第10話 アーチャーズ・パラドックス (神経内科)

「いくよ同村くん!」
ガラガラガラ、と勢いよく頭上の大きな鈴が鳴る。続いてパン、パンと両手を二回合わせて瞳を閉じる。少しして目を空けると、隣の美唄がじっと同村を見ていた。
「随分長かったね。何をお願いしてたの?」
振り袖姿の彼女は掛け値なしに綺麗だった。次の参拝者にその場を譲りながら、同村は「いやあの、ちゃんと6年生に進級できますようにって」と答える。
「なーんだ、そんなことか。あたしはね、今年も14班のみんなと仲良くできますようにってお願いしたの」
「そうなんだ。あ、もうちょっとこっちを歩こう」
元旦。初詣の名所で知られる新宿の花園神社は人で溢れていた。同村は美唄の手を引き、できるだけ混雑の少ないルートを進む。
「見て見て同村くん、おみくじだ。破魔矢も売ってるよ」
「どうする?寄っていく?」
「ううん、大丈夫。すっごく込んでるし…あたしにはラブちゃんのキューピッドの矢があるから」
そこで彼女はクスッと笑った。
「真昼間から手を繋いでさ…あたしたち、バカップルに見えるだろうね。かなり目立ってるよ」
「そんなことないって。目立ってるかもしれないけどそれは、その…」
ようやく人ごみを抜けて広い石畳の道に出る。そっと手を離して同村は続けた。
「君が…君の着物が、よく似合ってるからだよ」
「そう?ありがとう。せっかく成人式の時におばあちゃんが買ってくれたから着ておこうかなと思って。でも着物の袖って重たいね、これでエイエイオーは難しいかも」
「ここで拳は振り上げないでくれよ、それこそ注目の的になるから」
「はーい、わかってまーす!」
着物を褒めた彼の勇気がわかっているのかいないのか、彼女は笑顔100パーセントではしゃいでいる。差し詰めちょっと大きな七五三の女の子…ってこりゃ失敬。
「うわあ、久しぶりに来たけど、やっぱりおっきな鳥居だね」
見上げる美唄。空は快晴、空気は冷たいが降り注ぐ陽光は暖かかった。
「やっぱり来てよかったね、同村くん。毎日勉強ばっかりじゃ疲れちゃうもん。神様にもお願いしたし、気分転換にもなったし、帰ったらまた勉強頑張ろう!」
そう、年が空けたのはめでたいが、医学部5年生はそうそう正月気分に浸ってもいられない。そろそろ3月の進級試験を意識する時期である。
「はい、初もうではおしまい。ではでは駅に向かいましょう」
「あ、ちょっと待って」
神社を出ようとした美唄を同村が呼び止めた。
「今のうちに渡しておくよ」
「え、何?もしかしてお年玉?」
同村はコートのポケットの中でリボンのついた小さな箱を握る。そして、本日最大級の勇気でそれを差し出した。
「…ハッピーバースデー」
美唄は一瞬目を丸くして固まった。そして恥ずかしそうにそれを受け取る。
「やだ、どうして知って田の?」
「秋月さんが…メールで教えてくれた」
「もう、まりかちゃんったら…。ごめんね、クリスマスにパーティしたばっかりだし、お正月はみんなのお祝いだからなんだか言い出せなくて」
「…いいよ、そういう所も君らしいし。それにしても一月一日生まれだなんて…やっぱり君はただ者じゃないな」
同村が微笑む。彼女は箱を手に「中身は何?」と尋ねた。
「ボイスレコーダー。ほら、歌の練習にも使えるし、曲を作る時にも役立つし、それに…ワンタッチで録音できるから、メモ帳代わりにもなるかと思って」
僅かに言葉を濁す。彼女が自分で書いたノートの文字を読むのにも、少しずつルーペを使用していることに同村は気付いていた。美唄は箱を胸にぎゅっと押し当てると、「ありがとう」と淡く微笑んだ。
箱をバッグにしまって二人はゆっくり歩き出す。
「活用させてもらうね。まだまだMJさんには敵わないけどさ、ちょこっとずつ曲を考えるコツがわかってきたの。同村くんは?ちゃんと小説書いてる?」
「まあ…ぼちぼちかな」
「また同人誌とか出せばいいのに。2年生の時だっけ、学園祭で配ってたでしょ?」
「よく知ってるね。文芸部で作ったんだ。最近は部員も少ないからなあ…」
懐かしい記憶、そして隣を歩く美唄への愛しい気持ちが込み上げる。
先ほど彼女に訊かれて、神様にお願いしたのは6年生への進級だと答えたが、あれは嘘だった。願ったのは美唄のこと。彼女は自分の運命に向き合っている。自らの病気を受け入れている。わかっていたが、それでもやはり願わずにはいられなかった。
…病気を治してくれとは言いません、せめて、これ以上進行させないでください。

 冬休みのない彼らは、三が日が明けるとさっそくポリクリを再開する。臨床実習の日々も残すところあと二カ月だが、今までと違うのは、それもしながら進級試験の勉強もするということ。そしてもう一つ、6年生にたどり着くための関所があることも忘れてはならない。2月のポリクリ発表会。今はその準備も並行して行なわねばならないにわかに忙しい時期なのである。

そんな1月最終週、14班が回っているのは神経内科。精神科・神経科と名称が似ているため混同しやすいが、ここは人間の体内を走る神経に関連した病気を扱う科。神経には大きく運動を司るものと知覚を司るものの二種類があり、脳の命令を伝えて手足を動かすことができるのは前者のおかげ、触れた物の硬さや温度を脳に伝えて感じることができるのは後者のおかげだ。また心拍数や体温、腸の動きを調整したり、画鋲を踏んだ時に飛びのいたりと、人間の意思が及ばない所で働いている神経もある。まさに人体が活動するための導線が神経であり、それらが調子を崩せば生活に多くの支障が出てしまうのである。
初日の月曜日。いつものように医局で実習のスケジュールを告げられる六人。この科の実習には月をまたいで二週間が割り当てられている。そして前半戦である今週の特徴としては、学生は一人ずつ別の指導医につき、完全な個人プレイで実習するということ。昨年末に念願のパーティを実現して一体感をさらに強めた彼らも、ここではバラバラ…全員スケジュールが異なるため、毎朝の学生ロビー集合もなし。
ポリクリ生活も十ヶ月。もちろんもう自分だけでもできる、院内での立ち振る舞い方やレポートの書き方だって身に付いている。それでも彼らは単身で臨む実習の日々にどこか物寂しさを感じていた。自分だけで指定された場所へ行き、自分だけで見学し、自分だけで許可をもらって帰宅する…ただそれだけのことがとても落ち着かないのだ。しかし本来はこれが当たり前。3月には14班も解散…そうしたら誰もがまた六人から一人のリズムに戻らなくてはならないのである。

「はあ…」
実習二日目火曜日。検査室前の廊下に立ち、彼女は小さく溜め息を吐いた。壁に背中を預けて腕時計を見ると午後2時半…指定された時刻からすでに三十分が過ぎている。これまでだってこんな待ちぼうけは何度もあった。しかし、一人だと何倍も長く感じる。狂ったリズムを元に戻すのに一番苦労しているのは実は彼女だった。
4年生まで教室で常に最前列に座り、授業中の居眠りも無駄話も一切なし。昼休みも同級生たちが賑やかにランチに出掛けていく中、いつも一人持参したお弁当。部活にも所属せず、放課後は図書館で自習。そんな日々の引き換えとして…いや、成果として手にしたのは、四年間連続特待生という快挙。
「みんなは…今日は何してるのかな」
ついそんな独り言がこぼれる。5年生になって14班で過ごす毎日は、彼女にとって刺激の連続だった。学生ロビーでの雑談、出された課題に対しての議論、カレーを食べながらああだこうだと言葉を交わすことの面白さは、一人で医学書を読むことの比ではなかった。
「あ、ごめんごめん」
ようやく廊下の向こうから指導医が姿を見せる。名前は原田、額の広い40代の男性医師。
「待たせちゃったね、秋月先生。じゃあ今から筋電図検査を見学してもらうから」
「はい、よろしくお願いします」
背筋を伸ばしてそう答えると、メガネの奥の瞳に情熱が赤々と灯る。そう、仲間との日々がどんなに楽しくても、彼女がそれに甘えて勉学を怠ることはない。心の羅針盤はどんな波にも揺るがず、常に一点を指しているのだ。

まりかファンのみなさんお待たせしました!今月はいよいよ我らが班長の物語です。

 翌日の水曜日は一日外来見学であった。神経内科医の手腕の一つは診察手技といってもいい。例えば患者に人差し指で自分の鼻先と医師の立てた人差し指の先端の間を往復してもらう。キラキラ星のように両手をパタパタしてもらう。診察室の中を歩いてもらう。あるいは患者の身体の特定の部位をハンマーで叩き、反射と呼ばれる現象を起こさせる。神経内科医はそれらを注意深く観察し、どの神経に異常が生じているのかを論理的に推考するのだ。
「はい、よろしいですよ。大きな変化はありませんので、このお薬を続けてみましょう」
そう告げた原田に礼を言い、松葉杖の男性患者は退室した。骨が折れているわけではない。筋肉が切れているわけでもない。神経が働かないから彼は歩けない。
「次はさっき秋月先生に所見をとってもらった患者さんを入れるからね」
彼女が渡した記録を見ながら、後ろで見学しているまりかに原田が言う。
「12脳神経に神経学的異常所見なし…か。うん素晴らしい。よく『神経学的所見なし』って書いちゃう研修医がいるけどあれは間違いね。人間が生きている以上、神経学的所見は必ずあるんだから」
「はい、昨年の講義でそう教わりました」
「噂どおり優秀だね、秋月先生」
「いえ、そんな」
彼女は恐縮する。いくら知識を詰め込んでいても、自分には大切な能力が欠けている…まりかは常々そう思っていた。
間もなく次の患者が入室。その一挙一動を、そして医師の診察の全てを、彼女は全身全霊で見つめる。その真剣さはいつものことだが、この科には特に思い入れがある。それは彼女が医学部に来た理由そのものと言っても過言ではなく、またどんなに特待生を連取しても自分の無力感を拭えない原因でもあった。
「では、少し検査をさせていただきますね」
原田がハンマーを手に患者の傍らに寄る。電子機器に頼らず、直接患者の身体に触れて所見を取る…これも、医者の指先に鋭敏な神経が張り巡らされているから成し得る技術。そして時には、それだけで重篤な疾患を見抜くこともある。
この科には治療困難な難病も少なくない。今は軽症でも、この先進行していくことが確実な病気もある。それを告知するのもまた神経内科医の仕事。まりかは原田のハンマーの主義を見ながら、それが患者の運命を判決する法廷の木槌のようにも感じられた。

同日夕刻、原田から本日の実習は終了と告げられたまりかは、学生ロビーには戻らずに神経内科の病棟へ上がった。22階の一室、ここに彼女にとって特別な患者が入院している。そう、クリスマス・イブの夜にも会いに行った相手だ。これまでも時々顔を出してはいたのだが、神経内科の実習が始まってからは毎日通っている。
「お邪魔するわよ」
ノックして入室したのは大きな窓がある個室。彼はベッドで上半身を起こし雑誌のページをめくっていたが、まりかに気付くとすぐに笑顔を向けた。
「いらっしゃいませ。これはこれは先輩、また僕に会いたくなったんですか?」
「ばーか、今日の実習終わったから顔見に来てあげたのよ。どう、調子?」
「相変わらずつれないですね。調子はバッチリです。今度の土日に外泊の許可も出ました」
まりかは「そうなんだ」と壁のカレンダーを一瞥する。
「よかったじゃん。じゃあ体調管理をちゃんとしなよ。あんたよく肝心な試合の前になると風邪引いてたから」
「それでも試合ではバッチリ決めちゃうんですよね、僕って」
「また天才気取りか。そっちこそ相変わらずだね、アカシア」
彼の名は明石篤、アカシアとはそれを縮めた高校時代からのニックネームだ。青年はまりかが所属していたアーチェリー部の一年後輩であった。
「僕みたいな優秀でかっこいい後輩がいて、先輩は幸せですね」
「はいはい、勝手に言ってな」
聡明な読者のみなさんなら、まりかの雰囲気がいつもと違うことに気付かれただろう。実はこれが以前の秋月まりか、医学部では封印してきたかつての彼女なのである。
高校時代、彼女はもっと社交的だった。けして派手ではなかったが、それでも制服のスカートを校則よりほんのちょっぴり短くして、放課後は友人との買い物やカラオケを楽しみ、大会を目指して部活に汗を流した。その手腕を買われ、アーチェリー部では女史部のキャプテンにも任命されている。そんな彼女が医学部に進み勉学以外の物を遠ざけたのには…実はこのアカシアが大きく関わっている。
彼女はそこでふと彼が読んでいた雑誌を見る…『月刊アーチェリー』。
「あんたも弓が好きだね」
「ええ…やっぱり好きなものは好きみたいで」
彼は一瞬寂しさを過らせたが、すぐに笑顔に戻って「それに、この天才が引退した後の動向を確認しておかないと」と雑誌を振った。まりかも合せて笑ったが…その胸中には苦い思いが込み上げる。
天才…確かに彼の才能は本物だった。出会いは彼女が高校2年の春。部活見学の新入生の中でも一番弓に興味を示していた彼は、即日入部を宣言した。初心者であった彼にアーチェリーの基礎を教えたのもまりか。彼女の指導の賜物か、彼はすぐにその才能を開花させる。1年生の夏の大会でもさっそく好成績、冬休みも自主練習に励み、三学期が終わる頃には部の主力選手に数えられていた。
「思い出しますよ、あのお正月の猛特訓。僕がやりたいって言ったら先輩もつき合ってくれて。一日で三百本は射ちましたかね、さすがに指がしびれましたよ」
「一応あんたの指導係りだったからね」
そしてまりかが女子部キャプテンとなった高校3年生、明石も2年生となり後輩を指導する立場となった。一緒に過ごす時間は減ったが、活躍する彼を遠目に見ながらまりかも鼻が高かった。彼は夏の大会でも先輩を脅かすほどの成績を残し、当然のように次期男子部キャプテンに推される運びとなった。そして正式な任命を目前に控えた秋…彼は発病したのである。
最初の症状は普段の部活に現れた。百発百中のはずの的さえ外すようになり、周囲から「天才にもスランプがあるのか」と笑われ彼もおどけていたが…実際は自分の身体に起きている変化を敏感に感じ取っていた。まずは近所の内科クリニックに受診、すぐに総合病院の神経内科へ紹介、外来での診察から精密検査の段取りが組まれ、その後に病名を告げられた。彼を蝕んだのは、少しずつ身体の自由が奪われる進行性の難病であった。
「でも懐かしいですね、あの青春時代。ほら、あの合宿の時のこと憶えてます?山梨県の河口湖の近くの…」
「あんたらが女子のお風呂を覗こうとして湖に落ちた時でしょ、ほんとにバカなんだから」
「だから違いますって。後輩たちが覗こうとしてたのを止めようとして、僕も一緒に落ちたんです。まだ疑ってるんですか?」
「さーて、どうだかね」
「ひどいなあ、お世話になった先輩にそんな裏切りはしませんよ」
想い出を語るその笑顔に、まりかはどうしても悲しい陰を見てしまう。青春時代…まるで遠い昔のように彼は言ったが、もしも病気がなければ今だって青春は続いていたはずなのだ。
告知を受けて自分の病気を知ってからも、彼の明るさは同じだった。病名も部活の仲間や友人には自分から公表し、リハビリに集中したいからと次期キャプテンは辞退した。相変わらずふざけたり甘えたり、そんな様子から多くの者がそれほど深刻な状況とは考えていなかった。そして誰にも相談せず、彼は3年生から養護学校に転校する手続きをしていた。まりかがそのことを知ったのは、自分が卒業してもう一ヶ月が過ぎた頃である。
「夜には花火もしましたよね。ロケット花火が僕の方に飛んできちゃって、もうびっくりでした」
「あんたあの時私の後ろに隠れたでしょ。まったく、男のくせに情けない」
「だって怖かったんですよ。可愛い後輩を守るのも先輩の役目じゃないですか」
こんな甘えん坊のキャラクターなのに、彼は養護学校への道を選んだ。多少日常に困難が生じても、周囲の助けを借りればあのまま普通高校を卒業することもできただろう。それだけの人徳も彼にはあった。しかし彼はそれを選ばなかった。その胸中はいかなるものだったのか…まりかは今でもわからないでいる。
やがて養護学校を卒業した彼は、定期的に病院に通いながらリハビリと資格試験の勉強の日々を送っている。昨年の秋からすずらん医大病院に入院したのは、最近少し症状の進行が速まってきたため、検査と薬の調整を行なうのが目的である。
「でも僕、アーチェリー部に入って本当によかったですよ。メチャクチャ楽しかったです」
病室の隅の車椅子が目に入る。まりかはすぐに笑顔を作って返した。
「私はもうあんな面倒なスポーツはごめんだけどね」
「またまた先輩…あんなに熱く教えてくれたじゃないですか。それに、僕って一度好きだと思っちゃうとその気持ちを変えられないんですよ」
「あ、そう」
彼女は素っ気なく窓の方を向く。そんな様子を見て明石はそっと微笑む。
ちなみにこの二人、今も昔も恋愛関係はない。むしろその逆。彼が2年の時の夏の大会の後、彼女に想いを伝えた。「返事は急がないですけどよろしくでーす」といつものおどけた調子で笑った後輩男子。一方連日寝不足になるほど悩んじゃったのは先輩女子。自分の卒業後の進路にさえまだ迷っていた彼女、人生で初めての愛の告白はあまりに意外で突然だった。相手は学校の人気者、それなりに好感も抱いている。じゃあとりあえずつき合ってみようかな…なんてことはできないのがまりかの性分。一ヶ月間考えに考えた結果、彼女にとって彼は可愛い後輩以上の存在ではなかった。そのことを伝えた後、返されたのは「残念ですけどしょうがないですね。じゃあ今後もご指導よろしくでーす!」という眩しい笑顔。そして彼の病気が発症したのはその直後であった。
「まったく、先輩は冷たいなあ」
「なんで私があんたに優しくしなくちゃいけないのよ」
小さくアッカンベーをするまりか。こんな仕草、教室ではもちろん14班の中でも見せたことはない。
「そのわりに、よく会いにきてくれますよね。クリスマス・イブの夜だって」
「あれは当直の実習で病院にいたから…暇潰しよ」
「本当ですか?ダメですよ、今更僕に振り向いても」
「バーカ、誰が振り向くかっての」
一緒に弓を射ていた頃からこんな感じが二人の距離。恋愛ではなくても、涙と汗を分かち合った先輩・後輩としてここには確かな絆がある。
「きついなあ。先輩って大学じゃどんな感じなんですか?」
「別に…普通だよ」
…毎年特待生は明らかに普通ではないが。
「そうですか?なんか髪型も昔より地味だし、コンタクトじゃなくてメガネだし。病棟で見かけた時も、すごく真面目な感じだったじゃないですか」
「そりゃあんた、実習中なんだから当たり前でしょ」
高校時代はささやかながらオシャレもしていた彼女。しかし医学部に入ってからはメガネに黒髪、膝を隠すロングスカートで通している。
彼女が告白を断わった直後に彼は発病した。もちろん病気と告白には何の因果関係もない。負い目に感じることではない。それは彼女にもわかっていた。それでも理性的なまりかでさえつい考えてしまう…もし自分がOKしていたら彼の運命は違っていたのかもしれないと。そして痛感する…進行していく彼の病に対して、自分は抗う術を何一つ持っていない、それどころかどう接してあげればよいのかもわかっていないことを。
取り留めもない疑問に答えを探すように、己の無力さに鞭打つように、彼女は自らの進路に医学部を選択したのだった。部活やオシャレを封印したのも、友情や恋愛を遠ざけたのも…そんな覚悟の表れだったのかもしれない。

 ゆっくりと日が暮れていく病室、二人は談笑を続けた。最近の出来事、興味を持ったニュース、あの頃の仲間たちの近況…。明石はおどけながらも本当に楽しそうに話す。もし病魔が彼を選ばなければ、彼はアーチェリー部のキャプテンとして活躍し、3年生の大会でも好成績を残していただろう。大学に進んでもクラスやサークルのムードメーカーだったに違いない。パラレルワールドが存在するのなら、そんな彼もきっといるはず。
しかしそう思っても、まりかはけして口にしない。『もしも病気じゃなかったら』…患者にとって、そんな仮定は存在しないのだから。
「じゃあ私…そろそろ行くね」
腕時計を見て椅子から立つ。
「え~淋しいなあ、可愛い後輩を置いて帰っちゃうんですか?」
「忙しい中で会いにきてるんだから、感謝しなさい」
「はーい、光栄に思ってまーす」
「じゃあまた来てあげるから」
そんなやりとりをして再び笑い合う。そして彼女がベッド脇から離れようとした時、明石は少しだけ真面目な口調で言った。
「あの…秋月先輩?もしよかったらでいいんですけど」
足を止め、「どうしたの?」と振り返る。
「今度の外泊中、一度ごはんでも行きませんか?」
一瞬の沈黙。まりかが返答に窮したのは彼にもわかっただろう。
「う~ん、考えといてやるよ」
かろうじて冗談っぽく言うと、彼女はドアに手を掛ける。
「本当に…できたらでいいんで。じゃあ…え~と、一応楽しみにしてまーす」
「はいはい、じゃあまたね」
かつて同じ的に弓を射ていた二人。今は白衣の医学生と病衣の患者。閉まったドアを見ながら、ベッドの上の青年は呟いた。
「僕は卑怯ですかね…まりかさん」

 翌日、木曜日。午前中はリハビリルームの見学だった。絨毯張りの広い室内には、様々な器具を使って運動している患者たちがいた。足にサポーターの重しを付けて歩行練習する者、大きなゴムボールを床に弾ませ壁とキャッチボールする者、四つん這いになって匍匐前進する者。中には四肢に包帯を巻いた小学校低学年の少女もいる。彼女は生まれつき痛みを感じることができない。そのためすぐに力余って怪我や骨折をしてしまう。どのくらいの強さで物を握るか、どのくらいの弱さで地面を踏むか、そんな当たり前の力加減の練習をここでしているのだ。
まりかは壁際に立ち、せつない目で室内の患者たちを見ていた。部屋の奥では明石もリハビリをしている。左右の手すりに掴まりながら、彼は真剣な眼差しで歩行練習をくり返していた。一瞬、高校時代に一緒に筋トレをしていた時の姿が重なる。
「どうしようかな…」
そっと呟く。昨日の彼からの誘い…彼女は夜もほとんど眠らずに考え続けていた。

やがて原田が姿を見せ、昼休憩に入るよう指示される。まりかはそのまま病院を出て、駐車場を歩きながら携帯電話の電源を入れた。するとメールの着信。美唄からだった。
『14班のみなさん、実習頑張ってますか?みんなと会えなくて寂しくないですか?あたしは寂しいです。そこで緊急ランチ企画、集まれる人はキーヤンカレーに集合!みんなで語らいましょう☆』

 本日は全員時間に余裕があったようで、六人は指定の店に集結した。
「なんか、みんなでこうやって集まるの久しぶりだね」
カレーをほおばりながら、嬉しさ全開なのはもちろん美唄。
「そうかな?たったの何日かぶりだよ。相変わらず大げさだな、美唄ちゃんは」
と、井沢。続いて長が水を飲んでから言う。
「まあでも、たまには一人でポリクリってのも新鮮だよな」
「確かに、一人でじっくり考えるのも意味がありますよね」
答える同村に、井沢が「一人じゃなくて、美唄ちゃんと考えるんだろ?」とコメント。また赤くなって「実習中は一人だろ!」と返す主人公。その場に笑いが起こる。まりかもここでは自然に笑顔になれた。
「確かまりかちゃん、神経内科に興味あるって言ってたよね。実際に回ってみてどう?」
笑いがおさまってから美唄が大きな瞳を班長に向けた。
「うん…勉強になってる」
「神経内科ってすっごく難しいよね。どの神経がどのレベルで障害されると体のどこにどんな麻痺が出てとか…あたしなんか何回憶えても頭がこんがらがっちゃう」
「確かに遠藤さんは理論より直感って感じだもんな」
「何よ、同村くんだって理系より文型じゃん。まあ確かにあたしは苦手だけどさ…それが得意なまりかちゃんはやっぱりすごい!」
「そんな、得意とかじゃないよ。それに神経内科ってもちろん神経学も大事だけど、すごく患者さんの気持ちを考えなくちゃいけない科だって気がするのよ。治らない病気も多い中で、それを抱えながら生き方を見つけるのって…大変なことだと思う」
まりかは後輩のことを思い出す。他の五人も、それぞれが実習で見た患者のことを考えたのだろう…数秒会話が止まった。
「それより同村くん、普段美唄ちゃんのこと何て呼んでるの?」
まりかが明るく話題を変える。
「え、何、急に…」
戸惑う男に向島が「あ、それ僕も知りたい」と身を乗り出す。井沢も「白状しろ、文芸部!」と追い討ち。慌てふためく同村を美唄はクスクスと笑いながら見ていた。
「だから、別に普通だよ。遠藤さんって呼んでるよ」
「うそつけー!」
井沢がパンチの真似をする。
「本当だって。あ…そうそう、下の名前の漢字が読めなくて」
同村の下手なギャグに長が「そんな馬鹿な!」とツッコミ。
「なんか、今の許せないな。馬鹿にされたみたい」
口を尖らせてそっぽを向く可愛い恋人。もちろんスネたふりなのだが…こういう仕草は女性だけの特権。さらに慌てて弁解する同村を見てまたみんなが笑った。
ちなみに、彼は本当に二人の時でも『遠藤さん』と呼んでます。

「みなさんに連絡があります」
食後のコーヒーが運ばれたところで、進級試験対策医院が切り出した。読者のみなさんはご記憶かな?昨年の春、14班が誕生したポリクリ説明会の日に決めたそれぞれの役職。6年生になるために突破しなくてはならない3月の進級試験、その対策医院が…我らが同村くんである。
「この前、委員会があって、各班からクルズスの時のノートのコピーを集めることになりました。そこから情報をまとめて、試験資料としてみんなに配ります」
「進級試験か…だんだん近付いてるもんな」
井沢が頭を掻く。頷いて同村は説明を続けた。
「というわけでこの班からもノートを出すんだけど、誰のがいいかな?俺のを見返してみたんだけど、所々抜けてるみたいなんだ」
「俺は字が汚いからなあ…」
長が腕組み。向島も「ごめん、僕は時々サボってたから」と謝る。
「それにMJさんのノートは余白が音符だらけですもんね。やっぱりここはまりかちゃんのノートじゃないかな?全出席でビッシリ書いてるもん」
美唄の提案に井沢が「俺もそう思う」と素直に同意。
「確かに秋月さんは字も綺麗だし…どうかな?もちろんコピーを取る作業は俺がやるから」
同村に問われて特待生は嫌がる素振りもなく「わかった、了解」と快諾した。
「でもちょっと待ってね。せっかくだからちゃんとまとめてから渡すから。そうね…明日の朝でいい?」
そう言って彼女は店内のカレンダーを見た。そしてまた考える…明石の外泊は今度の土日。あまり返事を引き延ばすわけにもいかない。しかし…気持ちは揺れている。
「ありがとう秋月さん。明日だなんて急がなくても、来週でも全然構わないから」
「大丈夫よ。じゃあその代わり…ってわけじゃないけど、今日ちょっとだけ美唄ちゃんに時間もらっていい?」
同村に代わって美唄が嬉しそうに答える。
「もうまりかちゃん、時間なんてそんなのいくらでもあげるよ。別に同村くんの許可なんていらないって。放っておいていいから」
また笑いが起こる。まりかは美唄に礼を言い、後で連絡すると伝えた。続いて長が挙手。
「おい同村、そのコピーとか仕分けとかする作業、俺も手伝うよ」
「え、でも長さん…悪いですよ」
「俺、今のところ何の仕事もしてないしな。ほら、班長が優秀だから副班長の出番が全然ないから。ちょっとくらい役に立たないとバチが当たる」
同村は少し考えてから、「じゃあお願いします」と返した。もちろん長が役に立ってないなんて誰も思ってやしない。
「進級試験対策委員からは以上です」
「じゃあ、次は優秀な班長からです」
彼女もたまにはこんな冗談を言う。美唄が「どうぞ、まりかちゃん!」と合いの手。
「前からお知らせしているように、ポリクリ発表会も近付いています。二回に分けて行なわれますが、一回目は明後日の土曜日です。まあでも14班の発表は二回目の方だから、来週の土曜日ね。どんな内容かというと…」
学務課から受けた連絡を彼女は要領よく説明する。会には実際に発表する班はもちろん、そうでない班の学生も全員参加。場所は教育棟のいつもの教室、ポリクリで回った各科の教授もその場に集う。一つの班ずつ正面に出て、持ち時間二十分で発表、教授や学生からの質疑応答も行なう。発表内容は実習で回ったどこか一つの科に絞ってもよいし、複数の科、一年間を通しての総括でもよし。そしてこの発表の評価も成績に反映される。
「みんなの前で発表なんて面白そう!どんな衣裳にしようかな」
「僕、音響やろうか?効果音とかBGMとか…」
盛り上がる音楽部コンビを、「こら、ライブではないぞよ」と長がたしなめる。
「まあそんなわけで、そろそろテーマは決めないとね。みんな、考えてみましたか?」
まりかに尋ねられ一応各人がアイデアを挙げる。彼女は手際よくそれを手帳にメモした。
「どれも面白そうね…これじゃあ一つに絞れないわ。決めるのは明後日に実際発表会を見てからにしましょうか。来週何度かみんなで残って準備すれば十分間に合うから」
誰も異論はない。
「私からは以上です」
「じゃあ、卒業アルバム委員から!」
続いて美唄が報告。
「写真はどんどん貯まってます。今度六人で集合写真も撮りましょう。どれを卒業アルバムに載せるかもみんなで選ぼうね」
「美唄ちゃん撮りまくってるもんなあ。俺、アルバムより美唄ちゃんの撮った写真を全部欲しいくらい」
長がコーヒーを飲み干して言う。
「いつでもあげますよ。あ、そうだ!」
そこで手をポンと打つロケット娘。おいおい、今度は何を思いついたんだ?
「せっかくだから、この店でも撮ろうよ!ここは14班のホームグラウンドだもんね。店員さんに頼んでさ、今すぐ撮ろう!」
「い、今?」
同村が焦りを見せるが、「そう、今!カメラもあるし」と彼女の中では完全に決定事項。
「カレー屋がホームグラウンドなの?」
向島が尋ねるが、彼女は聞く前に立ち上がる。そしてあっという間に店員にシャッターを頼んでいる。
「まあ、ちょうどお店も空いてきたし…いいんじゃない?」
まりかが微笑む。アタフタする同村に、「お前も大変だな」と井沢が考え深く頷いた。そしておそらくは強引にデジカメを渡された店員と美唄が戻ってくる。
「それではいいですか?みなさん、もっと寄り添って!」
バンダナのあんちゃんはデジカメを構えてムードを作ってくれる。…お手数かけます。美唄も「さあ、みんな笑って笑って!」と大はしゃぎ。
「遠藤さん…」
「ほら、同村くんも!いいの、思い出を残すのが悪いことなわけないじゃない!」
「はい、チーズ!」
こうして、いろんな意味で貴重な一枚が出来上がったのでありました。

 同日夕刻、それぞれの実習を終えたメディカルガールズは約束どおり病院近くの喫茶店で落ち合った。まりかが美唄に相談したかったこと…それはやはり明石からの誘いについて。美唄は秘密は守ると約束し、いつになく真剣な友人の話を頷きながら聞く。まりかも少し恥ずかしそうに、かつて自分に好意を持ってくれた後輩のことを打ち明け、彼の現状についても説明した。
…彼が自由に動ける時間はどんどん減っていく、それを考えれば今のうちに少しでも幸せな思い出を残す手伝いをしてあげたい。でもそれは逆に相手に対して無礼なことではないのか?もし彼が求めているものが恋愛感情であるならばなおさらだ。相手を普通の一人の男子として見るなら、気持ちには応えられないとはっきり伝えるべきなのかもしれない。でも障害のことを考えれば優しくしてあげたい気持ちもある。誘いに応じるのがよいのか、応じないのがよいのか、どちらが彼のためなのか…どれだけ考えてもわからない。そんな迷いを彼女は丁寧に語った。
「医学部に入って勉強して、実際にポリクリで患者さんに接しても…未だにこんなことがわからないの、私」
そう言葉を止めたまりかに、美唄はゆっくりと口を開いた。
「こんなこと、じゃないよ…とっても難しい問題だよ。障害のことなんか気にせずに、なんて言ったって現実問題それは無視できないよね。優しくしないのが差別なのか、優しくするのが差別なのか、あたしも時々自分でわからなくなるよ。逆に障害を持った立場から言えば、迷惑をかけないことが相手への優しさなのかなって思うこともあるし」
それを聞いてまりかは「美唄ちゃん、私、別に…」と顔を上げる。
「いいの、わかってる。あたしもアカシアくんと同じ進行性の病気だから相談してくれたわけじゃないよね。友達として頼ってくれたんだよね。でも…いいの。病気も含めてあたしだし。この目のおかげで気付けたことがいっぱいあるから…それが誰かの役に立つんなら嬉しい」
美唄は紅茶を一口飲む。
「あたしもね…すっごくもどかしかったの。見えないわけじゃないけどちゃんと見えるわけでもないっていうのを、どうやったらわかってもらえるのかなって。
でも気付いたの。もどかしいのは自分だけじゃない、そばにいてくれる人もそうなんだって。あたしがどんなふうに助けてもらえばいいのかわからなかったのと同じで、周囲もどんなふうに助ければいいのかわからなかったんだ。だから…何が言いたいかっていうと、そのアカシアくんもきっと今すっごく悩んでるよってこと」
そっと微笑む美唄。
「障害を持つ自分が好きな人をデートに誘った…すごい勇気と後悔だったと思うな」
まりかは心底驚く。美唄の言葉は自分の心を、それを通じて会ったこともない後輩の心さえ優しく包み込んでみせる。まりかがフフッと笑ったので美唄が「え?」と返した。
「ごめん美唄ちゃん、いやあすごいなあと思って。同村くんが惚れるのがわかる」
「もう、何よそれ」
照れる友人を見ながらまりかは思う。彼女が同村との交際を決断したのも、きっと様々な葛藤の果てのことだったんだろうなと。明石も…きっといくつもの葛藤を乗り越えながら生きてるんだろうなと。養護学校に進んだ時、彼は仲間たちに迷惑をかけたくなくてそうしたのかもしれない。あるいはアーチェリーの天才として活躍する姿のまま、仲間たちの記憶に残りたかったのかもしれない。そんな彼と自分は今触れ合っている。車椅子になって前よりもっと人の助けが必要となった彼が、食事に行こうと自分を誘ってきたのだ…。
「ねえまりかちゃん、同村くんもよく言ってくれるのよ。自分にできることないかなって。でも…あんまりないんだよね、正直言って」
美唄は一瞬窓の外を見た。
「ないんだけど…嬉しいの、とっても。そう思ってもらえるだけでさ。だから、アカシアくんもそうじゃないかな。まりかちゃんがアカシアくんのために一生懸命考えて出した答えなら…どっちでも嬉しいと思うよ」
「ありがとう…」
心から敬愛を込めてそう伝えた。
「もう水臭いなあ。こんなことしか言えないけど…」
「ううん、十分だよ。本当にありがとう。やっぱりすごい、美唄ちゃんって。もし自分が患者だったら私、絶対美唄ちゃんに診てもらいたい」
「あれ?それいつだったか、あたしがまりかちゃんに言ったセリフじゃない?」
「バレたか、フフフ…」
女の友情、成立…してるでしょう!
もうしばらく談笑してから二人は店を出る。そして別れ際、ガッツポーズを贈ってくれた親友に、まりかも高校以来久しぶりのガッツポーズを返したのだった。

 その足でまりかは明石の病室を訪ねた。彼はまたベッドで雑誌を読んでいたが、彼女の来訪に顔を明るくする。いつもの調子でいくつか言葉を交わした後、まりかは本題を切り出した。
「それでアカシア、風邪は引いてない?外泊の方は大丈夫そう?」
「はい、元気ですよ。車椅子の練習もバッチリです」
「そう…」
小さく鼻で深呼吸してから、彼女は美唄譲りの笑顔100パーセントで言った。
「じゃあ、行こっか、おいしいもの食べに」

 翌日金曜日、午後4時。各自の実習を終えた同村と美唄は、学生ロビーのいつものソファでまりかから預かったノートを整理していた。まず近所の印刷屋で一通りコピーし、それを各科のクルズスごとに仕分けしていく。周囲は同じように実習を終えた白衣姿の同級生たちで賑わっている。話題はこの時期、やはり進級試験のことだ。どこがヤマだとか、どの先生がどんな問題を作ったらしいぞとか…様々な噂が飛び交っている。
そんなざわめきに同村は内心辟易していた。以前から彼はこの雰囲気が好きではない。試験が近付くと学生たちは余裕を失い、会話もピリピリしてくる。特に4年生から5年生への進級試験の時はそれが尋常ではなかった。毎年平均して十五人前後が落とされる試験、留年の恐怖は最高潮に達していた。それはまるで沈没間近のタイタニック号、数に限りがある救命ボートを乗客が奪い合っている状態だった。今回の進級試験はそこまでの倍率ではないが、それでも毎年数名の留年は出ている。全員分の救命ボートはないのだ。
イライラしている同級生たちを見る度に、彼は空しくなった。医者になるために膨大な知識を頭に詰め込まなければならないのはわかる。留年の恐怖も勉強意欲を維持するために多少は必要な負荷なのかもしれない。でもこの試験期間のストレスは、医学生たちから大切な心を奪っているように思えてならない。「俺の成績はあいつらより上だから大丈夫だ」、「今年落ちるのは三人だから…あいつとあいつとあいつじゃないかな」、「おい、今度の試験の答え、医局からこっそりコピーしてきた奴がいるんだってよ。絶対買い取ろうぜ」…そんな言葉を耳にする度、医学部とは一体何なのかわからなくなる。
「ほら同村くん、手が止まってるよ」
「あ、ごめん」
美唄は楽しそうに作業をしている。どんな時でも笑顔を忘れず、絶対にイライラした姿を見せない…そんな彼女を同村は改めてすごいと思った。ちなみにこの二人がいまや恋人関係にあることは、同級生たちも知っている。別に記者会見で公式発表したわけではないが、そんな情報はすぐに行き渡る…私立医学部とは井の中より狭い世界なのだ。まあ5年生にして同級生でカップル成立というのは、かなり遅咲きだが…もともとはみ出し者の二人、くっつこうがどうだろうが大してセンセーションにはならない。そんなことより進級試験!…今はステディよりスタディの季節である。
「まりかちゃんのノートって本当にすごいね。クルズス中にこんなに綺麗に書けるなんて」
「先生が大切だって言ったことは完全網羅だもんな。多分、クルズス中に速記して…後で清書してるんじゃないかな。ほら、読んでばっかりいないで、今度は君の手が止まってる」
「お邪魔かな、御両人」
後ろから長がひょいと現れた。
「長さん、お疲れ様です」
「いや悪いな、手伝うって言ったのに遅くなっちゃって。なかなか実習終わんなくてな。…まだやることあるか?」
彼は二人の正面に腰を下ろす。
「ええ、今コピーを仕分けしてます。じゃあ長さんは外科系お願いできますか?」
「よしきた同村、任されよ。それにしてもすごい量だな」
長も感心しながらコピーの束を手に取った。
「本当にすごいですよね…秋月さん。ちゃんと今日の朝、俺に渡してくれたんですよ。一応他の班のと照らし合わせて試験資料を作るんですけど…もうこのまま秋月さんのノートだけでもいいかも。そのくらいの完成度です」
「ほら見て。まりかちゃん、自分でまとめのページとかも作ってる!すごいなあ。よーし、じゃあ三人で一気にやっちゃいましょう、エイエイオー!」
学生ロビーに響く声。冷たい視線も集まるが…いいんです、これが心を貧しくしないための彼女の試験対策なのです。

 二時間ほどが経過。時々談笑で手が止まりながらも作業は無事完了した。
「みなさん、ありがとうございました」
進級試験対策委員がお礼を言う。「いやいや」と副班長が笑った。
「楽しかったね、また写真も増えたし」
美唄は作業中もパシャパシャ撮影していた。試験も近いのに何をはしゃいでるんだと苦々しげな同級生もいたようだが、まあこれもご愛嬌。日も完全に暮れ、いつしか学生ロビーは同村たち三人と、他に数名が残るのみとなっていた。
「さて、では帰りますか」
立ち上がる同村。「お二人はこれからデートかな?」とからかいながら長も腰を上げる。
「やだ、違いますよ。明日もポリクリ発表会で学校じゃないですか。ちゃんと帰りますよーだ!」
と、美唄がピョンと飛び跳ねるように立つ。
「ハハハ、こりゃ失敬。ん?同村、どうしたんだ?」
見ると彼は立ち上がったはいいが、何かを探すように床をキョロキョロ見回している。
「…同村くん?」
「ここに置いておいた、秋月さんのノート、知らない?」
「えっ?それってコピーした元のノートのこと?」
美唄の瞳に不安の色が浮かぶ。
「そうだよ。ここに紙袋に入れて置いておいたんだけど…」
同村は座っていたソファのすぐ横、手を伸ばせば届く位置を示す。
「ないのか?」
長もその辺りを確認した…が、見当たらない。
「おかしいな、そんな馬鹿な!」
同村は少しヒステリックになって周囲の机やソファを動かす。美唄がまだ残っている同級生たちに「ねえ、ここに置いてあった紙袋知らない?」と呼びかけた。しかし返ってきたのは知らないという素っ気ない返事のみ。彼らは勉強しているようで、すぐまた教科書に視線を戻してしまう。
「見つからないの?同村くん」
「ああ…弱ったな、どうしよう。一体どういうことだ?誰かが間違って持っていっちゃったのかな」
「そんな…」
困惑する美唄。長は再びソファに腰を下ろし、腕組みして何かを考えていたが…やがて低い声で「同村、ちょっと座れ」と言った。彼はそれに応じ、美唄も従う。
「これは恐らく…盗まれたな」
長が周囲に聞こえないよう声を落として告げた。「まさか」と同村も小さく返す。
「それ以外ないだろう。勘違いして持っていったんなら、すぐ返しに来るはずだ。学ロビは出入りも多いし、人も大勢いたから、さり気なく持って行けば誰も気が付かない」
長は厳しい目つきで同村を見た。
「俺たちが話してるのを聞いてれば、あれが秋月さんのノートだってのはわかっただろう。特待生のノートだ、欲しい奴はいっぱいいる」
「でも、盗むなんて…」
そう口にした美唄を見て長が続ける。
「別に珍しい話じゃない…残念だけどな。この学年でも、今までも試験資料がなくなったり、特定のグループにしか回らなかったり、試験日時変更の情報が隠されたこともあった」
「…ふざけてる」
同村が憤る。
「この大学の留年事情を考えれば有り得ないことじゃない。進級のためならそんなこともするさ」
人生の先輩は溜め息を吐いた。
「俺もソファの横の紙袋は確かに見た。それが勝手に消えるわけがない、…やられたよ」
「そんなの…」
美唄は何か言いかけたがそこでやめる。状況を踏まえれば、長の推測以外考えられないではないか。同村は「くそっ」と吐き捨てがっくりと項垂れた。
「同村、落ち込むのはまだだ。冷静になれ、とにかく探そう。とりあえずこのコピーは大事に保管して、みんなで探そう!」
長は腰を上げると、二人にロッカールームや教室を見回るよう指示する。
「俺はバイクで近くの印刷屋とコンビニを回ってみる。盗んだ奴がコピーしてるかもしれないからな」
「わかりました、お願いします」
そう言うと同村は走り出す。美唄も後を追い、長は急いで駐車場に向かった。
見つかってくれ…どうか、見つかってくれ。心の中で何度もそう祈りながら。

 さらに一時間後、三人は再び学生ロビーに集合した。残って勉強していたグループも帰ったらしく、その場にはもう彼らしかいない。
一縷の望みを託して思い当たる場所全てを探し回ったが…まりかのノートが入った紙袋が見つかることはなかった。
「ごめん…あたしのせいだ」
言葉を失くした二人に、美唄が震える声で詫びはじめた。自動販売機の明かりが彼女の顔に哀しい影を造っている。
「だってあの紙袋…あたしの座ってた位置から一番よく見えたもの。あたしの目が悪いから…視野が狭いから…」
「何言ってんだ!そんなの関係ない!俺の責任だ、俺がちゃんと持ってりゃよかったんだ」
怒鳴る同村。彼女はしゅんとなって俯く。
「そうだよ、美唄ちゃんは全然悪くない」
長が無理に明るく言った。
「悪いのは盗んだ奴だ。そいつが全部悪いんだ。だから同村、お前も自分を責めるな。お前は仕事をやってただけなんだから」
「でも…こんなの…畜生っ!」
同村が叫んだ。その声は夜の学生ロビーに寂しく響く。
「くそ、くそ、何だよ、医学部って…何なんだよ、勉強って…」
彼は床に座り込んだ。そして両腕で頭を挟んで声を漏らす。…泣いている?そう、泣いているのだ。
「そこまでして進級したいのかよ、それで医者になって満足なのかよ…」
見守る二人は、改めて感じた彼の純粋さに心を痛める。
「畜生、畜生、俺、情けないよ。そんな奴が同級生にいるなんて…情けないよ!ウ、ウウウ…」
「同村くん、もう、やめて…」
美唄も涙声になっている。
「ほら同村、立てよ。彼女の前でみっともないぞ。…幸いコピーは無事なんだから、明日秋月さんにそれを返して三人で謝ろう。な、そんな思い詰めんな」
副班長は同村をなだめ、二人をそのまま帰路に着かせる。彼らより人生経験が多い分、こんなことも少なからず味わってきた彼。人間なんてそんなに綺麗なものじゃない…医学生だって同じだ。他人を蹴落としてでも前に進みたい、バレなければ不正をしても構わない…そんな連中だっている。悪意はどこにだって潜んでいる。わかっていたはずだ。14班の居心地のよさに忘れかけていたことを、この日はっきりと彼は思い出したのであった。

 翌日土曜日の午後、一回目のポリクリ発表会が開催された。会場は教育棟4階の階段教室、一年前の春に新5年生となった彼らが白衣とネームプレートを配布された場所だ。室内の照明は落とされ、明るいのは正面の壇上のみ。現在そこに出て発表しているのは3班。白衣姿の六人は読み上げる原稿を分担し、スクリーンに画像や図表を映しながら、消化器外科で学んだ術式を紹介している。ジョークなど一切挟まない真面目一辺倒の語り口…それもそのはず、聴衆の大部分は同じく白衣姿の同級生だが、前列の座席に並んでいるのは各科の教授陣。所用で欠席の者もいるが、それでも錚々たる顔触れが二十人以上も一堂に会せば緊張するなという方が無理がある。
「俺、改めてがっかりしたよ…医学部に」
後方の座席、同村が隣の山田に小声で言った。話題は昨日のノート盗難のこと。一部始終を聞かされた友人は、「しょうがねえべ」と白衣を腕まくりする。
「今までだって、そんなことばっかだったべ。カンニングなんて当たり前だし、情報隠したり嘘を教えたり…。そんなことやっても別に大した成績じゃねえしよ、そういう連中は。レベルの低い奴らなんて放っておけ、ドーソン」
「今こうやって座ってる教室に…盗んだ奴がいるんだぞ」
同村は同級生たちの後頭部を冷ややかに見回した。
「考え過ぎるなって。今回のことはお前に一切責任ねえべ」
「でも、秋月さんのノートが…」
「一晩中、学ロビで見張ってたんだろ?十分償ったべ」
作や一度は美唄と帰路に着いた同村だったが、実は気になって一人また大学に戻ったのだ。もしかしたら良心の呵責に耐えかねた犯人がこっそり返しに来るかもしれないと…。無口な男は朝までねばったが、結局誰も現れることはなかった。
「山さんはそういうの気にならないのか?試験資料盗む奴がいても…」
「どうでもいいべ。勉強って結局自分でやるもんだしよ。自力で試験受けて落ちたんなら悔いねえよ」
言い切る山田。相変わらずの自信と歯切れのよさが同村には心地よかった。これまでの試験でもそうだった。山田は自信を持って問題を解き終わると、見直しもせず誰より早く試験会場を出ていく。逆に同村は終了時刻まで座席に残り、最後の最後まで考え続ける。大多数は出るか残るか周りの動向に合わせる学生ばかりの中、この二人は行動は正反対ながらやはり似通っていた。
「山さん…君はかっこいいな」
「何言ってんだ、気持ち悪いべ」
山田は照れたように鼻を掻く。今日は実習ではないので髭も剃られていない。
「ほとんどの奴は無難に医者になれればそれでいいって思ってるんだべ。この発表会だって見てみろ、誰も発表なんか聞いてねえ。みんな進級試験の勉強してるじゃねえか」
同村は改めて観察する。確かに多くの学生が下を向いて内職していた。
「発表してる連中だって俯いて原稿読んでるだけ。別に聞いてほしくもねえのさ。さっさと終わらせて、自分らも勉強したいんだろ」
「でも発表の後、質疑応答をしなくちゃいけないだろ?」
「そんなのあらかじめ仲のいい奴に頼んであるんだよ。仕組まれた質問でなきゃ答えられねえからな。かといって質問が出なかったら評価が下がっちまうし」
同村は溜め息。
「つくづく終わってんなあ。じゃあ俺とかが急に質問したらどうなるんだ?」
「そりゃ後で総スカンだろうな。教授の前で質問に答えられなかったら、それはそれで評価が下がるし…本当の質問なんて迷惑なだけだべ」
「ますます終わってんなあ。そんな不毛なデモンストレーションのために、みんなこうやって何時間もここに座ってるのかと思うと」
そこで山田も溜め息。ただしこれは成長のない親友への呆れ。
「大学がやれって決めたからやってるだけなんだよ、みんな。逆らっても意味ねえ。何度も言っただろ、お前もいい加減慣れろよ…っていうか割り切れ」
室内には黙々と問題集を解く学生たち、そこには誰も望んでいない発表の声がマイクで響いている。
「教授たちは…これでいいと思ってるのかな」
「言ったろ、無難に終わればそれでいいんだって…みんな。じゃあ俺、寝るべ」
山田は机に伏した。やがて質疑応答という名の茶番劇が行なわれる。用意された質問に用意された回答。その不自然なやりとりに同村は辟易する。せめてもう少しセリフを工夫しろよ、と文芸部ならではの余計なことも考えてしまう。
「はい、お疲れ様でした。では3班は下がってください。次は4班、お願いします」
発表会の司会進行は学務課の喜多村。読者のみなさんはご記憶かな?一年前のポリクリ説明会でも壇上で話していたスーツにメガネの男性。彼に促され、次の班が正面に出た。そしてまた誰も聞いていない原稿を読み始める。
「ああ…不毛の極みだ」
同村は嘆くしかなかった。

「え?秋月さん帰っちゃったの?」
午後4時過ぎ、発表会の終わった教室で同村は美唄と話していた。
「うん、なんか洋服買いに行くからって急いで帰っちゃったの。あたし、隣に座ってたんだけど、昨日のこと言い出せなくて…」
「う~ん、まいったな。ノートのこと謝らなくちゃいけないのに」
まだ元気の出ない同村に、美唄は謝るのは月曜日にしようと提案した。
「せっかくの土日に嫌な気持ちにさせても悪いでしょ。あたしたちもずっと悩んでてもよくないしさ、図書館で自習してから晩ごはんでも行こうよ」
美唄はいつもの明るさでガッツポーズ。同村も気を取り直し、「よし、そうするか」と自らに喝を入れる。
「じゃあごはんはどこに行こうか」
「決まってるじゃない、元気の秘訣、キーヤンカレーよ」
「…やっぱりそうなのね、遠藤さん」

 そして日曜日。朝9時に待ち合わせたまりかと明石は、そのまま区民会館で行なわれる講演会に参加した。
「どうするアカシア、先にトイレ行っとく?」
「もう先輩、子供じゃないんですから、行きたい時は言いますって。それに車椅子押すのも無理しなくてもいいですよ。自分でも操縦できますから」
「今日くらい優しい先輩に甘えときなさい」
「はーい、じゃあそうしまーす」
そんなやりとりをしながら会場に入ると、そこには同じく車椅子の者、そしてその家族や介助者と思われる者たちがたくさん集っていた。座席もそれを想定した配置になっている。二人が隅の席に落ち着くと、間もなく開会した。
「みなさん、この度は日曜日の貴重なお時間にお集まりいただいてありがとうございます」
車椅子の女性が肉声で挨拶をした。そしてこの会が難病の神経疾患について知ってもらうためのものであること、自らもその当事者であること、そして多くのボランティアスタッフ、医療・福祉の関係者の協力で開催が実現したことなどを説明する。
「もしかしたらこの会場には、病気になって生きる道を見失われた方もいらっしゃるかもしれません。かつては私もそうでした。今日は進行性の病気と生きている方々の素直な声を届けたいと思っています。何か一つでも、道を探すヒントになれば嬉しいです」
そこで女性は深々と一礼。続いてマイクが用意され、一人ずつ神経疾患の当事者が登壇して自らの経験を語っていく。小学生の頃に発病して好きな水泳をあきらめた車椅子の青年、病気を知ってからアルプス登山に挑戦した松葉杖の老婦人、会社を立ち上げて自宅で仕事をしているシステムエンジニアの中年男性…それぞれの病名、それぞれの苦労、できることとできないこと、失った物と手にした物が赤裸々に語られていく。まりかは時々ちらりと隣の明石を伺ったが、彼は小さく頷いたり目を閉じたりしながら、各人の話に聴き入っていた。
彼女は考える。もしかしたら彼もやがてこんな講演会に立つのだろうかと。もちろんそれも生き方の一つだ。当事者だからこそ伝えられるメッセージがある…それはこれまでのポリクリでたくさん思い知った。でも…どうなのだろう、だからといって当事者は必ずそういう生き方をしなくてはいけないのだろうか。
じゃあ医者は?医者はどう生きればいい?大学に入った後、人づてに彼の現状を聞いて一度だけ養護学校の寮を訪ねたことがあった。ちょうど彼の母親も来ていて、医学生だと自己紹介すると、笑顔で言われた…「治してやってね」と。
…治してやってね、治してやってね。その言葉は今も胸の奥に鈍く痛みを与え続けている。治す…医学を学べば学ぶほどそれができないことを痛感した。治せない医者は何をすればいい?そもそも明石にとって自分は医者なのか?友人なのか?それとも…。
「それでは次の方をご紹介します」
司会者の声でまりかは我に返る。気付けば一時間半が経過し、最後の演者が登壇した。その男性は人工呼吸器を装着しており、車椅子を押す妻が代わりに彼の書いた原稿を朗読した。徐々に身体の能力を失い、現在残っているのは眼球と指先を僅かに動かす力だけ。それでも彼はこうやって人前に出て講演活動を続けているという。
「一度は電車に飛び込もうとしたこともありました。食事も、排泄も、家族との会話もできなくなって…生きている意味はないと思いました。そして医師からは、人工呼吸器を使うかどうかの選択を託されました」
使わないこと、それはつまり死を受け入れるということ。尊厳死…積極的な延命処置を受けない権利は日本でも認められている。
「一度は断わろうかと思いました。しかし、この会に出会い、たくさんの人たちの姿を見て…私は決めたのです。顔の筋肉を動かすことはできませんが…今、私は笑っています」
会場から拍手が起こる。まりかも思わず合わせたが…明石は応じていなかった。ただ穏やかに微笑んで、壇上の夫婦を見ていた。

 夕刻、南新宿にある大きな公園は穏やかな日差しに包まれていた。区民の憩いの空間となっている広い敷地、その中心には名のある芸術家がデザインしたという巨大な噴水がある。春にはピクニックで賑わう野原がそれを囲み、さらに野原の外周は整備された散歩道となっている。
その上をゆっくり歩きながら、まりかは明石の車椅子を押していた。風は冷たく、彼女も大きな水色のマフラーを巻いている。少し遅めのランチを共にし、二人はその足でここにやって来たのだ。かれこれもう一時間近くグルグルと園内を回っている。
「アカシア、寒くない?」
今日の彼女はメガネではなくコンタクト、薄くメイクもしてスカートの丈もいつもより少し短い。
「僕は大丈夫です。先輩こそ大丈夫ですか?」
明石は穏やかな表情で答える。
「大丈夫よ、あんたとやったお正月の特訓に比べたらこんなのヘッチャラ」
「…ですよね、フフフ。あ、こんにちは」
天気にも恵まれ、すれ違う散歩者やその愛犬にも声をかけながらゆっくりゆっくり公園を回る。
「知ってます?この公園、『五本桜公園』っていうんですけど、もともと小学校だったのを改修したんですって。ほらあそこ、五本の桜が並んでるでしょ。あれが名前の由来です」
「へえ、そうなんだ。じゃあ春にはお花見もできるのかな」
「できたらいいですね…。そうだ、春の部活勧誘の時のこと憶えてます?あの時みんなで踊りましたよね。先輩、リズム感全然ないから笑っちゃった」
「余計なお世話だよ」
思い出をたどりながら、時折未来を思いながら、彼らの時間は螺旋を描くように優しく優しく流れていく。斜陽は少しずつ遠くに聳える高層ビルの間に沈んでいく。
「日暮れが近いね。風邪引くといけないからそろそろ帰ろうか」
明るく提案するまりかに、彼は「そう…ですね」と少し残念そうな声を返した。
「じゃあ、もう一周だけいいですか?もう一周だけ」
「可愛い後輩の頼みだ、叶えてあげましょう」
「やったー!」
車椅子を押す彼女からは彼の表情は見えない。でもそれが逆に話しやすくもあった。
「じゃあ最後の一周、初デートをしっかり噛み締めまーす」
「思い上がるなっての、デートじゃないよ」
まりかがいつもの調子でそう答えると、後輩は一瞬の沈黙を置いて「じゃあ、何ですか?」と返した。おどけた口調ではなく、それは厳しい声だった。
「デートじゃないなら…介護、ですか?」
そう呟いた明石の後頭部を見ながらまりかは固まる…が、すぐにポンとそれを叩いて笑顔を作った。
「バーカ、何言ってんの。たまには後輩とごはんでも食べようってただそれだけのことでしょ。仲間と会うのにいちいちややこしいこと考えてないって」
そこで明石も振り返り、いつもの調子に戻って「あ~、先輩が可愛い後輩をぶったあ」と甘えるのだった。

「先輩、あそこの木…ニセアカシアですよ」
改めて散歩道を半周したところで、明石が小さな丘の上の一本の木を指差した。日も暮れなずみ、木々に囲まれたやや闇の濃い一角に二人は差し掛かる。
「へえあれがそうなんだ。私、木とか全然わからないから。ニセアカシアか…じゃあ、あんたのニセモノだね」
「フフフ、そうですね。やっつけないと」
車椅子を押すのを止め、彼女は「ここから何メートルくらいかな」と口にする。
「う~ん、ざっと20メートル強ってとこじゃないですか」
「あんたなら楽勝でアーチェリーで仕留められるね」
思わずそう言ってからはっとする。
「…ごめん」
「やだなあ、何を謝ってるんですか」
彼の様子は明るいままだったが、実際にどんな顔をしているのかまりかには見えない。
「まったく…先輩は相変わらず肝心なことがわかってないんだから。そりゃあ、僕はもうアーチェリーはできないし一緒に歩けないですけど…」
不思議なほど落ち着いた声で彼は続ける。
「先輩の声は聞こえるし、先輩の顔も見えます。こうして一緒に出掛けることだって…まだなんとかできてます」
振り返って彼は言った。
「僕が幸せを感じるのには…それで十分なんですよ?だから僕も…やっぱり人工呼吸器は着けたいな」
そこには屈託のない笑顔があった。それが強さなのか弱さなのかわからなかったが、彼女は心からこの後輩を誇らしく思った。
「アカシア…」
まりかが言葉を掛けるよりも先に彼は前に向き直り、弓で的を射るジェスチャーをしてみせた。見えない矢はあのニセアカシアの木を狙っている。
「僕ね…あの頃、まっすぐ前ばかり見てました。部活で活躍して、大学でも色々なことに挑戦して、やりがいのある仕事に就いて…そんなふうに一直線に未来に飛んでいけるって思ってました」
彼は見えない弦を弾く。
「でも…矢は予想外の方向に飛びました。まさにアーチャーズパラドックス、まだまだ修行が足りません」
「アーチャーズ・パラドックス…」
まりかは口の中でくり返す。それは的を狙って射っても、矢は予期せぬ力の影響で思わぬ方向に飛んでしまうことがある…というアーチェリーの用語。
「でも先輩、大丈夫です。ご存じのとおりの天才ですから、パラドックスも利用してちゃんと未来を射抜いて見せます」
彼の両肩に手を置き、まりかも力強く頷く。
「うん…あんたならできるよ。何しろ私の自慢の弟子なんだから」
「はーい、頑張りまーす。じゃあついでに先輩のハートも射止めちゃおうかな」
「調子に乗るなっての!」
そこで二人合わせて笑う。まりかは思った、…色々考えたけどやっぱり一緒に出掛けてよかったな、と。自分にできるのは小さな優しさをかけてあげることだけ、でもそれがほんの僅かでも彼の心の支えになるのなら…。
穏やかに過ぎた一日。あとはこのまま帰路に着くだけ…しかしここでも運命の矢はアーチャーズ・パラドックスに見舞われてしまう。二人の幸福の時間は、突然終わりを迎えた。

「なあお二人さん…見せ付けてくれるやんけ」

突然木の陰から現れたのは、派手なシャツにパンチパーマのいかにも柄の悪そうな男だった。不安定な足取りと焦点の合わない目でのっそりと近付いてくる。
「さっきからグルグルグルグルと何周もイチャつきやがって!にいちゃん、ずっと女に椅子を押してもらってええご身分やのう!」
…最低の人間だった。酒に酔っているのか、それとももっとやばい薬物でもやっているのか、呂律もはっきりしない。まりかは車椅子を引いて数歩後ろに下がる。その手が震えていることは明石にも伝わった。
「にいちゃん、金貸してくれや。持っとんやろう?それともそのねえちゃんでもええわ。そんな可愛い格好して、男を誘ってるんやろ?だったらそんな歩けん男より、俺が相手しちゃるわ!」
人間のクズは突然襲いかかってきた。彼女は車椅子を押して逃げようとするが、焦りもあってなかなかうまく進まない。
「先輩、僕はいいから逃げてください!」
明石が叫んだ。まりかは「そんなわけにいかないわ!」と必死に車椅子を押そうとする。それを見かねたように明石は彼女の手を振り払った。
「何するの!」
「いいから、逃げて!」
「できるわけないでしょ!私はあんたの…」
「関係ない!」
彼はまりかの言葉を遮ってさらに強く言う。
「今は関係ないです、先輩とか後輩とか」
彼女の瞳を見つめながら彼は懇願した。男はすぐ後ろまで迫っている。
「僕があなたを守ります。だから逃げてください、お願いします、お願いだから!」
男の手がまりかに届く寸前、明石は車椅子を飛び出した。そして次の瞬間、静かな公園に響いたのは、彼女の悲痛な絶叫であった。

 同日午後9時、日曜だというのに同村は学生ロビーにいた。隅の机で自習しながら、誰かがまりかのノートを返しに来るのを、また性懲りもなく待っていたのだ。時々ロッカールームなども見回ってみた。山田には割り切れと言われたがどうしてもあきらめ切れない…医学生の良心を。医学部に嫌悪を抱きながらも、もしかしたら彼は誰よりも医学部を信じているのかもしれない。信じたいのかもしれない。しかしそんな願いは届かず、結果は同じであった。
勉強も一区切りつき、同村は深い溜め息と共に壁の時計を見る。
「もう…こんな時間か」
独り言の癖は相変わらずだ。
「やっぱりダメだったか。明日、秋月さんに謝らなきゃ」
腰を上げたところで、彼はひとつの可能性を思いつく。
「そうだ、もしかしたら学務課に…」
教育棟やその周辺の落とし物・忘れ物は学務課に集められる。つまりあの紙袋を誰かが拾って届けているかもしれない。あるいは盗んだ犯人が、拾ったふりをして届けているかもしれない。それでもいい。残された望みを信じ、彼は隣の建物にある学務課を目指した。
足早にそのドアの前に立ったが、ノックする寸前にふと気付く。今日は日曜日…大学が休みなので学務課も当然やっていない。そもそも平日でもこんな夜遅くに職員がいることは滅多にない。
「頭が回ってないな、俺…何やってんだか」
脱力してその場を離れようとした時、室内から怒鳴り声が聞こえた。
「まったく、大変なことをしてくれましたね!」
それは鼻息を荒くした喜多村だった。同村は反射的に中の様子に聞き耳を立てる。
「…本当に申し訳ありませんでした」
謝罪する女性の声には聞き覚えがあった。
…秋月さん?思わずドアに耳を当てる。
「今、院長と学長が家族に謝罪に行ってます」
同村は一瞬、ノート盗難事件のことかと考えた。しかしそんなはずはない。まだまりかに伝えていないし、そもそも彼女は被害者だ。じゃあ…一体どういうことだ?
「日曜だってのに、私も呼ばれて今大学は大騒ぎです。わかってますか?事の重大さが」
普段の様子からは想像もつかない喜多村の怒号。彼女は謝罪の言葉をくり返すばかり。
「君を庇ってチンピラに殴られた?医学生の君が、こともあろうに入院患者を連れ出して危ない目に遭わせたんですよ!これが病院にとってどういうことかわかっていますか?幸い精密検査でも大した怪我はありませんでしたが、もし近くにいた人が助けに入ってくれなかったらどうなっていたことか…」
怒声は廊下にまで響いている。同村は呼吸することも忘れその場に立ちつくす。
「学生の質が落ちたと言われる中、君は四年間ずっと一番の成績でした。だから先生方も期待していたんですよ。それなのに…結局君も同じか。自覚に欠けているというか、考えが甘いというか。そんなオシャレまでして、試験も近いのにはしゃいでる時じゃないでしょう。まったく、これだから医学生は…」
詳しいことは何もわからないが、同村は喜多村の言い草に苛立ちを感じる。仲間に対してあんまりだ。しかしここで自分が飛び込めば、それこそ彼女を追い詰めることにもなりかねない。
「とにかく、明日からの神経内科の実習は当然中止!その後のポリクリについても処分が決まるまで自宅謹慎すること。…処分は決まり次第連絡します」
「…わかりました」
まりかの素直な返事。その声には全く感情がない。
…おいおい、これはまずいんじゃないか?同村の背筋に冷たい汗が伝う。
「君は14班の班長でしたね。今後事務連絡は副班長に行ないますから」
喜多村はそこまで言い切ると、一度大きく息を吐き、少し冷静な声になって続けた。
「まあ大丈夫…退学にまではならないと学生部長もおっしゃっていました。でも、今回の進級はあきらめてもらうことになると思います。それは覚悟しておいてください」
同村の心臓が大きく脈打った。ドアの向こうのまりかは、ただ「はい」と答えている。

…特待生が留年。
こうして、ポリクリも残すところあと僅かというところで、14班に…いや、5年生全体に激震が走ったのである。

2月、ポリクリ発表会編に続く!