第7話 二つの告白 (眼科)

 月が最も美しく見える中秋の名月。それを過ぎると残暑もようやく燃え尽きて、夜は冷気を帯び始める。そんな10月第3週、季節の変わり目に14班が回るのは眼科である。
耳鼻科や歯科と並んで、眼科はとても身近な医療。今や街のクリニックでも白内障の手術が日帰りでできる時代だが、それでも大学病院の眼科が存在価値を失うことはない。視覚は身近で当たり前の健康だからこそ、それが当たり前でなくなった時に患者の人生の景色は大きく変わる。今回はそんな科を舞台に、遠藤美唄の物語である。

初日の月曜日は朝から雨であった。深夜に東京の空を覆った霧のベールは明け方には無数の雫となって降り注ぎ、道行く人々の傘からポタポタと滴っている。いつものように六人が集合した学生ロビー、そこからして彼女の異変は始まっていた。一見いつもどおりに元気なのだが、まるでチューニングのずれたギターのように、あるいは時々テンポを間違えるメトロノームのように、どうも調子がおかしい。それは人一倍彼女を観察している同村でなくとも、誰の目にも明らかであった。
「さあ今秋も元気に頑張ろう、エイエイオーイエー!」
まずは第一声、振り上げた拳を彼女は壁にぶつけた。痛そうに患部をさすりながら、心配してくれる同村に「ごめんごめん、テンション上げ過ぎちゃった」と苦笑い。
最初はただの天然ドジかとも思われたが、その後の実習でもやはりおかしい。必要以上に質問していたかと思えば、逆に指導医の話を上の空で聞いていたりする。院内ではほとんど私語をしないまりかでさえ「美唄ちゃん大丈夫?」と声をかける始末。その度に「え、何が?バッチリバッチリ」とガッツポーズを返すのだが…ちっともバッチリではない。
井沢と長も「美唄ちゃんどうしちゃったんだろう」と囁き合う中、ただ一人向島だけが時折無言の視線を彼女に注いでいた。

 そして迎えた二日目の火曜日、美唄の異変はさらに確実なものとなる。
雨は今朝も降っていた。集合時刻より少々早く到着した同村は、たむろする同級生たちの中にぽつんと座っている親友を発見した。
「おはよう山さん、暇そうだな」
「おうドーソン。いや、全然暇じゃねえべ。ウロの実習はかなりきついぞ。お前は今秋どこ回ってんの?」
ウロとは泌尿器科のこと。同村は対面のソファに腰を下ろしてから「眼科だよ」と答えた。そしてしばしお互いの近況を語らう。
「それにしてもお前の班、なんかますます仲が良い感じじゃん」
腕まくりをしながら山田が言った。季節が秋に傾き、学生たちの服装も半袖のケーシーからまた長袖の白衣に戻っている。胸に揺れる顔写真入りのネームプレートも、半年間の奮闘を表すように少々くたびれてきている。
「…そうかな」
「そうだろ、俺の班なんてバラバラだべ。男ばっかだし。そっちは女が二人もいるもんな。秋月と遠藤か…すごい組み合わせだよなあ、特待生とキャピキャピ娘」
「変な言い方するなよ」
少しムッとする同村。
「すまん、お前が遠藤に惚れてんのは俺も賛成だけど…」
「山さん、こんなとこで何言ってんだ」
「いや悪い、ただ…変な噂聞いて」
山田はそこで声を落とした。
「ドーソン、聞き流してくれ。小耳に挟んだんだけど…遠藤って、学校じゃあんな感じだけどよ、外だと違うらしい。新宿の街で同級生の女とすれ違っても、無視して通り過ぎるんだと。だから明るいのは男の前だけの演技だって」
「そんなこと…」
思わず言葉を詰まらせる。とても信じられない話だった。同村の知っている美唄は、むしろみんなでいる時も誰かが蚊帳の外にならないよう、気を配って全員に話しかけるような人間だからだ。人の些細な心の変化や痛みも敏感に感じ取る…そんなところこそ同村が彼女に惹かれた最大の理由でもあった。
「まあまあ、ただの噂だべ」
親友の悲しそうな目に気付き、山田は慌てて取り繕う。
「どうせモテない女たちが嫉妬して流したんだろう、気にすんな。俺はお前を応援するべ」
腰を上げると、悩める青年の肩をバシッと叩く。
「じゃあ時間だから行くな。また飲もう。変なこと言ってすまん」
正直過ぎるのがたまに傷の自信家は、颯爽と学生ロビーを出ていった。一人で病院へ向かうところを見ると、確かに彼の班はまとまっていないらしい。しばしその場でモヤモヤしていた同村だったが、意を決したようにいつものソファに移る。
「噂、そう、単なる悪い噂さ」
独り言で自分を励ましながら仲間たちの到着を待つ。そして一人、また一人と明るく姿を見せたが、彼が一番待っていた笑顔は結局集合時刻を過ぎても現れることはなかった。
「しょうがないわ…行きましょう」
何度か携帯電話でコールした後、腕時計を見てまりかが歩き出す。みんなもそれに続く。また井沢と長が「美唄ちゃん、何かあったのかな」と囁き合った。

その後、外来の一室で行なわれたのは教授による診察主義のクルズス。もしかしたらと同村はずっと入り口のドアを意識していたが、最後まで彼女が姿を見せることはなかった。

「本当にどうしたのかな、美唄ちゃん」
昼休憩、キーヤンカレーで井沢が切り出した。いつしかこの店は彼らの居場所の一つになりつつある。
「今まで皆勤賞だったのにな。サボるのは向島さんの専売特許ですよね」
長の言葉に音楽部先輩は「おいおい、最近はちゃんと来てるよ」とツッコミを入れた。みんなが笑い、同村も一応それに合わせる。大したことじゃない、心配するほどのことじゃない…そう自分に言い聞かせながら彼はカレーと不安を呑み込んだ。
そしていつもの歓談が過ぎ、やがて食後のコーヒーが運ばれた頃、長が話題を戻した。
「でも美唄ちゃん、昨日もなんか変だったよな。向島さんは何か聞いてないんですか?」
「…別に」
「私も何度も電話してるんだけど、繋がらなくて」
まりかが言う。
「ねえ、同村くんは何か聞いていないの?」
「いや、何も…」
無口な男はカップを置いてそう応える。そして数秒の後、はっとしたように切り返した。
「だ、だいたいどうして俺に訊くんだよ」
「だって、仲良しだから」
才女は悪戯っぽく答え、井沢と長もニヤリ。彼のロマンスはもはや公然の秘密。主人公は「べ、別にそんな…」とひどく赤面した。文芸部にあやかっていうなら、『走れメロス』のラストシーンのメロスのようだ。
「だって、いつも一緒に帰ってるし」
「あ、秋月さん!それは帰る方向が一緒だからだよ」
「それに、呼び方も一人だけ『遠藤さん』だし」
まりかがうふっと笑う。こんな時の彼女は珍しく女の子っぽい。…あ、こりゃ失敬。
「それは、別に大した意味は…。君のことだって秋月さんって呼んでるだろ」
「ま、いいんじゃない?パワフル娘と無気力男」
向島があおり、長も「若さって素晴らしい」と腕を組んだ。うんうん、本当に同感です。
「まあ同村、冗談だよ、冗談!そんな怒るなって」
見かねてなだめる井沢。同村は「まったく…」と赤い顔のままコーヒーを啜る。これ以上からかったら彼が心臓麻痺を起こしそうなので、話題はまたお互いの進路のことに流れていった。ポリクリも後半戦、卒業後はオールラウンド研修があるとはいえ、実習で回った科の中から学生は将来の専門を少しずつ意識する時期である。

 キーヤンカレーから戻り、再び着替えて学生ロビーに集合すると、そこには同じく白衣に身を包んだ美唄の姿があった。彼女はいつものソファで窓に落ちる雨を見ていたが、五人に気付くと振り向いて笑顔を見せた。
「おっはよーみんな!…っていうかもうこんにちはかな。今朝はごめんね、ついつい寝坊しちゃって。いやあ、こんなに爆睡したの初めてかも」
「なんだ、そうか」
ほっとする長。まりかも「もう、心配しちゃったよ」と迎える。「今日キーヤンカレー行ったんだぜ」と井沢も安心した顔。
「えっ!あたしも食べたかったのに、も~」
子供のように悔しがる後輩を、向島が「まあまた行けばいいよ」となだめた。
「あ、MJさん、今日は朝からいらっしゃったんですね」
「だから僕、最近はずっといるでしょ!」
また笑いが起こる。美唄も笑っている。
「でもよかったよ、遠藤さんが事故とかに遭ったんじゃなくて」
同村が微笑む。そんな様子に残りの班員たちはまた少しニヤリ。
「ありがとね、同村くん。でももし事故だったら救急車でそのまま駆けつけるから」
「そんな無茶な。それに眼科の実習なんだから救命救急に運ばれても…」
大真面目な同村の言葉に、井沢が思い出したように言った。
「あ、そういえば俺らの班、クリスマスの週が救命の実習なんだぜ。ついてないよな」
「そうなの?確か救命の実習って、病院に泊まったりもするんだよね」
「そうなのよ美唄ちゃん、救命救急が年内最後のポリクリ。でもそれはまだ先だから、ではみなさん、今は眼科へ行きますよ」
そう言ってまりかが歩き出す。みんなも続く。
「イブにデートの予定がある人はポリクリ免除、とかだったら面白いね」
「MJさん、何ですかそれ?う~ん、じゃあ頑張ろう!ね、まりかちゃん」
美唄に意気込まれて「そう言われても…」と困った顔の班長。井沢も「お前も頑張らないとな」と同村に肩を組んだ。
「しつこいぞ!」
また赤くなりながらもひとまずは胸を撫で下ろす。今目の前を歩いている彼女はいつもどおりに明るく、いつもどおりに笑っている。昨日のどこか不自然な様子も、山田の言っていた噂も、今朝の欠席も…きっと思い過ごしだ。彼はそう思うことにした。

 午後からは視覚障害者の誘導の練習であった。場所は院内のリハビリルーム、小さな体育館のようなフローリングの部屋。指導担当は青年看護師の阿川。柔らかい物腰の彼は、歩行介助の他に点訳の資格も持っていると自己紹介した。
「それでは始めます。みなさんもバリアフリーやノーマライゼーションという言葉はご存じですね?近年、少しずつ目の不自由な方でも暮らしやすい世の中になってきています。点字ブロックだけではなく、音声ガイドなどを見かける機会も多いですよね。
…とはいえ、まだまだ歩くのが難しい不便な場所もたくさんあります。みなさんが街で目の不自由な方に手を貸す場面もあると思います」
彼は立てかけてあった白杖を手に取る。
「これは目の不自由な方が使う杖です。前方の障害物や段差などを確認するために役立つのはもちろん、床を叩いて音の反響で部屋の広さを知ることもできます。そして、自分の障害を周囲に伝えられるという意味でもとても大切なアイテムです」
「その杖を持ってよい人の条件などはあるんですか?」
まりかが質問。
「本人の意思で使って構いません。全盲の方だけでなく弱視の方でも、周囲にわかってもらいたい方なら障害の度合いは問いません」
看護師は白杖を学生に渡し、順にその感触を確かめさせる。最後に受け取った美唄も、床に杖を立てて何やら考えていた。
「それでは、誰かに実演してもらいましょう」
アイマスクを取り出す阿川、それを最初に装着することになったのは長。彼はその状態で室内に造られた擬似の街の中を杖を頼りに歩くよう指示された。
「気を付けてくださいね、ゆっくりでいいですから」
「は、はい…」
長は時々段差に足を取られたり、壁に体を擦ったりしながら進む。やる前に一応コースを見て確認はしたのだが…いざ歩いてみると難しいらしい。
「ではみなさん、声をかけて彼を誘導してあげてください」
そこで五人は口々に言葉を投げる。「もっと左です!いや、行き過ぎです」、「もうすぐ壁です、前方前方」など、まるでスイカ割りの声援。
「どうですか、長先生?」
「ええと、やっぱり難しいです」
アイマスクのまま長が阿川に答える。
「では、次は誰かがそばで体に触れて、残りのコースを誘導してあげてください」
井沢が志願した。長の横に立ち、杖を握っていない左腕に手を添えてゆっくりと進んでいく。
「いいですか長さん、もう少し右です。はいOKです。そのまま…」
彼は器用に誘導する。長も先ほどよりは安心して一歩を踏み出せるようだ。
「はい長さん、次は段差です。右足から行きますよ」
「え?ああ、わかった」
こうして長はコースを一周し、みんなのもとへ戻ってきた。
「アイマスクを外して結構です。長先生、いかがでしたか?」
「ええ、見えないとかなり怖かったです。段差とか斜面とかにビクビクしちゃいました」
「そうですね、いかに普段私たちが目から情報を得て暮らしているかということです。逆に言うと目が不自由な方は、それだけ頼れる情報が少ないということです。
ではみなさん、井沢先生の誘導はとても上手でしたが、何か気になったことや問題点はありましたか?何でも気付いたことを言ってみてください」
学生たちは考え込むが…なかなか思いつかない。そこで井沢本人が挙手した。
「もっと、頭の上のことも注意するべきでしたか?」
「はい、それもあります。街には足元だけでなく頭の上にも色々な障害物がありますからね。低い天井とか、看板とか、提灯とか。仮に何もなくても、何もないということをちゃんと伝えてあげると相手は安心します」
「そうか…」
深く頷く向島。続いて美唄が黙って手を上げた。
「どうぞ、遠藤先生」
「あの、段差の時は、それが上りなのか下りなのかを教えてあげるべきだと思います。会談とか段差という言葉だけじゃ、見えない人には上りか下りかわかりません」
「そのとおりです。見える人にとっては段差という言葉で十分説明できているつもりでも、見えない人にとっては不十分。上りと下りでは足の運びが全く違いますから、それがわからないととても歩きにくいんです。素晴らしいご指摘ですよ遠藤先生、介助をする時はそういうことにも気付いてあげられる想像力が大切なんです」
解説を聞きながら長も先ほど自分が戸惑った箇所を思い出していた。
「段差の問題に気付ける学生さんは滅多にいません。優秀な班ですね」
まりかが「美唄ちゃん、すごい!」と賞賛。みんなも拍手。しかし、誉められていつもの笑顔100パーセントが発動するかに思われたが…当の本人は「別にそんな」と謙遜するのみ。そんな彼女に同村の心はまた少し波立ってしまう。
「ちなみに、先ほど井沢先生がやったように横から腕を添えてあげるのも一つの方法ですが、その場合はよほどうまく言葉で説明してあげないと、ご本人の前方に対する不安はあまり変わりません。だからこのように…」
阿川は向島の左手を取ると、それを自分の右肩に置いて背を向けた。
「こうしてあげると、私が前を歩く形になるので、介助される人も安心して前進できます。階段や段差でも、私が先に上がったり下がったりするのがわかりますからね」
学生たちは揃って「なるほど」と漏らす。
「上手に介助するのはもちろん難しいことですが、上手に介助されるのもまた難しいことなんです。大切なのはお互いがお互いを知ること、そして今は健常なみなさんもいつ自分が障害を持つ側になるかわからないということ。それを忘れないでください」
看護師は一瞬厳しさを覗かせ、すぐにまた優しい顔に戻る。
「ではまたペアを変えて、誘導の練習をやってみましょう!」

 水曜日の実習は外来見学から始まった。待合室は平日午前だというのに相変わらずごった返している。六人は診察に立ち会いながら、そこで多くの患者たちの姿を見た。
一言に目が悪いといっても様々な形がある。遠視・近視・乱視といったピントの障害、見える範囲が制限される視野の障害、他にも暗さや明るさが苦手だったり色が判別できなかったり…その苦労は患者の数だけある。本が読みづらくなって困りますと笑う老婦人、好きな仕事ができなくなって塞ぎ込む青年、生まれながらに光を知らない幼い少女…。患者は引っ切り無しに訪れ、診察は午後1時を過ぎても途切れることは無かった。

 昼食をかき込み、すぐに2時から病棟のカンファレンスルームでクルズスが始まる。担当は准教授の手塚、自らも丸メガネをかけた男性医師だ。正面に立って話す彼の後ろには、スーツ姿の青年が控えていた。自己紹介をしない彼の正体を少し気にしつつも、学生たちは手塚の言葉に集中する。
「眼球の解剖学とか病気の治療については他の先生のクルズスでやってるだろうから、僕からは少し違う話をするね」
准教授は洋画の吹き替えのようなシャープな声で話す。
「みんなはロービジョンケアって聞いたことあるかな?外来見学でわかったと思うけど、眼科医の仕事は失った視力を回復させることだけじゃない。もちろんそれができれば一番だけど、そうはいかない難病もたくさんある。人工レンズや網膜再生医療も研究は続いているけど、実用化には何年もかかる。でもその間にも患者さんの人生はどんどん時間が過ぎてしまうよね。
そこでロービジョンケア。視力をサポートしてくれる便利な機器がたくさん開発されてるんだ。目の状態に合わせてそれを紹介してあげて、使い方も教えてあげる。患者さんが使いこなせるようになれば、視力は上がらなくても生活力は格段に上がるからね」
そこで手塚は後ろの青年に自己紹介を促す。彼は恐縮しながら一歩前に出た。
「みなさん初めまして、ヨザクラメガネの三宅と申します。手塚先生にはいつもお世話になっております」
如才なく挨拶した青年の正体は、手塚がよく連携するメガネショップの店員であった。これまでにも色々な患者のニーズに合わせてメガネやコンタクトレンズを用意してきたこと、そして近年はそれだけでなく、会社を挙げてロービジョンケアに役立つ機器の開発にも取り組んでいることを彼は手際よく説明した。
「今日三宅さんに来てもらったのは、サポート機器を紹介してもらうためなんだ。じゃあ見てのお楽しみ、さっそくお願いします」
青年は部屋の隅から大きなバッグを抱えてくると、「よいしょ」と机に置いてそこからいくつもの機器を取り出した。学生たちの注目が集まる中、これまで見たことのない不思議な道具ばかりがそこに並べられていく。
「ではご説明しますね。まずはアナログな物から。例えばこれ…」
それは一見ただの虫メガネ、しかし妙に持ち手の部分が太い。彼がスイッチを入れると、レンズの脇から明るい光が放たれた。「あっ」と同村が声を漏らす。
「これを使えば、夜盲症の方でも暗い場所で小さな文字が読めます。レンズの倍率も一般の文房具店で売っている虫メガネよりずっと上です」
三宅は他にも、形状の異なる虫メガネをいくつか示した。それぞれ様々なシチュエイションでの用途を想定して造られている。
「続きまして、デジタルな物をご紹介します」
次に示されたのは板チョコサイズの電子機器。まるでポケットゲーム機のように、その中央には大きな画面が埋め込まれている。三宅はそれを電子拡大鏡だと説明した。手塚の「ほらみんな、近くで見てごらん」の声を合図に、六人は未知の機器に群がった。
「よろしいですか?これをこうやって広げた新聞の上に置いて、電源を入れますと…」
歓声が上がる。画面には下の新聞の文字が拡大されて映し出された。三宅がボタンを操作すると文字のサイズは自在に変化する。最大にすればたった一文字を画面いっぱいに拡げる事も可能だった。そしてその機器を横にずらせば、電光掲示板の文字ニュースのように文章が流れていく。
「これなら相当目の悪い人でも読めるな」
感心する長。まりかもメガネの奥の目を丸くして「これって画面の明るさの調整もできるんですか?」と尋ねた。
「できますよ。明るさもですが色調もその人が一番見やすいものを選べます。例えば白内障の方は白地に黒文字だと見えづらいので…」
三宅がダイヤルを回すと、黒地に白文字の色調に反転した。また歓声が上がり、美唄も思わず「うわあ、すっごく読みやすい!」と驚嘆。他にも青にオレンジ、紫に白など様々な色調が示される。学生たちの感動冷め遣らぬ中、説明は続いた。
「電子拡大鏡はパソコンサイズの大きな物から、持ち運び可能な手帳サイズの物まで色々あります。携帯しておけば、例えば飛行機の搭乗券の文字もこれで読めます」
「そうか、ゲートの番号とか、座席の番号とか、搭乗券に書かれてますもんね。これがあれば人に訊かなくてもわかる」
興奮して言った井沢に、後ろから手塚が答える。
「そう…自分で読める、ということが大切なんだよ」
三宅も頷いて言った。
「そうですね、確かに誰かに代わりに読んでもらうよりも患者さんの喜びは大きいと思います。あと最近はこんなのもあります」
胸ポケットから名刺サイズの薄い板が取り出される。「あ、アイズパッド」と長が反応。
「そうです、最近流行のタブレット端末ですが、目の不自由な方のために様々なアプリが開発されています。例えば…ちょっとよろしいですか」
青年は壁際に立つよう美唄に頼み、応じた彼女にその板をかざした。画面に美唄の腰から上が映し出されるのが同村たちにも見える。
…ピロリーン。電子音が鳴り、次の瞬間その板は「白衣を着た長い髪の女性です」と喋った。またまた歓声。
「どういうことですか?」
息を弾ませる同村。
「これは画面に映った物を説明してくれるアプリです。他にも例えば…」
三宅が板を横に向けると、再び電子音が鳴って「白い机と黒い椅子です」と説明される。
「すごい…ここまで科学は進歩してたんだ」
向島は目を輝かせ、無防備に感動をあらわにする。
「他にも色々なアプリがあります。お札が何円札か判別してくれるアプリ、今自分がどこにいて目的地までどう行けばいいか教えてくれるアプリ、困った時にボランティアの人に繋がってアドバイスをもらえるアプリ…。これらは全て目の不自由な方のこんなアプリがあったら嬉しいっていうアイデアに応えて開発されたんです」
同村はそこでまた別の感動を覚える。ここにある便利グッズは、全て不自由に苦しむ誰かのそれを克服したいという願いから生み出されているのだ。
「前にテレビで、音声パソコンというのを見たことがあります。それを使って全盲の弁護士さんが仕事してました。すごいスピードで書類を打ってました」
まりかが言った。
「そうですね。今は目の不自由な方でも、様々な職業の可能性が生まれています。もちろん仕事だけでなく生活も充実します。音声でメールを読み書きできる携帯電話、音声ガイド付きのエアコンや炊飯器なんてのもありますから」
「本をスキャンして音声で読み上げてくれる機械もテレビでやってました」
井沢も続く。
「はい。最近はそれがコンパクトになってこんなのもあります」
三宅はポケットからメガネを取り出し、それをかけた。そして自分の顔の前に名刺をかざす。すると、なんとそのメガネが名詞の内容を読み上げたのだ。学生たちは歓声を通り越して声も出ない。
「これは文字を読み上げてくれるメガネです。もう日本でも実用化されています。海外では、あらかじめ知り合いの顔を登録して、今目の前にいるのが誰なのかを教えてくれるメガネもあります。
…みなさん、せっかくですから、手に取って実感してみてください」

 その後学生たちは興味津々でサポート機器を体験した。それはデパートのおもちゃ屋さんに連れてきてもらってはしゃぐ子供さながら。向島が長に魔法の板をかざすと…「白衣を着た男性です」。
「すごいな、でもやっぱりオッサンですとは言わないんだ」
「そりゃそうですって!何言ってるんですか」
美唄は電子拡大鏡で新聞を読みながら、「すっごい迫力だよ、まりかちゃん!」と興奮していた。井沢もライト付き虫メガネを手に取りながら「今度ばあちゃんに買ってやろうかな」と微笑んでいる。そして同村はそんな五人を見ながら久しぶりに決めゼリフを放った。
「ドラえもんは…実現するな」
文芸部の無気力男よ、今回ばかりはその愚かな独り言を許してやろう。

一通り未来の秘密道具を味わったところでクルズスは終了となった。バッグを抱えた三宅が一礼してまず退室。手塚も明日の実習の予定を説明したところで立ち去ろうとしたが…。
「あ、そうだ」
ドアの手前で振り返って彼は言った。そこには悪魔の微笑みが浮かんでいる。
「みんな今日の夜は空いてる?…っていうか空いてなくても空けてね。実は教授から伝言があって…」
その瞬間六人は覚悟する。…やっぱりきたか、と。

 伝言は端的に言うとこういうことだ…「今夜飲みに行くからつき合え」。もちろんそんな威圧的な言葉ではなかったが、そこに教授という権威の衣を着せればそういう意味合いになる。当然学生に拒否権はない。
この科の教授の名は三玉、学生好きで有名な60代の男性医師。実習に来た学生を必ず一度は飲みに誘う。井沢が事前にその情報を仕入れていたため、ここは仕方ないと六人も腹をくくる。
約束は午後7時に南新宿の中華料理店。彼らは三十分前に正装して集合し、店の前で整列。今日は雨は降っていなかったが朝からずっと曇り空、冷気を帯びた夜風が容赦なく吹き付ける。しかしここで先に店内に入れるはずもない。やがて三玉は時間どおりにタクシーで現れた。
「お疲れ様です!」
揃っておじぎする彼らに、「待たせたな、行くか!」と威勢よく返す我らが教授。背は低いが骨太、がに股で歩み寄ってくるその姿はまさにバイタリティの塊。顔は日本人離れした鼻の高い西洋風…寂しい頭髪もむしろかっこよく見える。若い頃はきっと相当なハンサムだったに違いない。
「今夜は結構冷えるな。早く入って飲もう、ガハハハ」
しゃがれた声で笑う大先輩を見ながら同村は密かに思う…この顔に手塚の声だったら本当に洋画みたいだったのにと。そこで教授はふと美唄の存在に気付いた。
「あれ、お前昨日の俺のクルズスの時いなかったな」
「すいません、寝坊しちゃいました」
「よ~し、説教だ!俺の横に座れ!ガハハ…」
三玉は14班のアイドルの腕を取って店内に引っ張っていく。英雄色を好む?いやいやこれはあくまで学生との健全な交流…ということにしておこう。
「同村、怒るなよ?」
井沢が耳打ちする。「何言ってんだよ」と返す主人公は確かに少し不機嫌そうだ。だがここでジェラシー任せに教授をブッ飛ばすほど彼も子供ではない。そもそもそんな度胸なんて見せたことのない人生である。みんなと共に彼もおずおずと店に入った。
「おーい、早くメニュー持ってこい」
中華料理の芳醇な香りが漂う間接照明の店内。席に着くやいなや、三玉が大声で言った。片言の転院も慣れた様子でそれに応じており、百も承知の常連客であることが伺える。
「どんどん食ってジャンジャン飲めよ!二日酔いなら明日のポリクリは免除だ、ガハハ」
噂どおりの豪快さに圧倒されながら、六人も飲み物を注文する…といってもバイク通学の長と下戸のまりか以外はほぼ強制的にビンビールだ。
「先生のご専門は、眼科のどの分野なんですか?」
飲み物が揃うまでの間、井沢がすかさず会話を繋ぐ。このあたりのテクニックはさすが。
「専門?そんなの全部に決まってるだろ」
「そうですか、すごいですね。憧れます」
長もゴマを磨る。これぞ年の功!…ってこりゃまた失敬。そうこうしているうちに飲み物が揃い、教授の音頭で乾杯が行なわれた。
「何でも食いたい物を注文しろ、遠慮はすんなよ!お前は何か好きな物あるか?」
隣の美唄に尋ねる教授。彼女はいつもの明るさを少しずつ解放する。
「う~ん、やっぱりここはエビチリですかねえ。あと回鍋肉も好きです」
「メニューも見ずに決めるとは大物だな。ガハハ、いいぞ、どんどん頼め!」
想い人との距離が近い三玉の姿に、同村のグラスを握る力が強まる。…まあまあ、ここは抑えて。これも社会勉強です。ポリクリのカリキュラムです、きっと。

「どうでい、眼科は楽しいかえ?」
乾杯から一時間。顔を赤くした三玉の呂律が怪しくなってきた。
「はい、まだ三日目ですけどとても興味深いです」
まりかが真面目に答える。
「そうかえ、じゃあ将来入局してくれよ…ってお前らはオールラウンド研修とかがあるから決めるのはまだずっと先か。いやいや勝手に新しい制度が始まっちまって難儀だな」
教授はお偉方への苦言をいくつか並べた。学生は背筋を正して拝聴。
「それにしてもまあ…」
一頻り語り尽くすと、教授は言葉を止めて六人を見回す。
「う~ん…いいなぁ、この班はよぉ!こんなに可愛い女が二人もいて。俺の時なんか野郎ばっかの班だったからよぉ。男はいらん、男はいらん」
…何十年前の話だよ、とみんな思うがもちろん誰も口にはしない。三玉はそこで「これはもう飲むしかない!」と自らグラスを空ける。客も増えて店内もかなり賑やかだが、それでも彼の声の大きさが群を抜いている。
「だからお前らは幸せだよぉ。おいそこのお前、さっきから黙って飲んでんじゃねぇよ」
それはもちろん同村のことだ。
「す、すいません」
「声が小さいな、気合いが足りん!お前、部活は何だ?」
「ぶ、文芸部です」
「それだけか?武道はしとらんのか?医者は文武両道でなくてはいかん。そしてもちろん酒と女も忘れるな。お前、女はいるのか?」
「いえ、おりません」
「何?それはけしからん、飲め!」
文科系一筋で歩んできた同村は、当然こういった体育会系のノリに慣れていない。それでも持てる限りの知識を総動員し彼は「飲みます!」とグラスに両手を添えた。
「僭越ながら自己紹介させていただきます。自分、すずらん医科大学5回生5年、同村重一と申します。以後よろしくお願い致します」
そこで一気に酒をあおる。教授は「おう、いい感じじゃねえか」と賞賛。実は山田からの受け売りであったがうまくいったようだ。
三玉の意識が同村に向いている間に、井沢が隣の美唄に耳打ちする。
「美唄ちゃん、先生のグラス!」
「あ、ごめん」
美唄が慌ててビールのビンを取ろうとするが、先に向島が手近なビンを差し出した。
「先生、どうぞ」
「おうすまんな!」
教授は上機嫌でそれに応じ、ビールを注がれながら今度は向島に「お前、女はいるのか」と問う。そして音楽が恋人である彼も同村と同じ運命をたどった。空けたグラスを頭の上にかざす向島に一同大笑い。教授は「じゃあ…」と今度は向島の隣のまりかに標的を移そうとした。それを察した井沢がすかさず立ち上がって言う。
「先生、僕には女がいます!」
「何?それはもっとけしからん、飲め!」
いくつもの修羅場をかいくぐってきたサッカー部は「はい!」と勢いよくそれに応じる。そしてその意志を組むように今度は長が立ち上がった。
「先生、僕はもう32歳のおっさんです!」
「何?威張るな、俺は倍の64のじいさんだ!」
「はいすいません」
と、長もグラスを空ける…まあウーロン茶ですが。そんな体育会系コンビの活躍もあって教授も笑顔で酒が進む。まるでわんこそばの如く、グラスが空いたのを見極めると向島がそこにビールを注いだ。
本来なら隣に座っている…もとい座らされている美唄がお酌係りなのだが、どうも彼女は一歩出遅れてしまう。先ほど井沢に耳打ちされた時のように、そのタイミングを見逃すことが何度かあった。体育会系ではないとはいえ、彼女だって伝統ある音楽部に足掛け五年、礼儀作法はそれなりに仕込まれてきたはずなのだが…。
「ガハハ、仕事の疲れは酒で吹き飛ばして明日もまた元気に頑張る、これが大切だ!なあ、そうだろ」
「はい、そうですよね。あたしもそうします!」
「よしよし。お、お前は綺麗な目をしとるな。俺が言うんだから間違いないぞ」
「そうでうすか?ありがとうございます」
とまあ、その分美唄は教授の言葉に全て共感し、可愛さも惜しみなく披露する。アイドルの隣で会の主催者が一番楽しんでいるのは明らかだった。
「お前ら、医者になってもいばるなよ。いや、いばってもいいが、一番すごいのは患者だってことを忘れるな。医療の専門家は医者だが、苦労の専門家は患者なんだからな!」
「はい!」
最期には紹興酒も入ったが、やがて二時間が経過。教授がトイレに立っている間においしく杏仁豆腐もいただいて、宴はつつがなくたけなわとなった。
よくぞ乗り切った、14班諸君!

 午後9時過ぎ、足元のふらつく大先生を大通りまで送り届ける。当然、タクシーを拾うのも学生のお仕事。
「先生、今夜はごちそうさまでした!」
教授がタクシーに乗り込むと、学生は整列してお礼の言葉。
「おうおう、また明日なぁ!」
気持ち良さそうな返事に続いてドアが閉まり、車は走り出す。
「ありがとうございました!」
声を揃えて頭を下げ、タクシーが見えなくなるまでそのままの姿勢を維持。…はい、よくできました。ちなみにお見送りの方法としては、他にもバンザイを叫びながら車を追いかけるというバリエイションもありますが、さすがにここでやったら交通事故間違いなし。
「いやあ、教授はすごいパワーだったな」
頭を上げて井沢が一息。彼も随分飲んでいたのでやや足元が危うい。
「井沢、大丈夫か?」
「大丈夫っすよ長さん。むしろちょっといい感じです」
「あの、ありがとう井沢くん。何度も守ってくれて…」
ほろ酔いの爽やか青年にまりかが感謝を伝えた。「え?何のことかな」ととぼける彼を、美唄が「またまたあ」と人差し指で突っつく。
「まりかちゃんの代わりに何度も飲んでたじゃない。ちょっとかっこよすぎ」
「え、そうだっけ?」
おどける彼を見ながら同村は思う…やっぱりいい奴なんだな、と。いつぞやの大喧嘩が嘘のように、優しい気持ちが込み上げてくる。同村は「今日のMVPは君だよ」と井沢の背中をポンと叩いた。
「みんなもありがとう。ごめんね、私、慣れてないから全然面白い話とかできなくて」
申し訳なさそうなまりかに、長が首を振った。
「何言ってんの、いつも班長に助けてもらってる。だからこれくらい俺たちがやりますぜ」
「そうだよ秋月さん、何も気にすることないって。君はその名のとおり秋の月、みんなの足元をいつも明るく照らしてくれてるんだ」
酒が入った文芸部は若干厄介かもしれない。

…パシャッ!

夜の街にフラッシュが光った。発光源は美唄のデジカメ。
「お、出たな卒業アルバム委員!」
長に肩を貸されながら井沢がピース。カメラマンは100パーセントの笑顔を返す。
「だってみんな、今すっごくいい顔してたんだもん」
「もう、驚いたよ美唄ちゃん」
まりかも笑う。
「遠藤さんもいい顔してるよ。カメラ代わろうか?」
「ありがとう同村くん。でもいいの、あたしお酒入ると変な目つきになるから…フフフ」
無邪気に笑って彼女はデジカメをしまう。
「でも君が待ち望んだ14班の飲み会じゃないか」
「え~これは違うよ、あくまでこれは教授の会。14班のパーティはちゃんとあたしたちで企画しなくちゃ」
口を尖らせる美唄。そんな子供染みた所もまた可愛いと思ってしまう同村。自然と二人の目が合った。そっと…時間が停止する。
「ハックション!」
一瞬の後、井沢が大きくクシャミした。二人はあっけなく視線をそちらに向けてしまう。
「大丈夫か井沢」
「大丈夫だ同村。でも寒くなってきたからみんな風邪ひかないようにしないと」
「そうだな、じゃあ解散するか。明日も早い」
まとめに入る長。まりかもいつもの手帳を取り出して本領発揮。
「明日は白内障の手術見学、8時に学ロビ集合です」
「了解です、班長!」
みんな一斉に答え、それぞれの帰路に着く。
まず足元の心配な井沢はタクシーで帰るという結論になり、長が彼を支えながら道路脇でタクシーを待つ。JR組はまりかと向島、個人主義の彼らは普段はバラバラに帰るのだが…今夜は一緒に新宿駅へと歩き出した。
「向島さーん、班長をしっかりお守りしてくださーい!」
呂律の怪しくなってきた井沢が呼びかける。四年連続の特待生とアウトローの問題児がまさか一緒に帰ることになろうとは…巡り合わせって不思議だね。二人は振り返って軽くこちらに手を振ると、駅の方へと消えていった。
続いて歩き出すのは地下鉄組の同村と美唄。二人は井沢のタクシーが見つかるまでそこにいようとしたが、長が「寒いから早く帰りな」と促してくれた。
「すいません長さん、お先に失礼します。井沢を頼みます」
「ホイホイ了解。あ、同村、送り狼になるなよ」
80年代のトレンディドラマか?そんな長に続き、井沢も「いや、むしろなれ、なるんだ同村!」と謎のエールを贈る。
それに対して「何言ってんだよ!」とまた過剰に反応してしまう主人公。武士の情けで顔が赤いのはアルコールのせいということにしておきましょう。隣の美唄はというと…クスクス笑っている。本当に…女心ってわかりません。

 それではその後をもう少し見てみましょう。まりか・向島ペアも追跡してみたい気もしますが…やはりここは本作の主人公とヒロインを。
午後9時半、地下鉄の駅までは少々距離があったため、二人はまだ夜の街を歩いていた。
「でも今日の井沢くんは本当にかっこ良かったね。何回もまりかちゃんを助けてさ…フフフ、ひょっとして好きなのかなとか思っちゃった」
美唄は疲れ知らずの明るさで話す。並んで歩くその立ち位置は、いつもより半歩同村に寄っている。時々触れるその肩にドキドキしながら同村は返した。
「そ、そうだね。また井沢に助けられた、あいつはすごいよ」
「同村くんだって結構飲まされてたでしょ、大丈夫?」
「あ、うん、大丈夫。でもこんなに飲んだのは久しぶりかな、いつも山田と飲む時はあいつが速攻で潰れちゃうから」
そう口にしてから昨日山田から聞いたことを思い出す。美唄に関する悪い噂…でも今隣にいる彼女はそれとは程遠い無垢な笑顔を見せている。
「山田くんかあ、体育会系のスキー部だもんね。それが同村くんと仲良しってなんか不思議。ねえ、馴れ初めを教えてよ」
「それは秘密だな」
「え~ずるいずるい」
同村はそっと微笑む。やっぱり間違いない、どんな疑惑も関係ない、今目の前にある彼女の笑顔は本物だ…そう確信したのだ。
彼らが歩いているのはオフィスビル街、この時刻にはほとんど人通りがなく外灯も少ない。ふいに冷たいビル風が吹き抜け、2人の会話を遮った。そして数秒の沈黙をおいて美唄が言う。
「ごめんね、先生のお酌…うまくできなくて」
意外な話題だった。それ以上に突然しおらしくなった彼女の声に同村は少し戸惑う。
「いや、そんなことないよ。俺だってうまく話せなかったし…。本当に井沢に感謝だよ」
彼女の返事はない。その沈黙を払うように同村は続けた。
「遠藤さんはあんまり好きじゃないの?お酌するのとか」
「別にそうじゃなくて…ハックチュン」
口を開いた美唄はそこで可愛くクシャミをする。
「大丈夫?」
「うん、大丈夫。もう秋だね~こんなに寒くなるなんて思わな…」
言葉を最後まで聞かずに、同村は彼女に自分のハーフコートを羽織らせた。この男、やはり妙な所で大胆だ。
「同村くん…いいの?」
女は度胸の歌姫もさすがに驚いて立ち止まった。
「うん、せっかくだし」
「ありがとう。フフフ…」
「な、何かおかしいかな?」
慌てる同村に彼女は嬉しそうに首を振る。
「ごめんね。なんか、せっかくだからっていうのが面白くて。でも、フフフ…同村くんらしい」
「べ・別に変な意味は…」
慌てふためく同村の隣で彼女は笑い、そっとそれを弱めるとゆっくり彼に背を向けた。そして静かに空を仰いだ。その視線の先には…排気ガスにネオンが映る灰色の夜空。彼女の行動の意図が読めず黙って見守る同村。そのままの姿勢でやがて美唄が言った。
「お月様…見えないね」
また話題が変わった。同村も一瞬空を見上げ、「今夜は曇ってるから」と答える。
「そうだね…。ねえ、同村くんは…どうして医学部に来たの?」
脈絡がわからない。困惑する同村をよそに彼女は無言で答えを待っている。それは禁断の問いであったが…同村はゆっくりとそれに応じた。
「医学に…興味があったんだ。人間のことを知りたかったっていうか、なんか、色々なことを納得したかったんだ。生きることとか、死ぬこととか」
彼女はまだ黙っている。
「人間を知るには医学が一番の学問だと思ったんだよ。だから、だから俺はみんなみたいに…」
「お医者さんになるつもりはなかった?」
息を呑む。彼女の言葉は一瞬にして彼の最大の秘密にまで達したのだ。
「ごめんね、変なこと訊いて。無理に答えなくていいよ」
「いや、その…」
一度深呼吸。そして同村は頼りなくも正直な言葉を続けた。
「驚いたな…図星だよ。俺は医学が学びたいって気持ちだけでここに来てしまった。だから、医者になるぞとか、患者さんのためにとか、そういう情熱が俺には欠けてるんだ」
「やっぱりね。いや、情熱がないことじゃなくて、同村くんってきっとお医者さんになろうって思ってないんだろうなあって…だからみんなと違う純粋な考え方ができるんだろうなあって…ずっと思ってたから。それってすごいことだと思う」
美唄は振り返ることなくそう話した。
「いや全然すごくない…っていうかむしろダメなんだよ。もう5年生なのに未だに医者になる決断ができてないなんて。なのに白衣来てポリクリ回って、患者さんの前に立って…馬鹿みたいだよな、ハハハ」
無理におどけてみせるが彼女は笑わない。
「あたしはね…」
その声は今まで聞いたことのない儚さを帯びていた。そして彼女はまた話題を変える。
「北海道行ったことある?あたしね、北海道生まれなの。
あたしのお母さんは東京出身なんだけど、高校の修学旅行で北海道に行ったの。札幌駅でみんなとはぐれて迷子になっっちゃってね、その時に道を教えてくれたのがたまたま駅にいたお父さんだったの。運命の出会いってやつかな。
それで二人は意気投合しちゃってね。お母さんは次の日の自由行動を抜け出してお父さんと人生初のデートをしたの。お父さんもただの高校生だったからお金なんかないし、笑っちゃうんだけど、自分の住んでる街にお母さんを連れて行ったんだって」
同村はただ黙って聞いている。
「そして二人は正式にお付き合いすることになるんだけど…その初デートの街の名前が美唄っていうの。美しい唄って書いて美唄。お父さんもお母さんもこの地名が好きで、それであたしに付けたんだって。名前としてはちょっと変なんだけどね」
彼女は空から視線を下ろし、少しだけ笑った。
「お母さんは高校卒業したら北海道の看護学校に進学して、お父さんは自衛隊に入って…。そのうちに結婚して、美唄の街で生活を始めたの。そしてあたしが生まれた…。
お父さんは体力自慢の強い人でね、かっこよくて大好きだった。でも、あたしが小学校3年生の頃、訓練中に怪我をして自衛隊をやめることになっちゃって…。自衛隊が生きがいだったお父さんは、他の仕事は長続きしなくて、だんだんお酒をたくさん飲むようになって…。知ってる?自衛隊の人ってすっごくお酒飲むんだよ」
彼女の声が再び沈んでいく。
「気付いたら部屋にこもって朝から飲むようになってた。声をかけてもうるさいって怒鳴って、もう遊んでくれなかった。小学校の卒業式にも…来てくれなかった。
お母さんは代わりに一生懸命働いて、お父さんにお酒をやめるように何度も注意したんだけど、そうしたらだんだんお母さんにも暴力振るうようになって…。お母さん、あたしをかばって何度も殴られてた。あたしが中学生の時についに離婚…当然だよね。それでお母さんとあたしは東京の実家に戻ったの」
同村は思わず「お父さんは?」と尋ねた。
「今は北海道の精神病院にいるんだって…ずっと会ってないけどね」
美唄はまた空を見た。
「それでかな、医学部に来ようと思ったのは…。どうしてお父さんが変わっちゃったのか知りたかった。もしそれが病気のせいなんだとしたら、ちゃんと勉強すれば、お父さんをまた好きになれるかなって。
あたしね…あたし、美唄って名前大好き。子供の頃からお父さんとお母さんがケンカすると、いつも一人で歌って遊んでたの。だから、あたし、歌が大好き。美しい唄なんて、本当に嬉しい名前…。だから、お父さんにもお母さんにも感謝してるの」
彼女は何を言おうとしているのだろう…同村はそれを考え続けていた。
「同村くん、あたしね…」
その声は震えている。そこでまた彼女が少し黙った。何かを言いかけて、その度にやめているようだ。
「遠藤さん…」
「お酒も入ってるし、告白しちゃおうかな」
同村は淡い期待を抱く。愚かな男は自分の脈が速くなるのを感じた。高鳴る鼓動が全身を打ち付けている。
「同村くん、あたしね…」
ついに彼女は振り返る。その顔には渾身の勇気が浮かんでいる。そして両手の拳を握り締め、意を決したようにはっきりとその口は告げた。
「目が、悪いの」

 美唄に見つめられたまま、同村の思考は停止する。「…え?」と間抜けな聞き返しをするのが精一杯だった。
「あの、あのね」
彼女はさらに声を震わせて続ける。
「さっきの飲み会のお酌もね、わざとやらなかったんじゃないの。見えなかったの…あたし、視野が狭くて…薄暗い場所だと余計に見えなくなるの。先生のグラスに注意はしてたんだけど、やっぱり何回も見逃しちゃって」
「視野が…?」
黙って頷く美唄。そこには泣き出しそうなのを必死にこらえるかのような、張り詰めた顔があった。そして震える唇で彼女はその病名を告げた。
同村は言葉を失う。消え入りそうな声の中にかろうじて聞き取ったその病名…知っている。知っている病気だった。だが、詳しい症状などは正直あまり思い出せない。それを察したのか彼女が続けた。
「子供の頃の夜盲症から始まって、ちょっとずつ視野が狭くなって、ちょっとずつ見えなくなる病気…。まあ教科書にはちょこっとしか載ってないけどね」
美唄は笑う…が、その強がりは明らかだった。同村は眼科実習の前に予習した記憶のページを必死にめくる。…そうだ、確かにあった。確かそれは…末期には失明に至ることもある進行性の難病。治療法は…ない。
「最近ちょっと進行が速くてさ…自分でもわかるくらい、一年前より視野が明らかに狭いの。前はテレビ見ながら隣に置いてあるぬいぐるみも見えてたんだけど、今は見えない。視力も下がってて、本読んだりとか…ちょっと不便になってきてるの」
それを聞いた瞬間、同村の頭の中に激しいフラッシュバックが巻き起こった。まるで稲妻のように、この半年間の彼女の姿が次々に浮かんでくる。
初めて一緒に帰った時、彼女は混雑する地下鉄の駅で、歩き難そうに自分の後ろをついてきていた。夜の駐車場やオペ室へ向かう廊下、彼女は暗い場所では必ずみんなの最後尾を歩いていた。一緒に手術見学に入った時、彼女は術野を覗き込もうとして先生にぶつかりそうになっていた。カルテに目を通す時、アカシジアをアカシアと読み間違えていた!ついさっきもそうだ。薄暗い店でメニューを読まずに注文した、肩が触れるくらい俺に寄り添って暗い道を歩いていた…!
なんて馬鹿だったんだ、俺は。どうして気付かなかったんだ、ずっと…見つめていたのに。あんなに一緒にいたのに!山田が言っていた噂…彼女は街ですれ違っても同級生を無視する…あれもそうだ、視野が狭いから彼女には見えなかったんだ!
心を自己嫌悪の拳が容赦なく殴りつける。打ちのめされながら返せた言葉は「そうだったんだ…」だけだった。淡い期待であれだけ高鳴っていた鼓動は、いつしか完全に勢いを失い、今は鈍い後悔を全身に沁み渡らせている。
「だからこれからも迷惑かけちゃうかもしれないと思って、一応言っておこうかなって…」
また無理に微笑む美唄に、同村は混乱する頭を整理するように言葉を搾り出した。
「医学部に来る前から知ってたの?…病気のこと」
彼女は頷く。
「この目ね…お母さん譲りなの。子供の頃からお母さんに似て自分は目が悪いんだなって思ってた。でも医学部に行きたいって言った時にお母さんが教えてくれたの。この病気って、人によって進行のスピードが違うし、お母さんも今のところ普通に暮らしてるから…まあ大丈夫でしょって割とのん気に思ってたんだけど…」
美唄はそこで少し俯く。
「あたしの場合は…ちょっと進行が速いみたい」
「遠藤さん…」
「あ、でもまだ別に今は大したことないから、そんなシリアスにならないで。なんか、キャラ違うよね、アハハ」
今度は彼女が誘い笑いをする…が、それが余計に痛々しい。
「別に隠してるわけじゃないし、音楽部の人はほとんど知ってるの。ほら、ライブハウスって暗いから、言っておかないと迷惑かけちゃうから。あたしが歌う時もね、ステージから落っこちないようにできるだけ照明を明るくしてもらってるの」
彼は思い当たる。そういえば向島は時折暗い場所でさり気なく彼女を気にかけていた。知っていたのだ、このことを。
「14班のみんなにはなんか言い出せずにいて…。みんなと違っちゃうのが怖かったのかな。同村くんは、よく人と違うことがかっこいいって言うけど…」
「いや、それは…」
「いいの、あたしもそうなの。人より目立ちたいとか思うから…だからボーカルとかできるんだし。でも、やっぱり病気が進行してくるとね…みんなと同じがいいなってちょこっと思っちゃったり」
彼女はそこでまた同村に背を向け、そっと空を仰いだ。
「同村くんはちゃんと今年の中秋の名月見た?あたしにはぼんやりとしか見えなかったけど…すっごく綺麗だったよね。
あたし…見ながら思ったんだ。お月様って遠くにあるから手で触れない。弱い光だから、太陽みたいに肌で熱を感じることもできない。風みたいに音がしたり、お花みたいに香りもしない。目で見ることでしかわからないんだなって。
だから…もし目が見えなくなっっちゃったら、あたしの世界からお月様は消えちゃうんだなって」
同村は唇を噛んで黙る。
「別に見えなくなっても死んじゃうわけじゃないし、今日実習で見たような便利な道具だってたくさんあるし…、大丈夫だってわかってるの。それにポリクリでもっともっと大変な状態の患者さんをたくさん見てきたんだから。…この程度でくじけちゃいけないよね。わかってるんだけどさ」
強がらなくても…と言いかけて同村はそれを呑み込んだ。そんな幼稚な理屈はとうに通り過ぎた先を彼女は生きている。
「それに、あたしが苦しんだらお母さんがもっと苦しむから…。お母さんのせいじゃないのに、きっと自分を責めちゃうから。お父さんのことだけでも大変なのに…。大丈夫、あたしは大丈夫なの」
自分に言い聞かせるように彼女は大丈夫とくり返す。同村が見つめるその後ろ姿…この小さな体でたくさんのことを背負って生きてきたのだ。そこで彼の頭にふと浮かぶ言葉。
…『運命』。
いつだったか、彼女はこの言葉を患者に対して使っていたことがあった。人生は変えられても運命は変えられない…と。
「でもね…でもね…やっぱり時々は負けそうになるの。試験でマークシートをずらして塗っちゃったり、誰かの大事な物を踏んづけて壊しちゃったりすると、とっても情けなくなって…。大丈夫、大丈夫なんだよ?」
彼女が大丈夫と言う度に同村の胸が絞めつけられる。
「でももし大学に知られて、大騒ぎになっちゃったらどうしようって…。みんなと一緒に卒業したり、国家試験を受けさせてもらえるかなぁって」
彼女が昨日午前の実習を休んだ理由がようやく同村にもわかった。眼科の手技のクルズスでは、学生が患者役になって診察を体験する。もし眼底を覗かれたら…その特徴的な所見から彼女の病気は露呈してしまうのだ。
「そ、そんな、遠藤さん!」
同村はずっと言葉を探していた。
「え、遠藤さんの明るさとか、元気に、いつも俺たちはパワーをもらってるよ!それってすごいことだよ!きっと少しくらい目が悪くても、君のやれることはいっぱいあるよ。きっと…きっと…」
「ありがとう、同村くん」
美唄は必死の同村に振り返らずに感謝を告げた。
「前にも言ってくれたよね。あたしは人の心をよく見てるって…。あの時、本当に、本当にすっごく嬉しかったんだよ。あたしね、自分の病気を知ってから色々敏感になったの。いかに健康な人の些細な一言が、病気の人を傷つけてるかって…。だから、あたしは目がよく見えない分、人の心をよく見ようって…そんなお医者さんになれるかなって」
「そうだよ!」
「でも、でもね…急にオールラウンド研修が義務化されちゃったでしょ?卒業したら全部の科を回って何でもできる医者を作るって…。あたし、この目じゃ外科の手術とか絶対無理だもん」
同村たちにとってはただ面倒臭いとぼやく程度の新制度。しかし彼女にとってそれは人生を覆すものだったのだ。
「何でもできる医者…国がそれを求めてるんなら、あたしみたいな医学生は…必要とされてないのよ」
同村は言葉が出てこない。ただひたすら己の無力さを感じながら、彼女の背中を見つめていた。
「あ~あ、目が悪くなって、一番未来が見えなくなっちゃったよ」
明るい調子を装っていたが、それは涙声だった。
「どうかな同村くん。今のセリフ、文芸部的には結構うまくない?」
振り返らずに言う…彼女は、泣いていた。やがてグスッグスッと漏れる声が同村に聞こえてくる。その瞬間…。
「美唄!」
そう叫んで同村は彼女を後ろから強く抱きしめた。

「お、俺、何もできないかもしれないけど…絶対、君を守るから。君が笑顔でいられるように、何でも、何でもするから…」
同村は思いつくままの言葉を必死に並べた。それはまとまりなく流れも悪い…文芸部あるまじき乱文だった。
「お、俺、君が…」
同村の腕の中で、美唄は微動だにせず固まっている。

「好きだ!」

夜のオフィスビル街に声が響いた。そしてまた冷たい風が吹き抜けていく。通り過ぎる冷気の中、二人はそのままの状態で動かなかった。
「ありがとね、同村くん」
やがて彼女が静かに言った。その声に同村は腕の力を抜く。
「優しいね、同村くんは…」
美唄はゆっくり振り返りながら、そっと同村の腕を振りほどく。
「びっくりして涙止まったよ」
彼女は笑う…いくつもの涙の筋が彼女の乱れた髪を頬にへばりつけていた。
「ありがとう…同村くん。でも…ごめんね」
穏やかな声がそう告げる。同村はまだ固まっている。
「同村くんは優しいから…でもそれは…恋愛じゃないよ、きっと。あたしもね、今日はちょっと気持ち緩んじゃっただけ」
「いや、俺は…」
「病気のこと言えてすっきりしたよ。そのうちみんなにも話すから。あ、これも…ありがとね」
美唄は同村にコートを返した。
「やっぱり寒いから、あたし、タクシーで帰るね」
力なく受け取りながら同村は「あ、あの…」と伺う。
「じゃあね同村くん、また明日!遅刻しちゃダメだからね」
「待って」
歩き出そうとする彼女の手首を掴む。美唄はそこで振り返る…感情を押し殺した顔で。
「あたし、一人で大丈夫だから」
はっきりそう言うと彼女は精一杯微笑み、「だってまだ10時前だし」と付け加えた。同村も握っていた手を離す。
「じゃあ、おやすみ!」
最後にそう言うと、美唄は振り向かずに明るい通りへ駆けていった。途中で段差につまづきそうになるが、彼女はそのまま走り去る。同村は何も言えないまま、コートを持って立ち尽くすしかなかった。

男は言いました、「今夜は月が綺麗ですね」と。
女は返しました、「私には月が見えなくなります」と。

 午後10時過ぎ、いつもの地下鉄に揺られる同村。車内はそれほど込んではいないが座る気にはなれなかった。車窓に流れる闇を見ながら彼はずっと考えている。
…失恋。いやむしろそんなことはどうでもよかった。窓に映るのは…何もわかっていない、何もしてあげられないちっぽけな男の顔だった。
きっと…同じ立場にならない限り、彼女を理解することなどできないのだろう。
この医学部と言う濁流の中、遠藤美唄は一歩ずつ施す側から施される側に近付きながら歩いているのだ…どこにたどり着くのかもわからない未来へ。
自分が見ることができないかもしれない卒業アルバム、その写真を笑顔で撮影する彼女の気持ちになど…到底届くはずもない。

次の液に到着しドアが開く。その瞬間車内に怒声が響いた。見ると不機嫌そうなサラリーマンが初老の婦人を責めている。
「おいあんた、そこに立ってたら俺が降りられねえだろ!どうしてどけって言ってるのにどかねえんだよ!」
婦人は頭を下げながら呂律の悪い口調で訴える。
「ごめんなさいごめんなさい、私、耳が悪いもので…気付かなくて本当にごめんなさい」
サラリーマンは舌打ちしながら地下鉄を降りていった。悲しさと情けなさで沈む婦人の顔…それを見て同村は思う。
…わかってあげられない、わかってもらえない、これはどうしようもないことだ。
誰もが自分の運命を生きるしかない。他人賀どれだけ考えようと、どんな言葉をかけようと、一人でそれに向き合わなければならない。
遠藤美唄の運命と戦えるのはただ一人、遠藤美唄だけなのだ。

 翌朝、学生ロビーには彼女の元気な声が響いた。空の雨雲も消え、秋の陽光が窓辺に眩しく差し込んでいる。
「おっはよー!」
その笑顔もいつもどおりの100パーセント。みんなが「おはよう美唄ちゃん」、「美唄ちゃんは今日も元気だね」と口々に返す。
「おはよう…遠藤さん」
と、少し小声で同村。
「おはよう同村くん。どうした、元気ないぞ!二日酔い?アハハ…。ほらほら、エイエイオー、エイエイオーイエー!」
美唄は大はしゃぎだ。
「じゃあみんな揃ったので行きましょう。まだ木曜日、眼科実習は終わってませんよ」
まりかが言い、今日も14班は歩き出す…今、目の前にある現実へと。

11月、地域療養センター編に続く!