第二章 自分のせいだという女

 ウォーミングアップ問題は結局解けず、一夜が明けて日曜日。私はようやく教えられた答えに従いその調査に動いた。
するとどうだろう、変人上司の言葉は今回もまた的中してしまう。長谷塚のアパートから神社へ向かう道の途中にそれはあった…そう、証明写真のボックス。お金を入れて操作して自分で自分の写真を撮るあれだ。受験願書用に私も昔利用した経験がある。確かにデジカメの普及した近年ではあまり見かけなくなったレトロな代物だ。
午前10時。そのことを報告すると、また右手の人差し指を立てて推理の解説が始まる。
「いいかいムーン、つまりこういうことだよ」
警部は言った。長谷塚があんな服装をしていたのは履歴書用の証明写真を撮影するためだったと。写真には上半身しか写らないので下半身まで正装する必要はなかった。だからズボンはジャージで靴はスニーカーだったのだ。
「まあ日中そんな服装で歩けば目だつだろうけど、時刻は人通りの少ない夜。しかも証明写真ボックスはすぐ近所…彼が上半身だけスーツで出掛けても納得だよ」
それを聞きながら私も考える。
彼は智恵理に話した…よい就職が見つかりそうだから履歴書を書く前に神社に願掛けに行くのだと。おそらくはその帰り道に証明写真も撮るつもりだったのだろう。内ポケットに入っていたネクタイも、撮影の時だけ装着するつもりだったに違いない。
「これでちぐはぐな服装の謎は解けたね。でもそうなると新たな謎が生まれる」
解説を終えた警部の推理はさらに次の段階へと進んでいく。
「ねえムーン…神社に願掛けして、証明写真を撮って、履歴書を書こうとしていた彼が果たして多田さんに借金返済を強要すると思うかい?」
「不自然です。それに業者に頼んで証明写真ボックスの保管データを調べたところ、長谷塚さんの画像はありませんでした。つまり彼はボックスには行っていない…神社に行ったまま亡くなった可能性があります」
私の意見に頷いて警部は言葉を続ける。
「それに彼が10時に多田さんに呼び出されて改めて神社に行ったのなら、さすがに服は着替えるはずだ。あんな格好のまま深刻な話し合いに行くわけないからね。つまり多田さんの証言は何もかもが怪しくなってくる」
そのとおりだ。9時過ぎに路上で智恵理と会ってこれから就職祈願の参拝に行くと話していた長谷塚、神社からの帰り道に写真撮影を予定して部屋に履歴書を書く準備もしていた長谷塚、9時半に多田に借金返済を電話で要求した長谷塚、10時過ぎに神社に呼び出され多田に突き落とされた長谷塚…どこかに嘘がなければ辻褄が合わない。
「多田錬か古部智恵理のどちらかが偽証していることになりますね」
「そうだね…。どちらか、あるいは両方が嘘をついている。それを見極めるには今判明している事実と符合するかどうかを吟味する必要がある」
警部はそこで部屋のホワイトボードに板書するよう私に指示した。
「心理的な推測は除外して客観的事実だけを書いていこう。事実①、9時30分に長谷塚さんの電話から多田さんの電話に発信があったこと。そしてその後十五分間通話していること。もちろん電話をかけたのが本人とは限らない」
私は頷いてペンを走らせる。
「事実②、10時に多田さんの電話から長谷塚さんの電話に発信、この時は二分間通話している。もちろんこれも本人かどうかはわからない」
警部の語調が強まる。
「事実③、ドルフが9時30分から10時までの間に路上で長谷塚さんのライターを拾った。そして事実④、長谷塚さんの死亡推定時刻は…」
「9時30分から10時30分の間、ですね」
私がそう言うと警部は「さっすがムーン、お見事!」と微笑む。この人に褒められるのはどうも…本気じゃない気がして苦手だ。
私がペンを置くと、警部はホワイトボードの前に立つ。そして前髪で隠されていない左目で瞬きもせず視線を注いだ。私も改めて板書した四つの項目を読み返す。
…金曜日の夜、長谷塚真矢の身に一体何が起こったのか?
そして大学のゼミ仲間である多田錬と古部智恵理は彼の死にどう関わっているのか?

 その後警部と私は改めて多田を聴取した。彼の証言は昨日と変わらず、あくまで10時過ぎに呼び出した長谷塚を自分が突き落としたというものだった。そこで警部は証明写真の推理を披露し、そんな服装で長谷塚が話し合いに行くとは考え難いことを指摘した。
「服装のことはよくわかりません…。でも、僕があいつを死なせてしまったことに違いはありません」
多田は頑なにそうくり返すのみ。
続いて警部は9時過ぎに長谷塚が智恵理と偶然会ったこと、そこで就職活動の話をしていたことも伝えた。
「ご存じですよね、古部智恵理さん。朝駅で会っていたそうですが…」
彼女の名前が出た途端、彼は身体をこわばらせた。そして警部と私に交互に視線を送り、震える唇で言った。
「ええ…知っています。確かにほぼ毎朝会っていましたが、会うといってもたまたま駅の入り口で顔を合わせるだけです」
「個人的なお付き合いはありましたか?」
多田は「いいえ」とだけ答える。警部は彼と智恵理の共犯の可能性を考えているのだろうか?
「彼女の話では、長谷塚さんは前向きに就職活動をされていたそうです。とてもその直後にあなたにお金を返せと要求する様子ではなかったようですが…」
また「わかりません」と俯いてしまう多田。取調室に沈黙が流れる。

その後も警部はいくつかの質問を投げかけたが、それきり彼は「僕がやりました。悪いのは僕です」としか答えなくなってしまった。
彼が何かを隠しているのは間違いない。でも…一体何を?

 多田の聴取を終えての午後1時、警部と私は智恵理のアパートを訪ねた。彼女は昨日同様に部屋に通してくれた。意外だったのは、彼女が警部の風貌にほとんど驚かなかったことだ。私の知る限り、これまでそんな人間にはお目にかかったことがない。
お構いなく、とは伝えたが彼女はまたお茶を振る舞う。休日のためかもしれないが、そのシャツもズボンも若い女性としては地味な印象だ。テーブルの体面に彼女が腰を下ろすと、警部は「いただきます」とさっそく湯呑みに口をつけた。
「ああおいしい。やっぱり煎茶はよいですね」
「…ほうじ茶ですけど」
彼女のツッコミに警部は「あれ、そうですか」と微笑む。そして改めて長谷塚や多田との関係を尋ねていく。しかし…昨日私が確認した以上の情報は出てこない。
ゴトン、ゴトン、ゴトトン…。
会話が途切れたところでまたあの音が聞こえる。窓が少し軋み、警部もそれに反応した。
「電車の音ですか…情緒がありますね」
警部の視線を追って彼女も窓の外を見る。
「ええ…線路が近いので。最初は騒音にも感じましたけど、ずっと住んでると心地良くなるものですね」
「学生の頃からこの部屋にお住まいなんですよね。駅にも近いんですか?」
「早足で歩いて五分くらいでしょうか。ギリギリまで寝ていられるのは助かります…私、ネボスケなんで」
そこで彼女はようやくクスッと笑う。私は朝何時頃に駅に行くのかを尋ねてみた。
「7時半ちょうどに着くようにしてます。テレビのニュースが7時25分までなので、それを見たらすぐ家を出るんです」
「朝早くて大変ですね」
警部がそう言って湯呑みを口に運ぶ。そして取り出した昆布をくわえたが…智恵理はこれにも特に驚きを見せなかった。不思議だ…私なら初対面の人間がこんな奇異な風貌で意味不明なことをしていたら、少なからず関心を持ってしまうと思うが。

 その後も私たちはいくつか世間話をしたが、特に有益な情報が得られることはなかった。
「では最後にもう一つだけ教えてください」
空になった湯呑みを置いて警部が言う。彼女も真顔に戻った。
「昨日ムーンが長谷塚さんの不幸をお伝えした時、あなたは第一声に『私のせいかもしれません』とおっしゃったそうですね。それは…どういう意味ですか?」
そう、それは私も気になっていた。
「長谷塚さんがどんな事情で石段から転落したとしても、それはあなたのせいではありませんよね?あなたは路上で彼と立ち話をしただけなんですから。それなのに自分のせいかもしれないとおっしゃったのは何故ですか?」
彼女は黙っている。湯呑みを握ったまま俯き、表情は長い黒髪に隠されてわからない。
「長谷塚さんと多田さんが会うのを知っていたのですか?」
彼女は沈黙のまま首を振る。
「もしかして…あなたが彼を突き落としたのですか?」
核心を突いた質問だった。これまでの証言は全て嘘で、実は彼女自身が長谷塚を神社で襲った可能性もゼロではない。
「…いいえ」
小さな声が返される。警部は昆布をしまうと、身を乗り出してさらに尋ねた。
「では教えてください。どうして自分のせいだとおっしゃったのか…それが事件の真相に繋がる手掛かりかもしれないんです」
またしても沈黙。そこに電車の音が流れ込む。
ゴトン、ゴトトン、ゴトン…。
それが遠ざかるのを待って、彼女はゆっくり顔を上げた。その瞳にはうっすら涙が浮かんでいる。
そしてポツリポツリと語られたその涙の意味は、あまりにも予想外のものだった。

「…疫病神か」
彼女のアパートを出て、車の助手席に乗り込むと警部がそう呟いた。私も運転席でシートベルトを締めながら返す。
「…まさかの答えでしたね」
彼女は言った、自分は疫病神なのだと。
幼稚園の頃、自分が投げたボールを拾いに行った友達が車に轢かれた。小学生の頃、ドミノ倒しの大会で自分が並べた箇所が倒れずクラスが優勝できなかった。中学生の頃、一緒に下校した友達が自分と別れた後で行方不明になった。高校生の頃、初めて渡したバレンタインチョコが異物混入の疑いでメーカーから食べないように警告された…。
そんな経験の果てに、彼女は自分を疫病神だと信じるようになってしまった。自分が関われば必ず相手に不幸を呼び寄せる、と。だからどんなに大学でゼミの仲間と仲良くなっても、最小限の交流しか持とうとしなかったのだ。どんなに誘われても、飲み会や旅行に参加しなかったのだ。
「正直…どんな言葉をかけてあげればよいのか私にはわかりませんでした」
「…そうだね」
警部が静かに答える。
もちろんどの出来事も彼女には何の責任もない。全ては偶然であり、たまたま不運が重なっただけだ。それでも…そんなふうに割り切れない気持ちは痛いほどわかる。自分なんかこの世にいない方がいいんじゃないか…人間はふとすればそんな思いにかられてしまうものだ。
自分と再会したその夜に長谷塚が亡くなった…それを知らされた彼女が自分のせいかもしれないと口にしたのも無理はない。
「しかし警部、本当に路上で立ち話をしただけなら…彼女には何の罪もありませんよね?」
上司は感情のない声で「もちろん」と返す。それ以上言葉が続かないのを待って、私は車のエンジンをかけた。
「…これからどうされます?」
「もう一度この町を回ってみよう。神社、長谷塚さんのアパート、そして多田さんのアパートを。位置関係を確認したいから」
了解です、と答えて私はアクセルを踏んだ。

 一通り回って、多田のアパートの前に愛車を停める。警部が車を降りて歩き出したので私もそれに従った。
「駅は…こっちでいいんだよね?」
「はい、そうです」
多田のアパートと智恵理のアパートは、ちょうど駅と線路を挟んで反対の位置関係にあった。午後の町を十五分ほど歩くとやがて駅が見えてくる。多田も毎朝このルートで通勤していたのだろう。駅の入り口は智恵理の住んでいる向きにあるため、こちらからだと線路をまたぐ必要があった。
「警部、この踏み切りを越えたらすぐですよ」
「…踏み切りか」
立ち止まる警部。私が「どうかされましたか?」と言いかけたところで、遮断機が下がり始めた。
カン、カン、カン、カン…。
同時に信号も鳴る。しかし遮断機が下がりきったのになかなか電車は姿を見せない。どうしたんだろうと思っていると、ようやく駅からゆっくり現れて目の前を通過していく。警部はハットが飛ばないよう右手で押さえた。
ゴトン、ゴトン、ゴトトン…。
右から左へ流れる朱色の車体。それが過ぎ去っても信号は鳴り続けている。
ゴトトン、ゴトン、ゴトトン…。
今度は反対車線を左から右へ通過する車体が現れる。警部と私は黙ってそれを見送る。事件の捜査中に不謹慎だが…どこか懐かしさを感じる光景だった。
やがてその電車も駅に姿を消し、信号が鳴り止むとようやく遮断機も上がる。警部も歩き出した。
「結構長い時間だったね。三分くらいあったかな?」
「そうですね。駅のすぐ横の踏み切りですから、きっと発車前から遮断機が下がるんですよ。それに電車もスピードを落としていますし」
私も線路お超える。そこから駅の入り口まではもう一分とかからない距離だった。到着したところで、警部の足が再び止まる。
「警部、ここで毎朝7時半に、多田さんと古部さんは顔を合わせていたんですね」
何気なくそう問いかけたが、すでに上司の意識は私に向いていなかった。右手の人差し指を立て佇んだまま、その体は完全に固まっている。
「…警部?」
まさかこのパターンは…。おそらくその頭の中ではこれまで散りばめてきたヒントが結合と分解をくり返し、ある一つのビジョンになりつつあるのだ。毎回ながらこの人の着想のきっかけは唐突だ。悔しいが…黙って待つしかない。
「…ムーン」
数分してようやく口が開かれた。
「君に調べてほしいことがある。おそらくそれで解決だ」
疑問は山ほどありますが、ここは了解するしかない。
「はい、何を調べますか?」
そこで警部は立てていた指をパチンと鳴らして言った。
「…時刻表だよ」
え、なんで?
二時間サスペンスのアリバイトリックじゃあるまいし、今回の事件に電車の時刻表がどうして関係あるの?
私の混乱などお構いなしに、警部は「フフフ…」と不敵な笑みで昆布をくゆらすばかりだった。

 その日の夜、警部と私は再び多田の聴取を行なう。取調室に入る前、私からの報告を聞いた警部は「ありがとう」と呟きくわえていた昆布を飲み込んだ。
「失礼します」
ノックして部屋に入る警部。私も後に続く。多田は今朝同様にがっくりと項垂れていた。
「多田さん、もう一度お話を聞かせてください」
着席してそう切り出した警部に、彼は溜め息を漏らした。
「刑事さん…これ以上何を話そうっていうんですか?僕がやったと言ってるんですから、早く逮捕なり送検なりしてくださいよ」
小さいが意志の込められた声だった。数秒の沈黙を置いて警部が返す。
「多田さん…そろそろ本当の話をしませんか?」
低い声が狭い室内に響いた。その迫力に多田の身体が一瞬硬直する。そして警部は、はっきりと告げた。
「あなたが自分が犯人だと名乗り出たのは…古部智恵理さんのためですね?」