第一章 異世界転移した件

●赤井このみ

「帰ろうよ、このみ」
 ホームルームの後、すみれが声を掛けてきた。
「ごめん、チャビンに呼び出されてんの」
「え、また? これで三日連続じゃん、敵も手ごわいねえ」
 言葉とは裏腹にすみれの目は明らかにニヤついてる。
「こら、面白がってるでしょ」
「キャハハ、ま、しょうがないか…でもまさかこのみがこんな大胆なことするなんて思わなかったな。これまでどっちかっつうと地味系だったから、いきなり反乱軍のリーダーになっちゃうなんて」
「別にリーダーじゃないし、っつーかメンバー誰よ」
「そっかそっか。でもうちは似合ってると思うよ、それ」
 親友は視線をあたしの頭に向ける。
「…ありがと、じゃあ闘ってくるからすみれは先に帰って」
 ぴょんと立ち上がって深呼吸。
「お、臨戦態勢じゃん。ファイトだこのみ、エイエイオー!」
 そんな声援を背中に受けながらあたしは教室を出た。

「おい、聞いてるのか赤井、いつまでそんな髪してるつもりだ? 年が明けたら受験なんだぞ、そんな頭で受けられると思ってるのか?」
 狭苦しい生活指導室にチャビンのだみ声が響く。窓にはせっかく12月の綺麗な冬空が広がってるのにこれじゃ台無し。
「いいか、お前は成績も良いしこれまで三年間なんのトラブルもなかった。このままいけば内申書だって問題なしだ。なのになんで今になってそんな不良みたいなことをする?」
「別に不良になったわけじゃありません。勉強だってしてます。それに受験要項に髪の毛の指定はなかったと思いますけど」
「屁理屈言うんじゃない! なあ赤井、いったいどうしちゃったんだ? これまでのお前はどこに行っちゃったんだ? 担任の風間先生も心配してた。なあ赤井、何か悩んでるんなら相談に乗るぞ」
 チャビンは今度は声を落として「誰かに何か言われてるのか?」「危ないことに巻き込まれてるんじゃないのか?」とこっちの目を見て言ってくる。的外れにうんざりしながらあたしは返した。
「いいえ。自分がしたくてしてるだけです」
「だったらさっさとその変な髪を元に戻せ!」
 うわ、チャビンがキレた。あたしは「失礼しまーす」とそそくさ退散。部屋を出る時にまだ後ろでガミガミ言ってたけどそんなの気にしない。フンだ、何が変な髪よ、あんたのバーコード頭の方がよっぽど変だって。あたしはあたし、別に先生の期待に応えるために生きてるわけじゃないんだから。
 教室で鞄を取るとそのまま早足で階段を下りる。踊り場の鏡に映る女子中学生は今までとは違う、制服と顔はおんなじだけど髪の毛の色は真っ赤。赤毛のアンも赤髪のシャンクスもびっくりの鮮やかな真っ赤っか。そう、まさに名を体で表したあたしは赤井このみ!
 なんだろ、この気持ちの良さ…モヤモヤが吹き飛んで目の前にぱっと晴れ渡る空が広がったみたい。心がウキウキしてる。テストで学年一位になった時より、修学旅行でランドマークタワーに上った時より、ママにディオールの香水をもらった時よりずっとずっと良い気分。よ~し、二段飛ばしだ!
 踊り場で軽やかにターン、ホップ、ステップ、ジャンプで華麗に1階に着地。はいよくできました。1年生の男子が何人かこっちを見てるけど…どう? この髪、ちょっと素敵でしょ? そんなに見つめないで…って、なんだかドギマギしてるみたい。
 ヤッベ、今スカートだった。あんまし飛び跳ねてちゃまずいまずい。急に恥ずかしくなってあたしはスカートを押さえながらおすましでその場を通り過ぎた。
 下駄箱に向かって廊下を進んでくと…あれ? 職員室の前で教頭先生と名刺交換してる見慣れない女の人。誰だろ? うわあ、すっごい美人。淡く茶色に染めた髪をセンターで分けて肩まで伸ばして…薄紫のコートはちょっと地味だけど、似合ってるっていうか着こなしてる感じ。それになんてったってあの切れ長の瞳、すっごい綺麗。
 ほんとに誰なんだろ…ひょっとして女優さん? 学校でドラマの撮影でもするのかな?
 そんなことを思いながら靴を履き替えて校舎を出る。さて、これからどうしよう。すみれはもう帰っちゃっただろうし、宿題も授業中にやっちゃったから帰ってもやることないし…あ、そうだ!
 ひらめいたあたしはあの場所へ向かう。今はもう弓道部くらいしか使ってない旧体育館、その裏側にある壊れた机や椅子の廃棄場…そこがあたしのお気に入りの場所。1年生の時に散歩してて偶然発見してから時々足を運んでる、この学校でのあたしの秘密基地。どうしてだかわかんないけど、壊れて積み上げられた机や椅子を見てたら心が落ち着くんだ。
 グラウンドの脇を抜けて、旧体育館の裏に回って少し草が生えた所を通る。体育館の中からはスパーンスパーンって音がする。弓道部の人かな? 冬休みも近いのにご苦労様だね。気にせず草むらを抜けると机と椅子の山が見えてきた。そういえば髪を赤くしてからここに来るのは初めてだっけ。来たよ、あたしの坊やたち。
「どう? 髪の毛赤く染めてみたの」
 そう言って机と椅子の山に駆け寄る。柔らかい風が吹いて少しだけ古い木の香りがした。この感じもあたしは大好き。続けて「結構似合ってると思わない?」と問い掛ける。
「フフフ…いいと思いますよ」
 突然低い声が返事した。え、嘘、ほんとに机が喋った?
「最近の中学生にはそういう髪がはやってるんですか?」
 空耳じゃない、確かに声がする。でもまさか机が喋るわけないよね。…ってことは。
 急いであたしは山の裏に回ってみる。するとそこには驚くべき人が立っていた。

「うわああっ」
 思わず声を上げてたじろぐ。だって、積まれた机と椅子を見上げてるこの人…変な格好してるんだもん。ところどころ破れたボロボロのコートに冒険家みたいなツバの大きなハット。そして長い前髪は右目を隠してる。何なのこの人…ひょっとして変質者? 反射的にポケットのスマホに手が伸びる。
「こんにちは、ここの生徒さんですね」
 前髪に隠れてない左目がこっちを向く。
「驚かせてごめんなさい。けっして怪しい者ではありませんからご安心を」
 いやいやいやいや怪しいでしょ、怪しさ全開でしょ。でも確かに…声は穏やかで落ち着く感じだし言葉遣いも丁寧。その瞳も黒く澄んでる。
「お、おじさんは誰ですか?」
「おじさんですか、まいったなあ。まあ君から見ればそうか」
 頭を掻きながらその人は体ごとこっちを向く。
「私はカイカン、警視庁の刑事です」
 警視庁ってことは警察だよね。この人が刑事さん? じゃあもしかして変装してるからこんな格好なの?
「け、刑事さんがどうしてこんな所にいるんですか?」
「いやあ、私の部下が用事でこの学校に来てましてね、待っている間暇なので校内を散歩してたらここを発見したんです。あ、用事といっても別に学校で事件があったわけじゃないので安心してください」
「そう…ですか」
 半信半疑だけど一応納得してあたしはポケットのスマホから手を放す。でもカイカンってどういう名前なんだろ…そんな名字あるのかな?
「それにしてもここはなんだか落ち着く場所ですね。長年生徒さんたちを支えた机や椅子が役目を終えて休んでるというか…お疲れ様って感じですか」
 あたしの戸惑いなんかお構いなし二カイカンさんは話す…よくわかんないけどちょっと嬉しそうに。この場所が落ち着くってのは同感…フフ、変な人だな、なんだかおかしいや。
「ここは君の秘密基地ですか? だったら大切な時間を邪魔しちゃ悪いので失礼しますね」
 わあびっくり、どうしてわかるんだろ。刑事さんだから?
「あの、どうしてそう思うんですか? ここがあたしの…その、秘密基地だって」
「フフフ、私にも経験がありますからね。休み時間とか放課後とか、無性に一人になりたくなって、誰にも見つからないお気に入りの場所で過ごしたもんです。ちなみに私の秘密基地は屋上に上がる誰も来ない階段でしたが。
 珍しいことじゃありません、というよりほとんどの人はそういう秘密基地を持っているものですよ」
 そうなんだ。じゃあすみれや他のクラスメイトもみんな秘密基地にこっそり行ってるってこと? 校内にそんなにたくさん秘密の場所があるとは思えないけど。
「はい、ここがあたしの秘密基地なんです。刑事さん、全然邪魔じゃないですからどうぞゆっくりしていってください。初めてのお客さんです」
「それじゃあお言葉に甘えて」
 あたしとカイカンさんは積まれた椅子の山の中からまだ座れそうなのをそれぞれ見つけてきて腰を下ろす。不思議な感じだった、変な人だとは思うけど悪い人じゃないみたいだし…それにあたしの周りにいる大人たちとは何かが違う。
「君、お名前は?」
「赤井です、赤井このみ」
「そうですか。その髪の色にぴったりのお名前だ。確か最近染めたって先ほどおっしゃってましたね」
 独り言を聞かれた恥ずかしさもあってあたしは無言でコクンと頷く。一瞬の沈黙…また古い木の香りがした。風に前髪が揺れておでこがくすぐったい。カイカンさんの長い前髪もそよいてる。
「あの…」
 風が通り過ぎると自然にあたしの口が開く。そしてあの日のことを語り始めた。
「あのですね、刑事さん、あたし別に不良ってわけじゃないんです。今まで悪いこともしたことないし…むしろもっと色々すればよかったなって思ってるくらいで」
 カイカンさんが黙ってこっちを向く。
「とりあえず勉強はしてたんですけど、それで成績もまあまあ良くて、先生からも親からも褒められて…最初は喜んだりもしてたんですけど、最近になってなんかつまんないっていうか、このままでいいのかなって気持ちがどんどん大きくなってきたんです。でもどうしていいかわかんなくて…ずっとモヤモヤしてて」
「ナルホド」
 独特のイントネーションで低い声の相槌。
「先週の金曜日も進路面談があったんですけど、なんか先生とママだけで盛り上がっちゃって…あたしは蚊帳の外でした。日が暮れた誰もいない帰り道でビルの窓ガラスに映った自分の姿を見てたらとってもつまんなくなって、すっごく寂しい気がしてきました。それでガラスに映った自分に話し掛けたりして…バカみたいですよね。
 そしたら突然胸の奥でパチンって音がしました。そして思ったんです、このままじゃいけない、何でもいいから何かしようって。まるでパチンが合図だったみたいに」
 カイカンさんの口元がちょっとほころぶ。
「それであたし、そのままコンビニまでダッシュして、髪染め液買ったんです。髪の毛を赤くしたらすっごくスカッとしました。
 …あの、あたしって変ですか? おかしいですか?」
 カイカンさんは小さく笑ってゆっくり首を振る。そして右手の人差し指を立てた。
「ちっとも変じゃありません。君くらいの年頃ではそういうモヤモヤやパチンはあって当然です」
「ほんとですか? でもクラスメイトにはそんな子いませんよ。受験生だからみんな勉強の話ばっかで。友達は赤い髪のこともいいねって言ってはくれますけど、でもやっぱ驚いてたかな」
「人それぞれモヤモヤの形は違いますからね。それにパチンの時期もそれぞれ違う。一生モヤモヤしたままでいられる人もいますけど、大人になってからパチンが来る人もいます。だから君くらいの年頃でちゃんとそうやってパチンがあるのは悪いことじゃありません」
 なんだかわかるようなわかんないような話だけど、それでも先生やママみたいに否定されないだけ有難い。
「刑事さんもモヤモヤやパチンはありました?」
「もちろん。最初のパチンで私はこのハットをかぶりました。二度目のパチンがこのコートかな…ちょうど君くらいの年齢の頃です。初めて着た時は先生も親も大反対でしたよ。母親なんて恥ずかしいからやめてくれって泣き出しちゃって。まあそれでも懲りずに続けてたら、呆れて何も言わなくなったかな」
 あたしくらいの年齢って…何年同じコートを着てるんだろ。でもこのボロボロさを見たらそれも納得。
「あたしもママからしばらく口をきいてもらえませんでした。仲間ですね」
「そうですね、仲間です」
「それに、生活指導のチャビンからは毎日呼び出されて叱られるんです。最悪ですよ」
「チャビン?」
 ヤッベ、うっかり言っちゃった。
「ごめんなさい、友達とこっそりそう呼んでるんです。生活指導の南波先生、バーコード頭のハゲチャビンだから」
「それは手痛い、先生も大変だ」
「やっぱあたし…迷惑かけてますかね」
 カイカンさんはまた首を振った。
「いいんじゃないですか、そういったことができるのもモラトリアムの特権だと思えば」
 モラトリアムって…何だっけ? ケーキの名前…じゃないよね? どうしてだかわかんないけどあたしの頭にはドーナツの映像が浮かぶ。モラトリアムの意味を尋ねようとした時、向こうから一つの声。
「警部!」
 見るとさっき職員室の前で見た美人の女の人がこっちにやってくる。警部って呼んでるってことは…。そんなあたしの疑問に気付いたのかカイカンさんは「あの人はムーン巡査、私の部下です」と教えてくれる。そして立てていた指を下ろすとゆっくり腰を上げた。ムーンって…それも名前なの? 超ドキューンじゃん。
「やあムーン、よくここがわかったね」
「警部の行きそうな所はおおよそ想像がつきますから」
 ムーンさんがあたしたちの前まで来る。近くで見るともっと綺麗、いいなあ…。この人も刑事、まるでテレビドラマの中から抜け出してきたみたい。まあカイカンさんはカイカンさんでアニメに出てきそうだけど。特にその長い前髪…ゲゲゲの何とかとか、何とかジャックとか。ムーンさんがこっちを見たのであたしも起立して会釈する。
「3年生の赤井このみです、刑事さんとお話してました。ごめんなさい、お仕事中に」
「いえいえ、うちの警部のおもりをしていただいてこちらこそありがとうございました」
 微笑むムーンさんは笑った顔も美人。隣でカイカンさんも「おいおいムーン、私は子供か」と笑ってる。
「大人でしたらちゃんと仕事しましょう。もう用事は済みましたから行きますよ」
「そうかい? じゃあ行こう。では赤井さん、失礼しますね」
 カイカンさんはそのままムーンさんと去っていった。二人の後姿を見ながらあたしは考えていた。
 …生きてる世界が変わったみたい。カイカンさんにムーンさん。これまでの世界にはあんな人たちいなかった。これってもしかして、異世界転移? 今ラノベで流行のやつ? 髪の毛を赤くしたことであたしは平行世界に導かれた。そう、ここはパラレルワールド!

 そこでまた吹き抜ける風。古い木の香り。
 …なーんてね、そんなことあるわけないか。ひょっとしてこれが世に言う中2病ってやつ? まあもう中3だけどさ。

●ムーン

 私の名前はムーン、警視庁捜査一課の女刑事である。もちろんこんなふざけた名前の日本人がいるはずもなく、ムーンというのは職場上のニックネームのようなものだ。これは一般の方はあまりご存じないのだが、警視庁捜査一課はミットと呼ばれるいくつかのチームに分かれており、私の所属するミットではお互いをニックネームで呼び合うのが古くからの慣例らしい。ちなみに私の上司はカイカンなる、私以上に奇異なニックネームで呼ばれている。
 そう、今私が運転する車の助手席で口におしゃぶり昆布をくわえているのがそのカイカン警部だ。その容姿も言動も…ニックネームに引けを取らないド変人。
「いやあ、中学時代が懐かしくなっちゃったよ」
 よく通る低い声がそんなことを言っている。まあそもそもあの中学校にこの人を連れて行ったのは私なのだが。
 きっかけは交通課に勤務する友人からの依頼。今朝彼女は登校中の女子生徒を物陰から撮影する不審な男を逮捕したのだが、もしかしたら盗撮以外にも生徒に迷惑行為を働いているかもしれないから一応学校に確認してほしいとのことだった。彼女には色々と借りがあるので私は引き受け、そこにこの変人上司もくっついてきてしまったというわけだ。
「先生方に伺いましたが、今のところ生徒さんたちにこれといった被害は出てないみたいです」
「それはよかった。最近は物騒だからね、どこに不審者がいるかわからない」
 あんたも知らない人から見たら立派な不審者だっつーの。さっきも赤毛の女の子と並んで話してたけど、あの光景だって見方によってはかなり危ない。
「先ほどの…赤井さんでしたっけ、彼女はあそこで何をしてたんですか?」
「ああ、どうやらあの場所は彼女の秘密基地らしいよ。それで放課後に一人でふらっと立ち寄ったんだって」
「そうでしたか。体育館の裏にあんな髪の少女だから私てっきり…」
「私も最初はそう思ったよ」
 警部はくわえていた昆布をタバコのように指に挟む。
「でもあの辺りに吸い殻は落ちていなかったし、彼女はそんな子じゃなかった。いや、きっとほとんどの子供は私たちが思っているよりずっといい子なんだろうな。赤井さんと話してそう感じたよ。髪の毛を赤くした理由も大いに共感できたしね」
「理由って何です?」
「フフフ…君にもあったでしょ? パチンだよ、パチン」
 またわけのわからないことを。まあ確かに、彼女は悪い子じゃなさそうだった。人を見かけで判断してはならない…警部が言うと説得力があるな。あれ、いや逆か。この人は中身も変人なんだから。
「警部、私のために寄り道していただいてありがとうございました」
「いやいや、交通課とは持ちつ持たれつだからね。それにこっちの捜査が行き詰まってたからちょうどいい気分転換になった。でもそろそろこっちを解決しないとね」
 そのとおりだ。私たちのミットが現在担当しているのは先日発生した殺人事件。捜査を開始して三日目だが未だに容疑者はおろか犯人像も絞り込めていない。警部と私は再び現場検証を行なうため警視庁を出てきた、その途中であの中学校に立ち寄ったのである。
「では警部、このまま事件現場に直行しますね、近くですから」
 そう言って私はアクセルを踏み込んだ。

 ハンドルを切りながら頭の中で整理する。…事件のあらましはこうだ。
 現場はシステム開発を主業務とする『セブンファイブフォー』という会社のオフィス。会社といっても社員は社長を含めて三名という小さなもので、もともと社長の個人事業だったのが最近ようやく人を雇える規模になったという。被害者はまさにその社長である名越健一、まだ若い26歳男性。死因は背中のほぼ中心を一突きされたことによる失血死、凶器は現場にあった果物ナイフで、遺体が発見された時もそのまま背中に刺さっていた。
 第一発見者は社員の藤川聡。一昨日の朝、つまりは月曜日の朝に出勤した時にオフィスの床にうつ伏せに倒れている社長を発見、驚いて腰を抜かしているところにもう一人の社員である熊野大介も出勤してきて二人で119番と110番をしたという流れだ。
 司法解剖の結果、死亡推定時刻は金曜日の午後5時から翌土曜日の午前5時までの約12時間とされた。しかしその後の捜査で犯行推定時刻はさらに狭めることができた。
 金曜日は『セブンファイブフォー』の忘年会だったそうで、午後4時半には終業として三人は居酒屋に向かった。そして一杯目のビールを飲んでいたところで名越のスマートフォンが鳴り、クライアントから緊急の問い合わせが入って彼だけがオフィスに戻った。立ち去る際に「作業が長引くかもしれないから二人で適当に飲んで解散して」と言い残したため、藤川と熊野は社長が戻ってこなくてもさほど気にせずそのまま飲み続け、日付が変わってからようやく帰路に就いた。
 名越が居酒屋を出たのが5時半過ぎ、そのまま直行したとすれば6時には現場のオフィスに戻っていたことになる。そして彼に作業を依頼したクライアントはなかなか返事が来ないため夜10時以降何度か名越に電話をしているが、彼がそれに出ることは一度もなかった。二人の社員の証言ではそのクライアントは大切なお得意様であり、名越が電話を無視することは有り得ないという。つまり、午後10時の時点で彼はもう電話に出られない状態になっていたと考えられる。
 以上を踏まえると、名越健一は金曜日の午後6時から10時の間に殺害されたということになる。
 さらに遺体が発見された際、その衣服は乱れオフィスはかなり散らかっていた。つまり犯人と被害者は現場で格闘した可能性が高い。加えてオフィスにあった金庫も開いており現金がなくなっていたことから、犯人の動機は金銭であったと考えられる。虚しい話であるが、物盗りによる犯行と見るのが最も妥当な現場であった。被害者はオフィスに侵入した泥棒と鉢合わせしてしまい、揉み合いの末に殺害されてしまったのだ。

 しかし…警部と捜査を進めるうちに、そう単純な話でもなくなってきたのである。

 『セブンファイブフォー』のオフィスはビジネスビルの1階に入っていた。駐車場に車を停め、警部と私は未だに現場保存されているその部屋に足を踏み入れる。
「やっぱり、鍵をこじ開けた痕跡はないよね」
 出入り口のドアの鍵穴を見ながら警部が言った。そう、物盗りの犯行と考えた際にまず生じるのがこの疑問だった。
「ええ、鑑識が調べましたが不審な傷などは一切ありません。もちろん針金とかで開くような単純な錠じゃありませんから、開け閉めするには正規の鍵を使うしかありませんね」
 第一発見者の藤川が出勤した時、このドアは施錠されていなかった。つまり犯人は開けっ放しで立ち去ったことになる。しかし逃げる時はそれでいいとしても入る時はそうはいかない。犯人が物盗りなら侵入には必ず鍵が必要なのだ。
 捜査の結果、鍵を所持していたのは社長と二人の社員のみ。これまで紛失もしていない。社員用の鍵は普段はデスクの上に置いていたらしいので、つまり外部犯とするならば犯人は前もってこっそりそれを持ち出して合鍵を造っていたことになる。…部外者にそんなことが可能だろうか?
「ねえムーン、犯人は合鍵なんか使わずに入った、例えば被害者の名越さん自身に招き入れてもらったとしたらどうだろう」
「鍵を開けてもらって中に入る泥棒がいますか? それに金庫の暗証番号を犯人はどうして知っていたのかが問題です、社員の二人も聞かされていなかったそうですから」
「刃物とか拳銃とかで名越さんを脅して金庫を開けさせたのかもしれない。そう、つまり泥棒じゃなくて押し込み強盗だったんだ」
「もともと武器を手にした強盗が犯人だとすると、凶器が現場に会った果物ナイフというのは不自然ではありませんか? それにそもそも、被害者がオフィスにいたのは偶然です。クライアントからの急な問い合わせがなければ、金曜日の夜に名越さんがここに戻ることはありませんでした。たまたまいた社長を脅して金庫を開けさせる、というのは強盗の計画として無理があると思いますが」
 すでに何度も検討した話だった。警部は「だよね」と呟くとドアから離れ室内に向き直る。三つのデスクとパソコン、コピー機、小さな応接テーブルとソファが所狭しとひしめき合うオフィス。全体的にこじんまりとしている中、テレビだけが大画面でやや不釣合いだった。床には書類と文房具が散乱し、遺体があった位置には白線で人型が描かれている。
「外部犯だとすると犯人は泥棒。留守のオフィスで金庫を物色してたところに偶然名越さんが戻ってきて鉢合わせ。そう考えるのが一番自然かな」
 警部は右手の人差し指を立て、私の返事を待たずに言葉を続ける。
「二人はそのまま揉み合いになった。そして逃げようとして背中を向けた名越さんを焦った犯人がその場に会った果物ナイフで後ろから刺した…」
 それは遺体がドアに頭を向けて前のめりに倒れていたことから導かれた結論だった。凶器の果物ナイフは熊野が実家から届いたフルーツをみんなに振る舞うために持参した物で、昼休みに使ってそのままテーブルの上に置かれていたという。
 こうして考えると、合鍵と金庫の暗証番号の謎は残るものの、やはり現場の状況は物盗りの犯行を物語っている…ある一点を除いては。
「さて、やっぱり最大の問題は…こいつか」
 人型の白線の近くにしゃがむ警部。そう、この事件の謎はこれ、遺体は右腕を前に伸ばすような体勢で倒れており、そして右手の先には血文字が残されていたのだ。遺体が運び出された今も、その血文字は白線が再現した右手の位置にしっかり残されている。被害者は厚手のセーターを着ていたこともあって出血は衣類の背中部分にとどまり、血文字以外に床を汚している血痕はない。
「ダイイング・メッセージ」
 警部の低い声が床に響く。そう、不謹慎な言い方になってしまうが、まるで絵に描いたようなダイイング・メッセージを被害者は残していたのだ…それこそ推理小説やミステリードラマのような暗号めいた代物を。
 警部の下について五年、これまでいくつもの殺人事件の現場に立ってきたが、ダイイング・メッセージなんてものにはほとんどお目にかかった試しがない。現実の世界ではそう都合よくダイイング・メッセージなんて残せないのだ。しかもそれが暗号になっているのなら尚更。
 そもそも何故わざわざ暗号にするのか? 犯人の名前をそのまま書いたら犯人に隠滅されてしまうから? しかしもし私が犯人だったら、被害者が書き残した物は暗号だろうが何だろうがとにかく全部消してしまうと思う。それに品詞の人間が瞬時に暗号をひらめくというのも無理がある。
 あるいは犯人が自分への疑いを逸らすために偽りのダイイング・メッセージを残すというパターンもある。しかしその場合は暗号にする必然性はない。誰も解いてくれなかったら意味がなくなるのだから。
 …とまあそんなわけで、実際の現場では暗号のダイイング・メッセージが残されているなんてことはまず有り得ない。しかし、そのまず有り得ないことがこの事件では起きてしまっている。
「…アイウエオ、確かに片仮名でアイウエオと書かれているね」
 警部が読み上げた。そう、殺された名越社長は血文字で『アイウエオ』と書き残しているのだ。一昨日、通報を受けて初めてこの現場に入った時、私は目を疑った。被害者が刺され自分の血でアイウエオと書き残している構図は、安っぽいミステリードラマにしか見えなかった。私はフィクションの世界へ…異世界へ転移したのかと本気で思いかけた。
 しかしこれは現実の世界で起きた事件。被害者は最後の力を振り絞ってこれを残した…そのメッセージはこちらも全力で読み取らなければならない。
 アイウエオ、アイウエオ、アイウエオ…。そこにどんな意味が隠されているのだろう。
 アイウエオ、アイウエオ、アイウエオ…。この五文字の片仮名にどんな解釈ができるのだろう。
「アイウエオ…アイウエオ…」
 警部もそう呟きながらまた口に昆布をくわえる。冗談みたいな格好をした刑事が冗談みたいな謎を解いている。
 ええいアホか、ふざけるな! …と叫びたくもなるがこれは冗談ではないのだ。そしてこの暗号こそがこの事件を単純な物盗りの千から脱輪させているに他ならない。

 結局日が暮れるまで現場で考えたが、アイウエオが他の何かに形を変えることはなかった。警部もあきらめたように立ち上がり、背伸びをして昆布をコートのポケットに戻した。
「ダメだね。またゆっくり考えてみるよ。ここはどうも落ち着かない…」
 変人上司はそう言いながら窓の方を見る。このオフィスの壁の一部は歩道に面した大きなはめ殺しのガラス窓になっている。そんなに人通りが多い道ではないが、それでも行き交う人々の全身が窓を隔ててよく見えた。
「警部、あれはマジックミラーですからこちらは見えてませんよ。そうじゃなかったらとっくに現場保存のブルーシートを掛けてます」
「わかってるけどさ、やっぱり落ち着かない。まるで展示会場で現場検証のデモンストレーションをしてる気分だよ」
 ダイイング・メッセージがアイウエオではそれも仕方ないかもしれない。
「警部、これからどうされます?」
「ひとまず警視庁に戻ろう。確か8時から藤川さんと熊野さんに改めて話を聞くんだったね。実はムーン、もう一人追加してほしい人がいるんだけど」
「事件当夜、名越さんに電話を掛けたクライアントですね。ご足労いただくよう連絡してあります」
 私がそう答えると、警部は「さっすがムーン、お見事!」と嬉しそうにオフィスを出ていった。