第9話 最高のクリスマス・イブ (救命救急センター)

 季節は巡って冬が到来、タイトルどおりの12月24日である。しかも今年は金曜日…恋人たちにとってはグッドタイミングの週末だ。ところがどっこいこちとら医学部5年生はメリクリよりもポリクリ、特に今週14班が回っているのは救命救急…過酷さナンバーワンで知られる科なのだ。あまりのバッドタイミングに他の班から哀れみの視線も注がれる。
さて、物語を始める前に説明を少々。すずらん医大病院の救命救急センターは1階の一角にあり、救急搬送を受けるその性質上、出入り口も正面玄関とは別の独自な物となっている。ここでの実習は、クルズスもレポートも口頭試問も一切なし。その代わりにとにかく実戦…『実践』ではなく『実戦』、救命救急の現場はまさしく戦場なのだ。その最前線は大きく三つ。現場へ駆けつけて患者を搬送する救急出動、それを迎える救急外来、そしてそのために夜を徹して待機する当直業務。学生は二人ずつのチームに分かれ、交代でこれらを経験していく。
では実習最終日となる本日のチーム分けを見てみよう。救急出動チームは同村と美唄、朝から南新宿消防署でお世話になる。救急外来チームは長と向島、同じく朝からすずらん医大病院の救命救急センターに詰める。そして夜間当直チームは井沢とまりか、夕方から来てそのまま翌朝まで…まさしく戦場のメリークリスマスとなるわけだ。
それではいきましょう、今年最後の物語。イブには奇跡が起こるというけれど、はたして神様の思し召しは?山下達郎さんのBGMでお楽しみください。

午前7時前。朝もやの中、一人の男がバイクを走らせている。彼の通学所用時間は片道約一時間、実家を出て一人暮らしをしてもよい距離だが…三十路街道にいる医学生はこれ以上両親に負担をかけるわけにはいかなかった。だったらバイトでもしろよと思われるかもしれないが、そんなことをしてもし留年でもすればそれこそ余計な学費で負担をかける。サラリーマンの父親が定年退職するのもそう遠くない未来。一日も早く医者になって自立しなければ…毎朝老いていく両親の顔を見る度に思う。そんな彼の名は長猛、浪人生グループのボスにして14班の副班長である。
冷たい空気を切り裂きながら、バイクは四ツ谷を抜け新宿に入った。歩道橋のアーチの向こうには南新宿の高層ビル群が遠く霞む。思わずヘルメットの中で漏れる溜め息。ここはコンクリート・ジャングルの東京。人も、車も、寒空の下で忙しなく行き交い…自分もまたそのくすんだ一粒に過ぎなかった。
向島との待ち合わせは7時半。こんなふうに集合の早い日には、自宅で朝食は摂らず途中の弁当屋でパンとコーヒーを買うのがお決まり。愛車を道路脇に停めると、彼はその小さな店に足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ、おはようございます!」
「おはようございます…長谷川さん」
元気な声と暖かい空気に迎えられた彼は、ヘルメットを小脇に抱えて挨拶を返す。眠らない街・新宿らしい24時間営業の弁当屋は、この時刻でも当たり前のようにおいしそうな香りを奥の厨房から漂わせている。出迎えた女店員の歳の頃は30半ば、制服の青いエプロンに茶髪のボブがよく似合い、少々丸みを帯びた体型も可愛らしさを引き立てていた。
「先生、寒いのに随分早起きね。お忙しいのかしら?」
「ですから、俺はまだ先生じゃないですって。学生は朝早くから今日も実習です」
「あらごめんなさい、つい…もうすっかりお医者様の貫録だから」
「勘弁してください。長谷川さんこそこんな時刻に働いて…ちゃんと休んでます?」
やりとりからもおわかりのように、長はすっかり常連客。
「私は夜から朝までのシフトが多いから。もうすぐ上がって、娘を幼稚園に送ってから寝るの。そんで夕方起きて、娘を迎えに行ってからまた出勤って感じ」
「夜に娘さんと離れて仕事なんて、お寂しいですね」
「うちは母子家庭だから、そんくらい働かないと生きていけないの、ホホホ」
彼女は明るく笑う。長は手にしかけたカツサンドをそっと棚に戻した。
「クリスマスくらい娘のそばにいてやりたいんだけど、今夜は若い人の休み希望が多いのよね。私、特別な資格も何もないから、こういう時にポイント稼がないと」
「娘さん、おいくつでしたっけ?」
「今6歳、来年はピッカピカの1年生よ。みやびっていうんだけど、まあ大きくなったら美人になりますよ、私みたいに。なんてね、ホホホ」
彼女…長谷川悦子はよく笑う。家事と育児と仕事に追われ、おそらく自分の時間などほとんど持てずにいるのだろうに、そんなことはおくびにも出さない。長は合わせて笑いながらも、彼女のすごさ、女の…母の強さを感じた。悦子がそっと後ろを振り返る。台の上に置かれた写真立て、その中で白いワンピースの少女が眩しく微笑んでいた。
「それが…みやびちゃんですか。優しそうな子ですね」
確かに笑った顔がお母さんにそっくりだと長は思う。
「ええ、天使みたいな子よ…私にはもったいないくらい。この写真立てね、深夜のシフトの時だけこっそり置いてるの。せめて心だけでも一緒にいられるように」
彼女は少ししんみりする。
「クリスマスにねえ、好きなアニメのゲームソフトが欲しいって言っててね。何だっけ?よくコマーシャルでやってるあの…そう、『フニー仮面の冒険』とかいうの。あの子、いつも留守番で寂しいから買ってあげようと思ってたんだけど…人気だから前から予約しておかないと買えないんだってね。私、そういうのよく知らないから…」
長はどう答えたらよいかわからず、「そうですか」と控えめに返す。気を遣わせたことを察して悦子はすぐに笑顔に戻った。
「まあ、仕方ないわ。そのうち手に入るでしょ、そしたら誕生日プレゼントにします」
「ハハ、そうっすね。え~と、じゃあこれを」
「はい、タマゴサンドとコーヒーですね」
彼女はリズミカルにレジを打つ。
「341円になります。そういえば先生は結婚とかしないの?」
「だから先生じゃないですし、先生になっても当分は修行の身ですから」
「こりゃ余計なことを言いました、ホホホ。はいこちら、商品になります」
代金と引き換えにビニール袋を受け取る。
「毎度ありがとうございます。安全運転でいってらっしゃい、ファイト!」
彼女がくれる元気を背中で受けながら、再び冷気の中へ出る。バイクにまたがると、彼は排気ガスと溜め息が溢れた砂漠へと走っていく。新宿の片隅の小さな弁当屋は、日常の中で見つけたオアシスであった。

 午前10時、救命救急センター。ここには急病や事故で生死の境をさまよう患者たちが運ばれてくる。迎えるスタッフも死に物狂いで一分一秒を争っている。正直悠長に学生指導をしている余裕などない。長と向島はできるだけ邪魔にならぬよう壁際に立ち、緊迫の中で施される処置を見守るしかなかった。
一命を取り留める者がいる一方で、当然そうではない者もいる。心筋梗塞や脳出血、交通事故や転落事故…その病態は多岐に渡るが、死の海に沈みかけた生命を陸地に引き戻すのは並大抵ではない。すでに朝から六名が運び込まれ、三名が帰らぬ人となっていた。
「また…ダメだったね」
隣で向島が小声で言う。
「はい…ビルの窓拭きで6階から転落ですもんね」
中には運び込まれた時点でもう手の施しようのない場合もある。それでも僅かな可能性に一縷の望みを託し、患者と家族はやってくる。
今日二人目に運ばれてきた50代女性もそうだった。朝食の最中に胸を押さえて倒れ、この処置室で懸命な蘇生術が行なわれたが、その瞳が再び開くことはなかった。死亡診断後に室内に呼ばれた夫と娘は、横たわる最愛の家族に駆け寄り、何度も何度もその名を呼んで泣き叫ぶ…何もできない学生は、その慟哭の光景を直視することさえままならなかった。
…もしかしたら、今夜は家族でクリスマスを過ごす予定があったのかもしれない。老後には夫婦水入らずで旅行する計画もあったかもしれない。娘が彼氏をお披露目する日を楽しみにもしていただろう。
そんなことを考えながら、長は三年前に祖父の訃報を受けた時のことを思い出していた。死は嫌でも死を呼び起こさせる。ほとんど学校に行かずに好き放題していた高校時代、多くの身内が白い目を向ける中で最後まで叱ってくれた祖父。自分の将来をずっと心配してくれていた祖父。医学部に受かったことを誰よりも喜んでくれた祖父。医者になれた時一番に報告したかったのに…間に合わなかった。棺の横で涙したあの日…それは長が人前で泣いた初めての記憶だった。
目の前で繋ぎ留められる命、それが叶わぬ命を見ながら、彼は改めて痛感する。死は突然訪れるのだと。心臓外科の実習で直接目にしたあの脈打つ心臓…それがいつ停止するかなど誰にもわからない。大晦日の最後の一秒まで、自分が無事来年を迎えられる保証などどこにもないのだ。

 所変わって、こちら南新宿消防署。同村と美唄は隅の机でそれぞれ教科書を読んでいた。ここでの実習は、出動する救急車に同乗して隊員たちの業務を体験すること。よって、出動要請が来るまではひたすら待機。現在午前11時、今のところ出動はなし。隊員の控室でペチャクチャお喋りをするわけにもいかず、学生は自習に勤しむしかなかった。
まあ仮に周りに人がいなかったとしても、お喋りできたかは疑問だ。同村の愛の告白の夜以来、二人の間にはまだ気まずさが漂っている。みんなといる時はそれほどでもないが、こうして二人きりになるとどうしても意識してしまう。あれだけ当たり前だった一緒に地下鉄で帰ることさえ、未だにどちらからも声を掛けられずにいる。班員たちもそれを感じ取り、以前のように同村をからかうことはなくなった。それが余計に彼を惨めにするのだが…フラレた男とはそういうもの、精進するしかない。それにしてもジャンケンで決めたチーム分けでペアになってしまうなんて…しかもクリスマス・イブの日に。よりにもよってとはこのことだ。
「来ないね…出動」
対面の美唄が視線を教科書に落としたままポツリと呟く。
「そ、そうだね」
「井沢くんの情報だと、ない時は全然ないらしいから、まあ仕方ないね。それに、出動がないのはいいことだよね。イブなんだし…平和が一番だもん」
ポケットサイズのルーペを時々使用しながら、ゆっくりページをめくる美唄。同村はそんな姿を見て、また彼女の病気のことを考えてしまう。かといって押し黙るわけにもいかず、文芸部は苦肉の策で愚かなセリフを返すしかなかった。
「そうだね…今夜、ホワイトクリスマスになるかな?」
「何をアホなことを言うてんねん、にいちゃん」
後ろから激しいツッコミ。救急隊員の佐野だった。彼は缶コーヒーを片手に歩み寄る。
「雪が降ったら事故が増えるやろ。それやなくても今夜は出歩く奴がぎょうさんおるやろうしなあ、雪なんてとんでもないわ」
大阪弁丸出しの彼は50代半ば。筋肉質でまさに体力勝負の救急隊員といった風格。
「す・すいません」
同村が慌てて頭を下げると、途端に豪快な笑いが返される。
「ハッハッハ、別にええねん。にいちゃんらはまだ若いんやし、クリスマスは楽しまなあかんで。5時には帰したるさかい、しっかりこっちのねえちゃんとデートせえ」
「やだ、違いますよ。あたしたちそんなんじゃないんです」
美唄が笑顔で完全否定。…追い打ちだね、同村くん。男は辛抱だ。
「なんや違うんかいな。俺の勘も鈍ったのお、すまんすまん」
佐野がバンバン同村の肩を叩いた時、頭上のスピーカーから声が流れた。
「通信指令室より入電中。南新宿4丁目のタワービル35階で、40歳男性が会議中に倒れたとの通報。現在意識は回復しており麻痺などない様子。至急出動せよ」
「よっしゃ行くで、にいちゃん、ねえちゃん!」
缶コーヒーを投げ捨てて走り出す佐野。二人も教科書を放り出して慌てて後を追う。佐野の足は恐ろしく速い。弾丸のように1階まで駆け下りると、彼は他の隊員たちと共に救急車に乗り込んだ。学生二人も遅れて飛び乗った瞬間、乱暴にドアが閉められる。そしてサイレンを打ち鳴らすと、間髪入れずに消防署を飛び出した。
車内は難破船のように激しく揺れる。進行方向に対して横向きに座っていることもあり、乗り物に弱い者ならすぐに酔ってしまうだろう。それでも隊員たちは振動などものともせず、緊迫の中でただ沈黙している。
「にいちゃん顔色悪いな、大丈夫か?」
佐野がジロリと同村を見た。
「だ、大丈夫です。行き先はタワービルでしたよね?」
「その35階や。高層ビルやから着いた後も現場まで時間がかかるで。まあ意識は戻っとるみたいやから、大丈夫やと思うけどな」
「それでもこうやって全速力で出動するんですね」
「当たり前やろ」
厳しい顔で言い切る佐野。同村は思い出す…いつかコンビニで買い物をしていた時に、悪戯の火災通報で駆けつけてきた消防隊員のことを。無駄骨の出動も少なくない、それでも万が一のために毎回全速力で出動するのだと、あの隊員も話していた。
車はさらにスピードを上げ、やがて人が溢れる新宿の交差点に差し掛かる。
「救急車両が通ります、御協力ください」
車外スピーカーで助手席の隊員が言った。同村、そして美唄の緊張も否が応でも高まる。
「にいちゃん、ねえちゃん、そろそろ服の準備や」
間もなく到着。ドアが開いた瞬間、水色の救急服をまとった佐野がロケットスタートで飛び出す。他の隊員もビルの中へと続く。同じ服を着た同村と美唄も追いかける…その左腕には『研修中』の黄色い腕章。駆け回る巨大なビルはエレベーターホールまでまず距離があり、35階に到着しても現場までまた入り組んだ廊下が続いた。
「遠藤さん、大丈夫?」
走りながら後ろを振り返る同村。美唄は元気よく「大丈夫!」と答えたが…先ほどから彼女は段差につまずいたり、傘立てを引っくり返したり。初めての場所、しかも薄暗く複雑な構造なので無理もないのだが、彼女が一度透明な自動ドアに正面衝突してからは、さすがに同村も気が気でない。
「こんなの、日常茶飯事だから!」
美唄はぶつけたおでこを赤く腫らして微笑む。そんな彼女を、同村はまた心の中で抱きしめてしまうのだった。

 倒れた会社員は、本人は大丈夫だからと拒否したものの、念のため近くの総合病院へ搬送。検査の結果大きな異常はなく、医師は過労が原因と診断した。
「大したことなくてよかったね」
帰りの救急車、おでこをさすりながら美唄が言った。
「そうだね。働き詰めで食事も睡眠も不十分だったみたい」
同村が返す。緊張も解け、隊員たちも雑談。佐野もほっとした顔で腕組みした。
「まったく倒れるまで働かんでもええのにな。知っとるか?過労死するんは日本人だけなんや。にいちゃんらも医者になるんなら気い付けや。真面目過ぎはあかんで。飯もちゃんと食べなあかん。ねえちゃんもダイエットには気い付けや」
「大丈夫です。あたし、食べるの大好きですもん!」
と、ガッツポーズ。そういえば前より顔がちょっと丸め…って、こりゃ失敬。
「そうかそうか。おりょ、どうしたんやそのおでこは?」
「さっき走っててちょこっとぶつけちゃいまして。あたし、アホなんです」
「ハッハッハ、おもろいねえちゃんや。帰ったら昼飯の前に冷やすもん貸したるわ」
行きの車中とはまるで別人、佐野は仰け反って豪快に笑った。

 またまた所変わって、こちらいつもの学生ロビー。時刻は午後4時、そこは実習を終えた学生たちで賑わっていた。話題はやはりクリスマス、これからデートでお台場へ行くやら、六本木へくり出すやら、女子で集まって七面鳥を焼くやら…年内のポリクリが終わった解放感も相まって、いつも以上に盛り上がっている。そんな中、周囲など意に介さずといった様子でまりかは教科書を読んでいた。
「おはよう、秋月さん」
ソファの彼女に井沢が声を掛ける。
「あ、井沢くん。おはようってもう夕方だよ」
「ごめんごめん。当直に備えてさっきまで寝てたからつい」
爽やか青年は正面に腰を下ろす。
「そっか、いいなあ。私も寝だめしたかったんだけど、いつもどおりに目が覚めちゃって」
「明日帰って爆睡すればいいよ。そういえばちょっと雨がちらついてきてたな」
彼女はちらりと窓の外を見る。そして一緒にこの後の段取りを確認。まあこの二人ならとっくに頭に入っている。問題なく手帳を閉じ、まりかは腕時計を見た。
「それじゃあ行きましょうか、朝までの長い長いお勉強に」
「了解っす。長さんと向島さんもまだいるはずだから、挨拶しないとな。今年はお世話になりましたって」
二人は腰を上げる。サッカー部の仲間たちが出陣する井沢に「ご愁傷様!」とエールを贈り、彼は「うるせー!」と振り返りながら言った。
「ああイブに当直だあ、神様のバッキャロー!」
教育棟を出た井沢が天に嘆く。隣でまりかが「こらこら」と笑う。目指すは救命救急センター。まだ傘はいらないが、少しずつ雨足は強まりつつあった。

 南新宿消防署。その後も数回の出動があったが、いずれも軽い貧血など命に別状のないものばかり。中には赤ちゃんの発熱に驚いて救急車を呼んだ母親もいたが、それも大事には至らなかった。その度に佐野は「よかったなあ」と笑う。彼にほだされ、同村と美唄も徒労の出動を喜べるようになっていた。
そんなこんなで午後4時半、三人は控室でお菓子を囲んでいた。学生は「いただきます」と揃って頭を下げる。
「どや、ここでの実習はおもろかったけ?まあ今日はあんまり大変な出動がなかったから、物足りんかったかもしれんけど…」
「そんなことないです。とっても勉強になりました」
と、クッキーをかじって美唄。同村も深く頷く。
「それならよかった。このまま平和に一日終わってくれたらええんやけど、夜になったらきっと出動は増えるやろな」
「そうなんですか」
「せやで、にいちゃん。クリスマスは浮かれる奴や酔っ払いも増える、雨も降っとるし、きっと事故も多いわ。ワールドカップやハロウインの時も大変やったで。
…でもまあ安心せい。5時でにいちゃんとねえちゃんの実習はしまいや。せいぜい事故に遭わんようにデートしてくれよ」
「もう、だから違いますって!」
美唄が返した瞬間、再び頭上のスピーカーから声。
「通信指令室より入電中。南新宿8丁目7番地の路上で交通事故、乗用車が歩いていた女児と接触。女児は5から7歳、外傷は複数で出血あり、意識レベル300。至急出動せよ。追加情報あれば追って連絡する。至急出動せよ…」
聞き終える前に佐野はもう走り出していた。同村も立ち上がりながら「僕らも行ってよろしいですか?」と言葉を投げる。「ついて来い!」と 部屋を出ながら叫ぶ佐野。二人もすぐに廊下に出たが、彼の背中はもう遥か彼方だった。

 猛スピードで駆けつけた現場は、住宅街の小さな曲がり角。事故の原因としては、子供がいきなり飛び出したことと、雨のせいでブレーキのかかりが甘かったことが推測された。正面衝突は避けられたものの、少女は全身を強く打ち意識不明の重体。
「雨で体温が下がっとる、おい毛布や!早くせえ!」
若い隊員に持ってこさせた毛布に、佐野は太い腕で慎重に少女をくるむ。学生二人は離れて見守る。周囲には野次馬も集まっており、近くの交番の警官が項垂れた運転手から事情を聴取していた。
「よし、ゆっくりや、首を動かすなよ!」
佐野は自分の体を盾にして、強まる雨から少女を庇いながら担架に乗せる。そしてすかさず隊員たちが彼女を救急車に運び込んだ。
「親御さんはいらっしゃいませんか!この子の親はいらっしゃいませんか?」
佐野が声を張り上げる。野次馬たちは顔を見合わせてどよめくばかり。同村も目を凝らして見回したが、名乗りを上げる者はいない。隣で美唄の唇が「どうして…?」と言うように動いたが声は聞こえなかった。
「仕方あらへん。では病院に向かいますから!」
警官に告げて佐野は救急車に乗り込む、学生もそれに続いた。交通誘導を受けながら車はその場を離れ、再びサイレンを打ち鳴らす。
病院へ向かうといっても、まずはその受け入れ先を探さなくてはならない。特に今回のように緊急手術が想定されるケースでは、それに対応できる病院を見つける必要がある。
「佐野さん、讃武会病院も無理だそうです!別の事故でオペ室が埋まってるって…」
揺れる車内で若い隊員が声を荒げる。
「アホ、こっちも一分一秒を争っとんのや!ええい、ほんなら菊川外科病院はどうや。あそこも救急の受け入れをしとったやろ」
「確認しましたが、手一杯だそうです」
「くそっ!」
佐野が般若の形相で吐き捨てる。また別の隊員が「血圧下がってます!」と報告。隅で小さくなりながら、美唄は両手を胸の前で組み、潤んだ瞳で少女の横顔を見つめていた。
「脈拍と呼吸、ともに弱ってます!」
酸素マスクを宛てられ、傷口を圧迫止血される少女。その痛々しい姿を見ながら苦虫を噛み潰したような表情の佐野。近隣病院はどこも受け入れ不可。行く手を阻むように、どんどん強まる雨足が窓に水の粒を打ちつけてくる。
「どっか、どっかに空いとる病院はないんか…」
独り言のように漏らした瞬間、歯を食いしばった同村と目が合った。
「せや…すずらん医大、逆方向やけどすずらん医大病院はどうや?裏道で行けばそんなに時間はかからん!」
「わかりました、連絡します!」
「ええか、何が何でも絶対に取り付けろよ!」
もちろん受け入れない病院側も精一杯なのだろうが、受け入れさせる側も精一杯…これが救命救急医療の戦場である。
「もうちょっとの辛抱やからな、頑張れよお嬢ちゃん!絶対助かるで!」
少女の髪を撫でながら佐野が優しく言う。次の瞬間、破裂したように美唄も「頑張って!」と叫んだ。隣で同村も「頑張れ!」と続く。
「佐野さん、すずらん医大、大丈夫です!」
「よっしゃあ、Uターンして全速力や!」
スピードを上げる救急車、車外スピーカーから隊員の声が叫ぶ。
「救急車両が通過します!ご協力お願いします!」
誰もが見かけたことがあるだろう、疾走する救急車。そして聞いたことがあるだろう、近付き遠ざかるサイレンの音。夕刻となり雨の新宿はますますクリスマスムードに染まっていく。流れるキャロル、輝くイルミネーション、サンタの衣裳をまとった店員、腕を組んで歩く男女、声を上げてはしゃぎ合っている若者たち…。
そのすぐ横を通り過ぎる救急車の中に、誰よりも奇跡を必要としている少女がいることを…この街は知らない。

 吸い込まれるようにすずらん医大病院の敷地内に入った車は、救命救急センターに横付けした。直ちに運び込まれる血まみれの少女。画像検査と並行して手術の準備も行なわれる。その慌しい渦中、奇しくも14班の六人は集合することとなった。もちろん無駄口を叩く者などいない。お互い目だけで頷くのみ。
「昇圧剤もう1投!輸液全開!」
処置に当たるのは、この一週間同村たちの指導をしてくれた藤原。鼻髭と精悍な顔立ちが印象的な30代半ばの男性医師。学生は壁際に並んで見守る。美唄は今も両手を胸で組んで祈り続けていた。誰もがわかっている。ここに運ばれた患者全員が助かるわけではないと。それでも死に瀕した命を前に願わずにはいられない…どうか奇跡を!
「先生、画像出せます」
若い医師が報告。藤原が処置の手を止めてそちらに駆け寄ると、パソコンには少女のレントゲンとCTの画像が表示された。
「脳は…大丈夫そうだな。肋骨もヒビは入ってるけど肺に刺さっては…いないな、よし。次、腹部出して」
後輩は手早くパソコンを操作する。藤原の目が見開かれ、その指は画面の一点を差した。
「ここだ、肝損傷…トータルベインからも出血」
他の部位もチェックして彼は再び処置台に戻ると、部屋中に響き渡る声で「すぐにオペだ!と言い放った。救命救急はとにかく時間との勝負。求められるのは何よりも即決の判断力だ。その点では、机を囲んでじっくり議論する精神科とは真逆の医療である。
「おい、親はどうした?早く親に連絡しろ!」
「それが、身元がわからないんです。事故現場の周辺に今警察が聞き込みをしてくれていますが…」
看護師が答えた。部屋の入り口には制服の婦人警官の姿も見える。スラリと背が高く、長い黒髪を後ろで束ねた理知的な女性。
「所持品からわからないのか?」
「何も持ってないんです…スカートのポケットに小石がいくつか入っているだけで」
「何だそりゃ!」
藤原は気が立っている…無理もない、その手にはこの幼い少女の命運が握られているのだから。彼は荒井口調のまま、当直以外の学生はもう帰るよう指示した。
「藤原先生、オペ室の準備できたそうです!」
「よし、行くぞ!当直のポリクリはついて来い」
井沢とまりかが揃って「はい」と返事。間もなく少女を乗せたストレッチャーが運び出される。その時、長には初めて患者の顔が見えた。
…あれ?
湖面に石が投げ込まれたように、彼の心が波立った。

 藤原たちが出ていった後の処置室は、嵐が過ぎ去ったように静まり返る。その場に残っている学生は四人。
「身元は…うちらもわからんのや」
入り口付近で佐野と先ほどの婦人警官が話をしている。
「今、手分けして聞き込みをしていますので、わかり次第そちらにも連絡しますね。あ、申し遅れましたが私は警視庁交通課の氏家巡査です」
名刺を差し出す彼女に、佐野も自分の名刺を渡す。そしてもう一度「よろしゅう頼みますわ」と頭を下げてから室内に向き直った。
「おーい、にいちゃん、ねえちゃん、署に戻るで」
「わかりました」
二人は長と向島に会釈すると、そのまま救命救急センターを出ていった。もちろん少女の容態は気になる。しかし救急隊の仕事は送り届けるまで、それが終わったらまた署で次の出動に備えなければならないのだ。
救急車がサイレンを鳴らさず走り去った頃、処置室では散らかった室内の片付けが始まった。こちらもまた次の患者に備えなければならない。そう、あの少女が特別なわけではない。戦場ではこれが日常なのだ。
「僕たち、実習終わりって言われたよね。印鑑ももらってるし、帰ろうか」
「そう…ですね」
長と向島は歩き出そうとしたが…そこで先ほど藤原と出ていった一人の看護師が飛び込んできた。そして氏家巡査に駆け寄り、少女の親について再度尋ねる。しかし、変わらずわからないとの返答。看護師の必死な様子に、婦人警官は「何かあったのですか?」と尋ね返した。
「それが、あの子の血液型が…特殊なタイプでして、院内に在庫がないんです。輸血が必要になるかもしれません。その、親御さんなら同じ血液型の可能性が高いですから」
事態は別の深刻さを帯び始めた。婦人警官はすぐに無線で確認を取るが…未だに親はおろか少女の名前さえわからない。わかり次第すぐに伝えることを確認し合い、看護師はオペ室へと戻っていった。
そんなやりとりを見ながら、長の胸で不安が膨らむ。治療が開始され徐々に手繰り寄っていた希望が、またすっと遠のくような感覚だった。
「あの、女の子の身元は…どうしてもわからないんですか?」
思わず尋ねた。本来なら学生の質問に答える義務はない。もしかしたらその外見から彼をプロのドクターだと思ったのかもしれない。氏家巡査はやや力なく「はい」と頷く。
「家の鍵があれば、登録番号から調べられるんですが…あの子は持っていませんでした。お家に家族がいて、鍵を持たずに出掛けたのだとすると…あの子は傘も持っていなかったので、出掛けたのは雨が降り出した4時より前ということになります。もう一時間以上経過しています、さすがに家族が心配する頃ですが…そういった問い合わせもありません。
もしかしたら一人で留守番していて…鍵は玄関の近くに隠して出掛けたのかもしれませんね。郵便受けとか、植木鉢の下とか、持ち歩いてなくさないために」
「一人で留守番…」
長が口の中でくり返す。
「せめて名前だけでもわかれば捜しようもあるのですが…」
「洋服に名前が入ってないですか?」
ふいに向島が言った。
「手編みっぽいセーターでしたから、ひょっとして」
「…確認します」
彼女はツカツカと処置台に歩み寄る。そしてスタッフに了解を得て、持参の手袋を装着すると先ほど処置のために切り裂かれたセーターを手にした。長も隣でそれを見守る。
「う~ん、名前名前…」
雨と泥、そして血液が付着した布地を慎重に繋げていく。
「やっぱりないかな…あ、あった!胸の所にアルファベットが刺繍してあります。…イニシャルかもしれません」
長は婦人警官の手元を覗き込む。
「ええと…M・H」
そう読み上げられるのが早いか、彼は部屋を飛び出していく。向島も氏家巡査も驚いて振り返るがもうそこに長の姿はない。
彼には嫌な予感がしていた。あの少女の顔を見た時から、どこか遠くから警鐘が聴こえていたのだ。もちろん一瞬見ただけ、しかも意識もなく酸素マスクを当てられた状態なので記憶に自信が持てなかったが…確かに見覚えがあった。
そう、あの弁当屋で見た写真立ての中で微笑んでいた少女。M・H…長谷川みやび。
ただの他人の空似かもしれない。事故現場と彼女の家が近いかどうかもわからない。でも、もしかして、もしかしたら…!
長は教育棟に駆け戻ると、ロッカールームに着ていた白衣を投げ捨て、バイクのキーを手に取る。そして駐車場に引き返した。娘のことを話す笑顔の悦子が浮かぶ。
理屈ではない。説明などできない。彼の心は…いや彼の体は見えない力に操られるようにバイクにまたがる。威勢よく嘶いた愛車は、荒馬のごとく豪雨の中に飛び込んでいった。

 実習修了の印鑑をもらった二人は、佐野たちにお礼を言って消防署を出た。バッグから折りたたみ傘を取り出した美唄に同村が「用意がいいね」と感心する。
「一応持ち歩いてるの。さ、どうぞ」
開いた傘に招かれて、しばしためらってしまう主人公。
「あたしだけ傘をさすわけにいかないでしょ。ほら、早く」
文字通り頭を下げて同村はそれに応じた。
「ありがとう遠藤さん。でも大丈夫?君が濡れないかな」
「平気平気」
美唄はそっと歩き出す。こんな時、男が傘を握るべきなのか…同村にはわからない。
「すごい雨になっちゃったね」
「そうだね」
並んで歩きながら、弾まない会話を少しだけ交わす。話題がないわけではない。クリスマス、ポリクリ、そしてあの少女のこと…二人とも頭の中には浮かんでいたに違いない。しかし…お互い口にはできなかった。いつからか仲良くなって、どこからか気まずくなって…いつの時代も男と女はそんなことのくり返しである。
無言のまま大通りに出る…と、そこで二人の前を一瞬で通過するバイク。
「あれ、今の…長さんじゃないかな」
まず同村が言った。
「あたしもそう思った」
「あんなに急いで…どうしたんだろう」
失踪するバイクは、あっという間に雨で滲む新宿のネオンの中へ消えていった。美唄がそこでクスッと笑う。
「イブだし、デートかも。長さんも隅に置けないね。あ、デートっていえばさ、佐野さんがからかってきて大変だったね」
彼女の声が明るくなる。その笑顔の意味も同村にはわからない。
「でもあたし、佐野さんはすごい人だと思ったよ。救急車の中で女の子に頑張れ頑張れって声掛けてさ、応援してるみたいだった」
「そうだね。救急隊は命の応援団なのかもしれない」
「さすが文芸部、じゃあ佐野さんは団長さんだ」
美唄が嬉しそうにそう返した。そんなやりとりに同村は心地良い懐かしさを覚える。思わず口が動いていた。
「ねえ遠藤さん、もしよかったら…食事にでも行かないかな?」
言った瞬間はっとする。不覚にも失恋を失念していた男は、慌てて言葉を続けて取り繕う。
「いや、何言ってんだ俺。ごめんごめん。別に変な意味じゃなくて…今日の実習のこととか色々話したいかなとか、べ、別に嫌ならいいんだけどね。ハ、ハハハ…」
笑顔が硬いぞ同村、しかも挙動不審だ。美唄は前を見ながら黙って考えている。
一つ、二つ、三つ…傘から落ちた雨粒が水溜まりに跳ねた。
「いいよ!」
次の瞬間、急に向き直って彼女は答えた。
「このまま新年を迎えるのも嫌だしね、そろそろ仲直りしますか」
面食らう同村とは対照的に、そこには笑顔全開100パーセント。…ほんと、女心ってミステリー。
「仲直りって、俺たち別に喧嘩してたわけじゃ…」
「いいからいいから。同村くんとの気まずい関係ってのもそれはそれで楽しかったんだけどな。まあいいや、あたしもイブに一人で晩ごはんって寂しいしね。一応女の子ですから。ただし、お店はあたしが決めるからね。よ~し、食べるぞ、エイエイオー!」
「あ、あの…遠藤さん、落ち着いて」
「傘を貸したお礼におごってね。なんて、冗談冗談!さあ行こう。エイエイオーイエー!」
美唄は拳の代わりに傘を振り上げる。その急激なテンションの変化にまたまた戸惑う同村。何がそんなに…というくらい楽しそうな女に、男は店へと連行されるのであった。

「長谷川さん!」
息を切らして長は弁当屋に飛び込んだ。
「あら先生、どうしたの?そんなにズブ濡れで…まだお弁当はたくさんあるわよ、ホホホ」
そこにはいつもの明るい悦子。夜のシフトに入ったところらしい。
「ハアッ、ハアッ、いやそうじゃなくて…あの…」
そのただ事ではない雰囲気に彼女も怪訝な顔になる。
「どうかしました?」
「あの、み、みやびちゃんは…」
「え、みやび?」
当然不思議そうな悦子。
「うちの娘が何か?」
「今、どこにいますか?」
「家にいますよ。幼稚園に迎えに行って家に帰したから」
「で、電話してみてください。お願いします!」
「でも…」
「お願いします!」
長の勢いに押され、悦子はわけもわからず取り出した携帯電話を耳に当てた。
「おかしいわね…出ないわ。夜、外に出るはずはないんだけど…」
彼女の顔が少しずつ不安に染まっていく。番号を確かめてまたコールするが結果は同じだった。
「出ない…で、出ないわ!」
「長谷川さん、教えてください。みやびちゃん、特殊な血液型ではありませんか?」
「え?あ、はいそうです。出産の時にそう言われましたけど…」
やはり間違いない。呼吸を整えると、長が真剣な声で告げた。
「よろしいですか、落ち着いて聞いてください。実は…」

 その頃、井沢とまりかは少女の手術に立ち会っていた。執刀は先ほどの藤原医師。
「よし、そこ、もう少し持ち上げて…そうだ、そのまま動かすなよ」
落ち着いた口調で彼はメスを走らせる。ここはBGMなどない緊急オペ室。室内にはモニター音だけが響き、肌が切れそうなほど緊迫した空気が流れている。壁際の二人も視線を逸らすことなく術野を見つめていた。
「先生、また出血してます」
看護師が声を上げる。藤原は眉根を寄せた。

「そんな!」
弁当屋に悦子の絶叫が響く。彼女は蒼い顔で写真立ての娘を振り返った。
「確かに、あの子のセーターにはイニシャルが…。私が縫ったの!」
「長谷川さん、病院に行きましょう」
長が力強く促す。悦子は額に手を当て一瞬よろめいたが、すぐに気を取り直して奥のスタッフルームに呼び掛けた。彼女と交代で退勤しようとしていた男性がドアから顔を出し、そのただならぬ様子に表情を固くする。
「何かありましたか?その男がどうかしましたか」
彼は長に嫌疑の目を向けながら出てきたが、悦子が慌てて首を振る。
「鈴木さん、違うんです。この人は…すずらん医大病院の学生さんで、あの、ごめんなさい。娘が交通事故に遭ったかもしれないんです。申し訳ありませんが…その…」
「何?そりゃ大変だ!ほら、早く、店のことはいいから早く行きなさい!支店長には僕から電話しておく。大丈夫だからほら早く!」
「申し訳ありません、恩に着ます」
悦子は激しく頭を下げた。鈴木は長に会釈で謝罪すると、「今、タクシーを…」と店の電話の受話器を取ったが…すぐにプッシュボタンに掛けた指が止まる。
「今夜はクリスマス・イブで…新宿方面は大渋滞だ」
「長谷川さん!」
不安を強める彼女を後ろから長が呼んだ。
「ちょっと怖いかもしれませんが、それでもよければ俺が送ります」

「…それで、やっぱりキーヤンカレーなわけね」
席についたところで同村が言う。すっかり見慣れたハワイアン風の店内は少しだけクリスマステイストの飾りつけがされ、流れる音楽もハワイアンアレンジのクリスマスソングとなっていた。相変わらず店長のこだわりを感じさせる。
「やっぱり、14班といえばここでしょ」
得意げな美唄。
「君は本当にここのカレーが好きなんだね。まあ確かにおいしいけど」
「だって、今日で今年のポリクリ最後でしょ?食べおさめだよ。よ~し、今日はメガトン全部カレーにしよう」
メガトン全部カレーとは、ビーフもポークもチキンもエビもキノコも…とにかく全ての具材が盛り込まれたボリューム満点の一品。本日佐野に宣言していたとおり、彼女には栄養失調は無縁なようだ。その代わり過栄養が心配ではあるが…。
「さすが遠藤さん。よし…じゃあ俺もそうしよう」
「OK!同村くん、残しちゃダメだからね」
…無気力男と元気娘、結局相性は悪くないようです。たとえそれが友情と呼ばれるものだったとしても。

 鈴木の予想は的確であった。もしタクシーを利用すれば新宿通りで足止めを食らっていただろう。その点、長のバイクならその車間をすり抜けてまさに最短の時間で移動できる。 到着するやいなや、悦子は氏家巡査と共に先ほどのセーターを確認、事故に遭ったのは彼女の娘・みやびであることが確定した。直ちにスタッフに報告、至急血液検査も行なわれ、親子の血液型は無事一致した。「いくらでも抜いてください!」と半狂乱で頼む悦子をなだめながら、看護師は必要な採血を行ない足早にオペ室へと運んでいった。
そんな怒涛の時間が過ぎ、現在長と悦子はオペ室前の廊下の長椅子に腰掛けている。
「長谷川さん、ふらついたりしませんか?」
スタッフの貸してくれたタオルで体を拭きながら、長は隣の悦子に尋ねる。彼女はタオルを膝の上に置いたまま、着の身着のままのエプロン姿で放心状態。左腕二は血を抜いた際のガーゼが貼られ、その手には弁当屋を出る時に思わず掴んできた写真立てが握られている。そこに微笑む少女は、今ドアを一枚隔てた向こうで生死の境をさまよっているのだ。
「長谷川さん、タオル使ってくださいね…風邪引きますから」
悦子は虚ろな瞳で長を見る。小さく「ええ…」と呟いたが、応じる様子はない。
身元は確認されたものの、少女がどうしてあの時刻にあの場所にいたのかは依然として不明のまま。現場は家から歩いて行けない距離ではなかったが…雨の夕刻、長谷川みやびは一体どこへ向かっていたのか。
憔悴した悦子の隣で長はその疑問を考える。しかしわかるはずもない。日も落ちて診療時間を過ぎた院内は、不気味に静かで薄暗い。廊下の果てに潜む闇が冥界の侵蝕のように感じられて彼は唇を噛んだ。
…頼む、連れ去らないでくれ。あの子だけは!

 高カロリーのカレーを完食した二人は、大きなお腹で食後のコーヒーを味わっていた。食事中、美唄は楽しそうに4月からの思い出を振り返った。それに相槌を打ちながら同村は思う…彼女は本当に細かいところをたくさん見ていると。
そういえばそんな会話をした、そういえばそんな気持ちになった…彼女の言葉がまるで魔法の呪文のように、場面や感情をいくつも蘇らせる。彼女にかかれば些細な日常も特別な出来事に生まれ変わる。
同村は気付いていた…美唄が笑う度に、自分の笑顔も引き出されていることを。そしてふと思う。もしかしたら彼女は今の一秒一秒を心に焼き付けようとしているのかもしれない。もし視力を失っても…見る事のできる卒業アルバムをそこに造るために。
暖炉に薪をくべていくような、優しい思い出話が終わる。カップに口をつけながら、今彼女は黙って窓に伝う雨を見ていた。
「でも…本当に、あたしたちって幸せだよね」
囁くように漏れる言葉。独り言のようにも聞こえたので、同村は何も返さない。するとまた「本当に…幸せだよね」とその桜色の唇はくり返した。
「こうして元気で、おいしいものを食べていられるんだもん」
「そう、だね…」
男はゆっくり答える。
「そりゃ悩みは色々あるけど…あたし達の悩みや不安なんてさ、全部幸せの範疇だよね」
ふいに同村の頭に、今日の実習で出会った患者たちの姿が浮かんだ。
「俺…今日何度か現場に出動してさ、すごく思ったんだ。色々な所に色々な人が生きてるんだなって。遠くに見えるビルの豆粒みたいな窓の向こうにも誰かがいて、その人に歯その人の生活があって…人生があるんだなって」
「うん。今日は街の中を駆け回ったから…すっごく実感したよね。診察室にいるお医者さんからすれば、患者さんは入れ代わり立ち代わりどんどん来るけど、それは…お医者さんを主役だと思って見るからそう見えるだけ。診察室の外でも患者さんの人生は続いてて…。誰だって人生の主役はその人だもん。お医者さんは時々出てくるだけの脇役」
美唄はまたコーヒーを一口飲む。
「クリスマスだってそうだよね、みんなのものだもん」
「どういうこと?」
同村は尋ねる。彼に向けられた大きな二つの瞳は店内のライトを淡く映していた。
「ほら、クリスマスの主役は恋人たちみたいに言うじゃない?でもそうじゃないってこと。同村君が言ったみたいに、街には見えない所にもたくさんたくさん人がいる。だからね、恋人たちだけじゃなくて、例えばその2人を乗せるタクシーの運転手さんにもメリークリスマス、デートで食事するレストランの店員さんにもメリークリスマス、食べ終わったお皿を洗う厨房さんにもメリークリスマス、帰りの地下鉄の車掌さんにもメリークリスマス」
そこで同村も「今夜当直のお医者さんにもメリークリスマス?」と合いの手。美唄は嬉しそうに頷く。
「そうそう!病院の警備員さんにも、入院してる患者さんにも、清掃のおばさんにも、それからえ~と…とにかくみんなにみんなにメリークリスマスってことだよ」
「遠藤さん…」
同村は完全に彼女の言葉に心を奪われていた。
「やっぱりすごいや、遠藤さんって。そんなふうに考えられるなんて…」
彼はそう言って珍しくためらいない笑顔を見せる。素直に…感動していたのだ。
「そっか、みんなにメリークリスマスか…そうだ、そうだ」
同村はコーヒーを飲むことも忘れ、何かに納得したように頷いている。そんな彼を見ながら、美唄も「もう、大袈裟だよ」とそっと微笑む。
…みんなにメリークリスマス、それはもちろん君たちにもだからね。

 オペ室の重たいドアが開いた。最初に姿を見せたのは藤原。彼は全てを出しきったようなやつれた顔で現れた。
「先生…」
悦子が駆け寄る。その瞳には必死の祈りが浮かんでいる。後ろから長が「お母さんです」と説明すると、執刀医は状況を理解した。
「お母さん、血液をありがとうございました。大丈夫です、おかげで…手術は無事に終わりましたよ。成功です。幸い脳や肺は無事でしたし、傷ついた内臓も修復できました。ご安心ください」
藤原はマスクを外し口元を綻ばせる。
「1時間もすれば麻酔も解けて…お話もできると思いますよ」
「はあ…」
糸が切れたように、悦子はその場にへたり込んだ。
「ありがとうございます、ありがとうございます…」
涙声の彼女に長が手を貸して立ち上がらせたところで、ストレッチャーが運び出されてくる。そこには最愛の娘の姿。悦子は顔をクシャクシャにしてすがりついた。
「今からICUに移りますので、お母さんも一緒に行きましょう」
「はい、ありがとうございます。みやび、みやび、わかる?ママだよ」
誰よりも強く寄り添いながら、親子は廊下を去っていく。長もほっと安堵を浮かべ、その後ろ姿を見送った。
「あれ長さん、どうしたんですか?」
背後から掛けられる声。振り返ると、そこにはオペ室から最後に出てきた井沢とまりか。二人はとっくに帰ったはずの仲間がそこにいることが不思議そうだった。
「ああ…ちょっと色々あってな。でも説明の前に一服させてくれ」
忘れていたニコチンの禁断症状に襲われ、彼はそそくさと去っていった。

 その後藤原の予測どおり、少女は静かに目を醒ました。涙の母に付き添われ、自分がベッドにいることが最初は理解できない様子であったが…幸い記憶の欠損もなく、自分が事故に遭った経過を含め全てを思い出せた。
「ごめんね…ママ」
やがて彼女はそう言った。
「私ね、公園に行ったの。前に幼稚園の遠足で行った公園ね。あの時、綺麗な石がたくさん落ちてたのを思い出して…拾いに行ったの」
悦子は娘の小さな手を握りながら「どうしてそんな…」と尋ねる。
「…ママへのプレゼントにしようかと思ったの。ママはもう大人だからサンタさんプレゼントくれないでしょ?いつも頑張ってお仕事してるのに…ご褒美ないのおかしいでしょ。だから私が…」
「みやび…」
悦子には別の涙が込み上げてくる。そこでそっと看護師が少女のスカートのポケットに入っていた小石を手渡した。受け取った彼女の涙がその宝石に落ちる。
「ママ、勝手に外に出ちゃダメって言われてたのに…ごめんなさい」
「ううん、もういいの。ママこそごめんね」
母親は横たわる娘を優しく抱きしめる。藤原が「お大事に」と小さく告げると、スタッフたちは部屋を出た。最後尾の井沢とまりか、そして長も退室してそっとドアを閉める。すると廊下には氏家巡査。どうやら長を待っていたらしい。
「ご協力に感謝します。よろしければ感謝状の贈呈を検討したいのですが…」
「いえいえとんでもないです、たまたま知り合いだっただけですから」
そうおっしゃらずに…と勧められたが、長は謹んで辞退した。
「そうですか。警察官として、一人の人間として、あなたの勇気に敬意を表します」
婦人警官はそこで初めて表情を緩めた。そして、少女と母親への聴取はまた後日改めて行なうこと、加害者の運転手も素直に認めており大きな争いにはならないだろうことを告げ、もう一度頭を下げてから彼女は去っていった。
「ご苦労様でした」
同じくおじぎしながら見送る長。
「長さんもったいない。医者になったら人命救助しても感謝状なんてもらえませんよ」
井沢がおどける。まりかも「謙虚なんですね」と感心。
「いいんだよ、俺にはそんなの似合わないから」
適当に誤魔化したが、実のところヤンチャをしていた頃に何度かマッポにしぼられている彼、感謝状の贈呈式で警察官に囲まれるなんて想像しただけでも気絶しそうだった。制服姿の氏家巡査を前に、もしや過去の悪行を知られて屋しないかと、ずっとヒヤヒヤしていたのはここだけの秘密である。

 キーヤンカレーからいつもの地下鉄駅までの帰路、同村と美唄はまた相合傘で裏通りを歩いていた。少し雨足も弱まっているが他に人の姿はない。遠くにはイルミネーションが煌めき、かすかにクリスマスキャロルも聞こえてくる。
「同村くん、今日はありがとね」
「こっちこそ、楽しかったよ。やっぱり遠藤さんと話してると幸せな気持ちになれる」
「そんな…」
美唄はほのかに頬を赤らめる。と、そこで彼女の携帯電話が鳴った。
「あ、ごめん。ちょっとこれ持ってて」
傘を預けて携帯電話を取り出す。
「メールだ…まりかちゃんから。あ、『さっきの女の子、無事助かりました。お母さんも見つかりました。万事OK』だって…」
「そりゃよかった!」
同村が喜んで美唄を見ると、彼女の瞳からは大粒の涙がこぼれていた。
「遠藤さん…」
「よかった…よかった…神様ありがとう」
美唄はそうくり返しながら携帯電話を胸に抱きしめている。
なんで…?
同村の胸の奥が熱くなる。
なんでそんな嬉しそうな涙を見せる?なんで過酷な運命の中で神様に感謝できる?どうしていつもいつも…こんなに愛しくさせるんだ!
いつか消したはずの恋のキャンドル。それが今再び炎となって燃え上がり、同村の気持ちを起爆する。彼は美唄の正面に立ち、急き立てるように言った。
「大丈夫だよ。これからも大丈夫だよ。目が悪くても…涙が出るんなら…君は大丈夫だよ。それが一番大切なことなんだから」
その声は力強い。
「…ありがとう、同村くん」
美唄は涙をそのままに、とびっきりの笑顔を見せる。
「どうしていつも、そんな嬉しいことばっか言ってくれるの…?ほんとに、ほんとに、嬉しいよ」
同村はそこで彼女の手を握る。
「先のことはわからない。いつまで目が見えてるのか、もしかしたらずっと大丈夫かもしれない。いつか見えなくなるのかもしれない」
彼女は黙ってその言葉に心を預ける。
「でもそれはわからないんだ。そんなわからないことに押し潰されるよりも、わかっていることを大事にしようよ。君は歌うのが好き、みんなといるのが好き、医学が好きで誰かの役に立ちたい…それは間違いないだろ?」
傘に落ちる雨がまた少し優しくなる。
「俺も…今はっきりわかってることがある。絶対間違いないことがある。俺は…」
同村は握る手に力を込めた。

「美唄が好きだ!」

よく言った、告白アゲイン!まあやってることは中学生のようですが。
「同村くん…」
潤んだ瞳が見つめ返す。
「本当に…あたしでいいの?あたし、たくさん迷惑かけちゃうよ?大事な物を踏んづけちゃうし、自動ドアにぶつかっちゃうし」
その声は震えている。同村は彼女のおでこに優しく触れ、そっとそこに唇を寄せた。
「…大歓迎」
次の瞬間、美唄は背伸びして同村に唇を重ねた。傘が地面に落ちる。
…やっぱり女性の方が一枚上手。かくして二人のファーストキッスは…キーヤンカレーの味でしたとさ。

 夜の学生ロビー。休憩を言い渡された井沢とまりか、そして自発的に居残っている長の三人は遅すぎる夕食を囲んでいた。自動販売機のパンとコーヒーだが、わびしいなんて誰も感じていない。一つの命が救われた後の食事は…何よりもうまいのだ。
「それにしても、長さん大活躍でしたね」
班長がミルクティーの紙コップを手に言う。
「いや、大したことはしてない。したのは藤原先生たちさ」
と、副班長は頭を掻く。井沢も「照れなくていいっすよ」と微笑んだ。
「そういえば井沢くんは本当によかったの?今日、当直で…」
「え?ああ、ジャンケンで決めたんだからしょうがないって。まあ今頃はしゃいでいる奴らもいるんだろうけど…」
他に誰もいない学生ロビーを見回して彼は続ける。
「それよりみやびちゃんさ、早く元気になればいいよな。冬休みもずっと入院じゃつまんないだろうし」
「そうね…。あの子、とってもいい子だもんね。あの小石の話聞いて私もホロッときそうだった」
そんなやりとりを聞きながら、長が缶コーヒーをそっと置く。
「なあ、一つ思いついたことがあるんだけど…」
浪人生のボスは真面目な顔になる。そして彼らしからぬ…いやむしろ彼だからこそと言うべきなのかもしれないアイデアを語った。2人も聞きながら最初は驚きを見せていたが、次第にその口元が綻んでくる。
「長さん、それ素敵です!」
聞き終えたまりかがまず反応した。井沢も勇んで同意したが、不安要素も指摘する。
「でも、今から準備できますかね?俺たちはまた当直に戻らなくちゃいけないですし」
「そうだよな…。よし、じゃあダメモトで応援要請してみるか」
長は携帯電話をコールする。
「あ、繋がった。もしもし同村?俺だよ、長。夜分にごめんな。ちょっと相談があるんだけどな…え?美唄ちゃんも一緒?ならなおさら都合がいいよ」
それを聞きながら井沢が隣のまりかに小声で尋ねる。
「あの二人、なんで一緒なんだ?もうとっくに実習は終わってるだろうに…。秋月さん、あいつら一体どうなってんの?」
「さあ、どうなってんのかしら?フフフ…」

 長からの電話を切り、同村は美唄にその内容を説明する。健全な二人は、ちょうどいつもの地下鉄駅に着いたところ。予想どおり美唄は「わあ素敵!」と飛び上がって喜ぶ。
「でも、今から手に入れるのは…」
と、弱気な顔をする主人公。オイオイ、さっきのかっこいい君はどこへ行ったんだ?
「同村くん、言ってたじゃない。万が一を成功させるためには…?」
「百本の無駄骨でも足りない、か」
そう、今日もそれをたくさん学んだんじゃないか、君たちは。
「よし行こう、遠藤さん!」
地上への階段を引き返す。彼女も嬉しそうについて行く。
「了解!ところで同村くんさぁ、告白の時だけ下の名前で呼ぶわけ?あれって作戦?一回目の時もそうだったよね」
「い、いいから、さあ行こう!」
悪戯っぽく笑う美唄に同村はトナカイさんのように鼻を真っ赤にする。まあまあ、微笑ましいじゃないですか…正直書いてる作者が恥ずかしくてもう限界です。

 ICUの一室、薄暗い室内で長谷川親子はずっと話をしていた。みやびが生まれた朝のこと、入園式の日のこと、一緒に行ったイモ掘り遠足のこと、そしてもういないお父さんのこと…。藤原の許可で酸素マスクも外され、少女はずっと母親の手を握りながら言葉を続けた。
「ねえ傷口が痛まない?大きな声は出しちゃダメよ」
心配そうに尋ねる悦子に娘は笑顔で首を振る。
「大丈夫だよ、ママ。それにまだ全然眠たくないの。だからもっとお話したい」
母親が夜勤の時はいつも一人で眠るのが当たり前の娘。それでも寂しいとは言わない娘。悦子はまた泣きそうになるのをそっと隠し、壁の時計を見た。
「あらもうすぐ12時だわ。じゃあ今夜は特別にもうちょっとお話をしようか」
嬉しそうに頷くみやび。
「こんなに遅くまで起きてたの初めて。ねえママ、夜の12時になったら次の日になるんだよね?じゃあもうすぐクリスマスだ」
少女は目で室内を見回した。
「ママ…病院にいても、サンタさん来てくれるかなあ?」
悦子は言葉に詰まる。
「きっと…無理だよね。このお部屋には窓も煙突もないしね」
「そうね…」
それはどうしようもない、と悦子は胸の中で思った。正直今日がクリスマス・イブだったことも今の今まで忘れていた。しかしその時…。

シャンシャン、シャンシャン…。

小さな音が聞こえた。その音は遠くから少しずつ近付いてくる。悦子は耳を疑い周囲を見回す。
まさかそんなはずは…しかし確かに近付いてきている、鈴の音が。
「あ、サンタさんだ!サンタさんだよ、ママ」
「え、ええ…」
鈴の音はどんどん大きくなる。そして鈴だけではない、トナカイの闊歩する音、その息遣いまで聞こえるのだ。やがてそれらは入り口のドアの向こうまで来た。悦子にはとても信じられない…しかしドアの向こうには、まるでトナカイの群れがそこにいるような気配が確かにある。
そしてドアはゆっくり開かれた。そこには…赤い服に白髭の男。
「サンタさん!」
「メリークリスマス、みやびちゃん。遅くなってごめんな」
サンタはそう答えながらゆっくりベッドに歩み寄る。その隣で悦子はただ呆然。
「はい、プレゼントだよ」
背中の白い袋からリボンのついた小さな箱を取り出し、彼女の枕元に置く。少女は「ありがとう」と、横になったままそっとその包みに触れた。
「早く元気になるんだよ」
悦子はそこではっとする。この声、もしかして…。
「あのねサンタさん、お医者さんたちがね、私の命を助けてくれたの。だから絶対元気になるの」
「そうかい。でもね、君を一番助けてくれたのはママなんだよ」
サンタは愛おしそうに少女の頭を撫でる。
「ママがね、セーターに君の名前を書いてくれていたから…だから君のことがわかったんだよ。そしてママが君が生きるためのエネルギーを分けてくれたんだ」
サンタはニッコリ微笑むと、そっとドアの方に向かった。自分の前を通り過ぎた時、悦子にはその正体がはっきりとわかる。
「あの…」
「メリークリスマス」
サンタは振り返らずにそれだけ告げる。彼女は頭を下げた。
「本当に…本当に…ありがとうございました。一度もちゃんとお礼を言っていなくて、あの、本当に…」
「ママ、サンタさん困っちゃうじゃない。サンタさんは忙しいんだよ?また次のお家に行くんだから」
サンタは「そうです」と答え、少しだけ振り返って「それじゃお幸せに」と付け加える。小さく手を振る娘と頭を下げる母親を残し、そのまま部屋を出ていった。
ドアが閉まると再び鈴の音、トナカイの足音も聞こえ始める。それらはゆっくりと移動し、だんだんと遠ざかっていく。
音が空の彼方へ消えてから、みやびは「ママ、プレゼント開けて!」とワクワクしながらねだった。悦子が枕元のそれを丁寧に開くと…ゲームソフト『フニー仮面の冒険』。
「これとっても欲しかったの。やったあ、サンタさんすごい!早く退院しなくちゃ」
喜ぶ娘を見ながら彼女は全てを理解する。
「でもどうして私が欲しい物がわかったんだろ?ねえママ、サンタさんにお願いしたの?」
悦子はベッド脇の椅子に腰を下ろして首を振った。
「ううん、してないわ。でもママのお友達で今のサンタさんと同じにおいの人がいるから…その人がサンタさんの知り合いかも」
「におい?そういえばサンタさん、煙のにおいがしたね。きっと煙突を通る時についちゃうんだよ。そっか、ママのお友達…」
「フフフ…」
悦子はそっと娘の頬を撫でる。
そう、あのにおい…早朝に弁当屋にやってくる彼がいつも漂わせている香り。それで彼女はサンタクロースの正体を確信した。
間違えるはずはない。だってそれは…愛した夫が吸っていたのと同じタバコのにおいだったから。

「いやいや、長サンタ、最高っす!」
と、井沢が拍手。学生ロビーで衣裳を脱ぎながら長は照れ笑い。
「しかしこの歳でもうおじいさんの役をやることになるとは…」
「自分で言い出したんじゃないですか」
井沢の隣でまりかも笑う。こんなサプライズに藤原の許可が出たのは、ひとえにこの2人によるところが大きい。信頼ある特待生と顔の広い優等生の口添えの賜物である。
「そうだけどな…まさかこんな大ごとになるなんて。プレゼントを寝ている間にそっと枕元に置くだけだったはずなのに」
「そりゃあ応援要請した相手が悪かったですぜ」
そう言って井沢が二人を見る。それは頼まれたゲームソフトだけではなく、サンタのコスチュームまで確信犯で用意してきた同村と美唄。もちろん主犯は彼女である。長はそちらを見て感謝を伝える。
「二人とも本当にありがとな。人気のソフトをよく手に入れてくれたよ」
「いえいえ、まさに眠らない街・新宿のおかげですね。最後は遠藤さんのゴリ押しで展示用のを売ってもらいました」
答える同村の隣で美唄も得意気にVサイン。もちろん彼女のデジカメには、救命救急センターに現れたサンタクロースの姿がたくさん収められている。
「でも長さん、本当に素敵でした。あたし感動しました」
「まあ、トナカイのソリに乗るサンタの正体は、バイクに乗るチョイ悪オヤジですけどね」
「おいおい美唄ちゃん、同村、まいったな」
そこで長は離れて作業している男の方を向く。
「向島さんも、わざわざ戻って来ていただいて、ありがとうございました」
「ん?いいよ、別に…」
と、ミュージシャンは使用したスピーカーを片付けながらウインク。タネを明かせば、人数分の鈴を持ってきたのもこの男。彼のレクチャーのもと長以外の五人で近付いてくる鈴の音を演出、そしてスピーカーからはトナカイの息遣いや足音を臨場感たっぷりに流す…ドアの向こうの舞台裏はそんな仕掛けだったわけである。
「でも本当にサンタさんが来たみたいにリアルでしたよ、MJさん!」
美唄が絶賛。音楽部先輩は「誰だと思ってるんだよ」と得意げ。う~ん、グッジョブ、MJK!
「まあみなさん、今夜の企画は大成功ということで」
と、班長が再び拍手。みんなも合わせる。
その後は少しだけ談笑して、一夜限りの劇団はカーテンコールとなった。

めまぐるしく駆け抜けた一日…いろんな患者のいろんな人生に出会った。そして繋ぎ止められた一つの優しい命。
神様は奇跡を与えてくれたのだろうか?いやきっとそうではない。神様がくれたのはほんの小さな偶然の欠片。ジャンケンで決めたチーム分け、長が弁当屋の常連客だったこと、少女がすずらん医大病院に運ばれたこと、セーターの刺繍…全てはそれだけでは意味を持たない些細な偶然。それを繋ぎ合わせて奇跡に変えられるかどうかは、きっと人間が勇気を出して行動できるかにかかっていた。
3月のあの日、14班の六人が集まったのもただの偶然。夜空に散らばったバラバラの星に過ぎなかった彼らは、友情、恋愛、仲間意識…そんな糸で結ばれながら、少しずつ奇跡の星座になろうとしているのかもしれない。

 聖なる夜、時間は穏やかに流れた。雨もいつしか霧雨に変わっていく。
井沢は実習の合間に恋人に電話した。都内の女子医大に通う彼女のエールを受け、彼は人手の少ない夜間当直で研修医顔負けの活躍を見せた。
向島は緩和ケア病棟の田倉明日香の病室を訪ねた。眠れずにいた彼女に部屋のキーボードでクリスマスソングを贈り、その後は二人でピアニスト談義に花を咲かせた。
まりかも実習の合間にこっそりと、ある病棟のある病室を訪ねた。そこに入院している人物については…次回の物語でお話するとしよう。
同村と美唄は最終の地下鉄に飛び乗った。二人で帰るのも実に二カ月ぶりだったが…車内には寄り添う何組ものカップル。最初は恥ずかしそうにしていた二人も、最後には少しだけ手を繋いだ。そしてそんなムードはお構いなしに、彼女の口からまたまた驚きの計画が飛び出した。
そして…今回の功労者、勇気の男の長はというと、バイクを飛ばしてまっすぐ帰宅。起きて待っていてくれた両親と夜食を囲み、肩叩きをしながら普段言えない感謝の言葉を伝えたのである。

 12月25日。明け方には雨も上がり、眩しい朝日に街が輝き始める。午前8時、救命救急センターで井沢とまりかは実習修了の印鑑をもらった。
「お疲れだったな、いい頑張りだったぞ」
藤原にそう言われ、学生は頭を下げる。
「それにしても災難だったな、イブに当直とは。俺も帰ったらカミさんから説教決定だ」
無精髭で笑う指導医。しかし学生二人の表情には大きな満足が浮かんでいる。井沢が晴れやかに答えた。
「いえ先生、今までの人生で最高のクリスマス・イブでした」

「メリークリスマース!」
二人が学生ロビーに戻ると、クラッカーが鳴った。そこには三角帽子をつけた美唄たち。
「え?みんな…」
戸惑う井沢。まりかも目を丸くしている。
「これで今年のポリクリ終わりだろ?やっぱみんなで締めくくろうって遠藤さんが言ってさ。それでささやかなパーティを準備したんだ」
と、ちょっと帽子が恥ずかしそうな同村。見るといつものソファのテーブルに人数分のケーキとグラスが用意されている。バイクでひとっ走り買ってきたと長が説明した。
「い、今からここでパーティですか?」
「そうです班長!あなたが実習しておられる間に、副班長の私が準備しておきました。さあ、グラスをどうぞ」
「え?長さん、ここでお酒は…」
「大丈夫、ブドウジュースです」
長がまりかのグラスにジュースを注ぐ。みんなもそれに従った。
「みなさーん、飲み物は揃いましたか?」
ハイテンションなのはもちろん美唄。全員グラスを掲げたところで長がまりかに挨拶を促した。もう何がなんだかという感じで彼女は一歩前に出る。
「ええみなさん…本当に驚きの連続ですが」
全員が笑う。
「まあこれで救命救急の実習も終わりです。そして今年のポリクリもこれでおしまいです。本当にお疲れ様でした。じゃあ…カンパイ」
「カンパ~イ!」
恥ずかしそうに言ったまりかに続いて、みんな一斉に声を上げる。それに合せて向島が再びセッティングしたスピーカーで音楽を流した。
「ちょっと向島さん、ボリュームでか過ぎですって!学務課に見つかっちゃいますよ」
「土曜日だから大丈夫さ。さあ、井沢くんも座って」
その後は全員でケーキを味わう。そして改めて今年の思い出を語り合った。
「遠藤さん、ついに念願だった14班のパーティが実現したね。ノンアルコールだけど」
同村が指摘する。
「そうだ、そうだ、これで実現したんだ!今年中にやれてよかった!」
アルコールは0パーセントでも笑顔は100パーセント。昨夜に思いついてすぐ決行…ちょっと強引だけど、あのゲームセンターの夜と同じ、これが彼女の幸せの作り方。
思い出巡りの語らいが続く中、ふと長がフォークを止めた。
「そういえば美唄ちゃん、あの時のクイズの答えは?」
まりかも食いつく。
「そうそう、私もずっと気になってたの。14班のみんなが集まるとどうなるかっていう…」
読者の皆様におかれましては、忘却の彼方かもしれませんね。初夏の頃、病院食堂で昼食を囲んだ時の話。何故か流れはクイズ大会になり、美唄からの出題がそれであった。結局その場で正解者は出ず、彼女はそれをパーティ開催までの宿題としたのだ。同村と井沢も思い出して頷く。ちなみに向島だけピンときていないが…当時はサボりの常習犯で彼はその場にいなかったからしょうがない。
「あ、そうだそうだ!ではみなさん、正解発表しまーす!」
美唄はそう言ってソファから立ち上がった。みんなは拍手を贈る…彼女は楽しい空間を生み出す天才だ。
「14班のみんなが集まるとどうなるでしょう?じ・つ・は…」
出題者はもったいぶって続ける。
「パンパカパーン!なんとあたしたちの名前って、苗字のアルファベットを合わせると
すごいことになるんです!MJさんのM、あたしの遠藤のE、同村くんのD、井沢くんのI、長さんのC、そしてまりかちゃんの秋月のA…」
一人一人の顔を順に見ながら彼女は宣言する。
「そして最後にLを付けると、なんと『MEDICAL』なのです!ね、すごくない?」
「本当だ!こいつはすごい」
まず同村が感嘆の声。みんなも驚きを口にする中、向島が「でも、最後のLはどこから来たの?」と質問。
「やだなあMJさん、もう一人、大事なメンバーがいるじゃないですか」
美唄はポケットから小さなぬいぐるみを取り出す。それはラッパを持った天使…。
「ラブちゃん!」
まりかが感激してその名を呼んだ。みんなも歓声を上げる。
「そう、14班の守り神、ラブちゃんのLです!だからクイズの正解はみんなが集まるとメディカルになる、でした!」
拍手喝采の中で美唄は大はしゃぎ、その爆走はもう地の果てまで止まらない。
「ついでに発表、あたし、同村くんとデキてまーす!」
みんなから更なる歓声。
「ちょ、ちょっと遠藤さん、それは…」
「やったな文芸部!いや、お前はもう恋愛小説家だ!」
混乱する同村に井沢が肩を組む。向島も嬉しそうな美唄の顔を見て、そっと微笑んだ。

当然祝福と冷やかしの質問攻めにあう二人。その後で美唄は自分の病気についても打ち明けた。知らなかった三人は最初は驚いたものの、彼女が「これからもよろしくね」と言ったのに対し心からの思いやりで答えた。
「何か困ったことがあったらいつでも言ってね」
まりかが言う。長も「遠慮すんなよ」と告げる。
「美唄ちゃん、歩き難い所があったらいつでも俺が手を繋ぐよ。あ、同村に殴られるな」
井沢がおどけてまた同村が「うるさい!」と赤くなる。そしてその場に笑いが起きる。
そう、彼らはみんな病気と向き合い、病気と生きていく医学生なのだ。

こうして今年の実習は、ようやく実現したパーティをもって終了する。まあきっと帰ったらみんなバタンキューでしょう。本当にお疲れ様でした。
さてさて、ポリクリも残すところあと二ヶ月。ゲームセンターでラブちゃんを捕ったあの日から始まった長い旅も、少しずつ終わりが近付いています。
メディカルの名を与えられた選ばれし諸君、神様がくれたこの大いなる偶然を、ぜひとも奇跡にこじつけてくれたまえ。
間もなく新しい年がやってくる。でも今はどうかこうして一緒にいられる時間を大切にね。
誰だって、いつ何が起こるかわからないのだから。

1月、神経内科編に続く!