに気付くとひょいと左手を挙げてみせた。確かに陸上部の写真にいた男だ。今は結婚式の時と異なり坊主頭なので特徴的なゲジゲジ眉毛もよくわかる。
「伊藤さんですね? 警視庁のカイカンと申します。こちらは先ほどお電話したムーン」
 警部が歩み寄って小声で挨拶したのに合わせて私も会釈。周りに客もいるので警察手帳を出すのは控えた。そのまま彼の対面の席に並んで腰を下ろす。
「お仕事は大丈夫だったんですか?」
「システムエンジニアをやってまして、昨夜から泊まりで今日は昼で上がりなんです。だからちょっと眠たいんですけど」
 彼はあくびを噛み殺す。
「お疲れのところすいません」
「いえいえ、いいんです。あの…徳岡のことですよね?」
「どうしてそう思われるのですか?」
「だって」
 彼の声が少し落とされる。
「だって昨日、奥さんが大変なことになったってあいつから連絡もらいましたから。そのこと以外に俺が警察から話聞かれる心当たりもありませんし」
「はい、そのとおりです。徳岡寧々さんが何者かに土手から突き落とされまして、私たちはその事件を調べています。あの、晃さんとは大学時代からのご友人で?」
「ええ、陸上部の同期です。俺も東京に就職したんで時々会ってました。まあお互いベタベタすんのは好きじゃないから、年に一回とかその程度ですけど」
「寧々さんとのご面識は?」
「結婚式でちょっと挨拶したくらいです」
「お家へ遊びに行ったりは?」
「ないですね。徳岡と会う時はいつも外でした」
「そうですか」
 警部は一度言葉を止める。そこでウエイトレスが伊藤の注文していたトマトジュースを持ってきた。警部と私もアイスコーヒーを注文する。
「ちょっと失礼」
 伊藤は左手を伸ばしてテーブルの上の塩の瓶を取ると数回トマトジュースに振りかけた。
「徹夜明けにはこれが一番です、なんか頭がすっきりする感じがして。それじゃお先に」
 ストローをかき混ぜてから口をつけ、彼は「うん、うまい」と舌鼓を打った。それを見た警部が不気味に笑う。
「どうかされました、刑事さん?」
「いえ、伊藤さんは京都人なのに、おいしいジュースを素直においしいとおっしゃったんで」
「え? ああ、京都人は本心を言わないってやつですか。おいしいのに飲めんことないとか言ったりする。俺はもともと東京なんですよ、大学時代に京都にいただけで。だから最初はびっくりしましたね、せっかくプレゼントしたお菓子とかをまあまあとか言われた時には」
 同志を得た私は胸の中で大いに頷く。
「ではあれも驚かれたんじゃありませんか? 上がるとか下がるとか…ムーン、どういう意味だかわかるかい?」
 突然水を向けられて答えに窮する。すると伊藤も笑った。
「京都では北へ行くことを上がる、南へ行くことを下がるっていうんですよ。最初は『そこから上がってください』とか言われてわけわかりませんでした」
「ではあれはご存じですか? 『おいでやす』と『お越しやす』の違い」
「聞いたことあります。ええと」
 しばらく京都弁の話題で盛り上がっていると、そのうちに警部と私のアイスコーヒーも運ばれてきた。
「それにしても刑事さん、京都弁についてよくご存知ですね。お住まいになっていた経験があるんですか?」
「いえいえ」
 グラスを手にかぶりを振る警部。
「私は広島の出身です。ただ小学6年生の時の担任の先生が京都出身でバリバリの京都弁でした。若いのに普通に『ええどすか』とか言っちゃう人で、授業の中でもたくさん京都の話しをしてくれてたんですよ」
 そういえば昨日もそんなことを言っていたな、と私は思い出す。
「もしかして刑事さん、それって女の先生ですか?」
「はい。まさに京美人って感じの人で」
「それじゃ思春期男子にはたまりませんねえ。ひょっとして刑事さんも憧れたりしてたとか?」
「そんなそんな、でも確かに人気の先生でしたよ。だから結婚して退職しちゃった時はショックだったなあ」
「京都弁ってどうしてあんなに可愛いんですかね。俺も大学入った時の部活勧誘で、陸上部の女子先輩らに囲まれて『おいでやす』って言われて…それでもうノックアウトです。ほんと、あの可愛さはずるいですよ」
「そうですね、フフフ」
 なんだか盛り上がってる愚かな男二人。そういうものなのか…確かに八尋そよかのあのコミュニケイション能力には京都弁も大きく作用している気がする。でも今は雑談している場合ではない。私が少し強めに咳払いすると隣の低い声はようやく話題を戻した。
「すいません、つい脱線して。では事件のことについて伺います」
 伊藤も真顔になる。
「今警察が最も探っているのは事件の動機です。どうして寧々さんは襲われなければならなかったのか」
「通り魔に襲われたわけじゃないんですか? 徳岡はそんな口振りでしたけど」
「その可能性は低いと考えています。ただ晃さんやご両親、友人や職場にも当たりましたが、寧々さんが特に誰かに恨まれていた様子はないんですよ。何か心当たりはありませんか?」
「さっきも言ったように俺は徳岡とは友達ですけど奥さんと親しいわけじゃないんで…正直見当もつきません。あの、やっぱり通り魔の仕業じゃないんですか?」
「どうしてそう思われるんですか?」
「いや、だって…殺されそうになるくらい誰かに恨まれるなんて普通ないじゃないですか」
 彼は慎重に言葉を選びながら答えているように感じる。私がちらりと隣を見ると、警部は黙って私に頷く…話していいという合図だ。
「実はですね」
 グラスを置いて私は口を開く。
「今年の7月頃から寧々さんが誰かに見張られている気がするとご友人に相談されているんです。特に一人で外を歩いている時に視線を感じると」
 対面の男の瞬きが止まった。
「実際に8月18日、街を歩く寧々さんを建物の陰から見ている男の姿をある人が目撃しています。その人が駆け寄るとその男は全速力で逃げていきました」
 彼は居心地悪そうにもう氷しか入っていないジュースのストローを口に運ぶ。動揺しているのは明らかだ。そこで警部の重たい声が問う。
「それはあなたですね、伊藤さん」

 賑やかな店内でこのテーブルだけが通夜のように沈黙。前髪に隠れていない警部の左目がじっと対面で冷や汗を流す男に注がれる。
「ちが…違います」
 ようやく搾り出されるつたない返答。低い声はさらに圧力を増す。
「本当に違いますか?」
 そのオーラは先ほどまで談笑していた時とは全くの別人。
「これは正式な事情聴取と思っていただいて構いません。目撃された男があなただというのは当てずっぽうで言っているわけではありませんよ、私たちはいくつかの根拠であなたにたどり着いたんです。伊藤さん、なんならあなたのスマートフォンを調べさせていただきますよ? 寧々さんを遠くから撮影した写真や動画が入っているんじゃありませんか?」
 ぐっと奥歯を噛み締める彼。私も警部に追随して言葉を放つ。
「このまま何も説明がなければあなたにはストーカーの容疑がかかります。結婚式で会った寧々さんに憧れてつきまといをしていたと。ストーカー行為は法律で規制されていて処罰の対象になります」
「ただし」
 そこで警部が右手の人差し指を立てた。
「ストーカー行為は恋愛感情の充足や報復を目的とする、というのが要件です。すなわち別の目的でのつきまといであれば必ずしも処罰されるわけではありません。ですから伊藤さん、どうか正直に事情をおっしゃってください。このままでは寧々さんを突き落としたのもあなたということになりかねませんよ」
「俺は…そんなことしてません」
 注がれる二つの視線から目を逸らしながら臆病な声は答えた。
「俺は断じてストーカーじゃありません。俺はただ…」
「ただ?」
 言葉が止まりそうになるのを警部が食い止める。
「ただ、その」
「晃さんに頼まれましたか?」
 システムエンジニアは目を見開いて警部を見た。
「あなたがここに来る前に晃さんと連絡を取ったのはわかっています。あなたは喫茶店に入ってきた私たちを見てすぐに待ち合わせをした刑事だと認識しました。憶えていますか? ひょいと手を挙げてくださったんですよ。
 フフフ…私もムーンも普通は警察官に見えません。それがわかったのは、事前に晃さんから私たちのことを聞いていたからですよね?」
 やはりこの人はすごい。変人上司は店内に入った時の伊藤の反応からそこまで見抜いていたのだ。
「さすが…刑事さんですね」
「ご友人として晃さんに不利になることを言いたくないお気持ちはわかります。ただ…これは殺人未遂事件です。気持ちの問題では済まされません」
「…わかりました」
 彼は観念したように息を吐くとしっかり顔を上げた。
「できれば警察には言わないでほしいって徳岡からは頼まれたんですが、実は俺も本当のことを言った方がいいってあいつを説得してたんです。変に隠し立てしたら余計に疑われるぞって。
 優秀な刑事さんを信じて、俺、今から正直に話しますから、偏りのない心で聞いてください」
「当然です」
 指を下ろして頷く警部。私も手帳とペンを構える。彼は水を一口飲んで語りを始めた。
「今年の7月、徳岡から相談を受けたんです。その…奥さんが浮気してるかもしれないって」
 一瞬周囲のざわめきが消えたような錯覚。そして店の外でクラクションが鳴る音。
「勘違いじゃないのかって俺は言いました。徳岡も最初はそう思おうとしてたんですけど、やっぱり疑いが拭えないって…あいつ、真面目な分、こういうのに弱いんですよ。それで俺に頼んできたんです…奥さんの素行を調査してくれないかって。あんまり気は進みませんでしたけど、それであいつの気が済むのならって引き受けました。
 奥さんが一人で出掛ける日をあいつから教えてもらって、俺が尾行して男と会ったりしてないかを確認しました。まあ俺も仕事してますから休みの日だけの素人探偵ですけど」
 彼は苦笑する。警部が「結果は?」と問った。
「7月と8月で3、4回尾行しましたかね。でも奥さんの行き先は買い物とか美容室とかばっかりで…浮気の影なんて1ミリもありませんでした。そして8月のあの日、奥さんの友達に見つかっちゃって…目撃者って奥さんの友達ですよね? 追いかけてきたから慌てて逃げたんです」
「どうして寧々さんの友達だとわかったんですか? その人は寧々さんから離れて歩いていたはずですが」
「結婚式の時に奥さんと親しそうにしてるのを見た記憶があったんで。ほら、今時オカッパ頭って珍しいじゃないですか。それに小柄で可愛い子だったし」
 八尋そよかの人気はやはり上々である。
「すいません、脱線して。それでその日に徳岡に伝えたんです…浮気の兆候はない、お前の勘違いだぞって。いい奥さんなんだから大事にしろ、俺が保証するって言ったらあいつも納得した感じでした。だから素人探偵もそれきりにしました。
 ですから刑事さん、俺が奥さんにつきまとってたのは事件とは無関係です。徳岡も一瞬奥さんの浮気を疑っただけで、夫婦仲がこじれてたとかそんなことはありません。だからあいつが奥さんを憎んだり恨んだりするはずないです」
 力説する彼に警部は頷く。
「よくわかりました。話してくださって感謝します。もう一つだけ教えてください。晃さんが寧々さんの浮気を疑ったのには何か根拠があると思うのですが…ご存じですか?」
「それは…」
 しばしの逡巡の後、氷だけのグラスをあおってから伊藤は答えた。
「6月の話です。あいつ、仕事の昼休みに奥さんに電話かけたんですよ、別に特別な用件とかじゃなくて、晩ごはんに何が食べたいとかいうよくある夫婦の電話です。でも電話に出た奥さん、その日は仕事が休みで家にいるはずだったんですけど、なんだかバタバタしてて、早めに電話を切りたい雰囲気だったそうです」
 そこで言葉が止まる。数秒待って私が尋ねた。
「家にいてもバタバタすることはあると思います。それだけで浮気を疑うというのは…極端じゃありませんか?」
「会話を終えて電話を切る直前にギリギリ聴こえたそうです。奥さんが誰かに呼び掛ける声が」
 彼は警部と私を交互に見てから言った。
「早く抱いてちょうだいって」

 再びすずらん医大病院へと車を走らせる。徳岡晃は寧々に付き添ってそこにいるはずだ。
「どう思われますか? 先ほどの話」
 助手席に尋ねると警部はまた立てた人差し指に長い前髪をクルクル巻き付けている。
「寧々さんの浮気についてだね。う~ん、どうなんだろう。伊藤さんは疑いはない、晃さんが電話で聴いた言葉もきっと何かの間違いだって主張してたね。少なくともこっそり浮気相手と会ってた証拠はない。まあ会っていない証拠もないんだけど」
 そう、徳岡寧々に限らずその人が絶対に浮気をしていないと証明することは不可能だ。それこそ外に出られない部屋で24時間監視でもしない限り…いや、それにしたって心の中まではわからない。彼女の心の中に夫以外の男がいるのかどうかを知っているのは彼女だけなのだ。
 それでも人は人を信じることができる。一つは理屈を超えた愛情という名のオールマイティパスによって、もう一つは普段の立ち振る舞いから伝わる人間性…すなわち人徳によって。少なくともこれまで見聞きした彼女の人物像は人徳に満ちていたが。
「この事件の動機を探る上で寧々さんが浮気をしていたかどうかはもちろん重要だ」
 警部の指の動きが止まる。
「もししていたとすれば、浮気相手の男が容疑者になる。それに男に妻や別の恋人がいるならその人にも寧々さんを恨む動機があることになる。いわゆる痴情のもつれだね。
 ただ、晃さんに関して言えば、必ずしも寧々さんが浮気をしていたかどうかは問題じゃないんだ。事実がどうかよりも、彼がそう思い込んでいたかどうかが問題になる」
 そう、動機は必ずしも事実に基づくとは限らない。思い込みや勘違いでも人は殺意が着火することがあるのだ。
「八尋さんが話してましたよね、晃さんが居酒屋で勘違いして寧々さんの知り合いに掴みかかったことがあると。思い込みが激しい人だったのかもしれません」
「そうだね。ただこれは衝動的な犯行じゃない、犯人は寧々さんを待ち伏せて襲ってる…つまり冷静な計画殺人だ。カッとなって掴みかかるのとはわけが違う。思い込むにしたってよっぽどの根拠がないと」
「それが電話で聴いた言葉だったのでしょうか」
「…『早く抱いてちょうだい』か。晃さんの聞き間違いにしても何と聞き間違えたんだろう。ムーン、試しにちょっと言ってみて」
「ぶん殴りますよ」
「厳しいねえ。聞き間違いじゃなければ言い間違いかな? そばに蛍ちゃんがいたんなら、別の誰かに蛍ちゃんを抱っこしてって頼んでるようにも聞こえるけど」
「その日は平日で、蛍ちゃんは幼稚園にいたはずです。それに、そばに蛍ちゃんがいたんなら電話で蛍ちゃんの声も聴こえたと思います」
「だよね」
 そこで低い声は黙る。やはり直接晃に会って確かめるしかなさそうだ。うまく本心を覗かせてくれるか…そこは警部の腕にかかっている。それに思い込みに走ってはいけないのは私たち警察も同じ。人はついわかりやすいものに飛びついてしまう。妻の浮気を疑った夫の犯行というのはあまりにもわかりやすいストーリーだが、事件の真相がわかりやすいものとは限らないのだから。この変人上司が私にとって未だにわけがわからないように。

 しかし事態は急展開を見せた。徳岡寧々のいる集中治療室を訪ねたところ、八尋そよかと中里夫妻はそこにいたが、徳岡晃の姿はなかったのである。そよかによれば、友人との電話の後で落ち着きがなくなり、トイレへ出て行ったきり戻ってこないというのだ。主治医から寧々の病状についての説明もあったため彼女が院内を探すも姿はなく、電話をかけても電源が切られているらしい。
「あの、晃さんどないかしはったんですか?」
 心配そうに尋ねる若きテレビディレクター。警部はそれには答えず、小さく「まさか」と呟くとこちらを向いて叫んだ。
「ムーン、彼の部屋へ行ってくれ! 大至急だ、意味はわかるね?」
「はい!」
 返事をするのと同時に部屋を飛び出す私。そよかや中里夫妻は目を丸くしているが今はゆっくり説明している場合ではない。
 そう、徳岡晃は逃亡したかもしれないのだ。彼が電話で話した友人というのは伊藤平助のことだろう。伊藤の口から寧々の浮気についてのことが警察に語られたと知った彼は自分に疑いの目が向くと確信した。だから捜査の手が及ぶ前に姿を消した。もちろんそうではないと願いたいが、携帯電話の電源まで切っているのはおかしい。
 私は駐車場に駆け戻って愛車に飛び乗ると一度だけ深呼吸。そしてイグニッションキーを回し、嘶くエンジンと共に車道へ躍り出た。

 悪い予感は的中した。彼の暮らす301号室はすでにもぬけの殻、荒れた室内の様子から乱暴に衣類や食料、現金などを引っつかんでまたどこかへ行ってしまったのは間違いない。床にはシャツやカップ麺が転がっていたし、玄関の鍵も開いたままだった。慌てて逃げたこと、そしてもうここに戻るつもりはないことを物語っている。見ると昨夜目にした親子三人が写った壁の写真も床に落ちて額縁が割れていた。たまたま体が当たって落ちたのか、わざと晃が破壊したのか。ほんの一日前までは幸福に包まれていた家庭、それが今は見る影もない。

 秋の日は再びつるべ落とし。警視庁のいつもの部屋で警部と落ち合う。ビンさんはすでに退勤していてその場にはいなかった。
「ボストンバッグを抱えた晃さんが部屋から飛び出していくのを同じマンションの住人が目撃していました。彼が逃亡したのはほぼ間違いありません。しばらく周辺を捜索してみましたが見つかりません」
「了解ムーン、お疲れ様。私も彼の職場に改めて行ってみたけど特に晃さんからの連絡はないそうだ」
 そこで低い声は溜め息を挟む。
「まいったね、まさか逃げちゃうなんて。早まったりしなければいいけど」
 逃亡生活というのは容易ではない。現金や食料を持ち出しているのですぐにどうこうということはないと思うが、それらも尽きて物理的にも心理的にも追い詰められればいずれはよからぬことを考えてしまうかもしれない。
「これからどうされます?」
 変人上司は答えない。珍しく次の一手をあぐねているようだ。すると部屋のドアが正確なリズムで三度ノックされる。
「失礼しますよ」
 入ってきたのは江里口警視、捜査一課の別ミットの所属でうちの警部とは同期の間柄。相変わらずメガネの奥の純粋な瞳を少年のように輝かせている。
「やあエリー」
「そんな呼び方はやめてくれ、遊びに来たんじゃないんだから。君に頼まれた件の報告です」
「どうだった?」
「飛行機の乗客名簿、首都圏にあるホテルの宿泊者名簿を当たってみましたが、どこにも徳岡晃の名前はありませんでした。もちろん、偽名を使っていたらわかりませんが。
 それともう一つ、彼はATMでお金を引き出していました。東京駅の駅ビルにあるATMです。なのでJRに乗った可能性はありますね。ただ秋の行楽シーズンで人がごった返していますから防犯カメラで彼を見つけるのは至難の技でしょう。一応話を通せる範囲で首都圏の主要な駅には連絡しておきました」
 警部が腰を上げる。
「悪かったね、自分のミットの仕事で忙しいのに」
「僕が担当している事件は今朝解決しました。今日は書類を書いたら剣道場で汗でも流そうと思っていたところです。だから気にしなくていい」
「ありがとう。やっぱり持つべきものは頼れる同期、広域捜査にかけちゃ君に頼むのが一番だからね。助かったよ」
「少々手間取りましたがね。僕はアウトローを気取る君と違って周囲との連携を重んじているんです。また情報が入ったらお知らせします」
「恩に着るよ」
 江里口はフンと鼻を鳴らすと私に会釈して出て行った。すると入れ代わりに今度は制服姿の婦人警官が入ってくる。
「オッス!」
 すらりとした長身でそう右手を挙げた彼女の名前は氏家美佳子、交通課所属で数少ない私の友人と呼べる存在。
「ねえ、今この部屋から出てきたの江里口警視じゃん、どういうこと?」
「警部が捜査協力をお願いして、わざわざその報告に来てくれたのよ」
「へえ、あの人を助っ人にできるなんてすごいじゃん。あ、こんばんは警部さん。助っ人2号です。おたくの月下美人から頼まれた件で参上しました」
「もう美佳子、何言ってんの。すいません警部、勝手に動いてしまって」
「構わないさ。まだ緊急配備とか全国指名手配ができる段階じゃないし、うちみたいな弱小ミットはみんなに協力を仰がないとね。それで氏家巡査、何か有益な情報はあったかい?」
「有益かどうかはわかりませんけど」
 そう前置きして美佳子は報告を始める。彼女は私が伝えた徳岡晃の情報を元にパトロールを強化してくれた。それだけでなく、都内を走るタクシー会社にも当たってくれたのだ。
「徳岡らしき客を乗せたっていうドライバーがいました。彼のマンションの近くから東京駅まで、ボストンバッグを持った若い男を乗せたそうです」
 東京駅というワードが江里口の情報と一致する。
「ドライバーの証言なんですけど、その客に『ご旅行ですか?』って尋ねたそうなんですよ。そうしたら客は『ちょっと里帰り』って言いかけて急に黙ったそうです」
「里帰り…。美佳子、その客は他に何か言ってたの?」
「ううん、話し掛けてほしくなさそうな雰囲気だったからドライバーもそれ以上会話はしなかったって。東京駅に着いたら現金で支払ってその客は足早に駅ビルへ入って行ったみたい。あたしからの報告は以上」
「ありがとう。警部…どう思われます?」
 変人上司に水を向ける。
「その客はおそらく晃さんです。里帰りという言葉は口が滑って出たものでしょうか。だとしたら彼は…」
「そうだね」
 警部はゆっくりと言った。
「京都へ向かったのかもしれない」

 午後8時。警部と私は美佳子にお礼を伝えて再び徳岡寧々の病室へ来ていた。万が一にも犯人が再び襲撃してくる可能性を考えてドアの前には制服警官が一人配置されている。ガラスの向こうのベッドの上には頭に包帯を巻き口に酸素マスクを当てた彼女…主治医の話によれば意識は戻らないながらも容態は安定しているとのことで、それが悲痛な現状の中でのごくささやかな幸いだった。
 その感情のない寝顔を見ながら私は考える。犯人…それは姿を消した徳岡晃なのか。そうだとしても彼女は何故命を狙われたのか。人に気を遣う優しい性格で、職場においても信頼を得、家庭でも良き妻で良き母親であった彼女。確かに浮気の疑惑はあった。しかし伊藤の調査では浮気の証拠は出ず、むしろ彼はそんな事実はないと晃に伝えている。それなのに…。
 出会って五年、恋愛から結婚へと順調に育まれた愛情が、根拠もない疑惑だけでこんな凶行に及ぶほどの苛烈な殺意に転じるものだろうか? まっすぐで真面目だと周囲に評価されていた青年がどうして…。
「出ようか」
 隣でずっと黙っていた警部がぽつりと言った。私は頷き、一緒に病室を出てロビーへ向かう。日中は多くの外来患者で混み合う空間に今は闇と静寂だけが居座っていた。
「警部は晃さんが犯人だとお考えですか?」
 並んでソファに腰を下ろしてから尋ねる。
「可能性は…高いだろうね。犯人じゃないのに逃亡するとは考えにくい」
「アリバイはどうなります? 事件の起きた時刻、彼は同僚の小久保さんと外回りに出ていて、そこから小久保さんの忘れたUSBメモリーを取りに会社へ戻っていたんですよね。会社に立ち寄っていたら現場の夏帆川まで行く時間はなかったはずです」
「それはごく簡単なトリックで説明できる」
 そこでまた右手の人差し指が立てられた。
「USBメモリーをあらかじめ小久保さんの荷物から抜き取っておけばいい。そして外回り先で小久保さんがUSBメモリーがないことに気付くように仕向けて、自分が代わりに取りに戻ると言えばいいんだ。そこから実際には会社ではなく夏帆川へ向かう…こうすれば犯行の時間は作れる」
「なるほど、そうですね。そして犯行の後、最初から持っていたUSBメモリーを小久保さんに渡したわけですか。あ、でも待ってください。同僚数名が会社に戻ってきた晃さんの姿を目撃していたはずですが」
「でも正確な時刻は誰も憶えていなかった…普段から晃さんは外回りで出たり入ったりしてるから当然だね。それを利用したんだ。つまり彼は小久保さんにUSBメモリーを渡した後、この病院に駆けつける前に会社に立ち寄ったのさ」
「警察からの連絡を受けてから会社へ行ったということですか」
「そう。おそらくはすぐ電話には出ずに着信だけを確認した。でも小久保さんの前では電話に出たふりをしてすぐ病院へ直行したように見せかけた。そして会社に立ち寄って同僚たちに姿を見せてから実際に電話に出て急いで病院へ駆けつけたのさ。こうすれば警察が後で調べても、同僚は『晃さんは確かに忘れ物を取りに会社へ戻ってきていた』と証言するだろう」
 そういうことか。私は納得する。人は通常その出来事が何時何分だったかなんて憶えていない。そして無意識に記憶に辻褄を合わせようとする。徳岡晃がいつもの様子でオフィスに姿を見せたとすれば、後から同僚が記憶を整理したとしても、まさかそれが妻の事件の連絡を受けた後の姿だったとは誰も思わない。
「理解しました警部。そのトリックを用いれば晃さんのアリバイは成立しません。彼には犯行が可能です。そして靴の染みという物的証拠もあります。
 しかし、動機が…」
「そうなんだよね」
 低い声は小さく溜め息。
「そこだけがよくわからない。寧々さんの浮気疑惑がそうなのか、それとも別の理由があるのか」
 警部は指を立てたまま少しの間唸ってから続けた。
「そういえばこんな話を聞いた。今日晃さんの職場に行った時、小久保さんもいたから改めて最近の様子を尋ねてみたんだよ、少しでも晃さんに変わった所はなかったかって。いつもどおり真面目に働いてたみたいだけど…一度だけ妙なことがあったんだって」
「どんなことです?」
「数日前、晃さんがスマートフォンでインターネットを見てたんだ。小久保さんが『何を見てんだよ』って声を掛けたら慌てて画面を隠したらしい。普段勤務中にスマホで遊んだりしない人だから印象に残ったって小久保さんは言ってた」
「彼は何のサイトを見てたんですか?」
「小久保さんも一瞬見ただけだから詳しくはわからないけど、豆のページだったらしい」
「え、豆ですか?」
「そう、お豆さんの豆。大豆かエンドウマメみたいな画像が表示されてたって」
 わけがわからない。コーヒー豆でもピーナッツでも、事件と関係があるとは思えない。案外本当にただの暇つぶしで見ていただけなのかもしれない。
「う~ん」
 また少し唸ってから変人上司が呟く。
「やっぱり…行ってもらうしかないか」
「はい?」
 意味がよくわからなかったので訊き返すと、警部は立てていた指をパチンと鳴らした。
「ムーン、君は明日の朝一番で京都へ行ってくれ」
 暗いロビーに指令が響く。
「わ、私がですか? それは…晃さんを捜索するためですか?」
「それもあるけど、フフフ、なんだかそうしなくちゃいけない気がしてね」
 口元を綻ばせる変人上司。え、フィーリング? 何故に私は京都へ行くの?
「ねえムーン、幕末に倒幕派の志士が新撰組と戦っていたのはどこだい?」
「それは…主に京都ですけど」
「そうだよね。小学生の頃、それがよくわからなくってさ。倒したい幕府は江戸にあるのに維新史氏はどうして京都で戦ってたんだろうって。不思議に思わないかい? それを先生に質問したら『よう考えてみなさい』って言われちゃったけど」
「また憧れの京都弁の先生ですか。維新志士が京都で戦ってたのは、当時、政局の中心が京都にあったからでしょう」
「そのとおり、時代の核心部は京都にあった。この事件もそうかもしれない、起こったのは東京だけど核心部は京都にある」
 警部は指を下ろした。
「だから行ってきてほしいんだ。晃さんは里帰りと口走った。ムーン、まずは彼の実家を訪ねてみて。老舗の料亭で、お母さんがいるんでしょ? 逃亡中の晃さんから何か連絡が入ってるかもしれない」
「京都府警に許可を得ずに動いても大丈夫でしょうか」
「根回しは明日ビンさんとエリーに頼んでおくよ」
「わかりました」
 私は覚悟を決める。幕末の例え話はよくわからないが、捜査上、晃の実家を訪問する価値はあるだろう。場合によっては、彼はそこに身を潜めているかもしれない。
「警部はどうされるんですか?」
「東京にいるよ。晃さんがまだ首都圏に潜伏している可能性も十分あるから。一人だと不安かい?」
「いえその、私は京都の地理に明るくないもので。それに京都には独特の文かも…」
「それやったら、うちが案内します!」
 突然明るいハスキーボイスが響いた。

 警部と私がぎょっとして振り返るとそこには小柄なシルエットが立っていた。
「ムーンさんの案内役、うちが引き受けますよ」
 影は一歩近付いてその顔がはっきり見える。
「八尋さん、ど、どうしてここに?」
「ムーンさん、そんなオバケでも見るような顔せんといてえな。ちゃんと足は生えとります。これから女二人で東海道を連れ立つんやろ?
 どうしてここにって、もちろん寧々のお見舞いです。中里のおじさんとおばさんは蛍ちゃんのお世話もあるから夜は帰ってもろうたんです。ちょっと休憩しよと思うてロビーにおったらお二人が入ってきなはったんや。全然うちの存在に気付かんで喋り続けてはるから…出るに出られませんでした」
 どうやら若きテレビディレクターは闇に擬態していたらしい。
「でも安心しました。二人っきりで話してはるのに全然ラブラブな雰囲気にならへんから、お二人はほんまにただの仕事の関係なんやなあって」
「当たり前です!」
「それにしてもムーンさん、もうちょっと色気のある振る舞いをしはったらええのに」
 …カッチーン! 昨日に引き続いて怒りの第5波が押し寄せる。
「あなたと一緒にしないでください! それにずっと黙って聞いてるなんて趣味が悪いですよ」
 声を荒げる私に彼女はまたケラケラ笑う。
「まあまあ、ええやないですか、それより今の話です。カイカンはん、うちがムーンさんと京都へ行きます」
「しかしそれは…」
 戸惑う警部に彼女の勢いは止まらない。
「ムーンさんは京都人がお茶漬けを出しましょうか言うたらそのまま食べてまうような人ですよ。一人で行ったら大変なことになります。夜道で尊王攘夷派の志士に襲われたらどないしはるんですか? うちが浪士組になってお守りします」
「そんなのいるわけないでしょ。私だって京都の常識くらい」
 勢い余って腰を上げる私に漆黒の瞳は挑戦的な流し目。
「ほな京都ではエスカレーターの右と左、どっちに立つんが正解どすか?」
 もちろん私はわからない…が、悔しいので刑事の勘で「左です」と答える。
「ちゃいます。京都では前に立ってはる人に合せるのが常識です。やっぱりあかんわムーンさん。強情張らんで、うちが手取り足取りエスコートしますよって」
「結構です!」
「でもさっきのお二人の話、うち聞いてしもうたしなあ。きっとあれって捜査の機密情報なんやろうけど…テレビで流してもええんかなあ」
 彼女は腰の後ろで手を組んで思わせぶりに首を傾ける。こんな仕草が可愛いなんていう男の気持ちが私には1ミリもわからない。
「観念しなはれ、孤独の鎖国女」
「この…性悪開国女!」
 私も思わず口から洩れる。そして怒りの第6波が押し寄せそうになったが、警部の大笑いがそれを止めた。
「ハッハッハ!」
 夜の院内に不謹慎なほどその馬鹿笑いは響いた。変人上司はすっくと腰を上げる。
「鎖国女に開国女ね、これは傑作だ。ああおかしい。
 いやいや、じっとしててもしょうがない。よし、じゃあここは一つ八尋さん、同伴を許可します」
「お言葉に甘えまーす! ほな、契約成立のハグしましょ」
「ちょっと待ってください! 警部、この人は一般人ですよ」
「うちは寧々の親友や。親友のために一肌脱ぐのがなんであかんのですか?」
 また警部が笑う。
「二人とも、こうなったら一蓮托生、仲良く京都へ行ってらっしゃいな。修学旅行だと思ってさ」
 思えるわけないでしょ! …と胸の中で叫んでももう遅い。

 かくして、私はできれば関わりたくない八尋そよかと二人で上洛することになったのである。