第二章① ~飯森唄美~

 月曜日。あれから二日経ったが警察からは何の問い合わせもなく、ニュースでも報道されている様子はない。無事に事故として処理されたのならよいが…。クリニックでいつもどおり診療に当たりながら、私の心は時折そんなことを考えていた。

 午後5時半、本日最後の患者が診察室に入ってくる。「先生、またよろしくお願いします」と体面に座った彼の名は岩見沢…大学の若き研究者だ。
「お久しぶりですね、岩見沢さん。本日はどうされました?」
 「先生、また研究が行き詰ってしまいまして…それで少し寝つけないんです」
 これまでにもこの患者はストレスを溜め込んでは不眠を訴えていた。
「そうですか…大学に残って研究をするというのは大変なんでしょうね」
「ええ。それで先生、また睡眠薬を処方して頂きたいのです」
 声と表情から患者の疲労が伝わってくる。私は「そうですね、本当は睡眠薬に頼るのは良くないのですが」と返しながら過去のカルテを確認する。今までにも同様の症状に対して、私は弱い睡眠薬を処方していた。
「先生、それはわかっているのですが…どうしても眠れないとつらくて。また弱いお薬でよいですから」
 そういえば…私はふと思い出して提案する。
「岩見沢さん、最近新しい睡眠薬が出たんですよ。確か今週から薬局にも置いてあるはずです。弱くて安全性も高いお薬ですから、それを試されますか?」
「はい、ありがとうございます。できるだけ頼らないようにしますので…」
 彼は頭を下げる。この真面目な性格が美点でもあり、そして同時にストレスを溜め込んでしまう患者の生きにくさでもある。私は「そうしてくださいね」と微笑むと、処方箋に記入しながら薬の説明をする。
「それでは…バイオスリープという睡眠薬を寝る前に1錠、10回分だけ処方しておきますね。もし翌朝に不快感などあれば飲むのをやめてください」
「ありがとうございます、助かります」
 また礼を言って頭を下げる岩見沢。
 その後は近況などを伺いながら会話をするのがいつもの流れ。冗談や一般論を挟んで雰囲気をコントロールしつつ、相手の言葉を支持したり受容したりしてストレスを解放していく。これが私の精神療法。
 …正直、この精神療法がどれだけ患者の心を元気にできているのかはわからない。実はなんの効果もないことで私の自己満足かもしれない。ただそれでも、精神科医の仕事が薬を調整することだけだなんて思いたくない。確かに薬の処方は医師免許を持つ者にしかできない。それに引きかえ会話をすることは誰にでもできる。だからついドクターは薬物療法の技術で腕を競いたがる、存在価値を守りたがる。はたして精神科医もそれでよいのだろうか?
 まったく…もう十年以上もこの仕事をしているくせに、未だにこんなことでモヤモヤしている自分が嫌になる。

 午後6時、岩見沢は最後にもう一度礼を言って診察室を出ていった。これで今日の予約はおしまい…私はカルテを記載すると椅子から立ち上がり大きく伸びをする。そこでドアがノックされ、看護師の滝川が入ってきた。私より少し年上で大柄な彼は、手にした予約表を確認しながらいつもの穏やかな声で言う。
「先生、本日の外来は以上です。お疲れ様でした」
「滝川さんこそお疲れ様です」
 カルテと処方箋を手渡す。そして一緒に診察室を出た。処方箋は彼の手から受付の峰事務員に渡る。彼女はまだ二十代、最初こそその若さに不安もあったが今ではもうすっかりクリニックの顔になってくれている。受け取った処方箋を成れた手つきでパソコンに打ち込んでいく…が、そこで彼女の指が止まった。
「あれ?おかしいな…」
 そう呟いた彼女に近寄り「どうかしたの?」と尋ねる。
「あ、先生すいません。先生が書かれたお薬なんですが…入力できないんです。新しいお薬ですか?」
 今や医療事務もデジタルの時代。まだ承認されていない薬や間違った量をドクターが処方箋に書いてしまっても、コンピューターがちゃんと指摘してくれる。
「確かに新しい薬だけど…もう発売されてるはずよ」
 そう答えながら改めて考えると自分の記憶に自信がない。特にここ数日は…とてもいつもの精神状態だったとは言えない。
「ごめんね峰さん、多分私の記憶違いだわ。ちょっと待ってて」
 私は待合の椅子で会計を待っていた岩見沢に歩み寄って声をかける。彼は相変わらずの真面目さで「はい、何でしょう」と背筋を伸ばした。
「先ほどご説明したバイオスリープという睡眠薬なんですが、すいません、まだ発売されていないようなんです。変更してもよろしいですか?」
「構いませんよ」
 彼は快く了解してくれた。しかしその瞬間、数列後ろの席に異様な人物が座っていることに私は気付いた。
 …室内だというのにツバの大きなハットとロングコートを着込み、長い前髪は右目を隠している。明らかにクリニックの雰囲気から浮き上がったその人物は、腕組みして床に視線を落としていた。ハットと前髪のせいで表情はよくわからない。
 一体何なんだ、この人…?確かもう予約の患者はいなかったはず。
「あの、それで先生…お薬はどうなりますか?」
 思わず気を取られていた私に岩見沢が不安そうに声をかける。
「あ、すいません。それでお薬なんですけどね…」
 慌てて視線を戻す。そうだ、ひとまずこちらを解決しなければ。以前にも処方したヨーネレルという睡眠薬を提案すると、岩見沢はそれでよいと言ってくれた。私は受付に戻ると処方箋の『バイオスリープ』を二重線で消して『ヨーネレル』に訂正する。滝川からもカルテを受け取りそちらの記載も訂正した。
「じゃあごめん峰さん、こっちの薬でお願い」
「わかりました」
 彼女はもう一度パソコンに入力する…今度は問題なさそうだ。そこで私は小声で尋ねる。
「ところで待合の奥に座ってる人は…何なの?」
 答えたのは滝川だった。
「あ、先生ごめんなさい。あの人は刑事さんです。お伝えするのを忘れていました」
 背筋が凍る。…刑事?あれが?
「刑事さん、そうなの…刑事さんがどうして?」
 できるだけ平静を装って言う。今度は峰が答えた。
「何か先生にお伺いしたいことがあるとかで…一時間ほど前にいらっしゃったんです。先生は診察中でしたので、そうお伝えしたら終わるまで待つとおっしゃって」
「それにしても、ちょっと不思議な格好ですよね」
 怪訝そうに付け加える滝川。私も少し無理に笑って「そうですね」。
 やがて岩見沢が会計を済ませ玄関を出る。私は滝川と峰にも帰ってよいと伝え、二人がスタッフルームに消えてから再び待合に戻った。刑事だというその男は先ほどと同じ姿勢のまま床を見つめている。
「あの…警察の方ですか?お待たせ致しました」
 そう声をかけると男は顔を上げ、慌てた様子で立ち上がった。
「あ、飯森唄美先生ですね。突然すいません。あの、私、警視庁のカイカンという者です。少し先生にお伺いしたいことがありまして」
 …よく通る低い声。私は瞬間的に洋画の吹き替えを連想した。それに…カイカンというのも不思議な名前だ。どういう漢字を当てるのだろう。いつもの見慣れたクリニックに佇む謎の刑事…その絵に私は改めて奇妙さを感じる。
 まあしかし、その言葉遣いから少なくとも常識的な礼節を持った人物であることはわかる。私は会話を続けた。
「こちらこそお待たせしてすいません。ではどうぞ」
 先ほどの診察室に促す。彼は私の後ろについて入室した。
 …刑事、いよいよ来たか。落ち着け、まだ何をしに来たかはわからない。落ち着いて対応すれば大丈夫だ。自分にそうくり返しながらいつもの椅子に座る。

 壁の時計はもうすぐ6時半。
「どうぞ刑事さん、お座りください」
 カイカンは丸い机を挟んで私の対面に腰を下ろした。そう、位置関係としては診察の時と同じになる。
「いやあ、突然押しかけてしまってすいません」
 愛想のよい笑顔が向けられる。こちらも「いえいえ、構いませんよ」と微笑みを返す。
「先生、突然刑事なんかがやって来てびっくりさせてしまったのでは?」
「そうですね…でも大丈夫ですよ。仕事柄、何度か警察の方にお会いしたことはありますので」
 びっくりしたといえばむしろその風貌だ。改めて観察するとやはり異様極まりない。
 ハットとコートの生地はくたびれ果て、おまけに所々破れている。かなりの年季物だが…この服装に何か意味があるのだろうか?右目を隠す長い前髪も…正直不気味だ。
 顔の感じから年齢はおそらく私と同じ三十代…しかし見方によってはそれより上にも下にも思える。まるで心理学の本に出てくる騙し絵だ。今までにもこの診察室で何百人もの人間に出会ってきたが…これほどまでに何も掴めなかったのは初めてだ。間食がないというかあり過ぎるというか…どこから手を着けてよいのかわからない感覚。
「それで…どういったご用件でしょうか?」
 ひとまずそう切り出す。
「ええ、実は先生にお伺いしたいことというのはですね…」
 よく通る声が室内に響く。ただ低いだけではなく不思議な波長を帯びた声…普通の言葉なのに、何か意味があるように感じさせられてしまう。私は次の言葉に集中した。しかしカイカンは急にキョロキョロ周囲を見回し始める。
「それにしても良いクリニックですね。何かこう、柔らかい感じがして」
「あ、ありがとうございます」
 突然の話題転換に一瞬戸惑うが、私は合わせて答えた。
「ここは心を癒すクリニックですから…できるだけ患者さんにリラックスして頂ける雰囲気を意識してます」
「ナルホド…それにしても唄美先生はすごいですね。その若さでクリニックの院長先生だなんて」
 唄美先生、と下の名前で呼ばれまた戸惑う。カイカンは特に意識した感じでもなく、子供のようにはしゃいでいた。私はとにかく返答する。
「ありがとうございます、でもそんなに若いわけでもないですよ」
「そうですか?アカシアメンタルクリニックという名前も良いですよね。先生がお付けになったんですか?」
 また突然の話題転換。
「実は私、二代目院長なんですよ。もともとは別の先生が開院されたんですけど、その先生が体調を崩されて…それでご縁あって私が三年前に引き継いだんです」
 刑事は興味津々に頷いている。私は続けるしかない。アカシアメンタルクリニックと命名したのも初代院長であること、由来はその初代院長がアカシア大学出身だったからであることを説明した。するとカイカンは嬉しそうな顔をする。
「アカシア大学ですか。いやあ、確か広島県にある大学ですよね。母校愛が強いことで有名な…ナルホド」
 この人の「ナルホド」には独特のイントネーションがあるな。いや、そんなことはどうでもいい。一体何の話をしてるんだ、私たちは?
 一瞬の沈黙が流れる。私はそれをきっかけに話題を戻した。
「それで刑事さん…私にご用件というのは」
「あ、すいません。ついつい話しが逸れちゃって」
「それは構いませんが…」
 カイカンは「実はお話しというのはですね…」と少し座り直してから言った。
「佐藤さんについてお伺いしたいのです。確か先週の金曜日にここにいらっしゃったと思うのですが」
 気付けばその顔から微笑みは消えていた。自分の脈が速くなるのがわかる。…落ち着け、大丈夫だ。冷静に対処すればいい。
「ええ…いらっしゃいましたよ。毎週金曜日は診察の後、MRとの面会タイムにしていますので」
 そう答えると、カイカンは左目を細めて小さく「そうですか」と呟いた。平静を装ったまま私は続ける。
「あの、佐藤さんがどうかされたのですか?」
「実は…お亡くなりになりましてね」
 カイカンは私の目を見ながら言った。脈がさらに速くなる。…大丈夫、いつものように話せばいいだけだ。
「亡くなられた?そんな…一体どうなさったのですか?」
「土曜日の夜です。宿泊しておられたムナカタグランドホテルのお部屋の浴槽で…溺死されました」
 …自分でやったことなのに、それがまるで他人事のように聞こえた。心の防衛機構が働いているのかもしれない。
「溺死…ということは事故、ですか?」
「まだはっきりしていませんでしてね、それで先生の所に来たんです」
「…どういうことですか?」
 これは本心からの質問だった。何故カイカンは私を訪ねてきたのか…私と佐藤がどこで繋がったんだ?
「実はですね…」
 刑事はそこで少し表情を緩めた。
「いやあ、製薬会社のMRさんというのは大変ですね。佐藤さんの携帯電話のスケジュール帳を確認したんですが、何月何日にどの病院のどのお医者さんに会いに行くのか、その予定がビッチリ書かれていました。でもそのおかげで佐藤さんが最後に面会したのがあなただとわかりました。
 そこで先生にお伺いしたいのですが、その時佐藤さんに変わった様子はありませんでしたか?」
「そうですね、変わった様子ですか…」
 私はそれだけ言ってまた黙る。今はあまり自分から積極的に話すべきではないだろう…相手の意図がわかるまでは。予想どおり、こちらが答えないのでカイカンが続けた。
「ええとですね、お伺いしたいのは、たとえばその時佐藤さんが体調が悪そうだったとか…病気の徴候がなかったかとかそういうことです」
 …そうか、そういうことか。警察は溺死の原因を探しているのだ。確かにもともと体調不良であったとすれば溺死の裏付けになりうる。しかし…あの面会を思い出しても浮かんでくるのは佐藤の憎らしい薄ら笑いだけ。ここは妙な嘘はつかない方が無難だろう。
「申し訳ありません…特に何も気が付きませんでした。私は体よりも心が専門ですし…それに診察として佐藤さんに会ったわけでもありませんので」
「そうですか、ありがとうございます。いやあ、大の大人が風呂で溺死、というのがどうも気になりましてね」
「そうですね…確かに普通にお風呂に入っていて溺れるというのは珍しいですよね」
 まあ本当はスタンガンで気絶していたわけだが…。私は「もしかして飲酒されていたとか?」と訊いてみる。
「いえ、遺体からアルコールは検出されていません」
「心臓発作などの可能性はないのでしょうか…喫煙はリスクを高めますから」
「解剖の結果、それもなさそうです」
 刑事は残念そうに答えた。まあ、よくよく考えればそのくらいのことは警察がとっくに調べているだろう。私は「お力になれずにすいません」と頭を下げる。
「お気になさらないでください。それに、先生にお伺いしたいことは他にもあるんです」
「何でしょうか?」
「佐藤さんが亡くなられた土曜日、そのホテルでは学術講演会が行なわれていたんです。主催は佐藤さんの勤めるメロディアス製薬…先生はご存知でしたか?」
 一瞬迷ったが、これにも素直に答えた方がよいだろう。
「はい、知っています。私も出席していましたから」
「ですよね、参加者の記帳に先生のお名前もありましたから」
 カイカンはさらりとそう言った。落ち着いてきていた脈がまた速くなる。…まさかもうそこまで確認していたなんて。やはり下手な嘘は禁物だ。そんなこちらの警戒心などお構いなしに低い声は話を続けた。
「もしかして講演会の参加は、佐藤さんからのお誘いですか?」
「そうです。金曜日の面会の時に案内状をもらいました。それで…せっかくなので出席してみようかと。精神科領域の講演でしたし」
「そうですか…」
 刑事はそこで少しだけ言葉を止めたが、すぐにまた話し始める。
「佐藤さんの携帯電話を調べたんです。スケジュール帳なんですけどね、土曜日の欄には確かに講演会の予定がメモされていました。それは問題ないのですが、わからないのはその後のメモでして」
 心臓が止まる。携帯電話のスケジュール帳なんて考えてもいなかった。
 …まさかあの男はそこに私からお金を受け取る予定までメモしていたというのか?もしそうであれば、さすがに言い逃れが難しいぞ!
 全身を染み渡っていく緊張。それをどうにか抑え込みながら私は次の言葉を待った。数秒の間を置いて、それは告げられた。
「アルファベットで『I・U』とだけ書いてあったんです。これは一体どういう意味なのでしょうか?」
 何も言えない。言えるわけがない。どう考えてもそれは私のイニシャルだ。佐藤は講演会の後、部屋で私と会う予定をメモしていたのだろう。くそ、こんな所に落とし穴があったなんて…。またあの薄ら笑いが浮かんでくる。だが、幸いにしてただのイニシャルだ。私と断定するものではない。いくらでも反論の余地はある!
 私は心の中で深呼吸し、カイカンを見た。見事だ…その顔からは微塵の感情も読み取らせない。
「すいません…私にはわかりません」
 それ以上は言わず口を閉じた。言葉というものは積めば積むほど全体が脆くなってしまう。語るは禁、黙るは金だ。するとカイカンは少し微笑みを浮かべた。
「そうですよね。実は私もさっぱりなんです。いやあ、困っちゃったな、何かの専門用語か業界養護かと思って色々調べたんですけどそれらしいのがなくて…。誰かのイニシャルかとも思って、講演会の参加者名簿からホテルの宿泊名簿まで確認したんですけどね…それも空振りで」
 カイカンの口調は同情を求めるかのようにだんだんと砕けてくる。
「せっかくの日曜日もそれで終わっちゃったンですよ。まったくもう…これが『U・I』だったらウタミ・イイモリで先生にビンゴだったんですけどね」
 なんてハラハラさせる言い方。動揺するな!こちらも笑いながら返す。
「確かにそうですね、アハハ」
「まあこの謎はもう少し考えてみますよ、フフフ」
 カイカンはそう不気味に笑うと準備運動のように首を回した。どうやらこの話題はこれで終わりらしい。脈がまた徐々に落ち着いていく。
 …正直拍子抜けだった。もっと糾弾されると思ったのだが、考え過ぎだったか。確かにイニシャルとしても逆さまだし、『I・U』のメモだけで『飯森唄美が佐藤に脅迫されたから溺死を偽装して殺した』なんてどんな天才でも結び付けられないだろう。少し過敏になっていたのかもしれない…私は密かにほっとする。
 刑事は首回しを終えると、まだ少し砕けたままの口調で言った。
「実は…佐藤さんの死には謎が多いんですよ。先生、心の専門家としてアドバイス頂いてもよろしいですか?」
「ええ、私にできることでしたら」
 そう答えるとカイカンはまたとても嬉しそうな顔になる。
「よかった。いやあ、なんか先生話しやすいんですよ。声も優しいし、話してるだけで癒されるというか…さすがですね」
「ありがとうございます。刑事さんだってとっても話しやすいですし、声も素敵じゃないですか」
「そんな私なんて…まあ私の話はいいんですよ。それで、溺死現場の不可解な点についてご意見をお願いしてよいですか?」
「ええ、お役に立てるかはわかりませんが」
「助かります。実はですね…」
 カイカンはそこでまた座り直してから言葉を続けた。

「佐藤さんはバスルームの浴槽で溺死されていました。私が引っ掛かってるのはドライヤーのことなんです」
 ドライヤー、という単語を聞いてあの夜のことを思い出す。カイカンは身振り手振りも交えながら説明を続けた。
「実はドライヤーがコンセントに挿してあったんですよ。持ち手の部分には佐藤さんの指紋も残っていました。しかし、彼は今まさに服を脱いで入浴していたんです。何故ドライヤーがもうコンセントに挿してあったのでしょうか?髪を乾かすのはお風呂から上がってからですよね?」
 私は「そうですね」とだけ答える。
「これが謎なんです。先生、心の専門家として佐藤さんの行動は説明可能ですか?」
 もちろん私はドライヤーが使用された理由を知っている。だが髪を乾かしたのは自分ですなんて言えるはずもない。慎重に言葉を選ぶ。
「そうですね、これは精神医学とかじゃありませんけど…こういうことは考えられませんか?人間の性格には色々ありまして、何でも先に準備しなくちゃ気が済まない几帳面な人もいます。お風呂から上がってすぐ使えるようにドライヤーを準備しておいたとか」
「ナルホド」
 カイカンはまた妙なイントネーションで頷く。そして右手の人差し指を立てた。
「確かにそれは考えられます。しかし、そんなご性格ならお風呂から上がって着る服もあらかじめ用意してそうなもんですが…それはしてませんでした。脱いだ服もベッドの上に散らかってましたし…几帳面な性格とはちょっと思えませんね」
 妥当なアセスメントだ。行動の痕跡からその人の性格を推し量る…もしかしたら刑事という仕事は少し精神科医のそれに似ているのかもしれない。私は不思議な親近感を抱きながら言う。
「そうですか…では、ドライヤーはお風呂に入る前に別の目的で使ったのかもしれませんね。例えば…濡らしてしまった物を乾かしたとか」
「ナルホド、しかしそうだとしても謎があるんですよ。実は指紋なんですけどね、確かにドライヤーの持ち手の部分には佐藤さんの指紋が残っていました。でも後から気になって調べたら…」
 そこで刑事は立てていた指をパチンと鳴らし、ある箇所に指紋が残っていなかったことを説明した。その箇所とはドライヤーのコードの先…コンセントに挿し込むプラグの握りの部分だった。
「先生、イメージしてみてください。どうやったってあそこを握らずにコンセントに挿せるわけがない。実際に部屋にあった携帯電話の充電器のコードには、その部分にしっかり親指の指紋が残ってました」
 しまった、これは完全にミスだ。正直そこまで気が回らなかった。ドライヤーの持ち手に佐藤の指紋を残しただけで安心し、コンセントは私が手袋をはめた手で挿してしまった。
 …警察はやはりプロだ、あなどってはいけない。それともこのカイカンという刑事が特別に優秀なのか?
「先生、指紋がないということはコンセントに挿した後で拭き取ったとしか考えられません。何故佐藤さんはそんなことをしたのか…説明は可能ですか?」
「すいません…思い付きません」
 ここはそう答えるしかない。私を気遣うように「気になさらないでくださいね、私にも雲を掴んでるみたいにわからないんですから」と返される。しかし…カイカンは考えていないのだろうか?指紋がないのは別の人間が偽装したからだ、という可能性を…。
「それにわからない謎は他にもたくさんありまして」
 こちらの疑念など知る由もなく刑事は続ける。これ以上聞きたくなかったが…低い声は止まらない。
「佐藤さんの脱いだスーツの胸ポケットにUSBメモリーが入ってたんですが…USBメモリーってご存知ですか?パソコンで使う…」
 私は「ええ」とだけ答える。
「実はそれのデータが吹っ飛んでしまってましてね。鑑識に調べてもらったら完全に壊れていてパソコンに挿しても全く読み取れないんです」
 また脈が速くなってくる。
「佐藤さんのノートパソコンを調べると、その日の午前中にもそのUSBメモリーを使っていた記録があるんです。何故突然壊れてしまったのか…謎でしてね。確かに壊れることはよくあるんですが、持ち主が亡くなった日に一緒に壊れたというのが不思議で」
 確かに妙な偶然だ、と最初は思った。しかし壊れた理由について考えを巡らせてみると一つの場面で私の思考は立ち止まった。まさか…。
「鑑識の話では、ああいった精密機器は電流などで壊れるらしいんですけどね。ほら、静電気とかです」
 やっぱりそうだ!…私は確信した、スタンガンの電流だと。
 あの男の胸にスタンガンを押し当てた時、スーツの胸ポケットにUSBメモリーが入っていたのだ!皮膚には痕跡を残さないよう電圧を調整したつもりだったが、精密機器には強過ぎたのだ。
 …なんてことだ。ドライヤーのことといい、全く気にしていなかった所からどんどんほころびが出てくる。しかし…。
 私は気を取り直して「不思議ですね」と告げる。刑事も「はい、本当に」と合わせる。
 大丈夫、大丈夫だ。どのほころびも私の犯罪を証明するものではない。そもそもまだ殺人事件と断定して捜査されているわけでもない。落ち着け、落ち着け。ここは診察室、いつもの余裕を思い出すんだ!
「刑事さん、あまりお力になれなくてすいません。ただ一人の精神科医として言えるとしたら、世の中には不思議なことがたくさん起こるということですかね」
 私は微笑み、医者とはそういう経験を何度もするので意外に非科学的な人生観になるものだと教えた。カイカンはただ黙って頷くと、ゆっくりと腰を上げる。
「唄美先生、本当に長い時間ありがとうございました。いやあ、先生とお話すると何か心が和んで…本当にすいません、ついつい話し過ぎちゃいました」
「いえいえ、そんな」
 私も立ち上がる。確かに…初対面の私にここまで捜査情報を明かしてよいものなのだろうか?それは本当に話しやすかったからなのか、それとも…。

 私たちは診察室を出た。時刻はすでに午後7時、誰もいない待合は静寂に包まれている。
「いやあ、やっぱりこのクリニックの雰囲気はよいですね」
 そう言われて私はまた「ありがとうございます」と返した。先ほどまでカイカンの言葉に何度も動揺させられたが、今は不思議と落ち着いた気分だ。そして、ずっと気になっていた疑問が今頃になって首をもたげてくる。
 …わかっている、相手に興味を持つということは自分の心に入り込まれる隙を作るということだ。まるでチェスのように、一手動かせば動かすほどそれだけ守りは甘くなる。危険だとわかっている…だが、どうしても私は自分の好奇心に勝つことができなかった。他のどんな感情を抑え込むことができたとしても、好奇心だけは抗えない…だからこそ私はこんな果てのない仕事をしているのだと思うから。
「あの、刑事さん?」
 そう言葉をかけると、辺りをキョロキョロ見回していたカイカンはこちらを向いた。
「あの…最後に私からも質問してよろしいですか?」
「はいもちろん。…何でしょうか」
 私は素直に口にする。
「お気に障ったらすいません。刑事さんのその…服装には何か意味があるのでしょうか?」
「ああ、この服装ですか」
 特に機嫌を損ねた様子もなく、むしろ照れたようにカイカンは「この服装…部下からも注意されるんですけどね」と続けた。部下がいるのか。この人物の部下…少し会ってみたい気もする。
「非常識な格好だというのはわかってるんですけどね、どうしてもやめられないんです。実は私…」
 そこでハットを触るカイカン。
「インディ・ジョーンズが大好きでしてね。それで子供の頃、親にせがんでこのハットを買ってもらったんです」
「そう…そうですか」
 あまりにも予想外の答えだった。インディ・ジョーンズが好きというのは別に珍しくないが…。私はさらに尋ねる。
「じゃあ、その前髪を長くしていらっしゃるのも誰かの影響ですか?」
「はい。私、ブラック・ジャックも大好きで…学生の頃は夢中で読んだものです」
 冒険家の次は天才外科医か。となると…。私は半分答えを予想して「ではそのコートはもしかして?」と問う。
「はい、恐れ多くもコロンボ警部からの借用です」
 少し自慢げな口振りだった。
 これで異様な風貌の理由はわかったが…何と言うか、う~ん。確かに憧れのヒーローの格好を真似する、というのはよくあるモデリングの心理だ。しかしそれは幼い頃の話、大人になってもやっているというのはどうなのだろう。プライベートのコスプレ趣味ならともかく、こんな公的な仕事で。
 …アハハ、本当に変な人。
 カイカンは私のアセスメントなどお構いなしでまた辺りを見回している。そして、こちらを見ずに言った。
「これが…心のクリニックなんですね。唄美先生はきっと人気があるんでしょうね」
「そうだと嬉しいですけど」
「だって予約もいっぱいじゃないですか。実はさっき先生を待っている間、受付の峰さんに先週の予約表を見せてもらったんですよ。そうしたらたくさん患者さんの名前が書いてありました」
「そうですか…でも個人情報ですからあまり見ないでくださいね」
 私がそう言うと、刑事はこちらを振り返った。
「ごめんなさい。実は峰さんにもそう言われてすぐに取り上げられちゃったんです」
「怒らせると怖いですよ、彼女は…アハハ」
「気を付けます、フフフ…。先生、今日はお疲れのところ本当にありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそ」
 ゆっくり玄関へと歩き出すコートの男。その少し後ろを追うのが白衣の女というわけか。
「先生、また何かあったらお伺いしても構いませんか?」
「ええ、もちろんです。またお話をしましょう」
 半分は本心だった。今までに会ったことのないタイプの人間、その心の解明に精神科医として好奇心は尽きない。しかし罪から逃れようとする犯罪者としては…もう二度と関わりたくはない。
 カイカンは「それでは」とドアを開けた。そして、最後に振り返って私を見る。
「先生…ご存知ですか?」
「何をですか?」
 カイカンは今日話した中で一番低い声で言った。
「刑事コロンボの最初の犯人は…精神科医なんですよ」
 その言葉は静まり返った夜の待合に響く。ハットのツバの影と長い前髪で表情は全くわからない。カイカンはそのままクリニックを出ていった。

 …何だ、今のは?冗談なのか?
 私の中で、一つの感情が確実に膨らんできていた。カイカンと出会ってから好奇心と共にどんどん大きくなってくる感情。その名前はよく知っている。
 …『不安』。
 私は玄関を施錠する。ふと見ると、夜の東京には雨がちらつき始めていた。