第二章① ~ムーン~

「亡くなったのは椋岡秀治さん、48歳男性。昨夜からこの明日見旅館に宿泊しておられました。仕事は不動産業だそうです」
「了解」
警部は私の報告にそう答えると、ゆっくりと遺体の全身を見た。八畳の和室、窓際の天井に通った太い梁に遺体は浴衣姿でぶら下がっている。
「旅館の部屋で首吊り自殺…あんまりだね」
低くてよく通る声が言った。確かにあんまりだが…それを言うならあなたの格好だって大概だと思う。何せボロボロのコートとハットに身を包み、長い前髪が右目を隠しているのだから。まあ…昔からずっとそうだけど。
「それにしても大きな人だね、体重100キロ近くありそうだ。よくぶら下がってる梁が折れなかったもんだ。古い建物だけど、造りはしっかりしてるんだね」
「かなり老舗の旅館みたいですよ」
「そうかい。ええと、首を吊るために使った踏み台はどこかな?…あ、これか」
畳に転がった小さな座椅子を警部が見る。一通りの鑑識作業は終わっているので、今室内には警部と私しかいない。私が臨場したのが二時間前、そして警部が来たのが今し方。遅れてやって来て私の説明を聞くのがこの人のやり方…初めて下に着いた時からそれもずっと変わらない。
「ムーン、死因は縊死で間違いないかい?」
縊死とはつまり首吊り死のこと。手帳のメモを確認しながら「はい」と返す。
「現場の検死では、縊死に矛盾する所見はありません。首にはロープの索条痕も残っていますし…解剖すればもっとはっきりすると思います」
「死亡推定時刻は?」
「昨夜、つまり日曜日の午後11時から日をまたいで本日月曜日の午前2時頃と見られています。これも解剖ではっきりするでしょう」
「昨夜、最後に椋岡さんを目撃した人はわかるかい?」
私は慎重にメモと照らし合わせながら答える。
「はい。警部がいらっしゃる前に何人かの従業員から話を伺いました。
それによると、昨夜椋岡さんがタクシーで旅館に着いたのが午後5時半。1階の奥座敷で女将と少し話をしてから、従業員の案内でこの部屋に上がったのが午後6時半。その時は特段変わった様子はなかったそうです。
その後、午後10時頃に露天風呂に入っていたのを従業員が確認しています。以降は今朝10時に遺体が発見されるまで、誰も椋岡さんを見ていません」
「食事は?」
「食べ物は自分で持参して、夕食も朝食も断わっておられたそうです。布団も自分で敷くからいいと。部屋に一人でこもりたかったようですね」
「せっかく旅館に泊るのに食べ物を持参?ビジネスホテルじゃあるまいし、普通は旅館の料理を食べるよね」
それは私も思った。しかし…自殺を考えていたのなら料理を楽しむ気になれなかったのかもしれない。ただゴミ箱にはそれなりに豪勢な弁当の空箱が捨ててあったので、食欲がなかった様子でもない。テーブルの上にはノートパソコンにスマートフォン、そして飲み残したこれまた高級そうな日本酒の瓶も置いてある。私がその辺りの疑問を口にすると、警部は「ナルホド」と独特のイントネーションで頷いた。
「遺体発見の経緯は?」
「今朝9時に椋岡さんが予約しておられた帰りのタクシーが到着しました。しかしいつまで経っても本人が部屋から出てこないので、10時に女将と従業員が様子を見に行き、この遺体を発見した…という流れです」
「椋岡さんが帰りのタクシーを予約したのがいつだかわかるかい?」
「はい。それが昨日、行きのタクシーを呼んだ時点で帰りのタクシーも予約していたそうなんです」
「それは不自然だね。旅館で自殺するつもりなら帰りの足は必要ない。それとも…旅館に着いてから急に死にたくなったのかな?」
「…何とも言えません。首吊りに使用されたロープは、従業員の話では旅館の物ではないそうです。だとすると椋岡さんが持ち込んだことになります」
警部は改めて遺体を見つめた。
「一見すると首吊り自殺…でも食事やタクシーの件はいささか不可解。ムーン、他に気になることはあるかい?」
「遺書が見つかっていないことです。衣類のポケットやバッグの中にはありませんでした。ノートパソコンやスマートフォンもざっと調べましたが、特に遺書のような文書はありません。そして今の所自殺する動機も見つかっていません。
まだ関係者に詳しく聞き込みをしたわけではありませんが、職場に電話して伺った限りでは、自殺をほのめかす言動は全くなかったそうです。むしろ今後のビジネスプランを語ったり、夜も飲み歩いたりと…。ですから同僚の方々はみんな驚かれていました」
「ご家族は?」
「十年ほど前に離婚していて、子供もおられません。親戚付き合いもしていなかったようです」
「そう…」
警部が右手の人差し指を立てる。そして長い前髪をそこにクルクル巻き付け始めた…考え事をする時の癖だ。
私も言葉を止めて考える。旅先で自殺、というのはない話ではない。周りから見てその兆候がなくとも、人知れず悩んでいたということだってもちろんある。遺書がない自殺もそう珍しくはない。最後の晩餐を部屋で一人静かに食べたい人間もいるだろう。帰りのタクシーの予約だって、周囲から怪しまれないためにわざとしたのかもしれない。
それに…もしこれが自殺以外による死亡だとすれば、事故死は有り得ないので他殺ということになる。しかしこの大柄な男を梁に吊るすのはかなり大変だ。
つまり現時点で自殺を否定する根拠も、他殺を疑う根拠も積極的にはない。だったら自殺事案として所轄に任せれば済む話なのだが…警部が悩んでいるのは、きっと今朝ビンさんから受けた申し送りが引っ掛かっているからだろう。

ビンさんは警部と私が所属するミットの長で、階級は警視。捜査の指揮はいつも警部に任せていて現場には出ず、基本は報告書に目を通すのみ。しかし、いつものように臨場しようとする警部と私を、今朝は珍しく呼び止めたのだ。どうやら現場の名称が気になったらしい。
「明日見旅館の今生の間…?」
ビンさんは右手の中指をこめかみに当ててしばらく考え、やがて冷静な声で言った。
「カイカン、ムーン、僕の記憶が確かなら…以前にもそこで自殺事案があったはずだ。同じ旅館の同じ部屋で…。もう十年以上前だったと思うけど。一応、そのことを念頭に置いて初動捜査に当たってくれ。僕は詳細を調べておくから」
ビンさんの記憶力にはいつも驚かされる。そしてそのおかげで解明できた事件も少なくない。警部と私は上司に一礼して警視庁を出たのだった。
ちなみに一緒に出たのにどうして警部が遅れて現場に来たのかというと、ご丁寧にも私だけ先に行かせて自分は車で待っていたから。まったく、そこまでして自分のやり方にこだわらなくても…なんて、今更この人に言っても仕方ない。そしてこの変人上司は、そうやって確かにいくつもの事件を解明してきたのだから。

「…あれは?」
警部が指の動きを停めて言った。そして何かに気が付いたように歩みを進めると、腰をかがめて部屋の隅に置かれた白いビニール袋を見た。
「この袋には何が入ってるの?」
「椋岡さんの脱いだシャツや下着、靴下などです。温泉に入った後、汚れ物を入れたのでしょう」
警部は黙ったまま見つめている。
「…何か気になりますか?」
「これ、コンビニでもらうビニール袋だね。アキナーマートって店名も入ってる。となると、椋岡さんはコンビニで何かを買って持ち込んだことになる。ゴミ箱の弁当や、テーブルの上の日本酒はどう見てもコンビニで売ってる代物じゃないから、何か別にあるはずだ」
そこで私は部屋の隅の小さな冷蔵庫を開く。
「見てください。ペットボトルのお茶が1本入っています。これではないでしょうか?」
「ナルホド。でもねえ、お茶1本のためにこんな大きな袋をくれるかい?」
確かに…。先ほど鑑識が椋岡のバッグの中身をざっと改めたが、特にコンビニで買ったらしき物は入っていなかった。
「前にもらっていた袋を持ってきたのでしょうか?」
「それにしては袋が綺麗過ぎる。ほとんどシワもないし、傷んでもいない…いかにも今日もらってきたって感じだけどなあ」
「お茶を買った時に、店員に自分からお願いして大きな袋をもらったのかもしれませんよ」
「そう…かもね」
警部は私の仮説に一応頷いてビニール袋から離れた。そして「さっきから気になってたんだけど…」と別の疑問を口にする。
「水の流れる音が聞こえる根。川…にしては音が激しい気がするな」
「旅館のすぐ近くに滝があるんですよ」
私は遺体の横を通り抜け、奥の窓辺に警部を導く。障子を引くと大きなガラス窓、その向こうにゴウゴウと流れ落ちる巨大な滝が見えた。風流よりも厳格さを感じる力強い滝…距離はかなり近く、この旅館は滝のそばに建っているといっていい。確か裏手は山だったから、自然に囲まれた立地である。
「こりゃたいしたもんだね」
警部がガラス窓を横に引くが、動くのは15センチほど。見るとストッパーが付いていた。
「ありゃ、全部は開かないようになってる」
「安全のためでしょうね。滝を見ようとして身を乗り出して転落しないように…」
「ナルホド。しかしこれだと窓からの人の出入りはできそうにないね。外部犯の線はなさそうだ」
それは間違いない。もしこれが殺人事件だとすれば、犯人は正面から出入りしたことになる。ただし出入り口はふすま、鍵もかからない。従業員であっても他の客であっても、部屋に侵入するのは難しいことではない。
「警部は他殺だとお考えですか?」
「まだ何とも言えないね。まずはそこにあるノートパソコンとスマートフォンの中身を詳しく解析するよう鑑識に伝えて。あとタクシー会社に連絡して、椋岡さんが昨日ここに来る途中でコンビニに立ち寄ったかどうかを確認してくれ。
それと一応…人間一人を吊るせるような機械、例えば電動ウインチみたいな物が旅館にないかも調べておいて」
「わかりました」
私は素早く指示を手帳にメモする。
「よし、じゃあもうご遺体は下ろしていいから司法解剖に回して」
窓を閉めてその場から離れる警部。
「了解しました。これからどうされますか?」
「まず従業員から話を聞こう。確か椋岡さんが旅館に着いた時、女将と話をしたんだったね。その人は今いらっしゃるの?」
「はい、1階の奥座敷で待機してもらっています。宿泊客は遺体発見前に全員チェックアウトしてしまいましたが、宿帳が残っていますので必要なら連絡を取ります」
「さっすがムーン、お見事!ではまず女将さんに会いに行きますか」

「お待ちしておりました。明日見旅館の女将、日淀紅子(ひよどみ・べにこ)と申します」
座敷の奥で正座していた彼女は、警部と私が現れると深々と頭を下げた。そしてゆっくり面を上げ、その二つの瞳でこちらを見据えた。
…言い知れぬ恐ろしさを私は感じる。彼女とは旅館に到着した時にも少しだけ会っていたが、今はまとっている霊気が異なる。結われた艶やかな黒髪、透き通るような白い肌、麗しい身のこなし…着物に身を包んだその姿は掛け値なしの日本美人だったが、二つの漆黒の瞳は不気味なほど濃い。警部の異様な風貌にもほとんど感情を覗かせない。まるで黒真珠で眼球をこさえた日本人形が、目の前で動いて喋っているかのような錯覚に襲われる。
「私は警視庁のカイカン、こちらは部下のムーンです」
「よろしくお願い致します。どうぞ、そちらへ」
示された座布団に警部と私は腰を下ろす。彼女は用意してあった盆を引き寄せ、慣れた手つきで茶を立てると、こちらに振る舞った。
「粗茶ですが、どうぞ」
「…いただきます」
警部は少しだけ口をつけると、湯呑を手にしたまま始めた。
「この度はとんだことで…。ショックを受けておられるかもしれませんが、警察の捜査にご協力いただけますか?」
「もちろんでございます。何なりとおっしゃってください」
女将は臆することなくそう返す。
「助かります。ではさっそくいくつか質問させてください。亡くなった椋岡さんは昨夜この旅館に宿泊されたそうですが、よくお泊りになっていたのですか?」
「いいえ。宿泊されたのは初めてでございます」
「では宿泊以外では何度かいらっしゃったのですか?」
「ええ…お仕事のお話で」
彼女がわずかに言い淀む。警部がそれを見逃すはずがなかった。
「椋岡さんは昨日もここであなたとお話をされたそうですね。それもお仕事のお話ですか?よろしければ具体的に教えていただきたいのですが」
「…お断わりします、申し訳ありません」
微塵も表情を崩すことなく、毅然として彼女は言い切った。部屋の空気を緊張が貫く。何だ…何なんだ、この圧力は!
「そうですか、まあいいでしょう。では彼が宿泊したお部屋について教えてください」
驚愕する私の隣で、変人上司は特に気にした様子もなくあっさり質問を換えた。
「『今生の間』と木の札に書いてありましたね。周囲に別の客間は見当たりませんでしたが、あの部屋は何か特別なのですか?」
「はい。ではまず当旅館の構造からご説明しますね。刑事さんもいらっしゃった時にお気付きになられたでしょうが、玄関を入りますと正面に受付がございます」
「いやあびっくりしました、あんなに広い玄関は初めて見ましたよ。綺麗な石畳で…あそこに部屋が作れそうなくらいのスペースでしたね。しかも靴を脱いで上がると、目の前にあの…大きな衝立というんですか、あれも大理石ですよね」
警部は口調を砕いて旅館を褒め始めた。この旅館には独特の雰囲気があるのは私も感じる。古さだけでは醸し出せない重厚で荘厳な空気。今いるこの小さな奥座敷にしても、畳と壁の香りだけで俗物を寄せ付けない慎ましさが漂っている。
「そして衝立の向こうには…いやあ、あんなに立派な大黒柱も初めて見ましたよ。私が腕を回しても届かないんですから」
「恐れ入ります。当旅館はここに構えて今年で二百年になります。何度か修繕や増築はしておりますが、あの大黒柱はずっとこの建物を支え続けてくれております」
そこで彼女がクスッと笑った。私は二百年という歴史にも驚いたが、仮面のようだったその表情があどけない笑顔に変わったことに驚いた。歳の頃は私とそう変わらない二十代半ば…彼女は人形ではなくれっきとした若い女性だったのだ。いやむしろ…いつも仮面のような顔なのは私の方かもしれない。
「それにしても刑事さん、あの柱に腕を回されたんですか。フフフ、おかしい。すいません、私も子供の頃にやりましたが…」
どうやら彼女のツボだったらしい。確かに警部が太い柱に抱きついている絵は滑稽だ。
「こちらこそ大人げなくてすいません。それにしても二百年ですか…ということは江戸時代から続いているんですね。すごい伝統だ」
「はい、名のある大名もお泊りになったそうですよ」
偶然か、それとも警部の計算か、漂う緊張感は弱まり彼女も口調が和らいでいる。
「それで刑事さん、お話を戻してよろしいでしょうか」
「あ、どうぞ。失礼しました」
「いえいえ。それで大黒柱の横を通り過ぎるとすぐに受付がございます。受付に向かって右手に進むと東の棟、左手に進むと西の棟となります。客間は全て東の棟にございますが、唯一あの今生の間だけは西の棟の2階にございます」
「やはり特別な部屋なのですか?」
「いわゆるVIPルームです。ご覧になられたかもしれませんが、あの部屋の窓からは『世捨ての滝(よすてのたき)』が一番よく見えますので」
「ナルホド。それにしてもあの滝、世捨ての滝というんですか…今生の間もそうですが、重々しいネーミングですね」
「それも伝統の賜物ですわ。名前の由来は後ほど滝をご案内する際にお教えします」
「わかりました。それで、この旅館は3階建てですよね。東西の棟は2階や3階でも繋がっているんですか?」
「いいえ、おりません。繋がっているのは1階だけです。つまり、東の棟のお客様が西の棟の今生の間に行くためには、必ず1階の受付の前を通らなければならないのです。…そういうことがお知りになりたいのでしょう?」
口元は笑っていたが女将の眼光が厳しくなる。警部は素直に認めた。
「そのとおりです。椋岡さんが亡くなったのは自殺なのか他殺なのか、まだ警察としては決めかねています。もし他殺だとすれば、窓から犯人が入ることは不可能ですから、当然旅館にいた宿泊客か従業員が怪しいと考えるわけでして。あ、お気を悪くされましたか」
「…当旅館のお客様や従業員を侮辱することは許しません」
再び彼女の比類なき圧力が発動する。また室内の緊張が高まるが、今度はすぐに穏やかな顔に戻って女将は続けた。
「しかしながら、人をお疑いになるのが警察様のお仕事であることは心得ております。最初に申しましたように、早く解決に至られるよう捜査にご協力致しますので」
「…感謝します。ではお尋ねしますが、夜中にも受付には従業員がいますか?」
「交代で出ております。夜中にお客様からご用を申し付けられることもございますので。ですから受付の前を誰かが通れば、必ず記憶しているはずです。それに受付の周辺は防犯カメラで録画もしております。テープをご覧になられますか?」
警部が「ぜひ」と答えてこちらをちらりと見た。私は頷いてそのことを手帳にメモする。
「わかりました。大鷹という男が従業員の頭ですので用意するよう伝えておきます」
「助かります。あの、東の棟は2階も3階も客間ですよね。そして西の棟の2階が今生の間。では西の棟の3階は何の部屋なんですか?」
「私の部屋でございます。私はここで生活しておりますので…。あ、ですから、防犯カメラに西の棟へ向かう私が写っているとは思いますが、お疑いにならないでくださいね?」
彼女はやや茶目っ気を見せて微笑んだ。警部も合わせて少し笑う。
「フフフ…。そういえば到着した時に旅館の外観も見せてもらったのですが、東の棟の方がずっと大きくて、そして新しい感じがしました。それに比べて西の棟は古くて小さい…」
「ええ。何度か修繕はしましたが、主に西の棟と受付、玄関辺りまでが二百年前からの名残りなのです。東の棟は後から増築した部分で…さすがに客間がボロボロというわけにはいきませんので」
「それでは今生の間がVIPルームというのは…」
「正直、世捨ての滝がよく見えるということくらいしかセールスポイントはございません。あと強いて申し上げれば、二百年前から現存する部屋というアンティーク的な価値ですかね。正直客間としては狭いですし、普段お客様をお泊めすることはまずございません」
「ではどうして椋岡さんは?」
「どうしてもとおっしゃられたので。古いお部屋に興味を持たれたのかもしれません」
「あるいは世捨ての滝の音を聞きながら眠りたかったとか」
警部の推測に対して、女将は小さく首を振った。
「それはないと思います。私の部屋は今生の間の真上ですが、椋岡様がずっとラジカセで音楽を流しておられるのが聞こえていました。滝の音を楽しみたい方なら、そんなことはなさらないでしょう」
その発言に警部が飛びつく。私も手帳とペンを構えた。
「すいません、彼が音楽を流していたのは何時頃までだったかご記憶ですか?」
そう、これで死亡推定時刻を狭められるかもしれない。女将は豊かな唇にそっと指を添えてしばらく考え込んでいた。
「そうですね…私が仕事を終えて自室に戻ったのが夕べの11時過ぎ。この時点ではまだ聞こえておりました。その後部屋でシャワーを浴びて、0時前には床に就きましたが…この時もまだ音楽は流れていたと思います。
その後は…すいません、すぐに眠ってしまいましたので」
「いえいえ助かります。ではついでに今朝のあなたの行動も教えてください。あなたは遺体の発見にも立ち合われたんですよね?」
警部の問いに彼女は素直に頷く。
「はい。いつものように5時過ぎに起きまして、身支度をしました。7時から従業員と朝礼をして、それ以降は玄関でお帰りのお客様方のお見送りをしておりました。9時に椋岡様が予約しておられたタクシーが来ました。ですがいつまで待ってもいらっしゃらないので、大鷹とお部屋を見に参ったのです。それが…10時頃でした」
「そしてあの首吊りの現場を発見したわけですね。その時何か部屋の物にはお触りになりましたか?」
「いいえ。お恥ずかしいんですが、私、腰を抜かしてしまって…。大鷹が椋岡様の脈や呼吸を確認してくれました。もう冷たくなってるから遺体を下ろさずに警察を呼ぼうと大鷹が言いまして、私はどうにか立ち上がって受付に駆け戻りました」
「通報があったのは、午前10時08分です」
私がそう耳打ちすると、警部は黙って頷いた。
「よくわかりました。本当に…とんだことでしたね」
「ええ…」
女将は肩をすくめる。会話が途切れたので警部は湯呑を口に運んだ。私も手帳をしまってお茶に口をつける。
そういえば、今朝のビンさんからの情報…以前にもあの部屋で自殺事案が発生していたらしいこと。それについて警部は何も尋ねなかった。忘れている…はずはないので、きっと意図的に口にしていないのだろう。もしかしたら、女将の方からその話題が出るかどうかを見極めているのかもしれない。
証拠には陽性と陰性がある。本来あるはずのない物がそこにある…例えば凶器などの物証、血痕や指紋などが陽性の証拠。だが逆に、本来ならあるはずの物がない…そんな陰性の証拠も見逃してはならないと、以前に警部から教わった。証言も同じだ。口をすべらせて出る不自然な言葉も重要だが、触れるべき話題に触れないという不自然さも捜査の重要な手掛かりになるのだ。
私は女将を観察する。しとやかにお茶を啜っているその頭の中では、一体何を考えているのだろうか?

「あの…」
少ししてから彼女が言った。
「近くでご覧になりますか?…世捨ての滝を」

 奥座敷から廊下を進むとすぐに受付に出る。女将はそこにいた従業員の大鷹に防犯カメラのテープのことを頼むと、警部と私を外へ導いた。先ほど話題に出た太い大黒柱、続いて大理石の衝立を通り過ぎて広い石畳の玄関に至る。靴を履いて屋外に出ると冬の空気がやや肌寒い。日射しも弱かった。
「女将は随分お若いですが、一人でこの旅館を切り盛りされてるんですか?」
道すがら警部が尋ねた。
「はい…と申しましても、従業員のみんなが助けてくれておりますから。みんな母の代からここで働いてくれていて…先ほどの大鷹などは祖母の代からいてくれております」
「頼もしいですね。それにしても、代々女将をやってらっしゃるんですね、たいしたもんです」
「恐縮です」
彼女は前を向いたまま答える。
「お母様はもう…?」
「二年前に病気で亡くなりました。それで私めが予定より早く後を継いだのです。まだ不慣れな所もありますが…明日見旅館をここで終わらせるわけにはいきませんもの」
「ご立派ですね。そしてとてもお強い」
「そんなこと。これでも小さい頃はしょっちゅう体調を崩して学校を休んでおりましたもの。それに、やりたいことを我慢してここで働いているわけではございません。子供の頃から女将として働く母の姿を見てました。それはとても輝いて見えました。娘ながらに…女の生き方として憧れたんです」
やがてあの水音がはっきり聞こえてくる。ぐるっと回って旅館の横手に出ると、大きな滝が姿を現した。これが…世捨ての滝。先ほど2階の窓から見た時よりも何倍も迫力がある。
「こいつはすごい…」
設けられた柵に手を掛けて警部が呟く。頭上10メートルほどからゴウゴウと落ちる白い水の大群は、眼下5メートルほどにある滝壷へと、荒れ狂う大蛇のごとく流れ込み砕け散っていた。水の欠片が時折風に乗ってこちらまで飛んでくる。あまりに雄大な光景に…しばし心を奪われる。
「落っこちないでくださいね、刑事さん」
そこでまた女将がクスッと笑う。
「いやあすごいですね。こんなに間近で滝を見たのは初めてですよ」
「これが当旅館の名物の一つですから。伝え聞いた話では、この滝に呑み込まれたら…人も物も二度と浮かんで来ない…二度とこの世には戻って来れないとか」
「それで世捨ての滝…」
「でも勘違いなさらないでくださいね。けして身を投げて命を捨てるための滝ではございませんから。人々がここに捨てに来るのはこの世の苦しみ…。過去や、罪や、穢れや、孤独や、悲しみや…そういったものをこの世から捨てるんです。また明日を生きていくために。今生の間もそうです。今生の別れのための部屋ではなく、今を生きるためのお部屋…。
宿を訪れるのは人生に疲れた旅人です。滝壷に背負った荷物を捨て、部屋で心身を休めて今を生き、また明日を夢見て帰っていく…ここはそのための旅館なのです」
「だから明日見旅館、というわけですか…」
深く頷く彼女の瞳はまた黒真珠のように濃い漆黒を讃えている。
「女将のお名前、確か先ほど『ひよどみ』とおっしゃいましたか、それもお珍しいですね」
「日にちの『日』に淀川の『淀』と書きます。疲れた日々をひと時でも淀ませる…きっと、お客様にとってそんな存在であれたらという願いが込められているのでしょう」
ゴウゴウと落ちる滝を背景に、彼女の姿は清廉だった。揺るぎない意志をその胸に灯し、逃れられない運命をその肩に背負った女…。彼女自身はどうなのだろう。滝壷に投げ捨てたい物はないのだろうか。
世捨ての滝、今生の間、そして明日見旅館に日淀の名を継ぐ女将…。もちろんこじつけも含んだ伝承なのだろうが、彼女が語ると受け入れざるを得ない説得力があった。
ふいに気配を感じて私は振り返る。そこには人間の人生の倍以上も建っている西の棟。2階の窓…あれが今生の間だ。さすがにジャンプして飛び込める距離ではないが、それでも滝壷まで直線距離で20メートルもないだろう。椋岡は間近にこの無常な水の流れを見ながら、一体何を考えていたのか。
私は視線を戻し、しばらく無言で滝壷を見つめる。落ちたら引きずり込まれて二度と浮かんで来ない…自分なら一体何をここに捨てにくるだろう。考えても、捨てたい物より取り戻したい物の方がたくさん脳裏に過る。それは私が恵まれているからなのか、あるいはその逆だからなのか。

冬の太陽が西に傾き始めた頃、大鷹が呼びに来た。控室で例の防犯カメラの映像を見せてくれる準備が整ったという。女将に礼を言って警部と私はその場を離れる。
最後にもう一度振り返ると、彼女は微動だにせず滝壷を見つめたまま。その姿は水面に浮かんで揺れる花弁のように可憐で…儚かった。