第三章② ~ムーン~

 火曜日、午後2時。警部と私はメロディアス製薬の支社を訪れた。2階の応接室に通され、ソファで永島が来るのを待つ。大きめの窓から秋の弱い陽光が差し込む十六畳ほどの部屋。窓辺には観葉植物、棚の上にはヴァイオリンやコントラバスといった楽器のミニチュア模型が並んでいる。
「ねえムーン、防犯カメラに写っていたミスターXの身元はわかった?」
 沈黙していた警部が突然口を開いた。
「すいません、まだわかりません。当日12階に宿泊していた客には全員確認しましたが、誰も知らないんです」
 上司は「そう…」とだけ呟きまた黙ってしまう。そういえば昼に訪ねたあの女医はどうだったのだろう…アカシアメンタルクリニックの飯森院長。警部からはドライヤーとUSBメモリーを根拠に佐藤の死は殺人だという推理を聞かされた。警部の推理力はいつもながらすごいが、仮にこれが本当に事件だとして犯人はその女医なのだろうか?
 確かに飯森は佐藤と面識がありあの日あのホテルにいた。しかし他にも多くの医者がそこにはいたわけだし、週末で宿泊客もたくさんいた。警部が飯森に特別に目を付けているのなら、何か疑う理由があるはずだ。
「あの…」
 そのことを質問しようとした時、正面のドアがノックされた。そしてスーツに身を包んだ永島が姿を見せる。手には三人分の飲み物を乗せたトレイ。
「お待たせしてすいません」
 彼は警部と私にコーヒーを振舞うと、最後に自分のカップを持って対面のソファに腰を下ろした。その身のこなしには普段から接遇に慣れていることが伺われる。
「こちらこそお忙しいのにすいません」
 と、警部が会釈。
「いえいえ、佐藤のためですから…協力できることがありましたら何でもおっしゃってください」
 先日と異なり彼の口調は快活だった。数日が経過し、ようやく友人の死を受け入れ始めているのだろう。まあ警部の風貌に慣れた、というのもあるかもしれないが。
「それでは永島さん、さっそくですが…」
 警部がコーヒーに口をつけながら始める。
「MRというのはどんな人がなるんですか?向き不向きがありそうなお仕事だと思うのですが」
 まずは世間話からスタート。相手もコーヒーを一口飲んでから答える。
「確かにたくさんのドクターに会って薬のプレゼンや営業をするわけですから、ストレスの多い仕事です。向き不向きは大きいですね。でも、製薬会社に就職した人間のほとんどは最初MRをやらされます。そのままずっとやる人間もいれば、いずれ経営とかの部署に移る人間もいます」
「ナルホド」
「私も佐藤も入社以来ずっとMRです。最初の頃はなかなかドクターとうまく会話ができなくて…よく先輩に怒られましたよ。度胸をつける訓練だとか言われて路上で歌わされたり、道行く女の子をナンパさせられたりもしましたね」
 私の中でちょっとだけ不快感が着火。警部は「大変ですね」と微笑む。確かに医者を回って営業なんて、私にはとても無理だろうな。
「しかも営業成績がしっかり出てしまいますから、その意味でもストレスが多いです」
 永島はそう言ってまたカップを口に運ぶ。逆に警部はカップを机に置き、コートからいつもの物を取り出して口にくわえた。
「あのすいません、社内は禁煙なんです」
 慌てて止められる…が、この変人がくわえているのはタバコではない。
「すいません、これ、おしゃぶり昆布なんです。どうもこれだけはやめられなくて…」
「あ、そうですか。どうも」
 と、戸惑う永島…そりゃそうだ。しかし、当の本人は気にせず会話を続ける。
「やっぱり製薬会社さんってのは禁煙なんですね」
「ええ、この仕事はイメージが命ですから社員も禁煙を指導されています。特にMRは病院を回る仕事ですから、気を付けなくてはいけません。
 たとえ喫煙者であってもドクターの前で吸わないことはもちろん、衣服にもタバコの臭いが残らないように細心の注意を払うのがMRの基本マナーですよ」
 その他にもいくつかの心得を挙げ、自分も入社してすぐタバコをやめたと永島は語った。「ちなみに佐藤さんはタバコは吸われましたか?」
 警部が昆布をくわえたまま訊く。
「いえ、あいつはもともと吸っていなかったと思います」
「ナルホド」
 警部はそこで昆布をポケットに戻すと、少し座り直してから言った。
「ところで永島さん、先日佐藤さんについてお伺いした時あなたは確かこうおっしゃいました…『できるMRなら一日に数十人のドクターと面会してます』と。佐藤さんと比較して『できる』とおっしゃられたということは、佐藤さんは…あまり成績が良くなかったのでしょうか?」
 その質問に永島はすぐには答えなかった。彼は表情から微笑みを消すと視線を落とし、口にするべきかどうか逡巡しているようだった。沈黙が流れる。私は「秘密は厳守します」と告げた。すると彼は私を一瞥してカップを机に置き、ゆっくり言葉を始めた。
「佐藤は…確かにここのところ成績不良でした。MRとしての基本はちゃんとしてるんですけど、どうも時々強引なところがあるみたいで。それで、一部のドクターからは出入り禁止を喰らってました。それに…」
 警部も私も黙って次の言葉を待つ。彼は声を小さくして続けた。
「それに会社のお金を使い込んでるって噂もあって…。もしそうだとしたら相当追い詰められていたと思います。実は講演会の後一緒に飲みに行こうと誘ったのも…そのことで相談に乗ろうと思ったからなんです」
「…そうでしたか」
 優しく言う警部。
「だからあいつを浴槽で発見した時、自殺したんじゃないかってすぐに思いました」
 その光景を思い出したのだろう、永島は手で両眼を覆って言葉を止めた。また室内に沈黙が訪れる。
 …営業成績不良に会社の金の使い込みか。これらの情報は確かに自殺を連想させる。しかし佐藤は浴槽で溺死していたのだ。遺体に毒物や睡眠薬を飲んだ痕跡はなかったし、あの状況でさすがに自殺は有り得ない。
「刑事さん、佐藤はどうしてあんなことになったんですか?」
 そう沈黙を破ったのは永島だった。警部が静かに答える。
「まだ…はっきりとはわかりません。しかし解明したいと思ってます」
「よろしくお願いします」
 永島はそこで深々と頭を下げた。

 その後またたわいもない会話をし、徐々に永島にも明るさが戻ってくる。全員のコーヒーもなくなった頃に警部が終了切り出した。
「いやあすいません、すっかりのんびりしてしまって、そろそろ失礼します」
「いえいえ、いつでもまた来てください」
 警部が立ち上がるのに合わせて永島も腰を上げる。私も続いた。
「あ、永島さん、ついでに質問させてください」
 警部が右手の人差し指を立てて言う。
「はい、何でしょうか?」
「個人的な興味なんですけどね、さっきから気になってたんですよ。棚の上に置いてある楽器のミニチュア、何か理由があるのですか?実はこの応接室に来るまでの間にも社内でいくつか見かけたもので」
「さすがは刑事さん」
 永島はそう言うと少し嬉しそうに説明した。どうやらこれは会社を紹介する際のお決まりのトークネタらしい。
 それによれば創設者である初代社長がクラシック音楽の愛好家であり、メロディアス製薬という社名もそこに由来している。発売する薬も音楽用語をもじった名前が多く、そんな雰囲気を出すために社内にも楽器のオブジェが置かれているというわけだ。社員で結成されたアマチュア楽団もあり、定期演奏会までしているらしい。
「そうですか、それは良いですね」
 と、警部も微笑む。クラシックではないかもしれないがこの人も音楽が好きなようで、時々イヤホンで何か聴いているのを見かける。
 永島は棚の上の楽器のミニチュアに視線を送ると少し懐かしそうに言った。
「私と佐藤も入社当時、ヴァイオリンを練習させられましたよ…結局まともに弾けませんでしたけど」
「素晴らしいじゃないですか」
 警部はとても満足そうにそう言い、もう一度お礼を言うとドアに向かって歩き出す。まあミニチュア模型の謎は解けたが…肝心な事件の方はまださっぱりだ。それとも警部はここでの会話の中で何かヒントを掴んだのだろうか?
「それでは永島さん、また何かあったらお伺いしますので」
 そう言って上司は部屋を出ていく。私も会釈して後を追った。そして廊下を少し進んだ辺りで尋ねてみる。
「警部、永島さんとのお話で…何かヒントを掴まれましたか?」
「まあね。でもヒントと言うよりはまた新しい謎が見つかった感じだよ」
「謎、ですか」
 わけがわからない。まあこれもいつものことだが。そんな私の胸中など気にする様子もなく、警部は言った。
「そこでムーン、君にもうひと仕事頼みたい」