第四章 大掃除の邪念

 放課後、大掃除の時刻となり委員たちは図書室の掃除にかかっていた。瀬戸川・平岡・そしてマニアックマンこと久保田の1年男子三人組は、秋の香りが舞う図書室前の廊下をホウキで掃いている。
「なあ、あの包丁の悪戯のことだけど…」
マニアックマンがまた専門家っぽい口調でその話題を出した。
「犯人はあれをやるために図書室の鍵を盗んだと考えて間違いない。鍵はいつも司書室に置いてある。知ってるよな?いつも定位置の棚の上に置いてある。
俺が思うに、司書室から鍵を盗める人間は限られる。部外者にはまず無理だ。となると容疑者は俺たち図書委員か、昨日司書室に出入りした生徒、または教員」
「…そうだよな。司書室は大抵岡本先生か原田先生がいる。留守の時は鍵をかけられてるはずだし、全くの部外者が出入りしていたら誰かが気付くだろうしなあ」
と、瀬戸川。マニアックマンは頷いて先を続ける。
「そう、盗んだのは内部の人間さ。そしてもちろん…岡本先生と原田先生も容疑者に含まなくちゃいけない」
「まさか、それはないよ。だって岡本先生は昨日鍵がなくなった、誰か知らないかってみんなに尋ねてたじゃないか」
「それも演技かもしれない。司書室にデスクがあっていつでも鍵を盗める立場だからこそ、あえてそんなカムフラージュをしたのかもしれない」
「でも久保田、あんな悪戯を先生がするか?」
平岡がちり取りでゴミを集めながら割り込んだ。瀬戸川も同意して続ける。
「俺もそう思う。昼休憩に集まった時に水田先輩も言ってたけど、相当な理由がないと普通あんなことはしないよ。フゾクの先生たちはアカシア大学教育学部から派遣されている言わばエリート教師だ。あんなことするわけがない」
「じゃあやったのは図書委員の誰か?」
平岡が問う。瀬戸川は少し考えてから答える。
「そうも思えない。あの貸し出しカードのことにしても、悪戯でやって名乗り出ないのは変だよ。断定はできないけど、『大工』は図書委員の誰かじゃないと思う。委員のみんなは悪戯好きかもしれないけど、包丁を突き立てるなんて系統が違う」
「じゃあ、昨日司書室を出入りした図書委員以外の生徒が怪しいってこと?もしそうなら…」
「待てよ、二人とも」
制するマニアックマン。
「エリートだとか系統が違うとか、そんな心象を論理に持ち込んじゃダメだ。犯人は誰も知らない動機を腹に抱えてるのかもしれない。だから動機のあるなしの議論も無意味だ。あくまで物理的に、あの悪戯を実行できた人物を絞り込むんだよ」
「そうは言ってもなあ…」
平岡が言いかけたところで、数学準備室から出てきた福場に気付く。
「あ、福場先輩、何やってるんすか?掃除してくださいよ」
「ああ…今やるよ。遅れてごめん」
福場はそう言いながらゆっくりと三人の間を通り過ぎ、そのまま司書室へ入っていった。長い前髪のせいでその表情は読み取れない。マニアックマンがバンダナを整えながら呟く。
「なんか…元気ないみたいだな。やっぱり今朝のことがショックなのかな、いろんな意味で」

 数分前。
司書室では図書委員の女子四人が掃除をしていた。岡本はデスクに座り、掃除をする彼女たちをぼんやりと見守り、その後ろのデスクで原田は外を見ながらタバコをくゆらせている。
彼が原田英三(はらだ・えいぞう)、岡本と同じくこの部屋がポストのもう一人の教師だ。担当は英語。若い頃は二枚目で通っただろう彫りの深い顔が少し怖い印象を与える50歳過ぎである。午前中はずっと授業だった彼は午後になってようやく岡本から今朝の詳細を知らされた。そのことを思ってなのか、さらに彫りを深くした険しい表情で窓の外を睨んでいる。
「ねえ、男子たちは図書室の掃除してるの?」
西村が濡れ雑巾で棚を拭きながら尋ねる。
「まだみたい。1年の男子はさっき廊下やってた」
壁のガラス越しに図書室を確認して答えたのは、同じく濡れ雑巾担当の須賀。水田と小笠原は黙々と床にホウキを動かしている。
「2年の男子は?もしかしてまだ来てないとか?」
「委員長はさっきワックスを取りに行ってた。福場くんと…出口くんはまだ見てない」
出口は小笠原と同じく今年度後期から図書委員会に入った新人だ。しかも昨日のように数少ない会議にも欠席が多いため、クラスが違う者たちにはまだ馴染みが薄いようだ。委員会は10月1日を境とする前期と後期でメンバーを変えるのだが、出口と小笠原以外の委員は全員前期からスライドしている。気楽な図書委員会がみんな性に合っているのだろう。また仕事の少ない図書委員会に入っておけば、他の面倒な委員会に入らされることはないというのも密かな理由なのかもしれない。出口が図書委員会に入ったのも、大方そんな動機だろうとみんな考えていた。
「全員集まってから図書室の掃除するのかなあ。私…あんまりあの机見たくないけど」
岡本と原田を意識してか、西村は声を落として言った。
「でもしょうがないよ。あのままだったらもっと気持ち悪いし」
須賀がそう言い終わると同時に、廊下からのドアが引かれ福場が現れた。
「先生、遅れてすいません」
福場の言葉にはっとしたように岡本はデスクを立つ。
「来たわね、福場くん。今瀬山くんがワックスを取りに行ってるわ。あと出口くんが来たら全員で図書室と書庫の掃除にかかりますから」
「遅れて来た福場には、人一倍働いてもらわんとなあ」
原田が室内に振り返り、ようやく顔を綻ばせてガハハと笑った。だが、他の誰も合わせて笑うことはなかった。

 ワックスの入ったバケツを右手に、左手にはモップ二本を持って図書委員長・瀬山は階段を上っていた。ワックスを1階で配るのは4階を掃除する生徒にとっては嫌がらせのようなものだ。やらなくてはいけないこととはいえ、これからまだまだやることがあると思うと彼は少し苦痛を感じる。これからの作業の段取りを瀬山は頭の中で整理していた。
「モップ持ちますよ、委員長」
突然声をかけられ振り返ると、出口が五段ほど下に立っていた。
「遅れてすいません。ちょっと用があったもんで…」
何の用があって出口が1階から現れたのか、瀬山にさほど興味はなかった。
どうせこの変わり者のことだから売店でジュースでも飲んでいたのだろう…、そう思いながら瀬山は二本のモップを出口に手渡す。そして少し落ち着いた口調で言った。
「これから図書室の掃除だから。一応、まあ、覚悟というか…」
「ああ…あの長机のことね。それなら大丈夫です、多分」
「まったく、『大工』の奴が余計なことをしてくれたせいで面倒だよな」
瀬山はそう言いながら出口を見た。彼はモップをうまく持とうと何やらやっている。瀬山の話を聞いていた様子はない。
(変わり者だな、本当に…。まあ、その方がいいのかもな)
優等生としての重圧を少なからず日々感じている瀬山は、そんなことを考えながらバケツを左手に持ちかえた。

 午後3時40分。図書委員全員が司書室に集合した。今日の昼休憩から再びである。先ほど委員長と出口が運んできたワックスとモップは廊下に置かれていた。岡本が口火を切る。
「じゃあ瀬山くん、どういった手順でやりましょうか」
「基本的にやることはいつもと同じですが…」
と、あらかじめ整理しておいた段取りを委員長が説明する。
「まず2年男子で司書室・図書室・書庫のドアを外して廊下の壁に立てかけます。それを女子に両面濡れ雑巾で拭いてもらいます。ここまではいつもどおりで、先生、…例の長机はどうしますか?」
そこで原田が一歩前に出た。
「それは俺が説明しよう。あの長机は図書室から出して1階まで運ぶ。そんなに重くはないはずだから男子二人もいれば足りるだろう。それから駐車場の隅まで運んで、そこでホースで水をかけながら塗料を洗い落とすんだ。終わったらまた図書室まで持って上がる…」
「つまりあの長机はこれからも使うってことですか?」
「ああ、備品は大切にしなきゃならんからな。新しい机を請求したらあの悪戯のことも大学に報告することになる。…それはちょっとまずい」
大人の事情を吐露してしまう原だの言葉、そんなことだろうと瀬山は思っていた。
「じゃあ、俺その机を洗う作業やります!出口も一緒にやろう」
福場が名乗りを上げた。先ほど沖渡の話を聞いて少し暗い気分になっていた彼であったが、やはりこういう特殊作業は彼の好むところなのだ。出口も同類であり、福場の誘いに大きく頷いた。それを見て委員長が言う。
「じゃあ、二人はドア外しが終わったら机洗いに行ってくれ。1年男子はドアの敷居の溝に溜まった埃や砂を取って綺麗にしてもらおう。それが終わったら僕と図書室内の掃除。女子四人はドア拭きの後は書庫の掃除。ワックスをかけるのは図書室のみ。
…こんな手順ですかね、先生」
委員長の的確な采配を岡本が確認する。
「そうね。机洗い以外はいつもと同じだからね、それじゃみんなでかかりましょう」
「そうだ、ゴミ袋、誰かもらってきてくれ。保健室で配ってるから」
そう言って原田が生徒たちを見回した。
「お、目が合ったな。そこの1年男子三人組にお願いしよう」
彼らがいつも行動を共にすることを原田も把握しているらしい。
「保健室って、1階の奥っすよねえ、遠いなあ」
「若いもんが何を言っとるんだ」
嘆く平岡を原田がたしなめてまたガハハと笑ったが、やはりここでも合わせて笑う者はいなかった。

 改めて大掃除が始まる。まずは閉じられていた図書室のカーテンと窓が開け放たれた。室内には午後の光と風が待ち焦がれていたようになだれ込む。その中で原だが例の長机から『大工』と書かれた包丁を抜き取り、タオルでくるんで自分のデスクに保管した。もちろん錠の付いた引き出しに。それにより室内の嫌な空気も幾分澄み、委員たちはそれぞれの持ち場に散った。
さっそく1年男子三人が保健室へ向かい、2年男子により廊下側のドアが外されていく。外すドアは司書室に一つ、図書室は前後に二つ、書庫に一つの計四つ。二枚で一つの引き戸式なので計八枚を外さねばならず、文科系の彼らにとってはこれだけでも重労働。それが終わると福場と出口は赤く染まった長机を搬出し、女子四人は外されたドアを雑巾で水拭きしていく。間もなく1年男子三人も戻ってきてドアを外した敷居の溝の掃除にかかる。

…委員長の的確な指示と采配もあって作業はつつがなく進んだ。しかし掃除をする間、各々の持ち場での話題の中心はやはり今朝の悪戯のことであった。

 校舎が夕焼けに染まる時刻。福場と出口が洗い終わった長机を抱えて4階へ戻ると、すでに図書室の前方のドアを残して他のドアは敷居にはめられていた。委員たちの姿も見えない。唯一開いているそこから二人が机を図書室に搬入すると、そこに一人残っていた委員長が窓を閉めていた。
「お、帰ってきたな、お疲れさん。机…綺麗になったじゃないか」
「なかなか塗料が落ちなくて大変だったよ」
福場が机を地面に下ろして息を吐く。「自分で立候補したんじゃないか」と瀬山が笑う。
「他のみんなはもう帰ったの?」
と、出口。
「ああ、少し前にね。じゃあその机を戻して僕たちも終わりにしよう」
委員長も加わって長机をいつもの位置に戻し、とりあえず見慣れた平和な図書室の風景が戻った。まあ、よく見れば長机の中央に包丁の傷跡が残ってはいるのだが…。

 三人で図書室の中庭に面した窓、そして廊下に面した窓の施錠を順に確認していく。全ての窓の確認が終わると、委員長が言った。
「よし、OKだな。では大掃除終了」
彼が脱いでいた学ランを着終えると、三人はもう一度図書室を見回した。
まだワックスの香りが残る室内…。
学校という小さな社会の中で、最も神聖と静寂という言葉が似合う場所。
書庫へ繋がる鉄扉は閉じられているため書庫の中までは見えないが、このおおよそ落ち着いた空間で今朝のような奇怪な事件が起こったとは誠に信じ難い。
三人は廊下に出、近くの壁に立てかけてあった最後のドアをはめる。敷居の溝が掃除されたおかげで戻されたドアは滑らかに動く。
「これで元どおり、と」
そして瀬山が司書室の岡本から書庫と図書室の鍵を借りてきて、それぞれのドアを施錠していく。もちろん図書室の鍵は未だに予備の方なのだが。
「ちゃんと鍵をかけろよ瀬山。もう『大工』は御免だ」
福場がチャチャを入れると、委員長は少し不機嫌そうに返す。
「わかってるって。僕だって『大工』は二度とごめんだ。そんなに言うならお前らも確認しろ」
福場と出口は書庫のドアと図書室の前後二つのドアを確認したが確かに施錠されていた。
「でも、犯人は図書室の鍵を持ってるんだから、今確認してもね…」
出口の言葉に福場と瀬山は顔を見合わせた。
「だ、大丈夫だって、多分…」
福場の頼りない言葉で三人は口をつぐむ。これ以上議論してもしょうがない。二つの鍵を岡本に返却すると、彼らはそれぞれの帰路に着いた。時刻は午後5時、夕焼けの中にもう夜の影が忍び寄ってきていた。

 生徒たちが下校した後も岡本は司書室に残りしばらく仕事をしていたが、その間何度も図書室の施錠を確認しに廊下に出た。何回手をかけてみても、確かにドアは動かない。
『大工』が鍵を持ってるんだから今確認してもしょうがない…、そう思いながらも確かめずにはいられなかった。それに、もしかして鍵が開いていて再び『大工』が侵入しているかもしれないという思いもあった。
しかし、岡本と原田が退勤する時刻まで『大工』の再来はなかった。二人は帰り際、最後にもう一度、司書室・図書室・書庫の計四つのドアの施錠を確認した。

…そう、確かに施錠されたはずだった。
…いや、確かに施錠されていたのだ。