第三章 風雨

「刑事さん?」
後ろから呼び掛けられて私ははっとする。眠っていたのか、放心していたのか…顔を上げると辺りはほのかに白んできていた。観葉植物の向こうの擦りガラス窓からは弱い日が射し、もう雨音も聞こえない。振り変えるとそこにはオペ服の上に白衣を羽織った藤原の姿…全身から疲労の色が見て取れた。
「ここにいらっしゃったんですね」
歩み寄る彼に、私は慌てて立ち上がった。そしてすぐに一番気になっていることを尋ねる。
「あの、桂沢さんは…ご無事ですか?」
「今のところは…」
担当医は一瞬ためらってから続けた。
「なんとか持ち直されて状態は保っておられますが…大丈夫とは言えません。急変されたのは骨盤内の血管から出血したからです。運ばれてきた時の検査では異常なかったのですが…時間差で損傷のダメージが出たようです。いや、言い訳がましくてすいません」
骨盤へのダメージと聞いて、私は証拠品保管室で見た彼の携帯電話を思い出す。ズボンの尻ポケットに入っていたそれは完全に壊れていた。
「では再手術をされたのですか?」
「それがですね…桂沢さんは骨盤内の血管が生まれつき細いようで、通常の手術に耐えるのは難しいお体なのです。今のところ輸血と止血剤でなんとかなっていますが、これ以上血管の損傷が進むと…」
藤原は語尾を濁したが、言わんとすることは十分に伝わった。私は力の限り頭を下げる。
「すいません、私のせいで…」
「いやいや、そんなことはないです」
彼は大きく息を吐く。
「容態の悪化は交通事故が原因です、刑事さんの事情聴取のせいではありません。タイミングがたまたまそうなっただけですよ」
頭を上げて私はやはり「すいません」とくり返した。
「あなたが気に病むことではありません。私共も全力を尽くしますので」
彼も自責の念と闘っているのだ。私が頭を下げることは余計に彼を追い詰めてしまうのかもしれない。これ以上…誰かを傷付けたくない。
それに桂沢は生きているのだ。命を取り留めてくれたのだ。ならば今すべきことは…。
「あの、ご本人や奥様…いえ、元奥様とお話はできますか?」
「桂沢さんの意識はまだ戻っておりません。妙な言い方に聞こえるかもしれませんが、いつ意識が戻ってもいつまた急変してもおかしくない…そんな不安定な状態なのです。元奥様はずっと付き添っておられますが…」
会わない方がいい、と藤原は目で語った。

 東京の空は今日も雨雲に覆われていた。またいつ降りだすかもしれない。いや…天気なんてどうでもいい。私は力なく愛車を走らせて自室に帰った。靴を脱いで殺風景な床にペタンと座り込む。シャワーを浴びる気にもなれない。ベッドに倒れこむ気にもなれない。
藤原は私に責任はないと言ってくれた。自分でも頭では理解している。それでも胸の中では自己嫌悪と罪業感が嵐のように渦巻いている。自分は周囲に不幸をもたらす存在…この世にいない方がいい存在…、そのことを久しぶりに痛感した。ここまで自らに対して憎悪を向けたのはいつ以来だろう。きっと中学生の頃以来だ。
また放心しかかっているとインターホンが鳴る。時刻は午前6時半。こんな早朝に誰だ?応対する気にもなれずにいると、数回のノックの後にドアが開く。
「あ、やっぱりいた。ちょっと、鍵も掛けずに何やってんの」
美佳子だった。私服姿の彼女はズカズカと上がり込んでくる。
「…なんてね、やっぱりこうなってたか」
そう言って私の隣の床に腰を下ろす。
「桂沢さんが急変したって病院から交通課に連絡があったのよ。しかも詳しく聞いたら事情聴取の最中にっていうじゃない。だったらきっとまたあんたは自分は最低だモードになってるって思ってさ」
彼女はポンと私の頭を叩くと、手にしていたビニール袋からペットボトルを取り出す。胸の奥からじんわり熱いものが沁み出してくるのを感じた。
「ほい、レモンティー。サンドイッチもあるから一緒に朝飯にしよう」
美佳子はいつものサバサバした感じでそう言うと自分のパンにかぶりつく。本当に…どうしていつもそんなに優しいんだろう、心が大きいんだろう。中学時代、孤独の中にいた自分を救い出してくれたのも美佳子だった。私は改めて彼女のすごさと有難さを噛み締める。
「…ありがとう」
ようやく声が出た。
「大袈裟だな、合わせても330円だぞ」
親友はそう言って微笑んだ。

 美佳子は何も言わずに話を聞いてくれた。そして私が言い終えると、大きく頷いてから口を開く。
「なるほどね。まあそれならあんたが自分を責めたくなるのも無理ないか。不可抗力だとか言ったって、今のあんたには気休めにもならないだろうし」
彼女はそこでこちらを見る。
「でもさ、あんたが間違ってたかどうかは今議論してもしょうがないよ。それよりこれからどう動くかが重要でしょ。どうすんの?ここでこのまま腐ってるか?それとも二人で仕事ばっくれてお台場に海でも見に行っちゃう?」
彼女はいつも適切な案内をしてくれる。さすがは交通誘導の達人…なんて言ったら怒られそうだけど、でも本当に助かる。それだけでもう私の心は決まっていた。
「…出勤する。それで警部に全部報告する」
「よしきた!」
美佳子は私の背中をドンと叩く。
「じゃあ顔を洗って出勤しますか、我らがいとしの警視庁へ」
そういえば昨日のメイクのままだった。きっと私はひどい顔をしているのだろう。美佳子に合わせて腰を上げ、私はまず洗面所に向かった。

 すぐにすべきこと、それは桂沢弘明のシャツから出てきた破片が本当に凶器の壺の一部なのかの鑑定。美佳子のおかげですんなり交通課の許可も下りたので、私はさっそく南原に連絡してそれをお願いした。これはこれでよし、と。
続いて私はもう一つだけ我儘を言った。警部に報告する前にできるだけ情報を揃えておきたい。美佳子はそれもうまく話を通してくれて、私は桂沢をはねてしまったタクシー運転手への聴取を許可されたのだ。制服姿の美佳子と一緒に取調室に入る。
「朝早くからすいません。木村さん、こちらの刑事の質問にもお答えいただけますか?」
美佳子が私を紹介する。小さな部屋の机の体面に座っているのは四十過ぎのやせ型の男。彼はがっくりと肩を落として顔を上げようともしない。それだけ意気消沈しているのだ。
「お疲れのところすいません。ご協力をお願いします」
できるだけ感情を抑えて丁重に伝える。美佳子が椅子に座ったので私も隣に腰を下ろした。どうぞ、と彼女が目で告げる。私は頷いた。
「つらいことをお尋ねしますが…なるべく早く終わらせますので」
運転手は微かに「はい…」と唇を動かす。私は自分の声が震えていることに気付いた。手に汗をかき、少し動悸もしている。きっと昨夜のことがトラウマになっているのだ…また聴取している最中に相手が急変するのではないかと。落ち着け、そんなことはない。
私は小さく深呼吸した。事故の詳細はすでに交通課で聴取してくれている。発生は昨日の午前11時30分頃、現場は交通量の少ない道で目撃者はいない。事故当時乗客はおらずタクシーの車内には運転手一人。桂沢の怪我の程度を見ても運転手が法定速度を破っていたとは考えられず、またブレーキ痕もわずかに踏み遅れた可能性はあるとのことだがちゃんと現場に残されていた。そして彼はすぐに救急に通報している…。つまり悪質なドライバーの不注意や暴走による事故ではない。
「相手の方が急に飛び出してきたんですか?」
私は意を決して問う。沈黙を挟んで小さく「ええ」と返された。
「あの時は空車で流していました。すると…突然…脇道から飛び出してきて…。ごめんなさい、避けられませんでした」
男は項垂れた頭をさらに下げる。
「ご自分を責めないでください。あなたはすべき対処をちゃんとされたんですから。こちらこそごめんなさい、詳細は言えませんが私は交通事故の被害者について知りたいんです。もちろんこれは事故とは全く別件の捜査で、あなたを非難するものでもありません。お願いします、どんな些細なことでもいいので被害者についてご記憶のことはありませんか?」
「わかりました…」
運転手は少しだけ顔を上げた。
「一瞬のことだったんで正直細かいことは憶えていません。ただあの人が駆け足で飛び出してきたということくらいしか…」
「その時のご様子で、例えば駆け足だったにしても、明るい様子だったとか険しい様子だったとかはいかがです?」
「それは…わかりません」
「はねてしまったと気付いたあなたはどうされましたか?」
「すぐに車を出て駆け寄りました。あの人は道路に仰向けに倒れていて…大丈夫ですかと尋ねたら少し呻いていらっしゃいました」
運転手の言葉はまた小さくなっていく。
「何かおっしゃっていましたか?」
しばし考えてから彼は答えた。
「確か…『チエ』とおっしゃっていた気がします。女性のお名前でしょうかね。それ以外に聞き取れる言葉はありませんでした。なのですぐに119番して、無線で会社にも連絡しました」
チエ…それはきっと的場千恵のことだろう。私の胸の奥がまた痛んだ。桂沢は愛する者の名を呼んだだけで、事件については何も言い残していないらしい。私は他にもいくつかの質問を投げてみたが、彼の無罪を証明するような情報は返ってこなかった。
「つらいことを思い出させてしまってすいませんでした。以上です」
私は一礼して腰を上げた。美佳子もそれに従ったが、彼女はドアへ向かう前に一つ追加で尋ねた。
「木村さん、現場検証ではあなたのブレーキがわずかに踏み遅れた可能性があるという見解が出ています。それについてはいかがですか?」
途端に彼は顔尾をクシャクシャにして涙ぐむ。
「そうかも…しれません。ぼんやりしていたつもりはないのですけど、でも、でも、もしかしたらあの人に気付くのが遅れたのかも…しれません」
彼の頬が濡れていく。
「昨日は降ったり止んだりの雨模様で景色が白く煙っていました。あの人は白っぽい服装でしたし…傘をさしてくれていれば目立ったでしょうけど、事故の時は降っていなかったですから…。いやこんなの言い訳ですね、ごめんなさい。本当にごめんなさい。あの人をはねたのは私です、申し訳ないことをしました」
加害者になってしまった男はこれまでで一番深く頭を下げる。そして拳で自分の頭を殴り始めた。くそ、くそ、と怒りの言葉を漏らしている。
「もうやめてください」
居た堪れなくなった私は思わずその手首を掴んでいた。

 美佳子にお礼を言って私は捜査一課のいつもの部屋に向かう。時刻は午前9時、警部が帰ってくるのはお昼頃…それまでに報告書を仕上げないと。ふとすればすぐに昨夜の桂沢の苦悶する姿が脳裏に過るが、私はその度に頭を振ってそれを払った。ほどなく部屋までたどり着く。そっとドアを開けると、思わぬ低い声が私を迎えた。
「やあムーン、おはよう」
そこにいたのは…夏場でもボロボロのコートとハットに身を包み、長い前髪が右目を隠している異様極まりない風貌、警視庁きっての不審人物…私の上司、カイカン警部だった。一瞬呆気にとられたがすぐに私は挨拶を返す。
「おはようございます。警部こそお早いですね、お昼頃に戻られると伺っていましたが」
「結局夜行バスで帰ってきたからね。それでどう?昨日割り振られた事件…捜査は進んでるかい?」
私はぐっと両手の拳を握る。
「すいません、まだ報告書はできていません。なので、直接ご報告致します」
「いいけど、どうしたのそんなに力んで。それに…もしかしてすっぴんじゃないかい?」
戸惑う様子の上司に私は精一杯深く頭を下げた。
「警部、本当に申し訳ございませんでした!」

「ナルホド」
報告を聞き終えた上司は独特のイントネーションで頷いた。
「本当に申し訳ございませんでした」
「まあまあ、もうわかったからそんなに頭を下げなくていいよ。さっきから謝りっ放しじゃないか」
警部は明るく言うと、部屋の隅に移動してソファに沈み込んだ。
「確かに反省すべき点もある。でもね、評価すべき点もたくさんあるんじゃないかな」
「そんな…」
「例えばそう、壺の破片からピンときてすぐ桂沢さんの事情聴取に行ったのは何も間違っていない。早期聴取で早期解決、これは捜査の基本だからね」
「しかし…」
「君は自分が会いに行ったせいで桂沢さんの容態が悪化したように思うのかもしれないけど、こうも言えるんじゃない?君が急いで会いに行ったおかげで彼の貴重な証言を聞くことができた」
低い声が優しく響く。それはクーラーのきいた室内でどこかあたたかい感じがした。
「それにね…」
変人上司はそこでポケットから一本のおしゃぶり昆布を取り出して口にくわえる。まったく…こんな時までマイペースなんだから。
「君が桂沢さんへの容疑を固めた手順もけして軽率じゃなかった。壺の破片だけじゃなく、時間と距離、動機まで検証する段取りをちゃんと踏んでいる。むしろそこまでやってくれるようになったのかと頼もしいくらいだよ」
「やめてください。私は…自分だけでも真相にたどり着けるかもしれないと躍起になって…勘違いして…思い上がっていただけです」
「正直だねえ」
昆布をタバコのように指に挟むと警部は微笑んだ。
「躍起になる…か。なんだか懐かしいなあ。若い頃はみんなそうだよ。私だって先輩の鼻を明かそうと暴走して…それで失敗した経験がある」
前髪に隠れていない左目が一瞬だけ遠い眼差しになった。警部の先輩…それはビンさんのことを言っているのではないように感じた。
「いいかいムーン?刑事も人間だから感情があるのは仕方ない。大切なのはそのことをちゃんと差し引いて事実を見極められるかどうかだ」
「はい」
私は背筋を正す。
「感情に流されないために一番有効な手段は、他の人の見解も聞くこと。君は私にちゃんと報告を入れるべきだった。上司への礼儀とかそういうことじゃなくて…わかるね?」
「わかります」
「よし。それともう一つ、感情としては確かに今は桂沢さんに同情したくなる。でもね、それは危険だ。彼が変わらず重要容疑者であることを忘れてはいけない」
警部はきっぱりと言った。そうだ…そのとおりだ。彼への罪悪感から私は無意識に疑惑を取り払おうとしていた。それではいけない…私は刑事なのだから。
「以上二つ、今回の反省点ね」
警部はこうやって時々私に教えてくれる。この人から何度も学びを得た。尊敬すべき私の上司…なのにもう、どうしてそんな格好してんのよ!どうして昆布をくわえてんのよ!
「君は普段冷静沈着過ぎるくらいなのに、時々大きく揺れるね。でもこんなに落ち込んだ姿を見たのは君が着任した最初の事件以来かな」
「やめてください。すいません…もう大丈夫です」
「捜査を続けられるかい?」
私はしっかり頷く。
「よし。怪我を治すのは病院の仕事。それは先生方に頑張っていただくとして、こっちはこっちの仕事を頑張ろう」
警部がソファから立つ。
「心苦しいけど疑うのが警察の仕事だ。じゃあいつもの感じで疑問点を整理しようか。あ、もしよかったら君も昆布を一本食べるかい?」
「いえ、激しく遠慮しておきます」
「君らしいね、フフフ…」
不気味に笑いながら警部が部屋の中央に来る。私は両頬をピシャリと叩き、ホワイトボードの前に立った。

「では現時点での疑問を挙げていこう。疑問①、権田さんを殺した犯人は誰か?」
私は警部の言葉を板書していく。
「疑問②、権田さんはどうして玄関で、しかもその場にあった壺で殺害されたのか?君はこれについてどう思うかな」
「家政婦の証言があります。権田さんは時々玄関先で客と口論をしていたそうです。それがヒートアップして犯人は思わずその場にあった物で殴ってしまったのではないでしょうか」
「私もその意見に賛成だ。つまりこれは計画的な犯行ではなく衝動殺人ということだね」
私は頷いてペンを走らせる。
「続いて疑問③、権田さんが書き残していたメモの意味。確かベッドのサイドテーブルの上にあったんだったね」
「はい。メモ用紙の一番上の紙です。『6月7日AM11、カツラザワ払う』と読めました」
「それなんだよね。『カツラザワ』とカタカナで書いてあったのは漢字で書くのが面倒だったからだろうけど、その続きの『払う』は何だろう」
「桂沢さんがお金を払いに来る、という意味だと思います。実際に桂沢さん本人も11時に訪問したとおっしゃっていました」
名前を口にしてまた彼の苦悶の顔がちらつく。無事に回復してくれればよいが…。おっとダメだダメだ、感情的になっては。
「でもねえムーン、それなら『払いに来る』って書くべきじゃないかな」
「面倒だから省略したのかもしれません」
「だったらそもそも『払う』だって書く必要はない。『カツラザワ』って名前だけ書けばメモとしては十分だよ。『カツラザワ払う』だと、まるで払った後に書いたみたいじゃないか」
「確かにそうですが…では警部は、桂沢さんがお金を払って帰った後で権田さんがあのメモを書いたとお考えですか?」
「それも変だよね。そんなメモを残す意味があるとは思えない。寝室は書斎の隣の部屋だったんでしょ?だったら借用書に完済の印鑑を押せば済む話だ」
警部の指摘はもっともだ。そこで私の言葉も止まってしまう。
「まあいいや、私はメモの現物を見ていないからまた後で考えるよ。次へ進もう」
「了解しました」
ひとまず『疑問③ 権田のメモの意味』とだけ板書する。
「では疑問④、犯行の動機について。被害者は金貸しをしていたわけだからまずは金銭トラブルの線が濃厚だね。でも桂沢さんは借金を全額払ったと言っている」
「はい、昨日確かに払い終えたそうです。しかし…書斎の借用書に完済の印鑑は押されていませんでした」
そう、やはりこれが問題なのだ。印鑑があれば彼が借金を返したことが証明され権田を殺害する動機もなくなる。桂沢の話が嘘なのか、それとも権田に印鑑を押せない事情があったのか。まさかその事情のせいであのメモを書いたのか?
「疑問⑤」
警部はさらに次へ進む。
「桂沢さんが車にはねられた時、どうして急いでいたのか?そして最後に疑問⑥、どうして凶器の壺の破片が彼の服から出てきたのか?」
私は胃から苦味が込み上げてくるのを我慢しながら書き終え、そっとペンを置いた。
「ありがとうムーン。現時点ではこんなところかな」
昆布をコートのポケットにしまい、警部がゆっくりホワイトボードに歩み寄る。そして右手の人差し指を立てると、そこに長い前髪をクルクル巻き付け始めた。考え事をする時の癖だ。
黙考しているようなので、私も数歩下がって並んだ疑問を読み返す。

疑問① 権田を殺したのは誰か?
疑問② どうして現場が玄関で凶器が壺だったのか? →衝動殺人だったから。
疑問③ 権田のメモの意味。
疑問④ 犯行の動機。桂沢は完済したと証言、しかし借用書にその押印なし。
疑問⑤ 車にはねられた時、どうして桂沢は急いでいたのか?
疑問⑥ どうして凶器の壺の破片が桂沢の服から出てきたのか?

数分の後、警部の指が止まった。
「やっぱり…これだと桂沢さんが午前11時に被害者宅を訪問、でも払えるお金がなくて口論、その末に壺で撲殺、その時に破片がたまたま胸ポケットに入る、そして急いで逃げていた時に交通事故に遭った…と考えるのが一番自然なストーリーだね」
「…はい」
それは認めるしかなかった。やはり…彼が犯人なのだろうか。的場千恵に向けたあの優しい目は…芝居だったのだろうか。いや仮に彼が犯人ではなかったとしても、何らかの形で事件に関わっているのかもしれない。例えば誰かを庇っているとか…だとすれば誰を?
「よし!」
突然警部がパンと手を叩いた。
「では疑問点の整理はこのくらいにして現場へ行こう。ムーン、車を回してくれるかい?」

 私は昨日と同じように道路脇に愛車を停めると、警部と共に権田邸の門をくぐった。現場保存は未だ解かれておらず、南原がまた金歯を覗かせて出迎えてくれた。
「昨日は臨場できずすいません。警視庁のカイカンといいます」
「これはどうも、ご苦労様でございます」
南原は丁重にお辞儀しながらも警部の風貌に驚いていた。おかげで私のノーメイクには意識が向いていない。
「それにしても驚きましたな、桂沢が車にはねられて病院にいたとは…昨日居場所が掴めなかったわけです。しかも服から壺の破片が出るとは…。鑑定は今やっとりますのでもうしばしお待ちください。これが凶器と一致すれば決まりですな」
「どうぞよろしく」
警部はそれだけ答える。そして「現場を見ましょうか」と続けた。
「では、案内しますね警部」
私は先に立って玄関から順に説明していこうとしたが…そこでポケットの携帯電話が鳴る。二人に断わってそれに出ると美佳子からだった。
彼女は現在すずらん医大病院にいるという。交通課の仕事ということだったが、きっと半分は私のために様子を見に行ってくれたのだろう。
「それで、桂沢さんの容態は…どう?」
「ぱっとしないね。一応状態は保ってるけど意識もまだ戻らないし、先生たちも慎重に見守ってる感じ」
「そう…連絡ありがとう」
私が会話を終えようとすると美佳子が慌てて返した。
「ちょっと待って。もう一つ伝えたいことがあったのよ。元奥さん、あんたに会いたいってさ」
心臓がドクンと跳ね上がる。私が顔をこわばらせたのがわかったらしく、隣の警部もちらりとこちらを見た。
「でも…」
「大丈夫、全然怒ってないから。むしろあんたに謝りたいってさ」

 事情を伝えると警部はすんなり了承してくれた。私は現場の案内を南原にお願いして外へ引き返す。そして愛車に飛び乗ると一度深呼吸してから発進させた。
すぐに雨粒がフロントガラスを撃ち始める。私はいつも以上に注意してハンドルを操作した。そしてすずらん医大病院の駐車場に車を停め、雨の中を玄関まで走ったところで彼女…的場千恵とばったり出くわした。
目が合った瞬間、お互いが固まる。しかし彼女はすぐに背筋を正して深く頭を下げた。私も慌ててそれに応じる。馬鹿、自分から謝らなくてどうする!
「あの、昨夜は本当に申し訳ございませんでした」
私が周囲も気にせずそう伝えると、彼女は「こちらこそ…」と顔を上げた。
「ついカッとなって刑事さんのことを叩いてしまって…本当にごめんなさい」
「いえ、そんなことはありません。こちらこそ本当にごめんなさい」
謝罪に謝罪をかぶせていると千恵はクスッと弱く笑った。
「これじゃあ…ごめんなさい合戦ですね」
「…そうですね」
私も顔を上げて慎重に笑顔を作る。
「あの、刑事さん…ちょっとだけつき合っていただけますか?そこのコンビニまで」
「ええ、構いませんが…大丈夫なんですか?桂沢さんから離れて…」
「ずっとつきっきりだと息が詰まるからって藤原先生からも言われました。容態が変わったらすぐに電話をくれるそうですから。それに…あの人の目が覚めた時のために頼まれた物を買っておかないと」
私が怪訝な顔をすると彼女は「ほら、コーヒー牛乳ですよ」とまた笑顔を強める。そういえば昨夜そんな会話をしてたっけ。
「では、刑事さんと相合傘です」
彼女はそこで白い折り畳み傘を開いた。

 アキナーマートは病院のすぐ隣にあったので歩いて五分もかからなかった。桂沢のお気に入りだというコーヒー牛乳を買って店を出る。しかし…彼女はそこで立ち止まった。私も隣に並び、しばし軒下で雨宿りのような格好になる。
「刑事さん…本当にごめんなさい」
彼女はまた謝った。その瞳は雨空を見ている。
「刑事さんは一生懸命お仕事をしていらっしゃっただけなのに…。藤原先生からも聞きました、あの人が急変したのは交通事故のせいだって。刑事さんには何の責任もありません」
「いえ、例え…」
私も空を見ながら告げた。
「例えそうでも、あの時の聴取はお二人に対する配慮が欠けていました。…反省しています」
「それで…やっぱりあの人は疑われたままなんですか?」
彼女の声が深刻さを帯びる。私は自分を律して答えた。
「すいません…捜査の情報は教えられないんです」
「ですよね。いいんです、別にあの人を見逃してほしいとかそんな気持ちはありません。だって弘明は絶対犯人じゃないから」
彼女の声が今度は力強さを帯びる。その言葉は自信と確信に満ちていた。
「絶対に違います。だってあの人はあきれるくらいのお人好しなんです。昔デートで遊園地に行った時も、頼まれたらあっさり観覧者の相席もOKしちゃうし。こっちはロマンチックな展開とか期待してたのに…本当に失礼しちゃいます。
友達の借金をかぶっちゃったのもそう。変なとこで責任感が強いんです。でも…そういう人だから絶対に悪いことはしない。人を恨んだりしない。だから刑事さん…」
千恵がこちらを見た。
「お願いします、本当のことを突き止めてください。そうすれば絶対にわかります、弘明が犯人じゃないって」
「…はい」
私も彼女の目を見ながら答えた。そう、私の仕事は手心など加えずに事実を明らかにすることなのだ。
「よろしくお願いします。私、何も心配していませんから。弘明は必ず元気になるし、無実も必ず証明される。だってまた一緒に暮らせるのをずっと待ってたんですから」
彼女は私にはできない微笑み方をした。本当に…彼を愛しているのだ。なんだかまぶし過ぎて私はまた雨空に目を逸らす。彼女の視線もそれを追った。
「彼と出会ったのもこんな雨の中でした。恥ずかしいんですけど、私の人生で一番ドラマみたいな出来事でした」
彼女は懐かしそうに続ける。
「私は就活中の学生でした。突然の大雨で、軒下に駆け込んだら、同じように駆け込んできたのが彼でした。そんなに大きな軒じゃなかったんで、二人で入るとぎゅうぎゅうだったんです。でも彼は遠慮して、半分濡れながら大丈夫ですなんて言うんですよ。おかしいでしょ。それであたしが強引に彼を引き寄せて…文字どおりくっついちゃったってわけです」
「ロマンスの始まりですか」
「はい。しばらく待ったんですけど…全然雨は上がらなくて、それで結局二人して近所で傘を買って帰ったんです。ビニール傘は全部売り切れだったからこの折り畳み傘を…」
彼女が手にした白い傘を少しだけ持ち上げる。思い出の傘だったのか…だから昨夜、病室で彼女が傘を見せた時、二人に幸せそうな空気が流れてたんだな。
と、そこでほっこりしかけた心が立ち止まる。あれ?確かあの時の折り畳み傘は赤い色だったような…。私がそのことを尋ねてみると、彼女は照れながら教えてくれた。
「それは…本当に中学生みたいで恥ずかしいんですけど、傘を彼と交換してるからなんです」
千恵はポケットから赤いカバーを取り出す。
「初めて会った日、私たちはお揃いの折り畳み傘を買いました。彼は白、私は赤。それ以来、つき合ってからも、結婚してからもずっと二本の傘が二人の宝物でした。傘を差したくてわざと雨の日にデートしたりして…馬鹿ですよね。
だから彼が借金を抱えて私と別れることになった時、カバーはそのままで傘だけを交換したんです、離れてもお互いがお互いを包み込めるようにって…。やだ、私何言ってんだろう」
彼女は頬を染めた。雨足が少し弱まる。
「素敵なお話ですね」
私は素直にそれだけ伝える。ちらと横顔を見ると彼女は目を閉じていた。昨日のままの髪形、メイク、服装、ネイルアート…少し派手にも感じたその格好の意味がようやく私にもわかる。そう、それはデートのための女の戦闘服。
「もしかして昨日は桂沢さんとお会いになる予定でしたか?」
彼女は頷いて目を開いた。
「はい。彼が午前中に最後のお金を払いに行くって聞いてたから…午後から会おうって話してました。だから私も張り切って美容院行って、オシャレして…。でも彼からの連絡がなくて、電話をかけても繋がらなくて…心配していたら病院からの連絡でした」
「そうですか…」
そこで会話が途切れた。しばらく待ったがどちらからも次の言葉が出そうにないので私は告げた。
「そろそろ戻りましょうか」

 廊下を進むと病室の前にはすらりと背の高い婦人警官の姿…美佳子だった。千恵は会釈して室内に入る。ちらりと中を見ると酸素マスクをした桂沢はまだ瞳を閉じて臥床しており、点滴と心電図モニターに繋がれていた。傍らには藤原の姿もある。最愛の彼女は枕元まで行くと、「コーヒー牛乳買ってきたぞ、早く起きろ!」と明るく声を掛けていた。
静かにドアを閉めて私と美佳子は廊下で言葉を交わす。
「ありがとう美佳子。その、千恵さんのこと…」
「あたしは何にもしてないよ。向こうからあんたに謝りたいから連絡取ってほしいって言ってきたんだから。どう、うまく話せた?」
私はそっと頷く。それでも美佳子にはどれだけ感謝しても足りない。腕時計を見るともう午後1時。どうしよう…現場に戻ろうかと考えていると、室内がにわかに騒がしくなった。心電図のモニター音がまたけたたましく鳴り始める。
「弘明!」
千恵の声。続いて藤原が「桂沢さん!」と呼ぶ声がする。美佳子と顔を見合わせたところで看護師数名が廊下の向こうから走ってきた。病室に飛び込む彼女たち。私と美佳子は開かれた戸口で中を伺う。
「昇圧剤準備、輸液全開!酸素も5リットルに上げて」
藤原が早口に指示を出す。慌ただしく動き回る看護師たち。千恵は何度も彼の名を呼んでいる。モニターの音はますますけたたましい。そしてそんな騒がしさの中、一つの声がその場の全員の動きを止めた。

「…千恵」

紛れもなくそれは桂沢の声だった。急変の中、彼はその意識を取り戻したのだ。しっかりと目を開いて愛する者を見ている。
「弘明!わかる?」
必死に答える彼女。
「千恵…わかるよ」
昇圧剤が注射された。しかし…モニターが鳴り止むことはない。藤原は小声で看護師に何やら告げるとモニターのボリュームを絞り、少しベッドから離れた。彼らを二人だけにしてあげようとしているのだと私は直感した。それはつまり…。
両手が震えだす。膝もガクガク言っている。空気が薄まったかのように呼吸が浅く速くなる。
「ちょっと、顔真っ青だよ。大丈夫?」
耳元で美佳子の声。でも私は二人から目が逸らせない。
「千恵…ごめんな」
彼の手がゆっくり伸びて彼女の頬に触れる。
「なんで謝るの?ねえ、元気になるんでしょ?これからまた一緒に暮らすんでしょ?」
「ああ…そうだな…。俺、ちゃんと金は返したから…嘘じゃないから…」
彼女は涙でグチャグチャの顔で何度もうんうんと頷く。
「わかってるよ。そんなのわかってるよ!」
「だから…権田さんを殺してなんかいない。安心しろ、俺は…そんなこと…」
私は目の前が真っ白になる。彼は今なお無実を訴え続けているのだ。
「心配ばかりかけて…ごめんな、千恵。でも俺は…」
「わかってる、わかってるから!お願い、しっかりして!」
彼女の声はほとんど悲鳴だった。消えかけた命の炎を冷たい風から守るように、強く強く寄り添い合う二人。それを呆然と見守る医療者、そして警察官。

…雨音の聞こえない病室。桂沢弘明が息を引き取ったのはそれから三分十四秒後のことだった。