第二章③ ~ムーン~

 同日午後。明日見旅館を後にした警部と私は、その足で椋岡のオフィスへ向かう。
「東京にもあんな風景があるんだなあ…」
助手席で警部が独り言のように漏らす。私はハンドルを操作しながら「そうですね」とだけ返した。
そこからしばらく無言のドライブ。山間を抜けると徐々に鉄筋の建物が増えてくる。一時間も走らせれば、そこはもう混み合った灰色の東京の街並みだった。
「椋岡さんはこれまでにも仕事で何度か女将を訪問していたようですが…どんなお話だったのでしょう」
私は気になったことを口にしてみた。
「さあね。彼女のあの頑なな態度から察するに、良い話じゃないだろうけど」
「…ですね」
そこでまた会話が止まる。どうもあの旅館を出てからというもの、生気を奪われたように警部も私も放心しがちだった。

 椋岡のオフィスに到着。改めて同僚たちから話を聞いたが、やはり彼が自殺する動機は見当たらなかった。もちろんデスクから遺書が出てくることもない。では命を狙われる動機はというと…仕事の性質上なくはない、との見解。彼はこれまでにも強引な手段で住民を立ち退かせては土地を手に入れ、それをクライアントに高額で売りつけていたらしい。強引な手段とはどのようなものだったか…さすがに具体的に語る者はいなかったが、その口振りから嫌がらせや脅迫まがいの行為もあったらしいニュアンスを私は嗅ぎ取った。いわゆる地上げ屋というわけだ。
そして明日見旅館についても確認。するとやはり良い話ではなかった。裏山も含めたあの辺り一帯を開発し産業廃棄物の処理工場にする計画があり、その業者に土地を売るために椋岡は立ち退きを打診していたという。交渉は難航していたそうだが、椋岡一人で動いていた案件なので誰も詳細はわからない。ただ昨日の午後、旅館へ出掛ける前に椋岡は馴染みの部下にこう言っていたらしい…「やっとものにできそうだ」と。

 警視庁に戻った警部と私は、一休みしてからいつもの部屋でこれまでに判明した情報の整理を始める。冬の東京はすでに日没し、窓の外に濁った夜を広げていた。
「監察医からの報告です。司法解剖はまだ途中ですが、現時点でわかっていることを教えてもらいました」
手帳を見ながら報告する。椋岡の死因は頚部圧迫による窒息死、死亡推定時刻も昨夜11時から今朝2時までで間違いない。身体に争った形跡はなく、ロープの索条痕以外に目立った外傷もないという。
「ただこの索条痕ですが、どうやら二本あるようです。重なり合っているので現場での検死ではわからなかったんですが、確かに首には二度ロープで絞められた痕跡があると」
「二度?どういうことだろう…それは同じロープでついた跡なの?」
「太さや形状は同じなので、その可能性が高いとのことでした」
「う~ん、一度首を吊ろうとして思いとどまったのかな」
「あるいは途中でロープが切れたりほどけたりして、やり直したのかもしれませんね」
警部はゆっくり右手の人差し指を立てる。
「もしこれが他殺だとしたら…犯人はまずロープで首を絞めて気絶させてから、改めて梁に吊るしたのかもしれない。だとしたらロープの跡は二本になる」
「しかし警部、それだと遺体に抵抗した跡が残るはずです」
「そう…だね」
「それと鑑識からの報告ですが、現場にあったノートパソコンとスマートフォンは現在解析中です。ほとんどが仕事関係の文書やメールのようで、やはり遺書はありません。現場にあったバッグの中身も、衣類と書類、スマートフォンの充電器、小型のラジカセくらいで、ここにも遺書はありません。自宅からも発見されていません」
「そう…」
警部は立てていた指を下ろすとそれきり黙り込んでしまう。しかしその頭の中が混とんとしているのは明らかだ。変人上司を悩ませているのは、もちろん二本の索条痕のこともあるだろうが、おそらくビンさんから教えられたことが大きいと思われる。それは過去の事件との符号。警部と私が明日見旅館に行っている間に、ビンさんは当時の捜査資料を取り寄せてくれていた。「しっかり活用してくれよ」とファイルを手渡して退勤していったミットの長。その内容は驚愕といっても差し支えないものだった。
今警部のデスクの上に広げられているのがそのファイル。私は腰を上げると無言で歩み寄り、改めて内容に目を落とした。
今から十五年前にも、明日見旅館で宿泊客の自殺が起きていた。場所は同じく今生の間、同じくあの梁に首を吊った状態で、同じく宿泊の翌朝に発見されている。亡くなったのはいわゆる金貸し屋で、不当な利子で明日見旅館に返済を迫っていたらしいと当時の捜査員は記載していた。
「十五年前…当時の女将が事情聴取を受けてる。この人が…紅子さんの母親だね」
警部が口を開く。そう、その頃女将をしていたのは日淀紅子の母親、当時30歳。ファイルに一枚だけ写真があったが、紅子によく似た和服の美人、長い黒髪に白い肌、やはり黒真珠のような漆黒の瞳の持ち主だった。そして彼女の後ろに不安そうに隠れて立っている少女が当時9歳の紅子。幼い頃は病弱だったと話していたが…こうして見るとまさしく母親の生き写しだ。
「でも彼女は金貸し屋にゆすられていたことは認めていない」
「はい。現場の状況から自殺と判断されたので、結局その辺りの真偽については追及しなかったようですね」
ファイルのページをめくっていく。そこには遺体の頚部を接写した写真。私は自分の首筋を冷たい手で撫でられたような気がした。まさか…。狼狽する私を見て「どうしたの?」と尋ねる警部に、無言でその写真を示す。私の指先に導かれ、警部の目も見開かれた。
「こりゃあ…なんてこった。十五年前の遺体にも…ロープの跡が二本ある?」
「私にも…そう見えます」
警部は写真をファイルから取り出すと、手近にあったルーペを当てた。沈黙の時間が過ぎ、低い声が告げる。
「古い写真だし…これだけじゃ断定はできないね。私たちの先入観もあるし」
確かにそうだ。そう思い込んで見るからそのように見えるのかもしれない。たまたまロープの位置がずれて索条痕が二本残ることだって有り得る。気にし過ぎかもしれない。
「一応、監察医の先生にも見ていただきますね」
「よろしく」
写真を受け取ってそれをしまってから私は尋ねた。
「警部、どう思われます?十五年前には金貸し屋が、そして今回は地上げ屋が同じ部屋で首を吊ったんです。どちらも自殺だとしても、奇妙ではありませんか?」
「そうだね…あの部屋には何かマイナスの磁場のようなものが発生しているのか、怨霊でも棲みついているのか…」
答えながら警部はコートのポケットからおしゃぶり昆布を取り出す。そしてタバコのようにそれを口にくわえた。
「しかもね、十五年前が最初じゃないかもしれない。当時の捜査員が記載している。もっと昔にも…今生の間で首つりがあったらしいって。さすがにもう捜査資料は残ってないから詳細はわからないけど…」
そう、最も恐怖を感じたのはその記載を読んだ時だ。もちろん…偶然なのかもしれない。紅子の言葉を借りれば、あの旅館は人生に疲れた旅人が訪れる宿。世捨ての滝に背負った荷物を捨て、今生の間で心身を休めて今を生き、また明日を夢見て歩き出すための場所。だがその中には…苦しい日々を淀ませることができずに、人生そのものを捨ててしまう者もいたのかもしれない。あの滝の調べは…時に歩き疲れた者を冥界へといざなうのかもしれない。
室内に降りてくる不気味な沈黙。窓から遠くのクラクションの音が届いた。

「なんてね!」
急に警部が明るく椅子から立ち上がった。
「磁場とか怨霊とか、それは私の専門外。ね、ムーン?刑事は人の手による事件を解き明かすのが仕事だ。そっちはゴーストバスターズに任せて、こっちはあくまで刑事の観点から、他殺の可能性を検討してみよう」

「まず、人間一人を梁に吊るす方法について。ムーン、君の考えを言ってごらん」
ホワイトボードの前に立った私に警部が指示した。
「わかりました。まず浮かぶのは、相手の首にロープを掛け、そのロープを梁の上に通してから引っ張る…という方法ですが、これはほぼ不可能と思います」
「理由は?」
「相手が抵抗するからです。ロープをはずされたり、反撃されたりするかもしれません。遺体には争った形跡がありませんでしたから、力ずくで首を吊らせたとは思えません」
「そうだね。となると他にはどんな方法が考えられるかな?」
「何らかの方法で相手を無力化するしかないでしょう。睡眠薬や筋弛緩薬を飲ませる、あるいはスタンガンなどで気絶させる…」
警部は黙って頷く。私は続けた。
「その上で相手を梁に吊るすわけですが…ここでも困難が生じます。動けない人間一人を持ち上げる、というのは生半可ではありません。相当な腕力が必要です。特に椋岡さんはあの巨体ですから…犯人がボディービルダーでもない限り、単独犯では不可能でしょう」
「じゃあ複数犯かな?椋岡さんはあの旅館の土地を狙っていた。従業員が共謀して彼を葬った…というストーリーもなくはない。でもね、防犯カメラの映像を確認する限り、昨夜西の棟に出入りしたのは女将だけなんだよ」
再び警部が右手の人差し指を立てた。そう、彼女の部屋は西の棟の3階にある。午後11時に自室に戻っていく姿がカメラに写っていた。そして、今生の間の窓は15センチしか開かない。外部から共犯者が侵入するのも不可能だ。
「…女一人の力ではとても無理です。警部がおっしゃったように電動ウインチでもあれば話は別ですが、所轄が旅館の家宅捜索をしても…そんな物は見つかりませんでした」
「そうだね。それに…もしこれが他殺だとしても、どうして首吊り自殺に見せかけたのかな?遺体は裏山に埋めるとか、それこそ世捨ての滝に沈めた方が安全じゃないかな」
それも一理ある。結局他殺の線は、動機はともかく方法が見つからない。私はひとまずホワイトボードに『相手を無力化する方法』、そして『相手を持ち上げる方法』と板書した。警部も立てていた指を下ろし、黙ってそれを読む。しばらく待って私は尋ねた。
「…伺ってよろしいですか?」
「どうぞ」
「警部は女将の日淀紅子さんが犯人だとお考えですか?」
「他殺とすればそうだね」
室内に低い声が響く。
「彼女にしか犯行の機会がないからですか?」
「…それもある」
「では、十五年前のことを彼女が全く話題に出さなかったからですか?」
「よく気付いたね。そう、それも一応ある。だけど一番の理由は…彼女の発言には矛盾があったからだよ。彼女は明らかな嘘をついている」
どうして天才とは遠回しな言い方を好むのだろう。ただ今更悔しがっている場合ではない。その矛盾した発言とは何なのかを私が尋ねようとした時、ポケットの携帯電話が鳴った。
「ちょっと失礼します」
出ると監察医務院からだった。何かわかればすぐ教えてほしいと頼んでおいたのだ。メモを取りながら話を聞き、感謝を伝えて通話を終える。
「警部、ご報告します」
私は伝えた。睡眠薬や筋弛緩薬は遺体から検出されないこと、スタンガンによる火傷の痕跡もないこと、頚部に吉川線はなく、そして眼瞼の裏に溢血点が見つかったことを。