「さあお召し上がれ、今宵は北海道警のおごりでござい」
乾杯を交わした後、あたしはそう言って対面の二人に両手を返して見せた。
ここは札幌のお食事処『寿羅木(じゅらき)』の個室、装いは和風だけど料理は何でもござれの店で、北海道の海の幸から山の幸まで堪能できる。居酒屋じゃないから酔っ払いの声なんかも聞こえないし、耳を澄ませばほのかに琴の奏でが流れてたりする。そんなちょっぴり格調高い空気の中で同じ鍋を囲むのは、辛気臭い公務員の中でもとりわけ辛気臭いお仕事に就いてしまったお三方だ。
あたしの名前は法崎さくら、北海道警察新千歳署の女刑事。生まれてこの方数えるほどしかこの北の大地から出たことのない筋金入りの道産子だ。今夜の現場はここ。そう、東京からのお客様二名を接待するのがあたしの公務。まあ気を遣うような相手でもないから、ほとんどプライベートみたいなもんだけどね。
「ありがとうございます、いただきます」
深々と頭を下げてジャガバターに箸をつけた美人の名前はムーンちゃん、警視庁捜査一課の女刑事。もちろん本名じゃなくて、ムーンっていうのは職場上のニックネーム。一般にはあんまり知られてないけど、警視庁捜査一課はミットって呼ばれるいくつかのチームに分かれてて、何だかよくわかんないけどこの子の所属するミットではお互いをニックネームで呼び合うのが古くからの慣例なんだって。水商売の源氏名じゃあるまいしとも思うけど、不思議とこの子にムーンって名前は合ってる気がする。
切れ長の瞳に少し茶色に染めた肩までの髪…その容姿は女のあたしでも惚れ惚れしそうになるくらい綺麗。まるでテレビドラマで女優が演じてる刑事みたい…なんだけど、どこか華やかさを封じた立ち振る舞いはけして表に見せない陰の部分を感じさせる。完璧な礼節の中には揺るぎない意志が内在してて、それがまたとびきりの美人であることと妙なバランス。まるで異世界から全てを諦観してるような、一人だけ透明な水槽の中にいるような、その清廉で神秘的なオーラは地球人じゃないまさしく月の住人…ひょっとして正体はかぐや姫? なんて、ちょっと本気で思えてきちゃう。
おっと、いけないいけない、そんなふうにすぐ人様を分析してしまうのが刑事の職業病。ムーンちゃんはしっかり社会に適合してる常識人、異質な物みたいに言ったら失礼よね。それより問題なのは隣で野菜たっぷりのスープカレーをすすってるその上司。
こいつの名前はカイカンくん、もちろんこれもニックネーム。いちいち言うのも面倒なくらいとにかくどこを取ってもわけがわかんない男。格好はいつでもどこでもボロボロのコートにハット、長い前髪は右目を隠してる。どう見ても文句なしの不審人物で、職務質問や誤認逮捕された数はもしかしたら自分で逮捕した犯人の数より多いかもしれない。ムーンちゃんが月から来たプリンセスならこいつは地球人の恥さらしってところ。
あたしと出会ったのはもう五年くらい前、研修でこいつが北海道に来た時。当時からこの不気味な格好で当然のように空港警察に取り押さえられたのを身柄引き受けに行ったという最悪のファーストコンタクトだった。研修中は一緒にいくつかの事件を担当したけど、腹立たしいことにこいつはしっかり解決してしまう。そう、刑事としての腕は悪くない。それは認めてあげる。まあ他に良い所がないんだからそこくらいは頑張ってくれないと困るけど。
「おいしい、特にこの完熟トマトとカレーの相性がいいね」
低くて良く通る声でカイカンくんが舌鼓を撃った。あたしは歯ごたえのあるアスパラのソテーを飲み込んでから返す。
「やっぱりスープカレーは北海道でしょ。体もあったまるから、氷点下の真冬にはもっとおいしいわよ。でも食べ過ぎないでね、まだまだご馳走は来るんだから。厚岸のカキフライ、ジンギスカン、美唄焼き鳥に室蘭焼き鳥」
「焼き鳥が二種類来るのかい?」
「全然違うのよ。味付けもだけど…」
そこであたしはちょっとした思い付き。
「そうだ、一つクイズね。室蘭焼き鳥は他の焼き鳥とは決定的に違う所があるんだけどそれは何でしょう? どうかな、ムーンちゃん」
先輩二人に遠慮して口数の少ない後輩に話題を振る。美人刑事は箸を置いて眉根を寄せた。
「すいません、わかりません」
頭を提げられてこっちが恐縮。どうでもいいクイズなんだからそんなに真剣に謝らなくたっていいのに。すると隣の変人上司が得意げに右手の人差し指を立てた。
「簡単にあきらめちゃいけない。いいかいムーン、味付けの違いじゃないってもうヒントは出てるんだ。となれば残るは形状の違い、あるいは材料の違い…そんなところだよ」
長い前髪に隠れていない左目がこっちの表情を伺ってくる。残念でした、そんな揺さぶりであたしのポーカーフェイスは崩れません。
「さっすが氷の微笑の法崎さん、顔に出ないね」
「馬鹿なこと言ってないでさっさと答えてよ。ほら、可愛い部下の前でさ」
「では答えよう。ズバリ、室蘭焼き鳥は串に刺さっていないんだ」
「ブー、全然違う」
「となると…室蘭焼き鳥は焼かれていない生なんだ」
「ブブー、そんなわけないでしょ」
あたしらのやりとりを見ながらムーンちゃんがようやく「仲良しですね」と微笑む。笑ってくれたのは嬉しいけどそのコメントはどうかなあ。
「お互い敬語を使ってらっしゃらないということは、法崎警部とうちの警部は同期なんですか?」
「正確に数えたわけじゃないけどね、面倒だからそういうことにしてんのよ。あ、それよりムーンちゃん、その法崎警部っていう呼び方、堅苦しい殻やめて。あたし、警察官同士が警部とか警視とかって呼び合ってるの嫌いなの」
「すいません」
あちゃ、またやっちゃった。あたしは時々こうやって言葉が過ぎる。神妙に謝罪する後輩をあたしは慌ててフォローする。
「ごめんごめん、ムーンちゃんが嫌いなわけじゃないのよ。あたしが言ってんのはお偉方の話。ね、気にしないで」
「では法崎さんとお呼びすればよろしいですか?」
「それもまだ堅苦しいわね。う~ん、じゃあさくらさんでいいわ。なんならさくら姉さんでも」
「君は暴力団の内縁の妻か?」
カイカンくんがツッコミ。
「うっさいわね、それよりクイズの答えはわかったのかしら?」
「フフフ…」
ド変人は不気味に笑う。
「室蘭焼き鳥は鶏肉ではなく、別の動物のお肉を使っているんだ」
焼き鳥という命題に対して、焼いていないとか鶏肉じゃないとか…既成概念に囚われない思考はさすがね。でもはたして言い当てられるかしら?
「別の動物ですか?」
「そうだよムーン、君は何だと思う?」
「ええと…豚肉とかでしょうか」
「まだまだ甘いね。それだと焼き豚になっちゃうよ。答えは…」
天才気取りは立てていた指をパチンと鳴らして言った。
「恐竜のお肉だ」
…はい? あんた何言ってんの? 呆気にとられてつい表情を崩すあたし。
「いいかいムーン? この店の名前は寿羅木、つまりジュラ期だ。ジュラ期といえば恐竜の時代。恐竜は哺乳類ではなく鳥類の祖先だって聞いたことあるでしょ? つまり恐竜のお肉なら焼き鳥と名乗っても矛盾しないわけだ。
どうだい法崎さん、答えは恐竜。おそらくプテラノドンだ」
心の底から溜め息が出た。
「あのねえ、いくら北海道の大自然でも恐竜が生き残ってるわけないでしょ。ブブブー、答えは豚肉、つまりムーンちゃんが正解! イエーイ」
そう言ってグラスを掲げると美人刑事も無邪気な顔で完敗に応じる。よかった、ちゃんと普通の女の子みたいで一安心。
「おいおい、それじゃあ焼き鳥じゃないじゃないか」
「知らないわよ、室蘭の人に聞いてよ。ねえムーンちゃん」
「そうですね、さくらさん。すいません警部、私の勝ちでした」
「君たちいつの間に最強タッグを結成したんだい?」
あたふたする男としてやったりの女二人。そんな感じで緊張も和らぎ、宴は順調に滑り出した。
*
なのに悲しきかな、気が付けば話題は仕事のことに流れていた。いずこの職場にも当然ながら愚痴は山積み。それでも笑いながら話せばストレスに羽根が生えてどこかへ飛んでいく。普段一緒に働く同僚じゃないからこそお互い言えることもたくさんある。
「そうそう、警視庁も何かあるとすぐリスク管理だよ。守ってばっかりじゃ犯人に逃げられてしまう。それに書類だらけでそっちに時間を取られて聞き込みに行く時間がない。本末転倒だよ。まあムーンが入ってくれてから書類はかなり助かってるけど」
「ありがとうございます。まだうまくまとめられませんが」
「いやいや、君の手際はなかなかのものだよ。日本語の使い方も上手だしね」
変人と美人の刑事コンビ。もちろんこの二人は宴会のためにはるばる東京から飛んできたわけじゃない。そもそも桜田門の刑事がどうして北の大地にいるのかっていうと、まあ一言でいえば事件の事後処理のため。
もともとはムーンちゃんだけが研修で来る予定だったんだけど、こともあろうに北海道に向かう飛行機の中で殺人事件が発生した。ムーンちゃんはそのまま初動捜査を担当し、空港に到着次第あたしも合流。二人で一晩中駆けずり回ってまあ無事事件は解決したんだけど、その時も見事な推理で真相を見ぬいてくれちゃったのがカイカンくん。東京にいながらムーンちゃんからの電話の情報だけで名推理を披露しやがった。
まあそれはともかく、事件が解決したことはめでたい。実際あたしら現場の人間からすれば誰の手柄かなんてどうでもいい。出世争いをしたいんならそもそもこんな仕事はしてないもん。でもそれじゃすまないのがお偉方で、解決したこの事件をどう処理するかでゴチャゴチャもめた。
本来事件ってのは発生した場所の管轄になるんだけど、その時飛行機は空を飛んでたわけで、正確にどの県の上空にいたのかがわかんない。航空記録から推測できてもその県の警察は捜査に全く関与してない。実際動いたのはあたしとムーンちゃん、つまり北海道警と警視庁が正式な手順を踏まずに捜査協力したことになる。しかも指揮を執ったのは東京にいるカイカンくん。被害者が政界にも顔の利く有力一族の人間だったこともあって、お偉方としては色々気を遣ったみたい。解決したんだからいいじゃないってわけにはいかないのだ。
結局、北海道警の事件として決着しようやく記者発表も終わったのが今日の夕方。そんなこんなでバタバタしたからムーンちゃんの研修はまた日を改めてってことになった。
「それにしても残念だわ、研修であなたの優秀さを感じられなくて」
あたしが言うとムーンちゃんは「そんな、恐縮です」とかしこまる。
「今回は仕方ない。でも次の機会にまた北海道に来られるんだからよしとしようよ」
と、カイカンくん。部下が関与したということで立場上こいつが北海道まで迎えに来たんだけど、この二人の手柄をもらうだけもらってそのまま東京へ帰すほど道警も仁義を欠いちゃいない。せめてもの労いでこの宴がセッティングされたってわけだ。ちなみに二人には札幌ナンバーワンの老舗ホテルで一泊してもらって、明日の午後にあたしが空港まで送る手筈になってる。
「昔警部が研修でいらっしゃった時はどのような感じだったんですか?」
「もう五年も前だしね、あの頃はまだ未熟で愚かだったよ」
「カイカンくんは今でも十分愚かでしょ。格好だってあの時と同じじゃない」
「それは君もじゃないか。あの赤いコートとハット」
壁にかけられたそれらを指差すカイカンくん。
「あたしはちゃんとクリーニングしてるし手入れも欠かさないわ。そんな破れかけのボロボロと一緒にしないで」
「でも研修の時は一緒にされて女カイカンって言われてたじゃないか」
その瞬間あたしのおしぼりがカイカンくんの顔に命中する。隣で目を丸くする美人刑事。
「それが一番許せない。なんであたしがあんたの真似してるみたいな言われ方なのよ。あたしがオリジナル、あんたがパクリ。一緒にするんならあんたの方を男法崎って呼んでもらいたいわ」
「それはちょっと…嫌だなあ」
「何で吸って!」
「まあまあお二人とも、落ち着いてください」
また後輩に気を遣わせちゃった。でもねえ、女カイカンって風評だけは許し難いのよムーンちゃん。
*
石狩鍋、そして副産物の雑炊もたいらげてあたしのセレクトしたちょっぴり多めのフルコースは無事終了。食器も下げられ後はデザートのバニラアイスとホットコーヒーを待つのみ。
「どうムーンちゃん、刑事になって楽しい?」
盛り上がりも一段落して今はまったり過ごすムード。カイカンくんがトイレに立ったので、あたしはそんなことを尋ねてみた。
「楽しい…と言いますか、学ぶことだらけです。事件の度に学んで、私はまだまだだなあと感じてます。今回の事件だって、私が機内で真相を見抜くことができていれば…」
「へこむなって。その後で頑張ってちゃんと犯人を捕まえたんだし、それに三年目の新米がそんなスラスラ解決できちゃったらあたしらの立場がないわよ。ベテランだって解決できない事件が山ほどあるんだから」
「…さくらさんもそうおっしゃるんですね」
美人刑事の綺麗な瞳にわずかな興味が浮かぶ。
「どういうこと?」
「あ、すいません。私が着任したばかりの頃ですけど、警部にも似たようなことを言われたのがすごく印象に残っていたので。『解決できない事件はいくらでもある』と…」
「カイカンくんがそんなこと言ったの?」
後輩は黙って頷く。へえ…あの天才気取りでもそんなこと言うんだ。ちょっと意外。
「さくらさんにもやっぱりあるんですか? 未解決のままの事件」
ためらいがちに尋ねてるけど、それがムーンちゃんにとって答えてほしい重要な質問であることはその表情から伝わってくる。あたしは素直に頷いた。
「もちろんよ。まあ何をもって解決って呼ぶかにもよるけど…。せっかく関わってた事件でも上の命令で担当をはずされちゃうこともあったしね、最期まで見届けてる事件ばっかりじゃないわ。
それに次から次に新しい事件が起こるしね。この仕事を長くやってるとさ、気付かないうちに忘れちゃってる事件もたくさんあると思う」
「…そうですか」
きっとまだこの子は自分が関わった事件を、そしてその関係者たちのことを全て憶えてるんだろうな。あたしも昔はそう思ってた。被害者の痛み、遺族の無念を思えばせめて記憶だけはしておかなくちゃって。
「もちろんちゃんと憶えてる事件もあるわよ。意識してるわけじゃないけどずっと記憶の消去ができない事件もあるの」
そう、あたしは傲慢だ。結局自分の都合で…自分の感情が伴う事件だけ忘れずにいる。
「どんな事件か聞いてみたい?」
どうしてそんな言葉を発したのか自分でもよくわかんない。ちょっぴり入ったアルコールのせいか、それともこのけなげな後輩の興味にほだされたのか、あたしの口はそう動いていた。ムーンちゃんは数秒考えてから「はい」と頷く。そこでふすまが開いてカイカンくんも戻ってきた。
「まだアイスは来てないんだね。あれ、二人とも見つめ合って何の話かな」
「さくらさんの経験された事件の話です」
腰を下ろした上司に部下が告げた。
「事件…というと?」
「たいした話じゃないわ。あたしの刑事人生の中にたくさんある未解決事件の一つ。どう? 可愛い後輩の後学のために話してあげてもいいかしら」
カイカンくんは黙ってあたしとムーンちゃんを交互に見てから「どうぞ」と低く言った。あんまり賛成してないみたい。
「そんなに心配しなくても大丈夫、よく捜査学会である事例検討みたいなものだと思って。今回研修できなかったムーンちゃんに一つだけお土産ってことで」
「そういうことなら…よろしく、法崎先生」
カイカンくんが微笑む。ムーンちゃんも頭を下げた。真面目だねえ、本当に。
「じゃあ始めるわね。ええと、どこから話そうかな。いや、あの実はね、これ、あたしじゃなくてあたしの後輩が捜査に関わった事件なんだけどね。もう十年くらい前になるかな、ちょうどムーンちゃんくらいの歳の頃、彼女も研修に行ったの。その時の話…」
この店の穏やかな空気のせいか、それとも妙なコントラストを放ってる警視庁の刑事コンビのせいか…。あたしは記憶の本棚から長らく放置していた重たい一冊を取り出す。そしてゆっくり指を掛け、カビ臭いページをめくり始めた。
そう、それはとてつもなく未熟で愚かだった一人の女の物語。