春の候、読者の皆様型におかれましては益々ご健勝のこととお慶び申し上げます。
…そんなかしこまった挨拶から始まったこの物語も、おかげをもちまして無事一念を旅してまたこの季節に戻って参りました。ここまでの長きに渡るおつき合い、本当にありがとうございました。
全てを読破してくださった方にはもちろん、所々だけ読んだぞという方、なんとこの最終章だけ読んでいるという方にも、頭が下がる思いです。
それでは残すところあと僅かとなりましたが、彼らの物語をお楽しみいただけたら幸甚です。
1
春が巡った。3月初旬、東京の空には新しい季節の訪れを感じさせる清々しいまでの晴天が広がっていた。南新宿の高層ビル群は仰いだ天の中でくっきりと映え、すずらん医科大学病院もその外壁に陽光を眩しく反射している。道を行き交う人たちは変わらず慌ただしいが、それでもふと足を止めれば心地良いそよ風にそっと表情が和む。
そんなうららかなお昼前のこと、病院の内部ではちょっとした異変が起きているようだ。
最初にそれに気付いたのは外来フロアで診察を待っていたおばあちゃんだった。彼女はその異様な集団を目にした途端、「あんれまあ」と口をあんぐり。一団は呆然とする彼女の前を通り過ぎ、エスカレーターに乗って上階の病棟へと移動していく。そして今度は入院患者たちの目を同じく丸くさせるのであった。
度肝を抜くのも無理はない。こんな光景は滅多に見られない。そこにいたのは廊下を埋め尽くす無数の白衣姿だった。それが一斉に病院内を闊歩している。教授回診?いやいやそんな規模ではない。白シャツ千人隊とはいかないまでも、男女織り交ぜ百人以上、しかも病室に立ち寄ることもなく、早足でひたすら前進のみを続けているのだ。構造上、次のエスカレーターに乗るには病棟を半周せねばならず、白い大蛇はそうやってとぐろを巻きながら上へ上へと這い進んでいく。
一体何だ?待遇改善を求める新手のストライキか?それとも学長辞任を求めるデモ行進か?見たところプラカードを掲げている者はいないようだが。
どうやら彼らはプロの医者ではないらしい。大移動の先頭を行くのはポマード頭のまだ若い男…クラス委員の北里じゃないか。下ろしたての白衣とネクタイを身にまとい、時折振り返っては後続の列に乱れがないかをチェックしている。
「なあ、山さん」
白蛇の中腹で一人が言った。
「これ目立ち過ぎじゃないか?患者さんたちみんな見てるぞ」
「しょうがねえべドーソン、他にルートがねえんだから。この人数でエレベーターを待ってたら日が暮れるしよ」
いつもの腕まくりで山田が同村に答える。そう、この騒ぎに参加しているのは全員医学部5年生。白衣の胸には相変わらずの肩書きのないネームプレートが揺れている。彼らは先ほど進級試験の結果発表を終えたばかり。学内掲示板に貼りだされたそれ…毎年学生たちの命運を示すその一枚の紙を見て、多くの者が驚愕の声を上げたのであった。
「ドーソン、お前落ちなくてよかったべ」
ノンデリカシーで山田がニヤリ。そんな彼は今回の試験でも問題を解き終わると見直しもせず一番に試験会場を出ていった。その徹底した潔さは一年経っても変わらない。そしてその相棒の悪あがき趣味も同様、同村は今年も最後まで机にかじりついてわからない問題と格闘し続けた。戦法は正反対なれど、結果はめでたく二人とも勝利…勇み足とすくみ足のコンビは来月からも健在となった。
「まあ今回は誰も落ちなかったからね」
そう、同村の言うとおり今年は奇跡の全員進級。留年した学生は貼りだされた名簿の名前が横線一本で消されるので遠めにもすぐわかるのだが、今年はどこにもその恐怖のラインが引かれていなかったのだ。伝統あるすずらん医大において、一人も留年しない進級発表はまさに歴史的快挙であった。
「やっぱあれだべ、この前の発表会のお前の演説がよかったんじゃねえか?」
「さすがにそこまでとは思わないけど…。あ、あの時はありがとな、拍手してくれて」
「まったく、ああいうことやるならやるで事前に言っとけっての」
「山さんなら、言わなくてもきっと賛同してくれるって思ったからな」
微笑む友人に山田は「ケッ」と悪態をつく。
そうこうしているうちに白衣集団はついに最後のエスカレーターを越える。29階は各科の教授室が並ぶセキュリティフロア。電子キーでロックされたその重たい扉には目もくれず、同化を折れるとそのまま非常階段へ。ここを徒歩で昇ればやっと到着する。
彼らの目的地は最上階のさらに上、この高層ビルの屋上であった。
*
「はいみなさん、もう少し中央に寄ってください」
用意された雛壇状の足場に立つ医学生たちをカメラマンが誘導する。青空の下に並ぶ百人を超える白衣姿はまさに壮観。春の日射しがまるで洗剤のコマーシャルのようにその白を眩しく輝かせている。
「みなさん無駄話はしないで、写真屋さんの指示に従ってくださーい!」
脇から声を張り上げたのは学務課の喜多村。しかし全員で進級したという喜びがまだ覚めやらぬ学生たちは、そりゃもうお構いなしに盛り上がっている。彼はまた胸の中で舌打ちをした。本当に…ご苦労様です。
「はいでは撮りますよ、よろしいですか?」
ようやく整列した彼らにカメラマンが言う。「はーい!」と明るい声がいくつも返された。学生は必ずしも班ごとに固まっているわけではなかったが、14班の六人はちゃんと一緒に並んでいる。
「みんな、笑ってね」
美唄が言い、「了解です!」と隣でまりかが返した。仲間たちも次々に微笑みを咲かせる。
「井沢くん、長さん、何そのポーズ…アハハ。ほらほら同村くん見て」
「ちょっと、あんまり動くと落ちちゃうよ」
大はしゃぎの彼女を心配する同村。そしてカメラマンはシャッターに指を掛けた。
「ではいきます、はいチーズ!」
こうして、卒業アルバム用の集合写真は撮影された。
被写体は水色の空を背景に揃い踏む医者の卵たち。今年度はついに病院での実習を経験し、実際の患者や病に触れた彼ら。次に白衣を着る時は医者になった時。一年後の春にはそれぞれどんな未来の前に立っているのだろう。この貴重な一枚にはいくつもの予感と可能性が写っている。
*
「みんなー、14班で撮ろうよ!」
卒業アルバム委員の元気な声に導かれ、六人は屋上の隅に立つ。周りでは同じように同級生たちが声をかけ合っている。普段なかなか来ることのない屋上からの景色、都庁から歌舞伎町まで新宿の名所を余さず一望できた。本来は集合写真の撮影を終えたらすぐここを出なければならないのだが…とてもそんな様子はない。喜多村もあきらめたようにその場を去った。
「あ、ほらほら、新宿御苑が見える!綺麗だからここを背景にしようよ!」
「なんか美唄ちゃん、あの勢いで屋上から飛んじゃいそうだな」
井沢のコメントに「怖いこと言うなよ」と真顔の同村。
「よーし、じゃあここで並ぼう。向島さんも来てください」
長がまとめた。副班長の最後のお勤めである。ミュージシャンも珍しく照れくさそうな顔を見せて輪に入った。
「まりかちゃんは班長なんだから真ん中、真ん中!」
美唄がカメラを構える。このデジカメも一年間大活躍でしたね。
「誰かにシャッター頼んで美唄ちゃんも入りなよ」
まりかがそう言った時、「俺が押そうか」と北里が現れた。美唄はカメラを託して同村の隣に入る。
「同村くん、最後なんだからしっかり笑ってね」
「お、OK」
無口な男も笑顔を作る。まりかが「みなさん、14班最後の活動です。笑って!」と大きく言った。一斉に「了解です!」が返される。もちろん美唄の胸ポケットにはラブちゃんもいます。
「じゃあみんな、撮るよ」
レンズを向けたクラス委員に、美唄が「ありがとね、ホックリーくん」とそっと告げた。
「はーい、ではいきまーす。人間の腎臓の数は?」
「2!」
100パーセントの六つの笑顔と六つのVサイン。
…パシャッ!
撮影後、別れの言葉も感謝の言葉も交わさず…いつものように14班は解散した。まるで明日また学生ロビーで集合するみたいに。
こうして偶然から始まった奇跡は、さりげなくまた偶然へと還ったのである。
2
その後、六人はそれぞれの3月を過ごした。束の間だが、これが学生最後の春休み。来月からは医学部最終学年としての日々が始まる。卒業試験と国家試験、それに向けた授業、そして研修先の病院も探す忙しい一年だ。
こちらはある日の羽田空港、そこではまた小さな偶然が起きていた。
「あれ、長さん?」
そう声をかけたのは大きな旅行トランクを転がす井沢だ。
「ありゃ、どうしたんだよ」
人が行き交う賑やかなロビー。振り返って長がサングラスを外す。
「俺、今日から3月いっぱいアメリカなんですよ。語学留学…ってほど大袈裟じゃないですけど、ホームステイするんです」
「そうだったのか、すごいな」
「いえいえ。それで、ためになりそうだったら夏にも行こうかなって。親父や彼女を説得するのは大変でしょうけど、今しかできないことだから」
井沢は少し照れたように「まあ遅過ぎたかもしれませんけど」と付け加えた。これが彼の見つけた挑戦らしい。大丈夫、遅くなんかないよ井沢くん!それに君なら海の向こうでもきっと友達がたくさんできる、勉強も就活もこなせるさ。なんたってエネルギー配分とバランス感覚の達人なんだから。
「そっか、頑張ってこいよ」
「ありがとうございます。あ、お土産に海外のタバコでも買ってきますね」
「いっそ葉巻にしてくれ…っておいおい、何を言わせるんだ」
この二人の漫才みたいなやりとりもどこか懐かしい。
「それで、長さんはどうして空港にいるんすか?」
「ああ、ちょっと親父とお袋を連れて四国旅行にな。まあ旅行っていっても二泊三日だけど」
彼はこの春休みに久しぶりにバイトをした。そのお金で両親を温泉に連れて行くのだ。医者になる前の、ちょっとした親孝行の予告編である。
「そうっすか、いいですね。でもここ、国際線のターミナルですよ」
「アチャ、やっぱりそうなんだな。実は俺、迷ってたんだよ。飛行機なんか滅多に乗らないから。頼む井沢、教えてくれ」
これまで親の期待に応え続けた優等生と、親に心配をかけ続けた浪人生のボス。二人はその後少しだけ言葉を交わしてからそれぞれの旅路に向かった。
「ありがとな井沢、助かった。気を付けて行けよ!」
「長さんも!そのうち勉強に疲れたらまた飲みに行きましょう。よかったら九十九里の葱山親分でも誘って」
「それだけは勘弁してくれ」
笑い合いながらお互い空港の人ごみに紛れていく。
井沢大輝、そして長猛、本当にお疲れ様でした。これにてクランクアップです。
Good luck!
*
同じ頃、丘の上にある霊園。向島は一つの墓石の前に立っていた。関係者が寄贈したのだろう、隣には『永遠のピアニストここに眠る』と記念碑がもうけられている。小高いその場所には、やわらかい風が吹いていた。
「遅くなってごめんなさい。さすがにピアノは持ってこれなかったんで…」
向島は背負っていたアコーディオンを開く。もちろん返事はないが、それでも彼は語りかける。
「もう春ですね。僕も6年生になるんです」
セッティングを終えると、彼は墓石の正面に立った。
「このまま…生きてみようと思います。医学の道と音楽の道、やっぱり僕はどちらか一つを選べません。両方歩いていくつもりです。どこにたどり付けるかわかりませんが、こいつがあれば大丈夫です」
楽器をポンと叩くと、彼は「じゃあ、一緒に作ったあの曲を」と演奏を始めた。
彼女が自分に宿してくれた音楽を愛する情熱…それを乗せて旋律は午後の風景に流れていく。鳥たちのさえずりを邪魔しないほどささやかに、それでいてどこまでも届くほど伸びやかに。羊雲の向こうにいる彼女の想い出を優しく包み込みながら。
「う~ん、やっぱりボーカルをもっと練習した方がいいかも?フフフ」
そんな声が聞こえた気がした。
愛すべきアウトロー・MJKこと向島鍵。これにてクランクアップ!
*
所変わってすずらん医大病院。まりかは学務課を訪ねていた。
「色々とご迷惑をおかけしました」
頭を下げてから六人分のネームプレートを返却する。春休み中で学生のストレスがないためか、喜多村はいつもより穏やかだった。
「それよりも、本当にいいのですか?」
心配そうに訊く彼にまりかは「はい」と答える。
「けじめは必要ですから。私は進級させていただいただけで、心から感謝しています」
喜多村が確認していたのは特待生の授与のことだ。今回の進級試験でも成績トップは彼女だった。よって本来なら特待生五年連続という栄誉に輝くところなのだが、彼女は謹んでそれを辞退した。
「遠慮することないのに。次点の北里くんも辞退するって言うし…ユニークな学年ですね」
「お褒めの言葉として受け取っておきます」
もう一度一礼して学務課を出る。最後の仕事を終えた班長が向かうのは…やっぱり図書館。いつもの席で自習を始めようと教科書を広げたが、バッグの中の一通の封筒に指が触れた。それは昨日後輩の明石から届いた手紙。
そこには、すずらん医大病院からより積極的なリハビリが行なえる施設へ移ることが記されていた。追伸にはまたいつものおどけた調子で『今度会う時は先輩からデートに誘いたくなるような、もっとイイ男になってますから。天才アーチャーより』のメッセージ。
「バーカ」
軽く言ってまりかは教科書をめくる。今回のことで医学に対する彼女の情熱はさらに高まった。もちろん教科書だけでは足りないことも承知の上で、もっともっと学びたい、探究したいと心から感じたのだ。それは医学部を受験したあの時よりもはるかに強く確かな気持ちであった。
来月からはきっとまた教室の最前列で授業を受ける彼女。でも4年生までとは違う、彼女には身を挺して自分を助けてくれた頼もしい仲間たちがいるのだ。勉強机の写真立てを見れば、カレーの味とともにいつだってそれを思い出せる。
秋月まりか、本当にお疲れ様でした!クランクアップです。
3
日も傾いてきた午後4時、同村と美唄は新宿御苑の散歩道を歩いていた。
「惜しいなあ、桜はまだ咲いてないね」
美唄が辺りを見回しながら残念そうに言う。
「そうだね…今年は遅いみたいだ」
穏やかに返す同村。
「ねえ、同村くんはどうするの?卒業したら…」
ふいに尋ねられた。隣を見ると、その黒く大きな瞳はほのかに夕焼け色に染まる遠い空を見つめている。少し黙ってから彼は答えた。
「俺は…ギリギリまで考えようかなって。どうして医者になるのか、どんな医者になるのか…時間いっぱい考え続けようと思ってる。はっきりしない性格だけど…それが俺のペースなんだろうなって」
「同村くんらしいね」
彼女がクスッと笑う、いつものように。二人はまだ花見客もいない静かな園内を歩いていく。
「でもそれでいいと思うよ。答えが出るまで考えて考えて…それが同村くんのすごさだもんね」
美唄の横顔を見ながら同村は迷っていた。彼女自身は将来をどうするつもりなのか…それを尋ねるべきかを。
今回の進級試験、同村は自分のこと以上に実は彼女を心配していた。視力が落ちれば、それだけ勉強の効率も試験問題を読む速度も落ちてしまう。彼女は言わないが、症状が加速しながら進行していることは近くにいる同村にもわかっていた。
「あたしはね…」
無口な男の胸中を察したように美唄が口を開く。
「行ける所まで行くつもり。今回も進級できたし、ここまでなんとかやってこれたから、これからもなんとかやっていけるかなって。だからね…」
そこで足を止め、彼女は同村をじっと見た。彼も立ち止まる。そして100パーセントの笑顔がそれを告げた。
「だからね、別れよっか…あたしたち」
優しい風に木々が薫る。揺れた前髪をそっと直して彼女はまた遠い空を仰いだ。
「あたしね、この一年が勝負だって気がするの。病気のスピードを考えたら、卒業試験も国家試験も自力で突破できるのは多分今回だけだろうなって。だから全力で頑張りたいの」
同村は黙っている。しかしそれは別れを告げられたショックなどではない。心のどこかできっと感じ取っていたのだ…彼女の彼女らしい決断を。
「だからね、同村くんがいるとあたし甘えちゃうから。お医者さんになれなくてもあたしには同村くんがいるんだって…きっと油断しちゃう。でもそれじゃ病気との追いかけっこに勝てないから。だからね、あたしをふってほしいの」
「…一人で大丈夫なのか?」
思わずそう尋ねる。彼女はこくんと頷いた。
「一人じゃないと…ダメなんだよ、今は」
「俺が一緒に戦えたらいいんだけど」
「ありがとう、やっぱり同村くんは優しいね。でも、わかってほしいの。それにこれは戦いっていうか…病気が背中を押してくれてる感じかな。早く早く、前に進めって」
彼女は言った。病気のおかげで一秒一秒の大切さがわかる、時間がないと思える分今やりたいことをやろうと思える、病気のおかげで無駄な時間を過ごさずにすむと。
それを聞いて同村は改めてそんな美唄の心に惹かれた。この愛しい心の持ち主を、誰よりも大切にしたいと思った。
「やっぱりすごいや、遠藤さんは」
「もう、またそれ?大袈裟なんだよ同村くんは。それにあたし、お医者さんになるんだよ?一番病気を愛さなくちゃいけない仕事でしょ?」
彼女は同村に向き直る。やせ我慢かもしれない、でもそこには彼女の選んだ挑戦がある。
「…わかった」
もう何も言う気はなかった。いざという時はSOSしてほしい…そんな言葉さえ今の彼女は求めていない。医学部最後の一年に彼女は人生の可能性を賭けている。望む未来を掴むために、けして後悔しないために。
「だから、これ…」
美唄がそっとポケットから取り出した物…それは同村が彼女の誕生日に贈ったボイスレコーダーだった。差し出された同村は黙ってそれを受け取る。
「本当に今まで…ありがとう。同村くんが好きって言ってくれたこと、一生忘れないよ」
無口なままの男はただ頷いてボイスレコーダーをしまった。
また二人静かに歩き出す。散歩道は残りあと半分、その先には新宿御苑の出口がある。彼女が今日この場所を指定した理由が同村にはなんとなくわかった。そして情けない男はやっぱり情けないことを言ってしまう。
「最後のお願いだけど…御苑を出るまでは恋人でいていいかな?」
「出ました、文芸部!」
彼女は笑い、優しく同村の腕に寄り添う。春は二人のために少しだけ夕暮れの出番を遅らせてくれていた。
「もし一年後、ちゃんとお医者さんになれたら、今度はあたしから告白するよ」
冗談めかして言う美唄。
「あ、でもまあその時同村くんにもう可愛い彼女がいたらあきらめるけどね」
赤くなって「そんな…」と動揺する男に、彼女は「贅沢はいけません」と返した。そしてまたクスクス笑う。同村も笑った。
やがて少しずつ出口が近付いてくる。あと十歩、あと九歩…二人とも歩みは止めなかった。
こうして、あのクリスマス・イブから始まった二人の時間は終わりを迎える。それはまるで人生という長い旅の、短い散歩道のような恋だった。
*
一人の帰り道、バスに乗った同村は座席に腰を下ろすとポケットのボイスレコーダーに触れた。何となく取り出して電源を入れると画面が点灯、一件だけ録音データが残されているようだった。そのファイルには『同村重一くんへ』というタイトルが付けられている。イヤフォンを繋いで耳に当て、そっと再生ボタンを押す。
「やっほー同村くん。独り身に戻って無口になってない?」
明るい彼女の声。
「同村くんのことだから、きっと気が付いてくれると思って、これを録音しています。やっぱり直接言うのは恥ずかしいから…」
バスが発車し、同村は少しボリュームを上げた。
「ええと、何から話せばいいかな。いや、そんなに長いお話でもないんだけどさ…ずっと言えずにいたことがあって。あたしね、実は宇宙人で、もうすぐ月に帰ります…なんてことはないのでご安心ください。
あのね、実はあたし、同村くんのこと…14班で一緒になる前から知ってたの。もちろん同級生だから知ってるのは当たり前なんだけど、そういうことじゃなくて、その…同村くんが書いた文章を読んだことがあったの」
「…え?」
思わず声が漏れる。
「2年生の時の学園祭で、たまたま文芸部が配ってた同人誌を読んだの。そこに短い小説が載ってて…シンデレラのパロディなんだけど、憶えてる?
貧しい女の子が魔女さんの力を借りてお姫様に変身して、お城のダンスパーティに行くの。そうしたら王子様に気に入られて…でももうすぐ12時で魔法が解けちゃうって時に女の子は帰らないの。わざと王子様の目の前で元の姿に戻っちゃうんだよね。王子様はびっくりするんだけど、それでも結婚してほしいって女の子にプロポーズして。これでハッピーエンドかと思ったら…フフフ、そうはいかないの。
女の子は花嫁修業をするんだけど、歌とかダンスのお稽古が嫌になっちゃって、綺麗に着飾るのもうんざりして…こっそりお城を抜け出すの。そして今度は魔女さんに頼んで貧しい姿に変えてもらうの。そうして女の子は気ままに生きていきましたってお話。
あれを書いたの、同村くん…だよね?」
確かにそれは自分が書いた短編だった。医学部に来て、周囲が当たり前のように医者を目指している中で、密かに抱いていた疎外感や孤独感…皮肉と自嘲を込めてそれを表現した物語。
「読んだ時、あたし笑っちゃった。でも何かが腑に落ちてさ。あたしもその頃…医学部にいるのが不安だったんだ。ほら、2年生の時、病理学で顕微鏡の実習があったでしょ?組織標本のプレパラートを見て色鉛筆でスケッチする課題。あたしがスケッチした絵がさ、色使いとか形とか…みんなとかなり違ってたんだよね。
ああ、やっぱりみんなと同じには見えてないんだなあって実感しちゃって…寂しさっていうか、居心地の悪さみたいなのがあったの。それこそ、限られた時間だけ無理矢理返信してダンスパーティにいる女の子みたいな…。
でもこのお話を読んで、どっちもありなのかなって思った。お姫様になってもならなくても、あたしはあたしでいいんだなって思ったの。それで医学部にいられた気がする」
一息ついて彼女は続ける。
「だから、ずっとこのお話を書いた人を探してたの。作者は『ジャックD』ってペンネームだったし、文芸部に知り合いもいなかったし、結局誰だかわからなかった。
そのまま5年生になって…もうその人は卒業しちゃってるのかなあと思ってたんだけど、14班の自己紹介で同村くんの下の名前が『じゅういち』だって聞いて、もしかしてって思ったの。『じゅういち』は数字の11、トランプの11はジャックだから、ジャック同村でジャックDだって!」
彼女は幸せな記憶を懐かしむように話す。声だけでその微笑みが十分に伝わってくる。
「まさか同級生にいたとはなあ…。美唄って名前のあたしが言うのも変だけど、普通あの漢字なら『しげかず』って読むから名簿を見ても気が付かなかった。でもそういえば同村くんはよく授業中とか休み時間も何かせっせと書いてたなあって思い出して…」
鼓動が少しずつ高まる。車窓には黄昏の街が流れていく。
「だからね…きっとこの人だって思って、それであの日、14班の顔合わせの日、一緒に帰ろうって誘ったの。初めてのポリクリの日も、朝みんなが学ロビのソファに集まった時、勇気出して同村くんの隣に座ったんだよ。
…フフフ、驚いた?きっと何にも考えてない脳天気女だと思ってたでしょ?残念でした、こっちはこっちでドキドキしてたんです」
「美唄…」
思わずその名を呼ぶ。心底驚いていた。彼女が医学部にいることに…自分がそんな形で関わっていたなんて。そして、彼女がこんな自分を探してくれていたなんて。胸の奥が激しくかきむしられる。
「…以上、恥ずかしい告白はおしまいです」
ボイスレコーダーの中の美唄がパンと手を叩いた。
「あたしだけの秘密にしててもよかったんだけど…やっぱり伝えたいなと思って。つまりまあ何が言いたいかっていうとね、この一年のことだけじゃなくて、そのことも含めて…ありがとう、同村くん!」
彼女がおじぎをしておでこをどこかにぶつけた音がする。同村は愛しさを噛み殺しながら苦笑い。
「イテテ、またやっちゃった。ではでは同村くん、これで最後だけど、お互い勉強頑張ろうね。また教室で会ったらよろしくね。みんなの手前気まずかったら、こんな奴と別れてせいせいしたって言ってくれていいから。
…じゃあ録音を終わりまーす!」
「バカ…」
ボイスレコーダーをぎゅっと握りしめる。まぶたの裏が熱くなり、喉も痛くなっていた。
「俺こそ…ありがとう」
バスは間もなく降りる停留所に着く。
「あ、そうだ。あのね…」
停止ボタンを押す直前、遠藤美唄は最後のお願いを告げた。
4
一週間ほどの後、東新宿キャンパスでは卒業式が行なわれた。看護学生の戴帽式と同様、体育館から出てくる卒業生たちを部活の仲間たちが花束とプレゼントで迎える。あちらこちらで胴上げと記念撮影のオンパレードだ。男子は礼服姿、女子は着物姿が目立つが、中には紋付き袴の相撲部男子もいたりする。
こうしてこの国にまた新たなドクターたちが送り出されていくわけだ。けしてイイ奴ばかり、優秀な奴ばかりじゃございませんが…とりあえずおめでとう!医療の未来を頼んだぞ!
それにしても胴上げ、随分高く飛んでるけど…くれぐれも着地に失敗しないでね。
5
そして同日夜。都内某所の老舗ホテルでは贅沢の限りを尽くした謝恩会が催されていた。私立医大のボンボンぶりを見せ付けるように、銀座の有名寿司店から六本木の老舗ステーキハウスまで、ここまで出張してきた料理人たちが豪勢なお品書きを立食形式で振る舞っている。
会の主役はもちろん卒業生、華やかな衣装に身を包んでいる。特に女性陣、卒業式は着物だったのにここではパーティドレス…お色直しまでしていらっしゃる。熱帯魚みたいにヒラヒラと…ここはシンデレラ城の舞踏会ですかい?もういい歳でしょ!あ、こりゃ失敬。
まあ今宵はよしとしましょうか。長く苦しい卒業試験と国家試験の日々をようやく解放され、未来からの招待状を手にした。これからしばらくは遊んでなどいられなくなるのだから。魔法が解けるまでの時間を思う存分満喫してくだされ。
会場を見渡せば、参加しているのは卒業生と保護者だけではない。教授陣やポリクリでお世話になった指導医たちまでグラス片手に姿を見せている。また先輩を祝いたいとの口実で、料理目当てに潜り込んだ後輩たちの姿もちらほら。ちゃっかり大トロのにぎりやスペアリブ、フォアグラ丼にかぶりついている。
そして我らが同村も姿を見せていた。別に卒業生に文芸部の先輩がいるわけでもなかったが、美唄からの最後のお願いの結末を見届けるために彼はここを訪れた。一応似合わないタキシードに身を包んでいる。
ステージ上では、学長の面白みのない挨拶、続いて院長による乾杯の音頭。その後は数年後に予定されている病院増築の寄付金願いなど若干退屈な話も挟んで、やがて式次第は余興へと移っていった。
学ラン姿の応援団が太鼓を打ち鳴らして卒業生にエールを贈ったり、記述部がステージにすずらんの花を咲かせたり…。そしてこれも毎年恒例、音楽部がBGMも兼ねて演奏を披露する番が回ってきた。ステージにはバンドがセッティングされ、マイクの前にはいつもより露出を抑えた衣装の美唄がスタンバイする。
「それでは音楽部のみなさん、お願いします!」
ちなみに司会進行はここでも学務課の喜多村。こんなところまでご苦労様です。
「みなさーん、卒業おめでとうございまーす!」
さっそくハウリングしながらボリューム全開の元気な声が炸裂。あれが噂のキャピキャピ娘かと会場からは笑いも起きる。
「ではいっきまーす!」
ドラマーがカウントして演奏が始まった。あれ?よく見るとクランクアップしたはずのMJKの姿もあるぞ。彼は楽しそうに全身を躍動させながら、本来の同級生たちに向けてキーボードを奏でている。
すぐにイントロが終わり、美唄の歌が始まった。飛んだり跳ねたりしながら、彼女は今夜も音楽の羽根を身にまとった悪戯な天使。圧倒のボーカル、その声はどこまでも強く高らかに響く。これはどう見てもBGMの域を越えているぞ。
さながらリサイタルになってしまった会場からは、その医学生をテーマにした歌詞に笑いや拍手が次々上がる。その度に美唄は笑顔100パーセントでお礼を叫ぶのだった。
「ありがとうございまーす!お医者さんになっても頑張ってくださーい!エイエイオー!エイエイオーイエー!」
そんな姿を遠くの壁際で見ながら、同村はそっと微笑む。
彼女の最後の願いは『オリジナル曲の作詞をしてほしい』。かくして内気な文芸部青年とあの天才ミュージシャンの夢のタッグで曲は完成し、せっかくだからとこの謝恩会でのお披露目にこぎつけたのである。
同村は手拍子しながら思い出していた。一年前の春、初めて歌う美唄を見て涙を流したあの日…心に起こった感動を。
そう、美唄だけではない。彼にとっても大切な一年がまたこれから始まる。そしてその先にはもっと大きな世界が待っているのだ。
医学生たちが歩んでいく未来、過酷なのは百も承知。それでも今夜の歌のように、優しく強く、そして楽しく生きていってほしい。ポリクリで書き溜めた心のレポートを時々読み返しながら。
同村重一、そして遠藤美唄、本当に本当にお疲れ様でした。これにてクランクアップです!作者からの花束を受け取ってください。
そんなこんなで彼らの物語もカーテンコール。お見せできるのはここまでですが、まだまだ先は長い。14班の六人はもちろん、作者も、そして読者のみなさんも歩いていかなければなりません。それが心豊かな日々であることを祈っております。
では最後に、現在美唄が絶賛熱唱中のこの曲をご紹介しながら、Medical Warsは堂々の完結でございます。
ありがとうございました!
Medical Wars
(作詞:ジャックD 作曲:MJK)
ようやく1年生
来たるはキャンパスライフなのに狭い世界
運命の出会いはこんなもんなのかな
いつもセリフだけはドラマ並みで
まったくもってボンボン医科大学生
親の期待に応えちゃう人間さ
世間知らずでMedical Wars 合コン行けば悪さしたくなるじゃないの
気がつきゃ3年生
進級も順調で何を求めるだろう
旧友はもう社会人 そんなこと聞くと
ちょっと不安になる チクチクする
こんなんだってエリート医科大学生?
バイク飛ばせばご機嫌な人間さ
年甲斐もなくMedical Wars バカな男だって言われようじゃないの
私は5年生
サバを読もうにも無理ね これ以上は
冷蔵庫の中はノンカロリー表示ばかり
大丈夫よ まだイケるわ
お肌もパンとガールズ医科大学生
ポリクリもオシャレも手を抜かない人間よ
婚期逃してもMedical Wars オバサン席にようこそなんて言われたくないの
人は思う以上に幸せで歌う以上に不幸だ
だからショゲんな All Students! All Students!
旅立つ卒業生
どこにでもいるような奴じゃないつもりさ
僕なりのサイズで世界を広げて
いつか奇跡ひとつ招きたいんだ
変人だってすずらん医科大学生
歌の力を信じたい人間さ
中途半端でもMedical Wars そうさ あなたも
何言われたって好きなものは好きで
それにかけちゃ譲れない人間さ
我が生涯はMedical Comedical Musical Life!
こんな医学生がいてもいいんじゃないの?
おしまい