第6話 恋のアセスメント (精神科)

 いつもの地下鉄の車内。吊り革が揃って小さく左右に揺れている。
「いよいよ精神科だね。せっかくだし、これから一緒にあたしの家で予習しない?今夜は親も出掛けてて誰もいないの」
「そ、それは…」
「あ、でも彼氏が来ちゃうかも。確かバイトないって言ってたから」
ごく自然な流れで彼女はそう言った。
「え?遠藤さんって彼氏いたの?」
「いるよ。言ってなかったっけ?もう半年くらいつき合ってるの」
「そ、そうなんだ…」
吊り革を握る手がじわっと熱くなるが、美唄はお構いなしに話し続ける。
「まあしょっちゅう喧嘩するけどね。何よ、あたしに彼氏がいちゃおかしい?そんなに驚くことじゃないでしょ。それよりさ、どうする?精神科の予習」
「そ、そ、そうだね…」
胸の奥にじわっと広がる苦い感覚。やがてそれは吐き気・動悸・発汗をもたらし呼吸が浅く速くなる。思わずその場にうずくまった。
「ちょっと同村くん、大丈夫?」
色を失い暗くなる視界、ぼやけて消えていく声。ああ自分はこのまま死んでしまうんだ…遠のく意識の中で車内放送が聞こえた。
「間もなく朝、朝です」

…あれ?

同村が目を覚ますとそこは自分の部屋。枕元には、夕べ読みかけて途中でやめてしまった精神科の教科書が『パニック発作』のページで開かれていた。

 さてさて、真夏の夜の夢に苦悩する青年もいるようだが、暦の上では秋である。見上げた空もほんの少しずつ高くなってきている。女心と秋の空…変わりやすい物を喩えた慣用句。だがそもそも心とは何だろう。変わったり、痛めたり、込めたり、配ったり、ここにあらずだったり…目に見えないが、しかし心身ともになんていうからには、人間の健康にとって無視できない大切な物に違いない。今回は心を扱う医療の物語である。

9月第4週の月曜日、朝。彼らは学生ロビーのいつものソファで出陣前の雑談に花を咲かせていた。ただし同村だけはいつも以上に隣の美唄を意識してしまっている。彼女を見るたびに今朝の夢が思い出される。夢に出てくるのは相手が自分の心に忍んで来るから…そんな昔どこかで読んだ一節が脳裏に浮かぶ。
「それって…いやいや、そんなはずはない」
独り言を漏らしながら首を振る不審人物に、井沢が「おいどうした」と尋ねる。
「え?いや…何でもない。それより実は俺、結構精神科に興味があるんだよな」
内心の動揺を誤魔化すように、珍しく積極的に話す同村。
「でも授業で聞いた時はあんまりピンとこなかった。試験勉強も専門用語の暗記ばっかりでさ、これが心の医療なのかって思った。それに、心を表す言葉が色々あって、気分とか感情とか情緒とか情動とか…違いがわからなかったよ」
「あ、あたしもそうだった!」
彼の戸惑いなど知るはずもなく、美唄がいつもの元気で反応した。
「音楽部で色々な曲を歌ったけど、心を表す言葉ってまちまちなの。例えばサザンの『真夏の果実』だと泣きたい気持ちはってなってるけど、聖子ちゃんの『赤いスイートピー』だと泣きそうな気分になるのってなってて、気持ちと気分って違うのかなって思った」
「あべ静江さんの『水色の手紙』だと、泣きそうな心を託します、だよ。あれは名曲だ」
音楽部先輩もコメント。さすがに幅広く聴いていらっしゃる。
「ですよねMJさん。だから歌詞を憶える時にこんがらがっちゃうんです」
「小説でもそうさ、胸の内とか思いとか心持ちとか…言い回しは色々ある。昨日精神科の教科書を読み返してみたんだけど、精神的にって書いてある箇所と心理的にって書いてある箇所があった。…どう違うんだろう」
「文芸部のお前がわかんないんなら、俺はもっとお手上げだよ。うつ状態とか不安状態とか…わかるようでわからん」
井沢がパラパラ教科書をめくりながら言う。長も賛同した。
「確かにな。試験だと患者が落ち込んでるとか緊張してるとか、はっきり問題文に書いてあったから解けたけど…実際の診察だとわからないよな」
同村も頷く。
「ですよね。精神科医は…どうやって心を見極めてるんでしょうか。借りに患者さんが自分は落ち込んでますって言ったとしても、本当に落ち込んでるかどうかなんて…心の中はわからないですから。ねえ、遠藤さんはどう思う?」
「う~ん、難しいよね。血圧みたいに数値で出てくるわけじゃないし、レントゲンの画像で見えるわけでもないし…。う~ん、やっぱり経験…なのかな?ほら、恋愛とかでもさ、数重ねると何となく相手の気持ちわかってきたりするじゃない」
「お、爆弾発言!」
井沢が飛びつく。そして「この発言をどう思われますか、同村先生?」とマイクを向けるジェスチャーをした。ただでさえ動揺していた主人公は「ど、どうして俺なんだよ!俺に訊くな!」とむきになって言い返す。心の中はわからないと先ほど発言した人とは思えないくらい…ああなんてわかりやすい。
「それをいうなら、お前はどうしてさっき美唄ちゃんに意見を求めたんだよ」
「それは…その、遠藤さんはよく人の心を見てるからだよ」
美唄が嬉しそうに頭を左右に揺らす。井沢は二人に視線を送ると、「そういうことにしておいてやる」とニヤニヤ。向島はまた黙って虚空を仰いだ。
「まあでも、本当に先生たちがどうやって心を診察してるのか…俺もすごく興味あるな」
長がうまく場を収束に導く。みんなのやり取りを優しい眼差しで聞いていたまりかも、パンと手帳を閉じて言った。
「じゃあ、それをお勉強しに行きましょうか。みなさん、時間です」
「了解です、まりかちゃん。よし行くぞ、エイエイオー!」
振り上げた美唄の腕が僅かに肩に触れ、同村はまた少しドキッとする。
ではではほのかに恋のニュアンスも感じつつ、健闘を祈るぞ、14班諸君!

 医局での朝礼に参加した六人は、引き続きその場で教授からの指導を受けた。この科の教授の名は吉川、丸い顔と恰幅のよい体型が福の神を連想させる50代の男性医師。その心地良いバリトンボイスと穏やかな語り口、そこにいるだけで周囲にもたらす暖かな安心感は、まさにベテランの精神科医を思わせた。
「うちの科ではレポートも口頭試問もありません。みなさんに実習で経験してほしいことは、何より患者さんとの触れ合いです。精神科全部をわずか一週間で理解しろとは言いません。理解されたら僕の立場がなくなっちゃうしね」
彼の言葉に自然と六人の笑いがこぼれる。
「この社会には精神科の患者さんに対する偏見がたくさんあります。実際に触れ合って、ぜひありのままの心の医療を感じてください。いいかな?ではまた後でね」
残りの説明を講師の比賀にバトンタッチし、教授はノッシノッシと医局を出ていった。多くの職員が倍速で動いている大学病院、だが彼を包む空気だけはのんびり流れている。
「では、一週間のスケジュールを説明するよ」
流暢に話す比賀はまだ40歳手前の男性医師。その鋭い眼光と口振りからは、吉川とは対照的に好戦的な野心が感じられる。
「…だいたいこんなところかな。教授も言ってたけど、病棟の雰囲気を感じてもらえればいいから。まあ精神科は病院によって全然違うから、ここが全てじゃないけどね」
「どのように違うんですか?」
班長が質問した。比賀は一瞬鼻で笑って答える。
「治療理念から病棟の構造まで全然違うのさ。例えば…開放病棟と閉鎖病棟ってわかる?」
「入院中の患者さんが自由に出入りできる病棟が開放病棟です」
「そう。自分の意思で入院した患者の場合は、開放病棟に入院ってのが基本だよね。でもそもそも閉鎖病棟しか有してない精神科病院だってたくさんある。閉鎖と開放じゃ当然雰囲気も変わる。治療のやり方だって病院によって…というか精神科医によって違うんだ」
「定まった方法がない、ということですか?」
今度は同村が問う。
「スタンダードはあるけどね、でも所詮は詭弁さ。結局ケースバイケースでいくしかないから、精神科医はみんな我流になるんだよ。学問としてまだまだ未完成ってことだな。
…おっと、そろそろ外来の時間だ。じゃあ見学に入ってもらうからついて来て」
足早に歩き出す指導医を追って学生たちも医局を出た。移動しながら同村は考える…説明を聞いてもさっぱりわからない。心という謎を扱う医療もまた謎に満ちていた。

 精神科外来第1診察室、担当は吉川教授。壁向きに置かれた机にどっかりと腰掛け、彼は本日初診の様々な悩みを抱えた患者たちにその穏やかなバリトンボイスで応えていく。時には鮮やかな解決法を示し、時には一緒に逡巡し、そして時には思いもよらない道筋へ導く。部屋の隅で見学する同村と井沢は、魅せられたように吉川の横顔を見つめていた。
「失礼致します」
続いて入室したのは60代の会社員。その礼節に満ちた振る舞いと力強い物言いから、職場では重役として活躍しているだろうことが想像できる。彼は正確には患者ではなく相談者であった。
「なるほど…そうですか」
話を聞きながら吉川は深くゆっくりと頷く。相談の内容は彼の息子のこと。司法試験合格を目指しもう一五年も浪人生活を続けている…そんな息子にどんな言葉をかけたらよいのかわからないというのだ。あきらめろと言うべきか、頑張れと言うべきか…会社員は白髪の混じった頭を抱えながら、最後には家庭をあまり顧みなかった自分の子育てへの懺悔を語った。しばし訪れる沈黙。学生二人が息を殺して見守る中、吉川はやがてそっと微笑むと、机に向けていた丸い体を椅子ごと相手の方へ回した。
「子育てというのは…本当に難しいですよね。うちのせがれにも手を妬きましたよ」
そこから語られる彼自身の苦労話。時には切なく時にはつい笑ってしまうその物語は、気付けば会社員の、そして学生たちの口元を綻ばせていた。医者と患者という立場を越え、いつしか二人のお父さんが励まし合う構図になる。そしてほんの時々、吉川は精神医学に基づく助言を与えるのだった。
「本当にありがとうございました、助かりました」
三十分後。何か答えが出たわけではない。それでも会社員は深々と頭を下げて帰っていった。ドアが閉まった後、教授は学生の方に体を向ける。
「まあ今の人は…病気とかではなかったですけど、時々こういったケースもあります。きっとどこに相談していいかわからずに、ここを訪ねてくれたのでしょう」
「先生はどのようなお考えで今の話をされたんですか?」
同村が尋ねた。井沢もその質問に強い興味の表情を見せる。
「そうですね…。あの方はきっと答えなんてないのはわかってて、それでも誰かに聞いてもらいたくて来たんだろうと思いました。だから共感と受容を念頭に置いて対応しました」
「共感と受容…」
井沢がくり返す。
「難しく言えばそういうことですけど、そんなに緻密な計算があったわけじゃないですよ。本来患者に自分の個人的な話をするのはよくないのですが…まあ今の人は患者ではなかったですしね。それに…」
そこで吉川は太い人差し指を立てる。
「大切なのはこちらが話をすることじゃないんです。しっかり話を聞いてあげること。これが精神科医の一番の仕事です」
学生二人は言葉を失い、半分口を開けた間抜けな顔で固まる。精神科医はくるりと大きな体を机に向けると、マイクにそのバリトンボイスを吹き込んだ。
「それでは次の方、1番のお部屋にお入りください」

 こちらは第3診察室。担当は比賀講師、見学はまりかと向島。比賀は机を挟んで患者に対面する形で座り、再診の患者たちを次々とさばいていく。休職中のある青年は、内服を始めてから少し意欲が出てきたと語った。
「そうですか、ではもう少しお薬を増やしてみましょうか」
比賀はボールペンを指揮棒のように振りながら、増薬で期待される効果と副作用のリスクを明快に説明する。患者はそれに同意した。
「それでは今日から一日3錠にしてみましょう。一ヶ月分処方しておきますので、もし喉が渇くなどの副作用があれば早めに受診してください。じゃあお大事に」
カルテの記載を始めた彼に、青年は会釈して退室する。まるで速記のようにペンを走らせながら、講師は後ろの学生たちに尋ねた。
「ええと、ここまでで何か質問ある?」
「一つだけお願いします。先生は心の症状をどうやって診ておられるんですか?」
まりかが言った。
「どうやって所見をとってるかってこと?表情とか、声の調子とか、全体的な印象とか…あともちろん患者自身の訴えとかね、そういうのを総合的にふまえて判定してるよ。前回の落ち込みが3なら今回は2、みたいにね」
「そんなにはっきり数値にできるんですか?」
今度は向島。
「あくまで自分の基準だけど、そういうふうにしていかないとわけがわからなくなるだろ?医学は科学、精神科だからって精神論で解決するわけじゃない。他の科と同じ、効果がある薬を見つけてそれを調整するんだ」
「やっぱり薬で治すんですか?カウンセリングとかはされないんですか?」
まりかの問いに比賀は走らせていたペンを止める。
「基本は薬物療法さ。脳だって心臓や肝臓と同じ一つの臓器。精神科っていうから特殊な感じがするだけで、脳の内科って考えればいい。だからカウンセリングはあくまで補助。
人生の意味とかどう生きるべきかとか、そんなのをクドクド演説する精神科医もいるけどさ…俺は違うと思うな。だって医者なんだから、人生相談なら飲み屋の親父でもできる。思想を導くならそれは宗教だ。医者は病気を診断して治すことだけが仕事」
そこで講師は上半身だけを回して二人の方を向く。
「実は最近脳波とか脳画像で精神疾患を診断する方法がどんどん発展してるんだ。これが確立すれば、長々と患者から話を聞かなくても診断できるようになる。医者によって診断が違うなんてこともなくなるし、薬の効果の判定だってもっとはっきりするさ」
「機械で心がわかるようになるんですか…」
向島が感慨深げに呟くと、比賀はまた鼻で笑った。
「違う違う、心がわかる必要はない。病気の所見がわかればいいんだから」
そう言うと精神科医はまた机に向き直り、素早くペンを走らせた。

 一方こちらは第5診察室。担当は飯森というまだ若い女医、見学は美唄と長。他の診察室と異なりこの部屋には中央に丸いテーブルが一つあり、女医と患者はまるでカフェテリアでお茶をしているかのようにそれを囲んでいる。
「この前の作戦は試してみてどうだったかな?」
飯森は20歳の女性の相談に乗っていた。彼女の悩みは人前で緊張してしまうこと。女医はアドバイスしながら作戦を提案し、患者は実際に試した上での効果や難点を報告し、そしてまた二人で改善策のアイデアを練っていく。
「そうか、『こっそり深呼吸法』は難しかったのね。じゃあ…こんなのはどう?名付けて『頭の中は別世界法』!」
飯森の診察には医学用語がほとんど登場しない。時には実演しながら、女医は患者に作戦やその練習法を指導する。そして患者自身のアイデアもふんだんに取り入れていく。
「ありがとう先生。その作戦、来週の会議でやってみるね。うん、なんとかなりそうな気がしてきたかも。いい報告を待っててね」
患者はそう告げて退室した。まだ元気とまではいかないが、それでも入室してきた時よりは晴れやかな顔になっている。そこで笑顔の達人、美唄が壁際の椅子から言った。
「先生、一つ質問いいですか?今やってらっしゃったのはどういう治療法ですか?」
「どういう…って訊かれても難しいけど、専門用語でいうと自己研究、あと対処ストラテジー増強法かな。要するに自分で自分の症状を研究してもらって、対処法を考えてもらって、うまくいった方法を身に付けてもらうの。成功体験が増えれば、それだけ不安や緊張も弱まっていくから」
「そうですか。ライブのステージでも、最初は緊張するけど色々工夫してうまくいったらだんだん慣れていきますもんね。あれも自己研究だったんですね」
女医は楽しそうに話す美唄を興味深げに見た。
「まあそういうことかな。あなた、軽音楽部なの?」
「はい、一応ボーカルです。先生は何か部活してましたか?」
「陸上よ。といっても私はすずらん医大の出身じゃないけどね。普段は街のクリニックに勤務してて、ここは非常勤」
「へえ、そうなんですね」
美唄のおしゃべりが暴走しそうなのを察知して、長がそこで話題を戻す。
「先生はお薬は使われないのですか?」
「なるべく使わないようにしてるかな。特に若い子にはね。薬が癖になっちゃう子もいるから。精神科医が薬物依存患者を作り出してる、精神科医は白衣を着た売人だ…なんてね、よく他の科の医者から嫌味言われるのよ」
「それはひどいですね」
「そうね。でもそういう面があるのも事実だから、気を付けないとね。
そうそう、世界で一番使われてる抗うつ薬と、ただの小麦粉で治療の効果を比較した研究があるんだけど…結果どうだったと思う?ほとんど差はなかったの。フフフ、だからね私は薬だけを信じたりしない。もちろんカウンセリングだってそんなに信じてない。患者さんが話す言葉だって、どこまで本当かなっていつも疑うの」
「じゃあ何を信じてるんですか?」
美唄がいささか無礼な質問。しかし女医は気にした様子もなく涼しい笑顔で返す。
「なーんにも信じてないの、私。だから重症のうつ病の人がある日突然完治しても、さっきの患者さんの話が全て演技だったとしても、吉川教授が三億円事件の犯人だったとしても…私はちっとも驚かないわ。それが私のスキーマかな」
「スキーマ?」
首をかしげた美唄に、飯森は悪戯っぽく「こら、勉強不足」とたしなめた。そして何も信じないという精神科医は、次の患者も明るい笑顔で迎え入れるのであった。

「う~ん、見事にバラバラだな」
昼休憩の学生ロビー。お互いの外来見学の感想を交換して、まず同村から出た言葉がそれであった。続いて長も梅干しのおむすびを手に言う。
「話を聞くのが大切って言う先生、薬で治すって言う先生、かと思えば薬も話も信じてないって先生もいる…何打こりゃ。いくら我流でもこんなにバラバラなんてなあ…これじゃ誰が一番腕がいいのかわけわからんぞ」
井沢も鮭のおむすびを頬張って頷く。
「そうっすね。ほら、心臓とか脳の外科医なら時々ゴッドハンドがテレビに出るじゃないっすか。でも精神科のゴッドハンドって…一体どんな医者なんですかね」
「確かに、イメージ湧かないね」
美唄がおかかのおむすびをかじって同意。同村がツナのおむすびを握って続く。
「俺が感じたのは…精神科医はみんな日本語が堪能ってことかな」
「どういう意味?」
と、昆布のおむすびのまりか。
「吉川教授も比賀先生も、日本語の使い方が上手だと思わない?何かを説明する時に、的確な単語を用いてるっていうか。発音も明瞭だし」
「さすが、文芸部らしい着眼点だね」
タラコのおむすびを飲みこんで向島が合いの手。同村は少し照れてから続けた。
「午後からは病棟見学ですから…カルテがどんなのかしっかり読ませてもらいますよ」
「うんそれ、あたしもすっごく興味ある」
意気込む美唄の隣でまりかが手帳を開く。
「そうね、精神科はほとんどが病棟の自由見学。これも教授の方針みたいだけど…ほら朝の説明でも、どんどん病棟を歩いて患者さんと話をしてって言われたじゃない?」
「でもそれって不安だよな」
同村が顔を曇らせる。
「心がデリケートな患者さん達に、そんな気軽に話しかけて大丈夫かな?下手なこと言って傷付けたり、怒らせたりしないかな」
「そうだな、急に興奮するかもって思ったら恐いぞ」
そう言って女子二人を見る井沢。
「気を付けなよ。あんまり刺激しないように」
「私は大丈夫よ。でも美唄ちゃんはアイドル級だから気を付けないと」
「もう、何言ってるのまりかちゃん」
やがて全員が食べ終わると、話題もポリクリ以外のものに流れていく。向島はソファで仮眠に入り、同村は教科書を開き、美唄とまりかは女史トーク。そして井沢と長は何やら小声でニヤついている。
「見ました?精神科の受付にめっちゃ綺麗な女の子がいるの」
「さすが井沢先生はお目が高い。確かにあれは美人ですわ」
あんたら…。まあ短い昼休憩、こんな馬鹿話も大事な心の洗濯ということで。

 同日午後。六人は比賀から簡単に病棟を案内されると、後は4時のクルズスまでそこで過ごすよう指示された。すずらん医大病院の精神科病棟は11階にあり、患者たちは病棟内は自由に歩けるが外に出るドアは施錠されている…そう、今朝も話題になった閉鎖病棟だ。病床数は60床。中央にはナースステーションがあり、その前方はデイルームと呼ばれるソファやテーブルが置かれた談話空間となっている。
彼らはひとまず廊下をぐるりと一周。壁には絵画、窓辺には植物、公衆電話に給茶機と、他の科では見かけなかった物もたくさん置かれている。また患者の話し声や洗濯機の機会音、テレビやラジカセの音など、生活音が溢れているのも大きな違いだった。
「麻雀やってる患者さんもいるな。さっき見た多目的室もかなり広かったし、あそこでスポーツとかカラオケをするみたいだな」
長が納得したように頷く。
「ほらあそこ、昼寝してる人がいる。フフフ、MJさんみたい」
長椅子で寝転がる患者を見ながら美唄。まりかも「気持ち良さそうね」と微笑む。
「これが精神科病棟…なんか親父に聞いてたのと全然違うな」
「そうだね…とても平和な感じ」
井沢に続いて向島もしみじみと言う。同村がふと見ると、数名の患者とスタッフが机を囲んでいる小さな部屋があった。何やら語らいの時を持っているらしい。
「あれは何をしてるんだろう」
彼の疑問に、班長が少し考えてから答える。
「集団療法じゃないかしら。ほら、去年授業でもやったじゃない。CBTとか当事者研究とか、精神科にはミーティング形式で行なう治療が色々あるのよ。あれは…依存症の勉強会みたいね。ホワイトボードに『お酒を飲みたくなった時の対処法』って書いてあるから」
「そうか、自助グループ…」
同村は先月の緩和ケア科でまりかと参加したささえあいの会を思い出す。あれは癌という共通項で集った自助グループだった。小俣教授もアルコール依存症患者の集いが自助グループの元祖だと言っていた。やはり百聞は一見にしかず。美唄も強い興味を示してその部屋を覗く。患者たちは時に笑い、時に真剣な表情も見せながら語り合っていた。

 …とまあ新鮮な発見も多い病棟見学ではあったが、さすがに三十分も歩けばもう見る物はなくなってくる。すでに同じコースを三周歩いた。これ以上徘徊していては患者たちも不審に思うだろう。
「さて、どうしますかな班長?まだクルズスまで一時間ありますぜ」
「そうですね長さん。本当はここで色々な患者さんと話をしなくちゃいけないんでしょうけど…正直勇気がいりますね」
珍しく物怖じするまりかに、美唄は「あたし…やってみる」と宣言。そしてデイルームに向かって勇敢なる一歩を踏み出そうとした時、逆に向こうから近付いてくる患者が一名。彼は愛想のよい笑顔で声をかけてきた。
「学生さんですよね?」
六人はややぎこちなく「はい」と微笑む。60歳ほどのその男性は自らを「短気のタン吉です。でも安心して、短気だったのは昔の話」と紹介した。丸顔で細目、笑うともっと目が細くなる。学生たちも順に簡単な自己紹介をすると、その度に彼は握手をして「どうもどうも」とくり返した。
「立ち話もなんですから、どうぞどうぞ」
彼は嬉しそうにデイルームの空いているテーブルにみんなを導いた。そして始まる座談会。タン吉からは「何歳ですか?」「どこの出身ですか?」などの質問が続く。ぎこちなかった六人も徐々に自然体となり、特に美唄などはいつもの笑顔100パーセントを解放して会話を盛り上げた。学生の趣味や部活の話を聞きながら、タン吉はずっと嬉しそうな顔をしていた。そして長丁場に思えた4時までの時間はあっという間に過ぎたのである。

 午後5時、クルズスも終わり本日の実習は終了となる。学生ロビーに戻るためエレベーターホールに出た六人であったが、そこで同村だけはもう少し病棟にいたいと願い出た。
「いいんじゃない?同村くん精神科に興味あるんだし、しっかり勉強したら」
応じるまりか。井沢も長も特に気にする様子はなく、「初日から飛ばしすぎんなよ」と彼の背中を叩いた。向島も「頑張ってね」とウインク。
そんなわけで引き返してきた主人公、その後ろから疲れ知らずの声が飛んでくる。
「同村くーん!」
それはもちろん遠藤美唄。彼女は自分も一緒に残るとガッツポーズ。同村は内心の動揺をまたこっそり抑え込んだ。
「へへへ、あたしわかってんの。同村くん、タン吉さんのカルテを読みに行くんでしょ?さっきはその時間なかったし、精神科のカルテがどんなのか見たいって言ってたし」
「やっぱりすごいや、遠藤さん。心が見えるの?君ならゴッドハンドの精神科医になれる」
「そっかな?でもあたしもカルテ見たかったからちょうどよかった」
ナースステーションは日勤から夜勤への申し送りでやや張りつめていたが、二人は事情を説明し閲覧の許可を得た。そこでスタッフの邪魔にならぬよう、空いている部屋を借りてカルテを読むことにしたのだが…。
「はいこれ、伊藤さんのカルテね」
伊藤というのがタン吉の本名らしい。だが彼らが驚いたのはそこではない。看護師から手渡されたのは、広辞苑かと見まごう厚い暑い書であった。受け取った同村はそのボリュームに落としそうになる。
「こ、こんなにあるんですか?」
「それは7冊目よ。前の分もご所望かしら?」
そう悪戯っぽく訊く看護師に、二人は丁重なお断りを入れるしかなかった。

 帰りの地下鉄。遅い時刻のせいで車内は空いており、二人は並んで座ることができた。例の夢の中では立って話していたので、これで正夢にはならないだろうと同村は安堵する。
「すごい量のカルテだったけど…つき合ってくれて助かったよ、遠藤さん」
「もう、つき合ったんじゃなくてあたしも読みたかったんだってば」
美唄の横顔はいつもと何も変わらない。どうしてあんな夢を見たのか…同村は改めて不思議に思った。そしてふと考える。当たり前のようにこうやって一緒に帰っているが、これは彼女にとって特別なことなのか、普通なことなのか。彼女のプライベートについて自分は何も知らない。家では誰と住んでいて、休日には誰と過ごしているのか。気軽に尋ねればいいことなのかもしれないが、自分には何故かそれができない…。
「どうしたの同村くん?」
お得意の無口になっていたところに、彼女は大きな黒い瞳を向けてくる。
「あ、いやその…遠藤さんて恋愛の達人なのかなって」
いきなり出たのはそんな言葉だった。
「え?ああ、朝の学ロビで話したことね。アハハ、その辺は…ご想像にお任せしまーす。あ、でももし気になる子がいるんならいつでもお姉さんが相談乗ってあげましょう」
忘れがちだが、彼女は浪人しているので同村より一つ年上である。一瞬考えたが、臆病な男は「じゃあいざという時はお願いします」と結局冗談で返した。
「任せといて。でももし同村くんに彼女ができちゃったら、さすがにこうやって一緒に帰るのはまずいかな。それはそれで残念だけど…まあ仕方ないか!同村くんの幸せのためだ」
女性は時々こんなことを言う。その言葉がどういう意味を含んでいるのか、同村は正面の窓に映る自分に尋ねてみたが…困った顔が返されるだけだった。

 火曜日・水曜日も実習の大部分は病棟での自由行動だった。六人が病棟に行く度にタン吉は駆け寄ってきて笑顔をくれる。次第に話をするだけでなく、一緒に将棋盤を囲んだりもするようになった。王手をかけられているのになかなか負けを認めず、「待って、待って、まだ詰んでない」とねばる彼の仕草がさらにその場に笑いを生んだ。またタン吉との触れ合いがよいきっかけとなり、彼らは他の患者たちとも交流を広げていった。
例えば美唄はレクリエーション療法の一つであるカラオケに参加。音楽部で数々の曲を歌ってきた彼女は、歌謡曲でもポップスでも、ロックでも演歌でも何でもござれ。まりかの冗談よろしく、患者からデュエット希望が殺到するアイドルになってしまった。また向島は備え付けの電子ピアノで弾き語りを披露。ビートルズの『LET IT BE』を歌った時には、涙を流して拍手する年配患者もいた。
一方体育会系の井沢と長は運動療法に参加。一緒にストレッチをしたり、ミニバレーボールをしたり、ヨガやピラティスにも挑戦した。同村はその読書力を活かしてたくさんのカルテを読破、同時に文学青年の患者と白樺派の文豪談義に花を咲かせた。そしてまりかは許される限り医師の診察に同席し、家族や支援者との話し合いにも参加した。

そんなこんなで心の医療を体感していく14班。ちなみに比賀による睡眠障害のクルズスがあったので、同村は思わず「夢にはどんな意味があるんですか?」と質問してみた。すると講師はにべもなく答えた。
「夢はレム睡眠の時に脳が記憶と感情を整理する作業だ。意味なんかない」

 そして迎えた実習四日目の木曜日。朝の学生ロビーは井沢のビッグニュースから始まった。女子二人がまだ来ていないいつものソファで、彼は息を弾ませてそれを告げた。
「いいですかみなさん、よく聞いて。実は大変なことが起こりました。精神科外来の受付にいたあの女の子、憶えてますか?」
「あのすごい美人の子だろ?それがどうした」
と、長。同村が「何か事件に巻き込まれたのか?」と尋ねた。
「アホか文芸部、そんなわけないだろ。あの子、鎌田さんって言うんだけどさ、一緒にお食事できることになったんだよ!昨日の外来見学の後、誘ったらOKだって」
「やるねえ。それはおめでとう。頑張ってね」
向島が小さく拍手。
「だから違いますって、そうじゃなくて…いきなり二人で行くわけないじゃないですか。受付の他の子も誘って、その中の一人として来るんですよ。もちろんこっちも複数で参加するんです。そのためにこうして話してるんじゃないですか」
「つまり、俺たちも一緒にってこと?」
苦笑いの同村。次の瞬間、長が立ち上がってナンパの達人を抱きしめた。
「素晴らしいよ井沢!君は英雄だ」
「苦しいですよ、長さん。そういうわけで急なんですけど、明日の夜大丈夫ですか?」
浪人生のボスは「もちろんだ!」と意気込む。まったく年甲斐もなく…あ、こりゃ失敬。
「おい井沢、こんな話のために時間より早く集合させたのかよ」
「こんな話ってな同村、とっても重要な話だろ」
そこで向島が「僕は別に行ってもいいよ」と賛同。
「さすがロックンローラーっすね!よし文芸部、お前ももちろん…」
「俺は遠慮するよ」
「なんでだよ。愛欲に溺れて苦悩して身を投げてこその文豪だろうが」
井沢がノリの悪い男をヘッドロックする。
「いててて、おいやめろ。お前は文豪に対して偏見がある。森鴎外の『舞姫』を読め、あれで描かれてるのはなあ、愛欲だけじゃなく…」
「うるさい。おいこら、せっかくのチャンスを棒に振るのか。それともやっぱり美唄ちゃん優先か?」
「バカ、何言ってんだよ。お前こそ彼女がいたんじゃないのか?この浮気者!」
「人聞きの悪いこと言うな。ただのお食事会だって!彼女とか関係ないの、お前も来い」
「痛い痛い、放せ、放せって。それに明日は予定があるから無理なんだよ」
「嘘をつけ!どうせまた小説を書くとかそんな予定だろ」
「もう二人とも、いつからそんなに仲良しさんになったのよ」
突然のコメントに身を離して振り返る同村と井沢。そこには白衣姿の女子二人。今の声は朝から笑顔100パーセントの美唄のものだった。
「おはよう美唄ちゃん。いや、ちょっとプロレスの練習をね。同村が小説のネタに教えてほしいって言うから、な、同村」
「え?ま、まあ…そんな感じかな」
彼らはすがる眼差しで長と向島を見たが…、年上二人は揃って他人のふりで虚空を仰いでいる。ず、ずるい!
「今日も朝から病棟見学よ。パワー残しておかなきゃ、フフフ」
まりかが全てを察したように悪戯っぽく笑う。そして彼女の「ちょっと早いけどみんな揃ったんならもう行きましょうか」の言葉で、六人はその場から歩き出した。
駐車場に出たところで、美唄が同村の背中を人差し指でつついて言う。
「行ってくればいいのに、合コン」
男性陣の背筋が凍る。
「え、遠藤さん、聞こえてたの?」
「ちょこっとね。いいんじゃない?素敵な出会いがあるかもよ」
楽しそうな美唄。音楽部先輩も何故か加勢する。
「そうそう同村くん、色んな人と話してインスピレーションを受けるのは創作活動のために必要だよ?だから僕も行くんだ」
「でも…明日は本当に予定があるんです」
そう口にしながらも、同村は頭の中で慌ただしく思考を巡らせていた。
…遠藤さんは一体どの辺りから俺と井沢のやりとりを聞いていたんだ?そしてどういう気持ちで俺に合コンを勧めてるんだ?もし本気で言ってるんなら、俺に脈はない。もしわざと言ってるんなら…って、何を考えてんだ俺は!
落ち着け落ち着け、遠藤さんの心を読むんだ。でも…全然わからないぞ。ああ、不安だ、絶望だ。ゴッドハンドの精神科医の力を今だけ俺に宿してくれ!
「もう井沢くん、合コンもいいけどさ、14班のパーティも企画してよ。そうだまりかちゃん、男子が合コンなら、こっちも女史会やろうよ」
「フフフ、いいかもね」
同村の胸中などお構いなしに、美唄はみんなに言葉を振りまいている。
「美唄ちゃん、だから合コンじゃないって!ただのお食事会、健全な社会交流だって。ね、長さんそうですよね?」
爽やかキャラ崩壊の危機に瀕した井沢がすがりつくと、人生の先輩は天高い病院を見上げて呟いた。
「いや~今日もタン吉さん話しかけてくるんだろうなあ、楽しみだなあ」
「誤魔化すなー!」
井沢のツッコミにみんなが一斉に笑う。主人公の来いわずらいはさておき、いつもどおりの楽しい朝のひとコマ。
しかしこの数分後、彼らは深い闇へと突き落とされることになる。

 午後からはカンファレンスルームでクルズス。担当は吉川教授、彼は精神疾患の病態と診断基準を穏やかに語っていく。六人はそのわかりやすい内容に耳を傾けながらも、心の半分は今朝起きた出来事に奪われていた。教授は説明を終えると、それを見透かしたかのように優しく尋ねた。
「今日はみなさん元気がないですね。何かありましたか?」
無言の学生たち。数秒をおいて同村が挙手した。
「先生、質問してよろしいでしょうか?」
それは今朝、彼らが病棟を訪れた時のことだった。そこには実習四日目にしてもう慣れ親しんだ空気があった。ただ一つ違っていたのは、あのタン吉が話しかけてこなかったこと。いつもなら自分たちを見つけるやいなや、笑顔で駆け寄って来るはずなのに。彼はデイルームのソファにいた。こちらに気付いていないのかと思い、みんなで明るく挨拶した。
…しかし彼は何も返さない。それどころか六人に冷たい一瞥をくれると、席を立ってそのまま自分の病室へ帰ってしまった。彼らはそこに取り残されるしかなかったのである。
「…なるほど」
話を聞いた教授は深く頷いた。
「どうして伊藤さんが突然そんな態度をとったのかわからない…ということですね?」
同村が「はい」と答え、五人も同意する。吉川は少し考えてから、急にふっと微笑んだ。
「ではそれを課題にしましょう。みなさんは今日これからの時間を使って、伊藤さんの変化の理由を考えてください。患者を解釈すること…これをアセスメントと呼びます。各自の意見を交え、最終的には全員で合議してください。
この部屋を自由に使って構いません。もちろん伊藤さんのカルテを持ってきてもいいです。あとヒントをここに書いておきますね」
教授はメモ用紙に何やら書き込むと、折りたたんでまりかに渡した。
「まだ見ちゃダメですよ。議論が行き詰った時に読んでくださいね。正解は明日の朝、医局でお伝えします。それではよろしいですか、では始め!」
教授がパンと手を叩く。そしてのっしのっしと部屋を出ていった。足音が遠ざかってから長が口を開く。
「なんか…大変なことになっちゃったな」
「話し合って…わかるものなんですかね」
と、井沢。まりかが「とにかくやってみましょう」、同村も「うん、やろう」と続く。
「あたしも考えてみたい。このままモヤモヤしたまま実習終わるの嫌だもん!」
美唄が決意のガッツポーズ。すると、向島が「それじゃさっそく」と席から立ち上がる。
「何をしてるんですか、向島さん?」
「机のセッティングだよ同村くん。話し合うなら向かい合わせになった方がいい。部屋は自由に使っていいって言われたし」
意図を察して全員で手伝う。そしてその場に即席の会議室が完成した。彼らは気付いていないが、予定外の課題が出されたことに誰も不満を感じていない。むしろどれだけ労力を払っても答えを知りたい…そんな興味に突き動かされていた。そう、これが人を惹きつけてやまない、謎と神秘に満ちた心という宇宙の魅力なのだ。
真剣な面持ちで机を囲む六人。さあ、14班初めてのカンファレンスの開催だ!

「それでは、何故タン吉さんが急に冷たい態度になったのか、今の時点でのみなさんの考えを聞かせてください」
司会はもちろん班長・まりか。すぐに意見が出ないのを確認すると、彼女は自ら先陣を切った。
「では学生番号順にいきましょう。まず私から…。タン吉さんの診断名は統合失調症。その病名を考えると、慢性期に見られる陰性症状ではないかと思います。意欲減退、無為自閉、感情の平板化、あるいは拒絶。だから話しかけられても返さなかった」
何人かが「ああ」と声を漏らす。書記としてホワイトボードにペンを走らせるのは長。続いて井沢が発言する。
「俺は…むしろ陽性症状じゃないかと思う。誰とも話すなとか、そいつらを信じるなとか、そういう幻聴が頭の中に聞こえたんじゃないかな。それで俺たちを敵だと思い込んで…だからそう、被害妄想だ」
統合失調症の症状には陽性・陰性と呼ばれるものがある。陽性とはプラス、つまり幻覚や妄想など本来はあってはならないものがあるという症状。逆に陰性とはマイナス、意欲や活動性など本来はあるべきものがないという症状。
「ちょっと思ったんだけど」
続いて美唄が意見。
「精神科の患者さんだからって心の不調とは限らないんじゃないかな?ほら、体調が悪い時も人間って不機嫌になるじゃない?例えばお腹が痛かったとか、風邪気味とか…そういう可能性もあると思うの」
まりかと井沢が「なるほど」と呟く。続いて長が美唄の意見を書き終えてから言った。
「俺は…何の症状かは判別つかなかった。でも、例えば朝の薬を飲み忘れたとかは考えられないかな?薬の効果が切れて、そのせいで気持ちが不安定になってたとか」
またいくつかの声が漏れる。同村はみんなから挙げられる多様な意見に頷きながら、しかしどこかで違和感も覚えていた。何かが…何かが食い違ってるような…。
「次、同村くんお願いします」
口を開こうとするが…謎のモヤモヤが頭にまとわりついてうまく言葉が出てこない。
「ごめん秋月さん、まだまとまっていなくて…。何か、何かが変な感じはするんだけど」
「焦らなくていいわよ。じゃあ先に向島さんお願いします」
「そうだね…まだ出ていない意見としては、不眠ってことはないかな?僕もしょっちゅう徹夜するからわかるんだけど、睡眠不足だと変なテンションになるよ」
長が「有り得ますね」とそれも板書。みんなホワイトボードを見る。陰性症状、陽性症状、体調不良、薬の飲み忘れ、不眠。かくして同村を除く五つのアセスメントが出揃ったわけだが…。
「この中に正解があるのかな。どうだ同村、他に思いつきそうか?」
長が尋ねたが、主人公はまだ黙って考えている。その後もいくつか症状を推察する意見は出たが、誰も答えを一つに絞り込めない。
「そろそろこれ…見ちゃおうか」
まりかが教授から渡されたメモを取り出す。全員一致で見ることが即決した。折りたたまれたそれを開いた瞬間、才女のメガネの奥の瞳が大きく開く。「どうしたの?」と尋ねる美唄に、班長は興奮を抑えきれずに発表した。
「じゃあ読みます…『答えは病状とは限らない』」

「…そうか!」
同村が突然声を上げた。吉川のヒントを聞いた瞬間、頭にまとわりつく違和感の正体がわかったのだ。井沢が「どうしたんだよ」と彼を見る。
「俺たちは相手が患者だってことで先入観を持ってた、特別扱いしてたんだ」
「だからどういうことなんだよ」
急かす井沢。向島が小さく挙手した。
「同村くん、つまりこういうこと?僕たちは無意識に、タン吉さんの態度が冷たくなった原因を、病気のせいだと決め付けてたと」
「そうです。普通、例えば友達が冷たくなったからって病気が原因とは考えません」
井沢がはっとする。まりかに美唄、長も同じ衝撃を受けたようだ。そして同村は掴んだ自らの違和感の正体を白日の下に引きずり出す。
「タン吉さんに冷たい態度をとられて俺たちは落ち込んだ。でもそれが病状なら仕方ないこと。例えば友達が風邪引いたからって、心配はするけど落ち込みはしないもんな。なのに俺たちは落ち込んだ。タン吉さんとの人間関係を損なったと感じていたんだ。
でも今みんなでタン吉さんが冷たくなった理由を考えていた時、誰もが無意識に病状を挙げていた。一方で人間関係の問題と感じながら、一方で病気の問題として考える…だからモヤモヤしてたんだ」
この男の隠された能力が垣間見えた瞬間だった。しかし当の本人は集まる驚きの視線にも気付かず、相変わらず自信のない顔をしている。
「…でも同村、原因が病状じゃないとすると、例えばどんなことだ?」
「長さん、それは色々考えられますよ。例えば…他の患者さんと喧嘩しちゃったとか、仲の良かったスタッフが退職したとか、あと…悪い夢を見たとか。それで落ち込んでたのかもしれません。あるいは暗い雰囲気だったのは演技で、実はかまってほしくてわざとあんな態度をとった可能性もある」
井沢も「そういうことか」と納得し、また別の可能性を挙げてみせる。今日は特別な日、例えば大切な人の命日だったんじゃないか、悲しい記憶を思い出したんじゃないか、などなど。他の探偵たちもそれに続く。先ほどとは全く別の視点でのアセスメントがいくつも挙がり、長の板書も追いつかなくなってきた。そして各人の脳がどんどん活性化し、勢いも最高潮に達した頃…彼女が次なる次元へ進む意見を出した。そう、遠藤美唄である。
「…ねえ、原因があたしたちの方にあるってことはないかな?」

「病状悪化とか、嫌なことがあったとか、全部タン吉さん側のことでしょ?でも人間関係がうまくいかない原因ってさ、大抵お互いにあるじゃない?だからひょっとして…」
今度は彼女の才能が発揮されたようだ。五人は意外な着想に言葉を失う。
「あたし、昨日美容室でちょっと髪の色を明るくしたから…タン吉さんはそれが不快だったのかも」
心配そうな顔になる彼女に長が言う。
「いや、俺の方こそタバコの臭いが残ってたのかもしれない。病棟は禁煙だろ?だから…」
「それより、僕の徹夜明けの充血した目が怖かったのかも」
と、向島。伏せ目がちにまりかも言った。
「もしかしたら…私たちがこれまで話しかけ過ぎてたのかもしれないわ。タン吉さんは楽しんでくれてると思ってたけど、本当は無理してたのかも」
ベクトルが反転し、今度は自分たちへのアセスメントが並べられる。そして一通りペンを走らせた後に長が投げかける。
「相手の原因、こっちの原因…色々出たけど、他にも見落としてることはないかな」
まりかが「そうですね…」と呟き、すぐに思い出したように声を大にした。
「カルテ…カルテよ!ほら、吉川教授も読んでいいっておっしゃってた」
「そうよ。心と体、病気と健康、相手と自分ときたら…次に考える視点は現在と過去!あたしたちは今のタン吉さんしか見てなかったのよ」
美唄が言い終える前に同村が「俺が取ってくる」と席を立った。そして間もなく戻ってきた彼はその厚い書を広げる。
「同村くん、タン吉さんの過去を知るためには生活歴のページがいいと思うの」
身を乗り出す美唄に同村も頷いてその箇所を開く。
「このカルテは七冊目なんだけど、実は俺、空いた時間に前の六冊もざっと目を通したんだ。みんな、それも踏まえながらちょっと読み上げてもいいかな?」
異議を唱える者などいない。そして同村はタン吉こと伊藤の出生から現在までの経歴を朗読する。精神科のカルテはただ症状や検査結果だけが記されているわけではない。そこには患者の人生がある。どこで生まれ、どこで育ち、誰と過ごし、学校や職場でどんなことをしてきたのか。そして発病、初診、通院から入院、家族の現状。さらにこの三十年に及ぶ入院生活、行なわれた治療、退院が実現できない現実の壁。
…室内には同村の声だけが続く。彼は朗読の合間に自分がカルテで目にしたエピソードも挟んでいく。その時系列に沿った語りは明快で、これまで何人もの登場人物たちの人生をまとめてきた文芸部のノウハウがここでも活かされていた。
「三十年…」
朗読が終わり、最初にそう漏らしたのはまりかだった。
「あんなに優しくて、明るくて…そんな人がずっと病院の中で暮らさなくちゃいけないなんて。寂しくないはずない。つらくないはずない。もし自分だったらって考えたら…」
唇を噛む。それは彼女が初めて覗かせた弱さだった。美唄も口を開く。
「それなのに話しかけてくれてたんだよ、あたしたちに。あんなに笑ってさ。どんな…気持ちだったんだろう」
「強さなのか…いや、弱さなのかもね…」
向島が溜め息。
「何にも…わかってなかった」
同村が臆病に、しかしはっきりと口にする。
「俺たちは何にもわかってなかった。態度が冷たくなったことを考えるんじゃなくて…どうして笑ってくれていたのかを考えなくちゃいけなかったんだ」
「そうだな」
井沢も肩を落として言う。
「もしかしたら…ずっと病院にいるタン吉さんから見たら、自由がある俺たちがうらやましかったのかもしれない。今朝俺たち浮かれてただろ?合コンの話とかでさ。それがタン吉…いや、伊藤さんに伝わったんじゃないかな?それが…苦しかったのかもな」
彼は自分を恥じるように机の上で拳を握り締めた。長は板書用のペンを置く。人間の心がこんなホワイトボードにおさまるはずもない、そんな無力感の表れであった。
じんわりと降りてくる重たい沈黙。寂しさ、悲しさ、切なさ、悔しさ、苦しさ、申し訳なさ…思い思いの表情を浮かべてみんな打ちのめされている。気付けば時計は夕方5時を回っていた。
「…まとめましょうか」
力なく班長。無言で同意する仲間たち。
想像も遠く及ばない長期入院の果ての感情…。汲み取ろうとすることさえおこがましいのかもしれない。その途方もない命題に、彼らは一つの結論を出した。

 午後7時、同村はコンビニ弁当を提げてアパートの自室に戻った。帰りの地下鉄では美唄はいつもどおり明るかった。その笑顔が気を抜いたら黙り込んでしまいそうな自分の元気を引き出してくれていたこと、そしておそらく彼女自身も、そうやって元気を保とうとしていたことを同村は気付いていた。
着替えをしてもすぐに食事をする気にはなれず、いつもの椅子に腰を下ろす。
「何にも…わかってなかった」
再びそうくり返す。そして頭の中に実習初日の吉川の言葉が過る。
…「この社会には精神科の患者さんに対する偏見がたくさんあります」。
自分に偏見はなかったか?森鴎外の『舞姫』を読んだ時、「エリスは発狂した」という一文をそのまま読み流していなかったか?タン吉さんのことを…自分と同じ一人の人間として接していたか?自分には薄っぺら委同情と軽はずみな興味しかなかったんじゃないか?
「ごめんなさい…」
同村は詫びた。彼だけではない。同時刻、14班のメンバーはそれぞれの心の海にやりきれない感情を浮かべていた。そして病棟実習の中で一緒に過ごした、たくさんの患者たちの顔を思い出していた。
そう、あの時…同村と将棋をしたタン吉はなかなか負けを認めなかった。みんながもう王手だと伝えても、将棋版を隅々まで何度も何度も見返していた。そんな意固地な姿がまた笑いを誘った。そして彼はくり返し言っていた。
…「待って、待って、まだ詰んでない」と。

 長い一夜が明けて金曜日、朝の精神科医局。
「…なるほど」
代表で発表した同村の意見を聞き、吉川は興味深そうに頷いた。
「随分たくさんの視点から考察されましたね。笑っていないのが当たり前である…ですか、うん、深いアセスメントです」
「あの先生、それで正解は…」
尋ねる同村。残る五人の視線も集まる。吉川は福の神のような微笑みを浮かべ、「正解はですね…」とみんなの顔を見た。
「僕にもわかりません」
まりかが思わず「えっ」と漏らす。
「ごめんなさい、でもわからないというのが正解です。伊藤さんがどうして冷たい態度になったのか…みなさんのアセスメントどおりかもしれないし、違うのかもしれません。もしかしたら伊藤さん自身にもわからないことなのかもしれません」
「それじゃあ…」
言いかける同村に、教授は太い人差し指を立てた。
「人の心なんて、わからないものですよ。でもそのわからないものを扱うのが精神科です。みなさんは今回の話し合いを通して、たった一つの出来事にも色々な捉え方があることに驚かれませんでしたか?お互いの意見を聞いて、自分には思いつきもしなかったと感じませんでしたか?実はそれこそがこの課題の本当の目的だったんです」
暖かいバリトンボイスが放たれる。隣で比賀はやれやれといった顔をしている。どうやら吉川はこんな課題を出すのがお決まりらしい。
「みなさんは確実に伊藤さんへの理解を深めました。そしてお互いに対する理解もです」
六人は反射的に視線を送り合う。
「心を測る物差しはみなさんそれぞれが持っている心です。それを持ち寄って答えのない謎解きをする…それが心の医療です。だからみなさんそれぞれの物差しを大切にしてください」
「バラバラの物差しでいいんですか?」
井沢が尋ねた。
「もちろんです。君にも君だけの物差しがある。それでしか測れない心もきっとあります。ね、比賀先生?」
「へいへい、どうせ俺は教授と違ってドライですよ」
悪態をつく講師を先輩は優しい目で見た。
「だからいいんですよ。だから一緒に働く意味があるんです。みなさんも…ね」
そこで六人はまたお互いを見た。そういえばもう9月の末、気付けばここが上半期最後の実習である。なんやかんやで一緒にここまで旅してきたのだ。
「通常、大学病院の精神科に入院しているのは急性期の患者さんです。積極的な治療が行なえない慢性期の患者さんには療養型の病院へ移ってもらうのが普通です。でも僕はね、それではいけないと思っています。患者さんのためにも、僕たち精神科医のためにも、みなさん学生のためにもです。だから無理を言って長期入院の患者さんたちの治療もさせてもらっています。今日みなさんのアセスメントを聞いて、やっぱりそれでよかったと感じましたよ。ありがとう」
嬉しそうに一礼する吉川。学生たちは慌てて頭を下げた。
「さあみなさん、精神科の最終日です。今日は一日、心ゆくまで病棟で過ごしてください。それで実習は完了、お疲れ様でした!」

 11階に上がった六人。胸中に沈殿していた心配は、病棟に入った瞬間に吹き飛ばされた。タン吉が笑顔で駆け寄ってきたのだ。
「今日で実習終わりなんでしょ?寂しくなるなあ」
みんなも笑顔を返す。伊藤の細目もまた細くなる。
「同村先生、最後にもう一局、勝負しましょう」
「わかりました、手加減しませんよ!」
無口な男は腕まくりして応じる。答えなんて出ていない。自分の心だってよくわからない。でも今は精一杯この時間を過ごそう…そう決めたのだ。
「じゃあ俺らもまたバレーボールに参加するか」
長に誘われて井沢も「おっす!」と胸を張る。周囲にいた患者たちも声を掛けてきた。
「一緒に歌おうよ、アイドル先生」
カラオケのお誘いだ。美唄は「了解です、任しといてください!」と笑顔100パーセント。するとまりかも「私も…一緒に歌おうかな」と少しはにかむ。
「やった、まりかちゃん!じゃあみんなで一緒にカラオケしましょう!」
お得意のエイエイオーが炸裂、その声は病棟中に響き渡った。拳を天に振り上げる彼女に患者たちが優しく拍手してくれる。まったく…どっちがケアされてるんだか。
「じゃあ僕も歌おう!」
「え~MJさんもですか?マニアックなのはダメですよ、みんなの知ってる曲ですからね」
そんなやりとりをしながら、彼らはそれぞれの活動に散らばる。そして今日一日、心から患者たちと触れ合った。

心…見極めることなんてできやしない。心に嘘をついたり、心が嘘をついたり、もうわけわかんない。
でもひとつだけ確かなことがある。ね、14班諸君?同村、美唄、井沢、長、まりか、そして向島…みんなバラバラの心を持っているけど、一つだけ同じところがある。
それは、心は心を思うということだ。

 …とまあ、精神科編はここで綺麗に終わってもよかったんですが、今月はもう少しだけ続きます。無事上半期最後の実習を終えた14班メンバーは、それぞれのフライデイナイトを楽しんでいます。その模様をお届けしましょう。

まずはこちら、今回珍しく活躍した主人公・同村。実は今夜彼はある人物と夕食の約束をしていた。それは山田…読者のみなさん、ご記憶ですかな?3月のポリクリ説明会で登場した同級生、その時点では彼の唯一の友人であった男。同村が井沢からのお誘いを予定があるからと断わったのは、どうやら嘘ではなかったようだ。
「ういっすドーソン、久しぶり。元気だったか」
4年生までは時々こうやって飲んでいた二人だが、ポリクリが始まってからはなかなか都合がつかず、今夜は半年ぶりの会食。馴染みの焼き鳥屋で勢いよくジョッキをぶつけた。
「うまい、やっぱりここのビールが最高だべ」
さっそく焼き鳥をつまみながら山田が言う。たまに学生ロビーですれ違ってもその時はお互い白衣のポリクリモード。しかし今の彼はダボダボのTシャツにハーフパンツ、足にはビーチサンダル、手にはクロムハーツとまさにあるがまま。
「山さん、相変わらずだなあ。ポリクリでもそんな感じなの?」
「そんなわけねえ、病院ではおとなしくしてるぞ。本当はサンダルで歩きたかったけど、班の奴らに止められた。教授に目を付けられたら困るとか何とか…臆病過ぎだべ」
「でもその顎髭は?剃らなくて大丈夫だったの?」
「ちゃんと朝剃って行ってるのに、午後にはまた生えるんだよ!それで何回もオーベンから怒られたべ、剃って来いってな」
「ハハハ、君は髭が濃いからな」
「そういうお前はどうなんだ、ポリクリの具合は?」
山田は焼き鳥の串で同村を指して問う。
「結構楽しそうにやってるよな、学ロビで見かけると」
「うん…メンバーには本当に恵まれたよ」
同村はビールを一口飲む。山田も「よかったな」とそれに合わせる。
「お前の班は女が二人だし、余計に楽しいんかもな」
「別にそんな…」
「いいからいいから教えてくれよ。秋月と遠藤ってどんな感じ?」
強引な友人の追及に同村はジョッキを置く。そしてゆっくり口を開いた。
「秋月さんは…この半年間一緒に過ごして印象がかなり変わったよ。真面目で優秀なのはイメージどおりだけど、それは彼女の医学への情熱以外の何物でもないんだ。勉強しかやることのない退屈な優等生じゃないし、ましてや留年を恐れて言われるままに勉強してるわけでもない。あの情熱は本当にすごいよ。
それに実際接してみたら、秋月さんは明るいし、優しいし、話しやすい普通の女の子だった。どうしてこれまで同級生と交流しなかったのか、逆にそれが不思議だよ」
一息ついて続ける。
「あと遠藤さんは…その、何手言えばいいのかな、まさに驚きの連続みたいな人だ。周囲も気にせず大はしゃぎしたかと思えば、ちゃんと人の心の変化を見ていたりする。輪の中心にいる盛り上げ役かと思えば、みんなで歩く時黙って後ろを付いてきたりする。ステージの上では飛び回る歌姫だし…ギャップだらけでどこが基準なのかがわからない。
でも彼女と接していると、今まで知らなかった自分が何人も現れるんだ。まるでグイグイ控え室からステージに引きずり出されるように」
山田は串をくわえながら楽しそうに聞いていたが、そのエッセイのような語りが一段落したところで、直球を投げつけた。
「それで?お前は遠藤に惚れてんの?」
決断できず何事にも腰が重い同村とは対照的に、山田は即決して無遠慮に尻を叩く。言うなればすくみ足と勇み足でこの二人の歩調のバランスはとれているのだ。
「いきなり何言ってんだよ山さん!」
「そんな言葉はいらんから、そのジョッキ飲み干してさっさと答えろ。イエスかノーかそんだけだべ。他に誰も聞いてないし」
確かにここは山田が見つけた穴場の店。花の金曜日だというのに、狭い店内には初老の店主を除いて彼らしかいない。
「そういう問題じゃないだろ。どうしていきなりそうなるんだよ」
「あのなあドーソン、何年お前とつるんでると思ってるんだ?話が進まんから早く言え」
ガムのように鳥肉を噛む山田。観念した同村はジョッキを空けてから静かに告げた。
「…じゃあ、イエス、かな」
「おっしゃ!」
手を叩くと山田は「おっちゃん、生を二つ!」と注文。そして届いたジョッキを強引に友人に握らせると、思い切り自分のジョッキをぶつけた。
「よかったべドーソン。お前なかなかそんな気持ちにならんからなあ」
「でも…まだそうかなってくらいだよ。自分にはない力ばっかり持ってる遠藤さんに興味があるのは事実だけど。それが恋愛感情かどうかよくわからない。そもそも気持ちがどこまで達したらみんな好きって判断してるんだろう」
「お前も相変わらずだな。小説の中だと平気で色々書いてるくせに。そんなの考えるもんじゃねえべ、精神科の診断基準じゃねえんだから。なんつーか、こう、勢いでいいべ」
そこでまた「そうかなあ」と考え込んでしまう男を山田は叱咤する。
「軽はずみに動かねえのはお前の長所だけどよ、タイミングも大事だべ。男と女はなあ、ちょっとしたタイミングでつき合えたりつき合えなかったりするんだから。そう、この焼き鳥の肉とネギみたいなもんだ。いいか、女はなあ…」
山田がこの意味不明な人生語りモードに入ってしまうと、しばらくはその酒まかせの自論を黙って傾聴せねばならない。同村くん…ご愁傷様です。でもひとまず認めることができてよかったね、自分の気持ち。その小さな恋の火を大切に!

 所変わって、こちらは井沢主催の『あくまでお食事会』。バーカウンターに生のピアノ演奏まで揃った店のチョイスを見ても、彼の気合いは尋常ではない。白いテーブルクロスを挟んで男女三人ずつが体面に分かれて座る。全員にシャンパンが用意されると、男チームの真ん中に座った井沢が乾杯の音頭を執った。
「みなさん本日はお集まりいただきありがとうございました。実習中ご縁のできた受付の女性方と楽しくお話しできたらと思ってます。それでは女性方の更なる美貌と僕たちの実習終了を祝して、カンパーイ!」
控えめにグラスが合わさる。そしてまずは全員の自己紹介で会話を持たせながら、さすがの井沢は気さくにパスタやワインを女性陣に振る舞っていく。
「あ、私やりますよ」
立川と名乗った女性が申し出るが、彼は「いいからいいから」と爽やかな笑顔を返す。自己紹介の後も長が会話を盛り上げ、向島の音楽トリビアも予想以上に功を奏した。
やがてお酒も進み、少しずつ砕けた雰囲気になってくる。女チームの左右の二人は時には声を出しての笑顔まで見せてくれるが、その中心…つまり井沢の体面に座っている女性だけは未だポツリポツリとコメントする程度。そう、この会を開くきっかけとなった美女・鎌田である。彼女は高貴なオーラをその身にまとい、グラスを高めに掲げながらワインをそっと唇に運んでいる。その仕草一つ一つで彼女の美しさはさらに増していく。
女チームは、まるで大切な姫君を両サイドから護衛するような布陣を敷いていた。対する男チームはなかなか解禁されない美女の笑顔を求め、更なる策を弄していく。…愚かだねえ。あ、こりゃまた失敬。
「実は私たち3人、同じ専門学校の先輩後輩なんです」
立川が紅潮した顔で楽しそうに言った。どうやら笑い上戸らしい。もう一人の女性・伊武も「まあ腐れ縁だね」と合わせる。彼女はややハスキーな声が特徴だ。
「そうなんですか、確かに今、医療事務の勉強する人増えてますもんね」
と、長。続いて井沢が勝負の一手に出る。
「先輩後輩で同じ職場なんですね。じゃあ鎌田さんが一番後輩?」
そこで姫君はグラスを置いて微笑んだ。
「いいえ、一番先輩よ。歳も私が一番上」
…頑張ってくれたまえ、愚かな男どもよ。

 一方こちらは、西新宿の老舗ホテルラウンジの喫茶店。美唄とまりかがテーブルを囲んでいる。飲み物はアルコールではなく紅茶とコーヒー…そう、彼女たちの目当てはこの店のスイーツバイキングだ。
「ああおいしい、幸せ~」
生クリームたっぷりのイチゴタルトを噛みしめながら美唄。そこにはもちろん笑顔100…いや120パーセントには達してるなこりゃ。
「やっぱり甘いものは元気出るね。このミルフィーユもおいしいよ」
才女もご満悦。
「ねえねえ、あっちの方にはアイスもあるみたい。あ、おはぎまである…すっごーい!」
「まあ焦らずゆっくり味わいましょう」
「了解です、班長!」
ハイテンション娘に落ち着きの特待生…この二人もよいバランスなのかも。メディカルガールズは確実に血糖値を上げながら会話に花を咲かせていく。
「でもまりかちゃん、あっという間に上半期は終わりだね。なんかこの前14班が結成された感じだけど…もう半分か。下半期もきっと気が付けば終わってるんだろうな」
「その後は6年生だから、国試の勉強で今とは違う忙しさになるね」
「そうなったら14班も解散かあ、寂しいな」
少し目を伏せた美唄にまりかが優しく返す。
「まだ半年あるよ。それに来年も教室では一緒なんだし」
「そうだね…でもあたし、この班になってすっごくよかったって思ってる。まりかちゃんともこうやって仲良くなれたし」
「私、取っつきにくかったでしょ。…ごめんね」
今度はまりかが視線を落とす。美唄はブンブン顔を横に振り、「こっちこそいつも大騒ぎしててごめんね」と告げる。そして一瞬の沈黙の後、二人同時に吹き出した。
「アハハ。そういえばさ、井沢くんたちの方はどうなってるのかな?受付のあの綺麗な人と仲良くなれたのかなあ」
「フフフ、どうかしら」
そこでコーヒーに口をつけてからまりかは続けた。
「でも大学病院の受付って色々大変なんだろうね。あんなにたくさんの患者さんが来るんだから、電話とか窓口の対応も忙しそう」
「そうだね。それにレセプトもやんなくちゃいけないし」
「…レセプト?」
特待生は耳慣れない言葉を聞き返す。美唄がシュークリームをかじりながら説明した。
「医療費って患者さんに請求するのは一部でしょ。残りは保険からお金が出る。それをもらうためには、どういう病名に対してどういう治療を行なったかを、病院がちゃんと審査する人に報告しなくちゃいけないのよ。その報告のことをレセプトっていうの。
例えばね、睡眠薬が処方されてるのに、病名に不眠症がなかったらおかしいでしょ?そうなるとレセプトが切られてお金ももらえなくなるの。だからね、医療事務の人はちゃんとカルテを読んで、必要な病名を拾い出さなくちゃいけないの。もしお医者さんが病名を付け忘れてたら、催促したりもするんだって」
「へえ…。でも例えば、うつ病とかって不眠を伴うのがほとんどじゃない?それでも睡眠薬を出す場合は、うつ病以外に不眠症の病名も付けなくちゃいけないの?」
「う~んとね、確かお薬にもよるの。うつ病だけでいい睡眠薬もあれば、必ず不眠症の病名が必要な睡眠薬もあって。そういう場合はレセプト対策として不眠症を付けるみたい。だから患者さんには正式な病名と、嘘じゃないけどレセプト用の病名の二つがあるの」
「美唄ちゃん詳しいんだね」
「お母さんが看護師だったからちょっと教えてもらったことあるの。あんまりうまく説明できてないかもしれないけど…アハハ、まりかちゃんにも知らないことがあるんだね」
「そんなのいっぱいあるよ」
美唄は得意げに「エッヘン、まいったか」と両手を腰に当てる。対するまりかはペコリと頭を下げて「まいりました」。そしてまた二人同時に笑った。
仲良きことは美しきことなり。

 所戻って合コン…ではなくお食事会。奇しくもこちらでも話題は同じ方向に転じている。
「だからね、精神科はますますレセプトが難しいわけよ。そもそもはっきり見極められないのが心なんじゃないの?でも病名がないとレセプトは切られちまう」
なんとこの発言をしているのは鎌田。実は彼女は一度口を開けば止まらない性格であった。自分のイメージ崩壊を防ぐため必死に黙っていたのだが、ついにダムは決壊した。
「鎌田先輩、ほら、またなっちゃってますよ。もう、喋らなければモテモテなのに」
大笑いの立川。
「うるせえ、バレちまったら仕方がないさ。それでね、レセプト用の病名を教授に訊きに行くんだけど、あの人笑ってばっかでさ」
圧倒される男チーム。向島は「音楽も心も解釈は自由ですよ」と小粋なコメントをしてみるが、姫君は「そんなこと言ってんじゃねえよ」と一蹴。
「みなさんごめんなさいね、先輩は悪い人じゃないの。むしろこのギャップが魅力だから」
伊武がフォロー。最初はひき気味だった男チームもその饒舌な毒舌がだんだん面白くなり、長が「俺の姉ちゃんが生命保険会社で働いてるんですけどね…」とネタを披露する。
「不整脈がある人は加入できない保険があって、ある人が不整脈がないのにその保険に入れなかったんです。どうしてかっていうと、その人は高血圧の薬を飲んでて、それが不整脈の治療にも使われる薬だったんですよ」
「薬から逆に病名を付けられちゃったんですね」
頷く井沢。立川が「確かにレセプトと似てますね」と興味深そうにコメント。伊武も「保険会社って杓子定規ねえ」と続いた。
「こちとらのお上はもっと杓子定規よ。ちゃんと正しい治療をして報告してるのに、病名が足りねえからってレセプト切りやがってさ。病名パズルなんかより、ドクターにはもっと患者さんのために頭使ってほしいことがあるっつーの!」
「そうしないと嘘をついて不正な請求をする病院が出てくるんじゃないですか?」
向島が尋ねた。
「不正請求なんて、医療事務のプライドにかけてするかっつーの!そんなことして患者さんに顔向けできるか?胸張ってお金払ってくださいって言えるか?」
そこで長が「まさに医事の意地ですね」とオヤジギャグを一発。立川のツボには入ったが姫君は「うっさいオッサン!」とお冠。
「大体根本から間違ってんのよ!おかしいでしょ?患者さんのことを思ってじっくり話を聞いてあげる病院が潰れて、ろくに話も聞かずに薬ポンポン出す病院が儲かるなんて」
井沢は病院経営に悩む父親の姿を思い出していた。医療と経営…この水と油の混じり合った荒海を泳ぐ大変さを、学生の彼らはまだよく知らない。
「課長はすぐ経費節減ばっか言うけどさ、患者さんのためのお金は必要経費だっつーの。減らすんなら医局のコーヒーを自費にしろ!当直室にゲーム機なんか置くな!」
口は悪いが彼女の主張は清々しいほど間違っていない。そしてその端々から患者への誠意が感じられる。大学病院という巨大な組織の中にいて、この女性はプライドと信念を燃やし続けているのだ。後輩二人が彼女を慕うのも納得。
「やべー、惚れそうです、俺。すごいっすね鎌田さん!」
井沢が絶賛。まあこれはむしろ男が男に惚れる感覚に近いから、浮気ではないということで。「ばーか」とワインを飲む美女に、隣の伊武が尋ねる。
「そういえば先輩、また比賀先生から食事に誘われてませんでした?」
「行かねーよ。それより医学生、お前らも女と遊んでる暇があったら勉強して偉くなれ。そして厚生労働省の役人にでもなってこの医療システムを変えるんだ」
「わかりました。じゃあ鎌田さんもそれまで医事の意地を維持してください」
長が再びギャグを放つ。また立川が笑い、オッサンは姫君からおしぼりを投げつけられる。そしてそれが合図だったかのように、場はどんどん盛り上がっていった。最後には向島が店のピアノを勝手に弾きだす始末…それはまさに荒波で闘う女性たちへ捧げる『威風堂々』であった。
最初はその美貌に惹かれ、続いてその言動に幻滅し、最後にはその正体に触れて好感…愚かな男どもの心はそうやってアセスメントを変えながら、最終的には幸福に染まったようです。それではこちらからのレポートはこの辺にしておきましょう。

 戻りましてしがない焼き鳥屋。演説を終えてすっかり出来上がった山田に肩を貸しながら同村は店を出た。
「おい大丈夫か、山さん」
「うい~すまんすまん、久しぶりに飲んだべ」
新宿3丁目の路地を抜け、大通りに出る。
「ここならタクシー拾えるぞ。タクシーで家まで帰るだろ?」
「ダイジダイジ、まだ帰らねえよ。これからお前の部屋で飲み直すべ」
ダイジ、とは山田語で大丈夫の意味。そして実際にはこの言葉が出る時は大丈夫ではないと同村はアセスメントする。
「飲まれ直す、の間違いだろ。全くもう…またこのパターンか」
ぼやきながら親友を抱えて夜の道を歩く彼の頭に、懐かしい記憶が再生された。
そうあれは入学間もない頃、親睦を深めるという名目で1年生全員が参加させられた宴会。未成年で人見知り、しかも医学生はみんな医者になると知って愕然としていた頃の同村は、誰とも話せず孤独な一次会を過ごした。そして二次会に行く団体とも離れ帰ろうとした時…会場に1つのリュックが残っているのに気付いた。迷彩柄のそれを持っていたのは確か飛ばして飲んでいたあいつだと思い当たり、一応トイレを見に行くと、そこにはまだお互い名前も知らない山田が酔い潰れていた。そして山田は翌朝同村のアパートで目を覚ます…。そう、これこそがドーソンと山さんの友情の始まりであった。
「フフッ」
同村は思わず笑う。そしてまた独り言の決めゼリフ。
「そうだよな、友情にも理屈なんかないもんな」
数値や画像で証明できなくても、精神科医が診断できなくても、確かにここにはそれがある。山田の顔を見ると、ミスター勇み足は小声で何やら呟いていた。
「頑張れよドーソン。え、え、遠藤と…」
「はいはい了解。ほら山さん、もう少しでアパートだ!」
これはこれで幸福な夜ですね。それではこちらのレポートも終わりにしましょう。

 そして最後はホテルの喫茶店。メディカルガールズはラストオーダーのホットココアを味わっていた。
「クーラー結構きいてるから、ココアがあったかくておいしいね」
微笑むまりかに美唄も頷く。そして少し心配そうな顔で訊いた。
「今日は急に誘っちゃってごめんね。もしあたしがうっとおしかったら遠慮なく言ってね」
「もう美唄ちゃん、そんなことないよ。誘ってくれて嬉しかった、これ本心」
「…よかった」
「美唄ちゃんのパワーは幸せをたくさん作ってるよ。ほら、4月のゲームセンターの時だって、あのおかげでみんながまとまり始めたと思うな。そうそう、ラブちゃんは元気?」
あの日みんなで獲った天使のぬいぐるみ…それは変わらず美唄のベッドの枕元に置かれている。そのことを伝えた後で美唄は改めて尋ねた。
「ねえ…まりかちゃん、あたしのことどう思う?アセスメントしてみて」
その瞳は真剣だ。まりかもそれを感じ取り、カップを置いてからゆっくり答える。
「そうね、美唄ちゃんは…可愛くてオシャレでいつも元気一杯でとっても素敵な女の子だと思う。私なんかとても敵わない魅力だらけ」
黙ったままの彼女にまりかは続けた。
「でもまあ、あえて言うなら…もうちょっと弱さを見せてもいいかな?フフフ、いつもパワー全開じゃ疲れちゃうでしょ。信じてる人には弱点見せてもいいと思うよ」
「…ありがとう」
どこか安心したような顔で美唄は答えた。
「もう何言わせるの。じゃあ次は美唄ちゃんの番、私のことどう思う?」
「う~ん、そうだなあ…」
美唄はいつものノリに戻って大袈裟に首を傾げた。
「まりかちゃんは勉強も実習も一生懸命で、本当にすごいって思う。それにすっごく優しくて…もしあたしが患者さんだったら、絶対まりかちゃんに診てもらいたい」
そこで真顔になって続ける。
「だから…もっと自分を押し出していいと思うよ。半年間一緒にいて、どうして今までずっとクラスで周りと話してなかったのかなとか、どうして部活入らなかったのかなとかすっごく不思議だった。本当にまりかちゃんはすごいんだから、もっと強気でいいよ!」
美唄はココアを飲む。そして「アハハ、真逆のアドバイスになっちゃったね」と笑った。
「ありがとう。別にクラスのみんなとか部活が嫌いなわけじゃないの。ただ…」
「うん、人それぞれ事情はあるもんね。いいよ、無理しないで」
「うん…いつか、話せたら話すね」
そう返すまりかに、美唄も「あたしもいつか話せると思う」とカップを差し出した。
「友情の証に…乾杯してくれる?」
「もちろん。これからもよろしくね」
カップが合わさる。そして揃ってココアを飲みほした。
「フフフ…今の美唄ちゃんのセリフ、同村くんみたい」
「え、そうかなあ?」
閉店のアナウンスが流れ始めた。まりかは悪戯っぽく言う。
「今日みんなで解散する時、結局同村くんは合コン行かないってなってたでしょ。それ聞いた時の美唄ちゃんの顔…私、見ちゃったんだ」
「もうまたまりかちゃん、何よ?」
「…ほっとしてた。この症状から見て病名は恋、っていうアセスメントはどう?」
「さあね、心はわかりませーん。あ、もう時間だからお店出ないと怒られちゃうよ」
美唄はバッグを持つ。まりかも「あ、ずるい!」と腰を上げた。

一緒に出口まで歩き出した時、美唄が小さく口にする。
「一応…恋ってことにしとこうかな」
そして嬉しそうな顔をする友人に、彼女は笑顔90パーセントで付け加えた。
「でも、レセプト用の病名ね」

10月、眼科編に続く!