第三章① ~飯森唄美~

 火曜日正午。午前最後の患者の診療が終わった。私は処方箋とカルテの記載を済ませると立ち上がって大きく伸びをする。間もなくノックがして滝川が入ってきた。
「先生お疲れ様でした、午前はこれでおしまいです」
「お疲れ様です。じゃあお昼休みに入ってください」
 私から処方箋とカルテを受け取ると、男性看護師は少し声を落として言った。
「あの、昨日もいらっしゃった刑事さんが先生に会いに来てるんですが」
 …カイカンか。確かにまた話をしに来ていいかと言っていたが…さっそくだな。
 内心の不安を悟られないように「そう、じゃあ入ってもらってください」と返す。滝川は「わかりました」と退室し、私が再び着席したところであの低い声が現れる。
「いやあ、すいません先生。お疲れのところ申し訳ありませんが、どうしても確認したいことがありまして」
 その風貌は昨夜と変わらずボロボロのコートにハット。私は「構いませんよ、どうぞ」と微笑んで椅子を勧める。カイカンは「失礼します」と腰を下ろすとこちらの顔を見た。長い前髪が相変わらず不気味だが…表情そのものは柔らかい。
「貴重なお昼休みにすいません、どうしても先生のご意見をお伺いしたくて」
「ええ、いいですよ。どのようなことでしょうか?」
 また少し脈が速くなるのがわかる。…大丈夫、落ち着け。
「昨日お話したドライヤーとUSBメモリーの謎、憶えていらっしゃいますか?」
 カイカンはそう切り出した。もちろん忘れるわけがない、私が見落としたこの犯罪計画のほころびなのだから。しかし私は思い出すような口ぶりを演じる。
「ええ、憶えています。確か…ドライヤーのコードに佐藤さんの指紋がなかったんですよね?あとUSBメモリーが何故か壊れていた」
「そのとおりです。その謎に私なりに答えを出してみたんですが…」
 刑事はそこでまた右手の人差し指を立てる…どうやら話をする時の癖らしい。私は頷いて先を促した。
「突拍子もない推理ですがね…佐藤さんの溺死を事故だとするとどうしてもこの謎の答えは出ないんです。しかし、事件だと考えると説明は可能なんです」
「事件…」
 脈がさらに速くなる。落ち着け、今はとにかく聞くしかない。
「はい、つまり殺人事件です。もしこれが入浴中の溺死を偽装した殺人だとすると犯人のとった行動はこうなります。犯人はまずスタンガンを使って佐藤さんを気絶させる。そして衣服を脱がして浴槽に運ぶ。最後にお湯を溜めて溺死させる…」
 前髪に隠れていない左目が真っ直ぐこちらを見ている。言葉が出てこない…私は今どんな顔をしているのだろう。
「つまり先生、USBメモリーはスタンガンの電流で壊れたんですよ。ちょうど胸ポケットに入っていましたからね、犯人がそこにスタンガンを押し当ててしまったのでしょう。
 そしてドライヤーですが、これも犯人が使用したのです。うっかり濡らしてしまった被害者の服か自分の服を乾かすために。犯人は当然手袋をしていたでしょうから、それでコードに指紋が残らなかったんです」
 …なんてことだ。この刑事は全てを見抜いている。あの夜私がとった行動を見ていたかのように言ってのけた。これがプロの刑事の推理力というものなのか?まるで超能力だ。緊張が再び全身に染み渡っていく。
「そうですね、確かに筋は通りますね」
「これが私の答えです。どうですか、先生?」
「そうですね、ええと…」
 一体何を質問しているのだろうか。私が戸惑っているのを察したのかカイカンは続けた。
「私が先生にお伺いしたいのは、今お話したような犯罪計画が成立するのかどうかということです。…どう思われますか?お医者さんとして教えて頂ければ助かります」
 つまり医学的な検証、ということか。少し緊張が和らぐ。しかし完全にほぐれたわけでもない。昨日も感じたことだが…会ったばかりの私にこんな話をするのはやはり不自然ではないか?
「…そうですね」
 私は慎重に口を開く。そう、客観的な意見を述べればいいんだ。
「おそらく…可能だとは思います。ただ、体力はもちろんですがかなりの精神力が必要でしょうね」
「ナルホド」
「犯罪心理学は専門ではありませんが、もし刑事さんのおっしゃるとおりだとしますと、この計画にはいくつかの段階がありますよね。部屋を訪ねる時、スタンガンを当てる時、浴槽に運ぶ時、そしてお湯がいっぱいになるまで溜める時…。このどこかで引き返すことができれば殺人は達成されません」
 自分で言っていて妙な気分だ。少なくとも私の殺意はあの時立ち止まらなかったのだから。
「さすが精神科の先生らしいご意見ですね。精神力ですか…」
 感心したふうに頷く刑事。まだ人差し指は立てたままだ。ここであえて尋ねてみる。
「あの、刑事さんはどう思われてるんですか?その計画は可能だと?」
「私…ですか。確かに体力も精神力も必要な犯罪だと思います。それに…手間も時間も。気絶させて服を脱がせて浴槽に運んでお湯が溜まるまで待つなんて…手間も時間もかかり過ぎる。
 …不謹慎な言い方ですが、もっと効率的でリスクの少ない方法はいくらでもあるような気がします。これはけして衝動的な犯行ではありません。これほどの計画を立てた犯人だけに、何故こんな方法を選択したのか…先生はどう思われますか?」
 再び質問されて私は言葉に窮する。答えられない…答えられるわけがない。
「すいません、私にはわかりません」
 頭を下げると、カイカンは立てていた指を下ろし穏やかに言った。
「こちらこそすいません先生、無茶な質問ばかりしてしまって。謎に対して答えを出したらまた新たな謎が生まれる…。答えが間違っているのかもしれませんし、新しい謎にもまた答えが出せるのかもしれません。もう一度ゆっくり考えてみますね」
「お役に立てなくて…」
「そんなそんな、こうやってお話してもらえるだけで助かってます」
 今度は相手が頭を下げる。
 …わからない、この人だけは。一体どこに本心があるのだろうか?
 一瞬の間をおいて、カイカンが顔を上げて言った。
「ところで先生は佐藤さんとは親しかったのですか?」

 突然の質問に落ち着きかけていた脈がまた速くなる。やはり油断してはいけない。相手は隙を作ってこちらに斬り込もうとしている。どれだけ用心してもし過ぎることはない。
「そうですね…何度かお会いしてますが特に親しいということはありませんよ。仕事上MRとはたくさん知り合いますが、誰とも個人的なお付き合いはしていませんので」
 これは本当のこと。調べられても嘘はない。しかし、私の返答にカイカンは怪訝な顔をする。そして独り言のように「だとしたら…やっぱり不思議だなあ」と呟いた。…何だ?
「あの、刑事さん…何か?」
「すいません先生、また考え過ぎかもしれませんがちょっと引っ掛かってしまって」
 カイカンはそこで座り直してから言葉を続けた。
「先生は確か昨日おっしゃいましたよね、仕事柄警察に会ったことは今までにもあると」
「ええ、そのとおりですが」
「それはどのような場合ですか?」
「ええと、まあ大抵は通院されている患者さんについての問い合わせですね。患者さんが事故や事件に関わられた際に診療情報の提供を求められます」
「たとえば患者さんが何らかのトラブルを起こした場合などですか?」
「ええ、そういうこともありますが…大抵は逆です。精神疾患を抱えておられる方は加害者より被害者になってしまうことが多いんです。それに、加害者になった場合も犯罪と病気に因果関係があるとは限りません」
 つい語気が強くなる。この国の精神疾患に対する偏見には心底うんざりさせられている。特にひどいのはマスコミだ。精神科の患者が事件を起こしたらまるで病気が原因であったかのような報道をするが、それは糖尿病と犯罪を結び付けるくらい的外れで誤った短絡思考に他ならない。私の口は気付けばそんなことを語っていた。
「…わかっています先生、実際に健常者の方が圧倒的に犯罪率が高いですからね。患者さんだから危ないなんて馬鹿げた先入観は捜査でも禁物です」
 この刑事、どうやら正しい理解をしてくれているらしい。それはよかったが…肝心な話が見えてこない。カイカンは私の言葉の何が引っ掛かるというのか。話題はすぐにそこに戻った。
「実は昨日受付の峰さんに先週の予約表を見せてもらったんですが…あ、これはお話しましたよね。その予約表を見てたら、先週金曜日に『佐藤茂子』という患者さんが受診されていました。もちろん亡くなった佐藤さんとは何の関係もありません、佐藤というのはよくある名前ですから。
 先生、憶えてますか?昨日お会いした時、私は最初に『金曜日にここに来た佐藤さんのことをお伺いしたい』と言ったんです。そうしたら先生は…MRの佐藤利雄さんの話をされました」
 気が付けばカイカンの顔から笑顔は消えている。先ほどあんなに穏やかに感じた声が今は厳しく冷たい。緩和と緊張、室内の空気はこの刑事に完全に支配されている。
 …失敗した。先ほどカイカンが「不思議だなあ」と呟いた時、それを無視するべきだった。わざと聞こえるように独り言を言ったり、わざと口を滑らせたり…そんなの相手から質問させるための常套手段じゃないか。そんな小手先の技法に惑わされる私ではないはずなのに。落ち着け、とにかく落ち着くんだ。
「先生が今おっしゃったように警察がお医者さんに問い合わせるのは大抵患者さんのことです。それなのにどうして先生は『佐藤さん』と聞いて患者ではなくとっさにMRの佐藤さんを思い浮かべたのでしょうか?特別親しかったわけでもないのに」
 なんてことだ、私は最初の最初でしくじっていたのか!確かにいつもの自分なら『佐藤』と聞けばまず患者を想像しただろう。カイカンはその不自然さに気付きながらこれまでそれに触れずにいたというのか?
 …落ち着け、そう簡単に支柱を揺さぶられる私ではないはずだ。
 心の中で深呼吸し、少し切り口を変えて言葉を放つ。
「刑事さんってやっぱりすごいですね…正直びっくりしました。まさか最初の会話で引っ掛かりを感じていらっしゃったなんて」
 カイカンは黙っている。私は続けた。
「もしかしたら精神科医と刑事さんの仕事は似ているのかもしれませんね。相手の言葉を聞きながら、傾向や矛盾を見つけ出してその裏にある心理を読んでいく…。まあ、悪い癖ですが」
 低い声はそこで「同感です」とだけ言った。しかしその左目はこちらの返答を待っている。私は高鳴る鼓動を悟られないようにできるだけ明るく返した。
「ですが、先ほどのご質問には…たまたまとお答えするしかありませんね。確かに不自然かもしれませんが、どうしてあの時佐藤茂子さんを思い浮かべなかったのか…私にもわかりません。
 …アハハ、指紋が着かないのには論理的な理由が必要でしょうけど、心が思い付かないのには理屈じゃ説明できない場合もあります。これじゃ説明になりませんか?」
 苦しい理屈だがこれくらいしか言えない。犯人だからつい自分が殺した佐藤を考えてしまいましたなんて…言えるはずがない。
 診察室には沈黙が流れた。
「そうですね…たまたまですね」
 やがて刑事は穏やかな声で沈黙を払う。私はもう一度「すいません」と伝えるがそれには反応せず、さらに次の質問が告げられた。
「ところで先生は先週の土曜日、ムナカタグランドホテルの講演会に行かれたんですよね?」
「はい、第二部だけですが」
「第二部は確か午後6時から9時まででしたね。実は佐藤さんの死亡推定時刻は7時から8時までと判明しました…ちょうど講演会の最中です」
 そこで一呼吸がおかれ、厳しい声が言った。
「先生は講演会の間…ずっと会場にいらっしゃいましたか?」

 …これは今までで一番核心を突いた質問だ。私を疑っていなければするはずのない質問。予想はしていたがはっきり言われると想像以上にダメージが大きい。脈がさらに速く、そして強くなる。膨らんだ不安がまるでポンプのように全身に緊張を行き渡らせている。
 私は逮捕されるのかもしれない…初めてその恐怖に机の下で膝が震えた。
「刑事さん…私を疑っていらっしゃるんですか?」
「申し訳ありません。ですが、どんな可能性も疑わなくてはいけないのが私の仕事なんです。…お答え頂けますか?」
 真剣な眼差しだ。私は視線を逸らさずゆっくりと告げた。
「わかりました、お答えします。私はずっと会場で講演を聴いていました…間違いありません」
「講演は一時間ずつ三つあったとお聞きしましたが、三つとも内容を憶えていますか?」
「はい。最初のは記憶障害、真ん中のは睡眠障害、最後のは気分障害の講演だったと思います。詳しい内容もお話した方がよろしいですか?」
 その場にいなかった二つ目の講演も含めてもちろんボイスレコーダーで確認済みだ。大丈夫、こんな時のためにアリバイを作っておいたんじゃないか!
「いえ、そこまでは結構です」
 カイカンは急に微笑んでそう言った。もっと糾弾されるかと思って身構えていた分やや表紙抜けだったが、私も合わせて微笑んでみせる。
「刑事さん…私のアリバイは成立ですか?」
 冗談めかしてそう言うと、カイカンも笑って答える。
「はい、バッチリです。本当は目撃者もいれば完璧なんですが…まあ会場には何百人もの人がいたわけですからね、この際それはよしとしましょう」
「ありがとうございます」
 そこでカイカンはゆっくり立ち上がった。
「先生、不愉快な思いをさせてしまってすいません。先生がずっと講演会の会場にいらっしゃったのなら犯人であるはずがありません」
 やや含みのある言い方ではあったが、「いえいえ」と答えながら私も腰を上げる。
「刑事さん、少しびっくりしましたけど…プロの仕事というものを拝見させて頂きました。どんな可能性も想像しなくてはならない…それは私も同じですから。それにコードとUSBの謎に対するアセスメントもすごいと思いました」
「アセスメント?」
「あ、すいません。アセスメントというのは私たちの業界でよく用いる言葉で…相手や物事を評価して理解することなんです。一番近い日本語は…『解釈』ですかね」
「ナルホド、勉強になります。こちらの業界でいうところの『推理』みたいなもんですかね」
「そうですね」
 何故だか少し嬉しくなる私の心。
「刑事さんの推理には本当に驚きました」
「そう言って頂けると救われます。さすが先生ですね。あの…またお話に来てもよいですか?」
 正直もう来てほしくないが…そうもいかない。それに心のどこかで期待している私もいる。
「ええ、構いませんよ。ただ、診療時間を避けて頂ければ」
「わかりました。先生、ちなみに明日もここで勤務ですか?」
 水曜日は別の病院で非常勤をし、そのまま夜も当直することを教える。カイカンは「それはお疲れ様です」とコートから手帳を取り出した。
「忘れないように書いておきますね。え~と、あれ?」
 どうやらペンが見つからないらしい。まったく…まさかこれもコロンボ警部に憧れてわざとやっているわけではあるまいな。
 …そこで私はふと思い出す。
「刑事さん、ちょっとお待ちください」
 机の横のバッグを探る。確かここに…あった!そう、あの時にもらったボールペン。まだ箱に入ったままのそれを「どうぞ」と差し出すと、カイカンは嬉しそうな顔で「よろしいんですか」と受け取った。
「ええ、あの講演会の受付でもらった物ですが。そうだ、目撃者の代わりにこれで証拠になりますか?」
 私がまた冗談めかして言うと、刑事は箱から取り出したボールペンを手帳に走らせながら「まいったなあ…もう勘弁してくださいよ」と答える。先ほど私を追い詰めていた時とは別人のようにお茶目な言動。…何だかなあ。
「ええと先生、水曜日は他の病院ですね。では、木曜日は…」
「午前中は往診に出ていますが、午後にはまたここで診療してます」
 書き込むのに合わせながら私は続ける。
「金曜日は一日ここで診療してます。そして診療の後…」
「MRさんと面会、ですよね?」
 また少し含みを持たせてそう言われる。私はあまり反応しないように「ええ」とだけ返す。
 メモを終えるとカイカンは手帳とペンをコートにしまう。
「先生…私はいつも考えるんですよ。名刑事とはどんな刑事を言うのだろうと。それこそ小さな痕跡から無限に推理を広げる想像力の持ち主なのだろうかと」
 別れ際の世間話だろうか。しかしそれは以前に私も考えたことであった。優秀な精神科医とははたしてどういうものだろうかと。
「確かに想像力は必要ですが、もっと重要な能力があると思うんです。先生、それが何だかわかりますか?」
 驚いた。この人は私と同じことを考えているのだ。共感とは意図的に行なうものではなく自然に生じる現象である、という学生時代の精神科の教科書の一文が浮かんだ。そう、まさに今心には共感が生じている。
「わかりますよ刑事さん。想像力をコントロールする力ですね?リアリティだけではいけない、かといってファンタジーになり過ぎてもいけない。二つの狭間で想像力が暴走しないようにちゃんと手綱を操る能力」
「…そのとおりです」
 カイカンは噛み締めるように言うと、明るく「貴重なお昼休みにありがとうございました」とそのまま診察室を出ていった。
 残された私は考える。カイカンはどう思っているのだろう?先ほど私を疑ったのは想像力の暴走だと思っているのか、それとも正しく想像力をコントロールできていると思っているのか。
 …愚問だな。そんなのわかりきってる。自信がなければ人間を見定める仕事なんてできるはずがない…たとえそれが思い込みの自信だったとしても。
 カイカンは私を疑っている。事故ではなく事件だと見抜いたあの刑事は、少なからず私を殺人犯だと疑っている。

 壁の時計は0時40分。脈と震えはいつしか落ち着いていたが、とても昼食は喉を通りそうになかった。