第一章 ~紅子~

11月下旬の秋空はもう夕焼けの色を弱めていた。それでもこの明日見旅館(あすみりょかん)を包む自然は変わらず美しい。振り返れば小麦色の裏山、そよぐ風には草木が薫り、耳を澄ませば遠く滝の音色が心を癒してくれる。百年前にここを訪れた旅人も、こんな綺麗な夕景を見ていたのだろうか。
そのまま溶けていきそうになる自分を制して、私は唇を結ぶ。今は感傷に浸っている場合ではない。ついにこの日が来たのだ。大丈夫、もはや迷いなどない。私は女将としてすべきことをする、ただそれだけだ。

午後5時半。正面玄関に立って待っていると、あの男はタクシーで悠悠と現れた。運転手にチケットを渡し、その巨体がのっそりと降りてくる。
「これはこれは女将、今日も着物でお綺麗ですな。わざわざ出迎えまでしていただいて」
三十分の遅刻だがそれを詫びる様子は一切ない。当然か、こいつにそんな殊勝な気持ちがあるわけない。私は形だけの笑顔でおじぎする。
「お待ちしておりました、椋岡様。明日見旅館にようこそいらっしゃいました。ではお荷物は私が…」
「それには及びません。商売道具が入っておりますからな、自分で運びますよ。それにその細い腕では大変でしょうしな」
「恐れ入ります。ではどうぞこちらへ」
椋岡は大きなバッグを肩に提げた。共に玄関に入り、靴を脱いで上がる。
「相変わらず古めかしいですな、床が軋んでますぞ」
「当旅館は江戸時代から続いておりますので」
「それはオンボロになりますな」
いちいち癇に障ることを言う。いっそその体重で床を踏み抜いて埋まってしまえ。いや待て落ち着け…ここで怒っては全てが台無し。私は受付まで行くと、カウンターの中の大鷹に「本日ご宿泊の椋岡様です」と伝える。
「これは椋岡様、お待ちしておりました」
大鷹は祖母の代から働く古株の従業員、どんな客が相手でも彼が礼節を欠くことはない。
「今生の間(こんじょうのま)に一泊のご宿泊、ということでよろしかったでしょうか」
「あらかじめ女将に言ってあるとおりだ。一晩世話になるよ」
一方椋岡は格下の人間を見るような口振り。器が知れる。
「露天風呂は24時間入れます。浴衣やタオルはお部屋に用意してございますのでご利用くださいませ。今夜の夕食と明日の朝食は…」
「あ、食事は結構。全部自分で持ってきてるから。温泉と布団があれば十分、いやいっそ女将に背中でも流してもらいたいですわ、ハハハ…」
下品な笑いだ。私は「またそんなご冗談を」と無理矢理照れたふりをする。大鷹が椋岡の目を盗んで一瞬彼を睨んだのがわかったが…すぐに好々爺の顔に戻った。
「左様でございますか。チェックアウトにつきましては…」
「帰りたくなったら帰るよ。もう説明はいい、それよりちょっと女将と話しがしたいんだが」
「それは…」
「構いませんよ」
大鷹の返事より先に私が答えた。椋岡がこちらを向いてニヤリと口元を歪ませる…この上なく気持ち悪い。
「大鷹さん、奥座敷を使いますね。お部屋のご案内はその後でお願いします。ではどうぞこちらへ、椋岡様」
「お茶もお菓子もいらねえからな」
そう受付に捨てゼリフを吐いてから、椋岡は私の後ろをついてくる。
…耐えろ、今は耐えるんだ。

「すいません、お電話でもお伝えしたようにそんなお金はご用意できません」
奥座敷に入って小一時間。あぐらをかく椋岡に正座して頭を下げ続ける私、という構図はずっと変わらなかった。平行線の話だ、もとより決着するとは思っていない。
「できればお金で解決するのが一番だと思うんですがねえ…だからこうやって最終確認をしてるんです」
「それが無理なのでございます。ですから…例のお話をお受け致します」
「本当によろしいんですな?確認ですが、けして僕が強引にそうしたなどと吹聴されては困りますぞ。これでも信頼が一番の商売ですからな」
よくもぬけぬけと言えるものだ。まあいい、こんな屈辱的な芝居をするのもあとわずかのこと…そう考えればいくらでも頭を下げられる。
「承知致しております。私としても、絶対に秘密でお願い致します」
「…わかりました。では救済措置としてそうしましょう。僕としてもこの旅館がなくなるのはつらいですからな」
心にもないことを…!顔を上げると、いやらしい目が舐め回すように私を見ていた。全て思う壺、とでも考えているのだろう。でもそれはこちらのセリフ。
「時間はいつにします、女将?」
「私は11時まで仕事がございますので、0時頃でいかがでしょうか。全て用意して…お部屋に伺います。本日お泊りのお部屋は他の客間とは離れておりますので、人に気付かれる心配はございません」
「待ち遠しいですな、ハハハ…」
下衆野郎め。奴の手がこちらに伸びそうになったのを感じて、私はするりと立ち上がる。
「では、後程よろしくお願い致します。私は一度失礼します。お部屋には先ほどの大鷹がご案内致しますのでここでお待ちください」
一礼して返事も聞かずに奥座敷を出る。廊下を進んで受付に戻ると、私は大鷹に部屋案内を命じ、チェックアウトまで誰も彼の部屋に近付かないようさり気なく申し添えた。
「女将…」
不安そうな目を向けてくる彼に、私は笑顔を作る。
「心配しないで。ちゃんと話はつきました、お金はまだ待ってくれるそうですから…大丈夫、旅館は存続します。従業員のみんなにもそう伝えておいてくださいね、これからも一緒に頑張りましょうって」
「…かしこまりました」
優しさの中にどこか哀しみも含んだ笑みで大鷹は答える。きっとまだ不安なのだろう。でも本当に大丈夫、今夜全てが終わる。私がちゃんとみんなを守るから!
「それでは、客間を回って宿泊のお客様方にご挨拶してきます!」
明るく告げてから、私は東の棟へ向かった。

仕事を終えて自分の部屋に戻ったのが予定どおり午後11時過ぎ。私はシャワーを浴びながらもう一度計画を頭の中でシミュレイションする…よし、抜かりはない。
体と髪を乾かすと、裸の上に浴衣だけを着る。その時少し手が震えていることに気付いたが…歯を食いしばってそれを抑えた。私にはできる、私にはできる!私はこの旅館の女将、お母さんの娘なんだ!
湯を沸かして茶を煎じる。それにしても…先ほどから階下の音楽が気になる。この西の棟の2階には奴が泊っている部屋しかない。どうせ周囲の迷惑も考えずに趣味の悪い音楽を流しているのだろう。まあいい、今この棟にいるのは私と奴だけ…朝まで誰も近付くことはない。
壁の時計が0時を回る。私は束ねたロープを手首に巻き、急須と湯呑を乗せた盆を両手で持った。よし、準備は磐石だ。…行こう。
深呼吸して自室を出る。お母さん見ててね、ちゃんとやり遂げてみせるから。

暗い階段を下り2階に着く。なるべく静かに歩いたが、古い木造の廊下はミシッミシッと一歩ごとに鈍く軋む。少し行くと、そこはもうあの部屋…年代物の木の札に黒い毛筆で『今生の間』と記され、中からは相変わらず場違いな音楽が漏れている。
廊下の死角にロープを隠してから、私はそのふすまの前に立った。
「夜分に失礼致します」
抑えた声でそう告げる。数秒おいてガラッとふすまが引かれ、浴衣をだらしなく着た椋岡が姿を見せた。
「これはこれは女将、ようこそいらっしゃいました」
下衆な視線が私の足首から胸元までを這う。
「決意は…固まっておられますな?」
「はい」
ええ固まっておりますとも、一世一代の決意が。
「さあどうぞ、お入りくだされ」
招かれた室内。まず目に入るのはこれみよがしに敷かれた布団…あからさまだな。正面の窓には障子が引かれているが、その奥からゴウゴウという滝の音が届いている。やはりこの部屋が一番水音がよく聞こえる…が、それも場違いな音楽のせいで台無し。低いテーブルにはノートパソコンとスマートフォンが置かれ、枕の横には小さなラジカセ。音楽の出どころはこれか。よくもまあ色々と持ち込んでくれたものだ。せっかくの和室の風情も情緒もあったもんじゃない。
私は布団を踏むのを避けて壁際の畳に両膝をつき、手にした盆をテーブルに置く。後から入ってきた椋岡はすぐそばに立ち、無言で私の肩に手を置いてきた。…ケダモノめ。
「少しだけお待ちになってください、私にも心の準備がございます」
やんわりと手を払い、急須から二つの湯呑に茶を注ぐ。
「当旅館名物の薬草茶でございます。せっかくご用意してきましたのでお飲みになりませんか?」
「有難いんですがね、万が一にも毒でも盛られちゃたまりませんからな」
やはりそうきたか。自分が嫌われてるのをよくご存じで結構なこと。
「あら残念、殿方は雰囲気がございませんのね。その音楽も…せっかくの滝の音が掻き消えてしまいますわ」
「だからそうしてるんです、水の音がうるさくて…まあいいでしょう」
椋岡はテープを停めると、ラジカセをバッグにしまった。
「では私は失礼して…身を清めさせていただきます」
湯呑を口に運んでゴクリと喉に下す。幼い頃から慣れ親しんだこの味…舌に広がる苦味が私の脳をより冷静に、より鋭敏にする。大丈夫、私は負けない。明日見旅館二百年の歴史はこんなことではビクともしない。
「お茶はもういいでしょう、ほら早く」
「せっかちですわね、逃げも隠れも致しませんのに」
愚かな男はもうじき自分が骸になることも知らずに、布団の上に仁王立ちで鼻息を荒くしている。私は再び湯呑を傾け口に含ませると、盆に置いてそっと立ち上がった。
黙ったまま妖艶な目で相手を見据える。そしてスルスルと浴衣の帯を解き、腕を抜いて後ろに落とした。その瞬間、椋岡が興奮をあらわにする。…馬鹿が、見たけりゃ見ろ。この裸はお前を逃がさないための餌だよ。
布団を踏んで一歩ずつ歩み寄り、ゆっくりと椋岡の首に腕を回す。嫌らしい舌なめずりの音が聞こえたが、私はひるまず顔を近付けていく。

…それでは落ちてもらいましょうか、地獄へ。