第四章① ~ムーン~

 水曜日、午後2時。警視庁6階のいつもの部屋。昨日は昼と夜と一日に二度も飯森医師に会いに行った警部だったが今日は朝から自分のデスクに座りっぱなし。ずっと立てた右手の人差し指をクルクル長い前髪に巻き付けている。…考え事をする時の癖だ。
「警部…よろしいですか?」
 沈黙に耐えかねて私は口を開く。
「警部はやはり彼女を疑っておられるのですか?」
「…そうだね」
 返されたのは素っ気無い返事。
「確かに警部が彼女を疑う根拠にはある程度の説得力を感じますが…」
 彼女が『佐藤』という名前を聞いて患者の佐藤茂子よりも被害者の佐藤利雄を思い浮かべたこと、被害者の携帯電話のスケジュール帳に『I・U』のメモがあったこと、被害者と面会した先週金曜日にいつもの店に行かなかったこと、そして事件当日あのホテルにいたこと…どれも疑わしい。しかしどれも状況証拠に過ぎない。彼女の言うように全てたまたまの偶然として説明がついてしまうものばかりだ。
 たとえばいつもの店に行かなかったというのは、疲れていたからという説明で全く不自然ではない。ホテルにいたというのも、講演会出席というちゃんとした理由がある。メモのイニシャルにしても、通常はファーストネームを先に書くのでウタミ・イイモリで『U・I』の方が自然だ。そして『佐藤』と聞いて患者よりMRを思い浮かべたというのも…それこそたまたまと言われたらそれ以上追及はできない。
「状況証拠をいくら積み上げても決定打にはならない。君の言いたいことはわかるよ」
 そう呟いた低い声はあまり納得していない様子だ。
「それでも警部は彼女を疑われるのですか?」
「そうだね。実はもう一つ引っ掛かってることがあるんだ」
「何です?」
「う~ん、でもなあ…」
 警部はまた黙り込んでしまう。私は手帳を確認しながら言葉を続けた。
「彼女には講演会の会場にいたというアリバイがあります。講演会第二部は午後6時から9時まで、佐藤さんの死亡推定時刻は7時から8時の間ですから…犯人だとすれば途中で抜け出したことになります。しかし会場にいなかった証拠も、佐藤さんの部屋にいた証拠もありません」
「会場にはたくさんの人がいたんだ。唄美先生一人が席を外してもそれが誰かの印象に残るとは考え難い。まあ講演の最中に出入りすればさすがに目立つだろうけど、休憩時間なら大勢の人が出入りするからそれに紛れられる。
 第二部は一時間ずつ三つの講演があって、その合間の7時と8時にトイレ休憩があった。一回目の休憩で会場を出て犯行を済ませて二回目の休憩でまた会場に戻ったんだ。これなら死亡推定時刻ともぴったり合う」
 …確かにそうだが。警部はそこで「そうだとすると、先生は二つ目の講演は聴いていないはずだ」と付け加えた。私は黙って頷く。
「でも先生は講演の内容は三つとも憶えてるとおっしゃってた。もちろんボイスレコーダーを席に置いておけば、後で録音を聴くことは可能だろうけど…」
「彼女がそうしたと証明するのは難しいですよね」
 私の言葉に警部は力なく「そのとおり」。
「警部、私には動機もわからないんです。医者が製薬会社のMRを殺害する理由は何でしょうか?被害者との間に個人的な関係があったという情報もありませんし…」
 警部には申し訳ないが、飯森医師への疑惑は推測の域を出ていない。彼女を犯人として逮捕するためには、会場にいたというアリバイを崩し、なおかつ現場にいたことを証明し、動機も明らかにしなくてはならない。現状では…それはとても難しいことに思える。
「あ~わからない。ダメだダメだ!」
 警部が背伸びをしてそう言った。
「こういう時はもう一度最初から整理するのが一番!『迷ったら経過を見直せ』ってやつだ」
「私が板書しましょうか?」
 壁際に置かれたホワイトボードを見ながら問う。
「いや、この事件は自分でまとめたいんだ。ムーン、白い紙ちょうだい」
 私は自分のデスクから適当な紙を取って差し出された手に渡す。
「ありがとう。ええと、まずは事件当日の土曜日。第一発見者は…」
 そう言いながら取り出したボールペンを紙に当てる警部。しかし…ペンは止まったままだ。
「ムーン、ナガシマさんってどういう漢字だっけ?長野県の『長』?」
「いいえ、永遠の『永』です。シマは広島県の『島』です」
「そっか。ナガシマって色々あるから難しいよね、フフフ」
 警部は少し笑って視線を落としたが…やはりペンは動かない。まだ漢字がわからないのだろうか?
「どうかされましたか?」
 よく見ると警部は右手に握ったペンを見つめたまま完全に固まっていた。ビデオで静止ボタンを押したようにピクリとも動かない。まさかこのパターンは…?いや、間違いない。この人の動きが突然停止した時は頭脳が恐ろしいスピードで回転している時なのだ。今、警部の思考回路におびただしい量の電流が流れているに違いない。
 でも一体何がきっかけに?警部が握っているのは確か飯森医師にもらったボールペンだ。講演会の受付で参加者に配られた物でメロディアス製薬の社名や薬の製品名が入っている。特段珍しい物ではないと思うが…。
 室内には壁の時計の音だけが聞こえる。私は黙って待つしかなかった。
「ムーン!」
 その時が来た。突然そう叫んで警部が立ち上がる。それこそ今度はビデオが倍速再生されたように早口で会話が再開された。まったくこの人は…。
「急いで車を出してほしい。もう一度メロディアス製薬の永島さんに会いに行くんだ」
 質問したいことは山ほどあったがこうなってしまうともうこちらは従うしかない。了解しました、と私は部屋を飛び出す。
 …わかんないなあ、いつもながら。

 午後3時、メロディアス製薬支社の駐車場で外回りから戻ってきた永島を捕まえての事情聴取が始まった。
「刑事さん、こんな場所でどうしました?」
「お忙しいところすいません、至急確認したいことがありまして」
 相手の困惑など気にも留めず、警部はさっそく「このボールペンはあの日の講演会で配られたものですよね?」と本題に入った。永島はその勢いに圧倒されながらも、警部の右手に握られたそれをじっくり確認してから答える。
「はい、間違いありません。出席されたドクターにお渡しした物です」
「このボールペンに書いてあるのは、お薬の名前ですね?」
「はい、弊社が新発売した睡眠薬です」
 私は黙ってやりとりを見守る。警部は何を確認しようとしているのか?
「永島さん、この薬の話題は講演会の中でも出てきましたか?」
「え~っとですね…はい、確かに出てきました。第二部の二つ目の講演の中で、不眠症の新しい治療薬として紹介されました」
「フフフ…そうですか」
 警部は満足そうに笑う。そして私にはやっぱりわけがわからない。
「ついでにこのお薬の名前の由来を教えて頂いてもよろしいですか?」
「由来ですか、もちろん構いませんよ。昨日もご説明したように弊社は音楽というものをイメージに用いておりまして…」
 MRの営業トークが始まった。警部は嬉しそうに聞いているが…それが事件と何か関係あるのだろうか。それともまた個人的興味か?
「…ありがとうございました。大変参考になりました」
 永島の説明が終わると、警部はボールペンをポケットにしまってそう言った。
「刑事さん、それよりどうなんですか?佐藤のことは…」
 不安そうに訊く永島。警部は私の方を見ながら答えた。
「大丈夫です、みなさんのご協力のおかげで真相は解明されつつあります。それで、あなたにもう一つ確認してほしい物がありまして」
 こちらに右手が伸ばされる。私は例の物を手渡した。そう、それはホテルの防犯カメラをプリントアウトした写真。写っているのは結局身元がわからなかったミスターX。
 ここに来るまでの車中、飯森医師とのやりとりを振り返っていた警部は「もしかしたら…」とまた何かを思い付き、私に写真の用意を命じた。聞き込みに使用した物がポケットに入っていたのでそれは造作なかったのだが、この場でこれがどう役立つのだろう。
「あなたならご存じかもしれないと思いまして。永島さん、この写真の男性に心当たりはありませんか?」
 写真を示して尋ねる警部。どういうことだ?防犯カメラの映像は小西や他のホテルスタッフにも見てもらった。あの日12階に宿泊していた客たちにも見せて確認した。しかし誰もミスターXの正体を知る者はいなかった。それなのに…それをどうして永島が知っているというのか?
 二人の刑事が見守る中、彼は写真をまたじっくり見つめるとはっきり答えた。
「はい、知っています」
 私は思わず「えっ」と声を出してしまう。
「やっぱり…ではこの人は誰ですか?」
 警部はさらに嬉しそうに言い、私はさらにわけがわからない。
「はい、この方はドクターです。讃武会病院の精神科の…上田先生です。前に何度か面会させて頂いたことがあるので間違いないと思います」
 …精神科医?まったくもって意外だったが、警部は予想していたかのように「本当にありがとうございました、これで全て繋がりそうです」と言って微笑むと、こちらに向き直る。
「ムーン、いよいよ大詰めだ。行こう、上田先生の所へ!」

 讃武会病院へと走る車中、正面に広がる天高い秋の空はほのかに夕暮れの色を帯びてきている。しばらくは無言でハンドルを握っていた私だったが、どうしても気になって助手席に尋ねた。
「一体何がどうなっているんですか?私にはさっぱり…」
「フフフ…」
 またおしゃぶり昆布をくわえ、それを口元で動かしながら不気味に笑う変人上司。そしてゆっくりと右手の人差し指が立てられた。
「いいかいムーン?私の推理が正しければ、上田先生がきっと重要な証言をしてくれるはずだ」
「私にはその上田先生がわかりません。どうしてあの日ホテルにいたのか、事件とどう関わっているのか全く見当がつきません」
 もしかしたら警部には、ミスターXの正体が医者だとわかっていたのだろうか?そのことを尋ねると「まあね」と得意気な声が返される。悔しい気持ちを抑えてどうしてわかったのかを訊いてみたが…警部はそれには答えない。代わりにくわえていた昆布をタバコのように指に挟んだ。
「おそらく上田先生は…ヘビースモーカーだ」
 …この人の頭の中はどうなっているのだろう。一体何がどこでどう繋がってそういう結論に達するんだ?それに、それって事件に関係あるの?あ~もうわけわかんない!
 私が黙ってしまったからか、警部はまた昆布をくわえると少し優しい口調で言った。
「そう仏頂面しなさんなって。わからないかいムーン?じゃあヒントだ。
 まず①睡眠薬の名前、②MRのマナー、③精神科医の癖、④上田先生が現場にいた理由、そして⑤は唄美先生がうっかり口にした『犯人しか知り獲ない事実』…。
 これらを組み合わせて一本のストーリーを導き出すんだ。あの日ムナカタグランドホテルで一体何が起こっていたのかを。そうすれば真相にたどり着けるよ。わかるかい?フフフ…」
 そこで警部は昆布を勢い良く飲み込んだ。

 …わかるわけないじゃん!