第三章① ~紅子~

 一夜が明けて火曜日。宿泊客はキャンセルになったので急ぎの仕事はないが、考えなくてはならないことは山ほどある。椋岡を始末して当面の危機は乗り切ったとはいえ、このまま経営不振が続けばいずれは旅館をたたむことになる。
「女将、よろしいですか」
自室で出納長を睨んでいた私に声がかかる。大鷹だ。
「どうぞ」
入室した彼は一礼し、また神妙な面持ちで告げた。
「昨日の刑事が来ました。もう一度女将と話したいと」

 大鷹と1階に下りると、カイカンが大黒柱を見ながら立っていた。そんなに物珍しいのだろうか。
「おはようございます刑事さん。今日はお一人なんですね」
「おはようございます。ええ、ムーンには別の場所で調べ事をしてもらっています」
女刑事の動向がやや気にはなったが、変に追及するのもおかしいだろう。
「そうですか…。では、こちらへどうぞ」
私は微笑み、昨日と同じ奥座敷へと刑事を導いた。お互い腰を下ろしたが、妙な沈黙が生まれる。
「捜査の進捗はいかがでございますか?」
あえてこちらから切り出してみる。
「一歩ずつ進んでいますよ。例えば…」
低い声は小さく咳払いしてから続けた。
「まずは椋岡さんの死が、自殺なのかそうでないのかについて。司法解剖の結果、眼瞼の裏に溢血点が見つかりました。眼瞼というのはまぶたのことで、溢血点というのは血が溢れる点と書きまして、じわじわと首を絞められた場合に、頭部に溜まった血液が斑点のように現れる所見です。つまり…首吊りのように一気に強い力で首が絞まった場合には出現しない」
わずかに脈が速くなる。落ち着け…落ち着くんだ。
「では椋岡様は、誰かに力ずくで首を吊られたということですか?なんて恐ろしい…」
「そこなんですよ。その場合は通常ロープをはずそうとして人は抵抗します。ですから首には引っ掻いた跡が…これを吉川線というんですが、そういったものが残るはずなんです。しかし全く見当たりません。それどころか、体にも衣服にも抵抗した形跡はまるでないんです。
あ、それともう一つ。首にはロープの跡が二本残っていましてね、これもよくわからないんです。実際に首を吊っていたロープは一本ですから」
「つまり…自殺としても他殺としても不自然だとおっしゃるので?」
「まさにそのとおりです。先ほど捜査は前進していると言いましたが、実は一進一退といった感じでしてね。もちろん自殺でも、ロープの位置によっては溢血点が出ないケースもあります。あるいは他殺でも、被害者があえて抵抗しなければ吉川線がないケースもあります。いずれもレアケースですが…」
そこまで言うとカイカンは黙り込んでしまう。やはり警察というのはあなどれない。だが…現時点で明確に殺人と断定されたわけではない。私は密かに安堵する。それと同時に、どうしてそんな捜査情報を私に教えるのかが少々気になった。
「ところで女将」
息を抜きかけたところで突然刑事が口を開く。
「実は過去の記録を調べていてわかったのですが、以前にも今生の間で宿泊客が亡くなっているんです。十五年前のことですが、ご記憶ですか?当時あなたもいらっしゃったはずですが」
話題が急に変わった。心の準備をしていなかったので脈がさらに速くなる。落ち着け落ち着け、慎重に答えねば。
「ええ…憶えていますよ。と申しましてもまだ九つの頃ですから、おぼろげに警察の人がなんだかたくさんいらっしゃってたなあというくらいですが」
「詳細については?」
私は小さく首を振る。
「そうですか…。同じお部屋で不幸が重なったことについて…どう思われますか?」
含みを持たせてそう言うと、カイカンはじっと私を見た。前髪に隠れていない左目は…まるで獲物を見定める鷹のように鋭い。私を…疑っているのか?鼻で深呼吸してからそっと口を開く。
「そうですね…確かに警察は不審に思われるでしょうね。お泊りの方が同じく自殺するなんて、まるで心霊スポットのいわくつきの部屋ですもの。でも…正直なところ、偶然不幸が重なったとしか申せません。どうしてと考えましても…理由などございませんもの」
「同じく自殺する、とはどういう意味ですか?」
「え?ですから、宿泊したお客様が同じように梁にロープを結んで首を吊ったと…」
「私は十五年前の死因が首吊りとは言ってませんよ。自殺とも言いませんでした。ただ宿泊客が亡くなったとだけお伝えしたんです…女将」
血の気が引く。しまった、口がすべった。カイカンの低い声は、鷹が捕えた獲物に爪を食い込ませるようにどんどんその圧力を増していく。
「先ほどあなたは、おぼろげにしか憶えていないとおっしゃいましたね。でも実際にはそれが首吊り自殺だとしっかりわかっていらっしゃる。…どうしてですか?」
くそ、くそ、くそ!こんなことで揚げ足を取られるなんて。何か…何か言わなくちゃ!私はかろうじて笑顔を繕いながら言葉を探す。だが…焦れば焦るほど何も出てこない。部屋の置時計の針の音が余計に気持ちを急かせる。
「そ、それは…」
「失礼致します」
私が口ごもった時、ガラッと廊下からのふすまが引かれた。カイカンも振り返る。入ってきたのは鶴代…大鷹と同じく古くから働いてくれている女性。その手には湯呑を乗せた盆。
「粗茶をお持ちしました、どうぞ」
「あ、どうも」
彼女はまずカイカンに、そして私に湯呑を手渡すと小さく目配せした。外の空気が流れ込んで室内の緊張も少し薄まる。
「いただきます…」
ゆっくり口をつけるカイカン。そこで鶴代は穏やかに言った。
「お勤めご苦労様です。あの、今少しお話が耳に入ったのですが、女将が十五年前のことをご存じでも何の不思議もございませんよ」
「と言いますと?」
「私共がお教えしたのです。二年前、先代の女将が亡くなられて紅子さんが後を継がれた時に…旅館の歴史を一通りお伝えしました」
「刑事さん、ご紹介しますね。この人は鶴代さん。大鷹さんと同じで、私の祖母の代からずっと住み込みで働いてくれているんです。ですから、旅館のことも私よりずっと詳しいんです」
「そうでしたか」
カイカンは表情を緩めて優しい声になった。
「それはそれは…ずっと住み込みですか。ということは夜中に受付にいらっしゃるのも鶴代さんですか?」
「私と大鷹で交代して、夜間の対応をしております。昨日はバタバタしておりまして…ご挨拶が遅くなりました」
鶴代は如才なく自己紹介すると、一礼して退室した。ふすまが閉まってからカイカンが言う。
「矍鑠とされていますね。そういえば昨日防犯カメラの映像をチェックした時、夜間の受付には鶴代さんが写っていました。そして明け方頃、大鷹さんと交代していらした」
「本当に助かっています。若輩者の私がこうして女将をやれるのも、従業員のみんなのおかげです。特に大鷹さんと鶴代さんにはお世話になりっぱなしで…」
「お二人とも、この旅館がお好きなんでしょうね。そしてあなたのことも…そんな愛情を感じます。今だって、まるであなたを庇うように会話に入っていらっしゃた」
「それは…たまたまですわ」
私も湯呑を口に運ぶ。カイカンの目は鋭さを弱め、どこか寂しさを帯びていた。
「刑事さん、お尋ねになりたいことは以上ですか?」
「あ、いえいえ、もう少し質問させてください。よろしいですか?」
「…何なりと」
逃げることは許されない。私が迎え撃たねば。明日見旅館に害を及ぼす者は…私が遠ざけねば!

 少し座り直してから、カイカンはさらに低い声で質問を続けた。
「椋岡さんの会社に行って調べたんですが、彼は土地の売買を生業としていました。クライアントが必要としている土地を手に入れ、それを高額で売る。住民がいた場合は立ち退かせてでも土地を手に入れる…まあそんな仕事です。
そこで女将、単刀直入に伺いますが…椋岡さんはこの旅館の土地も手に入れようとしていたのではありませんか?あなたとしていたお話というのも、そのことではありませんか?もうどうか正直にお答えください」
やはり…言わねばなるまいか。昨日は頑として拒否したが…どうせ調べれば明らかになることだ。私は湯呑を置き、膝の上で拳を握る。
「刑事さん…そのとおりです。椋岡様はこの旅館の立ち退きを求めてきました。この土地を使って産業廃棄物の処理場を造る計画があるとかで…」
「どうお答えになったのですか?」
「もちろんお断わり致しました。当然でしょう、明日見旅館には二百年の歴史があります。伝統があります。例え立ち退き料を積まれても、この土地をお譲りするわけにはいきません。それに…裏山の自然を、滝を…こんな美しい風景をゴミで埋めてしまうのはあまりに忍びありません」
「…はい」
「ですからきっぱりお断わりしました」
「それで、椋岡さんはすんなり了承されましたか?」
カイカンは目を細める。嘘をつけばまた揚げ足を取られる…私は奴の悪行を洗いざらいぶちまけることにした。
「いえ、何度お断わりしてもしつこく頼みにいらっしゃいました。あれこれ交換条件を提示されましたが、全て無視しました。すると今度はお金を払えとおっしゃったのです。
…と申しますのも、うちの温泉はパイプで裏山からお湯を引いているのですが、その途中で一部よそ様の土地を通っている箇所があるんです。そこは空き地で、もちろん持ち主にも了解を得て長年それでやってきました。ところが椋岡様はその空き地を買収し、そこは自分の土地だからパイプを撤去しろとおっしゃったのです。それができないのなら金を払って土地を買い取れと…」
「そうですか」
感情なく刑事は相槌を打つ。
「提示された金額はとても払えるものではございませんでした。だったらもう旅館をたたんで立ち退くしかないと…そう脅されました」
「卑劣なやり口ですね」
「ええ。弁護士にも相談しましたが、相手はちゃんと合法的な手続きを踏んでいるから裁判で争うのは難しいだろうと。損失を一番小さくするにはパイプを撤去するしかありませんが、温泉がなくなればお客様が減ってしまい、どの道旅館は続けられません」
話していてまた腹が立ってくる。やはりあんな腐れ外道、死んで当然だったんだ。
「…大変でしたね」
カイカンの優しい声に、私はつい「ありがとうございます」と頷いてしまう。
「不甲斐なかったですよ。女将の私がこの旅館を守れないなんて。母も、祖母も、曾祖母も…ずっと守ってきてくれたのに」
演技ではなく目じりに涙が滲んだ。私はそっと小指で払う。
「実はですね。椋岡さんの持ち物にノートパソコンとスマートフォンがあったので調べてみたんですよ。そうしたらインターネットに…。あ、スマートフォンってわかります?」
急にそんなことを言われてついクスッと笑う。
「刑事さん…私のことを重度の箱入り娘だって思ってらっしゃいませんか?老舗旅館の娘だからって、頭の中まで江戸時代じゃございませんわ。ちゃんと今のことも存じております。学生時代はしっかり短いスカートもはいて、殿方とのデートもたくさんしましたのよ、フフフ」
「あ、そうでしたか。これは失礼しました」
ドギマギしながら謝る姿がなんだか可愛い。いつしか私の脈は落ち着いていた。
「私も部屋にパソコンは持っておりますし、インターネットも閲覧します。ちゃんとこの旅館のホームページだってございますのよ。スマートフォンだって使います。
そういえば、椋岡様のご遺体を発見した時、お部屋にはノートパソコンとスマートフォンが置いてありましたわね。それがいかがされました?」
「うちの鑑識に解析してもらったんですよ。するとインターネットの旅館ランキングの掲示板に、彼はこの旅館に対する悪質な書き込みを度々していました。これも名誉棄損にならない程度の力加減で、巧みに身元を隠した上でですが」
「本当に…ひどい方」
「はい。客足を遠のかせ、旅館が立ち退くしかないように追い込もうとしたのでしょう。一昨日、彼はここに来る前に『やっとものにできそうだ』と部下に言っておられたそうです」
「刑事さん、これだけははっきり申し上げます」
ここまで明らかになったのだ。だったらもう開き直ってしまった方がいい。私はあえて胸を張り、正面からカイカンを見つめて言い放った。
「私は殺しておりません」
「そう…ですか」
「確かに椋岡様に脅されていました。それは認めます。ですが、殺人など…」
そこで右手の人差し指を立てるカイカン。
「先ほどあなたはおっしゃった、代々続いてきたこの旅館を守りたいと。あなたにとって伝統とはそれほど重たいものなのですね?」
「当然でございましょう。先祖がいたから私がいる、過去から受け継がれてきたものがあるからこそ、現在があるんです。先人の想いに報いるのは今を生きる者の務めです。
先ほどの溢血点や吉川線のお話…大変興味深かったですが、あれだって、警察が代々積み上げてきたものがあるからこそ今の捜査に活かせるのではありませんか?」
「…はい」
「伝統を守ることについて私には何の異存もございません。ですが刑事さん、だからといって私が殺したというのは…早計です。そもそもこれは自殺かもしれないんですよね?」
そこでカイカンの携帯電話が鳴る。「ちょっとすいません」と刑事はそれに出た。人になんだかんだ言っておいて、スマートフォンではなくガラケイを使っている。電話の相手はあの女刑事らしい。短いやりとりの後、「そうか…わかった」と一分にも満たない通話は終わる。
「失礼しました。ですが、タイムリーな連絡です、フフフ…」
低い声は不気味に笑った。

「実は、今生の間にコンビニのビニール袋が残されて居ましてね。椋岡さんが脱いだ服を入れていたのですが…」
刑事は右手の人差し指を立てたまま説明を続ける。
「タクシーの運転手に確認して、それは椋岡さんが旅館に来る途中のアキナーマートで買い物した時にもらった物だということがわかりました。袋に残っていた指紋と、対応した店員さんの指紋も一致しました。今の電話はその報告だったんです」
またわずかに脈が速くなる。まさかそんなことまで調べるなんて…。
「それが何かおかしいのですか?」
「報告はもう一つあります。椋岡さんはアキナーマートでお茶を一本、缶コーヒーを一本、サンドイッチ一つにヨーグルトも一つ買っておられたんですよ。ところが今生の間から発見されたのはお茶一本だけ。他の品はどこに消えてしまったのでしょうか?」
震えそうになる両手をなんとかこらえ、私は沈黙を返す。
「缶コーヒー、サンドイッチにヨーグルト…これはどう考えても朝食ですよね。椋岡さんは夕食の弁当も持ち込んでおられたので、朝食を持ち込んでも不思議ではありません。しかし…では彼の朝食はいずこへ?」
「夜中にお腹が空いて…召し上がられたのでは」
「ナルホド。しかしそうだとしても、ゴミが残るはずです。空き缶や容器は室内のどこにもありませんでした」
「ゴミは窓…」
そう言いかけて、私は言葉を止める。そして別の言葉に取り換えた。
「刑事さんはどう思われますか?」
「犯人が持ち去ったのです。自殺を偽装しようとしていた犯人は、椋岡さんが朝食を準備していてはまずいととっさに思ったのでしょう。確かに自殺を計画してロープまで持参した人が、翌日の朝食を準備していては矛盾しますからね。
しかし…椋岡さんは帰りのタクシーを予約していました。この時点ですでに矛盾している。犯人は焦って余計なことをしたのでしょう」
そのとおりだ。私は冷蔵庫の中の朝食を見つけてそれを持ち去ってしまった。まさか椋岡が帰りのタクシーを予約しているなんて考えもしなかった。
「まあ無理もありません。この事件の犯人は犯罪のプロではないですから、ミスを犯すのはむしろ当たり前です。きっと必死に…一生懸命やったのでしょう」
カイカンは言葉を止めた。そしてじっとこちらに視線を注ぐ。落ち着け、まだ…大丈夫だ!私は努めて穏やかに切り返す。
「刑事さん…こんなことは考えられませんか?」
「伺いましょう」
「椋岡様はもともと自殺するつもりなどなかった。ロープも別の目的でたまたま持っていただけだった。あの方は色々と悪いことをされてきたのでしょう?今生の間で過ごしているうちにその後悔が込み上げ、居た堪れなくなって命を絶たれたのかもしれません」
「つまり、急に自殺を思い立ったと」
「それならば、帰りのタクシーを予約していても、朝食を準備していてもおかしくございません。まあ、朝食のゴミがどこに消えたのかは…私のあずかり知らぬところですが」
刑事は黙る。そうだ、朝食のことだけで他殺と断定できるはずがない。冷静に考えれば、そんなもの決定的な証拠にはならない。私は余裕を見せて続けた。
「あるいは当旅館に宿った先祖代々の魂が…悪魔を葬ってくれたのかもしれません。もちろん、これは冗談でございます」
ふいに刑事は立てていた指を下ろすと、そっと腰を上げた。
「わかっています。動機だけであなたを逮捕することはできません。どうやって首を吊らせたのか…それが判明しない限り結末は十五年前と同じになります」
「承知致しました」
私も立ち上がる。そしてカイカンから空いた湯呑を受け取った。「ご馳走様でした」と刑事は優しく微笑む。まったくこの男…どこに本心があるのか。
「あ、最後にもう一つ教えてくださいね。昨日あなたは世捨ての滝が旅館の名物の一つとおっしゃいました。ではそれ以外の名物は何でしょう。先ほど話に出た温泉でしょうか」
「左様でございます。絶景の露天風呂になっておりますので、刑事さんもよろしければどうぞ。疲れがとれますよ」
「そりゃどうも。じゃあ…無事に事件が解決したら入らせていただこうかな。ちなみに名物は他にもあるんですか?」
私は「それは…」と言いかけてにっこり微笑む。
「お教えしません。私を疑った仕返しでございます」
「いやあの、その…何と言いますか、これもお仕事でして」
「わかっております、冗談です。今度お教えしますよ」
またドギマギする刑事と共に、私は奥座敷を出た。

 正面玄関から外に出る。カイカンは最寄りの停留所まで歩いてバスで帰るという。
「大丈夫ですか刑事さん、空模様が怪しいですが…」
仰いだ天には灰色の雲が広がってきている。カイカンもゆっくり冬空を見上げた。
「確かに一雨きそうですね…でもまだ大丈夫でしょう」
そこで刑事はポケットから黒くて短い棒を取り出すと、ごく自然にそれを口にくわえた。タバコではない。
「あの…それは何でございますか?」
「あ、これ、おしゃぶり昆布です。子供の頃からこれだけはやめられなくて…おかしいですよね」
「いえいえ」
確かに口にくわえて話すのは変だが…別におかしいとは思わない。私にも幼少時から親しんできた味があるから。
「そういえば…こういう曇り空を見ると思い出しますよ」
急に感傷的な声になってカイカンが言った。
「私の卒業した高校は、とても体育祭が盛んでしてね。終わった翌日からもう来年の体育祭に向けて準備が始まるくらい…生徒が中心になって、一年かけて演舞や大道具を準備するんです。もちろん夏休みも毎日学校に行って…私も汗だくでトンカチを叩いてました」
「青春ですわね」
「あれも代々の伝統でした。受け継がれてきた情熱とノウハウがあったからこそ、生徒だけであれだけ大きなことができたんだなって今思うんです。まあ準備している時はずっと晴天続きだったのに、本番の日だけ曇り空で…最後は雨まで降っちゃったんですがね。あれは悔しかったなあ。でもよい思い出ですよ」
カイカンは昆布を指に挟む。
「ただ近年は継続するのに何かと問題も多いようで。安全上のこと、受験勉強はどうする、参加したくない生徒もいるんだ…などなど。少しずつ縮小の方向に向かっているそうです」
冷たい冬風が吹く。木々の葉が騒ぎ、カイカンの長い前髪もそよいだ。
「それは…残念ですわね」
「確かに伝統は大切です。過去があるから今がある、それは間違いありません」
カイカンは私を見た…が、ハットと逆光でほとんど表情はわからない。そして数秒の後、とてつもなく低い声を響かせて彼は告げた。
「ただ伝統はそれだけが理由になってしまうと…もう続ける意味はないんです」
また木枯らしが吹く。私の返事を待たずに刑事はそのまま去っていった。

…妙な気分だった。特に腹も立たない。むしろ、なんだかもう二度と会えないような…そんな寂寥感が込み上げていた。