第五章① ~飯森唄美~

 空気は肌が切れそうなほど張り詰めている。静寂の中、壁の時計の音だけが耳の奥に障る。異次元に迷い込んだような、現実感の薄れた感覚。リアリティとファンタジーが、コーヒーにミルクを垂らしてスプーンを回したように混じり合う。
 しかし確かに告げられた…あの日私が会場にいなかったことは証明できると。そんなことが本当に可能なのか?私は口を閉ざしたまま相手の次の言葉を待った。
「証拠は…これです」
 カイカンはそう言って一本のペンを机の上に置いた。
「先日先生から頂いたボールペンです」
「はい、あの講演会の受付でもらった物です。でも、どういうことですか?これは私がちゃんと出席していた証拠なのでは?」
「フフフ、本来ならそうなのですが」
 そこでカイカンは今日初めて微笑んだ。
「先生、このボールペンにはお薬の名前が書いてあるんですよ」
「それが何か?製薬会社のボールペンですから、特に珍しいことではありません」
「月曜日に初めて私がここに来た時のことを思い出してください。確かあの時、先生が書かれた処方箋が受付のパソコンに入力できないってことがありましたよね?」
 脈絡がわからない。一体何の話をしてるんだ?私はできるだけ曖昧に「ええと、そうでしたっけ」と返す。何かの罠かもしれない、言葉には気を付けなくては。
「確か岩見沢さんという患者さんの処方箋です。峰さんが入力できず困ってらっしゃって、先生は結局別のお薬に変更されていました。…私、あの時待合にいたのでそのやりとりが聞こえていたんですよ」
 黙ったまま私は相手の意図を推し測る。しかし…わからない。
「どうしてあの時入力できなかったのか、先生おわかりですか?」
「よく憶えていませんが…まだ発売前だったんだと思います」
「いいえ、そうではありません。あの時先生が処方されたのはまさにこのボールペンに名前が書かれている薬です。先生が出席された講演会で、新しい睡眠薬として紹介されたメロディアス製薬の薬なんです」
 低い声の語調が強まる。そう、まさにそのとおりだ…薬の名前は『バイオスリープ』。月曜日に処方しようとしたらパソコンに入力できなかったあの薬だ。まだ発売されていなかったのだと思ったが…どういうことだ?
「先生、このボールペンに書いてある薬の名前、よく見てみてください」
 カイカンは右手の人差し指を立てたまま、ボールペンを左手に持ちこちらに示した。
「どうです、おわかりですか?」
 …言葉を失う。私はずっと勘違いをしていたようだ。カイカンは突然立てていた指をパチンと鳴らし、その音が狭い室内に響く。私の肩もびくんと震えた。
「そうなんです先生、薬の名前は『ヴァイオスリープ』なんです。ハに濁点の『バ』じゃなくてウに濁点の『ヴァ』なんですよ。
 いやあ、先生が勘違いされたのも無理はないですよ。普通、『ばいお』と音で聞いたらバイオテクノロジーの『バイオ』を想像しますからね。しかし、この薬の名前の由来は『ヴァイオリンにいざなわれたかのように心地良く眠れる』ということなんです。だから『ヴァイオスリープ』、メロディアス製薬の永島さんっていうMRに教わりました」
 カイカンは得意気に話し続ける。
「メロディアス製薬といえば、創設者が音楽好きで有名だそうですね。だから社内に楽団があったり、薬の名前も音楽にちなんでいたりする。
 …それに『永島』という名前も偶然ヒントになりました。同じ『ながしま』という音でも漢字の当て方は色々ありますからね。そんな時にこのお薬の名前を見て、もしかしたら先生は勘違いされていたんじゃないかと思い付いたんです」
 そこで刑事の表情から笑顔が消える。
「では先生…ここが重要なんですが、どうしてこんな勘違いが起こったのでしょうか?その答えこそが、あなたのアリバイを崩すことになるのです。
 あの日、午後6時から一時間ずつ三つの講演が行なわれました。ヴァイオスリープは二つ目の講演で紹介されたのです。その時スライドにははっきりと文字で薬の名前が表示されていたそうです」
 そこまで聞いて私はようやくカイカンの言わんとすることを理解した。…クソ、そういうことか!
「もう気付いておられますね?もしその時刻ちゃんと会場にいて講演を聴いていた、いや見ていたのなら薬の名前を間違えるはずがない。あなたは後からボイスレコーダーで音声のみを聴いた、だから薬の文字表記を勘違いしたんです。パソコンに入力できなかったのも、名前を間違えていたから当然です」
 カイカンはそこでクスッと笑い、「コンピューターってやつはその辺の融通が利かないから厄介ですよね」と付け加えた。そしてすぐに真顔に戻って言う。
「先生…これこそが二つ目の講演の間、あなたが会場にいなかった証拠なんですよ」
 すごい…素直にそう思う。
 些細なやりとりから薬の名前の勘違いを見抜き、そこから私のアリバイを崩す…とんでもない想像力だ。正直、精神科医としてその能力がうらやましくさえある。
 しかし…と、ここで冷静に考える。大丈夫、脈も落ち着いてきている。そう、カイカンの推理は確かにすごいが全ては推測の域を出ていない。
 心の中で深呼吸し、私は穏やかに反撃に出た。
「刑事さん…見事な想像力ですね」
「先生の不運は私にこのボールペンを渡してしまったこと、そしてそれまでボールペンを箱に入れたままにしておいたことです。一度でも開封して薬の名前を見ていれば、こんな勘違いは起こりませんでした」
「得意げなのは結構ですが、あなたが証拠だとおっしゃる勘違い…正直私には心当たりがありません」
 そう、カイカンの推理はあくまで私が勘違いをしていたという前提の上に築かれている。勘違いをいかにも事実のように話すことで、私に犯行は否認させても勘違いは無意識に認めさせようと導いているのだ。だが…実のところそもそも私が勘違いをしていたということが証明されていない。余計な言葉を挟まなくてよかった…私は何一つ認めていないのだから。
「フフフ、やっぱり先生は聡明な方だ。ここで『私は会場を抜け出していません』と反論してくれるほど甘くはないですね」
「解釈はご自由にどうぞ。ただ私が勘違いをしていたとおっしゃるならまずその根拠を説明してください。無理ですよね、心の中のことを証明するなんて」
「いいえ、それができるんですよ」
 カイカンはそう言い切る。そして一瞬不適な笑みを浮かべると、突然後ろのドアの方を向いた。
「いいよ、入って」
 そう言うとドアがゆっくり開き、一人の女性が入ってくる。それは…先ほど診察を終えて帰ったはずの患者・有田美月だった。
「刑事さん、これはどういうことですか?どうして有田さんが…」
「先生にはお詫びしなくてはいけません。実は彼女、私の部下のムーン巡査なんです」

 …何だって?
 思わず声が出そうになる。彼女が刑事?
「すいません、彼女が名乗った名前も住所も年齢も全て潜入捜査のための架空のものです」
 カイカンがそう言うと、有田…じゃなくてムーンなる女刑事は「失礼致しました」と頭を下げた。
 刑事…そうだったのか。今から思えば、彼女のまとうどこか凛とした空気や切れ長の瞳から放たれる眼光は警察官の厳しさを感じさせる。保険証を使用しなかったのも身元を隠すためだったわけだ。上司に「ムーン、例の物を」と指示され手際よく一枚の紙を取り出す仕草も極めて機敏で従順だ。きっと優秀な部下なのだろう。
 これがカイカンの部下…。刑事にしては美人過ぎる。カイカンとは真逆の理由で警察官には見えない。だからこそ潜入捜査に向いているとも言えるが。それにしても一体どんな気持ちでこの男の下で働いているのか。そんな場合ではないのについ彼女の心が気になってしまう。
「先生、このメモは…先ほどあなたが書かれた睡眠薬のリストです」
 紙を受け取り、カイカンはそこに書かれている私の文字を示した。
「ここにはハに濁点で『バイオスリープ』とあります。これでも勘違いしていなかったとおっしゃいますか?」
 再び訪れる沈黙。
 …完全に騙された。まさかカイカンがここまでの罠を張っていたなんて。途方もない敗北感が心を埋め尽くしていく。二人の刑事は無言のままこちらを見つめている。
「随分…卑怯な真似をなさるんですね」
 私はようやくそう言葉を搾り出す。それは正直な感想だった。
「申し訳ありません。お会いしているうちに、先生は相手の心を読み自分の心を抑え込める人だと思いました。正直、刑事にとっては強敵です。
 ですから、相手が刑事では絶対に隙を見せないと思いましてね。それで部下を潜り込ませることにしたんです」
 …落ち着け、落ち着くんだ。私はそう自分にくり返す。
「本来はあの日先生が書かれた処方箋やカルテを見せてもらえばよかったのですが…ほら、医療記録を修正する時は文字を二重線で消さなければならない。別の薬に書き直したとしても、変更前の薬の名前も必ず解読できるはずですから。
 しかしあなたには守秘義務という切り札がある。それに患者さんの記録を捜査に利用するのは望ましくない。ですから、ムーンに誘導してもらってあなたにもう一度薬の名前を書いてもらったんです」
 大丈夫…冷静になれ。これはカイカンの心理作戦だ。意外な事実を提示して私を動揺させ、精神的に優位に立とうとしているのだ。それにはまり込んではいけない。
 心に広がった敗北感にそっとメスを入れると、そこから理性が滲み出てきた。よし、私はまだまだ闘える!
「刑事さん」
 微笑んで口を開く。
「確かに有田さんのことは驚きました。薬の名前を勘違いしていたことも認めましょう。でも…それが何ですか?これで私が殺人犯になるんですか?」
 「ナルホド」と返すカイカン。女刑事はその後ろに立ち、刺すような視線をこちらに注いでいる。私は続けた。
「刑事さんが証明されたのは、私が講演会を抜け出したのかもしれないというただそのことだけです。私が佐藤さんの部屋に行ったという証明ではありませんよね?
 それに、そもそもどうして私が製薬会社のMRを殺害しなくちゃいけないんですか?動機がありませんよ」
「動機は…不倫です」
 躊躇なく低い声がそう告げた。…まさか、そこまで調べ上げたというのか?
「先生、おそらくあなたは不倫のことで佐藤さんに脅迫された。そう、先週の金曜日の面会の時です。口止め料を要求されたのではありませんか?だからそれどころじゃなくなって、いつもの夕食の店にも行かなかった。
 …そして一晩かけ、あなたは完全犯罪の計画を練り上げたのです」
「推測だわ!」
 思わず声を荒げてしまう。冷静でいなくてはいけないのだが、止まらない。
「勝手なことばかり言わないでください。私が脅迫された証拠がどこにあるっていうんです?失礼だわ!」
 …言った瞬間気付く。これでは不倫を暗に認めてしまったことになる。クソ、さっきは引っ掛からなかったのに。冷静になれ!
「ではどうして100万円を渡したのですか?」
 …ドクン!
 心臓が潰れるかと思った。カイカンは絶句した私を見つめたままポケットから一つの封筒を取り出す。ビニール袋に保管されたそれはあの日、まさしく私が佐藤に渡した封筒だ。犯行の後、どれだけ探しても見つからなかった封筒だ。どうしてそれが警察の手に…?
「これは…先生が佐藤さんに渡した物ですね?指紋が残っていましたから、照合すればはっきりすると思います」
 わからない…一体何がどうなってるんだ?
 狼狽する私に低い声は言った。
「それでは説明しましょう。あの日ムナカタグランドホテルで一体何が起こっていたのかを…あなたも知らない真実を」

 封筒を机に置くと、再び右手の人差し指を立ててカイカンは話し始めた。
「先生、あなたは講演会の前に一度佐藤さんの部屋を訪ねましたね。彼がその時刻を指定したのでしょう。その時にこの封筒を渡した。それで脅迫をやめてくれたら殺人を思い止まるつもりだったのかもしれませんね。
 …しかし彼はそんな人物ではなかった。あなたは殺害を決意し、アリバイを作るため2階の講演会の会場に向かった…これが午後6時。
 さて、実はこの後…あなたも知らないことが起こっていたのです」
 私は黙って相手の言葉に集中する。
「実は午後6時30分頃、一人の男性が佐藤さんを訪ねてきました。エレベーターで12階に来る姿が防犯カメラに写っていました。この男性の身元がなかなかわからなかったのですが…讃武会病院精神科の上田先生だと判明しました」
 …他の精神科医も佐藤を訪ねてきていた?何のために?
「昨日、上田先生にお会いして全てを伺いました。上田先生はあの日、佐藤さんからディベートを受け取ったそうです。その見返りとしてメロディアス製薬に便宜を図る約束で…」
 ディベート?まさか…!
「佐藤さんは営業成績の悪さに加え会社のお金を使い込みかなり窮地に立たされていました。たとえあなたからお金を脅し取ったとしても、それだけで状況が好転するわけじゃない。そこで、こんなことを考えたのでしょう。
 つまり、あなたを脅迫して手に入れたお金をディベートとして他のお医者さんに渡す。脅迫と買収で二人のお医者さんを利用すれば、営業成績を一気に伸ばせると。
 上田先生はお金に困っていて、つい佐藤さんの誘いに乗ってしまったとおっしゃっていました。しかし良心の呵責に耐えかねて、お金を使うことはできなかった。だからこうして封筒ごと手付かずで残っていたんです」
 佐藤がそんなことをしていたとは…あの薄ら笑いが浮かんでくる。まさかあの日、私以外にあいつを訪ねているドクターがいたなんて。
 カイカンはそこで少し優しい声になって言った。
「これで、佐藤さんのスケジュール帳にあったメモの謎も解けました。『I・U』はあなたのイニシャルではない。『飯森』と『上田』、二人のお医者さんに会うということだったんです」
 ああ、そういうことか。佐藤が100万円だけでも急いで渡せと言ってきたのは、そのためだったんだ。
「実は上田先生にたどり付けたのもあなたのおかげなんですよ。確か先生はおっしゃった。医者はたくさんの患者に優しさを注いでいるが、時として患者はそれを忘れてしまうことがあると。一人に気持ちが集中すると、相手が自分のためだけに存在しているように思ってしまうと。
 そこでふとひらめいたんです…佐藤さんが会った医者はあなた一人ではない、防犯カメラの男性も実は医者なのではないかと」
 …カイカンの言うとおりだ。私は佐藤に気持ちが集中し過ぎていたのかもしれない。彼への殺意に囚われて…MRは他のたくさんのドクターと取引しているという当たり前のことを忘れていた。
「そして、上田先生にお会いしたことで最後の謎も解けました」
 刑事はさらに語りを続ける。反論の言葉は出てこない。
「初めてここで先生にお会いした時、私は佐藤さんの死は病死なのではないかという話をしました。その時先生はこうおっしゃいました…『喫煙は心臓発作のリスクを高めますからね』と。どうして佐藤さんが喫煙者だと思ったんですか?」
 …確かにそんな話をした。どうしてだろう。私は最後の力を振り絞って答える。
「以前に彼がタバコを吸うところを見たのかしら」
「いいえ、それはありません。MRはお医者さんの前では絶対にタバコを吸わない…それが基本マナーだそうです。それにそもそも佐藤さんは喫煙者ではありません。それなのにどうしてあなたは勘違いをされたのか?」
 また勘違いか…。糾弾されているはずなのに、自分の思い込みを解きほぐされる感覚にはどこか心地良さがある。まるで精神療法を受けているようだ。
 どうして佐藤を喫煙者だと思ったのか…私はあの日の記憶を再生する。
 そうだ、確か二度目にあいつの部屋を訪れた時、タバコの臭いが。そうか…あの臭いは…。
「そうなんです」
 と、カイカンがこちらの胸中を察したように言う。
「先生が佐藤さんを殺害に行った時、そこにはタバコの匂いが残っていた。だからあなたは彼が喫煙したと勘違いしたんです。実際にタバコを吸ったのは、あなたが来る前に部屋を訪れていた上田先生だったんです。
 …上田先生はお金を受け取るわずかな時間も我慢できないヘビースモーカーでした。吸い殻は携帯用の灰皿で持ち帰られたそうですが臭いはすぐには消えません」
 そういうことか…。今から思えば佐藤を最初に訪ねた時は彼はワイシャツ姿だったのに、二度目に訪ねてスタンガンを当てた時はスーツ姿だった。気を遣う相手と部屋で会っていたからだと考えればそれも納得がいく。
 あの時に気が付いていればなあ…。やっぱりどんなに冷静なつもりでいても、いつもの自分じゃなかったってことか。…悪いことはできない。
 私はすっかり戦意を失くしてカイカンを見る。天才は穏やかに言った。
「先生、何が証明されたかおわかりですか?あなたがタバコの臭いを知っていたということは、上田先生が去った7時の直後にあの部屋を訪れたということです。その時刻はまさに佐藤さんの死亡推定時刻であり、講演会のアリバイが崩れた時刻です。
 計画では佐藤さんを殺害した後、封筒は回収するつもりだったのでしょうが…まさか別の人の手に渡っているとは思いませんよね」
 カイカンはそこで一息つき、「これでも犯行を否認されますか?」と問った。
「ハア…」
 思わず溜め息。続いて私はゆっくり深呼吸した。
 動機も明らかにされ、アリバイも崩され、犯行現場にいたことまで証明されてしまった。もちろんタバコの話なんかしていないと主張することもできるだろう。しかしそんな言った言わないの愚かな争いをカイカンとしたいとは思わない。
 …負けだ。心がそう認めている。
 私はもう一度深呼吸すると、覚悟を決めて言った。
「…完敗です、刑事さん。封筒の指紋を照合する必要はありません。全て…認めます」
「ありがとうございます」
 カイカンはどこか淋しそうに微笑むと、立てていた人差し指をゆっくりと下ろす。後ろの女刑事も少しだけ表情を緩めた。
 室内に穏やかな沈黙が降りてくる。
 この感覚…そう、患者と心が通じ合えた時のようなあの暖かさだ。いつも思っていた、精神科医の心は患者によって救われていると。相手を癒すことでこちらも癒され、こちらを癒したことで相手もまた癒される…そんな素敵なシーソーのリズム。刑事の仕事もそうだとは思わないが、私が罪を認めることで少しでもこの人を癒せるのなら…。
 アハハ、やっぱり私に犯罪者は向いていなかったな。
「長い一週間でした。あの時、必死になってその封筒を探したのに…見つからないわけですね」
 私は無理に笑ってそう言う。二人の刑事は愚かな女を黙って見つめていた…優しさの中にほんの少しの哀れみを灯した瞳で。

 …不思議な気持ちだ。
 犯罪計画は完全に打ち砕かれた。私はこれから多くの物を失うことになるだろう。それなのに…妙に落ち着いている。敗北感も喪失感も姿を見せない。どういう理屈でこんな気持ちになるのか、心ってのは本当に不思議だ。
 私はカイカンを見る。もう気を張って言葉を択ぶ必要はない。心のままに話をすればいいんだ。
「刑事さん…警察ってすごいんですね。この短期間で不倫のことまで調べ上げてしまうなんて。もう過去のことだし、私と相手しか知らないことなのに…」
「すいません、さっきのはハッタリなんです」
 カイカンはそう言って照れくさそうな顔をする。
「そんな二人しか知らない秘密をすぐに突き止められるほど、私は名刑事ではありません。正直、お相手がどこの誰なのかも見当つきません」
「え?じゃあどうして、脅迫のネタが不倫だと?」
「それはですね…」
 カイカンはそこでまた右手の人差し指を立てる。
「先生とお会いして、まずすごいなって思ったことがあるんですよ。あなたは私の言葉をけして否定されなかった。私がどんな話をしても、必ず第一声は『そうですね』と受け止めてくださった」
「特に意識していたつもりは…」
「フフフ、私は今までそんな人に会ったことがなかったんで随分驚いたんですよ。それで少しだけ勉強してみたんです、医学書を読みかじってね。そうしたらわかりました。
 精神療法の基本は『支持的受容的精神療法』だそうですね。まずは相手を支え受け止める、心の医療者の基本姿勢。きっとあなたは普段から無意識にそれを心掛けていらっしゃる」
 私は黙って聞く。今は何の不安も感じない。謎を解き明かしていくその言葉が心地良く響くだけだ。
「先生はいつもそうだった。でも一度だけそうではなかった時があったんです。
 ムーンは私の指示で有田と名乗り、夫に浮気された妻を演じていました。まあこれは私が適当に作った設定だったんですがね。
 先生は親身になってムーンが訴える苦しみを支持し受容してくれていました。しかし、彼女が夫の不倫相手の女性が許せないと言った時、あなたはこうおっしゃったんです…『人を好きになる気持ちは仕方がないですからね』と。憶えてますか?」
 確かにそんな会話があった。私は頷く。
「ほとんど無意識だったのかもしれません。でも先生のこの言葉は…支持的でも受容的でもありませんよね?むしろ不倫相手の女性を擁護してます。
 いつも患者さん側だったあなたの心が不倫相手側に動いてしまった。それは何故か?…と考えたわけです。心が動く時にはそこに真実があるはず、あなたが無意識に不倫相手を支持したということは…」
 カイカンはそこでまた立てていた指をパチンと鳴らす。先ほどより控えめにそれは響いた。
「お見事です」
 私は心からそう言った。感服だ…カイカンにも、そんな小さな情報をちゃんと伝えていた部下の女刑事にも。ふと見ると彼女も上司の推理に目を丸くしている。アハハ、この先輩じゃあ追いつくのが大変だね。
「刑事さんならきっとすごい精神科医になれますよ」
「いやいや。それよりも私も質問してよろしいですか?」
 カイカンは笑顔を弱めた。私もそうして「どうぞ」と返す。
「いつか先生にもお話した謎なんですけどね…『どうして犯人はこんな時間も手間もかかる方法を選択したのか』、これだけがまだよくわからないんです。
 先生はお医者さんです。薬物だって手に入る。脅迫なんてするからには佐藤さんが相当追い詰められていたことも先生ならわかっていたと思います。実際に自殺してもおかしくない状況だったと同僚の方もおっしゃってました。それなのにどうして、溺死を偽装するなんて方法を択ばれたのですか?」
「それは…」
 自分に確かめながら私はゆっくり答えた。
「それは…やっぱり、医者としての最後のプライドですかね。医学を…犯罪に利用したくなかったんです。それに、精神科医が自殺を偽装するわけにはいきません」
 カイカンは「ナルホド」と残念そうに呟いた。
 その場にはまた沈黙が広がる。壁の時計はもうすぐ午後7時を回ろうとしていた。

 …あ。
 少しずつ心に膨らんでくる感情がある。この感情の名前は…『悲しい』だ。涙腺もゆるみ始めている。気付けば私は立ち上がり、言葉が自然に漏れ出していた。
「ああ、どうしてこんなことになっちゃったんでしょうかね」
 座ったまま無言の視線を私に送るカイカン。涙と言葉が次々にこぼれ出す。まるで心が決壊したように、どんどん溢れてくる。
「だ、だって…不倫や浮気なんていっぱいあるじゃないですか。この世の中はそんなに綺麗じゃないですよね?汚いことなんてたくさんある」
 私は涙でグシャグシャのまま無理に笑う。
「アハハ、私…勉強と部活ばっかしてたから、まともに恋愛とかしたことなくて…。平気なつもりだったんですけど、やっぱり淋しかったんですかね?この歳になって…つい小さな誘惑に身を任せてしまった。
 そんな過ちなんてそこら中にあるのに、なんで私だけこんなことに…」
 情けないことを言っている、愚かなことを言っている…それはわかっている。でも、涙も言葉も止まらない。誰かに…支えてほしい、受け止めてほしい。自分の前で泣き崩れる患者たちを見ながら私はずっと心のどこかで思っていた…私も全ての弱さをさらけ出したい、こんなふうに泣いてみたいと。
「う、ううう…」
 嗚咽する私を見ながら、カイカンも腰を上げた。お願い…今だけは優しい言葉をかけて。
「先生…」
 しかしカイカンは今までで一番厳しい声で言った。
「でも、あなたは精神科医ですよね」
 言葉は診察室に響く。その迫力に私の涙が止まった。
「唄美先生…私は警察官としていくつもの悲劇を見てきました。そしてその悲劇のきっかけは…ほんの些細な悪意だったり、ほんのちょっとの裏切りだったりするんです。ほんの小さな過ちが誰かの人生を破壊し、心に一生消えない傷を残す。先生も、そんな犠牲者たちをここでたくさん見てこられたのではないですか?」
 一度言葉を止め、カイカンは最後にゆっくりと言った。
「確かに不倫や浮気なんて珍しくもないかもしれません。でも…その過ちがもたらすリスクを知っている人間は、気をつけなくてはいけないのではないでしょうか。
 …あなたの罪は重いと思いますよ」
 私は考える。
 そうだ、私はこの世の中の汚さに傷ついた人たちに何度も出会ってきたんじゃないか!何が医者のプライドだ、一番大切なことを…私は見失っていた。
 少しだけ別の涙が滲む。
 私はゆっくり白衣を脱ぎ、それを椅子に掛けた。
「…ごめんなさい」
 小さくそう言って両手を差し出す。するとその手にカイカンはそっとハンカチを握らせる。
「それでは…参りますか、唄美さん」
 そう言って彼は微笑み、黒い物体を口にくわえた。え、何?もしかして昆布?その後ろで女刑事が「車を回してきます」と駆けていった。ハンカチでグシャグシャの顔を拭きながら私が言う。
「あなたは厳しいのか優しいのか、リアリティなのかファンタジーなのか、それにその格好も…前髪も…昆布も、もうわけがわかりません」
「同感です」
 と、さらに微笑む変人。私も合わせて笑った。