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晩秋の候。イチョウ並木はその足元に辛子色の絨毯を敷き詰め、遠くに見える山々は小麦色に染まっている。…っておいおい、新宿でそんな風情が味わえるわけないだろ、と聡明な読者のみなさんは思われたかもしれない。ところがどっこい、今回の舞台は都会の喧騒を遠く離れたのどかな田園の町。道の両脇には田畑と牧場が広がり、人間と動物、文明と自然がいがみ合うことなく寄り添っている。車を走らせればすぐに太平洋に臨む砂浜にも出られる。そう、ここは千葉県。小高い丘の上に建つ『すずらん医科大学病院 九十九里浜療養センター』から今月の物語は始まる。
所変われば品変わる。14班のメンバーではなく、今回まず注目すべきはこの男。名前は葱山、38歳独身。巨体に加え髭も体毛も豊かなその風貌は熊を思わせる。しかし彼の前で死んだふりをする必要はない。彼は熊どころか蜘蛛にさえ驚いてしまう小心者、趣味は携帯電話のストラップ集めというおよそ外見に似つかわしくない個性の持ち主なのだ。
その正体はこのセンターに勤務する薬剤師。高校を卒業し浪人生となった彼は、秋葉原という名の竜宮城で三日間だけ遊んでいたつもりが気付けば三年が経過、慌てて薬科大学に進学した後も何度かの足踏み、晴れて薬剤師になれたのは三十路に入ってからであった。首尾よくすずらん医大病院への就職が決まり喜んだのも束の間、新宿の本院勤務はわずか三ヶ月。その後は経験を積むためという名目で全国の系列病院へと派遣され、そして現在の勤務地がここ千葉県というわけである。
11月第2週の月曜日。窓辺には淡い陽光がこぼれ、迷い込む風にはそっと落ち葉が薫る。そんな廊下を歩きながら葱山は人知れず溜め息を吐いている。この穏やかな秋の午後さえ、彼にとっては心を預けられるものではないらしい。
「はあ…俺はここで何やってんだろうなあ」
足を止め、遠くに見える風見鶏に向かってそう呟く。風にキコキコ揺れているそれが答えを返してくれるはずもなく、彼はもう一つ溜め息を吐いてまた歩き出した。哀愁…いやそれ以上の悲哀。もしこの場にBGMを流すなら、それは童謡の『小さい秋見つけた』しかないだろう。
*
廊下突き当たりの職員食堂に到着。いつものBランチを手にして空いた席に座る。午後1時半、遅めの昼食に臨む者は少なく辺りは閑散としていた。この男、テンションとは裏腹に食欲は旺盛、カラアゲと共に大盛りごはんをほおばる。この食いっぷりだけは熊といい勝負かもしれない。
「ほらまたそんなにドレッシングかけて、体に悪いよお」
正面から舌足らずな声がかけられた。茶碗から視線を上げると、そこには白衣姿の小柄な女性。歳の頃は葱山と同じ、幼い顔立ちに癖のない黒髪を肩まで垂らしている。
「あ、お疲れ。福ちゃんも今から食事?」
彼女は「違うよお」と返しながら隣に座る。
「ごはんはとっくに食べた。ちょっと休憩に来たの」
右手に紅茶のペットボトルを示す彼女の名は福岡、同じくここで働く麻酔科医。このセンターの主な役割は、その名が示すとおり療養だ。患者の多くは高齢者で、認知症や何らかの身体障害を抱えてここに長期入院している。よって新宿の本院のように積極的な治療を行なうことは少ないが、慢性的な疼痛のコントロールが必要な患者は多く、また時には外科的処置が必要となる場合もあるため、彼女のような麻酔科医も配置されている。
「忙しそうだね、福ちゃん」
「全然そんなことないよお。新宿の病院に比べたらヒマヒマ。まあ、たまにはこんなのもいいけどね」
女医は気持ちよさそうに伸びをする。地域の療養病院は患者にとってはよい環境かもしれないが、スタッフにとっては必ずしもそうではない。特に若者は都会志向が強いため、自分化ら望んでここに勤務する者は少ない。彼女にしても上からの命令を受け、半年限定の約束で派遣されている。
「でもいいなあ福ちゃんは、春には新宿に戻れるんだから」
「葱山くんだって所属は一応すずらん医大病院でしょ?」
「でももう八年くらい帰ってない。ここの前は北海道、その前は九州…ハア」
溜め息の彼とは対照的に、福岡は声を出してケラケラと笑う。
「アハハ、全国渡り歩いてるねえ。スーパー薬剤師じゃん!」
「何言ってんだよ、都合よく使われてるだけだって。九州の時なんかここよりもっと田舎の病院でさ、やることないからって院長に山で一日タケノコ掘らされたよ」
女医はさらに笑い声を上げ、「葱山くんにタケノコ似合い過ぎ!」と手を叩いた。薬剤師はさらに脱力してごはんをかき込む。
「それにしても福ちゃん、もう医局じゃそこそこベテランだろ?地域の病院への派遣なんてもっと若いドクターにやらせればいいんじゃない?」
「そうなんだけどさあ、麻酔科って女が多いじゃん。それでどうしてか知らないけど結婚してる方が優遇されんだよね。普段の休日当番もそう、先生は独身だからやれるでしょって頼まれるんだよお」
どうやら起爆スイッチを押したらしい。彼女の主張はどんどんヒートアップしていく。
「ねえ聞いて!どうして独身だと働かされんの?独身だからこそ休みは男探さなきゃいけないのに!それに結婚するのも子供作るのもその人の責任でしょ。なのに家族と過ごす休日は優遇されて、私が一人で過ごす休日は我慢させられんのよ。ねえおかしくない?」
「まあまあ福ちゃん、落ち着いて」
なだめられた女医は尖らせた口にペットボトルを持っていく。
「こっちもそうだよ、独身だからって全国に飛ばされて…毎日下宿と病院の往復の日々だもん。素敵な出会いもありゃしない」
そこで葱山は大あくび。昼食をたいらげ眠気も襲ってきたらしい。福岡も笑顔に戻る。
「まあ独身のおかげで好きに生きてるけどね、私。ここに来たのも半分は自分の希望だし。毎日あんな人だらけの新宿の病院にいてうんざりしてたから。それに葱山くんと再会できたのもここに来たおかげだし」
彼は「まあね」と曖昧に返す。
そろそろタネ明かしをしようか。薬剤師の葱山と医師の福岡がお互い敬語も使わず話をしている理由はただ一つ、二人は高校の同級生なのだ。特段その頃親しかったわけではない。ご想像のとおり葱山はクラスでも地味なマイナー派、それでもこうやって気兼ねなく会話できるのは福岡の分け隔てない人なつっこさのおかげ。先月食堂で「葱山くん?」と声をかけられて彼は驚いた。彼女が医大に進んだのは知っていたが、まさか二〇年ぶりにこんな所で邂逅するなんて。
「福ちゃんが来てくれたおかげで、俺も毎日がちょっと楽しくなったよ」
「そう?同級生って不思議だよねえ。まあ女子の友達は今子育てとかで忙しいし、ゆっくり話したりもできないから私もよかったよ。ほら、あの数学の先生憶えてる?」
そこから思い出話に花が咲く…かと思いきや、後ろから飛んできた声が水を差した。
「葱山くん!」
二人が振り返ると、端正な顔立ちに知的なメガネの青年が仁王立ちしている。
「もう2時過ぎてるよ、病棟回る時間でしょ!」
慌てて立ち上がり太い手首の時計を見る。そして「すいません今行きます!」と葱山は頭を下げた。メガネの青年は福岡に軽く会釈すると、「じゃあ3階で待ってるから」とその場を去る。
「ハア…またやっちゃった。この前も遅刻して怒られたのに」
嘆きの同級生を女医が肘で小突く。
「ねえ今の人誰だっけ?かっこいいじゃん、紹介してよ」
「俺の上司…薬局長の藤原さんだよ」
答えながら彼は急いでトレイを下げる。そしてたいして期待もしていなかったが、やはりここにも恋の脈はなかったことを思い知る。そんな悲哀も知ったこっちゃなく、食堂を出ていく彼に福岡は「また飲もうね」と無邪気に手を振るのだった。
一気に廊下を走り抜け、階段を駆け上がる白衣の熊男。すれ違うスタッフたちは、その勢いに何事かと怪訝な顔。息を荒げてたどり着いた3階病棟の入り口。そこには藤原が彼とは対照的なスマートな姿勢で立っていた。
「ハア、ハア、遅れてすいません、藤原さん」
背中を丸めて息を整える。そして頭を上げた葱山の瞳に、見なれない三つの顔が映った。
…あ、可愛い女の子!
独身男の悲しい性よ、そんな邪念がまず浮かぶ。薬局長の隣に白衣姿で並んでいるうちの一人が彼の目を引いたのだ。彼女はその視線に気付くと、「よろしくお願いしまーす!」と元気な声で挨拶した。葱山は思う。
…え?いや、可愛いけど声がでか過ぎだろ。
*
「こちら、すずらん医大の学生さんね。じゃ、簡単に自己紹介をお願いします」
藤原に促され、まず最初に名乗ったのは先ほど元気な挨拶をくれた彼女だ。
「遠藤美唄です。やる気満々なんでご指導よろしくお願いします!」
その勢いに戸惑いながら、「あ、どうも」と葱山は返す。残る二人はそれぞれ井沢・長と名乗った。
「こっちは薬剤師の葱山くんです。熊みたいだけど襲ったりしないから安心して」
薬局長の小粋なジョークに笑う学生たち。葱山は彼らの正体に納得する。系列病院であるここに本院からポリクリ生が来るのは珍しいことではない…と言うより毎週のように来ている。すぐにピンとこなかったのは、彼らの雰囲気がどこかこれまでの学生たちと違っていたからだった。若い女の子はアイドルのような明るさと可愛さをまとっている。男のうち若い方はまあ爽やかな青年といった感じだが、問題なのはもう一人…学生にしては老けていてどう見ても三十代。街でこのトリオを見かけて医学生だとわかる者がどれだけいるだろう…それが素直な感想だった。
「何を驚いてるの葱山くん。センター長の指示で、これからは学生さんに薬剤師の病棟業務も見学してもらうって…先週言った炉?」
「あ、はい、そうでしたね」
そう答えたものの正直記憶はない。それを見透かしているように藤原は口元で笑うと、「それでは行きましょう」と学生たちを導いた。葱山は慌てて彼の横に並ぶ。
「今から行なうのは薬剤指導というもので、入院患者さんを回ってお薬の飲み心地を訊いたり、副作用がないか確認したり、効果を説明したり…まあそんな感じです」
病棟を歩きながら手際よくレクチャーする藤原。そこで美唄は「患者さんからの質問も受けるんですか?」と尋ねた。
「ええ。自分の飲んでいる薬について知ることはアドヒアランスを向上しますからね」
頷く学生たち。藤原は一つずつ丁寧に病室を訪問していく。高齢者の多いこの病院、部屋を訪ねてくれるハンサム薬局長はどこでも高い人気を誇っていた。特に女性患者、中にはまるで韓流スターの追っかけのように握手や抱擁を求める者までいる。それらに適度に応じながら、藤原は笑顔で業務をこなすのだった。
「先生、大人気じゃないですか」
美唄の言葉に、彼は「ここは長期療養の患者さんが多いですから」と返す。そしてただ薬の指導をするだけではなく、少しでも喜びを与えられるのなら嬉しいと付け加えた。
…う~ん、まさに好青年。葱山にもこういうセリフが言えたらいいのだが、彼は優秀な年下上司の隣でただハンカチで額の汗を拭っていた。
そんな調子で順調に進む薬剤指導であったが、最後の一室を前に藤原の足が少し重たくなる。
「ここの患者さんも…明るく迎えてくれたらいいんですが」
「何か問題がある人なんですか?」
長が尋ねる。藤原に促されて葱山が代わりに答えた。
「ちょっと難しいおじいちゃんなんだよ。頑固っていうか、取っつきにくいっていうか…いつも怒ってる。頭もしっかりしてるし、体だってそんなに悪いわけじゃないんだけど」
「どこがお悪いんですか?」
今度は井沢が質問。
「腰を痛めて歩けなくなっちゃったんだ。でも歩行器具や車椅子を使う練習もしようとしないんだよね。リハビリのための入院でもあるのに…」
葱山がそこまで説明すると、藤原は「まあそんなわけだからあまり刺激しないでくださいね」と学生たちに念を押す。そしてその病室のドアをノックした。
「こんにちは村上さん、薬局です。失礼しますね」
…返答なし。少し待ってから五人は入室する。そこは一人部屋であった。八畳ほどの室内、窓際のベッドには上半身を起こした状態でその患者がいた。大きな窓には高揚に染まる山々と天高い空…彼はそちらに顔を向けており入室者を気遣う様子はない。ドアを開けたせいで、そっと弱い風が通り抜けた。
「こんにちは村上さん、お加減はいかがですか?」
…またもや無視。顔をこちらに向けることすらない。
「実は今日はすずらん医大の学生さんたちも一緒なんですよ。もう僕の顔も見飽きたでしょうから、ぜひお話でもいかがですか?」
三人は笑顔で挨拶するが、結果は同じ。薬局長は困った顔をした後でベッドに歩み寄る。そして薬について何かわからないことはないか、気になることはないか…とあの手この手で投げかけるが、患者は答えない。
「小さなことでもいいですよ。粉薬が飲みにくいとか、苦いとか何かありませんか?」
「ない!」
突然老人は叫んだ。その声には明らかな憤怒と拒絶が込められている。藤原も、残る四人も響いた声にたじろぐ。
「そうですか…お邪魔してすいません」
薬局長は謝罪を伝えるとそのまま退室。他の者もそれに続いたが、最後尾の美唄だけがもう一度室内を振り返る。その視線の先の患者はやはりそっぽを向いたまま…。彼女は廊下に出てそっとドアを閉めた。
「…まあ、こんな感じなんです」
藤原は肩をすくめて苦笑いし、これで本日の薬剤指導は終了と告げた。学生たちはいそいそと病棟を出ていき、薬剤師たちも1階にある院内薬局へ戻っていく。
2
同日夜、仕事を終えた葱山はいつもの定食屋に立ち寄った。単身生活者にとっては有難い格安のお袋の味…ここでスポーツ新聞の卑猥な記事を読みながら一人静かに夕食を摂るのが彼の日課。しかし今夜はそうはならなかった。注文を済ませて待っていると…。
「先生、お疲れ様です」
振り向くと、昼間の学生のうち男子二人が戸口にいた。
「あ、君たち」
なんだよ、あの可愛い子はいないのか…と邪悪なことを思いながら葱山が返すと、彼らはそばまで来てもう一度自己紹介した。
「そうそう、井沢くんと長くんだったね」
「よろしかったら、お食事ご一緒させていただけませんか?俺たちも今来たところなんで」
一人でオフを満喫したい気持ちもあったが、まあそれはいつでもできること。葱山は新聞をたたむと二人をテーブルに招き入れた。そして彼らの注文が終わるのを待ってから改めて口火を切る。
「君たち、今日はこっちに泊まるの?」
「はい。せっかく九十九里まで来ましたから。もうちょっと早かったら泳いだりもできたんでしょうけどね。それに今日東京に帰ってまた明日の朝来るのは大変なんで」
井沢が答える。
「じゃあもう一人の女の子も?」
「いえ、彼女は帰りました。家の方がよく眠れるからって」
長の答えに葱山は「ああそう…」と落胆の色。
「あ、先生今がっかりしましたね?俺らもちょっと期待してたんですけどねえ」
井沢がニヤけると、長が「同村にぶっ飛ばされるぞ」とツッコミ。
「冗談ですって。でも美唄ちゃんのノリなら、絶対こっちに泊まるって言うと思ってたんですけどねえ。なんか最近元気ない感じしませんか?同村ともどこかよそよそしいっていうか…」
「なんだ、井沢も気付いてたのか。俺もそう思うな。あの二人、何かあったのかな」
「もしやとうとう一線を越えたとか?おのれ同村め」
「いや、そういう気まずさとは違うだろ」
しばし邪推が続いたが、二人はすぐに葱山を蚊帳の外にしていることに気付く。
「あ、すいません先生」
「いやいや、気にしないで。なんか青春って感じでうらやましいよ」
薬剤師はタバコをくわえて火を着けた。
「ところで、昼間に会った時から気になってたんだけど…失礼だったらごめんね、長くんって結構歳食ってない?」
「はい、実は今年33でして」
「医学部に入ったのが遅かったの?」
「そうなんですよ…」
長はこれまでもポリクリの各所で披露してきたお決まりのトークを開始する。中学・高校時代はまともに学校にも行かず遊びほうけているドラ息子だったこと、高校卒業後もブラブラしていたがある時一念発起して医大を目指したこと、まずは中学の勉強からやり直して予備校に通えるレベルになるまで数年を要したこと、そして何度目かの大学受験でようやく受かって今に至っていることなどを面白おかしく語った。
「…苦労してるんだね」
聞き終った葱山がコメントしたところで、三人分の定食が運ばれてきた。タバコを消し、「じゃあ食おう」と彼は茶碗を掴む。「いただきます」と学生たちも続いた。
その後も社会性コンビの二人はそつなく会話を盛り上げる。やがて葱山が一番にたいらげて、またタバコをくわえた。
「さっき長くんの話を聞いて思い出したよ。実は俺もね…」
食後の一服をくゆらせながら、彼はそこで自らの半生を語り始める。社会人が学生相手にこれまでの苦労話…しかも内容はかなり愚痴っぽい。かっこ悪いことこの上ないのだが、彼の語りは止まらない。
「浪人の頃は本当に腐ってたなあ、俺。親にもいつも白い目で見られて…」
長という同胞を得たからか、あるいはストレスのスタンプカードがちょうどいっぱいになっていたのか。アルバイトと予備校に通いながらメイド喫茶と美少女ゲームだけが生きがいだった浪人時代、年下の同級生に馴染めず孤立して留年をくり返した大学時代、ゴミ屋敷のような部屋で勉強してようやく受かった国家試験、都会の病院を追われ全国各地を飛ばされながらタケノコまで掘った新人時代、そしてここでのうだつの上がらない毎日などが赤裸々に語られる。先ほどと違い、こちらのストーリーテラーはコメディの要素は含ませず、ひたすら悲哀を強調した。
三本吸い終わったところで、ようやく物語は終わる。葱山は次の一本を取り出そうとしたが、箱はもう空っぽ。すかさず長が自分のタバコを差し出した。
「よかったらどうぞ…親分」
突然そう呼ばれて葱山は面食らうが、長の瞳は謎の感動に満ちていた。
「え?親分?どうしたの長くん」
「俺の苦労話なんてまだまだでした。親分と呼ばせてください!ぜひタバコどうぞ」
葱山がくわえると彼はすかさず自分のライターで火まで差し出す。
「ありがとう。オッサン同士、これからも頑張ろうね」
火に応じながら微笑む葱山。長は本当に嬉しそうに「はい!」と頷く。彼もまた、普段十歳下の同級生たちの中で溜め込んできた、誰にも見せないモヤモヤのスタンプカードがあったのだろう。そしてそれを共有できる相手をずっと探していたのかもしれない。
そこから二人のオッサンあるあるの座談会が始まった。隣で井沢は笑顔で聞いていたが、やがて黙って席を立つ。まあ仕方ない、ここまで浪人も留年もせず順調に歩んできた若者は、会話に加わるためのメンバーズカードを持ち合わせていない。それに…きっといつも長は若い自分たちの話題にさり気なく合わせてくれていたんだろうから、たまには心置きなく語ってほしかった。そんなことを考えて彼は優しい顔になる。そして店員にそっと三人分の生ビールを注文して席に戻った。
「どうぞ葱山親分、長の兄貴、飲んでください」
突然の提案に「明日も仕事なのに」とか「まだ月曜日だぞ」と一応返ってきたが、誰も悪い気がしていないのは明らかだ。それじゃあ飲んじゃいますかということで、三つのジョッキが合わさった。
まさに一期一会、旅の醍醐味ですな。
*
「でもいいよなあ、君たちは。これから医者になるんだよ?」
午後8時半、五杯目のジョッキに口をつけて葱山が言う。
「そんなことないですよ。親分だって薬剤師やってるじゃないですか」
自らもタバコをくわえながら長が返す。
「バーカ、全然違うよ。薬剤師が主役のテレビドラマを見たことあるか?こっちはあくまで脇役。そもそも医者の免許があれば他のコメディカルの仕事は全部できるんだから」
葱山の目はどんどん据わってくる。本当に野生の熊に近付いているようだ。ちなみにコメディカルとは、看護師や薬剤師、レントゲン技師や検査技師、理学療法士に作業療法士、心理士に栄養士などなど、医師以外の医療スタッフの総称。
「そうっすかねえ」
アルコールを投与してしまったことを少し後悔しつつ、井沢が苦笑い。
「確かに俺は薬剤師、しかもオッサンだ。昔の同級生はみんな家庭を持って幸せ気分。でも世の中エリートだけじゃ回らないんだ。地球の酸素のほとんどは雑草が産生してんだぞ」
長は「親分、そのとおりです」と答え、そこで隣の井沢に肩を組んだ。
「でもこいつは違います。確かに現役ストレートのエリートですけど、ボンボンのボンクラじゃありません。ちゃんと男気と思いやりのある大した奴ですから」
「おおそうなのね、それはごめんごめん、井沢くんは素敵だよ」
「い、いえそんな…」
人生の先輩たちから謎の賛辞を浴び、思わず視線を逸らすと困った顔をしたレジのおばちゃんと目が合った。そう、ここはあくまで定食屋。
「長さん、そろそろ閉店みたいですよ」
「そうだな。じゃあ親分、場所変えませんか?」
こう口走ったのが運のつき。そしてここから恐怖の宴が幕を切る。
*
生贄となった学生二人が熊野縄張りから抜け出せないまま、時計の針は大きく回った。
「次はどうする?おねえちゃんのいる店とかがいい?」
「いや、もう大丈夫ですから」
「そう?じゃあ健全にメイド喫茶にしようか。秋葉原にいい店あるんだ」
もう何軒はしごしたか。葱山は人通りのない路上でまだまだテンションが高い。
「いや親分、っていうか先生、そうじゃなくって。それにここ千葉ですし、夜中ですし」
「え、そうなの?あ、そうだ!ちょっと待ってて」
突然近くのコンビニに突入する葱山、バナナを何房も買って戻ってきた。
「健康のために食うといいよ。ほらほらどうぞ」
謎のお土産を押し付けられる。言動に全く一貫性がない。もはやこれまでと診断し、二人は見事なコンビネーションで葱山をタクシーに押し込み、どうにかその場を収束させた。
「長さん、もう3時過ぎてますよ」
「わかってる。早く寝るぞ!」
九十九里浜の早い夜明けはもうそこまで迫っている。睡眠時間確保のため、学生はホテルへの帰路を急ぐのであった。
*
「はい美唄ちゃん、お土産」
火曜日朝8時。待ち合わせの病院ロビーで井沢から一房のバナナを渡されて彼女は驚く。
「え?何これ、南の島にでも行ったの?」
「色々と深い事情があってね。まあ気にせず食べてよ、美容にいいからさ」
腫れぼったいまぶたで長が答える。
「長さん、本当にすいませんでした。俺が余計なことしたせいで」
「何言ってんだよ、最後はあれだけどすっごく楽しかったって。ありがとな井沢」
そんなやりとりを見ながら微笑む美唄。
「なんかよくわかんないけど、今日も一日頑張ろうね。明日はまりかちゃんたちと交代なんだから、しっかり申し送りしないと」
そう、このセンターでの実習は最初のチームが月・火曜日、次のチームが水・木曜日、そして最後の金曜日だけ六人全員で行なわれる。ここに来ていない方のチームは、いつもの新宿で老年医学の実習中。つまり本院では治療と診断を学び、ここでは療養とリハビリテーションを学ぶカリキュラムである。
「二人ともテンション低いよ。こんなに空気がおいしいのに。ほらエイエイオー!」
朝日の眩しいロビーに美唄の声が響く。お疲れの2人はあくびしながらそれに合せる。
「ヘイ、ヘイ、ホー…」
「声が小さい、はい、エイエイオーイエー!よし、医局にレッツゴー!」
そんなこんなで学生たちは今日の実習に勤しむ。ちなみにこの数時間後、昼前になって出勤してきたヒゲモジャの熊…もとい葱山に、藤原から雷が落とされたのは言うまでもない。
3
水曜日、次のチームがやってきた。まりかに向島、そしてようやく登場した主人公・同村である。入れ代わりに美唄たち三人は今日から本院での実習。昨夜井沢から同村に届いたメールの内容はただ一言、『熊出没注意』。もちろん同村にはさっぱり意味がわからない。
…九十九里浜に野生の熊が出るのか?まさか、北海道じゃあるまいし。
そう考えたところで、彼の思考は北海道という地名で立ち止まってしまう。北海道…そこにある美唄という街。遠藤美唄の名前の由来であり、それと同時に告げられた彼女が抱える目の病気。
あの告白の夜からもう数週間が経過している。美唄はこれまでどおり明るく同村に接してくれている。ただ帰り道は、お互い何かと用事を作ってできるだけ一緒の地下鉄にならないようにする日々が続いていた。班の雰囲気を壊さないように…と同村もなるべく何事もなかったように振舞ってはいるが、ほのかな好意さえバレバレだったこの男にそんな器用な芸当ができるはずもなく、二人の関係に何かが生じたことはあっけなくみんなに感じ取られていた。
「よろしくお願いします」
朝の医局、三人は自己紹介して頭を下げた。野山に囲まれ海にも近いと言う立地、療養を目的とした高齢者中心の医療…何もかもが都会の大学病院と異なるこのセンターでは、流れる時間にもスタッフの表情にもゆとりが感じられた。それはセンター長である粕谷も例外ではない。
「秋月先生、同村先生、向島先生…ですね、よろしくお願いします」
小柄で初老の医師はそう穏やかな笑顔を見せた。
「ここにおられる患者さんたちはほとんどがご高齢です。身体が不自由だったり、物忘れが多かったりして、入院も年単位になります。大学病院では最新鋭の技術で病気と闘いますが、これからの時代には、病気と仲良く生きるためのここのような病院がもっと必要になるでしょう。みなさんが将来どちらで働きたいか、ぜひ考えながら実習をしてください」
「はい」
そう答えながら、同村の心には「病気と生きる」という言葉が重く残る。そして彼らは午前中は麻酔科医によるペインケアの回診、午後からは薬剤師による薬剤指導に同行するよう指示された。
*
正午過ぎ。三人は職員食堂で昼食にありつく。
「でもさっきのおばあちゃん、膝の痛みがとれてよかったですね。今度家族が面会に来たら一緒に海まで行きたいって…」
まりかがサラダを手に午前中の実習を振り返る。男二人もCランチを口に運びながら「そうだね」と頷いた。そこでふと向島が思い出したように言う。
「そういえばペインケアを担当してた先生、前にも会ったような気がするんだけど…」
「あ、あの女医さんですよね。実は私もそう思ってたんです」
まりかは同意するが同村は無反応。ただ黙って箸でおかずを突っついている。
「なんか最近元気ないよね、同村くん」
「え?いや、そんなことないよ」
説得力はゼロだ。まりかは箸を置いて真剣な眼差しで尋ねた。
「違ってたらごめんね。もしかして…美唄ちゃんと何かあった?」
「いや、別に…」
「そう?いや同村くんもだけど、美唄ちゃんの方がもっと元気ないような気がするのよね、最近。眼科の実習の頃からかな、いつもどおり明るいことは明るいんだけど、無理してるっていうか…向島さんはそう思いませんか?」
音楽部先輩は視線を虚空に逸らして「さあね」とだけ返す。それを最後にしばらく無言の食事となった。
「あー君たちい、おっ疲れー!」
舌足らずな声が沈黙を破る。見ると先ほど話題に上がった女医がトレイにナポリタンスパゲティを乗せて立っていた。福岡である。
「あ、お疲れ様です」
学生たちは即座に揃って一礼。はい、よくできました。すると彼女は特に断りもなくまりかの隣に腰を下ろした。自己紹介はお互い済ませていたため、いきなり会話が始まる。
「新宿からここまで遠かったでしょ。さっきのペインケアの見学でも立ちっぱなしだもんねえ。学生も大変だあ、何もしないで見てるのって疲れるもん」
「いえそんな…とても勉強になりました」
と、まりか。続いて向島が尋ねた。
「あの…福岡先生、失礼ですが前にもお会いした気がするんです。もしかして新宿の本院にいらっしゃいませんでしたか?」
女医は口の端からオレンジ色の長い麺を垂らしながら大きく頷く。
「うんいたよお。9月までね。10月からこっちに来てんの。ごめん憶えてないけど…じゃあきっとオペ室で会ったのかもね」
そのとおり。彼女と彼らが初めて対面した場面はちゃんと描かれておりますので、マニアの読者はぜひ読み返して探してみてくだされ。
「でも学生時代はいいよねえ、楽しいこといっぱいでさ。私もすずらん医大の出身でね、合気道部だったんだよお」
彼女の親しみやすさに後輩たちはすぐに打ち解けることができた。同村も「元気がないぞお」とからかわれながら、一応笑顔で会話に参加する。
…と、そこで女医は食堂の中にあの男の姿を発見した。
「あ、葱山くん!こっちこっち」
トレイを持って席を探していた彼は、その明るい導きに応じる。そしてそこにまた見慣れない三つの顔があることにも気が付いた。
「ほら早く座って。こっちはポリクリの学生さん。え~と、秋月先生に同村先生、向島先生。みんな、この人は薬剤師の葱山先生ね」
挨拶を交わして着席すると、葱山はさり気なく彼らを観察した。
…女の子は黒髪にメガネでいかにも真面目そうな感じ、ちょっとポッチャリかな。男の一人は無口そうな地味系。そしてもう一人の男は…他の2人より少し年上かな?怪しい目つきで空中を見てやがる、なんじゃこいつは。まあ女の子はこの前の子の方が可愛かったな。そういえば同村って名前…あの子と噂があるみたいなことを長くんたちが言ってなかったっけ?
相変わらず勝手なことを考えている熊男。そんなことは露知らず、まりかが言った。
「薬剤師さんなんですね。私たち午後から薬剤指導に同伴させていただくので、よろしくお願いします」
班長は遠征先でも健在だ。薬剤師はBランチをほおばりながら「あ、どうも」と返した。食いっぷりは相変わらずだがどこか活気に乏しい。
「どうしたの葱山くん、なんだか元気ないけど」
「別にそんなことないけどさあ…」
「もしかしてまたなんかやらかした?この前も薬局長に怒られてたよね」
そこで葱山は、一昨日の夜に学生二人と飲みに行って翌日遅刻した話を漏らす。福岡はまた手を叩いてケラケラと笑い、学生たちも話に登場しているのは14班の名物コンビだと察して噴き出した。特に同村においては『熊出没注意』の意味もなんとなくわかった。
「いいじゃん、朝まで飲んで遅刻なんて若いノリでさあ。なんなら今夜も飲みに行っちゃう?」
「勘弁してよ福ちゃん、藤原さんにマジでキレられたんだから。今度やったらクビだよ」
社会人2人の微笑ましいやりとりを見ながら、同村が「仲がよろしいんですね」とコメントした。福岡は葱山と自分が高校の同級生であることを明かす。
「だから君たちも仲良くしなよ、同級生は一生の仲間なんだから」
向島が自分は一度留年していることをニヒルに明かす。女医が「じゃあ同級生が普通の二倍いるんだからいいじゃん」と返し、その場にまた笑いが起こる。留年経験なら葱山も負けてはいないが、さすがに酒も入らずその悲哀話をここで披露することはなかった。
「やっぱりお医者さんっていいなあ」
「でも薬剤師さんだって薬の専門家じゃないですか。かっこいいですよ」
葱山のぼやきに同村が答える。
「でもねえ、こっちは医者の書いた処方箋どおりに薬を作るのが仕事だよ。特に新宿の本院にいた頃なんか朝から晩まで薬局にこもって、送られてくる処方箋をひたすら処理するだけ。まさに調剤マシーン」
愚痴っぽくなる男を女医が背中を叩いて励ます。
「でもここだと違うでしょ。患者さんと触れ合って、ドクターとも相談しながら処方考えてるじゃない。私もよく相談させてもらうし。ほらほら、シャキッとしなさい」
「福ちゃん、痛いよ」
また爆笑。そんなこんなしているうちに全員の食事が終わる。腕時計を見てまりかが「そろそろ行きましょうか」と促した。そう、この後は病棟で薬剤指導に同伴するのだ。
同村に向島、おまけに葱山まで「はい」と応じて腰を上げる。おいおいオッサン、本来はあなたが率先しなくちゃ。
*
福岡に別れを告げて四人は3階に上がる。病棟の入り口で葱山が言った。
「まだ藤原さんは来てないな…ちょっとここで待っていよう」
まりかが「あの、一つ質問よろしいですか?」と問う。
「え、俺に?別にいいけど…」
「先に実習に来た班員から聞いたんですけど、対応が難しい患者さんがおられるんですよね?」
美唄からのその情報は、まりかを通じて同村と向島にも伝わっていた。薬剤師は「ああ、村上さんのことだね」と頷いた。
「そのおじいさんはどうしてそんなにいつも怒ってるんですか?何か治療に不満があるんでしょうか。痛みがずっと続いているとか…」
「疼痛の緩和はうまくいってるはずだよ。だから福ちゃんのペインケアの対象にもなってない。確かに足は不自由だけど、お風呂とか食事とか着替えとか、スタッフがしっかり介助してくれてる。お金もある人だから、普通よりもいい個室を使ってるしね」
「じゃあそんなに満たされていないわけではないんですね」
と、同村。今度は向島が「寂しいとかじゃないですか?」と指摘。様々な角度から原因を考える…精神科で学んだアセスメントの技法である。
「でもねえ、もともと町内会長とかやってた人で、知り合いがたくさんお見舞いに来てくれてるんだよ。家族だってほぼ毎週来てるから…孤独ではないと思う。むしろ家族が自宅に外泊しようって誘っても断わっちゃうくらいだから。スタッフがお茶会や散歩に誘っても、それも全部拒否だし。
…村上さんがどうして不機嫌なのかみんなわからなくてね、ずっと困ってるんだ。あんなにいつも怒ってる方が疲れると思うんだけど」
結局答えは出ない。そのうちに藤原もいつものスマートな好青年で現れた。
「よし葱山くん、今日は遅刻しなかったね。学生さんとはもう挨拶したのかな?」
「はい、藤原さん」
途端に小さくなる熊男がおかしくて、学生たちは笑いを噛み殺しながら自己紹介。
「僕は薬局長の藤原、よろしくお願いします。それでは行きましょう」
踏み出した彼に続き、病棟珍道中が始まった。
本日も多くの患者に絶大な人気を誇る薬局長。しかし最後の個室の村上だけは無視と拒絶を崩さない。学生三人もなんとか話題を提供しようと頑張ったが…徒労に終わった。看護師や理学療法士も彼をリハビリに誘いに来たのだが、それも全て怒りの一括で追い返されてしまった。
結果は同じ。またも藤原の苦笑いの中、薬剤指導の見学は終了したのである。
4
同日夜、まりかは美唄と同じく東京に帰り、男二人は現地のホテルに宿泊。近くのラーメン屋で夕食を囲みながら同村が切り出した。
「あの患者さん…やっぱり不機嫌なままでしたね。もともと人間嫌い…とかでしょうか」
「どうかなあ。でも僕は、あのおじいさんを笑わせられそうな気がするけど」
「え、本当ですか?」
「あのおじいさん、医療も介護も満たされて、環境も悪くない。けっして不自由が多いわけじゃない。友人や家族も来てくれていて孤独なわけでもない。となると原因は…」
天才はそこで餃子をかじってから告げた。
「…退屈なんだよ。長年入院してるんだから当然さ。きっとそれでイライラしてるんだ」
「でもそれなら、スタッフのお茶会や散歩の誘いに応じそうじゃないですか?もっとリハビリに参加したり、大広間で人とおしゃべりしたりすればいいのに」
「きっと、そんなんじゃ刺激が足りないのさ。もっと高いエンターテイメントじゃなくっちゃね。大丈夫、僕に任せて」
ウインクする向島。一体何を企んでいるのやら…同村は期待と不安を入り交えながら「そうですか」と呟いた。
「それより…遠藤と何かあったのかい?」
ふいに訊かれて同村は固まった。
「まあおおよそ想像はつくけどね」
「あの、向島さん…」
何をどう話すべきか迷う。しかしそこで、音楽部の仲間には病気を打ち明けているという彼女の言葉を思い出した。同村は箸を置く。
「遠藤さんの目のことなんですけど…」
「ああやっぱり、君も聞いたんだね」
「俺…どうしていいかわからなくて」
「僕も打ち明けられた時は戸惑った。でも遠藤はああいう奴だしね、変に意識するのもよくないかなって。それで、まあ暗い場所とか人が多い場所とか、そういう時だけ少し気にかけてた感じかな。
でも最近…ちょっと病状が進行してるみたいだね」
向島も箸を置いた。
「きっと遠藤さん、今、将来のことが一番不安なんだと思うんです。このまま自分はここにいていいのか、医者になっていいのか…なれるのか」
「そう…だね」
訪れる沈黙。この二人、理由は全く違うが、それぞれ医者になることに疑問を感じている者同士。でもそれはあくまで気持ちの問題。彼女のように身体的な問題で、なれるなれないという話ではない。自分たちの悩みがいかに贅沢で、おこがましいものであったかを今更ながら思い知る。
医者の仕事はまず診断をすること。そのためには所見を取らなければならない。しかし彼女の場合、所見の重要な情報源である視覚が当てにならない。見落としや見間違いが取り返しのつかない誤診に繋がるかもしれない。その恐怖を押してそれでも白衣を着る…想像もつかない心境だ。それが勇気なのか傲慢なのかもわからない。
「結局…」
やがて音楽部先輩は口を開いた。
「遠藤が自分で決めるしかないんだ。大変だと思う、五年後の自分がどうなってるかわからないのに進路を選ぶなんて。それでも…あいつが決めるしかないんだ」
同村は「…はい」と力なく頷く。
「僕たちは仲間として、あいつが決めた道を応援してあげるしかないんじゃない?たとえそれが医者の道じゃなくてもね」
向島は水を飲み、少しだけ微笑んだ。
「実は同村くんにはちょっと期待してた…っていうか今もしてるんだけどね。遠藤が君に病気を打ち明けたのは、やっぱり君だからだと思うよ」
「向島さん…」
「なんてね。ほら、ラーメン延びちゃうから早く食べよう」
ありがとうございます、そう胸の中で告げてから同村もまた箸を手にする。そして思った…きっとこの人はわかっているのだろう、自分が彼女に想いを伝えて断られてしまったということも。
その後は同村から率先して向島に最近の音楽活動を尋ねる。得意げに鳴った先輩は小龍包とその話題にかぶりつくのであった。
*
そして翌日木曜日、天才ミュージシャンは一計を案じた。なんと遠征先まで持参していたアコーディオンを院内に持ち込み、村上の病室で演奏を披露したのだ。そのテクニックを笑顔で見せ付け、ブンチャカブンチャカと軽快な演奏が室内に響く。
さあ今回もMJKが音楽の魔法で解決か…と思われたが、世の中そんなに甘くはございません。
「うるさい!いい加減にしろ!」
最初は黙ってイライラしていた老人だったが、突然いつも以上の大噴火でそう一括。これ以上居座れば物まで投げつけられそうな勢いだ。陰で見ていた同村に引っ張られ、大道芸人はあっけなく退場となったのである。
5
金曜日、まずはまたあの男から見てみよう。午前8時、葱山は大あくびで眠い目を擦りながら出勤した。藤原から頼まれた書類のしめ切りが今日だと思い出したのは昨夜布団に入った直後。まあそのまま眠ってしまうよりは幸運だったが、おかげで安息の夜は悪夢の一夜に変貌した。何度も睡魔の誘惑に負けそうになり、いっそのこと投げ出して藤原に雷を落とされようかとも思ったが…今週はすでに一度食らっているためさすがにまずかった。明け方になんとか書類は仕上がったが、今布団に入れば寝坊するのは確実…そこでタバコのニコチンとコーヒーのカフェインを乱用し、無理矢理朝まで覚醒しての出勤となったのである。
ひとまず書類については怒られずにすんだ彼であったが、その後の業務では結局雷が落とされる。調剤をしながらうつらうつら…ただでさえ睡眠薬などを調合しているとその粉塵を吸入して眠気に襲われやすいこの作業、ついには薬包紙を片手にいびきをかいてしまった。怒鳴られて飛び起きる熊男。頭を下げた後に見た藤原の瞳には、もはや憎悪と軽蔑の色がわなわなと燃えていた。
「葱山くん…やる気がないんなら辞めてくれてもいいんだよ?」
声を荒げることはせず、好青年は冷ややかに告げた。その意味を感じとり、部下は必死に詫びる。
「葱山くん…もう調剤はいいから顔でも洗ってきたら?そんなんじゃ医療ミスを犯すよ。眠いんならどこかで寝てきな。午後に頼んだ仕事だけでもちゃんとやって」
「…午後?」
思わずそう言った瞬間、慌てて口を押さえる葱山。だが後悔してももう遅い…怒りの火にガソリンを注いでしまったのだ。
「今日は僕がカンファレンスに出なくちゃいけないから、代わりに薬剤指導を頼むって言っただろ!」
最大級の雷鳴が轟く。
「わ、わかってます!すいません!」
山火事から逃げる熊の如く、一目散に彼は薬局を飛び出した。まさにスタコラサッサのサ。
*
午後の医局、ドクターとコメディカルが合同で行なう月一回のカンファレンスが開催。議題はいくつか挙がったが、やはり一番スタッフを悩ませていたのは村上老人であった。いつも不機嫌で何も寄せ付けない患者は、医師・看護師のみならず、あらゆる職種の業務を難航させていた。
「リハビリをすれば少しでも歩けるようになりますって声をかけてるんですけどね…全く応じてくれません」
理学療法士の男性が言った。続いて作業療法士の女性が挙手。
「今年もクリスマス会を企画していますが、村上さんにカラオケを歌ってもらうのはどうでしょう。好きな曲とかあれば…」
「それは厳しいでしょうね。テレビで音楽番組を流す時に誘っても絶対来ないし」
と、病棟看護師。
「むしろお食事で誘ってみたら?いつもごはんは残さず食べてるから」
「それが…好きなメニューを伺いに行った時も、ないって怒っちゃって…」
肩をすくめるのは栄養士。続いて介護士が発言。
「僕らも色々な話題で話しかけてみたんですが…あそこまで拒絶が強いと、正直お風呂や着替えの介助もつらいです。感謝してほしいわけじゃないですけど、なんだかこっちが申し訳ない気持ちになってしまって…」
スタッフはそれぞれの専門分野からアプローチを試みている。そこで司会を務めるセンター長・粕谷が口を開いた。
「みなさんご苦労様。あの人の怒りは精神の病気や認知症からきているわけではないと思います。ですから安定剤で解決できるとも思えません。ね、藤原先生?」
「そうですね。転倒や誤嚥のリスクを考えても、安定剤は望ましくありません。せめて漢方薬…いや、それは以前にも試しましたね。ごめんなさい」
処方記録を読み返しながら答える薬局長。思いつく調剤はおおよそ試されている。
「困りましたねえ…」
粕谷が漏らす。それがいつもの結論であった。
*
カンファレンスがお開きとなり、藤原は医局を出た。結局お互いの苦労を語らうことでいつも終わってしまう村上老人の議論。薬剤師として自分にできることは他にないだろうか…彼は自問していた。そしてふと自分のネームプレートを見て思う。
…『九十九里浜療養センター』。はたしてあの老人はここで療養できているのだろうか。一体何を求めているのか?スタッフの関わり方で何が足りないのだろうか?
「やれやれ」
モヤモヤしながら薬局に戻る。そこにまだ部下の姿はない。もうそろそろ薬剤指導が終わっていてもよい時刻なのだが…。まさか、と悪い予感が脳裏を過る。
「すっぽかしてはないよな、あいつ」
そう吐き捨てながら再び薬局を出て階段を上がる。3階病棟に着いた藤原は、そこで彼らと出くわした。
「あ、お疲れ様です」
明るく言ったのは美唄であった。その横には五人の学生。実習最終日である今日は14班全員がこの地に集結していた。先ほどのカンファレンスも壁際で見学していた彼らは、そのままここへ上がってきたらしい。
「やあみなさん、病棟見学ですか?」
「はい。粕谷先生から最後にゆっくり病棟で過ごすように言われました」
まりかが答える。好青年は笑顔を作った。
「そうですか。うん、年単位で長期入院している患者さんは大学病院には少ないですからね。しっかり見学するといいですよ」
「先生はまた患者さんを回って薬剤指導ですか?」
と、井沢。
「一応もう葱山くんがやってくれたはずなんですが…」
言いかけたところで、病棟にガシャーンと大きな音が響いた。驚いて全員が振り向くと、一人の患者が皿の乗ったトレイを落としてしまったようだ。近くの看護師が「大丈夫?平井さん!」と駆け寄っている。
「ええ、ええ、大丈夫です。私、ごめんなさい。おやつのお皿を片付けようかと思って」
老婦人は恐縮したように謝る。看護師は笑顔に眉を寄せて言った。
「あらあらそうなのね、ありがとう。でもそれはスタッフがやりますから気を遣わなくていいのよ。平井さんはお体が悪いんだから無理をしなくていいのよ」
そんなやりとりを見ながら薬局長と学生は胸を撫で下ろす。とかく高齢者の病棟では転倒や転落の事故が多い。そうではなかったことに安堵したのだ。
「平井さんは何もしなくて大丈夫だから、安心して私たちに任せてね」
「そうですね、ごめんなさい」
弱く微笑む患者の姿を、ただ一人美唄だけはみんなと違う瞳で見つめている。優しさでも憐れみでもない眼差し…そんな彼女の横顔に同村は何故か胸が苦しくなった。
*
その後は藤原と一緒に病棟の患者に声をかけて歩く六人。
「あのクマさん先生ならさっき来ましたよ」
何人かの患者が教えてくれた。もちろんそれは葱山のこと。ひとまず職務を果たしていたことに藤原はほっとするが…ならばあの男はどうして薬局に戻ってこないのか?
学生も患者たちと触れ合いながら病棟を回っていく。中には美唄や井沢のファンになってしまっている患者もいた。そして一同はやがてあの個室にたどり着く。
ためらう藤原。しかし他の病室に葱山の姿はない。もしかしたらこの部屋に?、と否が応でも考えてしまう。ドアの前に立つ彼の後ろには学生たちが並ぶ。
…葱山は中で村上と話し込んでいるのか?いや、そもそもあの気難しい老人が会話に花を咲かせるとは思えないが。
「失礼します」
意を決してノックする。待っても返事はない。
「すいません村上さん、薬局の藤原です」
そっとドアを開ける。そして彼らの目に飛び込んできたのは…あまりに衝撃的な光景だった。
…グアー、グアー、グアー。
室内には獣のような大きないびきが舞っている。その主はもちろん熊男。葱山は村上のベッド脇の椅子に腰掛けたまま、おそらくは薬剤指導の最中に眠ってしまったのだろう…しかもこともあろうか、村上に寄りかかった状態で爆睡している。
藤原の頭に一気に血が上る。こいつ、ついにここまで…!怒鳴りつけてやろうと口を開く寸前、同村の言葉がそれを止めた。
「…笑ってる」
次の瞬間藤原も気が付く。自分に寄りかかって豪快な寝息を立てる男を見ながら…村上が笑っていた、優しく微笑んでいたのだ。
呆気にとられたのは彼だけではない。学生たちもこの奇妙な構図に目と心を奪われる。今眼前で起こっていることが一体何なのか、誰にもわからなかった…ただ一人、彼女を除いて。
「遠藤さん?」
また同村が言った。それに導かれ全員が彼女を見る。その二つの瞳からは大粒の涙がこぼれていた。
「どうしたの、美唄ちゃん!」
「どこか苦しいのか?」
口々に声がかけられる。いくつもの心配に囲まれながら、美唄は指で涙を拭って微笑んだ。それは彼女が見せたこれまでで一番嬉しそうな顔だった。
「だって…よかったなって思ったら」
彼女の視線はまっすぐに村上と葱山を見つめている。みんなはわけがわからず美唄と二人を交互に見た。
「嬉しいんだよ…村上さん、だから笑ってるんだよ。だって、だって、やっと…役に立てたんだから」
誰もすぐにはピンとこない。美唄は続ける。
「村上さんがいつも不機嫌そうだったのはね、不満とか孤独とか、あと退屈とかでもなかったの。きっと、人の役に立てない苦しさだったんだよ。体が不自由になっちゃって、お世話をされるだけの自分、何の役にも立ってない自分が…すっごく苦しくてたまらなかったんだ。だからどれだけ手厚く治療をされても、介護をされても、遊びや外泊に誘われても…ちっとも気持ちは晴れなかった。
でもね、それが今…役に立てたの。眠る葱山先生に肩を貸すっていう形で、人の役に立てたんだよ!だから、あんなに嬉しそうに…葱山先生を見ながら微笑んでるんだよ!」
藤原ははっとしてまた村上を見た。
「役に立ちたい…そうだったのか」
彼は自分たちスタッフが見落としていたものを知る。最高の治療、最愛の看護、安全な環境、不自由ない介護…それでは埋められない大切な感情が人間にはあることを。自分たちはつい言ってしまう、「何もしなくて大丈夫ですよ」と。「病気なんだから無理をしなくてもいいんですよ」と。でも違う、そうじゃない。病気だからこそ、障害があるからこそ、無理をしてでも何か役に立ちたいのだ。
「そっか、さっきのおばあちゃんも同じなんだ」
向島が言う。そう、きっとあの老婦人もそんな気持ちでトレイを運ぼうとしたのだろう。
「…役に立ちたい、そうだよな」
井沢も優しくそうくり返し、まりかも頷く。長も腰に手を当てて言った。
「わかるな。俺も早く…早く社会に出て人の役に立ちたいから」
そして彼は小声で「ですよね、親分?」と眠る男に微笑んだ。
美唄はハンカチを取り出し目に当てる。隣で同村がそっと告げた。
「やっぱりすごいよ遠藤さんは。君にだけ見えたんだから…村上さんの心」
彼女は顔をクシャクシャにして、声ともならない声で「ありがとう」と返す。そこだ同村、抱きしめろ!…と作者としては言いたくなりますがもちろんそんな主人公ではございません。しかもここは病棟、失礼致しました。
戸口に立ったままだった七人はそのまま静かに部屋を出る。そっとドアを閉めてから藤原が言った。
「…よかったね」
学生はみんな夢でも見ているかのような顔で頷く。そして彼らは藤原に礼を言って病棟を出ていった。薬局長はこのことを粕谷センター長に伝えるべく、再び医局に向かって歩き出す。
あの老人が笑った。この病院に来て初めての笑顔を見せてくれた。彼の心を救ったのはエリートのドクターでも、優しい看護師でも、人気の薬剤師でもない。それは最低最悪の部下、遅刻とドジの常習犯で浪人と留年の王様であるへっぽこ熊男だったと。
6
夕刻、無事実習を終えた六人は向島のワゴン車でセンターを後にした。井沢の提案で少しだけ海に立ち寄ることにする。車を停めて砂浜に下りてみるがそこに人の姿はない。茜色の風景の中、肌寒い潮風が彼らの髪をくすぐった。
「綺麗…」
遠くに沈む夕陽を瞳に映して美唄が呟く。そんな彼女のオレンジ色の横顔を見て、同村も同じ言葉を胸の中で呟いた。
「新宿じゃ見られない絶景ね」
目を細めるまりか。井沢と長が駆け出し、波打ち際で「これが青春だあ!」と夕陽に吠えている。
「今はもう秋…誰もいない海」
向島がトワエモアの名曲を口ずさむ。あの、君たち、これは21世紀の青春小説なんですけど。
…パシャッ!
美唄がしばらく休ませていたデジカメのシャッターを切った。「出たな、卒業アルバム委員!」と井沢が謎のポーズをとる。
「アハハ、何そのポーズ。ほらみんな、集まって集まって!井沢くん、長さん、ほらまりかちゃんもMJさんも…同村くんも!逆光だけど、夕陽も入れたいからこのアングルでいくね。ほらみんな急いで、夕陽が沈んじゃうよ!」
嬉しそうにシャッターを切る美唄。すると向島が彼女に駆け寄る。
「交代するよ、ほら早くみんなの所へ行って」
夕陽は最後の一欠片を残すのみ。仲間たちに囲まれて彼女もピースする。
「本日のMVPは遠藤さんです!」
突然無口な男が叫んだ。みんな一瞬きょとんとなったが、まりかがそれに加勢する。
「そう、見事に患者さんの心を見抜いたのは美唄ちゃんです!」
「おお、そうだそうだ!」
「美唄ちゃん、最高!」
井沢と長も続く。そんな五人を向島はしっかりフレームに収める。
「向島さん、日が暮れちゃいますよ!」
「心配無用だ同村くん。マジックアワーっていってね、夕陽が沈む瞬間が一番美しく撮影できるんだよ。よ~しいくぞみんな、はいチーズ!」
リズムとタイミングの達人がシャッターを切る。
「みんなありがとう」
そして美唄がそう言った瞬間、全ての残照が消えて辺りは夜に包まれた。
波が寄せ、また遠い沖へ帰っていく。その優しくてせつない音色に耳を委ねながら、六人は砂浜を後にした。最後尾を歩く美唄を気にかけて同村が遠慮がちに振り返る。
「大丈夫?暗くない?」
「ありがとう、大丈夫だよ。みんなの足音でわかるから」
そっと歩みを止めた彼女に同村は合わせる。美唄はまた海の方を見た。
「あたし…間違ってたね」
さざ波の音色の中で少し小さな声が言う。
「この前…目が見えなくなったらあたしの世界からお月様は消えちゃうって言ったでしょ。でもそれは間違ってた。だって…海は月の引力で満ち引きしてるんだもん。お月様が見えなくても、並みの音が聞こえるってことは、ちゃんとあたしの世界にもお月様があるって証拠だよね」
同村は感動していた。そんなことを考えられる人間がこの地球上に一体どれくらいいるだろう。確かに視力は悪いかもしれない。視野は狭いかもしれない。それでも彼女の見ている世界は…心に映っている景色は…きっと誰より美しいのだ。例えそれが束の間のマジックアワーだったとしても。
「おーいお二人さん、置いて帰った方がいいですか?」
車の方から井沢が呼ぶ。みんなも笑っている。
「行こうか、遠藤さん」
「うん」
あえてそれだけを告げて、同村は先に歩き出した。そして少々冷やかされながら二人が乗り込むと、車はゆっくり走り出す。
…さらば、九十九里浜!
*
帰りの車中はこの一週間の振り返りやこれから回る科の話題で盛り上がった。カーステレオには『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のサウンドトラックがかかっている。なんでも向島が一番好きな映画らしい。
「あ、この曲かっこいい!行け行けMJさん!」
「OK、自足88マイルでタイムスリップだ!」
「よーし、このまま空まで飛びましょう!」
大騒ぎの音楽部コンビ。村上老人の病室でどうして美唄が涙まで流したのか…彼女の病気を知らない三人にはまだよくわからなかったが、特にそれを尋ねる者はいなかった。ただ何となく、本当に何となく、彼女への優しさが心に滲み出していた。
そんな井沢・長・まりかを順に最寄駅まで送り、やがて車内には事情を知る者たちが残る。盛り上がりも一段落。
「すいません向島さん、お疲れのところ送ってもらって」
と、助手席の同村。運転手はその細く長い指で機嫌よくハンドルを操作している。
「平気平気。音楽機材を運ぶためのワゴンだから余裕あるしね。それにしても今回の実習はよかったなあ、あんな遠くまで行った意味があったよ」
「え、どういうことですか?」
アウトローには珍しい話題だった。
「なんかね、やっぱり医療はチームでやるもんだって実感したよ。ほら、カンファレンスでもさ、ドクターといろんなコメディカルが集合してみんなで話し合ってたじゃない?新宿の本院だと大き過ぎて全部のスタッフが集まるなんてできないもんね」
「確かに…そうですよね。本院じゃあ20階の病棟でドクターが処方箋を書いたって、1階の薬局でその薬を作ってくれる薬剤師さんの顔なんて知らないですから」
向島は頷く。
「僕さ、確かにたくさんの楽器が弾けるけど、だからって一人で全部演奏して多重録音してもなかなか良い音楽にはならないんだよね。時々ぶつかり合ったりもするけど、別々の人間がそれぞれの専門の楽器を持ち寄って演奏するからこそ、大きな力動が生まれるんだ。
グルーブ感っていうか、ダイナミクスっていうか…だから僕はバンドが好き。医療のチームも同じだよ、医者だけいても何にもならない。今回の実習でそれがよくわかった」
そこで後部座席の美唄が口を開いた。
「あたし…大丈夫みたい」
窓の外には夜でもまばゆい東京の街が流れる。それを見ながら彼女は続けた。
「今日はっきりわかったの。あたしもやっぱり、誰かの役に立ちたい。たとえどんなに迷惑かけても、失敗しても、それでも役に立ちたい」
同村と向島は黙ってそれを聞く。
「お医者さんがダメならコメディカルでもいい。話し相手になったり、車椅子押したり…何か一つでも役に立ちたい。だから…もう大丈夫!」
前を向いて力強く言い切り、彼女はガッツポーズを見せた。「うん」「そうだね」と優しく返す二人。
「色々心配かけてごめんなさいでした。でももう決めた!あたしは行ける所まで行く!そんなわけで、これからもよろしくです」
「了解!」
同時に答える同村と向島。彼女はまたいつものノリに戻る。
「よ~し、どんな運命でもかかってこい!あたしは未来に飛び込んでやる!もしコメディカルもダメならコメディアンにでもなってやる!それで患者さんを笑わせるんだ、エイエイオー!」
「じゃあ僕もいつかプロのミュージシャンになるぞ、エイエイオー!」
続いて向島も拳を振り上げる…いやいや、ハンドルから手を離さないで。助手席で戸惑う主人公に美唄が「ほら、同村くんも何か言って!」と後ろから急かした。
「え?え~と、じゃあ俺もいつか自分の小説を出版するぞ。エ、エイエイオ~」
慣れない同村の掛け声に美唄と向島は大笑い。
「そうだ、みんなで頑張るぞ、エイエイオーイエー!」
おいおい君たち、一人くらい医者になるぞって言いたまえよ。まあいいか…そんなこんなで未来への淡い希望を乗せたタイムマシンは、街並みの中へ消えていくのでありました。
*
ちなみにその頃葱山はというと…福岡につき合わされ居酒屋にいた。口から出るのはまた悲哀を漂わせた愚痴ばかり。
「今日なんか薬剤指導の最中に居眠りしちゃってさあ…ああもうダメだ俺。藤原さんにばれたらクビだ」
「そうなの?バカだなあ、アハハ」
福岡はビールのジョッキをぐいと飲む。さすがは合気道部。
「そういえば葱山くん、知ってる?粕谷先生から聞いたんだけど、村上さんが笑ったんだって。あのいつも怒ってるおじいちゃん。すごいよね、コメディカルスタッフのファインプレーらしいんだけど…どうやったんだろう」
「すごい人もいるんだね。俺には足元にも及ばないよ」
「そんな弱気でどうすんの。私は新宿に帰ったら絶対いい男を捕まえる予定だから、葱山くんも頑張れ!明日休みでしょ?ほら飲もう!」
「福ちゃん、勘弁してよ」
こうして自分が他の誰も打てなかったホームランを打ったことなど知る由もない彼は、今夜もまた酔いつぶれていくのでありました。そして明け方、土曜日出勤のシフトだったことを思い出すのです。
ではでは葱山薬剤師、大好きなキャラクターだけど君の出番は今回限りなんです。今後の活躍を祈ってます。いつか新宿の本院に戻れるその日まで、ファイト!
*
そろそろ今月の物語もおしまいですね。
最後に、家に帰った遠藤美唄が、まだヘタクソなギターを鳴らして徹夜で作り上げた、人生初のオリジナルソングをご紹介しましょう。それではみなさんまた来月!寒くなってくるのでくれぐれも風邪引かないように。
エイエイオーイエー!
(作詞・作曲:遠藤美唄)
カレーを食べたら元気が出て
唄を歌ったら勇気湧いて
単純だね でも大丈夫
それが私のイイトコロだ
今日間に合わないレポートは
明日の自分に申し送り
突然告げられる運命も
神様からの口頭試問
何ができるかはわからない
何にもできないのかもしれない
だけど今ここにいること
ごはん一粒残さない
色んな物を見失いながら
涙信じて手を伸ばそう
夢を見ることも 仕事することも
全部エイエイオー!
笑顔と元気は100%
たまにはめげちゃう日もあるけど
笑ってタイ バカみたいでも
それが私の得意技だ
そばにいてくれるみんなに
手を繋いでくれるみんなに
偶然揃ったみんなに
お腹いっぱいありがとう
色んな曲を口ずさんでたら
風が私の肩を撫でる
立ち止まることも あきらめることも
全部無駄じゃないと
色んな色に心を広げて
どんな未来も抱きしめよう
負けそうな時や ダメそうな時は
ちゃんとSOS
色んな人に迷惑かけても
いつか一つ役に立ちたい
恋をすることも 孤立することも
全部エイエイオー!
夢を見ることも 仕事することも
全部エイエイオーイエー!
12月、救命救急センター編に続く!