第二章 友情に感謝

●赤井このみ

 午後7時、晩ごはんの前にまたママと言い争いになっちゃった。だってあんまりにもこの髪の色のことをひどく言うからさ、こっちも言いたくないことまで言っちゃうよ。どうしてそんなに黒髪に戻せ戻せって言うの? あたしは気に入ってるんだよ? 別に悪い子になったわけじゃないんだよ?
 もう勝手にしなさいってママは自分の部屋にこもった。だからあたしは一人で晩ごはん。フンだ、どうせママにはわかんないよ。ママもチャビンもあたしのことなんか信じてないんだ、面倒かけるだけの存在だって思ってるんだ。
 せっかく新しい世界が始まったのに…。そういえば今日の刑事さん、面白かったなあ。
 ふと思い付いてあたしはスプーンを置く。そしてスマホですみれにショートメール。どんな時でも気軽に連絡できる相手がいるのは有難いよね。ほんと、友情に感謝。
『ねえ、すみれには秘密基地ある?』
 すぐに返事が来た。
『何それ?』

●ムーン

 警視庁。事情聴取まで少し時間があったので私は警部と一度別れて交通課に顔を出す。案の定彼女はまだデスクに残っていた。
「美佳子、お疲れ」
 私に気付くと彼女も「おうおう、お疲れ」と席を立つ。スラリと背が高く、長い黑髪を後ろでまとめたその制服姿はまさしく婦人警官。氏家美佳子…警視庁の同僚であり、私の数少ない友人。
「今日は悪かったね、あんたに変なこと頼んじゃって。やっぱり征服警官が中学校に行くのは生徒を動揺させちゃうかなと思ってさ」
「ううん、ちょうど現場の近くだったから気にしないで」
「でも後からよく考えたらさ、美人刑事を送り込む方がまずかったかなと思って。ほら、特に思春期の男子諸君には刺激が強過ぎるでしょ」
「もう、何言ってんのよ」
 そんなお決まりのやりとり。刑事という殺伐とした仕事の中で彼女の存在はいつも渇きそうになる心に潤いをくれる。その友情に感謝しかない。
「ねえ美佳子、電話でも言ったけど、今のところ生徒さんたちが危ない目に遭ってるとかは特にないみたいよ。先生たちも気を付けてくれるってさ。でも怖いよね、盗撮なんて」
「まったく、世の中どうなってんだか」
 彼女は苦々しくそう言うと、今朝の詳細を教えてくれた。ミニパトで駐車違反を取り締まっていた時、物陰から登校中の女子生徒を撮影する男を発見。怪しんだ美佳子が声を掛けようと近付くと男は逃走、走って追いつくと殴りかかってきたので美佳子の一本背負いが決まってお縄となったらしい。
「いったいどんな人なの? 通勤中のサラリーマンとか?」
「いやいや、35歳のフリーターよ。さっき聴取したら、前はコンビニとか電気屋とかで働いてたらしいんだけど長続きしなくて、最近は仕事も見つからなかったって」
「それでストレス溜まってイライラしてたのかな、その人」
 美佳子の柔道は中学生の頃からの筋金入りだ。それを喰らわされた男の姿が少しだけ哀れに思えた。まあ自業自得なので同情はしないけど。
「イライラしててもやっちゃいかんでしょ。一応は公務執行妨害で逮捕したけど…まあおそらく送検せずに釈放って感じかな。撮影に使ってたスマホも調べたけど、道を歩く女子中学生がたくさん写ってただけでいやらしい物じゃなかったから」
 悔しそうに唇を噛む美佳子。仮にその男に猥褻な意図があったとしてもそれを証明するのは難しい…この仕事をしている人間なら何度も歯痒さを覚える法の限界というやつだ。あとは無断撮影を肖像権の侵害で訴えるしかないが、それはもっと難しい。
「そんなわけで一晩お灸を据えたら明日釈放。前科もないし、今回はそうするしかないわ。まあしばらくは中学校周辺のパトロールを強化するよ」
 交通課の業務を逸脱することに全く面倒を感じない…サバサバしてるのに正義感と優しさが溢れている彼女の人柄。私は親愛を込めて「さっすが美佳子!」と告げた。

 もう少しだけ雑談をしてから私はそろそろ戻ると伝える。美佳子も腕まくりをして「よっしゃ、説教の続きじゃ」と取調室へ向かった。そんな気持ちの良い後ろ姿を見送りながら、私は交通課を後にする。

 午後8時、警部と合流して藤川と熊野の事情聴取を開始。本人たちの希望で二人一緒にということになった。取調室の机を挟んで二対二で席に着くと、「わざわざお越しいただいて恐縮です」と警部が切り出した。
「社長のためだから協力はしますけどね、でも刑事さん、もう知ってることは全部話しましたよ」
 藤川が答える。二人とも名越とは同世代の男性、藤川は女性的な顔立ちをしたやせ型長身、隣の熊野は焦げ茶色のパーマと黒縁メガネが印象的な中肉中背。彼らを聴取するのはこれで賞味三回目なのでうんざりするのも無理はない。捜査がそれだけ昏迷していることは彼らにも伝わっているだろう。
「すいません、こちらとしても雲を掴むような状態でして」
 警部があっけらかんと言う。そして事件当夜のことを改めて確認していく。名越に特段変わった様子はなかったこと、忘年会のためにいつもより早く挙がって三人で居酒屋に行ったこと、オフィスを出る時に間違いなく出入り口のドアは施錠したこと、飲んでいたら5時半頃にクライアントからの電話が入り名越だけがオフィスに戻ったこと、二人は深夜1時頃までそのままそこで飲んでいたことなどが口を揃えて語られた。
「随分長い時間居酒屋にいらっしゃったんですね」
「ええ、二人とも飲むのは好きなんで。それに一応忘年会ですしね。社長が抜けたことで余計に盛り上がっちゃって…ほら、上司の悪口とか言いだすと止まらなくなるじゃないですか」
 そう言って藤川はちらりとこちらを見る。同意したいが警部の隣で大いに頷くわけにもいかない。
「名越さんに対してはご不満もあったわけですか」
「そりゃありますよ。給料安いしケチだし、あの時もせめて少しお金を置いていってくれればいいのにきっちり自分の飲んだ分だけ払って行っちゃうんですから…なあ、熊野」
「そうだなあ、確かにケチだね。窓がマジックミラーだからってカーテンも付けないし、地デジ対応のテレビだって買ったの最近だし。アナログ放送が終わって何年経ってんだって話だよ。まあ…もともと一人で始めた会社だから節約が身に付いてるんだろうけどさ」
「それまでオフィスにはテレビがなかったんですか?」
 警部の問いに熊野は鼻で笑って答える。
「いえ、一応昔ながらのブラウン管テレビがありましたよ。俺らが雇われたのが今年の春だから、その頃からようやく経営に余裕ができたんでしょうね。それで夏にやっとテレビを買い換えたんです」
 私は現場で見たテレビを思い出す。オフィスに不釣合いなあの大画面テレビは名越にとって事業成功の証だったわけか。
「だからって刑事さん、俺らが社長をどうこうしたなんて思わないでくださいよ」
 そこで藤川が牽制球。
「ケチでしたけど悪い人じゃないし、仕事を探してた俺らを正社員で雇ってくれて感謝してるんです」
「そうですか。ところであなた方は金庫の暗証番号はご存じなかったんですよね?」
「はい、教えられてません」
「誰か外部の人間…例えば訪ねて来たお客さんが暗証番号を知ることはできると思いますか?」
 顔を見合わせる藤川と熊野。そしてパーマの青年が答えた。
「難しいと思いますよ。社長はパソコンで使うパスワードとかも徹底して秘密にしてましたし、金庫を開ける時も周囲の視線をすごく気にしてましたから。誰かが盗み見できたとも思えません」
 警部は感情なく「そうですか」と返した。
 私も頭の中で考える。部外者が金庫の暗証番号を知るのは難しい…だとすると最有力容疑者はこの二人ということになる。鍵を持っているからオフィスへの出入りは自由だし、暗証番号も実は知っていたのかもしれない。
 しかしそうなると矛盾が生じる。彼らが金庫のお金を盗もうとしたのならいつでもできたはずだ。わざわざ名越が残業しているところに押し入る必要はない。それに犯行推定時刻にはずっと居酒屋にいたというアリバイもある。店にも確認済みだ。誰かを雇って金庫破りをやらせたという可能性もなくはないが、それなら名越がオフィスに戻ることになった時点で計画を中止したはずだ。
「やっぱり…俺らを疑ってるんですか?」
 沈黙に不安をあおられたのか熊野が尋ねた。
「いえいえ、お二人には鉄壁のアリバイがありますから」
「鉄壁のアリバイなんて…まるで推理小説みたいな言い方ですね」
 警部の言葉に彼はまた鼻で笑う。
「不謹慎でしたらすいません。ところで推理小説といえば…名越さんのダイイング・メッセージについては何か思い当たりませんか?」
「血文字のアイウエオですよね。考えてますけど全然わかりません」
 藤川が返答。この二人は遺体を発見した時にその文字を見ているのである。第一発見者の藤川が実はあの血文字を書いた、あるいは加筆や加工を施したという可能性も以前に検討したが、血液の渇き具合からすぐに却下された。アイウエオの文字はかすれることもなく十分な血液で被害者自身の指によって書き残された…それは鑑識の見解からも疑いようのない事実だ。
「お仕事でもプライベートでも、名越さんのお知り合いでアイウエオに関連した人はいませんか?」
 警部がさらに尋ねる。
「ピンときませんね、プライベートはほとんど知りませんし。なんならブログに公開して訊いてみましょうか? 全国のミステリーマニアが考えてくれますよ」
「それはやめてください」
 私が語気を強めて言うと、藤川は「冗談ですって」と肩をすくめた。この三日間、名越の手帳やパソコン、自宅の私物なども調べたが、アイウエオに関連した情報は出ていない。独身であり、親戚付き合いもあまりしていないようだった。実家の両親の話では会社を立ち上げた五年前から一人我武者羅に頑張っていたという。
 アイウエオ、アイウエオ、アイウエオ…考えれば考えるほどわからない。
「ねえ刑事さん、ちょっといいですか」
 熊野が指摘する。
「金庫から金が盗まれたってことは犯人は泥棒ですよね。だったら社長が泥棒の名前を知ってるわけないですよ。アイウエオが表してるのは犯人の名前じゃなくて、犯人の特徴とかじゃないですか?」
 おそらくとっくに考えていたことであるが警部は「ナルホド」と頷いた。
「おい熊野、アイウエオをどう解釈したら犯人の特徴になるんだよ」
「例えばそう…アイウエオ作文だ。頭でっかちで、イケメンで、薄毛で、英語が喋れて、おっとりしてる…とかどうだ?」
「んなわけねーだろ。それより犯人のこととは限らないぞ。もっと別の大切なこと…例えば俺たちへの遺言とかかもしれない。会社を頼んだぞ、みたいな」
「アイウエオをどう解釈したらそうなるんだよ」
「だから例えばだって。そもそも暗号のダイイング・メッセージなんてナンセンスだ。あれは暗号じゃない、社長は普通にメッセージを書いたのにこっちの知識が足りなくて意味がわからないだけなんだ。そう、片仮名に見えるけどあれは楔形文字かもしれない」
「社長は古代人かよ!」
「まあまあ、お二人とも」
 漫才のようなやりとりを警部がいさめる。私も少々うんざりして手にしていた手帳とペンを置いた。

 そしてその後もダイイング・メッセージ談義が催されたが、何も実らないまま彼らの聴取は終了となった。

 午後9時、続いて事件当夜名越を残業に追いやったクライアントへの聴取が始まった。名前は高松光良、入室時からイライラが伝わってくる神経質そうな中年男性。腰を下ろすやいなや警部の挨拶よりも先に彼は話し始めた。
「早いとこ終わらせてくださいよ、刑事さん。こっちは忙しくて死にそうなんですから」
 電話では何度か聴いていたがかなり早口で甲高い声だった。彼は警部の異様な風貌にさらに苛立ちを強めているように見える。
「確かに先週の金曜日、名越くんに電話したのは僕ですよ。彼に開発してもらった会計システムがおかしくなっちゃったからどうにかしてくれって頼んだんです。すぐに調べて折り返すっていうのにいつまでたっても連絡がないから、こっちも頭にきてまた電話しました。でも何回掛けても彼が出なくて…会社まで押しかけたい気分でしたよ!」
「でもあなたはそうしなかった」
 警部が合いの手。
「そりゃそうでしょう、名古屋にいたんだから。仕方ないから自分らでなんとか修理して決済に間に合わせましたよ。三日間ほぼ徹夜です」
 そう、彼は金曜日から月曜日まで名古屋の支社に出張していたのだ。同僚の証言も得られており、途中で抜け出して東京に往復する時間的余裕はなかった。つまり、この男にもまた鉄壁のアリバイがあることになる。
「名越さんとは長いんですか?」
「彼が会社を始めた頃から少しずつ仕事をお願いするようになったんです。しっかりやってくれるからだんだん大きな仕事も頼むようになりましたね。金曜日の夜みたいに無責任に連絡が途絶えるなんてことはこれまでなかったから…少し心配はしてたんです」
 小さく溜め息。
「でもまさか殺されてたなんてねえ。まだまだこれからだってのに、彼もさぞかし無念だと思いますよ」
 高松は一瞬淋しそうな顔を見せたがすぐに真顔に戻った。通話記録では彼が名越に電話してシステムチェックを依頼したのが午後5時32分。その後しびれを切らして電話したのが午後10時ジャスト、以降深夜0時まで五回ほど掛けているがいずれにも名越は応答していない。やはり当夜10時までには殺害されていたと見るべきだろう。
「これまでに名越さんのオフィスを訪れたことはありますか?」
 警部が切り口を変えた質問を投じる。高松は少し考えてから答えた。
「確か…一年くらい前に行きました。一つ大きな仕事を任せたくて、当時はまだ社員は名越くんだけでした。そういえば古めかしいブラウン管テレビが置いてあったなあ、まだ買い換える余裕がないとか言ってましたよ。それが今じゃ社員を二人も雇ってるんだから大したもんです」
 気付けば彼の口調は穏やかになってきていた。目をかけていた青年の突然の死に思いをはせているのだろうか。
「名越くんのオフィスに行ったのはその一回きりです。彼のような個人事業のシステムエンジニアは自分からクライアントの会社を回るのが普通ですから。クライアントの方からオフィスを訪ねるなんてことは滅多にない。あの時は僕がたまたま近くに行く用事があったから足を運んだんです」
 高松の言葉を聞きながら私はまた頭の中で考える。オフィスには普段からクライアントも出入りしていなかった…だとすればますますわからない、いったい何者が金庫を狙って忍び込んだのか?

 その後も警部はいくつかの質問を投げたが特に新たな情報は出てこず、高松は忙しそうに取調室を出ていった。

●犯人

 俺が殺人犯だなんて…警察はまさか感付いちゃいねえだろうな。今のところそんな様子はねえが…。
 でもあいつが…あいつが警察に余計なことを言いやがったらまずい。
 早く、早くなんとかしねえと!