第三章② ~ムーン~

「やあムーン」
火曜日の午後。デスクで資料に目を通していると、警部が部屋に入ってきた。明日見旅館から戻ってきたところらしい。私は立ち上がって「お疲れ様です」と返す。
「お疲れ様。ビンさんは?」
「先ほど遅めの昼食に出られました」
「ああそう。それで、君の方はどうだった?」
「はい。ご指示どおり椋岡さんがこれまでに仕事で関わった人たちを当たってみました。かなり強引な…というより悪質な方法で土地を手に入れていたようです。あと…相当の女好きだったと」
話していてイライラしてくる。あいつは相手が男の場合は立ち退き料として女性を手配したり、相手が女性の場合は立ち退かせない代わりに体の関係を求めたりしていたらしい。そのくせ弄んだ挙句に結局は立ち退かせて土地を奪う…下衆の極みだ。
「ありがとうムーン。でも…顔が恐いよ」
報告を終えた私に警部が言った。いかんいかん、感情的になっては。
「失礼しました。そちらはいかがでしたか?」
「女将は正直に認めてくれたよ、椋岡さんから脅されていたとね。でも一貫して立ち退きは拒否し続けていたという主張は崩さなかった」
「では、椋岡さんの言っていた『やっとものにできそうだ』という言葉は…」
嫌な予感が過る。それを口に使用可迷っていると、警部が急に「ありゃ?」と裏返った妙な声を上げた。
「どうかされましたか?」
「いや、なんだか変な感じが。後ろから引っ張られてるみたいな…」
まったく、この変人は今度は何を言いだしたのか。背中に手を回してあたふたしている。
「今生の間から背後霊でも連れてきたんじゃないですか?」
「やめてくれよ。ちょっとむーん、背中を見てくれ」
やれやれと一応後ろに回って確認する…と、ほつれたコートの糸が延びている。それは先ほど警部が入って来たドアの隙間を抜けて廊下まで続いているらしい。
「ちょっとそのまま待っててください」
部屋を出て糸が延びる先を追いかける。すれ違う他のミットの刑事たちに軽く会釈しながら足早に進む…もう、恥ずかしいなあ。ようやくたどり着くと、それはエレベーターのドアに挟まっていた。表示を見るとエレベーターは現在1階。
ははあ…つまりこういうことだ。警部がエレベーターを降りた時に、ほつれた糸の先が閉じたドアに挟まった。そして間もなくエレベーターが降下し、糸はどんどん引っ張られ、部屋にいる警部を引き寄せてしまったのだ。
私は指で糸を切ろうとしたが…なかなかにしぶとい。部屋までソーイングセットを取りに戻るのも面倒だ。そして何より人が行き交うこんな場所で、妙な注目を集めたくない。ただでさえ好奇の視線を浴びやすいのだ。周囲の目がないことを確認すると、私は素早く自分の糸切り歯に糸を持って行きそれを切断した。本当に世話がやける。
糸を手繰りながら部屋に戻ると、当の本人は昆布をくわえて私のデスクの上の資料に目を落としていた。
「わかりましたよ警部、コートから出た糸がエレベーターに挟まっていたんです。今根元を切りますからね」
「すまんね、ありがとう」
手近なハサミを取ると、警部の背中の糸をチョキン。
「いい加減買い換えたらどうですか、このコート…ついでにハットも」
一応伝えたがこの人がそうする気がないのはわかっている。スケールはまるで違うが、あの旅館に歴史があるように、きっとこのコートとハットにも歴史があるのだ。
そしてこのミットにも…それはある。警部とビンさんが話しているのを聞いていて、時々ふと疎外感を覚えることがある。私の知らない歴史、私には知らされない歴史の存在。自分から首を突っ込もうとは思わない。まあニックネームの慣例だけはいい加減終わってほしいもんだけど。
「ムーン、この書類…」
私の胸中などお構いなしに警部が言った。
「先ほど届いた、司法解剖の正式な報告書です。新たな情報としては…」
「舌の咬み傷」
目を通しながら警部が先に指摘する。
「そうです。椋岡さんの舌には咬んだ跡がありました。傷の場所がやや不自然なようですが…首を吊った反動で思わず咬んだのかもしれませんね」
そう伝えても反応はない。見ると上司は石像のように固まっていて微動だにしない。
…きた。これはこの人の思考がフル回転している時に見られる所見。今その頭の中ではものすごい勢いで推理が展開されているはずだ。こんな時は再び警部が動き出すのを気長に待つしかない。
やれやれ、とホワイトボードを見る。そこには『相手を無力化する方法』、『相手を持ち上げる方法』と昨夜の疑問が記されている。
警部は答えをひらめいたのだろうか。そもそも何がヒントになったのだろう…舌の咬み傷?ほつれた糸?まさかね。
この事件が他殺ならば、犯人を逮捕するために警察はその犯行方法を示さなければならない。午前中に電話で報告した椋岡の朝食の件、女将が椋岡から脅されていたこと、そしてあの夜彼の部屋に行くことができたのは彼女だけだという事実。それらはいずれも状況証拠に過ぎないのだ。

「…ムーン」
十五分後、ついに沈黙が破られた。私はそちらに向き直る。
「逮捕状を用意してくれ」
そう静かに告げると、警部はくわえていた昆布を飲み込んだ。
またこのパターン。これも…伝統のなせる業なのだろうか。私の上司はこの時、二百年の歴史に立ち向かおうとしていた。