第三章 自分はわからないという刑事

 多田はゆっくりと顔を上げた。その瞳は正面に座る警部に向けられる。
「もう一度言いましょうか?多田さん、あなたは長谷塚さんを殺してなどいません。古部さんのためにそう偽証されているのです」
彼は何も言わない。ただ瞬きすることも忘れ、怯えた目で相手を見ている。警部はそっと右手の人差し指を立てた。
「金曜日の夜、長谷塚さんは就職活動の願掛けのために神社に向かいました。その帰りに履歴書用の証明写真も撮るつもりだった。上着はスーツ、ズボンはジャージというちぐはぐな服装だったのがその証拠です。
そして神社に向かうその路上で古部智恵理さんと出会いました。少しだけ立ち話をして、二人は別れた…」
彼女の名前が出た途端、多田の瞳に不安の色が強まる。警部の語りは続く。
「さて、神社への参拝を終えた長谷塚さんは次に何をしたか…。この時点で時刻は9時30分、そう、あなたに電話をかけた時間です。おそらく古部さんと会って懐かしくなり、あなたと話がしたくなったんじゃないでしょうか。学生時代の友人であるあなたと。
彼は石段を下りながらあなたに電話をかけた…しかしここで悲劇は起こってしまう。話しながら歩いたせいで足元が疎かになり、石段を踏み外したのです。彼は転落し…打ち所が悪くそのまま亡くなりました」
多田が視線を逸らす。
「多田さん、あなたは電話で彼が神社にいること、古部さんに再会したことを聞きましたね?そして彼が会話中に転落したこともわかった…おそらく叫び声や電話が地面に落ちる音が聞えたのでしょう。
…しかしその後どんなに呼びかけても長谷塚さんは返事をしない。何が起こったのか確かめるため、あなたは急いで神社に向かったのです」
視線を逸らしたままの多田…もしも警部の推理が的外れならとっくに笑い飛ばしているはずだ。彼の沈黙は肯定を意味していた。私の頭の中でも、警部の言葉によってあの夜の光景が次々にイメージされる。石段から転落した長谷塚、そこに駆けつけてくる多田…。
「残念ながらあなたが発見した時、彼はもう亡くなっていました。繋いだままにしていた電話もおそらくそこで切ったのでしょう。これが通話が切れた9時45分です」
「…デタラメだ、そんなの」
ついに口を開く青年。彼は厳しい眼光で警部を見た。
「勝手な想像じゃないですか!違いますよ、僕が10時過ぎにあいつを電話で呼び出して突き落としたんです。何度もそう言ってるじゃないですか!」
「それは有り得ません」
声を荒げる多田に、警部は動じることなくそう返した。
「まず第一に長谷塚さんの服装。もしあなたにお金の話をするために会いに行ったのなら、さすがにあんな格好はして行かないでしょう。
第二に証明写真。ボックスのデータには彼の画像はありませんでした。つまり彼は撮影していない…9時過ぎに願掛けのために神社に行ったきり、そのまま亡くなってしまったということです」
多田がグッと唇を噛む。
「第三に、長谷塚さんのライター」
警部はドルフという犬のことを説明した。9時半から10時の間の散歩でドルフはライターを拾った。ライターは転落の拍子に落ちたと推測できるので、彼の転落死も10時よりも前ということになると警部は言った。
「以上より、あなたの主張する10時以降に彼を突き落としたという話は有り得ないんです。彼は9時半過ぎ、願掛けの帰りに事故で転落したんです。
…古部さんが9時過ぎに路上で彼に会った時、今から神社に行くつもりだと話していたことも、その時ライターを持っていたことも…彼女がちゃんと証言してくれているんですよ。彼女に嘘をつく理由なんてありません」
「僕にだってありません!」
身を乗り出して叫ぶ多田。そこで警部は立てていた指を下げ、はっきりと告げた。
「いえ、あなたには嘘をつく理由があります。あなたは…古部さんを愛していたんですから」
彼の勢いが止まった。警部は少しだけ優しい声になって続ける。
「もう…やめませんか、多田さん?あなたの偽証は自らの保身のためではない。誰よりも好きだった、彼女のためのものです」
多田は打ちのめされたボクサーのように椅子に崩れる。そして先ほどより大きく溜め息を吐いて黙り込んだ。…降伏の白旗だ。
何か物的証拠を示したわけではない。ただ一つの愛を指摘しただけで、警部は相手の支柱を撃ち抜いたのである。

 すっかり戦意を失った青年に、警部は推理を続けた。
「神社に駆けつけ、転落死している長谷塚さんを発見したあなたは考えた。本来なら警察なり救急なりに通報すればすむ話です。でもそれをしたらどうなるか…あなたは考え至った」
再び人差し指を立てる警部。
「あなたは古部さんのことを考えました。もし自分と再会した直後に長谷塚さんが転落死したことを彼女が知ったら…。たとえ事故だとしても、彼女は思ってしまう…やっぱり自分は疫病神なんだと」
多田の瞳から涙がこぼれる。彼は机に顔を伏せ、声を殺して泣き始めた。
「う、う、うう…」
悲痛な嗚咽が室内に舞う。警部は指を立てるのをやめ、そっと言葉を続けた。
「自分は人に不幸をもたらすと信じている彼女を、あなたは救ってあげたかった。疫病神の呪縛から解放してあげたかった。だから…偽装工作を行なったんです。
あなたはそばに落ちていた長谷塚さんの携帯電話を見つけました。そして10時に自分の携帯電話からそこにコールし、自分が彼を呼び出したような痕跡を残したんです。
筋書きとしては長谷塚さんは願掛けの後に一度帰宅、そしてあなたに呼び出されてまた神社に行ってそこで突き落とされた…。そうなれば、どう見ても全面的に悪いのはあなたです。彼女が自責の念を抱かずにすむ…とあなたは考えたのでしょう」
「う、うう…」
「彼の携帯電話を現場から持ち去ったのは、警察に電話に注目させ、通話記録を調べさせるため。そしてそれを所持していることで、自分が犯人だという決定的な証拠にするためですね」
昨日の朝、アパートの多田を訪ねた時のことを思い出す。あの時の彼は…私たちに逮捕されるためにわざと疑わしく振る舞っていたのだ。自分を犠牲にしても、ただ彼女のために…。
つまり長谷塚の死は『事故に見せかけた殺人』ではなく、『事故に見せかけた殺人に見せかけた事故』だったのである。
「借金の話などは…辻褄合わせのための全くの嘘ですね」
「ううう、う…」
警部の語りが終わっても、青年は顔を上げない。その姿を見ながら私はつい思ってしまう…馬鹿げている、と。
そうだ、こんなの馬鹿げている。いくら彼女が好きだったとしても、ありもしない殺人の罪を被ってまで…人生を捨ててまでこんなことをするか?私には理解できない。それとも…そこまでの愛というものを知らない、私の方がおかしいのだろうか。
隣を見ると、警部も黙って彼を見つめている。優しくもどこか虚ろな視線を哀れな青年に注いでいる。そして…長い前髪に隠されたその右目は、愛という名の事件の黒幕を捕えているのかもしれなかった。

 警部の指示で温かいお茶を用意し、多田に促す。一口だけ飲むとようやく顔を上げ、真っ赤なまぶたで彼は呟いた。
「色々と…ご迷惑をおかけしました」
「どうしてそこまで、古部さんのために?」
警部が黙っていたので私がそう尋ねる。彼は湯呑みを置くと、少しずつその胸の内を明かした。そう、学生時代から彼女に憧れていたという想い出を。
けして派手ではなかったが清廉な立ち振る舞い、彼女のまとうどこか孤独な空気さえも彼にとっては惹かれる要因となった。同じゼミになって、話をする機会も多くなって…しかしそれでも彼女が飲み会や旅行に参加することはない。ある日残ってレポートを書いていた彼女に、彼はその理由を尋ねた。
「私、疫病神だから」と彼女は答えた。そしてこれまでに起こった不幸を並べ、だから自分にはあまり関わらない方がいいよと彼に伝えたのだという。いつかは思いを打ち明けたいと考えていた彼の期待は…そこでしぼんでしまう。
「彼女は、卒業式にも謝恩会にも来ませんでした。だから、駅で彼女に再会した時は本当に嬉しかった」
「それで…自分が逮捕されても構わなかったんですか?」
私の問いに、多田は数秒だけ考えて頷く。そして、彼女と再会した日のことを語り始める。
それを聞きながらずっと黙っていた警部だったが、彼の言葉が止まると静かに口を開いた。
「多田さん…どんな理由があったにしても、あなたのしたことを認めるわけにはいきません」
厳しい声だった。警部は一呼吸おいてさらに続ける。
「もし本当に彼女を救いたかったのなら…こんな方法を選ぶべきではなかった。逮捕されるくらいの覚悟があるのなら、あなたが一生彼女のそばにいて不幸にならないことを証明してあげればよかったじゃないですか」
再び多田の瞳に涙が滲む。
「覚悟すべき所を間違えた…それがあなたの罪だと思いますよ」
警部のその言葉を最後に、聴取は終了となった。