第三章③ ~紅子~

カイカンが去り、午後の時間はカタツムリのようにゆっくりと過ぎる。日が暮れると、雨はポツポツと落ち始めた。早めの夕食を摂って私は自分の部屋にこもる。
「まだ起きていらっしゃたんですか?」
午後11時。出納帳と格闘していた私に、大鷹が声をかけてきた。隣には鶴代の姿もある。
「間もなく日付も変わります。お体に障りますよ」
「ありがとう大鷹さん。二人こそ、今日はお客様もいないんだから早く休んで。私も…もう少ししたら寝ます」
「お疲れ様です」
頭を下げて去ろうとする二人を、そこで私は呼び止める。ふいに尋ねてみたくなった。
「ちょっと待って。一つ…訊いてもいいかしら?」
「何でございましょう」
鶴代が小首をかしげた。
「十五年前の事件の後…お母さんはどんな様子だった?」
二人は一瞬黙ったが、すぐに顔にシワをたくさん造って微笑んだ。
「それはもう…堂々とした姿でしたよ。気高くて、頼もしくて…お美しかった。こんなことが起きて大変だけどみんなで旅館を盛り立てようと…そうおっしゃっていました。従業員一同、この人についていこうと誓ったのを今も忘れません」
鶴代の言葉に大鷹も深く頷く。
「そう…。私にもできるかなあ」
「何をおっしゃいます。この大鷹、何があっても女将の味方です。大舟に乗ったつもりでいてください」
「随分古い舟だけどねえ」
鶴代が言ってみんなで笑った。

その後私たちは1階の食堂に下りて話をした。鶴代さんが入れてくれた紅茶とクッキーを味わいながら、お母さんのこと、おばあちゃんのこと、そして私の小さい頃のこと。
こんなにお喋りしたのはいつ以来だろう。とても幸福な時間だった。
そしてふと窓の外を見ると、雨足は少しずつ強まってきていた。