第四章② ~飯森唄美~

 木曜日。昨日カイカンは一度も姿を見せなかった。当直先の病院まで押しかけてくるのではないかと覚悟していたがそれもなく、久しぶりに穏やかな一日だったように思う。今日の昼休憩にもカイカンは現れず…この静けさが逆に不気味に感じる。願わくばこのまま穏やかな日々が続いてくれたなら。

 午後5時45分。私はクリニックで本日最後の診療に当たっていた。患者は有田、一昨日初診した女性だ。彼女は変わらず夫の浮気を嘆いている。
「先生…色々考え過ぎてしまって、最近夜も眠れなくて、本当につらいんです」
「そうですか…あまりご自分を責めないでください」
「先生、何かぐっすり眠れるお薬はありませんか?」
「そうですね…」
 すがるような目の彼女に私は少し考えてから答える。
「確かに睡眠薬は色々あります。しかしあなたはまだお若いですし、睡眠薬には副作用だってあります。できれば…使わないにこしたことはありません」
 これは本心。もちろん薬物療法をしなければ回復できない病態もあるが、そうでないのなら精神療法に時間をかけてでも睡眠薬や安定剤を使わずに解決するのがベストだ。まあ現実的にはそんなことばかりしていては一日に対応できる患者数が減り、その結果病院経営は傾く。善良な医療をする病院ほど潰れてしまうという大いなる矛盾がこの国の医療制度には常につきまとう。
 わかっている、綺麗事だけでこの仕事はできない。それでも精神科医の安易な処方が薬から抜け出せない患者を生み出しているのは紛れもない事実。特にこんな未来のある患者を睡眠薬に頼らせるのは本当に忍びない。まあそんな製薬会社泣かせの医療をやってるから佐藤のような悪徳MRを敵に回したのかもしれないが。
「お薬以外の方法を…探しませんか?」
 薬の有害性を一通り説明して私はそう提案した。しかし彼女はなおも「先生ありがとうございます。でも、眠れないのが本当につらくて」とくり返した。
「そうですね…」
 言葉を止めあえて沈黙を作ると、数秒を置いて彼女は言った。
「わかりました。睡眠薬を使うかどうか自分なりにもう一度考えてみます」
「それがよろしいと思いますよ」
「先生、睡眠薬ってどんな種類があるのか教えて頂けませんか?自分でも調べてみたいんです」
「構いませんが…必要なら私が説明しますよ」
 そこで彼女は弱く微笑む。
「ありがとうございます。でも、自分なりに調べてみたいので…よく使われる薬の名前をメモして頂けませんか?」
 わかりました、と私も微笑みを返す。それで患者が納得できるのであれば反対する理由はない。机のメモ用紙を取り、有名な薬の名前を羅列していく。
 …そういえば、この前の月曜日にはまだ処方できなかった睡眠薬があったな。そう、『バイオスリープ』。そろそろ発売されたのだろうか?調べておかないといけないな。
 私は「もしかしたらまだ発売されていないかもしれませんが」と彼女に説明しながらその名前も記入する。
「ではこちらが、最初に使うには安全だと思われる睡眠薬のリストです」
 メモを受け取ると、彼女は簡単に目を通してから丁寧にそれを折りたたんだ。
「先生、色々とありがとうございました。調べてみますね」
「はい。ですが、インターネットとかの情報はあんまり鵜呑みにしないでくださいね。デタラメも多いですから」
 彼女は「はい」とどこか申し訳なさそうに頷く。そして少しだけ言葉を交わしてからゆっくり診察室を出ていった。壁の時計はちょうど午後6時、今日の仕事は終わった。
 大きく伸びをし、カルテを記載しているといつもどおり滝川が入ってくる。
「先生、今日はこれでおしまいです。お疲れ様でした」
「お疲れ様です滝川さん。有田さんに処方はありません。予約も本人にお任せします」
 書き終えたカルテを渡す。すると彼は「あの、先生…」と不安そうな顔で言った。
「また…あの刑事さんがいらっしゃってるんですが」
 …やはり来たか。大丈夫、まだ余力は十分ある。冷静に対処すればいい。
「では入ってもらってください。滝川さんと峰さんは上がっていいですよ」
 男性看護師は頭を下げて出ていく。しかし、入れ違いに入ってくるかと思っていたカイカンは姿を見せない。この静けさはやはり不気味だ。私は一度立ち上がり白衣の襟を正すと、深呼吸して腰を下ろした。
 …大丈夫、恐れることはない。さあ来い、来てみせろ!
 やがて弱いノックがしてドアがゆっくり開いた。そこにはボロボロのコートとハットの刑事が立っている。
「…よろしいですか?」
 今日のカイカンに笑顔はない。私も無理に微笑むことはせず、小さく「ええ、どうぞ」とだけ返した。「失礼します」と刑事は中に入り、後ろ手にドアを閉める。そして私の正面の椅子に座った。やはり…今日のカイカンには笑顔がない。
「刑事さん、今日はどのようなご用件でしょうか?」
 少しだけ明るい声でそう問いかける。それに対して低く揺るぎない声が言い切った。
「今日はあなたを逮捕しに来ました、唄美先生」

 カイカンは左目でじっと私を見つめている。脈が速くなる。
「冗談では…ないですよね?」
「はい、残念ながら」
 はっきりと言い切るカイカン。落ち着け…冷静に対応するんだ。
「どういうことでしょうか?」
「先週の土曜日、メロディアス製薬の佐藤さんを殺害したのはあなただということです」
 …ドクン!
 心臓が大きく脈打った。これまでも疑いの刃をちらつかせていたこの刑事が、ついに鞘を抜いた瞬間だった。抑えても膨らむ不安。氷のように冷たい緊張が全身に染み渡っていく。
 落ち着け、この勢いに負けてはいけない。闘うんだ!
 私が黙っていると、カイカンがまた口を開く。
「…お認めになりますか?」
「申し訳ありませんが否認致します」
 はっきりそう答える。大丈夫、一言一言に集中するんだ!
「刑事さん、私だって見えない物を解釈するのが仕事ですが…診断を確定するには細心の注意を払っています。全ての症状に矛盾がない診断を…」
「私も、全ての証拠に矛盾がないように確定診断したつもりです」
「想像力はちゃんとコントロールできているとおっしゃるんですね?」
「…はい」
「説明して頂けますか?」
 私は語気と眼光に厳しさを含ませてそう言った。カイカンはまた右手の人差し指を立てる。
「先生…あなたのとった行動はこうです。
 まず先週の土曜日、あなたはムナカタグランドホテルにいた。2階で行なわれたメロディアス製薬の講演会に午後6時の第二部から出席した。受付で名前を書き、会場に入る。一つ目の講演を聴いた後、7時のトイレ休憩を利用して会場を出る。そして佐藤さんの宿泊していた1215号室に向ったんです。
 移動には防犯カメラに写らないように非常階段を使いました。12階まで駆け上がるのは大変ですが、もと陸上部のあなたなら可能でしょう」
 机の下で震える膝を手で押さえながら、私は黙って聞く。
「1215号室に着いたら、先日ご説明したスタンガンを用いた方法で佐藤さんを気絶させ、浴槽で溺死させた。その後は再び非常階段を用いて2階まで駆け下り、8時のトイレ休憩を利用して会場に戻った。そして何事もなかったように三つ目の講演を聴いて帰宅した。
 …以上があなたの犯行です」
 脈がさらに速く、強くなる。落ち着け、確かに全てはカイカンの言うとおりだが…あくまで推測だ。
「刑事さん、私はちゃんと二つ目の講演も聴いていましたよ。会場を抜け出してなんかいません。なんなら講演の内容をご説明しましょうか?」
「たとえ会場にいなくても講演を聴くことは可能です。ボイスレコーダーを席に残しておけばいいんですから。帰宅した後でゆっくり録音を聴けばいい」
 敵も引き下がらない。だが私も立ち向かう。
「それはただの推測ですよ。私はちゃんと会場にいました。ボイスレコーダーを使ったなんて、根拠がなければ診断とは言えませんよ!」
 ついつい語調が強くなる。落ち着け、感情に囚われてはいけない。
 一瞬の沈黙の後、低い声が告げた。
「根拠はありますよ、先生。あなたが二つ目の講演の時にその場にいなかったことはちゃんと証明できるんです」
 その瞬間、長い前髪の奥でカイカンの右目が光ったような気がした。


★読者への挑戦状

 ここまでのご拝読ありがとうございました。次章において、カイカンが飯森唄美の犯行を証明します。彼女が講演会の会場にいなかったこと、そして犯行現場にいたことを証明する根拠はこれまでのやりとりの中に全て示されています。
 彼女はどこでしくじっていたのか、ぜひご一考頂いた上で解決編をお楽しみ頂けたら幸甚です。

福場将太