第二章② ~紅子~

 世捨ての滝から旅館に帰ると、私はその足で自分の部屋に戻った。そこでようやく一息。茶を煎じて湯呑を口に運ぶと、苦味が全身に沁み渡るようだ。
 それにしても、風変わりな刑事だった。男の方はカイカンという名前もそうだが、何よりもまず見た目が異様、にもかかわらず言葉遣いはしっかりしていて話も上手い。大黒柱に抱きついた話などは思わず本当に笑ってしまった。ただ馬鹿話をしながらも、時折鋭い目を私に注いでいた…おそらく頭は切れる。要注意だ。
 女の方は、本当に刑事なのかと疑いたくなるような美人だったが…そのわりには華やかさがまるでない。表情もほとんど変えずに、氷のような目で私をじっと観察していやがった。あの女もあなどれない。あの女には…何かを失っている女にしか宿らない、底知れぬ強さがある。そう、まるであの時のお母さんのような…。
 ふと浮かぶ母の顔。私はまた憎らしくも懐かしい味で口を満たす。
 …「つらくなったら女将を辞めてもいいんだよ、旅館がなくなったっていいんだよ」。それが母の臨終の言葉だった。
 お母さん、私は大丈夫だよ。ちゃんとこの旅館を守るからね。

「女将、よろしいですか」
 少しぼんやりしていたらしい。入口の戸の向こうで大鷹の声がした。
「どうぞ」
 彼は静かに入室して一礼すると、神妙な面持ちで報告した。
「先ほどの刑事二人ですが…防犯カメラの映像を確認してお帰りになりました」
「では椋岡の死は自殺と判断されたの?」
「それはまだわかりません。ただ映像では、昨夜西の棟に向かったのは椋岡を除けば女将だけでした。早送りで一晩中の映像をチェックしましたが、他の誰一人西の棟には近付いていません。もちろん女将があの巨体の男を殺害し、しかも一人で梁に吊るせるはずがないですから…じきに自殺と断定されるでしょう」
 言い終えた大鷹の頬が優しく緩む。
「そう…ありがとう。従業員のみんなは不安になってない?」
「うちらはそんなにヤワじゃございません。これまでも色んな苦難を乗り越えてきたんですから、これくらいじゃへこたれませんよ」
 大鷹は私の手にした湯呑を見て一瞬せつなそうな目を見せたが、すぐにまた笑顔を作った。
「どうかご安心を。この大鷹、先代や先々代へのご恩には必ず報いる所存です。女将のことも、明日見旅館のことも、命に代えてお守り致します。何なりとお申し付けください」
「大袈裟ね、時代劇みたい。アハハ」
「そうですな、ハハハ」
 二人で声を出して笑った。そしてまた大鷹は真顔に戻る。
「今生の間は、現場保存とやらでしばらく立ち入り禁止だそうです。あと家宅捜索もするらしく、全ての客間や従業員の部屋、おそらくこの部屋にも捜査員が来るでしょう。まったく、警察もよくやりますな。
 それで、できればしばらく旅館の営業を自粛してほしいとのことでした。予約の宿泊客もキャンセルにしてほしいと…」
「仕方ない。シーズンオフでほとんど予約がなかったのが幸いしたわ…なんて強がりか」
 そう、昨日は日曜日で数組の宿泊があったが、正直平日は閑古鳥が鳴いている。時折世捨ての滝を見に来る者はいるが、わざわざ宿泊する者は少ない。こんな山奥のひなびた旅館より、都会のホテルに泊まりたいのもわかる。人生に疲れた旅人なんて…そうそう現れやしない。
「何をおっしゃいます、今にまた明日見旅館はお客でいっぱいになります。その日を信じて頑張りましょうや、女将!」
「ありがとう、大鷹さん」
「では、予約のお客様にはキャンセルの連絡を入れておきますので」
 一礼すると、大鷹は部屋を出ていった。

 そう…あきらめるわけにはいかない。明日見旅館はまだまだ続くんだ。そうでなければ、何のために自分の手を汚したのかわからないじゃないか。
 私は決意を固めると、残った茶を一気に喉に流し込んだ。