その沼は北海道のちょうど中ほどにある。普段の景観も十分に美しいものだがそれほど来訪者はいない。しかし毎年春と秋の特定の時期にはカメラや双眼鏡を抱えた愛好家たちがたくさんここに集まってくる。そう、この沼は渡り鳥たちの日本の最終居留地として知られているのだ。その時期には無数の鳥たちが水面と空を覆いつくす。その圧倒的な光景は優雅で雄大。そしてしばし羽を休めたら鳥たちは国外へと遠い陸を信じて飛び去っていく。
今はその時期ではない。鳥たちの姿はなく、水面も空も静まり返っている。他の生命たちは漂う静寂を乱さぬよう、薄く積もった雪の下で密やかに息づいている。
波のない沼のほとりに佇むのは一人の女。彼女はかつて愛した男を殺害した。本当の名前も、本当の心も、何一つ教えてくれなかった男。捧げた物も、預けた物も、何一つ返報することなく姿を消した男。
男の正体に気付いた時、彼女は死に物狂いで男を探した。しかし全ては徒労に終わり、彼女は失っただけの世界を生きることを強いられた。仕事に没頭して何もかも忘れようともしてみた。しかし男との出会いを思い出させる職場は彼女にとって地獄にも匹敵し、忘れたい記憶は忘れられない傷跡となって彼女を苦しめ続けた。
世界から去ることを決めた彼女は、文明の利器を利用して素姓も知らぬ相手から毒薬を入手した。それが本物の毒なのか、偽物なのかも彼女にはわからない。わからなくてもどうでもよかった。麻痺した頭で遺書を書き置き、仕事も辞めて、せめて今生の思い出にと彼女は最後の旅行に出発した。
運命はどうして時々意地悪をするのだろう。二度と会いたくない男に彼女は最後の航路で出会ってしまった。男の傍らには彼の愛を受けている女の姿もある。二人の後頭部を見ながら彼女は自分の感情と向き合っていた。うらやましいのか、恨めしいのか、もうわからない。どうでもいいというのがやはり一番近いかもしれない。彼女はたいして臆することもなく、男に毒薬を仕込んだ。
そして男は死んだ。嘘と偽物ばかりの世界で毒薬だけが本物だった。
今彼女は空を見つめている。別にこの場所に深い思い入れがあるわけではない。ただ雲の上のまだ見ぬ陸地へ飛び去ろうとしている彼女が渡り鳥たちの最後の居留地を何となく見てみたくなっただけだ。
ポケットから1錠の薬を取り出す。彼女にとって唯一本物だったあの毒薬だ。しばしそれを見つめた後、彼女はおもむろにそれを口へと運んでいく。
錠剤が唇に触れた瞬間だった。全ての静寂を引き裂いて一台の車が現れた。驚きで思わず薬が指から落ちる。車は乱暴に停止し、二人の女が飛び出してきた。二人のうちの一方は彼女が最後の航路で出会った相手だった。
言葉で、腕で、そして心で彼女は抱きとめられる。ここにいるのは誰もが消えない傷を負った女たち。自らの命と肉体を何度も憎んだ女たち。
日が昇る。それでも空は彼女たちに新しい太陽を与えたのだ。
-了-