第一章(1)

「忘れちゃダメだっていつも言ってるでしょ!」
 木曜日、午後4時半。柊ホスピタルの事務室では総務課課長・恩田玲子(おんだ・れいこ)の雷が落とされていた。紺色のスーツに身を包み、後ろで髪を束ねてメイクにも余念のない彼女はいかにも仕事の鬼といった出で立ち。30代の若さで課長職というのも納得の迫力だ。一方、叱られている部下は気弱で控え目、いかにも要領が悪そうな20代。
「すいません、あたし、別の仕事をしてまして。課長に頼まれた業者対応を」
「そんなの言い訳にならないわ。どうせまた病棟に遊びに行ってたんでしょ。だから時間が押すのよ。いい? 事務の仕事はそういうことじゃないのよ」
 室内に玲子の怒号が響く。他の事務員たちも怒られている彼女にこっそり同情の視線は向けるものの、誰も助け船を出す様子はない。彼女は4階の給湯室の冷蔵庫に飲み物を補充する業務を失念していたとしてこんな憂き目に遭っている。
「飲み物が足りなくなって医局の先生方が困ったらどうするの! それにこれからいらっしゃる当直の土橋先生は必ず缶コーヒーをお飲みになるのよ。早く今から行って補充しなさい!」
「わかりましたっ!」
 部下は大慌てで事務室を飛び出して行く。玲子はその背中を冷たく一瞥してからデスクの事務員たちに向き直った。
「みんなもいいわね、先生方には絶対失礼のないように。先生方が気持ち良く働けるようにする、それが事務の仕事、わかったわね!」
 もうすぐ退勤時刻だというのに事務室の中は今日もストレスに満ちていた。

 午後5時、レクサスを乗り付けて医師の土橋幸一(どばし・こういち)が柊ホスピタルに到着した。彼は慣れた足取りで夜間通用口から院内に入る。
「先生、ご苦労様です」
 警備員の蒲郡敏夫(がまごおり・としお)がカウンターの窓口から声を掛けると、彼は「どうも」と軽い会釈を返した。そのまま1階の廊下を進んで奥にある事務室へと入る。
「まったく、私が気付かなかったら大変なことになってたのよ? あなたいつもボンヤリしてるんだから」
「すいません」
 部下が飲み物の補充を終えて給湯室から戻ってきたというのに玲子のお説教はまだ続いていた…が、土橋の姿を戸口に見つけると彼女はぱっとその顔を明るくする。
「あら先生、いらっしゃいませ」
 叱っていた部下を放置して彼女は土橋に駆け寄る。そして深くお辞儀をした。
「またお世話になりますよ、恩田さん。いやいや、そんな大袈裟に頭を下げてくれなくていいですから」
「いえいえ、お忙しい中いつも本当にありがとうございます」
「まいったなあ。じゃあ、当直室の鍵をいただこうかな」
 彼女は頭を上げるとスーツのポケットから一本の鍵を取り出した。
「先生、今夜もよろしくお願いしますね」
 手渡す瞬間にお互いの指が触れる。一瞬だけ妖艶なアイコンタクトが交わされたが、すぐに二人とも元の顔に戻った。
「では僕はさっそくこもらせていただきますので」
 冗談めかしてそう言うと、土橋は踵を返して事務室を出ていく。その背中に玲子は「お食事は6時にお届けに上がります」とまた深く頭を下げた。

 エレベーターで4階に上がった土橋は給湯室に立ち寄って冷蔵庫から1本の缶コーヒーを手に取ると、鼻歌混じりにすぐ隣の当直室の前に立つ。そして玲子から渡された鍵でドアを開け、慣れた所作で中へと入る。そしてしっかり施錠した。
 室内は綺麗に清掃・整頓され、ほのかに甘い香りが漂っている。彼はバッグをベッドの上に放るとデスクの椅子に腰を下ろした。少し肩と首を回してから置かれたノートパソコンの電源を入れ、缶コーヒーの飲み口を開けて一口飲む。
 この病院の当直で夜間に病棟に呼ばれる頻度はそう多くない。そのため彼は備え付けのパソコンでネットサーフィンをしたり、動画を見たりしながらのんびりするのがいつもの過ごし方。しかしこの日はそうはならなかった。

 …カラン。

 二口目を飲むことなく缶コーヒーが右手から落ちる。
「うぐっ」
 鈍い呻き。土橋は左手で自分の喉を押さえる。次の瞬間唇の隙間から泡沫状の唾液が溢れ出した。
「ぐがあ!」
 絶叫して卓上の電話に手を伸ばしたが受話器をはずしただけで掴むことはできず、そのまま彼の体は床へと転がる。そして次第にピクリとも動かなくなった。

 午後6時。恩田玲子はトレイに夕食を乗せた栄養士を引き連れて4階へ向かった。栄養士の名は大門由香利(だいもん・ゆかり)、厨房にも出入りする彼女は白衣姿、同世代だが玲子と比べるとメイクは随分控えめだった。二人は当直室の前まで来る。
「先生、失礼します。恩田です」
 ドアをノックする。しかし応答はない。もう一度くり返してみるがやはりドアの向こうは沈黙のまま。耳を澄ませてみるがシャワーの音も聞こえないので入浴中というわけでもなさそうだ。ただかすかにピーという機会音だけが流れていた。ドアノブを回してみるが鍵は確かに掛かっている。
「このピーって音、電話の受話器がはずれてるのかしら」
 玲子は自分の院内PHSで当直室の電話に内線を掛ける。
「やっぱりそうだわ、話し中になってる」
「じゃあ先生はお部屋にいらっしゃらないのでしょうか」
 と、由香利。玲子は「病棟かしら」と今度は各病棟へ電話するがそこにも土橋の姿はないとのこと。
「おかしいわね」
 今度は警備員室へコール。
「はい、警備の蒲郡です」
「お疲れ様です、総務の恩田です。申し訳ありませんが、当直の土橋先生がどちらにおられるか防犯カメラで確認していただけますか? お食事を届けに来たんですけど、当直室にいらっしゃらないみたいで」
「わかりました。少々お待ちください」
 蒲郡からのコールバックが来るまで二人はその場で佇むこととなった。
「スープが冷めちゃったらもう一度あたため直してくださいね」
「わかりました」
 玲子の指示に答えながら由香利は内心イライラしていた。自分の都合で食べるのが遅れるんだからそこまでしてやることはない、そもそも当直室まで栄養士が食事を運ぶということ自体がサービス過剰、通常は職員食堂に用意して当直医が自分で食べにくるものだ。
 そうは思っても彼女はそれを口に出したりはしない。総務課課長の恩田玲子は徹底したドクターおもてなし主義、議論したところで高飛車口調で言い任されるのは目に見えているし、下手に目をつけられたら通常業務もやりにくくなってしまう。
 彼女がこっそり溜め息をついたところで警備員室からのコールバックが鳴った。
「どうでした、蒲郡さん?」
「それが…院内のカメラの映像は全部見てみましたがどこにもいらっしゃいませんね」
「病院の外へ出られたんでしょうか」
「いえ、それはありません。念のため4階の廊下の映像を巻き戻してみましたが、土橋先生、5時過ぎに当直室に入られてから一度も出てきておられませんよ。お部屋の中にいらっしゃるはずです」
「そう…ですか。お手数おかけしました」
 玲子は通話を切る。そして今度は外線で11桁の電話番号をプッシュした。するとドアの向こうから軽快な着信音が聞こえてくる。
「電話…鳴ってますね」
 由香利が言う。
「土橋先生の携帯電話に掛けてるの。でも…出てくれないわ。寝ちゃってるのかしら」
 独り言のようにそう言うと、彼女はコールをやめる。そして先ほどより強い声とノックで「先生? 恩田です」と呼び掛けた。しかしそれでも応答はない。
「仕方ないわ。私が中を確認します。失礼があっちゃいけないから、あなたは少し下がっていてください」
「はい」
 トレイを持ったまま由香利は廊下を数歩後退。玲子は当直室の合鍵を取り出すとそれでロックを解除し中へ入った。
「先生、失礼します。どうかされまし…」
 言葉と足が止まる。左手にはバスルームとベッド、右手にはクローゼットとテレビ、そして奥にはノートパソコンが置かれたデスク。土橋幸一はその椅子からずり落ちた体制で床に倒れていた。右手を伸ばし、口からの流涎がカーペットを少し染め、こちらを向いた顔は苦悶したまま固まっている。その瞳には微塵の生気も感じられない。
「どうかされました?」
 立ち尽くしたままの総務課課長の肩越しに栄養士も室内を覗く。すぐに彼女の目にも当直医の死に顔は飛び込んできた。
「キャア!」
 彼女が悲鳴を上げると同時にトレイが手から落ちる。夕食は無残にも床に散らばった。
「恩田さん、土橋先生が…。きゅ、救急車を呼ばないと」
 そこではっとして玲子も答える。
「それは私が電話します。あなたは病棟へ行って看護師を連れてきて、応急処置をしてもらうから、ほら早く行って!」
「わかりました!」
 足元の食器を蹴散らしながら由香利は病棟へと走った。
 彼女が見えなくなってから玲子は改めて室内を観察する。倒れた土橋、画面の映ったパソコン、ピーと鳴り続ける受話器のはずれた電話、そして床に落ちている中身のこぼれた缶コーヒー。
 彼女は胸に手を当てた。激しく脈打つ心臓。必死に考える…今、自分がするべきことは…!

 エレベーターを待つのももどかしいので由香利は階段を駆け下りた。ジャンプする勢いで3階に着くとすぐさま病棟を見回し、ちょうど夕食の配膳を手伝っていた看護師の夏川久美(なつかわ・くみ)と目が合った。普段見慣れない栄養士のひどく慌てた様子に看護師は小首を傾げる。二人はアイコンタクトでそのままナースステーションに入った。
「お忙しいところすいません、実はその、あの、当直の先生が…その」
 由香利の説明は全く要領を得ない。年上でもある久美は彼女をなだめるように言った。
「落ち着いて大門さん。ほら、一回深呼吸して。
 …落ち着いた? じゃあゆっくり教えて。今夜の当直は土橋先生よね。先生がどうかしたの?」
「それが…」
 適当な言葉が見つからず彼女の瞳は激しく左右に揺れている。そしてなんとか「急病なんです!」と搾り出した。
「当直室で倒れてて、救急車は恩田さんが呼んでます。あの、看護師さんを連れてきてほしいと言われまして、その、応急処置を」
「わかったわ」
 ようやく事情を察して久美は頷く。そして土橋の容態を尋ねる質問をいくつか投げたが混乱する栄養士から有益な情報は得られそうにない。久美はもう一人の冶金看護師と素早く相談し、救急バッグを取った。
「私が行くわ大門さん」
 二人で病棟を駆け抜けてそのまま階段で4階へ。そして当直室に飛び込むと、倒れた土橋の傍らに玲子がぼんやりひざまづいていた。
「恩田さん!」
 久美が声を掛ける。彼女ははじかれたように振り返った。
「救急車は呼びましたか?」
「あ、はい、五分ほどで到着するそうです」
「わかりました。では応急処置を行ないますので」
 彼女をどかせて久美が床に片膝をつく。その視界に苦悶したまま固まった土橋の顔が飛び込んできたが、看護師はひるむことなく「土橋先生、わかりますか?」と呼び掛けた。反応は全くない。続いて頚部に手を触れて脈を確認。バッグから聴診器を取り出して心音と呼吸音を確認。さらにペンライトで瞳孔反射を確認した。玲子と由香利は黙って久美の動きを見ている。
 彼女は最後に手袋を装着すると少しだけ手と足にも触れた。そして小さく首を左右に振り、ゆっくりと立ち上がった。
「どうですか?」
 尋ねる玲子。遠くから救急車のサイレンが聞こえてくる。不安そうな二人の目が注がれる中、看護師は感情なく答えた。
「…処置なしです」