第四章 ~紅子~

 水曜日の朝は昨夜の雨が嘘のような晴天だった。窓を開けて澄んだ空気を迎え入れるだけでも随分と清々しい。裏山の草木も新鮮な太陽を浴びて輝いている。ああなんて気持ちが良いんだろう、まるで世界が変わったみたいだ。よおし、この調子でまた旅館をどんどん盛り立てていかなくちゃ!
「いやあ、こんな朝早くからすいません」
しかしそんな爽やかさとは相容れない存在が訪れた。玄関に立つそのシルエットは、さながら流浪の民。カイカン…この男こそ、世捨ての滝に背負った物を全部投げ込んでしまえばいいのに。
「あら刑事さん、おはようございます。毎日お勤めご苦労様です」
あえて明るく返してやると、低い声は「お邪魔するのも今日で最後です」と笑顔もなく答え、さらにこう続けた。
「日淀紅子さん、あなたに大事なお話があります」

 1階の奥座敷に通してふすまを閉めると、私はカイカンに座布団を勧める。そして畳の上の盆で茶を煎じ二つの湯呑に注ぎ、一方を相手に、もう一方を自分で手にした。
「どうぞ刑事さん、確か今度お教えすると約束しましたね。これが当旅館のもう一つの名物、薬草茶でございます。
…もう、そんな恐いお顔をなさらないでくださいな、毒なんて入っておりませんわ」
私が一口飲んでみせると、カイカンもそれに応じて口をつけた。
「それで、大事なお話というのは何でございましょう」
「今日はあなたを…逮捕しに来ました。椋岡さんを自殺に見せかけて殺害したのは女将、あなたです」
カイカンは躊躇なく告げた。狭い室内に響く重たい声。さすがに正座した足の指先が震えたが、私は悟られないように気品を持って返した。
「それは穏やかではございませんね。ご冗談でなくおっしゃっておられるのなら、納得のいくようにご説明いただけますか?」
「…もちろんです」
咳払いしてから刑事は語りを始めた。
「椋岡さんが宿泊した今生の間は、西の棟の2階にあります。防犯カメラの映像をチェックしましたが、あの夜西の棟へ行ったのはあなただけなんです」
「それはご説明したではございませんか。私の部屋は西の棟の3階にあるんです。私はただ仕事を終えて自室に戻っただけのこと。まさかそれだけで私をお疑いに?」
「いいえ、あなたはあの夜今生の間に入ったはずです。ちゃんと根拠があります。最初にここでお話を伺った時、あなたはおっしゃった…椋岡さんがラジカセで音楽を流しているのが聞こえたと」
「それがどうかしまして?自室にいた時、下の部屋から音楽が聞こえたのは事実です。ご説明差し上げたように西の棟は古い造りですから…部屋に入らなくても音楽くらい音漏れして聞こえますよ。それで私が今生の間に行ったというのは強引ではございませんか」
「音楽は聞こえるでしょう。でもどうしてそれがラジカセだとわかるんですか?」
一瞬心臓が停止する。
「パソコンでも音楽は流せます。スマートフォンでも流せます。確かあなたはどちらも扱えたはず。なのにどうしてラジカセだとおっしゃったんですか?」
背中を冷たい汗が一筋流れた。全く予想していなかった角度からの追及…落ち着け、落ち着くんだ!
「それは…そう、そうです、椋岡様のご遺体を発見した時にラジカセを見たから…」
「いいえ違います。遺体が発見された時、テーブルの上にはノートパソコンとスマートフォンしかありませんでした。確かに椋岡さんはラジカセを持参していましたが、遺体が発見された時にはそれはバッグの中にしまわれていたんですよ。よろしいですか?ラジカセの存在を知っているのは…彼がそれを使っている時に部屋に入った人間だけなんです」
思わず唇を噛む。くそ、くそ、またしくじった。そういえばあいつは、私が部屋に入った後で、私の目の前でラジカセをバッグにしまっていた。畜生!
「説明を続けますね」
カイカンは、言葉に窮する私に構わず先へ進んでいく。
「あの夜あなたは密かに今生の間を訪ねた。夜間に男女がこっそり会う理由といったら一つだけです。もちろんあなたと彼が恋人関係だったとは思いません。おそらく脅迫による逢瀬だったのでしょう。
つまり、椋岡さんは旅館の存続を条件にあなたを求めた。彼が口にしていた『やっとものにできそうだ』という言葉、あれは土地ではなくあなたを指していたのです」
私は何も返さずただ視線で迎え撃つ。
「もちろんあなたはそんな下劣な要求に応じる気はなかった。部屋に入ったあなたは、彼を殺害し、遺体を梁に吊るしたのです。保身のためだけではない、この旅館を守るために…あなたは罪を犯した」
カイカンの左目が哀れみの色を含む。お前に私の覚悟などわかるものか!同情など受けてたまるか!小さく鼻で深呼吸してから私は口を開いた。
「刑事さん…女の私の力であの椋岡様を吊るせるとお思いですか?直接お伺いしたことはございませんが、どう見ても体重100キロ近くはあられたと思います」
「確かにあなた一人の力では無理でしょう。だから最初は従業員のみなさんと共謀したのかとも考えました。しかし防犯カメラにはあなたしか写っていない。
となるとあなたは別の力を借りたことになります…そう、世捨ての滝の力を」

 カイカンはそこでまた右手の人差し指を立てた。
「あなたは頑丈で長いロープを用意しました。そして一方の端に重りを結び、もう一方の端は輪っかにしておいた。あなたはその輪っかを椋岡さんの首に掛けると、重りを梁の上に通して、さらに窓を開けて世捨ての滝へと投げ込んだのです。窓は15センチほどしか開きませんが、そこから腕を伸ばして重りを投げるには十分です。
今生の間は滝に最も近い部屋。距離は20メートルもない。斜め下に投げ落とすわけですから、女性の力でも十分に届いたでしょう。世捨ての滝は、一度呑み込んだ物はけして浮かんでくることのない強い吸引力を持っています。落ちた重りはグイグイと滝壷へ引きずり込まれていく。そしてロープもどんどん牽引され、やがて椋岡さんの首に掛かった輪っかも持ち上がり、彼は宙吊りになる」
「そこでロープを切って梁に結んだとおっしゃるんですか?そんなの無理です。切った途端にご遺体はまた下に落ちますよ」
「切るのは別のロープを結んでからです。あなたはもう一本短いロープを用意していましたね?宙吊りになった彼の首に新しいロープを掛け、そして梁にしっかり結ぶ。その上であなたは最初のロープの輪っかを切ったのです。
すると重りはさらに滝壷へと沈み、繋がったロープも全て引きずり込まれて証拠隠滅。部屋には一本のロープで首を吊った遺体だけが残る。遺体の首にロープの跡が二本あったのも、まぶたの裏に溢血点があったのも、これで説明がつきます」
刑事はそこでフッと笑った。
「女将、昨日ここで私とした会話をご記憶ですか?室内から朝食のゴミが消えたというお話をした時に、あなたは『ゴミは窓…』と言いかけました。あれは『窓から捨てたのでは』と言おうとされたのではありませんか?
でも言わなかった。何故か?窓から物を投げるという話をして、私に首吊りトリックのヒントを与えてしまうのを恐れたからです」
カイカンは下品にも立てていた指をパチンと鳴らした。くそ、いちいち人の心を見透かしやがって。ああ、そのとおりだよ。私は軽蔑の眼差しで言葉を続ける。
「得意げなのは結構ですが、刑事さん、それでは犯行方法の照明としてはあまりにも不十分でしょう。確かに世捨ての滝の吸引力を使えば人一人吊るせるかもしれません。しかしよろしいですか?椋岡様はこの旅館を潰そうとしておられました。私共従業員からよい感情を持たれていないこともご存じでした。ですから、とても警戒しておられたはずです」
「それなのに宿泊したということは、目的はあなたとの逢瀬だったと考えられます」
「今そんなことは申しておりません。そんなに警戒しておられる方の首にロープの輪っかを掛けることなど無理だということです。例え掛けられたとしても、すぐにはずされてしまいますわ。先ほど刑事さんが説明された方法は、途中で椋岡様に抵抗されてしまったらうまくいきません。大声を出されたらそれこそアウトです」
「もちろん抵抗できない細工を先にしておいたんですよ。前にもお伝えしましたね。椋岡さんの首には、吉川線と呼ばれる抵抗の痕跡がまるでなかった。つまり、首を吊られた時、彼は無抵抗だったのです」
カイカンは全くひるまず続ける。
「ではここでクエスチョン。いかなる方法で無抵抗な状態にしたのか?警戒している相手です、鈍器で殴ったり、スタンガンを押し付けたりするのは難しい。それこそ真っ裸にでもならない限り、彼は警戒を緩めなかったでしょう。
残る方法は薬物。あなたは…一時的に体の自由を奪う薬を彼に飲ませたのです」
「薬を盛ったとおっしゃる?アハハ、それこそ無理ですわ」
私は嘲笑を浴びせた。
「よろしいですこと?椋岡様は私共を警戒してお食事にもお飲物にも一切口をつけず、自分で持ち込んだ物だけを口にしておられました。それなのにどうやって薬を盛ったと?」
「彼の部屋に行った時、あなたは飲み物を振る舞った。お酒かお茶か…まず気持ちを落ち着けましょうとでも言ったのではありませんか?」
「有り得ませんわ。例え真っ裸になったって、私が用意した物をすんなりあの男が口にするとお思いで?」
「まず先にあなたが飲んでみせたとすればどうでしょう。それなら椋岡さんも安心して飲まれるのでは?」
私は思わず笑い声を上げた。
「アハハ、それでは私が先に動けなくなってしまうではございませんか。首を吊らせるどころではございませんね」
「だからあなたは彼に唇を重ねたのです」

「あなたは彼に口づけをしました。同時に薬の入った飲み物も口移しで飲ませたのかもしれません。彼はあなたを求めていたわけですから、当然それに応じたでしょう。そしてあなたはこの時、彼の舌に咬みついた…血が出るほど強く」
私の表情が凍る。まさかそこまで見抜いて…?
「ある種の毒物は口から摂取するだけでは作用せず、血液中に入ると途端に効能が発揮されます。蛇の毒などが有名ですね。あなたが使用したのもこの類の神経毒でしょう。ただし致死性はない微量な物、あくまで椋岡さんを抵抗できない状態にするのが目的ですから。
現在改めて、遺体から検出するように鑑識に指示しています。薬も毒も無数にありますからね、割り出す時はある程度種類を想定して試薬を用います。蛇の毒はさすがに想定していなかったでしょうから…今度は検出されると思いますよ」
カイカンはそこで大きく息を吐いた。
「…以上です。納得いただけましたか?そうやって体の自由を奪うと、あなたは先ほど説明した方法で彼を梁に吊るしたのです」
こちらをじっと見る哀れみの目。私は強い敵意でそれに抗する。
「証拠は…ございますか?仮に毒物が検出されても、私が飲ませたとは限りませんよね」
刑事は軽く首を振る。
「もっと確実な証拠があります」
「賜りましょう」
「咬み傷ですよ。椋岡さんの舌の表面には咬まれた傷跡が残っていました。通常口の中というのは血流が豊富なので、怪我をしてもすぐに治ります。ただ彼の場合は直後に死亡したため傷がそのままになっていたんです。
…よろしいですか?この傷と、あなたの歯形が一致すれば決定的な証拠になります。それとも彼とは恋人同士で、愛の口づけを交わしたと主張されますか?」
私は目を閉じる。
見事だ…素直にそう思った。なんだか急に今朝の空のような晴れやかな気分が込み上げてくる。刑事カイカン…見た目は薄汚いが、これでなかなかの男じゃないか。
置時計の針の音だけが聞こえる。私はゆっくり目を空け、そっと口元を綻ばせた。
「偽証でも、あの男と愛し合ったなんて…この口が裂けても申し上げたくございませんわ。刑事さん、全てを見通すかのごとき名推理…お見それ致しました」
「恐縮です」
カイカンはそっと目を伏せ、茶を一口飲んでからまた視線を上げた。
「ここからは私の想像です。十五年前にあの部屋で起きた自殺も…今回と同じ方法で行なわれた殺人だったのではないでしょうか。実行したのは当時女将だったあなたのお母様です。明日見旅館の二百年の歴史の中で、これまでにも今生の間での自殺は何度かあったそうですね。まさかその全てが殺人だったとは思いたくありませんが…。
しかしもしかしたら、旅館に害を及ぼす者が現れたらあの部屋に宿泊させて殺害する…代々そうやって女将は旅館を守ってきたのではありませんか?世捨ての滝を利用した首吊りのトリックは、女将にだけ申し送られてきた秘密のノウハウ…そうでなければ、予行演習もなしにいきなり実行できるはずがない」
「刑事さん…」
私もそこで茶を飲む。この苦味が愛おしい。
「そんな申し送り、私は母から受けてなどおりません。代々娘に殺人の方法を伝承するなんて…そんな恐ろしいこと、あるとお思いで?私は罪を認めますが、母や先祖を冒涜するような発言はおやめくださいませ」
「…失礼しました」
室内にじんわりと静寂が訪れる。
そう、母から教えてもらったわけじゃない…それは本当だ。ただし十五年前に母があの方法で男を殺したのは事実だ。あの日、母のただならぬ様子を感じた私は、早めに寝たふりをして布団を抜け出し、男が温泉に入っている間に今生の間の押入れに隠れていた。夜中になって母が部屋を訪れたのがわかった。そっと隙間から覗くと、肌をさらした母が薬草茶を口に含み、男の首に腕を回して口づけをしていた。いやらしい男の顔が一瞬歪み、その後体が麻痺したように崩れ落ちた。母は男の首にロープを掛け、例の方法で男を梁に吊ったのだ。
衣服を整えて出ていく母の姿を見ながら、私は震えが止まらなかった。そして理解した…どうして自分が幼い頃から薬草茶を飲ませ続けられてきたのかを。

「ううっ」
急にカイカンが呻いてうずくまった。その手から湯呑が落ちる。ようやく…効いてきたか。思ったより時間がかかったな。

「う、くく…」
苦しむカイカン。やはり普通に飲むだけでは作用が遅いようだ。私は自分の湯呑を置くと、すっくと腰を上げた。
「あら刑事さん、どうなされました?具合がお悪いんですか?アハハ」
無様に畳に崩れた男を見下ろし、私は再び嘲笑を浴びせる。
「ま、まさかお茶に毒を…?でも、ど、どうして…。私は口の中を怪我してなどいないのに…」
畳に頬をつけたまま、こちらを睨んで搾り出すようにほざくカイカン。
「先ほどの推理、お見事でしたけど、満点じゃございませんでしたの。私が使ったのは蛇の毒ではございません。裏山の薬草を特殊な割合で調合して煎じた、秘伝の薬草茶でございます。きっと化学の本には載っておりません。だから鑑識さんもわからなかったんでしょう」
「じゃ、じゃあ今あなたと私が飲んだのも…」
「ええそうですわ。どうして私がピンピンしているのか不思議に思われますか?
この旅館では、将来女将になる娘は幼い頃からこれを飲まされるんです。もちろん最初は薄い濃度から始めますが、それでも子供の頃は私もしょっちゅう体調を崩していました。そして慣れてきたら少しずつ濃度を上げていく…そうやって成人するまでにはこの薬草茶の毒を克服するのです。
免疫がない人間が飲めば、アハハ、今の刑事さんみたいになっちゃいます。あの男の舌を咬んだのはより毒の作用を強めるため、そしてさっさと効いてほしかったからです。刑事さんには口づけしなくてごめんなさいね。今からでもして差し上げますか?」
「そんな…」
「これも伝承された仕来たりです。これは女将だけが飲めるお茶…ガブガブ飲んでもヘッチャラなんです、アハハ」
なんて愉快なんだろう。明日見旅館二百年の歴史には警察だって敵いはしないのだ。
「残念でした、少々読みが甘かったですわね。この旅館の女将は蛇などではございません…鳥なんです」
そこでカイカンは肘をついてわずかに頭を上げた。
「鳥…?もしやあなたのお名前、『日淀』の本来の意味は…」
「あら刑事さん、よくお気付きになられましたわね。そう、今は当て字で『ひよどみ』と読ませていますが、本来の名前は卑しい鳥と書いて『鵯(ひよどり)』でございます。さすがに卑しい鳥では客商売に向きませんから。
鵯はセンダンの木の実を食べる不思議な鳥。家畜も人間も中毒症状を起こすその毒の実を、平気で食べる気高い鳥です」
「う、うう…」
身体が麻痺してきたのか、脂汗をかいて敗北者は悶える。
「アハハ、ざまあごらんなさい。もうお喋りも難しそうですわね」
「わ、私の部下が旅館の外で待機している。私が戻らねば、す、すぐに応援を呼んでくるはず…」
「悪いがそれはないですぜ」
廊下から声がした。次の瞬間ふすまが開き、そこには大鷹、鶴代、そして従業員のみんなの姿。続いてロープで縛られた女刑事が畳に転がされる。
「みんな!」
「この女、世捨ての滝の周りを調べ回ってたんで縛り上げておきました」
大鷹が答えた。意識を失って隣に倒れる部下にカイカンが「ムーン、しっかりしろ!」と必死に呼びかけている。
「でもみんな、どうして…」
私が尋ねると、従業員たちは次々と膝をついて土下座した。そして口々に詫び始める。
「すまねえ女将、俺たちのために…」
「ちょっと大鷹さん、みんな、顔を上げてよ。いいの、いいのよ。私が私の判断であの男を…」
「違うんだ、女将。俺たちもみんな知ってたんだ」
顔を上げた大鷹は目に涙を浮かべて説明した。
「女将に伝承された申し送りがあったように、従業員にも伝承された申し送りがあったんです。女将が今生の間に客人を泊めたらそれは決行の合図。夜中に女将が重りのついたロープを世捨ての滝に投げ込んだら、そのロープをみんなで引っ張れって…」
…え?
「だから俺たち、あの夜は旅館の外で待機してたんです。窓の下で、女将が投げるロープを待ってたんです。さすがに滝の力だけじゃ人間一人持ち上がったりしませんよ。先代女将が同じことをなさった時も、俺たちがそうやってロープを引っ張ったんです。すまねえ、本当にすまねえ」
大鷹がまた額を畳に擦りつけると、みんなも口々に「すまねえ」「堪忍して」と懺悔する。そして今度は鶴代が顔を上げた。
「もう私たちも限界です。実際には私たちが殺してるのにその罪を女将一人に背負わせて…しかも今度はこんなに若い紅子ちゃんにまで。私たちみんなここで働けるのが幸せなんです。お客様が笑顔で帰っていくのを見るのが幸せなんです。でも、そのために紅子ちゃんを犠牲にしたくないの!だって私たちみんな女将のことが好きだから、明日見旅館が好きだから!」
「みんな…」
従業員たちが立ち上がり、私の周りに集まってくる。
そうだったんだ…自分がみんなを守っているつもりだったけど、本当は私がみんなに守られてきたんだ。
そこで浮かぶ母の顔。もしかしたら…いや、きっとそうだ。お母さんは気付いてたんだよね、このことに。だから私には首吊りのトリックを伝えなかった。そして臨終の時、「つらくなったら女将を辞めてもいいんだよ、旅館がなくなったっていいんだよ」って私に言ったんだ!
胸の奥から熱いものが込み上げる。同時に瞳から涙が溢れてみんなの笑顔がぼやけた。
「みんな、ありがとう!」
「こちらこそ、ありがとうございます、女将」
「つらい思いさせたねえ、紅子ちゃん」
「もう一人で頑張らなくていいんだからね」
おじさん、おばさん…みんな、大好き!
気付けば畳に倒れたカイカンは静かになっている。隣で女刑事も気を失ったままだ。それを見て大鷹が言った。
「こいつらどうします?世捨ての滝に沈めちまいますか。乗ってきた車も一緒に。そうすれば証拠は何もなくなります。またみんなでずっと働けます」
「うん、そうだね。よし、そうしちゃおう!アハハ、アハハ…」
みんなで大笑いする。心の底から嬉しい。楽しい。

それはまるで…いつまでも見ていたい幸福な夢のようだった。