第四章 聖雨

 彼女に掛ける言葉を持てないまま私と美佳子は病室を出た。胸の中には鉛のように重たい後悔。私は…取り返しのつかないことをしたのかもしれない。夢遊病者のようにヨロヨロと駐車場まで出る。雨は小降りになっていた。
「ここにはあたしが残るから」
美佳子は厳しい顔でそれだけ告げて院内へ引き返していった。
私は濡れるのも構わず雨の中を歩いて愛車に乗り込むが、とても運転できそうにない。エンジンもかけずにそこで動かない体をシートに預けるしかなかった。
何もできない、何も考えられないでいるうちに三十分、そしてあっという間に一時間が過ぎる。また少し強まった雨の音、そして車のクラクションと救急車のサイレンが遠い喧騒に行き交っている。
…電話しなきゃ。
ふいに頭のどこかから声がした。そうだ、このことを警部に報告しなくてはいけない。警察官失格の私でも、せめてそれくらいの義務は果たそう。力なく取り出した携帯電話を耳に当てる。数回のコールでいつもの低い声が出た。
「やあムーン、そっちはどうだい?」
「…警部」
自分でも驚くほど抑揚のない声だった。
「桂沢さんが…亡くなられました」
返される沈黙。数秒を置いて「そうか」とだけ警部は言った。
「そちらの…捜査はどうですか?」
「さっき鑑識から連絡があってね、桂沢さんのワイシャツから出てきた破片は凶器の壺の一部だと断定された」
押し寄せる絶望、地面に穴が開いて落ちていくようだ。
「じゃあやっぱり…」
「いや、凶器についてはもう一つ追加で調べてもらっていることがあるから、その結果を聞いてからでないと結論は出せない。それよりムーン、大丈夫かい?」
「…はい」
私は動かない感情でポツリと答える。
「大丈夫じゃないね。いいかい?君はもう今日は上がっていい、そのまま家に帰るんだ。いいね、必ず帰って休むんだよ。ビンさんには私から伝えておくから」
家に…帰る?
「聞こえてるかい?運転が不安だったらタクシーで帰るんだ。いいね、返事は?」
「…わかりました」
かろうじて答えて通話を終えた。手から落ちた携帯電話が転がる。相変わらず涙の一つも出やしない。ただ雨だけがせわしなく泣き続けていた。

 指示どおりに自室へ戻り横になる…が全く眠れない。天井には昨日から今日までの映像が次々と浮かび上がる。そしてくり返される自問自答、結論は何度問い掛けても同じだった。
やっぱり…続けられないな。こんな欠陥人間が警察官になろうなんてのがそもそも間違いだったんだ。早めにわかってよかったじゃないか。
私はのそのそとベッドから出るとパソコンの電源を入れた。そして文書ファイルを開いてお決まりの文面を撃ち始める。すると今度はあのミットに配属されてからのことがどんどん頭に浮かんでくる。
警部との出会い、ビンさんとの出会い、最初の事件、そしてあれよあれよといううちに与えられたムーンという名前…そこから始まる刑事としての毎日。警部の隣で何人もの容疑者に出会い、被害者に出会い、そして真実が解き明かされる場面に立ち会ってきた。それは私の人生にはもったいないくらい…申し訳ないくらい、貴い日々だったに違いない。
それでも…パソコンに走らせる指は止まらなかった。

打ち終えてふと見ればもう午後8時を回っている。捜査は…どうなったんだろうか。

 自分でもよくわからない。気付けば私は警視庁へ向かっていた。午後9時、いつもの部屋のドアを開く。するとそこにはミットの長がいた。
「ビンさん、こんな遅くまでどうされたんですか?」
「君こそ…どうしたんだ。カイカンから帰って休むように言われてるだろう」
「そうなんですが…その、ちょっと気になってしまって。あの、警部は…」
「さっきまでここにいて僕と話してたよ。捜査が行き詰ってるみたいでな、それでちょっと散歩してくるとか言って出ていった」
「そうですか…」
まだ警部の結論は出ていないらしい。どうしよう…いっそのことポケットに忍ばせている紙を今ビンさんに提出してしまおうか。私が逡巡していると上司は優しく微笑んだ。
「随分思い悩んでるみたいだな」
「いえ、そんなことは…」
「今逃げちゃダメだぞ」
ビンさんの目が一瞬厳しさを見せた…が、まるで見間違えだったのかと思うほどすぐにまた優しい眼差しに戻る。
「もちろん人生では逃げるというのも大事な選択肢さ。でも…君にとってのそれは今じゃない。ほら、せっかく来たんだからカイカンの所へ行ってやれ。僕はもう帰るから」
ビンさんはそう言うと大きく伸びをした。

 もしかしたらと思って行ってみると、警部は職員食堂にいた。昨夜の私と同様、照明が灯された隅のテーブルに着いている。
「お疲れ様です」
私が声を掛けると、警部は少しだけ驚いた様子でこちらを見た。
「ムーン…大丈夫なのかい?」
「はい」
一礼してそばまで行く。
「あの、警部、捜査の方は…」
「まだ鑑識からの連絡待ちだよ。砕け散った凶器の壺についてさ、破片を一枚一枚丁寧に全部調べてもらってるから…時間がかかってるみたいだ」
見るとテーブルの上には警部の携帯電話が置かれていた。
「そうですか」
「ねえムーン、もう一度話を聞かせてくれないか?一通りの報告は受けたけど、もっと詳しく、この事件に関連して君が見聞きしたことを全て教えてくれ」
コートからおしゃぶり昆布を取り出す警部。
「頼むよ。私だけじゃどうも見落としていることがある気がするんだ」
「そんな…。でも…はい、わかりました」
心を決める。そうだ、せめて見届けなくてはいけない…この事件の解明だけは。私は昨日初めて現場に行った時から全ての場面を詳細に伝えていく。部屋の天井を見つめて何度も何度もくり返した記憶だ…人物の一挙一動に至るまで私は再現できた。警部は口先で昆布を動かしながら聞いていたが、途中から昆布の動きも相槌もなくなっていた。それでも私は語りを続ける…これがこの人の役に立てる最後の機会なのだから。
「以上です」
そう締め括る。見ると警部は右手の人差し指を立てたまま完全に固まっていた。静止画のように全く微動だにしていない。まさかこれは…いやそうだ、警部の頭脳は今とんでもないスピードで回転しているのだ。流れる静寂。そして警部の携帯電話が鳴り始めた。しかし…当の本人は固まったまま。
「はい、カイカン警部のお電話です」
もしやと思って代わりに出るとやはり鑑識課からだった。私は報告を受けて通話を終えると、声を張り上げる。
「警部、結果が出ました!凶器の壺の全ての破片から…誰の指紋も出なかったそうです!」
…パチン!
変人上司の立てた指が高らかに鳴り、音が暗い食堂に響いた。そして静止画は動画に戻る。
「ムーン」
警部はゆっくりと立ち上がり、私はぞくりとした。この雰囲気、この口調…間違いない、天才は真実を射ぬいたのだ。立ちこめる闇がモーゼの割った海のように切り裂かれていく感覚。
「ストーリーは繋がった。これで…きっと証明できる」
「警部、権田さんを殺した犯人は…」
思わず間髪入れずに尋ねた。
「桂沢さんじゃなかった」
そして一気に昆布を呑み込んでから低い声は告げた。
「君も捜査で会っている別の人物だ」
時が止まる。遠くで雨音だけが高らかに聖歌を合唱していた。