第一章(2) ~ムーン~

 午後7時、警視庁。ファイル庫で過去の捜査資料を読みふけっていた私の肩がトントンと叩かれた。驚いて振り返るとそこに立っていたのは彼…江里口警視だった。いつもどおり柔らかい黑髪を七三に分け、オーダーメイドのスーツをスタイル良く着こなしている。
「こんばんは」
 優しい笑みが向けられた。その瞳はまるで未来を夢見る少年のように綺麗だ。
 江里口は私と同じく警視庁捜査一課所属の刑事。若くして階級は警視というエリートだがけっして世渡り上手なタヌキではなく、おかしいと思ったことは上層部にも掛け合う熱血漢。本当に小細工なしで今の地位にいる稀有な存在であり、一部の婦人警官からはアイドル的な人気も得ていると聞く。
「お疲れ様です、警視」
 ひとまず会釈を返す。外見的にも内面的にも悪い人間ではないのだが、正直言って私はこの人が少々苦手だった。
「どうかされましたか? 御用なら肩を叩かなくても名前を呼んでくだされば」
「何度も呼びましたよ。それでも一向に気付いてもらえなかったもので」
「それは失礼しました。あ、もしかして本名でお呼びになりましたか? すいません、最近あまりそちらの名前で呼ばれないもので」
 すると彼は腰に手をやって大袈裟に溜め息をつく。
「ムーン巡査とお呼びすればよかったわけですか。やれやれ、すっかりあのミットに馴染んでしまわれたわけですね。なんとももったいない」

 私の名前はムーン、警視庁捜査一課の女刑事である。もちろんこんなふざけた名前の日本人がいるはずもなく、ムーンというのは職場上のニックネームのようなものだ。これは一般の方はあまりご存じないのだが、警視庁捜査一課はミットと呼ばれるいくつかのチームに分かれており、私の所属するミットではお互いをニックネームで呼び合うのが古くからの慣例らしい。ちなみに私の上司はカイカンなる、私以上に奇異なニックネームで呼ばれている。

 そして江里口は私とは別のミットなのだが、私は以前からこの人にとある誘いを受けている。
「どうです、そろそろ真剣に考えませんか? 僕のミットに来てくだされば君はもっと活躍できますよ」
「活躍なんてとんでもないです。私は修行中の身ですから。今のミットでもっと勉強したいんです」
「勉強だって僕のミットに来た方がもっとできますよ。少なくとも彼の下にいるよりはね」
 彼というのはカイカン警部のことだ。詳しくは知らないが警部と江里口は以前から面識があるらしい。友達…という感じではないから、知り合いと呼ぶのが適切か。もしかしたら若い頃に合同捜査の経験でもあるのかもしれない。
 まあそれはともかくとして、この江里口からの勧誘が私の悩みの種。男どもから食事や映画に誘われるストレスに比べたらまだマシだが、あまり何度も言われるとさすがにうんざりしてしまう。
「有難いお話ですが、私は今のミットで勉強を続けます」
「頑固ですね、でもきっとそうおっしゃると思ってました。だから少々強硬手段に出ようかと思いましてね。
 ところで本日そちらのミットに捜査の割り振りは来ていますか? それでこの時刻まで残っておられるとか?」
「いえ、事件の担当はありません。勉強のために残っていただけです」
「それは好都合。では少々おつき合い願えますか」
 彼は綺麗な瞳をさらにキラキラと輝かせた。

「失礼しますよ」
 江里口がノックしたのは私のミットの部屋だった。そのまま中に入ると、ソファで警部が身を起こしていた。室内だというのにボロボロのコートとハットに身を包み、長い前髪が右目を隠すその姿は明らかに異様。別に特別な事情で変装をしているわけではなく、これがこの人のスタンダードファッションなのだ。
「やあエリー、久しぶり。おや、ムーンも一緒じゃないか」
「勝手なニックネームで呼ぶのはやめてください、僕は君のミットの人間じゃないんです」
 少しムッとする江里口。
「まったく、その格好もそうですが…君はどうしていつもふざけてるんですか。ここは神聖な職場、大学のサークルじゃないんですよ」
「ふざけてるつもりはないんだけど、気に障ったのなら謝るよ。エリー…じゃなくて江里口警視」
 警部がのっそりと立ち上がった。
「それで、うちのミットに何か御用かな?」
「彼女のことですよ」
 彼は私を指差す。
「君はちゃんと彼女の教育をしてあげていますか? ムーンとか変な名前を名乗らせて、君の妙な捜査法を手伝わせてるんじゃないですか?」
「ムーンは良い名前だと思うけどね。一応教育担当として私が大切だと思うことは伝えてきたつもりだよ」
「ならどうして昇級試験を受けさせないんです? 彼女はとても優秀です。警察にとってはもちろんですが、彼女の人生を考えても、もっとしてやれることがあるんじゃないですか?」
「江里口警視、私はそんなふうに言っていただけるような人間ではありません」
 さすがに居心地が悪くて割り込んだ。
「警部にはしっかり教育していただいております。昇級試験も…私にその気がないだけで」
「いいんですよ、君は何も言わなくて」
優しく笑ってから彼はまた警部を見る。
「僕は部下の可能性を広げてあげるのも上司の役目だと思っています。彼女が警視庁に栄転になった時、急な欠員で君のミットに配属になりましたが、本当は僕のミットで育てたかったんです」
 警部は黙っている。
「どうですか、そろそろ彼女を引き取らせてもらえませんか」
 やや語気を強めた声が狭い室内に響いた。正面の窓には灰色の夜空が広がっている。江里口はここまで真剣に私のことを考えてくれていたのか。有難い、有り難いが…それをストレスに感じてしまう私はやはり人として何かが欠落しているのだろう。
「それは」
 ハットのツバに触れながら警部が口を開く。
「それはムーン本人の気持ちが大切じゃないかな。それにムーンだって永遠にここにいるわけじゃない。人事異動は警察組織の常だ、いずれ必ず異動の辞令は来る」
「僕だって力ずくでどうにかしようとは思いません。そこで提案なんですが」
 江里口はヒートアップしたことを恥じるように咳払いを挟んだ。
「彼女に少々僕のミットの捜査を見学してもらうのはどうでしょう。その上で彼女が望んでくれれば、僕は刑事部長に彼女の異動を嘆願しようと思います。いかがですか? ちょうど今夜、僕のミットに一つ捜査の割り振りが来ています」
 なんだか話が大きくなってきた。私はまた割り込もうとしたが、そこで警部が不気味に笑う。
「フフフ…いいんじゃないかな」
「えっ」
 思わず声が出てしまう。
「警部、待ってください。私は別にそこまでしていただかなくても」
「移動しろって言ってるんじゃないよ。私だって今は君がいてくれなくちゃ困るからね。でもね、江里口警視の言うように君の可能性を狭めるようなことはしたくない。
 だからさ、一度他のミットの捜査がどんな感じか見てきてごらんよ。ちょうど今夜は残って過去の捜査資料で勉強するって言ってたじゃないか。ね、実践に勝る勉強なし。必ず君の学びになると思うよ」
「しかし、江里口警視にご迷惑をおかけするのも」
「気にしなくて大丈夫です」
 江里口が誇らしげに言った。自分は正しいことをしているとこれっぽっちも疑っていない顔。このいい具合に空気が読めない所が上層部にも立て付ける由縁なのかもしれない。
「僕が言い出したことなんですから。よし、決まりですね、ありがとう。じゃあさっそく今から一緒に臨場しましょう」
 綺麗な瞳がキラキラ輝いている。思惑も悪巧みもないまっすぐな眼差し…だからこそ余計に私は断わり切れない。
「ただし一つだけ条件がある!」
 警部の低くてよく通る声が放たれた。江里口も驚いてそちらを向く。
「ムーンはあくまでうちのミットの所属だ。だからムーンのことは必ずムーンと呼んでくれ。ここだけは譲れないぞ」
 なんでやねん、もっと譲れない部分が他にあるでしょ! 心の中で叫んでも変人上司に届くはずもない。本人はかっこいいセリフでも言ったつもりなのかやけに満足そうなのがまた腹立たしい。
「しょうがないですね、わかりました。その条件は呑みます」
 彼も腰に手を当てて了解。いや呼び方とかはどうでもいいんだけど、なんだか私を置き去りにして話だけがどんどん進んでいく。
「では行きましょう。僕は廊下で待ってますから、ムーンさんはご準備を」
 さっそうと部屋を出ていく江里口。私は必要な物を揃えながらちょっと恨めしい目で警部を見てやった。
「私はもう帰るけど君は勉強頑張ってね、ムーン! ビンさんには私から伝えておくから」
「失礼します!」
 それだけ言って部屋を出る。ビンさんというのはミットの長のビン警視のこと。もちろんこれもニックネーム。このミットに来て三年、そういえばムーンと呼ばれることにもすっかり慣れてしまっているな。
 でも確かにさっき警部が言っていたとおり、警察官の人事異動は常のこと。私だってずっと警部の下にいるわけじゃない。もしかしたら異動のきっかけなんてものはこんなことなのかもしれないな。
「お待たせしました」
 江里口はすぐそこに立っていた。
「それで警視、私は何をすればよろしいですか?」
「僕たちの捜査をじっくり見てもらいます。すでに部下が一人、現場に先行していますので」
「どのような事件なのですか?」
 彼は口元の笑みを消し、真顔になって答えた。
「柊ホスピタルという病院で、一人の医者が異状死しました…施錠された当直室の中でね」

 江里口を助手席に乗せて私は警視庁を出る。道すがら現時点での捜査情報を聞き、柊ホスピタルに到着した頃には午後8時を回っていた。車を駐車場に停めて夜間通用口から院内に入ると、カウンターの窓口には制服姿の初老の警備員。小窓を開けて「どちら様ですか?」と尋ねた彼に警視は警察手帳を示した。
「警視庁の江里口です。当直医の先生が亡くなった件で参りました。先に部下が来ているはずですが」
「失礼しました。さあどうぞお入りください」
 警備員は一礼して蒲郡と名乗り、警備員質から出てくるとそのままエレベーターまで案内してくれた。薄暗い廊下に三人の足音が反響する。
「それなりに大きな病院ですが、夜間警備は蒲郡さん一人ですか?」
 江里口が問う。
「はい。防犯カメラが各所に設置されておりまして、セキュリティは万全ですから。私は時々巡回して、後は夜間の電話と来訪者に対応するくらいですよ。それも滅多に来ませんから楽なもんです」
「防犯カメラですか…となると部外者の侵入は難しいわけですね。カメラの映像は録画されていますか?」
「はい、一週間分は残っています。先ほどの警備員質のパソコンで見られますよ」
「では後ほど確認に伺います。それにしても…この度はとんだことでしたね」
「ええ、まさか当直の先生が…。いったい何が起こったのでしょうか」
「詳しいことはまだわかりません。ですがご安心ください、速やかに解決致しますので」
「よろしくお願いします」
 蒲郡は歩きながら頭を下げる。そこで警視はちらいとこちらを見て、「君からも質問があればどうぞ」と促した。私は応じる。
「あの、当直の先生が亡くなられて今夜の医療体制は大丈夫なんですか? 病棟には入院の患者さんがいらっしゃるんですよね。もし急変などされたら…」
「それでしたら、先ほど院長先生がいらっしゃいました。今夜は院長先生が代わりに当直をなさるそうです」
「それはよかったです。あの、蒲郡さんは日勤からの通し勤務ですか?」
「ええ。今朝の7時から明日の朝の7時まで24時間勤務です」
「では亡くなった先生がいらっしゃった時も勤務しておられたわけですね。その時のご様子で何か気付かれたことはありますか?」
「いえ、特には…。いつもどおりの感じだったと思います」
「わかりました、ありがとうございます」
 私が質問を終えると再び江里口が尋ねる。
「当直室は4階でしたね。4階には他にどんな部屋があるんですか?」
「医局と院長室、あとは給湯室とカンファレンスルームがございます」
 そこでエレベーター前に到着。壁の案内図を見ると、1階が外来、2階と3階が入院病棟となっている。蒲郡がボタンを押すとすぐに一つの扉が開いた。薄い闇の中に光の空間が現れる。
「上までご一緒しますか?」
「いえ、それには及びません。行きましょう、ムーンさん」
 彼に続いて乗り込む。
「では蒲郡さん、色々とありがとうございました」
「いえいえ。今夜は仮眠を取らずに起きてますから、必要な時はいつでも呼んでください」
 初老の警備員は頭を下げ、扉は無機質な音を立てて閉まった。

 4階に到着。エレベーターを降りて廊下を進むと当直室はすぐだった。ドアは開け放たれており、中では鑑識員が所狭しと作業を続けている。また、何かをこぼしたのか、当直室前の床は少し汚れている。それを踏まないように中へ入ると一人の若い刑事が近付いてきた。
「お疲れ様です、警視」
「ご苦労様、戸塚くん。こちらはムーン巡査さん、うちのミットの捜査を見ていただくためにお連れしました」
「そうですか」
 戸塚は私と同じ20代半ば、少々垂れ目だがビジネススーツに短髪でいかにも爽やかな好青年といった雰囲気。彼は江里口に注いでいた視線を顔ごとこちらに向けた。
「夜分にご苦労様です。あなたですね、警視がヘッドハンティングしたがっているのは。噂どおりお美しい方ですね」
「こら、事件現場でそんな話をするんじゃない」
「すいません、つい。ムーンさん、戸塚と申します。どうぞよろしく」
 会釈されて私もそれに合わせた。
 さて、社交辞令の挨拶はこんなところか。私は室内を観察する。バスルーム、ベッド、クローゼット、テレビ、デスク、そして…床に倒れた遺体。その顔は悪魔に魂を奪われたかのように苦悶したまま凍り付いている。
「では戸塚くん、報告を。ムーンさんにもわかるように丁寧にお願いします」
 江里口が指示した。いつもは私が先に臨場して基本情報を収集し、後から来た警部に報告する。だからこんなふうに報告を受ける側になるのは新鮮だった。
「承知しました。ホトケは土橋幸一、45歳の男で内科医です。そちらに倒れているのがそうです。どうぞ警視、お近くでご覧になってください」
 戸塚は身を翻して上司を遺体へ促す。江里口も身長に歩み寄ると片膝をついて死者と向き合った。
「報告を続けます。ホトケはこの病院の医者ではなく、普段は大学病院で勤務していて、ここには毎週木曜日だけ当直のバイトに来ていました。二年ほど前からだそうです」
 江里口はポケットから取り出した手袋を装着すると遺体の衣服を検め始める。そして振り向かずに私に言った。
「ムーンさん、何か気になることはありますか」
 私は素直に気付いたことを答える。
「はい。床に缶コーヒーが落ちて中身がこぼれていますね。それと、当直室前の廊下にも何かがこぼれた跡がありました」
「見事な観察力です。戸塚くん、説明を」
「はい。まず廊下の方ですが、あれは遺体を発見した栄養士が持っていたトレイを落として食事をこぼした跡です。さすがに邪魔なので先ほど片付けました。そしてそちらの缶コーヒーですが、ホトケが持ち込んだ物です」
「了解しました。それと、デスクの上のパソコン…電源が入っていますね」
 私はさらに確認する。
「パソコンは当直室に備え付けの物です。使わない時には電源は切ってあるそうですから、きっとホトケが入れたんでしょう」
 先ほどから彼はメモも何も見ずに話している。それほど記憶力に自信があるのだろうか。自信がない私は手帳を取り出して重要な情報を書き留める。
「ありがとうございました、戸塚さん」
「いえいえ。では報告を続けます。通報までの経緯ですが、ホトケは午後5時に来院、1階の事務室で鍵を受け取ってからこの4階へ上がり、当直室に入りました。遺体を発見したのは総務課課長の恩田玲子、そして栄養士の大門由香利の二名。午後6時に夕食を運んで来て、ノックしても返事がなく、ドアにも鍵がかかったままだった。そこで合鍵を使って中に入ると…この有り様だったそうです。
 救急通報はその場で恩田玲子がしています。確認したところこれが午後6時24分でした。大門由香利が病棟から夜勤の看護師を連れてきて応急処置を試みましたが、看護師もどうしようもないと判断し何もしなかったそうです。看護師の名前は夏川久美です」
「心肺蘇生もしなかったんですか?」
 江里口が遺体のポケットの中に手を突っ込みながら尋ねる。
「はい。死亡から時間が経っていて、蘇生の可能性はないと判断したようです」
「しなくて正解でしょう。わずかにアーモンド臭もありますし、これはおそらく中毒死です。もし口の中に毒物が残っていたら人工呼吸した看護師も危ない」
 中毒死…やはりそうか。口唇のチアノーゼ、喉に左手を当てている体勢、そして苦悶した表情と口からの流涎。いずれも単純な病死とは思えない。土橋幸一は毒を飲んで死亡した…と、そこで私は以前に警部と交わした会話を思い出す。あれはいつかの昼休憩の雑談だった。

「そういえばねムーン、子供の頃に絵本を読んで不思議だったんだよ。毒リンゴで倒れた白雪姫に口づけをした王子様がどうして毒にやられなかったんだろうって」
「警部はその頃からひねくれてたんですね。白雪姫は何年も眠り続けていたわけですから、きっとその間に毒の効力が落ちたんですよ」
「君らしい見解だ。でも何年も歯を磨かずに眠り続けていたんなら、相当口が臭かったんじゃないのかなあ。口づけする王子様も大変だ」
「そんな夢のないことを。童話なんてそんなものじゃないですか。例えばシンデレラだってガラスの靴で本人確認をしましたけど、同じ足のサイズの人間なんてたくさんいますよ」
「それもそうだ。今ならガラスの靴に残った足の指の指紋を照合するだろうね」

「となると…」
 遺体の確認を終えた江里口が立ち上がって私は我に返る。いかんいかん、どうでもいい思い出に浸ってる場合じゃない。ミットを異動になるかもしれないと聞いて、少しセンチメンタルになっているのだろうか。まさか、この私が?
「戸塚くん、床に落ちている缶コーヒー、飲みかけに見えますね。あれに毒が入っていた可能性が高いでしょう」
「俺もそう思います。警視の指示が出たら鑑識に回す手筈です」
「ではすぐにそうしてください。缶コーヒーはホトケが持ち込んだ物でしたね。来る途中のコンビニかどこかで買ってきたんでしょうか」
「いいえ」
 戸塚は開いたドアの向こうの廊下に見える部屋を指差した。
「あそこが給湯室で冷蔵庫があります。缶コーヒーはそこに入っていた物のようです」
「冷蔵庫…少々拝見しますか」
 江里口が当直室を出たので戸塚と私も続く。給湯室には小さな流し台、コンロ、ポット、食器棚、そして冷蔵庫が並んでいた。江里口は手袋をしたまま冷蔵庫の扉を開ける。一般家庭に置かれているような普通サイズの冷蔵庫だ。
「飲み物がたくさん入って居ますね」
 私も覗く。上段にはお茶のペットボトル、中段にはミネラルウォーターのペットボトル、そして下段には缶コーヒーが敷き詰められていた。
「土橋先生はここから缶コーヒーを1本取って当直室へ持って行ったわけですか。確かに同じ銘柄のようです。そうですか…」
 少し黙って考えてから彼は続けた。
「この冷蔵庫、遺体が発見されてから誰も触っていませんか?」
「そのはずです」
「なら一応、残ってる飲み物の毒物反応を調べておいてください。まさかと思いますが、全部に毒が入っていたら大変です」
「かしこまりました」
 戸塚が力強く頷く。そして私たちは再び当直室へ戻った。
「では続きの報告を伺います。戸塚くん、よろしく」
「死亡推定時刻ですが午後5時17分頃だと思われます。どうして正確にわかるかというと、その時刻に受話器がはずれているのが記録に残っていたんです。今は音がうるさいので受話器を戻していますが、遺体発見時はデスクの上の電話の受話器がはずれていて、ピーという音が鳴っていました」
 江里口はその電話を見つめる。
「毒を飲んで苦しくなったホトケが、助けを呼ぼうとして手を伸ばしたのか、あるいはたまたま当たって落ちたのか、いずれにしてもホトケが元気な状態なら受話器を戻したはずです」
「そうですね、その時刻に絶命されたと見て間違いないでしょう」
「死因についても、先ほど警視がおっしゃっていたように中毒死でほぼ間違いないと監察医も言ってました。正確な毒の種類は解剖と缶コーヒーの分析を待ってからになります」
「では」
 手袋をはずしながら江里口がこちらを見る。
「検討すべきはこれが自殺か他殺か、ということですね。ホトケが自分で毒を飲んだのか、それとも誰かに毒を盛られたのか。ムーンさん、君はどう考えますか?」
 少しだけ逡巡して私は答える。
「現時点では自殺の線が濃いかと思います。土橋先生は医者なので毒物は入手しやすかったはずです。それに先生は施錠された部屋で亡くなっていました。ご自身で毒を飲まれたと考えるのが一番自然です。
 ただ…当直のアルバイト中に自殺するというのは不自然に感じます」
「そうですね。しかしそれだけ思い詰めていたのかもしれません。戸塚くん、自殺の動機は何かありそうですか?」
「まだそれらしい情報はないです。遺書も見つかってません。勤務先の大学病院に電話して上司の方と話しましたが、特段悩んでいる様子はなかったと。ご家族とはまだ連絡がついていません」
「独身なんですか?」
「いえ警視、妻子がいます。上司から番号を教えてもらって何度か自宅に電話してみましたが、留守のようで」
「この時刻に留守ですか。奥さんは携帯電話を持っていないのですか?」
「番号がわからないんです」
「ホトケの携帯電話のアドレス帳を見ればわかるでしょう。さっき私が遺体の衣服を触った時、ポケットに携帯電話はありませんでした。見たところ室内にもないですし、もう鑑識に回っているのではないのですか?」
「いいえ」
 戸塚は咳払いしてから告げた。
「ホトケは携帯電話を所持してなかったんです」

 江里口は遺体搬出の指示を出すと、院長室を訪ねて挨拶をした。そして自殺と他殺のいずれの可能性も考えられること、これから関係者に事情聴取を行ないたいこと、そのための部屋を貸してほしいことを如才なく伝えた。院長は浅黒い肌に白髪の好々爺だったが、時折厳しい眼光も覗かせる風格ある人物だった。そして江里口の説明を全て承諾し、カンファレンスルームを貸してくれたのである。

 さっそく夜中の事情聴取が始まった。カンファレンスルームには大きな長机が一つ置かれている。きっと日中はここに医師や看護師たちが集って意見を交わすのだろう。
 最初に呼ばれたのは第一発見者の恩田玲子。中央の椅子に彼女は座り、その体面に江里口、彼の両脇を戸塚と私が固める。まるで就職面接のようなスタイルだ。
「少しは落ち着かれましたか?」
 無言のままの玲子に江里口の真面目な声が尋ねる。彼女は背筋を伸ばすと、私たち三人を順に見た。その瞳には心の奥底を覗かせまいとする警戒の色が浮かんでいる。
「大丈夫です。何なりとお尋ねください」
「では亡くなった土橋先生について教えてください。二年前から毎週当直に来ていたそうですね。当直のアルバイトというともっと若いドクターがやるイメージがあるのですが、彼はどうしてこの病院で当直を?」
「うちの院長が同じ大学の出身で、それで医局の後輩の土橋先生に声を掛けたと伺っています。ただ刑事さん、当直のアルバイトをされるのは別に若い先生ばかりではありませんよ。年配の先生がされる場合もございますし、つまりはご本人のモチベーションの問題だと思います」
「彼はモチベーションが高い先生だったということですか」
 玲子はためらいなく「はい」と頷く。
「恩田さんは務められてどれくらいになるんですか?」
「もう足掛け十五年になります」
「ではもうすっかりこの病院の事務を取り仕切っていらっしゃるわけですね」
 江里口は皮肉を言うような性格ではない。きっと本心からの言葉なのだろう。
「そんな、取り仕切るだなんてとんでもない。私の上には事務長もいますし、院長だって理事長だっておられます。それに病院組織は医療職のみなさんが中心ですから、私なんて課長職でも大したことはありません」
「しかし当直室の鍵はあなたが管理していらっしゃったんですよね」
「それは…総務課の仕事ですから」
「教えてください。鍵の管理はどのようになさっていたんですか?」
 江里口は綺麗な瞳でじっと彼女を見た。それが重要な質問であることを察したようで、玲子も慎重に答える。
「当直室の鍵は合鍵も含めて三つあります。大切な鍵ですので一つは金庫、残り二つも院内にいる時は常に私が身に付けております」
「つまり、他の人が無断で持ち出すことはできないと。あなたの他に当直室のドアを開け閉めできる人はいますか?」
「あとは…警備員が管理しているマスターキーくらいです」
「そうですか。あの、当直は夜ですから昼間は当直室は使わないわけですよね。部屋の施錠は…」
「もちろんしています。勝手に人が入らないように」
「では清掃の時などはどうされるんですか?」
「当直室の掃除も私がやっております。朝、当直の先生が帰られる時に鍵を返却していただき、私が室内を清掃して、もちろんベッドのシーツも交換してから当直室を施錠します。そして夕方、次の当直の先生にまた私が鍵をお渡しします」
「随分厳重ですね」
 目を細める江里口。私も同感だった。
「課長のあなたが掃除をしなくても、この規模の病院なら清掃専門のスタッフもいらっしゃるのでは?」
「ただの掃除ではありません」
 玲子は言い切った。その迫力に私は机の下の手をぎゅっと握る。
「当直室は外部の先生をお迎えする大切なお部屋です。責任ある立場の者しか立ち入るべきではありません。先ほど当直のアルバイトは若い医者がやるとおっしゃいましたが、研修医の給料が雀の涙だった時代はそうでした。でも今は若い先生にもちゃんと給料が払われます。無理して当直のアルバイトをしなくても生活できるんです」
「当直に来てくれる医者は貴重ということですか」
「そのとおりです。それに誰でもいいというわけではありませんから。ちゃんとした先生で、なおかつ当直にも来てくださるモチベーションの高い先生、大切にするのは当然です。
 実は以前にも、うちの職員が勝手に当直室を使って昼寝をしていたことがありました。あってはならないことです。ですから施錠を徹底したんです」
「納得しました」
 そう言って江里口は少しだけ笑む。
「では本日も、朝あなたが当直室の掃除をして鍵を掛けて以降は夕方土橋先生が入るまで誰も当直室には出入りしていないわけですね」
「そのはずです」
  ここまで話してようやく玲子の顔に困惑が浮かぶ。警察がどうしてこんなに鍵の管理や施錠の有無にこだわるのかが気になった様子だ。
「刑事さん、どういうことです、先生はご病気で亡くなられたのではないのですか?」
 数秒の沈黙。江里口のアイコンタクトを受けて戸塚が口を開いた。
「これは病死ではないです。詳しいことはまだですが、死因は薬物、つまり中毒死と見ています」
「そんな」
 玲子は驚愕して視線を泳がせる。私はその横顔をじっと観察した。はたしてこの女の挙動は真か偽か。
「では先生は毒を飲んで自殺されたんですか?」
「そこなんですよ」
 戸塚が身を乗り出す。
「自らの意志で毒を飲まれたのなら自殺です。しかし、誰かに飲まされたとすれば…これは殺人事件ということになります」
 室内に「まさか!」という彼女の短い悲鳴が響いた。
「落ち着いて聞いてくださいね」
 再び江里口。
「警察としてはまだどちらとも判断がつきかねています。そこで恩田さん、第一発見者のあなたにお伺いしたい。あなたが6時に当直室へ夕食を届けた時、鍵は確かにかかっていましたか?」
「そ、それは間違いありません」
「合鍵で中に入った時、室内に土橋先生以外の誰かが潜んでいたということもありませんね?」
 彼女は大きく頷く。
「実は彼の遺体の近くに飲みかけの缶コーヒーが落ちていました。それに毒が入っていたのかどうかは現在調べていますが…飲み物は給湯室の冷蔵庫に用意されていたそうですね」
「はい。日中、医局の先生方に自由に飲んでいただいていました。土橋先生も当直の時はそこから缶コーヒーをよく飲まれていました」
「どうしてご存じなんですか?」
 思わず私の口が尋ねていた。いけない、今私はこのミットの捜査を見学している身だった。驚いた様子の江里口と戸塚に私は頭を下げて小さくなる。
「翌朝掃除をする時に空き缶が残っていましたので」
 彼女はややぎこちなく答えた。江里口が続ける。
「冷蔵庫の飲み物もあなたが用意されてるんですか?」
「昔はそうでしたが、今は部下に頼んでいます。一日一回、夕方に減った分の飲み物を補充させてます。あの、刑事さん、もしかして私の部下が缶コーヒーに毒を仕込んだとおっしゃるんですか?」
「まだ何もわかりません。ではもう一つ、あなたは彼の遺体を発見した時、何か室内の物を触ったり動かしたりされましたか?」
「とんでもないです。倒れている先生を見て、これは非常事態だと思いました。それですぐに119番に電話して、大門さんには看護師を呼びに行ってもらいました。何も…持ち出したりしていません」
「わかりました。では恩田さん、これも念のために伺うのですが、土橋先生には何か自殺をされるようなお悩みはあったでしょうか」
 彼女の瞳がビクンと動揺を見せた。そして肩を小さく震わせながら答える。
「いえ…私は存じません。彼と個人的な話をしたことはありませんから」
「では、どなたか先生に恨みを持っている人の心当たりはいかがでしょう」
「ございません。先生が殺されたなんてそんなこと…信じられません。品行方正で立派な方でした」
 答える彼女を見ながら私は考える。どうなのだろう。彼女は事実を語っているのだろうか。
 先ほど江里口は室内の物を触ったり動かしたりしていないかと尋ねた。それに対して彼女は「何も持ち出したりしていません」と答えた。持ち出す? 誰も持ち出したなんて言っていないのにどこからその言葉が出てきたのか。ただの言い間違いかもしれないが少し気になる。それにずっと「土橋先生」と呼んでいた彼女は先ほど一度だけ「彼」と呼称した。考え過ぎかもしれないが…。
 私はそれらの疑問を素早く手帳に書き留めた。少しじれったい。警部がそばにいたら、すぐに相談できるのに!

 続いてカンファレンスルームに呼ばれたのは栄養士の大門由香利。職場で起きた突然の悲劇に彼女は明らかに憔悴していた。
「おつらいでしょうけど、いくつかお尋ねしてよろしいですか?」
「…どうぞ」
 力ない声が返される。江里口は聴取を始めた。
「当直室に夕食を届けるのはいつものことなんですか?」
「はい。昔は食堂にお食事を用意してそこに食べに来てもらってたんですけど、昨年度から栄養士が届けることになりました」
「どうしてそのように変わったのでしょう」
「恩田さんが…総務課の課長さんが、当直の先生に失礼があってはいけないと会議でおっしゃって…そうすることに決まったんです」
「恩田さんは随分とお医者さんに手厚いんですね」
「手厚いというか…あたしには自分が褒められたいだけに見えますけど。あの人、院長とか理事長とか、偉い先生には受けがいいんです。確かに美人だし、アピールも上手だから。でも下の人間には…」
 そこまで言って彼女は慌てて口を押さえる。
「ごめんなさい、あたし、関係ないことをペラペラ」
「いえ、警察としてはそういうお話が聞きたいんです。もちろん秘密は守ります。ではお食事を運ぶ時に恩田さんが同行されるのもアピールなんでしょうか」
「だと思います。運ぶだけならあたしだけでもいいはずですし…ってこんなこと言っちゃっていいんでしょうか」
「構いませんよ。では本日のことについて伺います。あなたと恩田さんで当直室を訪れた時、確かにドアに鍵はかかっていましたか?」
「それは間違いありません。恩田さんが何度もドアノブをガチャガチャしてましたから」
「合鍵でドアを開けた時、あなたや恩田さんは中に入られましたか?」
「恩田さんが少しだけ入ってすぐ立ち止まって、それでどうしたんだろうって思ってあたしも肩越しに中を見たら…」
 凄惨な光景を思い出したのか、彼女は自分の両肩を抱いた。
「それであなたは持っていたトレイを廊下に落としたんですね。そして恩田さんの指示で看護師を呼びに行った。間違いないですか?」
 由香利は無言でうんうんと頷く。そこで江里口は自殺と他殺、両方の可能性があることを説明した。
「どうでしょう。土橋先生について何かご存じのことはありますか?」
「いいえ。あたしは夕食を渡す時に一瞬会うだけですし、それ以外に栄養士が当直医と接することはほとんどありません。だから土橋先生が何に悩んでたとか、誰に恨まれてたとか、そういうのは何も…。ごめんなさい、お力になれなくて」
「気になさらず。つらいお話ばかりでごめんなさい。これでおしまいにしましょう」
 江里口の綺麗な瞳がねぎらうように彼女を見た。
「失礼します」
 由香利は俯いたまま席を立つ。そのままドアへ向かいかけたが、数歩行った所で踵を返した。そして私たち三人の顔を順に見る。言うべきか否か逡巡しているようだった。
「何か思い出されましたか?」
 江里口の瞳がさらにキラキラと輝く。この純粋な眼差しには抗えない、彼女は拳を弱く握り、意を決したように口を開いた。
「実は、合鍵でドアを開ける前、恩田さんが土橋先生に電話を掛けたんです。最初は当直室の内線番号に掛けたんですけどつながらなくて、なので今度は外線で携帯電話に」
「内線は受話器がはずれていたそうですね。それで、そのことが何か?」
「恩田さん、土橋先生の携帯電話の番号を暗記してたんです。病院のPHSにはもちろん当直医の個人の番号なんて登録されてませんから。いくら医者を手厚くもてなすあの人でも、それって…おかしくないですか?」
 室内の空気が変わった。江里口は目を見張り、戸塚の顔には緊張が走っている。私もペンを握る手に力がこもった。
「それで、電話は掛かったんですか?」
「はい、室内から着信音が聞こえました。先生は出ませんでしたけど」
 重要証言だった。玲子が土橋の携帯電話の番号を暗記していたこともそうだが、もっと重要な証言…遺体を発見した時点では室内に彼の携帯電話は確かに存在していたのだ。それが警察が到着した時点では消えていた。
 となると消すことができたのは、先ほど「何も持ち出していない」と口を滑らせた彼女だけ。由香利に看護師を呼びに行かせている間に、遺体と二人きりだった彼女だけだ。
「ご協力ありがとうございました」
 江里口は丁重に栄養士を退室させると、すぐさま戸塚に指示を出した。
「直ちに恩田玲子の所持品チェックをしてください」

 戸塚が不在の中で三人目の聴取が始まる。看護師の夏川久美だ。恩田玲子を第一発見者、大門由香利を第二発見者とするなら、由香利に呼ばれて当直室へ駆け付けた彼女は第三発見者となる。夜勤のナース服姿のまま、さすがは看護師というところか、彼女は場慣れした様子で聴取に応じた。
「応急処置を頼まれましたが、正直もう手の施しようがない状態でした。瞳孔も散大して脈も呼吸も完全に止まっていましたし、手足の指先には硬直も始まっていました。少なくとも死後三十分は経過していると判断しました。死亡を確認した後、硬直乃程度を調べる作業は手袋を装着して行ないましたので、できるだけの現場保存はしたつもりです」
 江里口は穏やかに頷く。
「とても冷静なご判断です」
「異状死発見の際の基本に従ったまでです。すぐに警察に通報すべきだと私が恩田さんに進言しました。あと、急いで土橋先生の代わりの当直医を探す必要もあるとも伝えました。院長先生がすぐに来てくださってよかったです」
「実は土橋先生は薬物中毒死の可能性が高いんです。警察としては自殺と他殺の両方の可能性を考えています」
「はい」
 前の二人とは異なり、彼女はあっさりその事実を受け入れた。
「夏川さん、彼はどのような方でしたか?」
「どのような…とおっしゃいますと?」
「何か自殺するような悩みを抱えていたとか、命を狙われるような恨みを買っていたとか…そういう話をご存じないですか?」
「先生のプライベートについては何も知りません。ただ…」
 一瞬言い淀んでから彼女は続けた。視線は全く逸らさない。
「ただ、夜勤スタッフからはあまり評判が良くありませんでした。患者さんの具合が悪くて診察をお願いしたくても内線電話になかなか出てくれないんです。熟睡してたとかシャワーを浴びてたとか言い訳ばかりして。それに患者さんの病状が大したことないと、こんなことでいちいち呼ぶなって怒ったりもしました」
「そうですか」
 顔を曇らせる江里口に彼女はさらに続けた。
「私見ですが、悩んで自殺するような人には見えませんでしたね。当然スタッフの評判が悪いからってそれが殺される動機になるとも思いませんけど。そんな医者は…ざらにいますので」
 彼女の年の頃は40歳過ぎ。となると看護師の経験は二十年ほどだろうか。夏川久美という女は歯に衣着せぬ性格らしい。
「一つ伺います、あなたは当直室で何かに触ったり動かしたりされましたか?」
「いえ何も。当然です、異状死の現場ですから。私は死亡確認のために少し先生のお体に触れただけです。お疑いなら恩田さんと大門さんにも確認してください。その場にいらっしゃいましたので」
「いえ、信じますよ。ちなみに大門さんはどうしてあなたを呼びに行ったのでしょうか。夜勤の看護師は他にもいますよね?」
「単純に私のいる3階の病棟が近かったからじゃないでしょうか。それに私を名指ししたわけじゃありません。3階の夜勤看護師は二人いましたが、私の方が救急外来の経験があったんで行くことにしたんです。それだけのことです」
 彼女の返答は最後まで明瞭だった。

「ムーンさん、君はどう思いましたか?」
 聴取の終わったカンファレンスルームで江里口に意見を求められる。私は手元のメモを読み返しながら答えた。
「はい、気になったことといえば、土橋先生に対する評価が恩田さんと夏川さんで正反対だったことですね。まあ事務職と医療職の視点の違いかもしれませんが」
「そうですね。他にはありますか?」
「やはり土橋先生の携帯電話のことが気になります。状況から考えると、恩田さんが遺体のポケットから抜き取った可能性が高いかと」
「そうですね。それに彼女がホトケの電話番号を暗記してたのも気になります」
「もしかしたらこういうことでしょうか。恩田さんと土橋先生は男女の関係、だから電話番号も憶えていた。先生には家庭があるのでこれは不倫ということになります。携帯電話を警察に調べられたら不倫の痕跡が出てくる、彼女はそれを恐れたのではないでしょうか」
 江里口は満足そうに笑む。
「僕も同じ考えです。やはり君は優秀だ、ぜひ僕のミットにいてほしいですね。先ほども物怖じせず恩田さんに質問を投げていましたし」
「あれはつい…出過ぎた真似をして申し訳ありません」
「いえいえ、余計に君が気に入りましたよ」
 だからそんなキラキラした瞳で見つめないでほしい。どう答えたものか戸惑っているとノックがして戸塚が戻ってきた。そして悔しそうな顔で頭を下げる。
「すいません警視、恩田玲子は事情聴取の後、院長に許可を得てすぐに帰宅したそうです。気分が優れないからと…。急いで駐車場まで追いましたが、タッチの差で間に合いませんでした」
「そうでしたか」
 江里口は人差し指で下唇を撫でながら答える。
「まあいいでしょう。彼女が遺体のポケットからこっそり携帯電話を抜き取っていたとしても、まだ殺人だと断定できていないこの段階で、服を脱がせてボディチェックというわけにもいきませんしね。ご苦労様、戸塚くん」
「いえ」
 恐縮する部下を前に江里口が腰を上げたので私も立った。
「大丈夫、これはさほど難しい事件ではありません。土橋幸一と恩田玲子が不倫関係だとすれば、それは十分自殺の動機になる」
 彼は私の目を見ながら続けた。
「そしてもちろん、殺人の動機にも」