第4話 医者って何だかなあ (耳鼻咽喉科)

 7月第2週の月曜日。14班は新たに耳鼻咽喉科の実習に臨む。診療開始前の午前8時、病院9階のカンファレンスルームには、さっそく緊張の空気が立ち込めていた。
背筋を伸ばして整列する学生六人、その前に立つこの科の教授の名は瀬山。読者のみなさんはご記憶かな?3月のポリクリ説明会の時に登場した、学生部長その人である。
「秋月先生、君は…成績は申し分ないですね。これなら年度末の進級試験も大丈夫でしょう」
「あ、ありがとうございます」
お言葉を頂戴して恐縮するまりか。教授は一人ずつ顔と名前を一致させながら、手元の資料にも目を向けている。どうやらそこにこれまでの学業成績が記されているらしい。
「そして井沢先生に遠藤先生。君たちもこの成績なら…心配はないでしょう」
二人も「ありがとうございます」と頭を下げた。瀬山はまるで罪状を並べ立てる閻魔の如く、学生たちを見定めていく。穏やかな口調が逆に恐ろしい。井沢はポリクリモードの爽やか笑顔を自粛し、美唄さえも元気を封印している。まあ無理もない、なにしろ進級・留年の最終決定権を持つのがこの学生部長なのだから。彼らの命運は、まさにその手に握られているといっていい。
「そして…長先生。君も少し年齢は上みたいですが頑張ってますね」
「どうも、無駄に歳だけ食ってます。ハハハ」
長は誘い笑いを放ったが、瀬山含め誰一人それを拾う者はいない。慌てて黙る彼を通り過ぎ、閻魔は次の罪人を厳しい目で見た。
「…同村先生」
「はいっ」
間抜けに裏返った声を返す我らが主人公。
「昨年度の成績では今年度の進級は危ないですよ。この一年間でしっかり追いついてください」
同村は「わかりました」と深々と一礼。留年の恐怖に怯える医学生を無個性だと批判してきた彼であったが、さすがに相手が悪い。情けなくもその姿は蛇に睨まれた蛙である。
「頑張ってくださいね。そして最後が…向島先生ですね」
サボりもなんのそののアウトローでさえ、この場は外せない。権威とはそういうものだ。
「君は4年生を二回やったんですね。二回目の進級試験の成績はそこそこだから、まあ頑張ったようですが。でも気を抜かないように、一度留年した学生はまたくり返すことが多いですから」
「肝に銘じます」
瀬山は六人をもう一度順に見回すと、恐怖の資料を折りたたんで白衣のポケットにしまった。そして意味深な数秒の沈黙をおいてから、静かに言葉を続ける。
「それでは14班のみなさん、今日から耳鼻咽喉科の実習です。ここではその名の通り、耳・鼻・咽喉という三つの器官を扱っています。みなさんは二人ずつ三つのチームに分かれ、それぞれ一つの器官を重点的に学んでいただきます。ただしお互いに情報交換して、三つの器官全てを勉強するように。最終日は私が口頭試問を行ないます。
何か質問はありますか?大丈夫そうですかね。では、さっそくチームに分かれてそれぞれのオーベンに従ってください。いいですか、ちゃんとやらない人は来年もポリクリになりますからね」
学生は揃って「はい!」。教授は各チームの指導医の名を告げると部屋を出ていった。足音が遠ざかるのを待ってから、みんな大きく息を吐く。
「いやあ、マジびびったよ。噂では聞いてたけど、耳鼻科は別の意味できついな」
井沢が小声で言うと、長も小声で返す。
「本当に焦ったな。みんな俺がボケても全然笑ってくれないし」
「この状況じゃ無理ですって」
と、同村。
「まあな。それより同村、この科だけはレポートで挑戦しない方がいいぞ。さすがにリスクが高過ぎる。向島さんもサボりはやばいですよ」
アウトローな先輩は「確かに」と頷く。
「みんなで、力を合わせて乗り切ろうね!」
美唄が元気を解放してガッツポーズ。そしてまた「エイエイ…」といつものエールを発動しかけたのを全員で制止。…ある意味で抜群のチームワーク。
「シー!静かに。美唄ちゃん、ここはもう病棟だよ」
井沢に注意され、「そうだった、ごめん」と美唄は口を押さえる。
「早く行きましょう。チームごとにオーベンを見つけないと」
班長の的確な指示により雑談の時間は終わる。例によって井沢が情報を仕入れてくれていたおかげで、チームに分かれることはあらかじめ知っていた。前もって決めていたとおり二人ずつになると、それぞれのオーベンのもとへといざ部屋を出る。成績不良を指摘された同村の表情は暗いが、今は落ち込んでいる場合ではないぞ。

いよいよ始まる耳鼻咽喉科、ここは閻魔のお膝下。地獄に突き落とされぬよう、くれぐれも頑張ってくれたまえ、14班諸君!

 まずご紹介致しますのはこちら耳チーム、同村と向島でございます。やはりミュージシャンの性なのか向島が耳の実習を希望し、かねてから彼に謎の憧れを抱いていた同村がそれに続いた形である。
「よろしくお願いしますね、向島さん」
「ん?こちらこそよろしく。落ちこぼれコンビの誕生だ」
そんな言葉を交わしながら、二人は2階の外来フロアへ降りる。彼らの指導医である堤は診察室にいた。彫りの深い顔に焦げ茶色の肌、外国人と言われても一瞬信じてしまいそうな男性医師だ。
「同村先生に向島先生ね。堤です、よろしく。あ、言っておくけど俺は生粋の日本人ね」
堤は少年のようなあどけない笑顔を見せる。その気安さに二人はほっとしたようで、声を合わせて「よろしくお願いします」と返した。
「俺のミットはそんなにきつくないから安心して。今から…そうだな、ひとまず検査を見学してもらおうかな」
『ミット』とは、医局内にあるドクターのチームのこと。同輩ではなく必ず経験年数の違う複数名で構成され、つまりは下の者が上の者から指導を受けるシステムになっている。ミットのリーダーが当然最長経験年数を持つオーベンであり、真ん中がチューベン、一番下っ端がコベンと呼ばれる。オーベンは指導医を意味する正式な外来語だが、あとの二つは大・中・小に引っ掛けた業界スラング。その意味では同村たち学生は、さらにその下のマイクロベンってとこか。
「何か今質問しておきたいことある?大丈夫かい?まあそんなに構えなくてもいいよ。将来耳鼻科医を目指してるんならともかく、そうじゃないなら、何となく雰囲気をわかってもらえば十分だから。それより教授の口頭試問を頑張れよ。あの人は落とす時は容赦なく落とすから。やばいと思ったら見学は抜けてそっちの勉強してていいから」
彼は学生の味方らしい。せっかくのポリクリで見学しなくていいと言われても…と、同村の胸中は複雑。しかし堤からすれば、学生は次から次へと入れ代わり立ち代りやって来るのだ。学生が楽に単位をもらえればと願うように、医者だって楽に指導を終えたいと思うのが人情。同村の気持ちもわかるが、これもまたポリクリの現実なのである。
「じゃあ、そのドアを出て左に行った所に検査室あるからそこで待ってて。ティンパノグラムを受ける患者さんいるから、それを見せるよ」
わかりました、と堤に会釈して二人は廊下に出る。診療開始時刻となり、平日にも関わらず耳鼻科待合には多くの患者やその家族がひしめいていた。世の中にはこんなに病気の人がいるんだ…、当たり前のことだが、同村は改めてそんなことを思った。
「検査室はあそこだね」
向島が指差す。足を進めながら同村は小声で尋ねた。
「あの、ティンパノグラムってどんなのでしたっけ?」
「あれでしょ?ほら、鼓膜とか耳の骨の動きを測定するやつ」
即答した先輩に同村は正直驚く。
「勉強されてますね」
「いや…そうじゃないけど、ほらオーケストラの楽器でティンパニってあるでしょ。皮を張った大きな太鼓。鼓膜の検査がティンパノグラムだから、きっと同じ語源だろうなって思って」
いつかの聴診器の実習の時もそうだった。この知られざる天才にとって、音楽と医学は別個に存在しているわけではないのだろう。ある時は音楽が医学に繋がり、ある時は医学が音楽に繋がる。
「どうしたの同村くん、早く行こう」
「あ、すいません」
思わず立ち止まっていた同村は、またそのアウトローの遠い背中に憧れを強めてしまうのであった。

 一方こちら鼻チーム、井沢と長でございます。指導医はまだ30代だろうに頭髪の後退がちょっと気になる男性医師・清水。
「よろしくお願いします、アニキ」
医局で捕まえた彼に長がそう挨拶した。
「おうおう、今週はお前らか。よろしくな」
アニキなんて呼ばれても特に腹を立てた様子はない。というのも彼らは知らない仲ではないのだ。清水は長にとって柔道部の先輩、彼が1年生の時の6年生だった。かつては部の主将も務めた学内の有名人であり、井沢もサッカー部ながら、その顔の広さで何度かグラスを交わした経験があった。アニキはその面倒見の良さで、今もなお柔道部に留まらず多くの後輩から慕われている。
「アニキ、僕らは何をすればいいですか?」
「そうだな、それはもちろん、ええと…何だっけ」
「ちょっとしっかりしてくださいよ、まったく」
後輩二人にいじられながら、先輩はポリクリの予定表を確認する。この頼りない感じが親しみやすさの由縁でもある。
「そうそう、ひとまず外来で器具とか処置を勉強してもらおうかな」
「了解っす。それにしてもアニキがオーベンって聞いて驚きましたよ。ついこの前チューベンになったんじゃなかったでしたっけ。異例の出世ですね」
長の言葉に清水は片眉を吊り上げて明らかな焦りを見せた。
「ああ、まあそうなんだけどな。ほら、俺って天才だから、ハハハ」
漫画のようにわかりやすく動揺しながら無理に笑う。そしてその拍子に持っていたペンを落っことして慌てて拾う。…まあこの嘘のつけない性格と、オッチョコチョイも人気の秘訣ではあるのだが。
長は自分が何かまずいことを言ったかと井沢を見る。彼は事情を知っているようで、この話題はやめましょうと目で返事した。
「アニキ、もう9時過ぎてますけど、外来始まってるんじゃないですか?」
井沢に指摘されて清水は片眉をさらに吊り上げる。
「おお本当だ、のんびりし過ぎた」
「アニキ、相変わらずですね。俺憶えてますよ。柔道の試合の時、隣の試合場の笛を聞いて勘違いして闘うのやめちゃって…」
「あ、その伝説なら俺も知ってます。それでせっかく勝ってたのに、相手に投げられちゃって一本負け。ダメですよ、時間はちゃんと意識しなくちゃ」
「うるせえ!おら、外来行くぞ。鼻血を止めるのに鼻の血管焼くのを見せるからな」
「…清水先生」
そこで思いもよらない声が背後からした。そう、穏やかだが絶対に聞き逃されない声。
「鼻血じゃなくて鼻出血ですよ。医学用語は正しく使ってください」
恐る恐る振り返ると、そこには…瀬山教授が再登場。クーラーがその場だけ強まったように空気が凍る。学生二人も青ざめる。
「あ、すいません」
清水が慌てて頭を下げまたペンを落っことす。びびるのはわかるけど、落ち着いて!
「勤務中は私語は慎んでください。清水先生…臨時とはいえオーベンの自覚をしっかり持ってくださいね。あなたがちゃんとしないと学生に示しがつきませんよ?」
清水は平謝りで「はい」とくり返すばかり。教授は最後に「お願いしますよ」と付け加えてその場を去った。
「アニキ…すいません」
長が小声で詫びる。肩を落とした先輩は「いや…いいんだ」とだけ答え、そのまま彼らは力ない足取りで2階へ向かうのだった。
一緒に叱られる社会人と学生。本来なら大きく違うこの二つの境界がどこか曖昧なのも、大学病院ならではかもしれない。何はともあれ…ドンマイ!

 そしてこちら咽喉チーム、美唄とまりかでございます。ボーカリストである美唄がいつものノリで「あたし、喉の勉強がしたい!」と希望し、相棒は女の子がいいとまりかを誘った。まりかも特に抵抗せず、ガールズコンビが誕生したのである。二人のオーベンは、オペ室に向かう廊下で捕まえることができた。
「僕の受け持ちは二人とも女の子か、うれしいなあ」
易しい笑顔を見せる彼の名は中村、長い黒髪を後ろで縛った壮年医師。
「もう、何言ってるんですかフレディさん」
明るく返す美唄。そう、ここでも部活の絆が活きている。中村は美唄にとって音楽部の大先輩。学生時代は重なっていないが、中村は頻繁に学生のライブを見に来てくれる有名OBとして、これまた多くの後輩から慕われている。先ほどの発言もけしていやらしい意味ではなく、彼ならではのジョークなのだ。
「相変わらず元気そうだね、美唄ちゃん。どう、低音の声は出るようになった?」
「いえ、やっぱり苦手です。あたしが低いキーで歌うと、どうしても弱い声になっちゃうんです」
「美唄ちゃんは頭が小さいからなあ…あんまり太い声にはならないよ。まあ声帯は生まれ持つ楽器だし、自分なりに磨くしかないよね」
部活トークにしばし花が咲く。すずらん医大に限らず、医学部の部活と言うものは学生時代だけでなくその後の人生にも多大な影響を及ぼす。特に母校に就職した場合は、先輩や後輩が数多く院内にいるわけで、何かと心強くもあり何かとわずらわしくもある。部活の先輩に誘われて入る医局を決めました、部活の票を集めて支部長になりました、なんて話もけして珍しくない。
「そうそう、ムコは元気なの?」
ムコとはもちろん向島のこと。
「はい、MJさんも相変わらずです。今年あたしと同じ班でポリクリ回ってます」
「ちゃんと進級したんだな、よしよし」
中村はそこで蚊帳の外にしてしまったまりかに気付く。
「あ、ごめんごめん。どうも、中村フレディです」
急に離しかけられて少し戸惑う才女。
「あ、はい、秋月と申します。よろしくお願いします」
「君も良い声質してるね。歌とか結構いけるんじゃない?」
「そんな…。あの、私たちどうすればいいですか?」
まりかのその言葉で話題はようやくポリクリに戻る。
「あ、そうそう。これから声帯結節のオペだからひとまず一緒に入って見学してよ」
「フレディさんが執刀ですか?」
「もっちろん。7番オペ室だよ、じゃあ後でね」
長髪の医師は鼻歌混じりに更衣室へ消えていった。その姿が見えなくなってからまりかがそっと尋ねる。
「美唄ちゃん…フレディって何?あの先生ハーフか何か?」
「違う違う、ニックネーム。なんか好きなミュージシャンの名前なんだって。音楽部ではみんなそう呼んでるの」
「そうなんだ…」
フレディにMJK、そしてエイエイオーの元気娘…。この先輩にしてこの後輩ありだな、とまりかは考える。そしてこの三人が同じミットのオーベン・チューベン・コベンになった姿を想像して…その恐ろしいビジョンを強制終了するのであった。

 二日目火曜日。この科では分かれたチームごとに実習スケジュールが異なるため、いつものように六人で学生ロビーに集合はしなかった。口頭試問対策のため明日の夕方には一度集まることとし、それまでは三種三様の動きとなる。

午前10時。まずは落ちこぼれコンビこと耳チームを見てみよう。向島もサボらずちゃんと姿を見せ、同村とともに堤の病棟回診に同行している。
「はい、じゃあお大事にしてね」
堤は診察してはそう明るく声をかけながら、手際よく病室を回っていく。本日はチューベンの岸本、コベンの藤野という二人の女医も一緒だ。耳の病気は数多くあり、中には人生を大きく変えてしまうものも少なくない。ある日突然何の準備もなく音を失ってしまう患者、慢性的なめまいに悩まされる患者、不快な耳鳴りに昼も夜もイライラしなくてはならない患者…例え命に関わらない病気だったとしても、その苦しみはけして軽いものではない。いくつかの病室にはふさぎ込んだ暗い表情があった。それでも堤ミットの3人の医師はけして笑顔を絶やさず、時には筆談なども用いながら患者に接していく。
ある患者はうまく喋れる自信がないのか、紙に「また好きな曲が聞きたい」と書いた。それを見た同村は作り笑顔さえできなかったが、堤は明るく患者の肩を叩く。そして立ち止まることなく病室を出ていく。
次の病室に入る前、同村は気持ちを抑え切れず質問した。
「堤先生、今の患者さんの聴力は…回復するんですか?」
オーベンはそこで笑顔を消し、彫りの深い顔に厳しさを浮かべた。
「…難しいだろうね。俺も長い経過で診てるけど…重度の耳硬化症だから。知ってる?この病気」
同村が言葉に詰まると、向島が代わりに口を開く。
「ベートーベンと同じ病気ですね」
「…そう。誰にだって自分にとって大切な健康がある。マラソン選手にとっての足だったり、画家にとっての腕だったり、音楽家にとっての耳だったりね。ベートーベンは一番大切な健康を奪われた。それでも彼は音楽をあきらめなかった…すごい人だと思うよ。
こんなことを言った人もいる…『病気は不便だけど不幸ではない』」
「ヘレン・ケラーですか」
今度は同村が返した。
「そう。でも…残念ながら全ての患者がそんなに強いわけじゃない」
堤は言葉を止めた。質問をした張本人の同村にも次の言葉が見つからない。治せない病気はいくつもある…そんなことは彼にもわかっている。でもそうなら医師が患者に向ける笑顔は一体何なんだ?…そんな疑問が頭でこだまする。
「あら、どうされました?」
コベン・藤野が沈黙を破る。見ると一人の老婦人がヨロヨロとおぼつかない足取りでこちらへ歩み寄ってきていた。藤野に体を支えられながら彼女は真っ直ぐに堤を見て言った。
「めまいがずっとしてて、気持ち悪いの。ねえ、吐き気止めを点滴して」
彼女は本当に苦しそうだ。そのすがるような眼差しに同村にも強い思慮が込み上げる。しかし…。
「ダメです、何回も同じこと言わせないでください。特別扱いはできません、みんな同じ薬で頑張ってるんだから」
堤は全く笑顔も優しさもなく断わった。
「それにおばあちゃんの担当は俺じゃないでしょ。そういうことは担当の先生に言いなさい」
オーベンは背を向けて歩き出す。老婦人は「ねえ、お願いよ」と涙声で懇願するが取り合わず、回診の続きとして次の病室に入っていった。悲哀に暮れる患者は女医たちになだめられながら、自分の病室に戻される。廊下に取り残された二人の学生は、しばしその場に立ち尽くすしかなかった。
「…あのおばあちゃん、あんなに必死だったのに」
呟く同村。向島は虚空を仰ぎながら「しょうがないよ」と答えた。
「でも…さっきの対応は冷たくないですか?」
「きっと医者ってのは、病気とか悲しみとかに慣れちゃうんだよ」
また沈黙。やがて堤が病室から出てきてさらに次の病室へ向かっていく。
「行こう同村くん、回診を見学しないと」
向島は歩き出す。その肩越しに見える堤の背中を見ながら、同村は嘆いた。
「…何だかなあ」

 一方こちらは鼻チーム。午後2時、アニキからの許可を得て二人は病院食堂で遅い昼食を摂っていた。
「鼻の病気も結構きついんですね。思った以上に患者さんが苦しんで手びっくりしました」
井沢がうどんをすすりながら切り出す。
「鼻は呼吸のためにも重要だもんな。俺もガキの頃ひどい蓄膿だったんだ。じいちゃんに連れられて毎週耳鼻科に通ってたよ。寝苦しくてつらかったなあ」
パスタをフォークに巻き付けながら答える長。井沢が長のトレイに置かれたパックの牛乳を見て言った。
「そういえば小学校の頃、牛乳飲んでる女の子を笑わせて、鼻から牛乳出させるの流行りましたよね」
「若いのに古いイタズラ知ってんだな。やったなあ、そういうの。あの頃は頭部の解剖学なんて知らないから、鼻から牛乳が出るのが不思議だった」
「久しぶりにやりますか。長さんその牛乳飲んでくださいよ、俺が笑わせますから」
「やめて~また教授に怒られる」
そんな楽しい会話が進んだところで、長がふと思い出したように尋ねた。
「そういえばさあ、アニキはどうして急にオーベンになったの?なんか臨時だって言ってたけど」
井沢が箸を止める。
「先輩から聞いたんですけど…ちょっとした事件があったんですって」
「事件って医療ミスとか?」
長も声を落とす。
「いや、そういうのじゃなくて何ていうか…ハレンチ事件」
「はあ?」
「なんか勤務時間中に、空いてる部屋でドクターが事務の女の子とイチャコラやってたんですって。それで、それを見つけた他のドクターがブチ切れて」
長はフォークを置いて牛乳を手にした。
「なるほど、そのイチャついてたドクターがクビになって、それがアニキの前のオーベンだったってわけか。急にその人がいなくなったからアニキが…」
「違いますよ。飛ばされたのはハレンチを発見したドクターの方です」
長は驚いて本当に鼻から牛乳を出しそうになる。
「どういうことなんだ?」
「発見したドクターは講師、ハレンチの方は順教授だったんですよ。それで結構ゴタゴタして、順教授は都内の系列病院に半年間出向、講師の方は田舎の病院に一生島流しです」
井沢も不愉快そうにお茶を飲む。
「アニキの前のオーベンだったのはその講師の方です。順教授は別の科のドクターで、そこそこ院内でも力がある人だったみたいで…」
「かっこ悪い白い巨塔だなあ」
哀しきかな、医療者もまた人間だ。恋もすれば性欲もある。それが微笑ましいオフィスラブならともかく、この巨大な組織にはきっと不義や不貞も存在している。そう、この社会全体がそうであるように、ここだけが穢れなき聖地ではないのだ。
再びフォークを手にした長が嘆いた。
「…何だかなあ」

 そしてこちらは咽喉チーム。午後4時、二人は告知の場に立ち会っていた。外来の隅にある窓のない小さな部屋。机を挟んで座る男性患者に告げられた病名は深刻なものであった。ヘビースモーカーである彼が、喉の不調を訴えて受診したのは二週間前。その診断結果が本日彼の人生の景色を変えた。
「ここまでの説明で、何か…ご質問はありますか」
中村の声が重たく室内に響く。その後ろに座る美唄は目を伏せ、隣のまりかは真っ直ぐに患者を見ている。彼は何も言わず、ただボンヤリと机の上に組んだ手を見つめていた。視線の定まらない虚ろな目だった。
さらに十分ほどの沈黙を待って、中村は告げた。
「もしあなたが手術を選ばれるなら、私どもは全力を尽くします」
「でも、手術をしたら僕は声が出なく…」
男性の頬を次々と涙が伝う。それを食い止めるように目を閉じた彼は、声を殺して泣き始めた。同席していた看護師が彼にそっと寄り添う。室内には悲痛な嗚咽だけが散る。
「いいですよ。ゆっくり、ゆっくり考えてください」
小さく頷く中村。その背中に隠れるように、美唄はさらに身を縮めた。対してまりかは片時も患者から視線を逸らさない。それは彼女の中にある断固たる意志…四年間連続の特待生はけしてただのガリ勉ではない、他の誰にも負けない情熱ゆえなのだ。
「どうされます?…命を守るために手術を選ばれますか?」
嗚咽が弱まるのを待って、中村は再度尋ねる。患者は目を閉じたまま震える顔で頷いた。
「…わかりました。では早い方がよいですから、さっそく入院の手続きを行ないましょう」
看護師に付き添われ、患者はそのまま部屋を出ていった。ドアが完全に閉まってから中村はくるりと椅子を後ろに回転させる。
「告知はこんな感じ。ちょっときつかっただろうけど、大丈夫?」
優しい笑顔だった。美唄がようやく顔を上げて頷く。そこにはいつもの元気はない。その隣でまりかが「質問よろしいですか」と口を開いた。
「このような告知の際に、大切なことは何ですか?」
「ドクターによっても違うと思うけど、僕はちゃんと真実を伝えることだと思う。ありのままを伝えることが大切かな」
「どうしてですか?」
今度は美唄が尋ねた。
「本当のことを知ってこそ、その人の本当の力が出ると思うんだよね。病気と闘うには、その力が絶対必要なんだ」
学生たちは言葉を続けなかった。中村は「じゃあ今日はこれでおしまいにしよう」と腰を上げ、また優しく微笑む。そして明日の集合時刻を告げると、そのまま部屋を出ていった。
沈黙を続ける二人…そろそろ街は夕焼けに染まる時刻だが、この部屋にそれを知る術はない。時の流れから取り残されたような室内。空気も心も滞り、ただ院内アナウンスと救急車のサイレンだけが遠くに聞こえている。
「…まりかちゃん」
美唄がポツリと呟く。
「あたし、患者さんの顔をまともに見れなかった。あの患者さんはきっとこんなつらい診断を伝えられるなんて思ってなかったよ。今あの人、どんな気持ちでいるんだろう…」
「…想像もつかない」
視線を患者のいた椅子に注いだまま、まりかは静かに答えた。
「まりかちゃん…あたしたちただの学生だよ。何もしてあげられないのに、勉強のためだけにあの人の絶望を見学する権利があるのかな」
「おこがましいってこと?」
まりかは美唄を見た。美唄も顔を上げ、「おこがましいっていうか…申し訳ない」と返す。
「私たちは将来出会う患者さんのために、今勉強してるんだよ」
「そうだけど…いや、そうだね」
そこでまた沈黙。数分の後、まりかが「帰ろっか」と腰を上げ、美唄も「うん」とそれに続いた。
「まりかちゃんはこの後どうするの?」
「着替えて荷物取ったら…ちょっと図書館で勉強してから帰るつもり。美唄ちゃんは?」
「あたしも今日はそうしよっかな。一緒に図書館行っていい?あ、邪魔にならないようにおとなしく勉強するから」
「邪魔なんかじゃないよ、一緒に勉強しよう。金曜日には教授の口頭試問もあるしね」

二人は病院を出ると教育棟に戻り、帰り支度をしてそのまま学内図書館へ向かった。当初やろうと話していた口頭試問対策には結局手を付けず、二人は先ほどの患者が告知された病気の専門書を開いた。その病態、治療法、予後、発見の歴史と最新の研究…そんな細かい部分まで試験に出題されるわけはない。それでも二人は勉強した。それだけが今あの患者にしてあげられる自分たちの精一杯。もちろん自己満足だということはわかっている。しかし例えそうでも、無責任に患者の絶望に立ち会った彼女たちにとって、これが罪滅ぼし…医師免許を持たない学生にできる唯一の責任の果たし方であった。
…青いね。でも青いけどいいんじゃないかな?進級のためなんかより、ずっと大切な学習の動機です。いつもそうとはいかないけど、少なくとも今彼女たちの背中を押しているのは、留年の恐怖なんかじゃないんだから。

 二人が図書館を出た午後8時、辺りは完全に日が落ちていた。
「もうすっかり夜だね、あ~肩こっちゃった」
美唄が背伸びした。まりかも「疲れたね」と返す。しかし会話はそれ以上続かない。無言で夜の駐車場を歩く。昼間の太陽を吸収したアスファルトはまだ熱を帯びており、地面からはぬるい空気が立ち込めてくる。
と、そこに一台のスクーターが通りかかった。暗がりの中でも目立つ赤い革ジャンにギターケースを背負った長髪の男…中村フレディであった。
「あらお嬢様方、まだいたの?」
スクーターを停めて中村が言う。美唄が「ちょっと自習してたんで」と返した。
「真面目だね~。耳鼻科の実習はまだあと三日もあるんだから、あんまり飛ばすと疲れちゃうよ」
「了解です。フレディさんは今お帰りですか?」
「そうだよ。今からスタジオ入ってバンドの練習なんだ。この前買ったこのギターを唸らせてくるから」
中村はワクワクした様子で背中のギターケースを示すと、二人に気を付けて帰るよう告げて走り去っていった。
「今から練習…すごいね」
まりかが新宿に消えていくスクーターを見ながら言った。
「音楽部のOBってね、バンド続けてる人多いの。ライブハウス借りてイベントもやるくらいだから。でもみんな仕事があるから、どうしても練習は深夜になるみたい。今日なんかまだ早い方じゃないかな」
「…そうなんだ」
「フレディさんは、練習の時から派手な衣装とギターで大騒ぎするの」
「あんな告知をした後でも…平気なんだね」
まりかの呟きに、美唄ははっとしたように言葉を止める。そして、少しためらいがちに答えた。
「確かにね…ちょっと、不謹慎…かもね」
生暖かいビル風が二人の髪を揺らす。同時に排気ガスの臭いも押し寄せた。
「じゃああたし、地下鉄だから。また明日ね、まりかちゃん」
美唄は手を振って歩道橋に向かう。まりかも微笑んで「お疲れ」と返したが、その胸中はまだ複雑だった。あの閉ざされた部屋で患者に深刻な告知をした中村、そして今からバンドの中ではしゃぐ中村。あまりにも異なる姿、しかし紛れもなく同一人物。
「所詮は他人事、か」
同村じゃあるまいし、まりかがこんな独り言を言うのは珍しい。彼女はそこで振り返り、灰色の夜空に突き刺さる巨大な病院を見上げた。そして小さく嘆く。
「…何だかなあ」

 翌水曜日、朝の学生ロビーは不穏な賑わいを見せていた。普段からここは学生同士の情報交換の場だ。どの科のどのドクターには気を付けろだの、どこは手を抜いても大丈夫だの、どのナースが可愛いだの、VIP病室に話題の女優が入院しているらしいだの…、実習に関係あることからないことまでガセネタ満載でお送りされている。同級生内にも数々のネットワークを持つ井沢にとって、それは重要な情報源であった。
「聞きましたか?うちのドクターが逮捕されたって話」
ソファでパンをかじっていた長に、井沢が駆け寄った。
「朝のニュースで見たよ、電車内で盗撮だってな。病院名までバッチリ報道されてた」
「まったくアホな奴ですよね。医局長までやってたらしいのに、全部パア」
井沢も体面に腰を下ろす。
「なんかあれですよね。医者とか教師とかがこんなことすると大きく報道されて…」
「まあな。でも免許没収にはならないだろうし、依願退職して話はおしまいだろう」
パンをほおばると長はコーヒーを流し込んだ。壁の時計は8時30分。
「今日は9時に病棟集合ですから、もうちょっっとしたら行きますか」
長は「そうだな」と言いながら立ち上がる。
「悪いけど一本だけ吸わせて。すぐ戻るから」
ここまでの物語では描かれなかったが、実は彼は喫煙者である。14班でタバコを吸うのは向島と彼だけ。昨今の風向きに漏れず、すずらん医大でも禁煙の波が押し寄せている。病院内はもちろん、この教育棟でも喫煙室は全て撤去。学生も職員も喫煙者は追いやられ、その罪深い行為に及ぶ時は、病院敷地内の隅っこに設けられた喫煙所という名のプレハブ小屋に忍ばなくてはならない。それはまるで体育館裏でこっそり喫煙する中学時代の不良さながらだ。ちなみに長はそちらの方も経験者なのだが…これは内緒ね。
「この機会に禁煙したらどうっすか?喫煙が鼻や喉に与える影響は…」
「クルズスで聞いたよ。わかっちゃいるんだけどな、こればっかりはどうも…。すまん、すぐ戻る!」
耳が痛いね…耳鼻咽喉科だけに。浪人生のボスは教育棟を飛び出していく。それを見ながら井沢は大きくあくびをした。学生ロビーにおかれたテレビにはまた例のニュースが流れたようで、にわかにどよめきが強まる。いい加減うんざりした井沢は立ち上がり、そして小さく嘆いた。
「…何だかなあ」

 同日正午。アニキの病棟回診を見学した二人は、そのまま彼に連れられて会議室に向かっていた。28階、患者や家族は出入りできないセキュリティフロア。薄暗い照明、足音を吸収する絨毯の廊下に大小様々な会議室の重たい扉が並んでいる。
「なんか立ち入れない聖域って感じですね、アニキ」
長が言うと、清水は「そんなことねえって」と笑う。
「それをいうなら、この上の教授室のフロアだ。あそこに呼ばれる時はいまだにびびるぞ」
間もなく目的の部屋に近付く。手前の廊下の両脇には、スーツ姿の男女が立ち並んでいた。その間を通り抜けると、「よろしくお願い致します」といくつもの頭が次々に下げられる。恐縮してしまう学生二人に対し、清水は特に気にかける様子はない。
「俺たちまでペコペコされちゃうんですね」
長が小声で苦笑い。清水は「気にするな、それも製薬会社の仕事のうち」と返す。三人が入ると、広めの室内にはすでに耳鼻咽喉科の医局員たちが多く着席している。そして部屋の隅には、所在なさげにしている馴染の顔があった。
「あ、井沢くんと長さん!」
先に声を上げたのは美唄。横には14班残りのメンバー。どうやら他のチームもオーベンに連れられてきたらしい。清水の指示により、六人は最後列に並んで腰を下ろした。
「全員集合するの久しぶりだね」
嬉しそうな美唄に、「大げさだよ」と返す同村。そんなやりとりをしているとスーツ姿の男性が彼らに近付いてくる。
「よろしくお願い致します」
そう一人ずつに頭を下げながら、彼は書類サイズの封筒と、それより一回り大きい弁当箱を配る。学生たちはまたまた恐縮しながらそれを受け取った。業界に明るい読者なら今からここで何が行なわれるのか、すでにおわかりだろう。そう、製薬会社による製品説明会だ。正面のプロジェクターには薬の名前が表示され、配られた封筒にはパンフレットや社名が刻まれたボールペンなどが入っている。スーツ姿の男女の正体はMR、昔でいうところのプロパーさんである。病院を回ってドクターを訪問し、薬についての情報を提供するのが彼らの重要な仕事。このように昼食を兼ねて行なう勉強会を、業界では『ランチョンセミナー』と呼ぶ。ランチ・オン・セミナーの意味らしいが…それを聞いて「セミナー・オン・ランチじゃないのか?」と独り言で投げかけるのはもちろん文芸部の同村。
「弁当…俺らももらってよかったのかな」
不安そうな長に、前列の清水が振り返って「いいんだよ、しっかり食え」。まだ説明会は始まっていないのに、気付けば室内のあちこちですでに食事が始まっている。六人は一応お互いに目で確認を取りながら、弁当の蓋を開いた。
「わあすごい、おせちみたい」
美唄が目を丸くする。隣でまりかが「美唄ちゃん、静かに」と言いつつも、彼女もまたその豪勢な内容に驚いているようだ。ちなみに井沢はこっそり蓋の裏や箱の底をチェックしている。大丈夫、さすがに…そこまでのことはございません。
やがて一人のスーツ姿の女性が正面に出た。廊下にいたMRたちも入室してくる。どうやら説明会の始まりらしい。
「本日は貴重なお時間をいただきまして、誠にありがとうございます。先生方におかれましては、日頃より弊社の製品をお引き立ていただきまして、誠にありがとうございます」
彼女は一礼し、自らをメロディアス製薬の後藤と紹介した。
「瀬山教授はご診療がお忙しいとのことで、先に始めておくようにとのご連絡をいただいております。それではさっそく始めさせていただきます。本日ご紹介致しますのは、新しいめまい治療薬として弊社が開発致しました…」
後藤はまだ若い。精一杯気を遣い、過剰ともいえる敬語で粗相のないように話しているのがわかる。しかしそんな彼女の言葉に真剣に耳を傾けている者が室内に何人いるだろう。
「先生方には釈迦に説法と存じますが、めまいが起こる一つの原因と致しまして…」
専門用語や図解を駆使して説明は続けられる。薬の作用機序、効能、用法、副作用などプロジェクターの画面も次々に切り換わっていく。しかし医局員たちは食事の時にとりあえず点けているテレビさながらの興味しか示さない。中には弁当に顔を埋めたまま視線を全く上げない者もいる。箸を止めて真面目に傾聴している者といえば…そう、我らが14班の面々くらい。しかしまだ学生の彼らにとって、実際の臨床で使われる薬の説明は正直チンプンカンプン。まりかの頭脳をもってしても、半分も理解できなかった。
その後も後藤の孤独な訴えは続く。中には弁当を食べ終わると忙しそうに席を立つ者、PHSが鳴りそれに応答しながらそのまま退室する者まで出てきた。
「…以上で説明を終わります。ご清聴ありがとうございました。何かご質問などございますでしょうか?」
拍手も質問もあがらない。後藤のその言葉を最後に、残った医局員たちもぞろぞろ席を立っていく。
「ありがとうございました、どうもありがとうございました」
MRたちはまた入り口付近に整列し頭を下げている。学生たちはいずれのチームもオーベンから2時まで自習の指示を受けたため、その場に残ってようやく落ち着いて弁当に箸をつけることができた。
「…製薬会社さんがあんなに一生懸命なのに、みんなあんまり聴いてなかったですね」
伊勢海老の殻を剥きながら同村が漏らす。
「まさに弁当だけが目当て、って感じ?」
向島は鼻で笑う…耳鼻咽喉科だけに。長も無言で何かに頷いている。美唄とまりかは食べても食べても減らないおかずと奮闘中。あれ?そういえば井沢がいないぞ…と思ったら、なんと彼は前に出て後藤に話しかけているではないか。
「とっても勉強になりました。僕らにはちょっと難しかったですけど」
得意の爽やか笑顔が炸裂し、後藤も片付けの手を止めて彼に微笑む。
「ありがとうございます。あの…学生さんでいらっしゃいますか?」
「はい、今病棟実習してます」
そんな彼の社交術を遠目に見ながら、同村は改めて感心する。もちろんそこには以前のような苛立ちの感情はない。何度も14班を助けてくれている彼のコミュニケイション能力を素直に認めていた。
そのうちにMRたちも全員去り、室内は学生のみとなった。再び着席する井沢。
「ナンパはうまくいったの?」
「何言ってんですか長さん、勉強のために色々訊いてたんですよ。でも大変みたいですね。MRってみんなが薬学部出身ってわけじゃないのに、それでもあれだけ説明できるくらい勉強してるんですから」
「きっと何度も予行演習してるんだろうね。ああもうお腹いっぱい」
そう言ってまりかが弁当を閉じた。
「それなのにお医者さんたちの反応は…冷たかったね」
美唄も箸を置く。血の滲むような練習を重ねてステージに立つ彼女、聴衆の反応が薄かった時の切なさは身にしみて知っている。
弁当のゴミを片付けながら美唄が小さく嘆いた。
「…何だかなあ」

 同日午後5時、それぞれの実習を終えた三つのチームは約束どおり学生ロビーに集合した。いつものソファで明後日の口頭試問の対策を練り、この三日間でそれぞれのチームが学んだ知識を交換する。そして話題はいつしかお互いの「何だかなあ」の発表にすり替わっていく。そこには彼らにとって少なからず落胆した医師の現実があった。
それは患者の懇願を取り合わない姿であり、それは大物のハレンチを指摘して左遷される姿であり、それは深刻な告知の後にはしゃいでギターを弾く姿であり、それは愚かな犯罪で逮捕される姿であり、それは弁当だけ食べて真面目に説明を聞かない姿であった。
「…それが当たり前になっちゃうんだろうなあ」
井沢がしみじみと言う。
「俺だってさ、先月同村に怒鳴ってもらえなかったら、嫌な奴のままだったかもしれない」
「いや、俺の方こそ」
雨降って地固まる、どうやらこの二人の関係にはよい変化が生じつつある。それは大いに結構。しかし社会人、しかも病院という閉鎖世界では、そんな目を醒まさせてくれる恵みの雨はなかなか降らない。
井沢が言葉を続けた。
「今は俺たちおかしいって思ってても、医者になって何年かしたら…患者を何十人も抱えて忙しさに負われたら…きっとそれが当たり前になるんだろうな」
「そうだな。堤先生たちが悪い人だとは思わない。けど…優しさとか余裕とかを配分していったら、どうしても一つ一つが軽くなっちゃうんだよ」
同村が答え、美唄も「そうだね」と賛同。続いて長が言った。
「どんな仕事にだって陰の部分はある。政治もそうだし、医療だって例外じゃないよな」
ポリクリで彼らが目にするのはけして医療の白さだけではない。白衣の影に潜む数々の黒さを学ぶことも実習の隠れたカリキュラムなのだ。
「でもさ…だからこそ、今感じてるこの気持ちを忘れないようにしようよ」
まとわりつく闇を振り払うように、まりかが精一杯の明るさで提案した。スケジュール管理だけではない、意識的か無意識的か、彼女は精神面でも14班を導こうとしてくれる。
「そうだね、うん、そうだよ!」
美唄もいつもの笑顔に戻ってガッツポーズ。そう、お株を奪われてちゃダメ、明るさは君の専売特許でしょ?
「よし、気分を変えよう」
向島がソファを立つ。もう学生ロビーに他の班はいない。彼は隅に置かれたテレビに向かった。
そういえば…彼だけが「何だかなあ」を発表していない。すでに医者とはそういうものだと悟っているのか。それとも…医者になる道の上にいながら音楽への情熱を優先している自分自身に、誰よりも「何だかなあ」と嘆いているのかもしれない。
向島はテレビをオンにする。他の五人の視線も集まった。そこに流れるニュースは…ある病院の医師たちが一斉に退職して一つの科がなくなってしまったというもの。そのせいで遠くの病院まで通わざるを得なくなった患者の苦言のインタビューが続く。
空気を察して向島はチャンネルを回した。今度はバラエティ番組が映し出される。これで一安心…と思いきや、そこにはタレント女医がお笑い芸人をいたぶってバカ笑いしている姿が。
…何だかなあ。
おっと、作者が嘆いてはいけませんね。まあそんなわけで学生ロビーにはまたまた落胆が生まれてしまうのでありました。

 木曜日、今日もチームに分かれての実習。わずか数日で一生分の「何だかなあ」を味わった14班メンバーは、まだそれぞれのモヤモヤの中にいた。

こちらは耳チーム。アウトロー向島が何かやらかしてくれるのでは…と、勝手な期待を抱いていた同村であったが今のところ何事もなし。サボりの帝王も、閻魔大王に首根っこを捕まれてはさすがにひとたまりもないようだ。11時、午前の実習から解放された二人は病院食堂で早めの昼食にありついた。
「明日で耳鼻科も終わりですね」
カレーを口に運びながら切り出す同村。
「そうだね。結構面白かったかな」
「最近、音楽活動の方はいかがですか?」
「う~ん、今は曲作りよりも楽器の練習期間って感じかな」
「そうですか…」
向島はそれ以上話を広げなかった。執筆活動はどうかと逆に訊き返されることを期待した同村であったが、そんな様子もない。ジャンルは違えど創作活動を愛する者同士、何か通じ合えるかと思ったが…そう単純ではないらしい。
しばしお互いの栄養補給に専念する。そして目の前にいる先輩を見ながら、同村は人類史上最大の謎を口にすべきか迷っていた。
…あなたはどうして医学部にいるんですか?
それはけして開いてはいけないパンドラの箱。答えを知るべきではないと本能が警鐘を鳴らしている。しかし…知りたい。意を決して同村はスプーンを置いた。
「向島さん、あの…」
「相席よろしいですか?」
燃え上がった勇気は無遠慮な声によってあっけなく鎮火。食堂は少しずつ混み合ってはきているものの、席はまだ十分に空いている。なのにあえて相席とは?
「あ、お疲れ様です」
向島が先に反応する。トレイを手にしてそこに立っていたのは、堤ミットのチューベン・岸本とコベン・藤野の女医コンビであった。彼女たちは学生の返事も待たず同じテーブルに腰を下ろす。
「どう、耳鼻科は楽しい?」
藤野の言葉から彼女たちのリズムで会話が始まる。病棟では気付かなかったが、藤野には広島、岸本には京都の訛りがあった。国立と異なり、私立の医科大学は都会に集中している。上京して入学し、そのまま母校に就職する者はけして少なくない。
「へー、そうなんや。向島先生は音楽部なんやね。個性あるって思った」
「逆に同村先生は地味じゃね、文芸部」
14班メンバーとは自然に話せるようになってきた同村でも、ここで小粋なことを言えるスキルはさすがにない。向島への質問が不発に終わった落胆もあってか、彼はお姉様方に力なく苦笑するばかり。
「こら、元気ないぞ青年。そんなんじゃ患者さんも不安になるよ」
藤野が同村を小突く。岸本が真面目な顔で「何か悩みとかあるん?」。
「いやその…」
訂正しようとした同村だが、そこであることを思い出す。病棟での堤の老婦人に対する冷たい対応…彼はこの機にその疑問をぶつけてみた。同村という男は、妙な所で大胆だ。
女医二人は一瞬顔を見合わせ、少し声を落としてからまず岸本が口を開いた。
「そのことが気になってたんや。でもそれはちゃうわ。堤先生は冷たくあらへんよ。だってあのおばあちゃん、堤先生のほんまもんのおばあちゃんなんやから」
「え?」
思わず声が出る同村。向島も瞳に驚きの色を浮かべる。
「だから堤先生はああいうふうに対応したんや。自分のおばあちゃんやからって、特別扱いするわけにはいかへんから。そんなことしたら担当の先生にも悪いしね」
コーヒーを一口飲み、続いて藤野が説明する。
「そうなの。家族だからって、他の患者さんにはしてない治療をするわけにはいかないってこと。まあ冷たく見えたかもしれないけど、あれが堤先生の平等なのよ」
平等…その言葉は同村に重たく響いた。病気という不平等に苦しむ患者たちに、堤は平等を説くのか。あの笑顔もそれゆえだったのか?
「先生方は…たくさんの患者さんに出会って、やっぱり病気に慣れてしまうんですか?」
黙っていた向島が突然尋ねた。
「そう…やね。慣れるっていうか、特別なことやないとは思ってるかもしれへんね。病気は悲しい。でもそれは特別やない。患者さんはどうして自分だけが病気にって思うんやろうけど、うちらはちゃう。いつ誰に起こってもおかしくないって思う。それがうちのおばあちゃんでも、もちろんうち自身でも」
岸本の言葉に藤野が頷く。同村は直感した。それこそが、医療従事者とそうでない者の決定的な感覚の違いなのだと。堤の平等もきっとこの感覚の上にあるのだ。病気が悲しくないわけじゃない、でも病気は悲劇じゃない。
「ねえねえそれよりさ、二人は彼女とかいるの?」
藤野が話題をお姉様好みのものに戻す。まあつき合ってあげましょう、同村そして向島よ。時々学生を捕まえて四方山話に興じるのが、きっと彼女たちの素敵な明るさの秘訣なのだから。モヤモヤを払ってもらったお礼と思えば安いもんでしょ?

 一方こちらは咽喉チーム。現在午後2時。手術見学の時刻まで、病棟のカンファレンスルームでの自習を命じられている。あの告知に立ち会った時から、優しい中村の微笑みにもどこかためらいを感じてしまう二人。美唄においては、日課のお風呂カラオケワンマンショーさえ自粛してしまう始末。いくつもの悲しみに立ち会いながら、その一方で楽しく歌う…それが許されぬことのように彼女には感じられたのだ。
「大丈夫?」
ペンが止まっていた彼女にまりかが尋ねた。
「あ、うん。何でもないよ、大丈夫!」
美唄はガッツポーズをしてみせる…が、その笑顔はやっぱり70パーセント。
「この前のこと、気にしてるの?ごめんね、私が余計なこと言ったから」
「まりかちゃんが謝ることないって。それにフレディさんだって…別に悪いことしてるわけじゃないし。あたしが今まで…考えなさ過ぎただけ。病気の勉強してるのに、能天気じゃいけないよね」
口ではそう言う美唄だが、彼女だってこれまで考えてこなかったわけじゃない。人の生き死にに関わる医療という仕事と、時にはそれさえも茶化して歌い上げる音楽という娯楽の拮抗を。ただ実際に白衣を着て患者の絶望に直面した時、自分の立ち居地がわからなくなってしまったのだ。
まりかもペンを止めた。
「私も不謹慎って何かなって考えたの。お医者さんだけじゃない。警察とか葬儀屋さんだって…悲しみの度に謹慎してたら仕事にならないもんね」
「そう…だよね」
二人の話題はそのままあの告知の夜の中村に流れる。不謹慎かもしれない、でも気分転換は必要、医療だって仕事だから勤務時間外は自由、でも患者がそれを知ったらどう思うだろう、医者に私人の時間はあるのかないのか、などなど…狭い室内にいくつものモヤモヤの風船が放たれた。その時…。
「失礼しますよ」
ノックもなく閻魔…もとい瀬山教授が現れた。二人は慌てて起立する。
「自習は頑張っていますか?」
雑談してましたとは言えず、学生は「はい」と答えるしかない。しかし教授はもちろんその上を行く。
「今、君たちが話していたことですがね…中村先生の」
なんという衝撃。全ては筒抜けだったらしい。二人が取り繕う言葉も浮かばぬうちに、教授は続けた。
「君たちは、医者をやるために一番大切なことは何だと思いますか?」
おっと、いきなり抜き打ちの口頭試問だ。もちろんちょっと二人で相談しますと言える雰囲気ではない。まりかが「経験とそれに基づく技術です」と搾り出す。美唄もかろうじて「患者さんを思いやる心です」と答えた。「なるほど…」と二人を交互に見てから、教授は穏やかに言った。
「私は…まず自分の心を元気に保つことだと思います。医者をしていると、何度も悲しみに打ちのめされます。無力感や絶望感に苛まれます。きっと今君たちが思っている以上に。それでも毎日の仕事はやって来ます。病気も患者も待ってはくれません。だからこそね、心が元気じゃないとこの仕事は続けられません。
…中村先生は確かにユニークな先生です。でも、彼の心はいつも元気です。以前に医局で悲しい出来事が起こった時も、中村先生だけは笑顔でいつもどおり診察してました。これはすごいことです。
ですから遠藤先生、君が気にしていた彼の音楽活動も、心を元気に保つために必要なことなのです。私は…咎めません。大いに結構じゃないですか。まああの長い髪は切ってほしいんですけどね、その分元気でいてくれるのならと大目に見てます」
少しだけ微笑んで、教授はまりかを見た。
「よいですか、秋月先生。勉強はもちろん学生の本分ですが…特待生が名医になるとは限らない。だから…頑張ってください、お二人ともね」
そう締め括ると、瀬山は返答も確認せず出ていった。
う~ん…敵か味方か学生部長。それにしても神出鬼没。一体いつから二人の密談を聞いていたのか…閻魔はやはり地獄耳のようだ。
「そっか…そうなんだね」
心に光が灯されたように、美唄の口元が綻び出す。やがてそれは顔全体に広がって100パーセントの笑顔を咲かせた。医学と音楽、共存は無理かと思われた二つの種族が、彼女の心の大地で和平条約を結んだ瞬間だった。
大きな満足。しかしふいに別の心配が込み上げて隣を見る。
「まりかちゃん、教授の言葉は別に…」
ところが批判されたかに見えた特待生は、聖母の微笑みを浮かべている。
「ううん…逆に嬉しかった」
不思議なものだ。お偉いさんからのどんなお褒めの言葉より、同級生からのどんな讃辞より、不完全を指摘されたことが彼女は嬉しかったのである。
学生時代の成績と名医度は相関しない、これもこの業界の常識です。読者のみなさんももしかかりつけ医がおられるなら、卒業試験の順位を尋ねてみましょう。まあそれで怒られても当方は一切の責任を負いませんが。
「教授の言葉、同村くんに教えてあげたら?ほら、初日に成績のことで言われて落ち込んでたじゃない。美唄ちゃんから教えてあげたら、きっと喜ぶわ」
才女はそう悪戯っぽく笑う。
「え、なんであたしから?もう、まりかちゃんってば、変なこと言わないで」
喜んでいるのか怒っているのか、とにかく今夜から美唄のお風呂ワンマンショーが再開されるのは間違いなさそうだ。

 同日午後8時、こちらは病院近くのラーメン屋。鼻チームの二人は清水に誘われ夕食を囲んでいた。明日の口頭試問を考えれば早く帰って勉強したいのが本音だが、お世話になった先輩の誘いを無下にはできない。これぞ体育会系。
「おうおう、お前らどんどん食えよ!」
背中を叩かれて二人は大きなどんぶりに顔を突っ込む。
「それにしてもアニキ、やっぱドジばっかですね、病院でも」
と、長。井沢もその横で含み笑い。
「バカ、お前らが見てたから緊張してたんだよ」
「またまたそんなこと言って。学園祭の時もそうだったじゃないですか。屋台で焼き鳥を焼いてたらアニキが…」
先輩と後輩はしばし共有した思い出を巡った。お世話になった、可愛がってもらった…その感謝は間違いなく尊敬を超えた絆になっている。
「お前ら替え玉でおかわりするだろ?どんどん食え」
「うっす、このどんぶりを平らげて俺もアニキのように大きな器を目指します!」
長が勇んだが、清水は珍しく弱気な顔になる。
「俺はそんな…たいした器じゃねえよ。オーベンだってなりゆきだし」
「すいませんアニキ、一つ訊いていいですか」
長は思い切って、例のハレンチ事件で左遷されたドクターのことを持ち出してみた。井沢と長、食えと言われれば笑顔で食べる社会性コンビ。それでもやはりこのモヤモヤは誤魔化せず、幾度となく二人の話題に残留していたのだ。
「ああ、あの人ね…」
清水は箸を置く。そして理不尽に大学を去らされた前任オーベンの思い出を懐かしそうに語った。井沢や長にとっての清水と同じく、清水にとってもそのオーベンは学生時代から共に過ごした先輩であった。
「今、その先生はどうされてるんですか?」
恐る恐る尋ねた井沢に、清水はニヤリと微笑む。
「意外に元気にやってるぞ。あの人も俺と同じ武道系だからな、そんなにヤワじゃねえさ。この前電話したら、なんか今度近隣の病院と連携して研究チームも立ち上げるって言ってたな。しかも新宿にいる時よりモテモテだって、まあ本当かどうか知らんけど」
「そうですか…」
ほっと息が漏れる。安堵を噛み締めるように、後輩たちは頷き合った。
「あの人と飲むといつも朝までだったんだよ。よーしお前ら、今夜は朝まで飲むか、久しぶりに2丁目行って…」
そこで清水の携帯電話が鳴った。それに出た彼の片眉がまた吊り上がる。
「え?ああ…そう、ですか」
少しゴニョゴニョ言ってから、清水は「わかりました」と電話を切った。
「すまんお前ら、俺行くわ」
「何か緊急事態ですか?」
「いや、夜間外来に俺の診てる患者が来ててさ。一人暮らしのじいさんで、鼻が詰まって眠れないって時々来るんだ」
説明しながら席を立つ清水。
「俺が行って、鼻の処置して話聞いてやったら、いつも喜んで帰るんだよ。だから…行くわ」
「すごいっすね」
長が感心する。
「いつもじゃないぞ。行けない時は行かない。まあ家族もいない人だし、行ける時くらいはな。お前ら悪いな、ゆっくり食って帰ってくれ。金は置いておくから」
「いいっすよ、アニキ。一週間のお礼に俺らが出しますから」
井沢がそう言うが、清水は「バカ!それはダメだ。俺が出す」と譲らない。これもまた体育会系の厳しい掟。しかし…ここで財布を病院に忘れてきたことに気付くのが我らがアニキである。
「お前ら本当にすまん、今度絶対おごるから」
手を合わせて謝る愛しの先輩を、二人は心から送り出す。
「いいですから、ほら、早く行ってあげてください。患者さんが待ってます」
「よっ!ドクター清水!」
ドタバタと飛び出していくその姿は…おっちょこちょいでかっこ悪い、人情味の名医であった。
カウンターに向き直り、残りのラーメンをすすりながら長が言う。
「俺、病気になったらアニキにかかろうかな」
「マジっすか?俺はアニキに処方された薬は、絶対自分で調べてから飲みます」
「俺もそうする」
二人は大笑い。噂されて当の本人は今頃くしゃみしているかもしれないが…大丈夫でしょう、なんてったって耳鼻科医ですから。
そんなこんなで、どうやらこのチームのモヤモヤも晴れてくれたらしい。

 金曜日の夕方、六人は無事教授の口頭試問を突破した。初日同様にカンファレンスルームに整列する彼らに、瀬山が最後に尋ねたのは「どうして医者になろうと思ったのですか?」という、耳鼻咽喉科教授ではなく学生部長としての質問だった。
井沢の「父が産婦人科の病院をやっていますので」、長の「親に苦労をかけたから恩返しで」、美唄の「お母さんが看護師でしたから」などの答えに続き、まりかは少し考えてから「治せない病気を治したいと思ったからです」と答えた。そして同村にとっては大注目の向島の答えは…なんとここでも明かされず。一人ずつ答えている間に彼はトイレを我慢できなくなり、許可を得て退室したのだ。やはりこの謎は永遠に謎のままがいいのかもしれない。
そんなわけで最後に答えるのは我らが同村。
「僕は…」
途中で口ごもってしまう。社交辞令で乗り切れないのがこの男。千の言葉を扱う文芸部のくせに、定型文の一つも出てきやしない。仲間からの心配そうな視線が集まる中、彼がひねり出した答えは…。
「すいません、まだよくわかりません。ポリクリをしているうちに…もっとわからなくなりました」
そっと目を細める瀬山。
「でも…医学部に来てよかったと思っています。これだけは間違いありません」
医学生は目を逸らさずはっきりと言い切った。学生部長は感情を見せずに「そうですか」とだけ呟くと、改めて14班の六人…じゃなくて五人を見た。
「それでは、これで耳鼻咽喉科の実習は終了です。来年2月のポリクリ発表会を楽しみにしています。残りの科の実習も頑張ってください」
学生たちは「ありがとうございました」と頭を下げる。
想えば「何だかなあ」だらけの医者という仕事。でも何重もの嘆きにくるまれたその中心には、人を惹きつけてやまない何かがある。類を見ない魅力がある。発展途上の彼らにとって、今は全てが勉強なのだ。
医者とは何なのか、その答えはこれからゆっくりしっかり見つけていただきたい。
学生たちの命運を握る閻魔が静かに部屋を出ていく。遠ざかる足音…一週間の緊張がようやく緩み、室内には言葉が溢れた。
「みんな、お疲れ様!まりかちゃんの口頭試問の予想、バッチリだったね」
はしゃぐ美唄。嬉しそうなまりか。「あ~疲れた」と座り込む長。解放感でシャドウリフティングを始める井沢。そして「ステージクリア」と妙な独り言で微笑む同村。
難関突破おめでとう、14班諸君!どのチームも学ぶことの多い実習でしたね。

しかし、喉もと過ぎれば熱さを忘れる…耳鼻咽喉科だけに、ってしつこいですね。でもこれは重要なこと。
実は次に瀬山と会う時こそ、彼らにとって最大の難関が訪れる。…まあそれはまだ当分先の物語。今は素直に口頭試問の成功を喜びましょう。

ではでは、今月の物語はこれでおしまい。来月の主役は、今トイレの固執に篭っている彼の予定なんだけど…大丈夫かなあ?

8月、緩和ケア科編に続く!