エピローグ ~ムーン~

病室のドアを控え目にノックすると、「どうぞ」と低い声が返ってきた。
「失礼します」
ノブを手前に引いて静かに中に入る。窓が一つだけの小さな部屋には微かに消毒液の香りが漂い、心電図の無機質なモニター音と、シューシューという人工呼吸器の音だけが続いていた。
「やあムーン」
ベッド脇の椅子で警部が振り返らずに言う。
「お疲れ様です。警部、彼女は…」
数歩前に出て上司の隣に立つ。そしてベッドに横たわる彼女を目にして、私は発しかけた問いを止めた。警部の返答を聞くまでもなかった。
彼女…日淀紅子はいくつもの点滴に繋がれ、その腕や足には包帯が巻かれている。鼻と口を覆う人工呼吸器のマスクからは太いチューブが延びている。ただ身体の痛々しさに対して顔だけは妙に綺麗で、艶やかな黒髪も、閉じた瞳から覗く長いまつ毛も、今なお彼女の可憐さを讃えているようだった。
「お医者さんの話だと…意識が戻る可能性は極めて低いそうだよ」
感情のない声で警部が告げた。私は小さく「そうですか」と返す。

それは誰にも予想し得ない諸行だった。火曜日の夜から降り出した雨は次第に記録的な豪雨に変わり、明日見旅館の裏山に大規模な土砂崩れを引き起こしたのだ。それは激しい土石流となって一瞬にして旅館を倒壊させた。確かに危ない場所に建っていた旅館だった。しかし二百年守られてきたその安泰がまさかこのタイミングで破られるなんて。
水曜日の朝一番で逮捕状を持って彼女を訪れようとしていた警部と私は、その土砂災害の一報を聞いて言葉を失った。近隣には避難命令も出され、とても警察の公務を執行できる状況ではなかった。木曜日になって雨が上がり、ようやく現場に足を運んだ警部と私は、そこで目にした光景を一生忘れることはないだろう。
…明日見旅館は消えていた。土砂に押し流されそのまま世捨ての滝に呑み込まれたのだ。館内にいた従業員も、遺体は上がっていないものの、恐らくは滝壷に落ちて全員死亡。警察の指示で宿泊客がいなかったことが不幸中のごくわずかな幸いだった。
そしてただ一人…女将の日淀紅子だけが、あの太い大黒柱に引っ掛かって滝への転落を免れていた。しかし全身の打撲と骨折、何より長時間土砂の中に埋もれていたことで瀕死の重体。医療技術の精鋭を駆使してかろうじて命を繋いでいるのが、今目の前にいる彼女である。
人工呼吸器がはずせないこの現状では、歯型の鑑定など叶わない。そもそも旅館がなくなった以上、首吊りの仕掛けももはや実証できない。これまで多くの人の苦しみを呑み込んできた世捨ての滝は、この事件の真相をも完全に呑み込んでしまったのだ。まるで明日見旅館の最後の女将を庇う科のように。

「…ア、ハ、ハ」
空耳か。それとも生理的な反射で喉が動いて偶然そんな声が漏れたのか。一瞬彼女が笑ったような気がした。注目すると頬も微かに綻んでいるように見える。そして目じりには…一粒の涙。
「警部…」
不適切だったかもしれない。不謹慎だったかもしれない。それでも私は感じたままを口にした。
「嬉し泣き…しているんでしょうか」
警部は黙って腰を上げる。そして帰り支度をしてから、最後にもう一度だけ彼女の顔を覗き込んだ。
「夢に見ているのかもしれないね…迎えることができなかった明日を」

-了-