エピローグ

翌月曜日の朝、警部と私は古部智恵理のアパートを訪ねた。出勤前の彼女に、今回の事件の全てを伝えたのだ。話を聞き終えた彼女は泣き出しそうに顔をクシャクシャにし、「やっぱり私は疫病神だ」と漏らした。
「私があの時、長谷塚くんに再会しなかったら…。神社になんか行かなければよかった」
「どうして神社に行かれたんですか?」
私が問うと、彼女は厄払いのためだと答えた。少しでも疫病神ではなくなるために、毎晩仕事帰りに神社に通っていたのだと。でもそのせいで…あくまで偶然で間接的にではあるが、今回の悲劇のきっかけを作ってしまった。なんて…皮肉で残酷な話だろう。さすがに神様に文句を言ってやりたくなる。
「やっぱりダメだ、私…もう…」
その言葉を最後に彼女は黙ってしまう。うつむいて拳を握ったその姿は、ぶつけようのない感情に心を潰されかけているように見えた。気にすることはない、あなたのせいじゃない…そんな言葉が無力なのはわかりきってる。結局何もできない私は、「あの、そろそろ出勤の時刻では」と間抜けなことを言ってしまう。
「今日は…休みます」
消えそうな声がそう返す。室内には重い沈黙が流れた。警部の提案で彼女には直接真実を伝えたのだが…どうにも救いがなさ過ぎる。
「古部さん、もしお仕事休まれるんなら、ちょっとご一緒して頂けませんか?」
突然警部がそう言った。彼女は少しだけ視線を上げる。
「最後にもう一つだけ、あなたに知ってほしい真実があるんです」

 警部と私、そして智恵理は駅に向かって歩いた。初夏の日差しも朝のうちはまだ優しい。都心とは異なり慌しさのない町並み…しかしそれを感じる様子などなく彼女は終始無言だった。
駅の入り口が見えてきたが、警部はそこを素通りし、あの踏み切りまで私たちを導く。三人で線路を越えたところで警部が言った。
「古部さん、あなたにこのことだけは忘れないでいてほしいんです。多田さんは…確かにあなたを想っていたということを」
彼女は何も言わない。先ほどの説明でも、多田が彼女のために偽証をしたことは伝えた。しかし…彼女はピンときていないようだった。確かに、突然そんなに深い愛情を告げられても信じられないのかもしれないが。
それに、実は私も疑問だった。今回の事件の解明には、多田が彼女を好きだったという事実が大きな突破口となった。しかしそのことを警部はいかにして見抜いたのだろうか?
多田自身はもちろん、訪ねて回ったゼミ仲間たちも誰もそんな証言はしていない。男と女だからと言えばそれまでだが、警部はどうしてそこに確信が持てたのだろうか?
「古部さん、多田さんの気持ちは間違いありませんよ。毎朝駅の入り口で顔を合わせていたのがその証拠です」
警部が彼女を見て言う。気付けばその口には昆布がくわえられていた。彼女が黙っているので私が返した。
「しかし警部、毎朝ばったり会うのは普通なんじゃないですか?人間、案外時間通りに行動しているものですよ。特に多田さんも彼女も電車を利用していたわけですから、電車の時刻に合わせて毎朝定時に家を出る人は珍しくありません」
「フフフ、確かにね…。でも、それでも毎朝ばったり会うことは有り得ないんだよ。お、そろそろ時間だ」
警部がそう言うと、信号が鳴って遮断機が下がり始めた。私たちは数歩後ろに下がる。
カン、カン、カン、カン…。
「ムーン、時計を見ててね」
信号の音に紛れて警部が言った。わけがわからないが私は腕時計を見る。昨日同様になかなか電車は姿を見せない。
ゴトン、ゴトトン、ゴトン…。
やがて駅から現れた朱色の車体が右から左にゆっくり流れていく。それが過ぎ去ってから私が言う。
「警部、一体これが…」
「ムーン、まだだよ」
ハットを押さえたまま警部が返す。確かにまだ信号は鳴っている。ということは…。
ゴトトン、ゴトン、ゴトン…。
左から右に、反対車線にも電車が通過する。これも昨日と同様だ。駅に入る電車のためこちらもスピードは遅く、通り過ぎるには時間がかかる。
全ての車両が去り、信号が鳴り止むとようやく遮断機が上がった。
「ムーン、踏み切りが閉まっていた時間は?」
「え?あ、はい。7時27分から31分までのおおよそ四分間ですね」
「了解」
満足そうにそう言うと、警部は右手の人差し指を立てて彼女に歩み寄った。
「よろしいですか古部さん。この踏み切りはその四分間通れないんですよ」
「は、はい」
私同様、警部が何の話をしているのかわからないのだろう。彼女は曖昧に頷く。
「多田さんのアパートから駅の入り口に行くには、この踏み切りを越えなくてはなりません。そして踏み切りから駅まではせいぜい歩いて一分の距離です。確か古部さん、あなたは毎朝7時半ちょうどに駅に着いていましたね?」
彼女はまた頷く。
「あなたには問題なくそれができるんです。でも多田さんにはできない。だって彼はこの踏み切りに足止めされてしまうんですから」
ようやく警部の言わんとすることがわかってきた。そうか、そういうことか。
「もし多田さんが踏み切りに引っかからないように歩いたとすれば、7時27分にはここを通過するわけですから、28分にはもう駅に着いてしまう。逆に踏み切りに引っ掛かったとすれば、ここを通過するのは7時31分ですから駅に着くのは32分なんです。
…つまり普通に歩いていたら、7時30分ジャストに駅に着くなんてことは彼には不可能なんですよ」
「え?でも、確かに毎朝多田くんは…」
彼女はそこではっとしたように口を押さえた。警部が「そうです」と立てていた指をパチンと鳴らす。
「それでも毎朝7時30分に駅に着いていたということは、歩くスピードを故意に調整していたからとしか考えられません。あなたと会うために。それはつまり…そういうことです」
彼女は目を丸くしている。無理もない。こんな愛情の証明法があるなんて一体誰が思うだろう。私に時刻表を調べさせたのも、遮断機が下がる時刻を推測するためだったというわけだ。まったく…だったら最初からそう言えっての!
「多田さんにとっては、毎朝あなたと顔を合わせること、そして改札まで一緒に歩く僅かな時間が何よりの幸福だったんですよ」
「そんな…」
否定しかける彼女に警部はさらに伝える。それは多田が昨夜の聴取で明かした事実だった。
「多田さんが卒業後初めてあなたと再会した日、それは本当に偶然でした。彼は重い足取りでとてもゆっくり歩いていたので、ちょうど7時30分に駅に着いたのです」
そしてその重い足取りの理由を警部は説明する。彼は長谷塚と異なり確かに就職できた。しかしそれは俗にブラック企業と呼ばれる劣悪な労働環境であった。毎日の過労とストレスで彼は心身ともに限界を感じていた。そう、その日彼は電車に身を投げることまで考えていた…そこまで追い詰められていたのだ。
でもそこで彼女に再会した。学生自体の憧れだった彼女に。何気ない笑顔、何気ない挨拶、何気ない「頑張ろうね」の一言…それだけで彼はもう一度生きる気力を取り戻したのだ。
「それ以降多田さんはわざとあなたに会うようになった。まあちょっと気持ち悪い感じもしますが、私は彼は純粋な人間だとお見受けしました。純粋だからこその行動だったのでしょう。毎朝あなたと会えるだけで、彼はつらい日々でも笑って生きていけたんです」
警部はそこでそっと微笑む。
「何が言いたいかおわかりですか?あなたは彼を救っていたんですよ。ね?あなたは疫病神なんかじゃない、愛される疫病神なんているもんですか」
彼女の頬が少しだけ染まる。
「フフフ…人間って難しいですよね。誰かを幸せにしていることにはなかなか気付かないのに、誰かを不幸にした感覚は嫌ってほどあるんですから」
そうか…そうだな。警部の言葉は私の心にも納得をもたらす。刑事の仕事だってそうだ。人の役に立つことはいつも手探りなくせに、役に立てなかった手応えばかり感じてしまう。
まったくこの人は…時々いいこと言うくせに、どうしてそんな格好なの?どうして昆布をくわえてんのよ?この変人!
「古部さん、だから信じてみてください。あなたは自分の知らないうちにたくさんの人に幸せを与えてきたことを。これからもそうだということを…多田さんのためにも」
「…ありがとうございます」
彼女は涙を浮かべて頭を下げた。そっと優しい風が吹きぬける。警部がこちらを見て目で合図した。そうだ、あのことを伝えないと。私は彼女に歩み寄る。
「あの古部さん、実はゼミのお仲間を回って話を聞いた時、みなさんおっしゃっていたんですよ。確か卒業後関西に引っ越された方がいましたよね?」
「ええ、萩尾くんが…」
「秋にご結婚されるそうなんです。ゼミの仲間を式に呼びたいんだけど、あなたは来てくれないんじゃないかって招待状を迷ってらっしゃるそうです」
「結婚式…」
彼女は戸惑いの表情を見せる。まあ疫病神ならば一番行ってはいけない場所だろうけど、もちろんあなたはそうじゃないよ。あなただけじゃない、きっと誰でも誰かの救いの神になれる…生きることをあきらめない限り。
そこで警部が嬉しそうに言った。
「連絡してあげたらどうですか?そしてぜひ…式にも出席してあげてください。長谷塚さんや多田さんの分まで」
彼女は黙って頷く。泣いてはいるが、そこには微笑みが浮かんでいるように私には見えた。

 やっぱり出勤します、と駅に向かった彼女を見送り警部と私は歩き出す。車は彼女のアパートに停めたままだ、そこまで戻らないと。
カン、カン、カン、カン…。
後ろで再び遮断機が下がり始める。
「お疲れ様でした、警部。お見事な推理でした」
「いやいや、私じゃない」
そう言って警部は振り返る。
「あの踏み切りが教えてくれたのさ。あと…神社にお参りしたおかげかな」
沿線の町並みにまたあの音が響く。

ゴトン、ゴトン、ゴトトン…。

-了-