第五章 殺意噴出

 1997年11月12日(水) 午前8時43分

2年4組の教室、授業は始まったばかりだというのに福場は全く身が入っていなかった。科目が苦手な古典だからというのもあるのかもしれないが、彼の頭はまだ昨日の悪戯のことでいっぱいだった。
「ただ私は、あの悪戯をしたのが誰にしろ、真相を突き止めて綺麗に解決したいんだ」
頭の中でくり返される沖渡の言葉。これはそっくりそのまま福場自身の願いでもある。しかし福場は真実を知ることに少なからず自分が恐れを感じていることもまた認識していた。
もしこのままもう何も起こらなければそれでいいか…、ふとそんな思いにかられる。無理もない、委員の中の誰かがあれをやったとしたら…それが誰にしろもう冗談では済まされない。ショックが大き過ぎる。いつもの遊び気分で推理を楽しんでいた自分を福場は恨めしく思った。そして出口遊の席を見る。
(そういえば、今日あいつは休みなんだな…)
空っぽの机を見ながら、福場はそっと目を閉じた。

 司書室、岡本は一時限目に授業担当がなく一人自分のデスクにいた。原田は授業に出たため不在。今朝学校に来た時、彼女はやはり不安だった。遠目に図書室のドアが開いていないことを確認できた時には胸を撫で下ろした。そして彼女は司書室に入り、壁のガラス越しに図書室内に異常がないことを確認すると、もう一度改めて安心したのだった。
デスクの時計が午前9時を指した。「そろそろ図書室のドアを開ける時刻ね」と独り言を言うと、彼女は腰を上げ、廊下に出て図書室のドアに向かう。使用するのが未だに予備の鍵であることに昨日の光景が現実であったことが思い起こされるが、とりあえず今日はこのドアの向こうは平和な図書室なのだ。岡本は鍵を勢いよく鍵穴に挿し込んだ…、いや、挿し込もうとした。しかし、入らない。
手元がずれているのかと思い何度か試みるが…やはり入らない。おかしく思い彼女はよく鍵穴の部分を観察する。
すると…鍵穴がない。正確に言うと、鍵穴が塞がれているのだ。穴に紙粘土のような物が詰められている。
「嘘、そんな…」
思わず声が出る。岡本は急いで普段は開放しない図書室の後方のドア、そしてそのすぐ隣にある書庫のドアも確認する。
…嫌な予感は的中した。いずれのドアも同様に鍵穴が紙粘土のような物で塞がれている。
(どういう…どういうこと?)
彼女は結論を出すより先にまず司書室に戻り、そこから図書室に入った。見たところ室内に異常はない。カウンター周辺、窓、長机、本棚…一通り見回ってそれを確認すると今度は書庫へ繋がる鉄扉に向かう。しかしそれは…開かない。
図書室と書庫を繋ぐこの鉄扉は、書庫側からしか施錠できない。しかも鍵などは存在せずドアノブのツマミを回すタイプだ。彼女は速くなる鼓動を全身で感じながら考えた。
(生徒たちが書庫の本も閲覧できるように、この鉄扉は普段から開けっ放しにしてあるはず。閉じることもなければ、施錠などすることもない。
待て待て焦るな、これは昨日大掃除の時に、委員の誰かが施錠して帰ったのだ、そうに違いない…)
自分に落ち着けと何度も言い聞かせる。小さく深呼吸すると、とりあえず現状を把握しようと頭の中を整理していく。
(図書室の廊下側にある前後二つのドアの鍵穴が塞がれている。書庫の廊下側のドアも同様だ。そして図書室と書庫を繋ぐ鉄扉は書庫側から施錠されている。つまり…)
そこまで考え至って岡本は息を呑んだ。一つの結論が導かれる。
(つまり、書庫には完全に入れなくなった…!)

 福場が眠りに落ちかけた瞬間、突然勢いよくドアが引かれて沖渡が現れた。彼は自分の担当授業時間を勘違いして場違いな教室に登場するというポカを時々やらかしていたが、今回はそんな様子ではない。彼は何のためらいもなく室内に踏み込んでくる。
「沖渡先生、どうされました?」
教壇に立っていた古典教師の佐々木が戸惑いながらそう尋ねると、沖渡は何やら耳打ちする。佐々木の瞳に驚愕が浮かんだ。無言で頷き合うと、沖渡は戸惑う生徒たちに向き直る。そして直線的な顔で口を大きく開いて言った。
「図書委員の生徒は、今すぐ私と一緒に来てくれ」

 福場が沖渡と廊下に出ると、そこにはすでに瀬山と須賀、1年図書委員の四人全員が集合していた。
「あれ、出口くんは?確か4組でしょ?」
「ああ、今日休みみたいなんだ、あいつ」
須賀の質問に福場が答えると沖渡が言った。
「そうか、ならしょうがない。あとは5組の西村と水田で全員だな、図書委員会に3年生はいないから」
そう言いながら沖渡は隣の2年5組に向かう。どうやら一時限目は移動教室ではなく全員自分の教室での授業だったらしい。
「先生、何があったんですか?授業中に呼び出しなんて…」
と、福場。
「話は全員揃って、図書室に行ってからだ」
沖渡は振り向かずにそう答え、猪突猛進で5組の教室に踏み込んでいった。その背中を見ながら福場の心には好奇心よりはるかに大きな恐怖心が膨らんでいた。
(まさか…また図書室で何かが?まさかまた…『大工』か?)

「何だこりゃ、鍵穴が塞がれてる。どういうことっすか?」
現場を見た平岡がまず第一声を上げた。
「どういうことって、見たまんまだろう。またやりやがったのさ、『大工』が」
そう答えたマニアックマンは怒りをあらわにしている。
「まったく、いい加減にしろよな」
と、いつも穏やかな瀬戸川も珍しく不機嫌な様子。
委員たちが口々に言葉を発する中、その様子を見ていた沖渡は静かに言った。
「ふう…、やっぱり誰にも心当たりはないか。昨日と同じだな」
その横で岡本が言う。
「すいません沖渡先生、また頼ってしまって。数学準備室は近かったですし、先生は昨日のこともよくご存じですから、つい…」
「それは全然構いませんよ。むしろ光栄です。それよりも岡本先生、一つ整理させてください」
数学教師は教科書を読み聞かせるように慎重な語り口で続ける。
「図書室の前後二つのドア、そして書庫のドアの鍵穴が塞がれています。いずれのドアも開きませんから、施錠された状態です。そして図書室と書庫の間の鉄扉もどうやら施錠されている…。この状況では完全に書庫に入れなくなってしまったということですよね?」
「そう…、そうなんです…。あっ」
岡本はそこで確認しなければならないことを思い出した。
「ちょっと、みんな聞いて!」
彼女は大きな声でそう言い、騒ぐ委員たちを注目させた。
「昨日、書庫と図書室の間の鉄扉を誰か閉めた人いる?」
…誰も答えない。いつもと違う岡本の強い語調に圧倒されて委員たちはオロオロと顔を見合わせるばかりだ。
「あ…」
ようやく小笠原が何か思い付いたように言いかけたが、西村が先に話し始めた。
「昨日書庫の掃除をしている間、確かに鉄扉は閉じてました。けど…施錠までは確認していません。ねえ、小笠原さん」
後輩は一瞬間をおいて、「そうです」と同意する。彼女たちの意見に福場が付け加えた。
「昨日の大掃除の時、最後まで残っていたのは僕と出口と瀬山でした。帰る時、確かに鉄扉が閉まっているのは見ました。なあ、瀬山」
福場は昨日、図書室を出る前に室内を見回した時のことを思い出しながら言う。委員長も黙って頷く。
「ですが…施錠してあったかどうかまでは…」
「分かったわ、ありがとう」
岡本がそう答えると、続いて沖渡が言った。
「ちょっとその鉄扉を見せてくれませんか?もちろん今までにも見たことはあるんですが、改めて」
彼の言葉に従い、全員で司書室経由で図書室に入り、書庫へ繋がるその鉄扉まで行く。
「なるほど…、こちら側からは施錠できないんですね。ノブに何も付いてない」
「ええ、向こう側からだけです。それも鍵じゃなくツマミを回すタイプで…」
岡本の答えを聞きながら、沖渡は床に型膝を付いて何度かノブをガチャガチャと回してみる。その姿はさながら金庫のダイアルを合わせているようだ。周囲は固唾を呑んで見守るが、もちろんそんなことで開く仕組みにはなっていない。やがてあきらめたように立ち上がると沖渡は言った。
「とりあえず書庫の中を確認した方がよいでしょう。この鉄扉か、廊下側のドア、どちらかを破って…」
「え…破るんですか?」
「岡本先生、おそらく書庫の内部に異常はないと思いますが…一応念のために。それにこれがまた『大工』の悪戯だとすると、前回よりグレードダウンしているようでしょう?昨日は包丁や赤い塗料まで用意したのに、今回はただ単に鍵穴を塞いだだけ。悪戯ってのはどんどんエスカレートするもんです」
「じゃあ、書庫の中にまた何か…?」
「不安にならないでください。あくまで念のためですよ」
数学教師の目がやや鋭さを持って岡本を見る。
「そう…ですよね」
彼女は無理に微笑む。沖渡は続けた。
「ええ。いずれにしてもこのまま書庫に入れない状態では困ります。いつかはこじ開けなくちゃなりませんから。え~と、どっちのドアを破ろうかな」
それは誰の目にも明らかだった。図書室と書庫を繋ぐドアは『書庫』の名に相応しく金庫のように重くて頑丈な鉄扉。斧でも使わなければ破れまい。対する廊下側のドアは図書室や他の多くの教室と同じ二枚組の引き戸。銀色のアルミ製で、上下に大きなスリガラスが一枚ずつはまっている。つまり漢字の『日』のような形状だ。スリガラスをうまく割れば入室はそんなに難しいことではない。
全員で再び司書室経由で廊下に出て書庫の前まで来る。沖渡が背広の上を脱いで言った。
「じゃあ、ドアを破ろうか。男子、手伝ってくれ」
沖渡が侵入口に選んだのは二枚の引き戸のうち左側のドア、その下の方のスリガラスだ。ガラスの四隅を慎重に沖渡・福場・瀬戸側が割る。そしてスリガラスをゆっくり取り外すとそれを委員長・マニアックマン・平岡に渡した。
「痛っ」
ふいに平岡が顔をしかめた。沖渡が目を丸くして言う。
「おい、大丈夫か」
「ええ、ちょっと指を切っちゃっただけです。あっちゃ~、結構血が出てる」
「気を付けてくれよ。よ~し…」
スリガラスを外したことで生まれた80センチ四方の穴から沖渡がさっそうと書庫の中に入る。追って福場が、そして瀬戸川が続いた。委員長とマニアックマン、平岡は外したスリガラスを持つ係になってしまったので機を逸したようだ。女子たちは少し離れてその光景を無言で見守る。

「どうですか福場先輩、特に何もないみたいですね」
「ああ、そうだな。うん、大丈夫みたい。よかったよ、また赤い塗料でもぶちまけられてたらどうしようかと思った」
書庫は通常の教室の半分ほどの広さしかない。中の空気は外気より少し肌寒い。唯一の天窓からの光を受けて蔵書たちが薄暗さの中にその背表紙をわずかに浮かび上がらせている。
「先生、大丈夫そうですね」
福場が沖渡に問いかける。
「ああ…。…ん?」
本棚の間を抜けて書庫の奥へ進んだところで、沖渡がピタリと足を止める。
「こ、こりゃあ…えらいことだ」
「どうしたんです、先生?」
福場が駆け寄ると、沖渡が床の何かを凝視したまま叫んだ。
「来るな!それよりも救急車だ!瀬戸川、急いで岡本先生に救急車を呼んでもらえ!」
怒声が狭い室内に響く。
「えっ、あ、はい」
何が何だかわからない様子ながらもその勢いに圧倒されて瀬戸川は破ったドアの所まで戻る。
「一体どういうことですか、先生!」
福場が沖渡の横から覗き込んで目にしたものは…。

そこには真っ白な顔をした出口遊が横たわっていた。