第五章 池田ショッピングパーク事件

●ムーン

「では、病院へ向かいます」
 扉が閉められ、救急車はサイレンを鳴らして発信する。その間も「ご苦労様です!」と敬礼する近藤巡査の隣で私は呆然としていた。思考が追い付かない。どうして…どうして東京で会った伊藤平助が京都にいて、しかもこんな目に遭っているのか。他人の空似かとも思ったが、ゲジゲジ眉毛にあの顔はどう見ても本人だ。
 救急車が油菜小路を去ってから私はようやく質問する。
「あの、すいません近藤巡査。被害者のお名前はわかりますか?」
「はい、持ち物を改めましたので。財布の中の保険証によれば伊藤平助さんというお名前で、東京にお住いの方のようです」
 やはり間違いない。となるとどうなる? たまたま京都旅行に来て通り魔に襲われた…なんてことはないだろう。落ち着け落ち着け。タイミングから考えて伊藤が襲われたのは徳岡寧々の事件と無関係とは思えない。だとすれば同一の犯人、すなわちこれも徳岡晃の犯行? 逃亡中の彼と伊藤が何らかの事情で落ち合い、トラブルに発展したとか?
「あの、すいません。被害者のスマートフォンはありますか?」
「いえ、ご家族からの連絡が入るかもしれませんのでそれは救急隊に預けました」
 もしかしたら晃とのやりとりが残っているかと思ったが…仕方ない、後で確認させてもらおう。
「あの!」
 そこで私の背後からハスキーボイスが飛ぶ。振り返ると、すぐそこに八尋そよかが来ていた。
「あれ、そよちゃん?」
 私より先に野々村が反応する。
「お久しぶりです、おじさん」
「ほんまに久しぶりや。なんでこんな所におるんや?」
「仕事で京都に来てて、この女刑事さんと一緒にたまたまヨシコママんとこにおったんよ。そうしたら事件やって聞いて」
「それで飛び出してきたんかいな、相変わらず鉄砲玉やなあ。
 元気そうやないか。綺麗になっとるから一瞬わからんかった。ヨシコママからはテレビの仕事しとるって聞いとったけど…それでそんなに別嬪になったんかいな。背丈はちっこいままやけど」
「ひどいなあ、ちっこい方が可愛くてええんや。それにうちはテレビに出る方やのうて作る方やし。おじさんやって全然変わってへんやん、お腹出とるとことか」
  しばし旧交があたためられる。横で聞いていると野々村はスナック色鉛筆の常連で、それでアルバイトしていた彼女とも面識があるらしい。
「おじさん、教えてえな。事件を見たんやろ」
「ああ、それな、たまげたで。言い争いの声が聞こえてな。なんやと思うて通りを除いたら一人が突き飛ばされて壁に頭ぶつける瞬間やったんやから。俺が『おい!』って怒鳴ったら突き飛ばした奴はすぐ逃げてもうた。急いで倒れたあんちゃんに駆け寄って呼び掛けても返事せえへんから、119番と110番したんや」
「犯人はどんな奴やったん?」
「距離もあったし野球帽にサングラスもしとったから顔はようわからんけど…身のこなしが軽かったから多分若い男やろな。被害者のあんちゃんと同じくらいの歳やと思う。逃げ足も韋駄天みたいやった」
 そよかが体型や服装の特徴を尋ねると、細身で上下黒っぽい服だったと野々村は答えた。徳岡寧々の事件で目撃された犯人像と酷似している。
「犯人は何か持ってましたか? 例えば鞄など」
 私が問う。
「いえ、手ぶらやったと思います」
「言い争いの内容はわかりますか?」
「そうやなあ…なんか言うてたなあ。ちょっとお待ちください、思い出します」
 町内会長は記憶よ出て来いと言わんばかりに自分で自分の頭を小突いている。そして探し物を見つけたようにその二つの瞳がぱっと見開く。
「ええじゃないか」
 意外な言葉が放たれた。私は一瞬呆気に取られる。
「あの、ええじゃないかというのは…」
「ですから、そう聞こえたんですよ」
「ねえおじさん、ええじゃないかってあの踊りながら言うやつ?」
「そないな陽気な感じやなかったけどな。『ええじゃないか』って怒鳴る声が聞こえて、直後に『おい落ち着け』って声がして、それでこの通りを覗いたらさっきのあんちゃんが突き飛ばされてるとこやったんや」
「ほなおじさん、『ええじゃないか』って叫んだのは犯人の方?」
「そうやろな」
「あの、『おい落ち着け』っていう声、少し高めの声じゃなかったですか?」
 私が確認すると、そうだったと野々村は認めた。伊藤の声は男性にしては高め…やはり『ええじゃないか』と口にしたのは犯人の方らしい。
 ええじゃないかは江戸時代の末期、社会不安の中で民衆がそう歌い踊りながら破壊や略奪行為を行なったとされる現象。しかし…それがこの傷害事件とどう関係するというのか。いくら京都でも、現代においてええじゃないかと乱舞しながら人を襲うはずがない。
「おじさん、他には何か言うてなかったん?」
「言い争いはしとったと思うけど、はっきり聞こえて憶えとるのはそこだけや。いやあ、物騒やなあ」
 凶器も使われていないし、おそらく口論がエスカレートした果てに起きた衝動的な犯行だろう。どういう流れで犯人がええじゃないかなんて口にしたのかはわからないが、それは捕まえてから訊けばいい。
「ありがとうございました野々村さん。あの、近藤巡査、逃げた犯人の足取りは掴めていますか?」
 部外者である私やそよかがグイグイ首を突っ込んでくるものだから制服警官は多少戸惑っていたが、東京で起きた事件と関連しているかもしれないと伝えると事情を察してくれた。
「すぐ付近の交番には連絡して怪しい男がおらんか見回ってもらっとります。それと、もうじき府警の担当刑事さんもここにきなはります」
 そんなやりとりをしているとそよかがまたロケットスタートで走り出す。
「ちょっと八尋さん、どこ行くんですか!」
「何してますのん、犯人を追いかけるに決まっとるやないですか。おじさん、お巡りさん、おおきに!」
 すっ飛んでいく若きテレビディレクター…ライフル並みの鉄砲玉だ。彼女だけを行かせるわけにはいかない。私は近藤に名刺を渡すと急いで後を追った。腕時計は午後2時21分を示している。
「待って八尋さん! 闇雲に追いかけたって見つかりませんよ」
「闇雲やないです。うちも被害者の顔を見ました。ゲジゲジマンやった。もしかしたら犯人は寧々を突き落とした奴と同じかもしれへん!」
「それはそうですが、しかし事件が発生してもう二十分経ってます。犯人は遠くに逃げているはずです」
「ええですかムーンさん、油菜小路は人通りが少なくて静かなのが特徴なんや。そやから地元の子は内緒話をする時にようあの通りを使うんです。好きな男の子に油菜小路に呼び出されたら愛の告白のサインやってよう中学校でも言うてました」
 息を切らしながら彼女は答える。
「犯人もゲジゲジマンと内緒話をするためにあそこで会ってたんやと思います。ということは犯人はこの辺に土地勘がある、交番がある場所もよう知っとるってことやないですか」
「つまり交番の付近は避けて逃げているということですか?」
「そうや。交番だけやのうて人通りが多い場所も避けとると思います。となるとかなりの遠回りをして逃げとるわけやから、うちらがショートカットしたら追いつけるんです。犯人は手ぶらやから服を変えたりもできへんはずです」
 なるほど…私は彼女の頭の回転の速さに感心する。それと同時にその行動力にも圧倒されていた。小さな体躯のいったいどこにこんなエネルギーが詰まっているのだろう。
「八尋さん、この先は行き止まりですが」
「京都弁やとどん詰まりって言うんどす。でも問題あらへん。ほいやっ!」
 なんと彼女はジャンプして塀をよじ登る。
「ちょっと八尋さん!」
「平気や。小学生の時に何回もやってます」
 そういう問題ではない…と言う前に彼女はひらりと塀の向こうに飛び降りてしまう。まるでくの一。私も仕方なくそれに従う…完全に住居不法侵入。人様の家の庭を抜けてまた塀を越えて、八尋そよかはそよ風どころか一陣の突風となって突き進んでいく。そして広い通りに出たところでようやく風速を落とした。
「ここらへんで追いつくと思うたんやけど…おらへんなあ。ひと足遅かったか」
 辺りを見回しながら彼女は言う。私も息を整えながら周囲を伺った。犯人が徳岡晃なら陸上部のエース、ショートカットした私たちよりさらに先まで行ってしまったのかもしれない。
「犯人がここから先に逃げたとすればどこに行ったと思いますか?」
「上がったか下がったかで変わってきます」
 北上したか南下したか、という意味だろう。
「う~ん、どっちやろ。上がったらお寺の方やし、下がったら池田ショッピングパークの方…。あ、そうや!」
 彼女はおもむろにスマートフォンを取り出してコールする。
「あ、もしもし? 未来の推理作家はんどすか? そよかです」
 なんと相手はあの橘すみれらしい。そういえば今朝駅前で会った時に番号を交換していた。
「急にごめんな。今ええ? すみれちゃんら今日池田ショッピングパークに行くって言うてたよな。今どの辺りにおるん? あ、ちょうど行くとこ? それやったらその辺りに変な男がおらへんかな。黒い服に野球帽で走っとるんやけど。ちょっと今ムーンさんと捕り物してて…。え? うんうん」
 大きく頷くと彼女はスマートフォンを耳に当てたまま南へ駆け出す。そしてさらに何やら話してから通話を終えた。
「おりましたよムーンさん! すみれちゃんとこのみちゃん、ちょうど野球帽にサングラスの男が通りの向こうを走っとるのを見たそうです。そいつはそのまま池田ショッピングパークの敷地へ入って行ったって!」
 この機転とコネクションの活用もテレビディレクターの成せる業だろうか。私も走りながら言う。
「それは重要な情報です。でもまさかあの子たちに犯人を捕まえろなんて言ってないですよね」
「そんなん言う手ません。うちはこう言っただけや」
 ハスキーボイスは高らかに宣言した。
「女新撰組、池田屋に討ち入りじゃ!」

「ムーンさん! こっちこっち」
 全速力で池田ショッピングパークまでたどり着くと、正面の自動ドアの前に立っていた赤井このみが両手で大きく手招きした。平日のためか駐車場には乗用車が数台停まっているのみ。
「すいません赤井さん、巻き込んでしまって」
「そんなことより逃げた男はこの中です。この自動ドアから入っていったのを目撃しました。あたしはすみれに言われてずっとここで見張ってましたけど出てきてません」
「本当にすいません、怖い思いをさせて」
「カイカンさんとムーンさんにはあの時すっごくお世話になったから、ちょこっとでも恩返しできて嬉しいです。それに全然怖くなかったですよ、だってあたしにはこれがありますから!」
 このみは制服の胸ポケットの赤いボディのボールペンを抜いて見せる。二年前の事件の時に彼女を守ってくれたアイテムだ。
「ほんまにありがとな、このみちゃん。それで、すみれちゃんは?」
「お待たせ!」
 そよかが尋ねたのと動じに自動ドアが開いて当の本人が店内から現れる。しかもその手には何故か木刀が握られていた。
「あ、そよか姉さん。野球帽の怪しい男は確かにここに入りましたよ」
「まだ中におるんやね」
「ちょっと探してみましたけど見つかりませんでした。人がめっちゃ多くて。でも店の外には出てないよね、このみ?」
「うん、ここを通ってないのは保証する」
「二人ともおおきにな。つまり犯人はもう袋のネズミっちゅうわけや」
「そうです。ああ、やっぱそよか姉さんの京都弁、めっちゃ可愛い!」
 すみれはすっかりそよかに心酔してしまったらしい。
「あの、橘さん、その木刀は?」
 私が尋ねると制服姿の女子高生は得意げにその得物を構える。
「修学旅行のお土産っていえばやっぱりこれじゃないですか。そよか姉さんから捕り物だって聞いたんで今買ってきたんですよ」
「いえそんな、危ないですから」
「そうやな、すみれちゃんにそんな危ない真似はさせられへん。ちょっとうちに貸してえな」
「いえ、八尋さんもですよ。犯人を捕まえるのは私がしますから」
「何を今更言うてはりますのん。安心してくださいムーンさん、うち剣道部の主将やったんやから。三段突きで仕留めてみせます」
「よ、女剣士!」
 すみれが拍手。隣でこのみも笑ってそれに合わせる。いやいやいや、店内で大立ち回りでもするつもりか。
「ほな行きましょう」
「あ、ちょっと!」
 私の言葉を無視してそよかは自動ドアをくぐって中へ。それにすみれも続く。仕方なく私とこのみも追った。
「新撰組じゃ、御用改めでござる!」
 店内に進んだ私は驚く。そこはそよかの謎の叫びなど埋もれてしまうくらい学生たちで溢れていた。
「ほんまにすごい人やな」
「あたしたちの学校以外にもたくさん来てるみたいですね」
 と、このみ。11月上旬はまさに修学旅行シーズン、そしてここはその定番の京都。日本全国から集まった様々な制服が店内を彩っている。
「この店はワンフロアやけど結構広いんや。ほな手分けして捜しましょう」
「ダメです八尋さん。私が見てきますからみなさんはここにいてください」
 万が一にもこの人込みの中で犯人に暴れられたら大変だ。自動ドアのそばにいた警備員に私は手帳を見せて声を掛ける。
「あの、すいません」
 逃走中の犯人が店内に逃げ込んだ可能性があることを伝えると壮年の警備員は驚きの表情を見せた。
「それで、この自動ドアから入ってきた人が他に外へ逃げる出口はありますか?」
「いえ、それはないです」
 となるとここだけ押さえておけばよいわけだ。
「今から私は店内を見てきます。申し訳ありませんが、上下黒っぽい服の男性が外へ出ようとしたら足止めしていただけますか? もちろん修学旅行生は除いて構いません」
「はい、承知しました」
「お願いします」
 よし、と振り返るとそこにはこのみの姿しかない。
「あれ? 八尋さんと橘さんは…」
 少女は淡く笑んで肩をすくめる。
「突入しちゃいました」

 まったく、お転婆ディレクターにも困ったものだ。確かにあの行動力のおかげで犯人をここまで追い詰められたわけではあるが。私は視線を配りながら店内を時計回りに進んでいく。人数は多いものの客の大半は制服姿の高校生、しかも圧倒的に女子が多いので成人男性を探すのはさほど難しくはない。ぐるっと進むと木刀を手にしたそよかと出くわした。お土産ショップの中じゃなかったら銃刀法違反だ。隣にはもはや彼女の一番弟子となったすみれ。
「あら、ムーンさんやないですか」
「あらじゃないですよ、じっとしててって言ったじゃないですか」
「そない言わんでください、一般市民として捜査に協力しとるんどすえ」
 何がどすえだ。まあそれはともかく、彼女たちは店内を反時計回りに進んできたそうだが、怪しい男は見掛けていないという。
「おかしいですね。念のためもう一回りしてみましょう」
 私はそのまま時計回りに、彼女たちもそのまま反時計回りに店内を進み、再びスタート地点、このみの待つ自動ドア前で合流した。お互いの表情から収穫がなかったのは一目瞭然。
「おらへんやん。どうなってんのやろ」
 そよかが怪訝な顔。すみれも親友に尋ねる。
「このみ、誰も怪しい奴は出て行ってない?」
「うん。制服姿の女の子が何人か出入りしただけ」
「おっかしいなあ。ということは、ということは…」
 そこですみれが興奮した様子でポンと手を打つ。
「これはあれだ! あれに間違いない!」
「何やのん、あれって?」
「犯人消失ですよ、そよか姉さん。犯人消失。犯人はトリックでこの店から姿を消したんですよ! ああ、やっと遭遇できた、これぞ本格ミステリー。しかも旅先で巻き込まれるなんて定番中の定番!」
 茶髪の女子高生は一人で盛り上がっている。
「トリックってどんなんや?」
「犯人消失のトリックはいくつかあります。例えば秘密の抜け道とか隠し部屋とかがあって、そこに潜んでるとか」
「忍者屋敷じゃないんだから、そんな抜け道とかないんじゃない?」
 このみがたしなめる。
「じゃあ…犯人は衣装を取り換えて別人に変装して逃走したのよ!」
「すみれちゃん、犯人は手ぶらやったんやから着替えは持ってへんかったんよ。それに大人の男が女子高生に返送してもバレバレやろ。別の意味で逮捕されるわ」
「じゃあじゃあ…本当はこの自動ドアから逃げたのに目撃者が見ていないと虚偽の証言をした。つまりこのみ、あんたが共犯者! イケメンの犯人にたぶらかされてわざと見逃したのよ」
「すみれ、殴ってもいい?」
「冗談よ、冗談。じゃあじゃあじゃあ…そうだ、そもそも犯人はこの店内にいなかったのよ」
「何言ってんの、あたしとすみれで入っていくのを見たじゃない」
「現代のテクノロジーを舐めたらあかんぜよ。あれはうちらの目を欺くためのホログラム…立体映像だったのよ!」
 さすがは推理作家志望、よくもまあそんなに色々と思い付くものだ。しかし如何せんどれもリアリティがない。このみとすみれが目撃者になったのはあくまで偶然だ、それを計算してホログラムを用意するはずがない。現実的に考えると…犯人はまだ店内に隠れている可能性が最も高い。
 ではどこにいる? ショップスペースには商品がたくさん陳列されているが人が隠れられそうな場所はない。しかもこれだけ客がいるのだ、棚の陰とか机の下に身を隠したら周りに不審に思われるはず。となると…。
「あの、すいません」
 私は先ほどの警備員に声を掛ける。
「店内にお客さんが使える化粧室とか更衣室はありますか?」
「トイレでしたらあります。場所は…」
 教えてもらった方向へ向かう。そよかと女子高生コンビもついてくる。観光客が殺到しないようにしているのか、少しだけ奥まった場所にトイレはあった。まずは女子トイレ、中には数人の学生がいるのみ。続いて男子トイレ。ちょうど出てきた男子高校生に訊いてみると、中は個室が一つ使われているだけで他に誰もいないという。しばらくそのまま待ってみたが男子トイレからは誰も出てこない。
「みなさんはここにいてください、絶対に」
 有無を言わさぬ語調で伝えてから、私は中へ進んだ。確かに個室のドアが一つ閉まっている。
「あの、すいません」
 軽くノックする。
「警察です。実は今、逃走中の犯人を追跡しておりまして、この店へ逃げ込んだ可能性があるんです。大変失礼ですが、ドアを開けてくださいますか。事件と無関係であればすぐに退散しますので」
 反応はない。中に人が潜んでいる気配はあるが無言だけが返される。振り返ると、そよかたちはトイレの入り口で心配そうにこちらを見ている。私は意を決して再度強めにノックした。
「すいません、ご協力をお願いします」
 またしても沈黙…かに思えたが、数秒後にカチリと鍵がはずれる音。私は数歩後ろに下がり、ごくりと唾を飲み下した。そよかもいつでも飛びかかれる姿勢で木刀を構えている。
 鈍く軋んでドアが開く。出てきたのは上下黒い服で野球帽にサングラスの男。私は身構えたが、男は俯いたままゆっくり両手を差し出す…自首のポーズだ。
「油菜小路で伊藤平助さんを負傷させたのはあなたですか?」
 尋ねると男は頷く。
「なんでそんなことしたんや、晃さん!」
 トイレに響くそよかの怒声。やはり彼女も晃を疑っていたのだ。男はそこで野球帽とサングラスを取った。
「全て私がやりました、本当に申し訳ございません」
 現れた顔は徳岡晃…ではなかった。しかし知らない顔でもなかった。
「どうして…」
 再び心の声が口から漏れる。
 それは今朝徳岡家を訪ねた時に私たちを案内してくれた使用人、古高であった。

 間もなく数台のパトカーで捜査員たちが到着。池田ショッピングパーク前はちょっとした騒ぎで通行人や修学旅行生で人だかりになった。そんな中、古高は微塵も抵抗することなくパトカーへと連行。
「ご協力に感謝致します。京都府警河原町署の松平です」
 褐色のスーツに色白の男が挨拶してくれる。階級は警部、油菜小路の傷害事件を担当しているとのことだ。
「警視庁のムーンです。出過ぎた真似を致しました」
「何を言うてはります、おかげで助かりました。スピード解決です」
 彼はウエーブのかかった長めの髪をすっと撫でてから微笑む。その言葉が婉曲表現ではないと信じたい。
「本件は東京の事件と関連があるんですよね。警視庁の江里口警視から捜査情報提供書をいただいております」
「あ、はい」
 答えながらも胸の中では戸惑っていた。逮捕されたのが徳岡晃ならまさにそうだったのだが…私はどこで何を間違えたのだろう。
「これからどないしはります? 僕は書に戻って古高の取り調べをしますけど、立ち合われますか?」
「よろしいんですか? ぜひお願いします」
「ほな行きましょう。僕の車にどうぞ」
「ありがとうございます。あ、ちょっとその前にすいません」
 私は一礼してその場を離れるとそよかと女子高生コンビの所へ駆け寄る。
「八尋さん、私はこれから警察署へ行かなくてはいけません」
「ほなうちも…って、わかっとります、そないな無茶は言えませんよね。恐い顔せんといてえな。おとなしゅうヨシコママの所で待っとります。終わったら連絡ください」
「わかりました。かなり無茶でしたけど、一応ご協力に感謝します」
「おおきに。でもたまげたなあ、あのおじいさんが犯人やったなんて」
「女新撰組の勝利ですね、そよか姉さん!」
 隣のすみれが嬉しそうに言った。
「ありがとな。あ、この木刀も返すわ。ほんまにいつかすみれちゃんの書いたミステリーをドラマ化したいなあ」
「ぜひぜひ、お願いします!」
 盛り上がる二人。するとこのみが一歩私に歩み寄ってきた。
「赤井さんもありがとうございました」
「あたしはたいしたことしてません。それよりムーンさん、容疑者が捕まったってことは、カイカンさんも京都へいらっしゃるんですか?」
「はい、もうじき」
「でしたら、あのおじいさんのこと、しっかり調べてあげてくださいって伝えてもらっていいですか? その…確かに怪しい状況ですけど、なんか悪い人に見えなくて」
 彼女の瞳は真剣だった。
「ほら、あたしも二年前、無実の罪で疑われてつらい思いしたから。それをカイカンさんに助けてもらって。だから、決め付け過ぎちゃいけないかなって」
「そうでしたね。わかりました、警部にはしっかり伝えておきます」
 そう答えるとこのみは淡く深く微笑む。背丈だけじゃない、彼女は心も一回り大きく成長したらしい。あの事件の記憶が悲しいスティグマではなく頼もしいエンブレムになってくれたことを私は胸の奥でそっと祝福した。
「ではこれで失礼します。修学旅行の続きをエンジョイしてくださいね」
「はい。ムーンさんもお仕事頑張ってください!」
 エールを贈り合って私たちは別れた。赤井このみ…次にまた彼女と会える日が楽しみだ。
「お待たせ致しました。よろしくお願いします」
 松平の所へ戻ると少し冷たい風が吹く。
「いえいえ。ほな、参りましょう」
 気付けば見上げた秋空はほんのりオレンジ色を帯び始めていた。

 河原町署の取調室。狭い室内に松平と私が並んで座り、木の机を挟んでその正面には古高が腰を下ろす。事情聴取が始まるやいなや、彼は何度も頭を下げながら「申し訳ございませんでした」とくり返した。
「それはもうええですから、落ち着いてください」
 松平が穏やかな声でなだめる。
「古高さん、本日午後2時に油菜小路で伊藤平助さんを突き飛ばして怪我をさせたんはあなたなんですね?」
「左様でございます」
「なんでそんなことをしはったんですか」
「それは…」
 少し逡巡を見せてから彼は答えた。
「それはあの方が私をゆすろうとしたからでございます」
「ゆする…恐喝ですか。伊藤さんは何をネタにあなたをゆすろうとしはったんですか?」
 苦虫を噛み潰すように古高は顔をしかめる。用意されたお茶にも全く手をつける気配がない。
「詳しくは…申せません。伊藤様から徳岡家に電話が入りまして、あることで私をゆすろうとされました」
「それであなたは伊藤さんに会いに行きはった?」
「左様でございます。油菜小路に呼び出しました。話しをしているうちに口論になりまして…伊藤様が掴みかかってきたのでとっさに突き飛ばしたんです。そこを通行人に見つかって…慌てて逃げました。申し訳ないことをしました」
「随分足がお速いんですね。あの場所から池田ショッピングパークまで結構距離がありますけど」
「まだ足腰にガタはきておりませんので。身を隠そうと思って逃げ込んだのですが…見つかってしまいましたね」
 そこで古高は深く息を吐く。伊藤を襲ったことは認めつつも肝心な動機がはっきりしない。言葉を止めた松平を見ると黙って頷いてくれる…質問があればどうぞ、という合図だ。
「あの」
 私は慎重に口を開いた。別の角度から質問を投げてみる。
「今朝、お宅にお伺いした時、確かかえでさんと一緒に午後からお見舞いに行くと話しておられましたよね。そちらには行かれなかったのですか?」
「一緒にお見舞いというのは違います。私は使用人、運転手として奥様を大奥様がいらっしゃるご施設へお送りしただけです。一人で油菜小路へ向かったのはそれが終わってからでございます」
「そうですか。あの、徳岡晃さんが今どこにいらっしゃるのかご存じですか? 昨日から行方不明なんです」
「存じません」
「本当ですか? 徳岡家の屋敷でかくまわれていらっしゃるのではありませんか?」
「違います。晃様には逃げ隠れする理由がございません」
「いえ、そうとも言えないんです。一昨日東京で起きた寧々さんの事件はご存知ですね? 実はあの事件において少なからず晃さんには疑わしい点があるんです」
「ございません!」
 古高は語気を強めた。松平がなだめる。
「落ち着いてください。長年徳岡家に務めてはるからかばいたい気持ちはわかりますけど、晃さんが行方不明なんは事実でして」
「務めておるのではございません、仕えておるのです。晃様は現当主であられるかえで奥様の御子息で徳岡家の次期当主になられる立派なお方です。子供の頃から心身ともにご健康で病院にお世話になったこともない強いお方です。そんな晃様にはやましいことなど塵一つもございません。何故なら…」
 古高は覚悟の形相で言い切った。
「何故なら、一昨日東京で寧々様を突き落したのも私、この私でございますから!」
 室内に轟く声。私の膝も震えた。この男が…徳岡寧々を襲った犯人?
「私がやりました。歩いていらっしゃった寧々様に近付き、土手の石段から突き落としたのでございます…そのお命を奪うために」
「殺人未遂を認めはるんですね?」
 松平の問いに深い頷きが返される。そして私に口を挟む隙も与えず続けた。
「全て白状致します。伊藤様はそのことで私を脅してきたのです。『お前がやったんだろう、警察に言われたくなかったら金を払え』と。だから私は伊藤様も手に掛けました」
「ちょっと待ってください」
 私は身を乗り出す。
「伊藤さんはどうしてあなたが寧々さんを襲った犯人だとわかったんですか?」
「存じません。たまたま東京にいる私を目撃されたのかもしれません」
「ではあなたが寧々さんを襲った動機は何ですか?」
 そこでようやく古高は言葉の勢いを弱める。
「全ては徳岡家のためでございます」
「どういう意味ですか?」
「あの方は徳岡家にふさわしい女性ではございませんでした。ですから始末を」
 本気で言っているのか? あまりに平然とした返答に私は異様さを覚える。
「どうしてふさわしくないんですか?」
「あの方には…ふしだらな所がございました」
「ふしだら…浮気をしていたということでしょうか」
「晃様からそうかもしれないと伺いました」
「しかし、実際に命を奪おうとされたのには…何か確かな根拠がないと」
「疑いだけで十分でございます。小さな不安の芽を確実に摘み取る…そうやって徳岡家は三百年以上の繁栄を守ってきたのでございます」
 そんな動機があるだろうか。戦慄よりも私は戸惑いを覚える。いくら仕える主君のためとはいえ、この男は自らの残虐な行ないに全く躊躇がなかったというのか。
「ええですか」
 私の言葉が止まったので再び松平が尋ねた。
「確認しますが、徳岡寧々さんを襲った件で伊藤平助さんがあなたを恐喝した、だからあなたは油菜小路で彼の口を封じようとした…それで間違いないんですね?」
 古高はまた深く頷く。
「その事件の目撃者が言うてはるんですよ、『ええじゃないか』と犯人が叫ぶ声を聞いたと。それもあなたが言わはったんですか?」
「よく憶えておりませんが、伊藤様と言い争う中で申したのかもしれません」
「よろしければ会話の流れを教えてください。なんで『ええじゃないか』なんて言葉が出はったのか」
「もうよいではございませんか!」
 古高は質問を遮る。
「一昨日東京で寧々様を襲ったのも、本日京都で伊藤様を襲ったのも、間違いなくこの私でございます。もちろん晃様もかえで奥様も一切関知しておられません。私の一存で、徳岡家のために行なった所業でございます。
 こうなった以上、どうかお手打ちに! どうか、どうか!」
 両手をついて額を机にこすりつける白髪の男。その姿に松平も私も言葉を失う。
 これが…これが真相なのか? 二人の被害者は名家を守るための犠牲だったのか? 全てはこの忠実過ぎる使用人の暴走で晃は関係ない、本当に…そうなのか?
 誰も何も発さない。降りてきた沈黙の幕がそのまま事件のカーテンコールを告げるかに思えたが…。
「失礼してよろしいですか」
 取調室のドアが低い声と共にノックされた。

「どなたです?」
 ドアが開く音。振り返った松平が固まった。先ほどの声とその反応で私には姿を見ずともそこに現れた人物が誰なのかすぐにわかる。ようやく…お出ましだ。
「どうも、警視庁のカイカンです」
 相変わらずのボロボロのコートにハットで変人上司はそこにいた。
「警部」
「やあムーン。初めまして、彼女の上司です」
「京都府警河原町署の松平です。遠路はるばるようお越しくださいました」
「あ、どうぞそのまま」
 腰を上げようとする彼を警部は制する。そして右手の人差し指を立てて一歩進み出た。
「事情聴取の様子は伺っていました。すいません松平警部、一つだけ古高さんに私から質問してもよろしいですか?」
「かましまへん、どうぞ」
 寛大な刑事は穏やかに頷く。
「助かります。古高さん、どうか頭を上げてください。私は東京の刑事で寧々さんの事件を調べている者です」
 顔を上げた男は少なからず警部の容姿に動揺を見せる。当然だ、日本全国どこでもこんな不審人物はそういない。
「油菜小路の事件についてですが、先ほどあなたは伊藤さんが掴みかかってきたとおっしゃいました。それはどのような感じでしたか?」
「感じとおっしゃられましても」
「どうぞ、実際に私を相手にやってみてください」
「掴みかかる動作を…でございますか?」
「はい、実演をお願いします。フフフ」
 不気味に笑う警部。古高はいそいそと立ち上がり警部の襟元に右手を伸ばした。
「こんな感じでございましょうか」
「こうやって伊藤さんは右手であなたの襟元を掴んだ…間違いありませんか?」
「間違いございません。それで私はとっさに突き飛ばしたのでございます」
「そうですか、ご協力ありがとうございました。お座りください」
 促されて使用人は椅子に戻る。当然釈然としていない。私もそうだ、今のロールプレイにどんな意味があるのだろう。するとまたドアがノック。松平の部下が入ってきて、彼に一つ耳打ちをしてから出ていった。
「鑑識からの報告です。古高さん、逮捕された時にあなたがかぶってはった野球帽から伊藤さんの血液が出ました。彼が壁に後頭部をぶつけた時に飛び散った血ですね」
 決定的な物証だ。
「ちなみに寧々さんを襲った時、履いてはった靴は今履いてはる靴ですか?」
「左様でございます」
「ほなそれも鑑識に回させてください」
「ご随意に」
 古高は感情なく答えると、松平、私、そして警部を順に見た。その目はまるで酩酊でもしているかのように恐ろしく据わっている。
「気の済むまでお調べになってください。ただ、罪人は私でございます。この手がお二人を襲ったのでございます。それは絶対でございます」
「最後にもう一つだけ」
 警部がまた右手の人差し指を立てる。
「先ほどあなたは全ては徳岡家のためにやったとおっしゃいましたね」
「…はい」
「どうしてです? どうしてそこまで徳岡家のために尽くすのですか? 失礼ですが、あなたはあくまで使用人であって徳岡家の人間ではないのに」
「五十年です」
 彼は全く惑いなく答えた。
「五十年仕えて参りました。私は先々代の当主であられた家光様に拾っていただいたのでございます。その御子息であられる陽一郎様が当主を継がれてからも、二十年前に陽一郎様が亡くなられてかえで奥様が当主を継がれてからも、ずっと良くしていただきました。そんな私にとって、徳岡の家はただの勤め先ではございません。人生そのものでございます」
 彼の瞳に涙が滲む。
「私の最後の役目は晃様に無事当主を継いでいただくこと。それがご迷惑をおかけした家光様への罪滅ぼし、いや御恩返しなのでございます」
 まるで宣誓のように気高い訴えだった。これが事情聴取の終焉。警部は「そうですか」とだけ告げて人差し指を下ろした。

「いつ頃こちらにいらっしゃったんですか?」
 河原町署のロビー。ソファに腰を下ろした警部に私は尋ねた。
「ついさっきさ。晃さんのお母さんがかえで先生だって聞いて、居ても立ってもいられなくなってね。でも私が新幹線に乗っている間に次の事件が起きてるなんて驚いたよ。しかも被害者があの伊藤さんだなんて。東京と京都で事件の連鎖、まるで2時間サスペンスだ」
「のん気なことを言ってる場合じゃありませんよ。どう思われます? 古高さんの証言どおり、全て彼がやったのでしょうか」
「どうだろう。まるで時代劇みたいな演説だったけど」
「あ、そういえば警部、赤井さんを憶えておられますか? 赤井このみさん」
 私は京都駅での彼女との再会、そしてそこから池田ショッピングパークでの捕り物騒ぎまでの流れを説明した。
「彼女からの伝言です、古高さんを犯人だと決め付けずにしっかり調べてあげてくださいと」
「フフフ、了解。赤井さんが元気そうでよかった」
 変人上司は不気味に笑うと、少しだけ懐かしそうな顔をした。
「実はちょっと引っ掛かってはいるんだよね。古高さんの証言は確かにどれも事件の状況と一致してたけど、一つだけ食い違ってる箇所があった」
「どこですか?」
「伊藤さんに掴みかかられたっていう所さ。実演してもらって確認したけど、伊藤さんが右手で古高さんの襟元を掴んだって言ってたよね」
「はい、確かに」
 警部がまた人差し指を立てる。
「そこがおかしい。だって伊藤さんは左利きだ。ほら喫茶店で会った時に彼は私たちに左手を上げて挨拶してくれたし、塩の瓶も左手で取ってトマトジュースに振ってた」
 そういえば…と私もその姿を思い出す。
「カッとなって掴みかかるのなら利き腕の方が自然ですよね」
「そのとおり」
 警部は立てていた指をパチンと鳴らす。
「そもそも脅された側ならともかく、脅していた側の伊藤さんが怒って掴みかかるというのが不自然だ。伊藤さんは本当に古高さんをゆすったりしたのかな」
「しかし警部、古高さんの野球帽からは伊藤さんの血液が出ています。それにもしかしたら靴からも…」
「出ましたよ」
 松平の声。振り返ると彼が廊下からやって来る。色白の顔に得意げな笑みを浮かべ、その手には鑑識の結果らしき紙。
「古高の靴からアキナーマートのカフェオレの成分が出ました。徳岡寧々はカフェオレを手に持っていて、襲われた時に落とした、そやから犯人の靴に付着した可能性があるんですよね?」
「はい。でもどうしてご存じだったんですか? 先ほど取調室でその鑑識指示を出された時は驚きました」
 私が尋ねると彼はまた自らの髪を撫でる。
「江里口警視からの情報提供書に書いてありました。あの方には広域捜査学会の時にとてもお世話になったもので」
「そうでしたか。色々とありがとうございます、取り調べにまで立ち合わせていただいて」
「それも江里口警視からのご依頼です。聡明な女刑事さんと奇抜な上司が行くのでよろしくと書いてはりました。あ、こりゃ失礼」
 松平は上品に笑う。合わせて笑ってから私は「ですって警部」と水を向けた。
「今回はエリーに大きな借りができちゃったね。さてと」
 ゆっくり立ち上がって低い声は言った。
「本当にお世話になります、松平警部。それで…これからの捜査はどうなります?」
「本人も自白していて物証もありですからね、十分に古高を送検することはできると思いますが…念のためもう少し裏を固めたいと思います。どうやらそちら様も合点がいっておられへんご様子ですし」
「助かります」
 警部が軽く一礼。
「いえいえ。それで病院に運ばれた伊藤平助ですが、処置が終わって無事意識も戻ったそうなんです。これから聴取に行くんですけど、ご一緒されはりますか?」
「よろしくお願いします」
 警部と私は全く同じタイミングで答えた。そんな様子に松平が笑う。
「お江戸の刑事は息がピッタリやなあ」

「いやあ、夢が叶いましたよ」
 松平が運転する車の助手席で警部が言った。
「一度来てみたかったんですよ、河原町。ほら、『京都慕情』って歌の冒頭の歌詞に出てくるじゃないですか。あの曲が好きでしてね。松平さんはご存じですか?」
「渚ゆう子ですよね。うちの母が好きでした。あの人の姿懐かしい黄昏の河原町…なんて、よう洗濯物干しながら歌っとりましたよ」
 私は知らない曲だったが警部は嬉しそうに頷いている。
「そうそうそれです。さっき警察署があった辺りが河原町なんですね?」
「ちょっとちゃいます。夢を壊してしまうかもしれませんが、河原町いうんは町の名前やないんです」
「え、そうなんですか」
「通りの名前なんです。南北に走る長い通りでして、だから河原町っていうても一つの場所やないんですよ。あの曲はどの辺りのイメージで書かれてはるんやろ。
 それやったらカイカンさんに一つクイズ、京都で『河原町丸太町に集合』って言うたらどこに集合やと思います?」
「二つの町に集合っていうのは…おかしいですよね。いや、河原町が町じゃなくて通りの名前だとすると、丸太町ももしかして通りの名前?」
 右手の人差し指を立てる変人上司。
「二つの通りで集合…いや、二つの通りが重なる場所で集合ということじゃないですか?」
「ご名答。河原町通りと丸太町通りの交差点で集合という意味です。それを河原町丸太町って表現するわけですから面白いですよね。ちなみにうちの署も正式には河原町三条署っていうんです」
「わかりました、河原町通りと三条通りの交差点にあるからですね」
 警部が立てていた指をパチンと鳴らす。
「そういうことです。面倒やから河原町署って言うてますけど」
「いやあ面白い、まるでスパイの暗号だ」
 そんな会話を聞きながら私も後部座席で頷く。確かに縦と横に碁盤の目で通りが走っている京都だからこそ成立する暗号、しかもその通りの並びを暗記している京都人だけに通じる暗号だ。きっとそよかに言ったら「そんなん常識や」と言われてしまうだろうが。そういえば彼女、ヨシコママの店で待つと言っていたが…随分遅くなってしまっている、まだ待っているのだろうか。
 ふと視線を向けた車窓には高い建物のない古都の町並みが夜の中を流れていく。松平はまるでバスガイドさながらに、ここが芹澤加茂が暗殺された宿、ここが紫式部が最期に住んでいた家があった場所、ここが平安京で一番大きな通り…などなど、いくつもの解説をしてくれる。本当に修学旅行のよう。金閣・銀閣や清水寺だけじゃない、日常の風景の中にも時代の痕跡…確かにここは歴史の都だ。
 そんなわけで全く退屈せずに警部と私は伊藤の入院する病院へとたどり着いた。駐車場に停車し松平が夜間通用口で警察手帳を示すと、すぐに白衣姿にスポーツ刈りの主治医が廊下の向こうから現れる。
「先生、伊藤さんの容態はどないですか」
「出血の割に傷は浅くて脳への損傷も見られまへん。命に別状はおまへんな」
「それなら事情聴取できますね」
 そう意気込んだ松平だったが、医者は顔を曇らせる。
「それはちょっと、難しいかもしれへんです」
「なんでです?」
「頭を強く打ってはるせいか、あるいは事件のショックのせいか、どうも記憶を失ってはるようなんです」

 聴取は短時間ならばと一応許可が得られた。どういうわけか警部が遠慮したので松平と私が伊藤の病室へ入る。そこは六畳ほどの個室、中央に置かれたベッドに彼は上半身を起こして座っていた。頭に巻かれた包帯は痛々しいが、特に具合が悪そうな様子はない。ただ困惑しているのは明らかで、二つの瞳は落ち着きなく動いていた。
「初めまして、伊藤さん。私は河原町署の松平と申します」
「どうも、伊藤平助です」
 主治医の見立てでは彼に起きているのは逆行性健忘…つまり新しい記憶の入力は問題ない。また自分がどこの誰であるとか、これまでの生活史も問題なく思い出せる。ただここ数日間の記憶だけがすっぽり抜け落ちているというのだ。松平はそれを確かめるためにいくつか質問を投げてみたが、伊藤はどうして自分が京都にいるのかもわからないと答えた。
「あなたは油菜小路で被害に遭いました。どうしてそこに行きはったのか…理由は思い当たりますか?」
「わかりません。大学の頃は京都にいたから油菜小路には何度か行ったことはありますけど…今これといった用事はないと思います」
「誰かに呼び出されたということは?」
「そうかも…しれませんけど、すいません、憶えてません」
 もどかしそうに右手を額に当てる伊藤。先ほど彼のスマートフォンの履歴も確認させてもらったが、確かに伊藤は昨日一度徳岡家に電話をかけていた。古高の証言どおりなら、その電話で脅迫したことになる。
「この男性に見覚えはありますか?」
 古高の写真が示される。伊藤は数秒じっとそれを見つめてから「いいえ」とかぶりを振った。松平はベッドを離れ、「どうぞ」と私にその場を譲ってくれる。
「こんばんは。あの、伊藤さん、私のことを憶えていますか?」
「いえ、どなたでしょう」
「警視庁の刑事でムーンと言います。昨日東京の喫茶店でお会いしたんですよ。では…徳岡晃さんのことはご記憶ですか?」
「あ、はい。大学時代の同期です。同じ陸上部で」
「では、彼が今どこでどうしているかはご存じですか?」
「え? 東京で暮らしていると思いますけど…あいつが何か?」
 彼は怪訝な顔。どうしてそんな質問をされるのかわからないといったふうだ。しかしまいった、そこまで記憶が抜け落ちているとは。
「寧々さんのことはご存じですか?」
「あいつの奥さんですよね。結婚式にも行きましたから」
「では」
 私はいくつか追加の質問を投げて彼の記憶を確認。伊藤は晃から頼まれて寧々の浮気調査をしたことまでは憶えていたが、彼女が土手から突き落とされた事件については完全に忘れてしまっていた。
「あの、徳岡がどうかしたんですか? どうして奥さんが突き落されるんです?」
「詳しくは申せません。ご協力ありがとうございます」
「ちょっと待ってくださいよ。そもそも俺はどうして京都でこんな目に遭ってるんですか」
「何かわかったらご報告に上がります」
 これでは埒が明かない。松平と私はアイコンタクトで確認すると「失礼します」と一礼、余計に困惑させてしまった伊藤を残して病室を出た。廊下を少し進んだ所に警部が昆布をくわえて立っていた。松平は収穫がなかったことを報告する。
「弱りました、一言でも古高に突き飛ばされたと言うてくれたらよかったんですけど、なんも憶えてないの一点張りで…お手上げです。お江戸の警部さんのお知恵を拝借できますか?」
「了解しました、京都の警部さん。ちょっと行ってきます」
 変人上司は昆布をポケットに戻して彼の病室へ。私もいつもの癖で後を追ったが、「君はドアの外で待ってて」と同席は許可されなかった。
「こんばんは」
 ノックもせず中に入っていく低い声。私はドア越しに聞き耳を立てる。
「いやあ、大変でしたね。お加減はいかがですか?」
「まだ傷は痛みますけど大丈夫です。あの…」
「あなたが事件に巻き込まれたと聞いてお見舞いに来たんですよ。ところでご家族に連絡は?」
「病院がしてくれました。もう少ししたら両親が到着すると思います。それよりあの…」
「そりゃよかった。こんな時になんですが私も京都へ来られてとても喜んでいるんです。さっき河原町が実は町じゃなくて通りの名前だって知って驚きましてね。ご存じでしたか? あ、ご存じですよね、大学の時にこちらにおられたんですから。私がどうして河原町に来たかったかと言いますと、渚ゆう子さんの『京都慕情』っという曲が好きでしてね。この曲、色んな京都の地名が出てくるんですよ。ベンチャーズもカバーしてまして…」
 いったい警部は何の話をしているのだろう。相槌がなくなっていることから伊藤も困惑を通り越してイライラしていることが伝わってくる。
「そういえばジュディマリにも『KYOTO』という曲がありましたね。高校の文化祭の時に可愛い女史がバンドで歌ってたなあ」
「刑事さん、いい加減にしてください!」
 ついに怒気を含んだ声が飛ぶ。
「俺、怪我して入院してるんです。そんな無駄話をしてる余裕ないんですよ」
「すいません、つい」
 途端にしょんぼりする低い声。だから言わんこっちゃない。
「では一つだけ教えてください。伊藤さん、『ええじゃないか』…この言葉に何か思う所はありますか?」
 ようやく本題。そういえばそのことについて松平も私も質問していなかった。
「ええじゃないかって…昔日本史の授業で習いましたけど」
「そうですよね、でもそれ以外ではどうでしょう。実は今日、油菜小路であなたを襲った犯人が叫んでいたらしいのですが、何か思い当たりませんか?」
 再び黙る伊藤。やがて覇気のない声が答えた。
「すいません、全くわかりません。犯人の顔も…憶えてないんです」
「そうですか。いや、お気になさらず。ではゆっくり休んでくださいね。これで失礼します」
 無礼な聴取は終わりらしい。私がドアから少し離れると変人上司が出てきた。長い前髪のせいで表情はわかりにくいが少なくとも微笑んではいない。そのまま歩いていくので私も続く。廊下の角で待っていた松平が髪を撫でながら尋ねた。
「どないでした、収穫は」
「そうですね」
 夜の院内に低い声が重たく響く。
「麦が一本くらいでしょうかね」

「ほな」
 帰りの車中、最初に口を開いたのは松平だった。
「そろそろ教えてもろうてよろしおますか? 不毛の地から収穫しはった一本の麦について」
「はい」
 助手席の警部が答える。
「私は伊藤さんの病室に入った後、あえて自己紹介をせずにどうでもいい話を延々としました。すると彼が怒ったんです…『刑事さん、いい加減にしてください』と。ムーン、これはどうしてだと思う?」
 突然水を向けられて後部座席の私は驚く。
「いやあの、どうしてと言われましても…興味のない話を延々とされたら誰でも怒ると思います。相手は怪我人で余裕もなかったでしょうから」
「そうじゃない、私が言ってるのはどうして彼が『刑事さん』と私を呼んだかだ」
 一瞬車内に沈黙が走る。
「私は自分が刑事だなんて一言も言っていない。私のことを知らない人間が私を見て刑事だとわかると思うかい? 事件の話も全くしていないのに」
 自信を持って言われても困るが確かにそうだ。第一印象で警部を見て警察官だと思う人はまずいない。
「ねえムーン、君は私のことを彼に事前に説明したのかい?」
「いえ、していません。私が警視庁のムーンという刑事で東京の喫茶店で会ったとお伝えしただけです」
「だったらおかしいじゃないか。君のことを全く憶えていなかった伊藤さんが私のことは刑事だとわかるなんて。喫茶店で会った時の記憶はないはずなのに」
「少しだけ記憶が戻ってきてはるのでしょうか」
 と、松平。
「あるいは…」
 そこで低い声は告げる。
「記憶喪失のふりをしているか」
 ちょうど赤信号で車が止まる。松平はハンドルから手を放して拍手した。
「お見それしました。素晴らしいです。なるほど、そうですね。ほんまは全部憶えとって、つい口が滑って『刑事さん』と言うてもうたんかもしれませんね。それにしてもそのお姿にそんな罠が仕掛けられていたとは、いやはや。だからあえてそんなお姿で京の都へいらっしゃったんですね」
「どうも、フフフ」
 得意げに笑う変人上司。いや待て、この人がこんな格好をしてるのは別に今日に限ってのことでも京に限ってのことでもない。今回たまたま役に立っただけだ。騙されないで、京都府警!
「ですが警部」
 気を取り直して私は質問を投げる。
「彼の失言にお気付きだったのならどうしてその場で追及されなかったのですか?」
「迷ったんだけどね、事件のショックで記憶が混乱してるとか言われちゃったらそれまでだし、伊藤さんが怪我人なのも事実だしね。あまり負担をかけるのもよくないかなって」
 再びハンドルを握った松平が車を発進させながら言う。
「もし伊藤平助が意図的に記憶喪失の振りをしてるんやったら、どんな推理をしはりますか? ぜひお考えをお聞かせください」
「お考えなんて対逸れたもんじゃないですが…もし伊藤さんが記憶喪失を装っているのだとすると、それは犯人を庇うためだと思います。そして伊藤さんが古高さんを庇う理由は思い当たりません」
「なるほど。では伊藤が庇う相手というと…?」
 松平の問いに私もゴクリと唾を飲み下す。
「徳岡晃さんですよ」
 やはりその名が出たか。私は膝の上の拳を握って尋ねる。
「警部は晃さんが犯人だとお考えですか? 寧々さんを襲ったのも伊藤さんを襲ったのも古高さんではなく晃さんだと」
「こんなストーリーはどうだろう」
 右手の人差し指が立てられた。
「今年の夏、晃さんは寧々さんの浮気を疑った。そして伊藤さんに寧々さんの調査をお願いした。その結果、浮気の証拠は何も出なかった。しかし晃さんの疑いの炎は燃え上がり、ついに一昨日寧々さんを土手から突き落とす暴挙に出た。
 目撃者がいたことですぐに事件として捜査が開始。昨日喫茶店で私の事情聴取を受けた伊藤さんは晃さんが警察に疑われていることを知る。そしてそのことを伊藤さんから聞いた晃さんは逃亡。連絡がつかなくなった晃さんを心配した伊藤さんは京都の徳岡家に電話をかける。そこで晃さんと会う約束を取り付けた。
 そして今日、伊藤さんは油菜小路で晃さんと会った。そこで本当に晃さんが寧々さんを襲ったのか問い詰める、あるいは自首を勧める。それが言い争いに発展して晃さんが伊藤さんを突き飛ばして逃走。池田ショッピングパークへ逃げ込んで、そこで古高さんとすり替わった。かぶっていた野球帽も渡した。そして古高さんは犯人として自首した」
 淀みない語りに松平と私は言葉を失う。そのまましばらく走らせてから、運転席の刑事は口を開いた。
「確かに…そういう可能性もありますね。しかしどうでしょう。浮気の証拠がなかったのに疑いの炎が燃え上がるいうんはストーリーとして無理があらしませんか?」
「おっしゃるとおりです」
 変人上司は推理の弱点を認めた。松平は続ける。
「それに目撃者の野々村が証言した『ええじゃないか』についても意味不明です。仮に伊藤と油菜小路で会ったのが徳岡晃だったとして、彼は何故そんな言葉を叫ぶんです? ハハハ、幕末の民衆じゃあるまいし」
「そう…ですよね」
「いや、でもお見事な推理や。僕らも古高を送検するんはもう少し調べてからにしますよ。お二人は長旅でお疲れでしょうから、今夜はゆっくりお休みになってください。何か動きがあったらご連絡します」
「ありがとうございます」
 また警部と私は同じタイミングで返答、松平が笑う。
「ほなこのままホテルまでお送りします」
 そういえば宿を押さえていないことに気付く。そしてもう一つ私は大事なことを思い出した。思わず勢いでお願いする。
「すいません、ホテルではなくスナックへ行ってほしいのですが」