第二章② ~ムーン~

 月曜日、午後9時。私は新宿の外れにあるあの店に向かって車を走らせていた。7時頃から降り始めた雨は少しずつ強まりながら都会のネオンを滲ませている。
 いつもの場所に車を停め、雨を避けて足早に店内に入る。本来であれば「いらっしゃいませ」の言葉に迎えられるところであるが、事情を知っている店員は私を見ると微笑んで「こんばんは刑事さん。いつもの席にいらっしゃいますよ」とだけ言った。私は軽く会釈し店の奥に進む…と、隅にある席で警部がカレーを食べていた。一口食べるごとに苦しそうな顔をして水を口に運んでいる。
 そんなに苦しいんなら激辛カレーなんて食べなきゃいいのに…といつも思うが、まあ今更そんなツッコミを入れても仕方がない。そう、店の名は『キーヤンカレー』、この変人上司の御用達である。ディナータイムはアルコールも提供しているようでカウンターには常連らしき客たちが楽しそうに肩を寄せていたが、警部のいる辺りは幸いがらんとしている。これなら操作の話もできそうだ。
「警部、お疲れ様です。また激辛ですか?」
「やあムーン、お疲れ様。君も食べるかい?」
「いえ、8時以降に重たい物は食べないことにしていますので」
 そう答えながら向かいの席に腰を下ろす。
「相変わらず厳しいね、君は。それで、何かわかったかい?」
 警部はカレーを口に運んでそう尋ねた。手帳を開いてから私は報告を始める。
 まず佐藤の死亡推定時刻について。解剖の結果、土曜日の午後7時から8時の間と断定された。これは7時以降電話着信もメール受信も全て無視されていた事実とも一致する。
 次に第一発見者の二人のアリバイについて。佐藤の同僚である永島はその時刻確かにスタッフとして講演会の会場にいたことが確認された。またホテルスタッフの小西も他の従業員と一緒に仕事をしていたことが確認。つまりこの二人にはアリバイがある。死亡推定時刻に1215号室で佐藤の溺死を偽装することは不可能だ。
 そこまで伝えると警部は小声で「そう…」とだけ呟いた。それ以上言葉がないのを確認してから私は報告を続ける。
 ホテルの防犯カメラの映像について。12階のエレベーターホールの映像をチェックしたところ、午後5時過ぎに講演会の仕事を終えた佐藤が戻ってきた姿が写っていた。その後も遺体が発見された11時までの間に複数の人間がエレベーターに乗り降りしていたが、小西によるとそのほとんどは12階に宿泊していた客あるいはホテルの従業員であった。
「…ほとんど?」
 そこで警部のスプーンが止まる。私は少しトーンを落として続けた。
「はい。カメラの映像の中に一人だけ…宿泊客でも従業員でもない人物が写っていました。四十代くらいの男性です。午後6時半にエレベーターで12階に来ました。もちろん映像はエレベーターホールだけですから、この男性が佐藤さんの部屋に行ったとは限りませんが…」
「となると、もしこれが殺人事件だとしたら…その男性が容疑者かな?」
 警部はスプーンを置き、座り直してからそう言った。私は自分の見解を述べる。
「いえ…この男性が何者かはわかりませんが、佐藤さんの死とは無関係だと思います。というのも、この男性は6時50分にはまたエレベーターに乗って1階に下りていくのがカメラに写っていましたので。1階のカメラも確認しましたが、男性はそのままホテルを出ていきました」
「ナルホド、佐藤さんは7時に飲み屋に予約の電話をかけていたんだったね。つまりその時点では確かに生きていたわけで、この男性が7時前にホテルを去ったのなら犯人では有り得ない」
「はい。この男性は12階に宿泊していた別の客に用事があったのかもしれません。今、当日の宿泊客に問い合わせて男性が会いにこなかったか確認しているところです」
「そう…」
 警部はまたそう呟くと、右手の人差し指を立てて黙ってしまう。私も改めてこの事件を考える。
 …事件、そもそもこれは事件なのか?状況的には一見単純な入浴中の溺死事故に思える。しかし、警部に言われて調べた結果いくつかの疑問点が見つかった。ドライヤーのコードになかった指紋とUSBメモリーの損傷…これらは一体何を意味しているのか?
 結局警部は立てていた指を戻し、スプーンを握ると再びカレーを食べ始めた。私は尋ねてみる。
「そういえば警部、どうでしたか?今日会いに行かれた飯森先生は」
「うん、なかなかの美人だったよ」
 この人は冗談なのか本気なのか時々こういうことを言う。
「いえ、そういうことではなくてですね」
「そうだね…ちょっと気になる」
「ですから警部、そういう話では…」
 呆れて言った私に警部は「ムーン、そういう意味じゃなくてね」と水を飲んでから続けた。
「考え過ぎかもしれないけど、彼女の言動には…不自然な点があった」
「…疑っていらっしゃるんですか?」
 警部はまた黙々と食べる。そして、完食してから答えた。
「まだ確信はないけど…明日もう一度アカシアメンタルクリニックに行ってみるよ」
「私もご一緒しますか?」
「…いや、それよりも君は防犯カメラに写っていたミスターXの身元を引き続き当たってみて」
「わかりました」
 そのことを手帳にメモする。美人の先生に一人で会いに行きたいのか?…なんて邪推も浮かぶが、まあ言うまい。
「あとムーン、明日もう一度永島さんに会いに行きたいからアポを取っておいて」
「了解しました。他にもご指示はありますか?」
「今のところないよ」
 メモを終えると私は手帳をポケットにしまい立ち上がる。
「警部、私はこれで失礼しますが送っていきますか?」
「いや、大丈夫。私は食後の一服を楽しんでから帰るよ。…お疲れ様」
「では、お疲れ様です」
 まあこの人の一服というのはおしゃぶり昆布のことなのだが。私は足早にその場を離れ、店員にお礼を言って外に出た。雨脚はまた少し強まった気がする。

 …飯森唄美。
 警部が不自然だとマークしたその女医は果たして犯人なのだろうか?