第二章 八月十八日の聖戦

●ムーン

「ではランチョン事情聴取といきましょう、いただきまーす」
 合掌してから警部はスプーンを握る。そしてお気に入りの激辛カレーを口へと運び、満足そうに頬張った。その様子を見て頭にバンダナを巻いた馴染みの店員も「ごゆっくりどうぞ」と笑顔でテーブルを離れる。
 ここはすずらん医大病院の近くにある『キーヤンカレー』、ログハウス調の内装にハワイアン音楽が流れる警部の行きつけのカレー屋だ。私も何度か一緒に来ているが、他の客から離れたこの奥のテーブルはもはや指定席と化している。警部の正面で八尋そよかもカレーを一口。
「お味はどうです?」
「ええ、食べれんことないです。まったりしてええお味」
 警部の問いにそう答えた彼女にはようやくほのかな明るさが戻る。それにしても、この女はどうして素直においしいと言わないのか。食に愛着の少ない私でさえ、ここのカレーの魅力は認めざるを得ないのに。まあ今はそんなことでカリカリしても
仕方ない。それに食事を楽しみに来たわけでもないのだから。
 ランチョン事情聴取…ランチ・オン・事情聴取、すなわちお昼ごはんを食べながら事情聴取をするということ。もちろん警察の捜査規定にそんな専門用語はなく警部のオリジナル。あのまま病院の駐車場で立ち話をするわけにもいかず、それならばと警部が提案すると彼女も応じたのだ。まあこの店なら徳岡寧々の容態に何かあってもすぐに病院へ駆けつけられる。
「それでは」
 しばらくそれぞれの腹ごしらえをしたところで低い声が改めて言った。
「そろそろお伺いしましょう。八尋さん、犯人の男を知っているというのはどういうことでしょうか」
「ほな」
 彼女はスプーンを置き、上品にナプキンを口に当ててから続けた。
「まずはうちと寧々の関係のルーツからお話します。その方が話がスムーズやと思いますから。うちは京都、寧々は東京の出身で、コスモ大学の同期やったんです。コスモ大学はご存じですよね」
「もちろん、東京にあるマンモス大学ですよね。学生数も学部数もかなり多い」
「うちは教育学部、寧々は経済学部やったんですけど、おんなじ剣道部に入ってそこで
出会いました」
「八尋さんは剣道をやってたんですか」
「高校の時からやってます。寧々は一年浪人しとったからうちより一つ年上やったんですけどすごく気がおうて、すぐに仲良うなりました。卒業した後も二人とも東京に就職したんでそのまま関係が続きました」
「八尋さんは大学から上京されたんですか?」
 と、私。
「上京やのうて都落ちどす、ムーンさん。まあそんな感じで社会人になってからも仲良うしてて、寧々が晃さんとつき合うようになってからもそれは変わりませんでした」
「確かお二人は喫茶店でばったり出会ったんですよね」
 警部の言葉に彼女はニヤッと笑った。
「何を言うてはりますのん、こんなにぎょうさん人がおる東京の街でそんな偶然あらしまへんえ。テレビドラマやないんやから」
「え、でもそれじゃ」
「うちがそうせえって言うたんです。寧々、銀行の窓口で応対しながら晃さんのことええなあってずっと思うとって。それでうちにどうしようって相談するから、彼のよう行く店を突き止めて、自分もそこへ通えって言うたんですよ。運命なんて待っとったら日が暮れてまう、自分から向かって行かなあかんって」
「そうだったんですか。それはそれは。でも八尋さんのアシストのおかげで二人は結ばれたんですね」
 警部は苦笑いで水を飲む。
「寧々は別嬪やし気も利くから学生時代もようもててました。でもあんまり軽薄な人は好きやなかったから、晃さんみたいに真面目な人がよかったんやと思います。あ、喫茶店で待ち伏せの話は晃さんには内緒ですよ」
「了解しました。続けてください」
「そんな感じで、寧々が結婚してからも時々家に遊びに行ったりしてうちらの関係は続いとりました。それでこっから本題ですけど、今年の夏…8月に寧々から相談を受けたんです、変な男に見貼られとるかもしれへんって」
 口元から笑みが消えた。警部と私も背筋を正す。
「7月くらいから時々男の視線を感じるようになったって寧々は言うてました。ほら、綺麗なお人はそういう視線に敏感になりますやろ」
 同意を求めるようにこちらへ注がれる流し目。私は曖昧に頷く。
「通勤の道中とか、買い物へ出た時とか、毎日必ずってわけやなかったんですけど寧々は見張られてる感じがして、ひょっとしたらストーカーやないかって一人で悩んでました」
「ご主人には相談されなかったのでしょうか」
 と、私。彼女はまたほのかに笑むと「晃さんに言うたら大ごとになってまうから」と答えた。警部と私は意味が掴めず沈黙。
「結婚前に寧々から聞いた話ですけど、デートで居酒屋で飲んどった時、晃さんがトイレから戻ったら寧々が知らん男に声掛けられとって、それは寧々の中学時代のクラスメイトやったんですけど、晃さん、それを確認する前に相手に掴みかかったんやそうです…悪い男が寧々にちょっかい出しとるって思うて。まあお酒も入っとったし、すぐに誤解は解けて相手も許してくれはったみたいですけど」
「晃さんはそんなに激情家なんですか。さっきお会いした時の印象だと真面目で冷静な
雰囲気でしたが」
 と、警部。私も同じ感想だった。
「普段は冷静な人なんやと思います。それにまっすぐ過ぎるくらいまっすぐで、営業マンやのにオベンチャラの一つも一切言えへんって寧々も言う手ました。
 でも人間、好きな人のことになると冷静やなくなるやないですか。晃さん、寧々のことになると早合点して突っ走って…そのくらい寧々のこと大切にしとったんです。愛されとる証拠やないのってうちが言うたら、その時は寧々も笑ってました」
「ナルホド」
 独特のイントネーションで警部が頷く。
「確かにそういうご主人なら、寧々さんもストーカーがいるかもなんて簡単に相談できませんね。もし早合点で罪のない人に掴みかかっちゃったら大変だ」
「はい。あ、でも晃さん、普段はほんまに温厚で優しい人みたいですよ。先週蛍ちゃんの通院の時も、風引いた寧々の代わりに晃さんが仕事休んで行ってくれたって言うてましたし」
「蛍ちゃん、どこかお悪いんですか?」
「食べ物にアレルギーがあって、特にお肉類が苦手やそうです。それで時々通院しとるみたいで。フフフ、寧々はもちろんやけど、晃さんも蛍ちゃんが可愛くて仕方ないんやな」
 その幼い少女は母親の身に起きた悲劇をきっと知らされていない。今日、幼稚園の時間が終わったらどうするのだろう…と私は余計なことを考える。
「寧々が晃さんにストーカーを相談しにくかったんは単純に心配かけたくなかったっていうのも大きかったんやと思います。あの子、ほんまに気い遣いで、自分の悩みとか人に言わへんから。
 前もうちと寧々と晃さんの三人で食事したら、しばらく元気なかったんです。いったいどうしたんって聞いてもなんも言わへんし。問い詰めたら、うちと晃さんが楽しそうに話しとるのを見て不安になったって言うんです。笑ってまいましたよ。確かに晃さんはええ人やし、うちも気楽に話せます。同じ京都出身で同い年やからかな、親しみも感じますけどうちの恋愛センサーには1ミリも引っ掛かりません。男はもっとワイルドで色気がないと。それを言うたら寧々は逆にふくれてました。
 ほんま気を遣い過ぎなんです、あの子は。ストーカーのことも、なんか元気なかったんでうちが質問攻めにしてようやく白状したんやから」
 一瞬そよかの瞳に悲しい色が浮かんだ。生死をさまよう親友の姿が頭に過ぎったのかもしれない。それでもすぐにまたその眼光は強さを取り戻す。
「それで、うちが寧々のために一肌脱ぐことにしたんです。寧々の仕事が休みの日に一人で街をブラブラ歩いてもろうて、うちが少し離れた所からそれを見守って…誰かが寧々をストーキングしてへんか確認する作戦です」
「そんな危険な。どうして警察に相談しなかったんですか?」
 あきれ半分で問う私。
「一応寧々は近所の交番には一回相談に行ったんです。でも視線を感じるのは毎日やなかったし、実害もあらへんかったからあんまり取り合ってもらえんかったって言うてました」
 確かに…具体的な加害者の存在があるならいざ知らず、時々誰かに見られている気がするというだけでは警察も動きにくいかもしれない。でも待てよ、近所の交番というのはもしかして…。
「それでその作戦はどうなったんですか?」
 私が口を開くより早く警部が話題を戻した。
「一時間くらいかな、離れて寧々を見とったら気が付きました…建物の陰から寧々の方を見とる男がほんまにおることに。距離はありましたけど、あれは寧々を見張っとるんやって直感しました。駆け寄ろうとしたんですけど、そしたらうちと目が合って、そいつはすぐにどっかへ逃げてしもうたんです」
 それは重要情報だ。警部も右手の人差し指を立てる。
「八尋さん、その日時をご記憶ですか?」
「あれはお盆過ぎの…そう、8月18日です。作戦を立てた時、これは『八月十八日の聖戦』やって寧々と盛り上がったんで憶えてます」
「ナルホド、『八月十八日の政変』をもじったわけですね」
 また警部は苦笑。八月十八日の政変…聞き憶えがある。確か幕末に京都で起きたクーデターのようなものだったか。
「男を見た時刻はお昼前の11時くらいやったと思います」
「その男の特徴は何か思い出せますか?」
「遠目に一瞬見ただけやから確かなことはよう言わんですけど…坊主頭にゲジゲジ眉毛やったのが印象に残ってます。体型は普通で…すいません、憶えとるのはそれくらいです」
「わかりました。貴重な情報をありがとうございます。ちなみにそのゲジゲジマンには見覚えはありましたか?」
 変人上司はまた容疑者に妙なニックネームを付ける。
「うちですか? あらしません。寧々にも訊いてみたけど、ゲジゲジ眉毛の知り合いは記憶にないって言う手ました」
「そうですか。それで…その8月18日以降、ゲジゲジマンは現れましたか?」
「いいえ。一切視線も感じなくなったって寧々は言うてました。聖戦の勝利やって二人で安心してたんですけど…まさかこんな」
 ハスキーボイスが沈む。警部は立てていた指を下ろすと再びスプーンを握った。
「八尋さん、確かにゲジゲジマンは怪しいですね。その男がしつこく寧々さんを付け狙って今朝凶行に及んだ可能性は十分にあります。あなたが犯人だとおっしゃるのもわかります」
「はい」
「何か他にお話はありますか?」
「いえ、こんくらいです」
「でしたら腹ごしらえを再開しましょう。ね、せっかくのカレーが冷めちゃいますから」
 自責感と無力感の沼に沈みそうになる彼女の心を救い上げるように警部は明るく言った。まったく、こういう時の優しさはあるんだよな、この人。私も手帳をしまって食事を再開する。おいしいカレーの力によるものか、それとも生まれ持った気質によるものか、若きテレビディレクターはすぐに元気を取り戻して綺麗にたいらげると、店を出る頃には店員に「そのうち取材に来てもええどすか」なんて明るく声を掛けていた。

 その後もう一度病院に戻ったが、集中治療室でガラスの向こうに眠る徳岡寧々の容体は変わらず、急変しないことと意識が戻ってくれることを祈るしかない状況であった。晃と中里夫妻に追加の事情聴取ができる雰囲気でも当然なく、また駐車場まで出たところで警部が言った。
「ではエネルギーもチャージしたし午後の捜査を開始しよう。ムーン、私は寧々さんが相談に行ったっていう近所の交番を当たってみる。ストーカー被害についてもっと詳しい情報が聞けるかもしれない」
 変人上司の足取りがにわかに軽くなった気がする…見つけたのだ、『取っ掛かり』を。
「わかりました。私はどうしましょう」
「そうだね」
 ゆっくり立ち止まってから低い声は告げた。
「彼女と一緒に実際にゲジゲジマンが目撃された場所に行ってきてもらおうかな。もう三ヶ月前だけど、何か手掛かりがあるかもしれない」
 彼女って…と思いながら警部の視線を追って振り返ると、そこにはちゃっかりそよかの姿。
「八尋さん、病室に残られたんじゃないんですか?」
「何を言うてはりますのん、うちは捜査に協力するって言うたやないですか。でもできればカイカンはんと一緒がええなあ、ムーンさんとやなくて」
「ダメ、取材はなしです。あなたはムーンと一緒に動いてください」
「いけずやなあ。うち、さっき寧々の寝顔見ながら覚悟決めたんです。この事件は絶対ハッピーエンドにするって。犯人も捕まって、寧々も目が覚めて、おまけにカイカンはんのテレビ特番も組めたらスーパーハッピーエンドやって。うちはそれを目指します」
「ハッピーエンドは私も目指したいですけどね、テレビ特番はともかく。じゃあムーン、よろしく」
 そう言うと警部はさっさと去ってしまう。なんだか私にはお構いなしで話が決まった気がするが…これも命令なら仕方ない、それに八尋そよかは今や重要な目撃者だ。
「では参りますか、八尋さん」
 警部の後ろ姿を見送っていた彼女に声を掛ける。振り返ったその顔は意外にも穏やかだった。
「改めて、よろしゅうおたの申します、ムーンさん」
 深く頭を下げられて私は恐縮する。
「あ、いえ、こちらこそ」
「ほな」
 顔を上げてハスキーボイスは言った。
「ムーンさんの本名を教えてください。よかったらついでにカイカンはんのも」
 …やっぱり油断ならない。この事件の捜査は別の意味で前途多難だと私は思った。

 その後、二人で問題の男が目撃された場所に行ってみたが…八尋そよかはここでもパワー全開の行動を見せる。なんと道行く者や近くで店を営む者に片っ端からアタック、坊主頭でゲジゲジ眉毛の男を知らないかと尋ね回ったのだ。驚くべきは尋ねた相手がちゃんとそれに応じてくれること…嫌がるどころかむしろ嬉しそうに彼女の質問に答えていた。ハンドマイクこそ向けていないがそれはまるでテレビ番組のグルメリポーターさながらで、小柄な彼女がクルクル動き回れば周囲の目がそこに引きつけられていく。私なんて警察手帳を示しても煙たがられることがしょっちゅうなのに。
 彼女の後ろに突っ立ちながら、私はそのイリュージョンな光景にポカンとするしかなかったのである。

 秋の日はつるべ落とし、私がそよかと別れて警視庁のいつもの部屋に戻った頃にはすっかり窓の外は暗くなっていた。警部はまだ留守だったので、ビンさんにこれまでのいきさつを報告すると、ミットの長は声を出して笑った。
「ハッハッハ、それは大変だったな。そのテレビディレクターのお嬢さん、肝が据わってる」
「肝が座っていると言いますか、あざといと言いますか。私と二人で話してる時は文句ばっかりなのに、目撃情報を尋ね回る時には途端に愛想が良くなって…特に相手が男性だとそれが顕著で。まったく、何なんでしょう。
 それに普通、お店でいただいてる料理にあんな失礼なことを言いますかね」
「君がそんなにブーブー言うのは珍しい。よっぽどだったんだな」
「すいません、つい」
 私は口が過ぎたことを詫びるがビンさんはさらに声を大きくして笑った。この人は普段現場に出ることはほぼない。警部と私が提出した報告書に目を通したり、庁内の会議や委員会に参加したり、未解決事件の関係者を当たったり…詳細を知る者はいないがそんなふうに過ごしているらしい。白髪に蛭子顔、子供に童話を読み聞かせるような穏やかな語り口はとても捜査一課所属の警視には見えないが、その頭の中にはパソコンのハードディスクをも凌駕する膨大な知識と経験が詰まっている。
「いやいや、謝らなくていい。君は普段ストレスを溜め込み過ぎてるからな、たまにはそうやって吐き出すのはよいことだ。まあ君のストレス解消に役立つかはわからんが、そのディレクターのお嬢さんの言動については僕が少々補足しよう。まあ座って」
 立ったまま話していた私たちはお互い自分の席に着く。
「例えば…そう、食事に対するコメント。おいしい物を食べても『食べれんことない』みたいに言ったんだな」
「はい、失礼な話ですよ」
「いやいやそうじゃないんだ。食べれないことはないっていうのは、京都人にとっては褒め言葉、いくらでも食べられますっていう気持ちの婉曲表現なんだ」
「え?」
 思わず素っ頓狂な声が出た。
「婉曲表現って…だって八尋さんは食べながら『まあまあや』っておっしゃってましたよ」
「まあまあなんて言ったのか、それは最高においしいってことだよ」
 わけがわからない。まるで好きなのにわざと嫌いという意地っ張りな小学生だ。
「ビンさん、どういうことなんですか?」
「本心をストレートに表現しないのが京都人の美学なんだな。ハッハッハ、実は僕のカミさんも京女でね、最初はびっくりしたもんだ。例えばそう…初めて一緒に食事に行った時、『いい腕時計をしてはりますね』って言われたんだけど、どういう意味だと思う?」
「ストレートな表現ではないとすると…時計を褒めてるわけじゃないってことですよね。素敵な時計を選んだビンさんのセンスを褒めておられたんでしょうか。あるいは自分のアクセサリーも褒めてほしいとか」
 ミットの長は「違う違う」と楽しそうにかぶりを振る。
「腕時計に目を向けて時間を意識させる…すなわち『あんたの話は長過ぎる、私はもう帰りたい』ってことなんだ。僕が舞い上がって食事が済んだ後もずっと喋っちゃってたから」
 驚愕の婉曲表現である。
「そんな…いくらなんでも回りくど過ぎませんか?」
「カミさんに言わせるとこんなのは序の口だそうだ。他にも色々あるみたいだけど、まあそんな感じだから君もそのお嬢さんの言葉をそういうふうに咀嚼したらいい。きっと彼女に対する印象も変わるはずさ」
 右手の中指をコメカミにトントン当てて微笑むビンさん。すると混乱冷め遣らぬ私の背後からパチパチと拍手が届いた。振り返ると戸口には変人上司が立っている。
「さっすが生き字引のビンさん、お見事な京都レクチャーでした」
「おうカイカン、お疲れ様」
「ただ今戻りました、お疲れ様です」
 私も一度起立して「お疲れ様です」と一礼。警部はそのまま自分の席に着く。
「お疲れムーン。そうか、君はわからずに八尋さんと接してたんだね。それでイライラしてたのか」
「はい。警部はわかってらっしゃったんですか」
 座り直して尋ねると変人上司はまたポケットから昆布を取り出す。
「もちろん。今朝ちらっと言ったでしょ、小学校の時の先生が京都出身だったって。6年生の時の担任の先生でね。面白いコミュニケイションの話として教えてくれたんだよ」
 警部は昆布を見つめながら懐かしそうに目を細める。
「優しい人だったなあ。その先生も八尋さんみたいな京都弁でね、どうして京都では本心を言わない会話をするのかを説明してくれた。
 平安時代から京都は大都会、色んな地域から色んな人が集まってた。お互いの身分や素姓のわからない相手に対して、気を遣って話す文化が育まれたんだって」
「そうそう」
 ビンさんが腰を上げる。
「それだけじゃないぞカイカン、戦国から江戸時代まで信長・秀吉・家康と短い期間で権力者が交代した。誰が誰の関係者かわからない中で、不用意に本心を語らないことで京都の町の人たちは自分の身を守ってたそうだ」
「ナルホド」
 頷く警部に私も合わせる。
「まあそんなわけだから、ムーンもこの機に京都人の心を勉強するといい。じゃあ僕はお先に」
「お疲れ様でした」
 ショルダーバッグを手に部屋を出て行く上司を警部と私は一礼で見送った。
 そういえば「お疲れ様」という言葉も…『疲れるまで頑張ってくれてありがとう』という労いの意味だが、もしかして京都では『余計なことをいっぱいしやがって』なんて意味になったりするのだろうか。恐ろし過ぎる。

 改めて二人分のお茶を用意してから警部と私は情報共有を開始する…といっても私の方は収穫なしだったので警部の情報に期待するしかないが。
「いやいやムーン、収穫なしっていうのも立派な収穫さ。通行人やお店の人に尋ね回ってもゲジゲジマンを知ってる人はいなかったってことは、普段からその近辺にいる人間じゃないってこと、つまり8月18日だけ寧々さんを付け狙ってそこにいた可能性が高まったわけだ」
「となると…やはりその男はストーカーでしょうか?」
「かもしれない」
 警部が昆布を指に挟む。
「私の方もいくつか収穫があった。まずは寧々さんが相談に行った近所の交番…それはやっぱり夏帆川交番で、対応したのは清川巡査だった。確認したら素直に教えてくれたよ、寧々さんから相談を受けたって。ただ具体的にストーカーの姿を見たわけでもなく、時々見られてる気がするってだけで、ご主人にも内緒でって頼まれたから何も動いてあげられなかったって後悔してた。ほめんなさい、ごめんなさいって何度も頭を下げてたよ」
 予想はしていたがやはり彼だったのか。現場で会った時に私にその報告ができなかったのも、彼なりの後ろめたさがあってのことだったのだろう。
「そうでしたか。相談の記録は残されていましたか?」
「ちゃんとあった。見せてもらったら8月4日、八尋さんの作戦を決行した二週間前だ。清川巡査は家の周りを重点的にパトロールすることをちゃんと提案してくれてたんだけど、それも寧々さんは断わってた。そこまでしてもらうのは申し訳ないって」
「本当に気を遣う方なんですね」
「そうなんだよ。寧々さんの職場の銀行にも行ってきたんだけど彼女の評判は上々だった。勤務中は無駄話も一切しない人で、同僚にもお客さんにも信頼されてたみたい。シフトがオフの日でも急な欠員が出たら、嫌な顔一つせずにヘルプに来てくれてたって。
 ただここが寧々さんらしいんだけど、臨時出金したことは夫には内緒でって上司に頼んでたそうだ。これも働き過ぎで心配かけないためだったようだよ」
 なんとなくわかる気がする。私も自分の苦労や頑張りをこれみよがしに語るのは好きではないから。まあ、私にはそもそも打ち明ける恋人も夫もいないわけだが、徳岡寧々にとって八尋そよかは弱さを見せられる数少ない相手だったのだろう。
「職場で聞き込みをした限りだと、特に業務上で同僚やお客さんとのトラブルはなかった。事件の動機としてその線も薄そうだね」
 少し座り直してから低い声は続ける。
「一応ね、晃さんの職場にも行ってみた。上司や同僚に話を聞いたけど、彼の評価も上々だった。毎日とっても真面目に働いてたってさ。今朝もきっちり出社して、相棒の同僚と二人で外回りに出てる」
「では…晃さんにはアリバイがあるということですね」
 私が言うと警部が怪訝な顔を見せる。
「ムーン、君は晃さんが怪しいと思うのかい?」
「いえ。ただ捜査上その可能性は考えておくべきかと」
 こんな時、つくづく自分は冷徹だと思う。しかし事件が起きれば犯人が身近な人間である可能性はやはり否定できない。
「そのとおり。実際吉田さんが目撃した犯人は身長175から180センチのやせ型、晃さんと一致してる」
 警部は嬉しそうに口元を綻ばせ、ただ同時に少し哀しそうな目もしながら続けた。
「だから犯人が晃さんである可能性は当然検証しておかねばならない。一緒に外回りをしてた同僚…小久保さんっていうんだけど、確認したら、確かに一時的に晃さんと別行動した時間があったそうなんだ。小久保さんが訪問先でやるプレゼンテーションで使うUSBメモリーを会社のデスクに忘れちゃって、それを晃さんが代わりに取りに行ってくれたんだって。その日の外回りは小久保さんがメインだったから席を外すわけにはいかなかったらしくてね」
「それは何時頃なんですか?」
「午前9時過ぎから小一時間くらいだそうだ」
 メモを走らせていた私のペンが止まる。徳岡寧々の転落は9時30分。
「となると、晃さんにはアリバイがないのでしょうか?」
「小久保さんと別れた場所から夏帆川までの距離を考えると、急いで行って戻ってくれば犯行は不可能じゃない。ただ時間的には綱渡りだから、会社まで忘れ物を取りに戻ってたら絶対に無理だ」
「晃さんが会社に戻ったことは証明できそうですか? 防犯カメラとか」
「カメラはなかったけど証言してくれる同僚は何人かいた。正確な時刻までは憶えていないけど、晃さんは確かに一度会社に戻ってきてたって」
「であればアリバイが成立しますね」
「そう…なるね。ちなみに八尋さんのアリバイも完璧だ」
 私は驚く。警部はそこまで視野に入れていたのか。確かに被害者の親しい友人というのも捜査対象になり得る。私は個人的感情ばかりに惑わされてその可能性を失念していた。
「9時30分の時点で彼女は私たちと一緒に喫茶店にいたわけだからね。さっき喫茶店のマスターにも聞いてきたけど、私たちが去った後も彼女はずっとカウンターにいたそうだ。怪しい動きはないよ」
「病院に駆け付けるまで喫茶店にいたんですか?」
「そう、ずっとマスターと話してたんだって。おや、どうしたんだいムーン、そんな顔して。居座り続けてるのは怪しいかい?」
「いえ、怪しくはありませんが…私だったら気を遣って早めに席を立っちゃうなって思ったんです。自分一人のためにマスターに長時間対応してもらうのは申し訳なくて」
「フフフ、君らしいね。それも一つの優しさ。でもね、別の優しさだってあるんだよ。どういうことかって言うとね…」
 嬉しそうにまた昆布を口にくわえる警部。私は思わず説明を遮って指摘した。
「あの、それって病院で床に落とされた昆布ですよね。口にされるのはさすがに不衛生ではないかと」
「落としてないよ」
「え、でも確かにあの時…」
 そこで部屋の内線が鳴る。断わってからそれに出ると鑑識課からだった。どうやら警部が一つの鑑定を頼んでいたらしく、その内容を聞いて私は驚いた。
「鑑識課からでした」
 わずかに振るえる手で受話器を置いてから私は伝える。
「…一致したそうです」

 警部を助手席に乗せて夜の東京を走る。
「ムーン、疑心暗鬼になっちゃダメだよ。まだわからないんだから」
「はい」
 そう答えたもののやはり緊張は高まる。自分で指摘した可能性とはいえ、心のどこかでさすがにそれはないだろうと思っていたのだ。やがて夏帆川沿いの道を抜け、愛車は一つのマンションの前に停車する。
 時刻は午後8時過ぎ。エレベーターで3階へ上り警部が301号室のインターホンを鳴らす。窓のない静かな廊下にその音が不気味に響いた。
 数分待ったが応答はない。警部がもう一度指を伸ばそうとした時…。
「はい?」
 感情のない彼の声が答えた。
「夜分にすいません。今朝病院でお会いした警察の者です」

 徳岡晃はシャワーを浴びたようで部屋着に着替えていた。しかしさっぱりした様子は微塵もなく、憔悴した顔で警部と私をリビングへ通してくれた。
「ソファへどうぞ。あの、どうして僕が自宅にいるとわかったんですか?」
「病院へ問い合わせたんです。そうしたら一度帰宅されたと聞いて。あの、蛍ちゃんは?」
 腰を下ろしながら警部が室内を見回す。私もその横に座った。
「蛍は寧々の両親が預かってくれています。僕の親は京都ですし、僕一人じゃ目玉焼きもまともに作れないんで。すいません、何のお構いもできなくて」
「いえいえ、お構いなく。それよりお食事は済まされました?」
「食欲がなくて…買い置きのカップ麺でも食べようかと思ってます。それで少しだけ眠ったらまた寧々の所へ戻るつもりです」
「お仕事は?」
 彼は体面のソファに着席してがっくり肩を落とす。
「ひとまず今週は休みます。電話で相談したら上司がそうしろと言ってくれたので」
 ゆっくり顔が上がる。
「そういえば上司から聞きました。カイカンさん、僕の職場にいらっしゃったそうですね。同僚たちにも話を色々聞いてたそうですが」
 向けられる瞳に厳しさが宿る。
「何故ですか?」
「すいません」
 室内でもコートとハット姿の変人が頭を下げた。
「事件の動機を探しておりまして」
「それでどうして僕の職場に? まさか僕を疑っていらっしゃるんですか」
「めっそうもない。まだ模索の段階でして、関係者の人となりを聞いて回るのがセオリーと申しますか。でもご安心ください、どなたもあなたを悪く言う人はおられませんでした。それに小久保さんに伺いました、事件のあった時刻、あなたは忘れたUSBメモリーを代わりに取りに戻ってくれていたと」
 晃は大きく溜め息。
「小久保からも話を聞いたんですか。そうですよ、会社でUSBを取ってあいつの所へ戻りました。それでしばらくして警察からの着信に気付いて、慌ててまた飛び出したんです」
「そのまま病院へ直行されたんですか。どこかに立ち寄ったりなどは?」
「してません。いけませんか?」
「いえいえ」
 警部は大袈裟にかぶりを振る。
「細かい所まで確認してごめんなさい。でもこれで、あなたが加害者ではないことははっきりしました。事件があった頃、あなたは会社へ戻っておられたんですから」
「当たり前です、どうして僕が妻を…。いえ、わかってるんです、刑事さんが色々な可能性を考えなくてはいけないのも。でも…すいません、今は気持ちに余裕がなくて」
「こちらこそ、失礼しました。奥様の職場にも伺ったのですが、やはり事件に結びつくようなお話はありませんでした。
 あの、今朝も本当に奥様は普段とお変わりなかったでしょうか。よく思い出してみてください」
「そう言われましても」
 彼は再びがっくり頭を下げ、今度はそれを両手で抱えた。そのまま室内は沈黙に陥る。その間、私は高まりそうになる自分の鼓動を必死に抑えていた。何故なら、目の前にいる彼、妻を愛する善き夫で職場でも真面目と評価されているこの男が、実は徳岡寧々を襲った犯人であるかもしれないからだ。
 警部が鑑識に依頼していたのは、警部のハンカチに付着した液体と現場に落ちていたカフェオレの成分の鑑定。今朝病院で徳岡晃に会った時、警部は彼の靴に茶色い染みがついていることに気付いていたのだ。だから落とした昆布を拾うふうを装ってハンカチでそれを拭き取った。そう、寧々は犯人に襲われた拍子に手にしていたカフェオレのカップを落としている…それが犯人のズボンや靴に付着した可能性があるのだ。
 彼が犯人だった場合、犯行の時は服は着替えていたとしても靴までは履き替えなかったかもしれない。事実彼はスーツには不釣り合いな黒のスニーカーを履いていた。そして…先ほどの鑑識報告でその一致が告げられたのである。
 私は両膝の上で拳を強く握る。もちろん、あのカフェオレを購入できるアキナーマートは都内にいくつもある。別のシチュエイションで靴にカフェオレが付着した可能性もある。しかし…! どうなのだ、目の前で頭を抱えるこの男の挙動は真実なのか、偽りなのか。彼の肩越しには壁に飾られた家族写真が見える。七五三だろうか、幼い娘…蛍ちゃん…を挟んで晃と寧々が幸せいっぱいに微笑んでいる。
 隣を見ると警部は彼への疑惑などおくびにも出さずにまた室内をキョロキョロ見回している。そしてキッチンのテーブルの上の箱に視線が留まった。
「あの箱はなんですか?」
 晃も顔を上げ警部の視線の先を追う。
「ああ、あれは思い出ボックスです。いえ、妻がそう名付けましてね、二人の思い出の品を入れてるんです。元はただのクッキーの箱ですが」
「いつもあそこに置かれてるんですか?」
「いえ、寝室の棚に置いてるんですが、今朝は蛍が持ってきてしまったんですよ。そうそう、思い出した」
 彼が腰を上げたので警部と私もキッチンへ続く。
「蛍が『これ何なの?』って持ってきたんで、妻が『お父さんとお母さんの宝物が入ってるの』って答えてました。蛍が見たがったんで妻が蓋を開けました。そうしたら中にレシートが一枚入ってて」
 彼は蓋を開ける。そこには写真や思い出の品らしき物が詰まっていた。
「この金メダルは何です?」
「それは僕が学生時代に陸上の大会で優勝した時の物です。短距離走をやってたもので」
「ナルホド。あ、本当だ。陸上部の仲間との記念写真もありますね」
「恥ずかしいからあんまり見ないでください。えっと…、これです」
 彼は一枚の紙片を手に取る。
「どうしてこんなレシート入れてるんだって訊いたら、妻はポカンとして、『あなたが保管してって言ったんじゃない』って言うんです。そんなこと言った憶えはないぞってよくよく話したら…」
 警部がプッと吹き出す。
「わかりました。きっとあなたはこうおっしゃったんでしょう、『このレシートほかしといて』って。『ほかす』は京都弁で『捨てる』の意味ですから」
「そうなんですよ、それを妻は『保管する』と聞き間違えて…。まったく、しっかりしてるくせに時々おっちょこちょいで」
 そこでまた彼の瞳に涙が滲む。
「そんな会話で二人で笑って…それが…今朝でした」
 涙は頬を伝い、そのまま顎先から滴った。彼はレシートを箱に戻すと俯いて声を絞り出す。
「本当に…幸せだと思ってました。自分は最高の家族に恵まれたって。あんな幸福な時間はもう…戻ってこないんでしょうか」
 警部は黙って小さくかぶりを振る。
「奥様は生きておられます。蛍ちゃんだっています。今は信じましょう、寧々さんの回復を。きっとまた…親子三人で楽しく暮らせますよ」
「そんなわけないでしょう!」
 彼は一瞬そう激昂したがすぐにまた俯く。
「すいません、やっぱりダメですね、僕。ちょっと洗面所で顔洗ってきます」
 そのままキッチンを出て行く背中を警部と私は無言で見送った。この感泣、この慟哭が演技とは思えない。本当に徳岡晃が妻を襲った犯人なのだろうか? カフェオレの染みにあの涙を否定するだけの力があるだろうか?
「ムーン」
 突然低い声が重たくキッチンに響く。私はゾクリとした。
「デジカメ持ってたよね。一枚撮影してくれるかな、今のうちに」
「はい、何をでしょう」
「これさ」
 警部が思い出ボックスから一枚の写真…先ほども見ていた晃の陸上部時代の集合写真を示す。
「ここだよ、特にここをアップで撮って」
 指差された箇所を見て私は叫びそうになる。写真には若き日の晃と陸上部の仲間たちが写っている。そのうちの一人の男の眉毛が…!