1
なんだかよく目が合うな…彼女にとっての彼の存在は最初はその程度のものだった。まだ十五年しか生きてない人生、恋をするのもされるのも初めてだったから。
北海道の片隅の町、一学年100人くらいの公立中学校。彼女はセーラー服に黒縁メガネ、おまけにおかっぱ頭っていう地味で古典的な中学女子。対する彼も学ランに単発、休み時間は男友達と群れてゲラゲラ笑ってるような変哲のない中学男子だった。
そんな二人が距離を縮めるきっかけになったのは7月にクラスで起こった小さな事件。移動教室の授業が終わってみんなで教室へ戻ってみると、部屋の隅に飾ってあった花瓶が床に落ちて割れていたのだ。真っ先に疑われたのは移動教室の最中に一度忘れ物を理由に教室へ戻った一人の女の子だった。その子は家が裕福、容姿も綺麗で成績も良く、どこか周囲を下に見てるような雰囲気があって、一部の女子から「すましてる」とか「お高くとまってる」とか陰口を叩かれる存在だった。だからそんな連中はここぞとばかりに「あんたが花瓶を割ったんでしょ」とその子に疑いの矢を浴びせた。
悪意は善意よりも発火点が低い。その子への疑惑はあっという間に燃え広がってクラスを火の海に包んだ。その子は机上に「私じゃないわ!」とくり返したけど、「白状しなさいよ、この嘘つき」と糾弾の集中砲火は止まない。危険を感じた何人かが先生を呼びに行こうとした瞬間…両者の間に進み出たのが彼女だった。
「待って、根拠もないのに疑うのはおかしいわ」
彼女は毅然と言い放つ。
「別の誰かが教室に出入りして花瓶を割った可能性も十分あるわ」
「授業中だったのよ? いったいどこの誰が出入りしたっていうのよ、そんなわけないでしょ」
女子連中もひるまない。結局立ちはだかった彼女も押し負けそうになったけど…、そこでもう一人の勇者が前に出る。
「俺も、決め付けるのはおかしいと思う」
それが彼だった。反対派が二人になったこと、しかも男子が加勢したことで室内のパワーバランスが変化、緊張もやや分散して糾弾の炎はひとまず鎮火した。間もなくチャイムも鳴ったおかげで取り囲み陣営は自然解散、疑われた子も疑った連中も不服そうに席に戻った。そして気まずい空気で授業をやり過ごし、昼休みになったところで先ほど先人を切って立ちはだかった彼女は食事も摂らずに席を立った。
「さっきのことだけど、あたし、ちょっと調べてくるから!」
疑った連中に宣言して教室を出る。すると後ろから追いかけてくる一つの声。
「待って、俺も手伝うよ」
振り返ると彼だった。不思議な安心感が込み上げてきて彼女は廊下で足を止める。
「ありがとう。でも、いいの?」
「当たり前だろ。それで、どうやって調べるんだ?」
「とにかく情報を集めようと思うの」
そんな言葉を交わして二人は捜査を開始する。まず隣のクラスに赴いて、花瓶の割れる音を聞いた者我いないか確認。数人の証言を得て、音が聞こえた時刻は疑われた子が教室に戻った時刻とは一致しないことがわかった。さらに範囲を広げて聞き込みを続けると、西の階段でカラスが騒いでたことも判明、どこかの窓から校舎内に飛び込んだらしいとのことだった。これは重要証言、二人は息を弾ませてさっそく教室に戻って割れた花瓶の周辺を捜索、そこにカラスの羽根が見つかって真犯人は明らかになったのだ。
「みんな、ちょっと聞いて!」
彼女は昼休み中の教壇に立つ。彼も「注目、はい注目!」と呼び掛ける。そして彼女はカラスのことをクラスメイトたちに報告。証言に加えて物的証拠も揃ったことで反論する者は誰もいなかった。疑った連中もしおらしく「ごめんなさい」とちゃんと立って頭を下げた。すると疑われた子も腰を上げ、じっと疑った連中を見る。濡れ衣を着せられた以上、嫌味の一つでも返しておかしくない。でもその子から告げられたのは意外な言葉だった。
「私こそ…いつも態度が悪くてごめんなさい」
逆にぺこりと頭を下げられて連中は拍子抜け。一瞬教室はポカンってなったけど、そこで彼が突然大きく拍手を始めた。するとどうだろう、いったい何を祝福してるのかわかんないけど、とにかく拍手はクラスメイトの全員に波及した。疑われた子も疑った連中もちょっと照れた顔で着席。教壇の上の彼女もしっかり拍手に参加してから、自分の席に戻ってようやくお弁当にありついたのである。
大急ぎで食べ終わったところで午後の予鈴。ギリギリセーフ、と教科書を準備してるとふと一つの視線に気付く。振り向いたら疑われた子がこっちを見てて、柔らかく彼女に会釈した。彼女も同じ動作で笑顔を返す。
善意は悪意より保温効果が高い。このことをきっかけにその子への陰口はなくなって、その子もいつしか『ラプン』なんて愛称で呼ばれるようになって、笑う時は端正な顔立ちを思いっきり崩してみんなとはしゃぐようになった。ちなみにラプンの由来はディズニーの映画に出てきたお姫様、腰までの長い黒髪が塔の上に囚われたラプンツェルのイメージに重なったからだった。
*
花瓶事件の日の放課後、誰もいない教室で予習と復習を終えると勇者の彼女は靴箱に向かった。するとそこにもう一人の勇者の姿。
「あ、今日はありがとね、味方してくれて。あたし一人じゃどうしようもなかったよ」
そう伝えると彼は少し照れたように鼻を掻いた。
「いや俺は何もしてないって、全部君のおかげ。すごいなって思った。堂々とみんなの前に立ってさ、いや本当にすごかったぜ、君の正義感」
「そんな、あたしはただおかしいって思ったからつい…」
「それがすごいんだよ。おかしいと思ったことをちゃんと言えるってことが」
力説されてちょっと頬が熱くなる。
「もう、そんなに褒めないでよ。頭が単純なだけだって。さ、帰ろう」
二人はそのまま靴を履き替えて外に出た。そして一緒に夕焼けの通学路を歩いた。クラスメイトとしては認識して言葉も交わしてたけど、彼女が彼とこんなふうにゆっくり話をするのは初めてだった。話題は自然とクラスのこと、勉強のこと、進路のことなんかに流れていく。
「もうすぐ夏休みだけど、俺たち受験生だもんな…やっぱり勉強しなくちゃダメか」
「そうだよね。夏季講習もあるし。もう行く高校決めたの?」
「俺は…まだ検討中。そっちは?」
「あたしも迷ってるの。将来につながる学校がいいなって思うんだけど、その将来が決まんなくて。まだやりたい仕事とかないんだよね」
「じゃあ…警察官なんてどう?」
突然あまりにも予想外のことを言われて彼女は驚く。思わずそのまま立ち止まると彼も足を止めて彼女を見た。
「俺、今日のことでますますそう思ったんだ。前から君は警察官に向いてるなって勝手に思ってたんだけど」
「あたしが警察? そんな、無理だよ」
考えたこともない進路だった。彼女がブンブン顔を振っても、彼は意気揚々と話し続ける。
「悪い奴を逮捕して弱い人たちを守る。大変な仕事だけど正義感の強い君ならできると思うぜ。それに君の名前…警察官にぴったりだしな」
二人の視線が絡まる。そこで彼は今日のこと以外にもこれまでの色々なことを根拠にして、彼女がいかに警察官に向いてるかを説明した。彼は彼女自身も憶えていない彼女のエピソードをいくつも知っていた。彼の話を聞きながら、彼女は彼とよく目が合っていたのは気のせいじゃなくて、彼が自分をたくさん見てたからなんだって納得した。
「あ、ごめんごめん、熱く語り過ぎちゃったな。まあ俺の勝手な妄想だから聞き流して」
やがて彼は照れたように視線を逸らす。
「…うん」
彼女は曖昧に頷く。そして二人はまた茜色の空の下を歩き出す。
その後はたわいもない話をしながら帰ったけど、彼女の胸の中には小さな変化が起きていた。嬉しくて、恥ずかしくて、あったかくて、せつないような変化が。
2
その日を境に二人は一緒に下校することが多くなった。かといって教室での関係はこれまでと何も変わんなくて、休みの日に会ったりとか夜に電話したりとかすることもない。夏休み直前、彼の口から花火大会の話題が増えてたことの意味さえ鈍感な彼女は感じ取れていなかった。
そしてロマンスのロの字もなく夏を見送って、北海道の短い秋が訪れる。
「実は俺…東京の高校に行くんだ」
帰り道、冷たい木枯しが吹く中で彼はそう言った。
「親父の転勤でさ、春に家族で引っ越すんだ。だから…その、何て言うか」
「そう…なんだね」
ぎこちない言葉が交わされる。何て答えたらいいのかわかんなかった。しばらくの沈黙の後、彼女は「卒業式は出られるの?」と尋ねる。
「うん、それは大丈夫。引っ越しは3月の末だから」
「そう…」
言葉が続かないまま二人は歩く。別れ際に彼が明るく言った。
「そんなわけで、あと半年弱だけどよろしくな」
「あ、うん、こちらこそ」
彼が遠くへ行ってしまう…そのことを知っても彼女は何もしなかった。自分が何かをするって発想がそもそもなかった。どうして彼がまず自分にそのことを告げたのかさえ、彼女にはわかっていなかったから。
3
そして季節は長い長い冬に突入する。秋の香りはあっという間に追いやられて、空気中にユキムシが舞って、空からの白い贈り物が大地を染め上げた。そんな中、彼女はどこかピリピリしてる自分に気付き始める。最初は受験のストレスかと思ってたけど、どうやらそうじゃないみたい。勉強は順調に進んでたし、成績も志望校確実のレベルまで達してる。なのに何かがピリピリ急かしてくる。年が明けた頃、彼女はようやくその法則を発見した。クリスマスとか初もうでとか、そういうイベントの時に限ってその正体不明のピリピリは強まってるって。
神様なんて信じないけど、時々もしかしたらって思う偶然が人生にはある。その序曲は2月のある日、いつしか彼女の親友になってたラプンが昼休みに掛けてきた言葉だった。
「ねえねえ、もうチョコ買った?」
「え、何?」
「だからチョコレートだよ。もう買った?」
「どうして?」
「だって週末はバレンタインデーじゃん。チョコ買わないと」
「あたし義理チョコ配るとかそういうの趣味じゃないんだよね」
「だから義理じゃなくてさ、本命の話。彼にあげないの?」
「彼って…」
ラプンはちらりと窓際の席を見る。彼がいつものように男友達と大笑いしている。彼女は顔の前で大きく手を振って否定した。
「え? 違う違う、別にそんな関係じゃ…」
「そうなの? しょっちゅう一緒に帰ってるからてっきりつき合ってるんだと思った」
「しょっちゅうじゃないよ!」
思わず大きな声が出た。何人かがこっちを見たので彼女は慌てて声を潜める。
「もう、つき合うとかそんな…ないないない、絶対ないって。だいたいあたしら受験生でしょ、邪念は禁物よ」
「ふ~ん…」
全てお見通しといった感じでニンマリする親友を無視して彼女は問題集を開く。確かにもうすぐバレンタインデー。でもそれが何? なんでこんなにピリピリすんの?
*
そして2月14日がやって来る。週末で学校はお休み、家にいてもなんだか落ち着かないから彼女は街の図書館にいた。そこで苦手な英単語帳をめくりながらよりいっそう強まったピリピリと格闘する。
「『please』は『どうぞ』だけじゃなくて『喜ばせる』って意味がある、『pretty』は『可愛い』だけじゃなくて『少し』って意味がある…」
悪霊退散の念仏みたいにボソボソ呟く。さすがにずっと同じ姿勢だと首が痛くなってきた。ちょっと肩を回すと…そこで彼女の心臓は止まりそうになる。ふとみたロビーに彼の姿を発見したのだ。彼はカウンターで本を返却する手続きをしてるみたい。
理由はわかんない。でも目が離せない。するとまるでテレパシーを感じ取ったみたいに彼が彼女を振り返った。視線が絡まって一瞬驚き、そして優しく微笑んで右手を上げる彼。
返却の手続きを終えると、固まったままの彼女の所へ彼は歩み寄ってきた。
「オッス、ここでも受験勉強? 真面目だねえ」
「あ、うん、まあね。そっちは?」
「借りたままだった本を返しに来たんだ。ほら、来月には引っ越しだろ、少しずつ家を片付けないと」
「そう…」
何か言わなきゃ、何か言わなきゃって焦っても何も出てこない。彼女の困惑を察したのか彼は「勉強の邪魔しちゃ悪いから」と立ち去ろうとする。
「ちょっと待って!」
図書館ではマナー違反の大きな声が出た。またやっちゃった。何人かがちらりとこっちを見てる。
「あのさ、その」
それでも小声で彼女は搾り出す。
「せっかくだし、ちょっと話さない?」
二人でロビーの自動販売機がある場所まで移動してソファに腰を下ろした。彼女はホットレモンティー、彼はアイスコーヒーを購入する。
「どう? 勉強の進み具合は」
お互い一口飲んでからそう切り出したのは彼。
「まあそれなりにって感じ。そっちは?」
「あんまり芳しくないな。引越しと同時進行だし、四人家族でも荷物って結構あってさ、まとめるの大変だぜ。それにほら、普段でも勉強する時ってついつい机の中とか引っ掻き回して昔の年賀状とか読み返したりするだろ。引越し準備してるとそういう思い出グッズがどんどん出てくるんだ、まいっちゃうぜ」
「アハハ、それは大変だね。でもわかるわかる、あたしも小学校の卒業文集とか読み返したりしたよ」
「だよな。特に俺らの中学って楽しかったじゃん、油断するとついそっちに気持ちがいっちゃって、問題集開かないまま三時間経過とかざらだぜ」
「確かに楽しいこと多かったよね。ねえ、どんなこと憶えてる? あたしはやっぱり文化祭かな。あの模擬店でさあ」
「そうそう、焼きそば屋。あれは大笑いしたなあ…」
会話は想像以上に弾んだ。飲み物が空になっても語らう思い出はいくらでも溢れて潤いを絶やさない。共にした時間を確かめるみたいに、そして残された時間を惜しむみたいに、言葉はいつまでも交わされ続けた。
結局二時間くらいそこで話してたかな。彼女は自分に起こってる急激な変化をはっきりと察知していた。心の中の大地にある休火山、それが地響きを上げて唸り
始めてる。この半年、少しずつ少しずつ蓄積してたピリピリがついに放電して激しい稲妻を轟かせてる。もはやそれは荒れ狂う嵐。
「…どうした?」
言葉が止まってる彼女に彼が気付く。彼女は瞬きすることも忘れて、胸の奥底から突き上げてくるマグマをカウントダウンしていた。
…スリー。
「おいおい、急に固まっちゃったな。どうしたんだよ」
…ツー。
「もしもーし、大丈夫ですか?」
彼が顔の前で手を振る。
…ワン。
「具合でも悪いのか?」
顔を覗き込まれる。その距離は息がかかりそうなくらい近い。
…ゼロ!
「あのさ」
ついに沈黙の火山が大噴火。彼女は弾かれたように椅子から立ち上がると有無を言わさぬ勢いで告げた。
「ちょっとだけここで待ってて。用事を思い出したの。でもすぐ戻るから。だから、ここで待ってて、絶対!」
「え? ああ、別にいいけど…」
目を丸くする彼の返事も聞かずに彼女はロケットスタートで図書館を飛び出していく。冷たい空気も雪がまとわりつく道も彼女には関係ない。誰よりも速く、誰よりも強く彼女は走る。きっとメロスにだって負けやしない。ただ一つの感情は暴発的なエネルギーとなって彼女をすっ飛ばす。そう、これはビッグバン。今天地は創造されて彼女の新しい世界が始まったのだ。
やがてリボンやテープで赤い装飾が施された店内に飛び込む。寒暖差で曇ったメガネをハンカチで拭くと、息を弾ませながらハート型の商品を選び出す。そのままレジに運んでラッピングをお願いする。そしてお会計を済ませてしっかりコートのポケットにしまうと彼女はまた踊るように真冬の中へ駆け出していった。
踏みつける雪がキュッキュと音を立てる。道産子ならわかる、この音はかなり気温が下がってる時の雪の音だ。でも、でも、全然寒くなんかない。むしろ全身が火照って熱いくらい。
そして無事に舞い戻った図書館。一度立ち止まってコートの雪を払う。白い息も整える。最後に乱れたおかっぱを直してから彼女は改めて一歩を踏み出した。
いざ行かん! 自動ドアが開いて暖かい空気が流れてくる。また曇るメガネを拭く。そして右手はポケットの中、しっかりと得物を握ってる。
顔がカッカして喉がかさ突く。心臓ってここまでドキドキするものなのかな。比ゆじゃなくて本当に破裂しそう。一番可愛い顔をしなくちゃいけないのにきっと鬼の形相になってる。怖いし緊張するし逃げ出したい。でも、でも、でも、今ここでやらなくちゃきっと一生後悔する。
「お待たせ…」
そう口にしたところで彼女は気付く。さっきのソファの所に彼はいたけど、一人じゃなくて何人かと話してることに。見るとそれはクラスメイトの男女数名だった。
「あ、お帰り。用事は澄んだか?」
彼が彼女に気付いて右手を上げる。すると近くの男子が彼女と彼を交互に見た。
「なんだよ、お前らやっぱりそうだったのか。こんな所で待ち合わせなんかして…。受験直前にデートだなんてラブラブだな」
「違う違う、変なこと言うなよ」
彼が慌てて否定する。
「違うって、なあそうだよな?」
同意を求められて彼女も「そう、全然違う」と答えてしまう。
「さっき偶然会っただけ、たまたま会っただけで…あたしはちょっと用事で出てただけ!」
まあ実際にそのとおりなんだけど、彼女はまるで黒い物を白だと主張してるみたいに力説。彼が違うって否定した、だから自分もそれに加勢しなくちゃいけない、それが彼のためなんだって思って必死に訴えた。けど…もしかしたら本当の本当は自分のためだったのかもしれない。守りたかったのはまだ自分の方だったのかもしれない。
「わかったわかった、もうわかったって」
彼女のあまりの勢いにからかった男子もホールドアップ。きっとクラスメイトからすれば真偽なんてどっちでもよかったんだろう。密会疑惑はあっけなく鎮火する。そうなったらそうなったで彼女はなんだか残念なような、悔しいような気持ちにもなるのだった。
雑談が一段落すると、みんなでファミレスにでも行こうという話になる。クラスメイトたちはもともとそのつもりで、図書館には立ち寄っただけだったみたい。あれよあれよという間にみんなで移動が始まって、彼女も女子たちと話しながらそれに混じる。さっきは何も感じなかった外の空気は冷たくて、火照った顔も体も冷めていく。大噴火を起こした心の中の火山も雪に覆われた冬山に変わり、溢れ出たマグマも固まっていく。
ただ…コートのポケットの中で指先だけが何度も何度もラッピングのリボンを触っていた。
*
何の意地を張ってたのか、その後のファミレスでも彼女は彼と離れて座る。人数分の飲み物を注文すると、運ばれるのを待たずに語らいは始まる。なんだかんだで中学生、自分たちだけで店に入っているぞ、ただそれだけのことでワクワクして、ちょっぴり大人になった気分。女子の中にはちょこっとメイクしてる子もいた。
やっぱり友達っていいもんだ。話題は受験のこと、叶いっこない夢のこと、そして中学三年間の思い出のことと次々と大輪の花を咲かせる。窓の外には深々と雪が降ってたけど、その場は焚き火を囲んでるみたいにずっとポカポカあったかかった。
なのに…時々隙間風みたいにすっと胸の奥が涼しくなる感覚。隣のテーブルの彼を見ると視線が絡まって、お互いすぐに逸らして、どっちも何でもなかったふりをする。そんなことが何回かくり返された。
そして健全な未成年たちは日が暮れる頃に解散した。男子はまだ男の語らいをするとかで徒党を組んで友達の家へ歩いていく。その群れの中にいる彼の後頭部を彼女は見つめてみたけど、もうテレパシーが届くことはなかった。
女子たちにもバイバイを言って彼女は自宅に戻る。結局ほとんど進まなかった英単語帳が入った鞄を床に置く。そしてコートのポケットからそっとあれを取り出した。
…人生初のバレンタインチョコレート。今日はみんなでワイワイ過ごして楽しかった、それは間違いない。でも…渡せなかったね。
今からでも届けに行く? 電話かけてみる? 自分でそんな提案をして自分で却下。そのままハート型の物体を引き出しにしまう。そして机の上のお菓子箱から一つのスナックをつまんで口にくわえた。
子供の頃から大好きな北海道限定販売のスナック。彼女はベッドに横になって天井を見つめた。お行儀悪く口先でモグモグとスナックを弄ぶ。別に…涙が滲んだりはしない。胸が痛んだりもしない。でもなんだかとってもだるかった。北海道弁でいうと「こわい」ってやつだ。
…マイナスワン。
カウントダウンが0を過ぎてまた動き出す。
…マイナスツー。
乗り過ごした駅を電車がどんどん離れてくみたいに何かが遠ざかっていく。
…マイナススリー。
口元からスナックが落ちる。ママが夕食に呼ぶ声も聞こえないまま、眠りが意識をそっとさらっていく。
こうして、彼女の中学3年のバレンタインデーは終わった。
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人間の頭脳って素晴らしい。時間が経てば、むしろこれでよかったんだっていう理屈がいくつも頭に浮かんでくる。
そうだよ、お互い受験生なんだし今は恋愛どころじゃないって。それにそんなのまだ早いし。それにそれに彼はもうすぐいなくなっちゃうんだし。せっかく仲良くなれたのに気まずくなってお別れするのも嫌だし。そもそも本命チョコを贈るとかキャラが違うしね。
あれは一瞬の気の迷い、バレンタインのムードに呑まれて変な気持ちになっちゃっただけ。好きとか愛してるとかとは違う。きっと違う。絶対違う。そうだそうだ、渡せなくてむしろよかったんだって。
そんなことを何度も自分に言いながら、彼女は残された中学生の日々を過ごした。もうあのピリピリも感じなくなった。でもまるで神様への当てつけみたいに、彼女はできるだけ彼と二人きりにならないように意識していた。馬鹿みたいだね、本当に。帰る時間をずらしたり、町でも会いそうな道をわざと迂回したり…まったく何やってんだか。
そんな彼女に神様が次のチャンスをくれるはずもなく、受験も終わって、卒業式も終わって、そして彼は東京へと家族と旅立っていった。