金曜日、午後6時30分。安らぎを基調とした診察室は今、吐き気を催す重苦しさに占有されている。診療を終えスタッフを帰した後で製薬会社のMRと面会、その後はお気に入りの店で夕食…そんないつもの週末プランをこの男が台無しにしてしまった。
「そんなに恐い顔しないでくださいよ、飯森唄美(いいもり・うたみ)先生?」
そう投げかけてくる彼の名は佐藤…今日最後に現れたメロディアス製薬のMRだ。病院を回って自社の製品を売り込むのが彼らの仕事であり、こちらとしても新薬の情報を提供してもらえるのは有難い。少なくとも自分で調べて勉強するよりずっと楽だ。そのため少し疲れていても、私は診療の後にこの面会の時間を設けることにしていた。
しかし今日、この男の面会の目的は製品紹介とは違った。診察用の丸い机の対面に座り、佐藤は得意気に言葉を続ける。
「いやいや…本当にすごい偶然でしたよ。確か先生が当直だとおっしゃっていた夜に池袋の街を歩いてらっしゃるから…おかしいとは思ったんですけど」
そこでいやらしい薄ら笑いが浮かべられる。
「それで後をつけてみたら…まさか妻子ある男性と逢瀬をしていらっしゃるとは」
佐藤は携帯電話を取り出し画面を見せた。そこには私と男性がホテルに連れ立つ一部始終がまるで四コマ漫画のように映し出される。沈黙を通すこちらに脅迫者は「目を疑いましたよ」と付け加えた。
…なんて憎らしい顔。私はそこでようやく言葉を解放する。
「それで、何が望みなのよ?」
自分でも驚くほどそれは小さくかすれた声だった。落ち着け、落ち着くんだ。感情を出してはいけない。感情を出せば相手の思うつぼだ。
「すいませんねえ先生。僕の要求は…二つです。実はお金に困っていましてね、会社の交際費も遣い込んでしまってる状況なんです。ですからお金が…現金が必要なんです」
「現金?」
くり返す私にいけしゃあしゃあと頷く男。怒鳴りつけたくなる気持ちを抑えるため、私はあえて金額ではなくもう一つの要求を先に尋ねた。
「もう一つは…簡単なことですよ。これからも先生には我が社の製品をどんどんご処方して頂きたいんです。実は僕、営業成績もさっぱりでしてね。このままだと会社にいられなくなるかもしれない。製薬会社って本当に食い合いの世界なんですよ。
ですから先生がたくさんご処方してくだされば、それだけ僕の評価も上がるってものです」
…最低だ。私の口から思わず「あなた…」と憤怒が漏れる。だがそれを制するように佐藤は続けた。
「別に違法な処方をしてくださいって言ってるんじゃないですよ?ただ、今後処方箋を書かれる時には我が社のことを思い出して頂けたらなと」
良いMRと悪いMRの違いはその言葉を聞けばすぐわかる。他社と比較した自社の製品の利点ばかりを語る者、まるで映画の興業収入のように売り上げの良さばかりをアピールする者、そしてぜひ使ってくださいと嬉々として薬の使用を勧める者…。
薬とは人間が造り出した異形の物だ。人体に作用して本来の生理では起こらない動きを起こさせる化学物質だ。そこには必ず副作用が存在する。よいことばかりの薬などない。そしてここは精神科、処方するのは向精神薬だ。心に作用する薬など飲まずに済めばそれが一番。薬が必要ということは、それだけ苦しい患者の現状があるということなのだ。
それなのに「社運がかかってますのでどうか一つご処方をよろしく」と処方を勧め、処方されたと聞くと笑顔で「ありがとうございました」と医者に言う…患者の人生のことを完全に忘れているMRがいる。そんな奴らに私は強い嫌悪を抱いてきた。そしてこの佐藤はその代表格である。だからこそ、こんな男に弱みを握られた自分が悔しくてならない。
「あ、そういえばもうすぐ我が社から新しい睡眠薬が出るんですよ。このお薬もぜひ…」
「今はそんな話聞きたくないわ!」
私は声を荒げてしまう。落ち着け、落ち着くんだ。こいつ、脅迫なんて真似をするからには相当切羽詰っているはず。下手をすれば地獄に道連れにされてしまう。
私よりも小柄な男。だが今は立ちはだかる巨大な悪魔のように見える。落ち着け…自分にそうくり返すと、私は心の中で深呼吸してから口を開いた。
「わかったわよ。で、金額はいくらなの?」
「500万ほど」
平然と答えやがる。
「500万って…そんな大金すぐには用意できないわ」
「これはこれは、クリニックの院長先生ともあろうお方が」
そこでまた憎らしい薄ら笑い。いい加減にしなさい!…そう叫びたくなるのをグッと抑えて会話を続ける。
「それで、いつまでに用意すればいいのよ」
「そうですね、実は急ぎで必要でしてね。できれば明日お願いします」
明日までに500万…さすがに無理だと私は伝えた。すると佐藤はそれなら明日はひとまず100万でよいと答える。一体この男、何にそこまで追い込まれているのか。危ない連中から借金でもしているのか?…知りたくもないことなのに、ついいつもの癖で想像力が働いてしまう。
続いて私はお金の受け渡し方法について尋ねた。人目を忍んで待ち合わせるなんて真似は万が一知人に目撃された時のことを考えると避けたい。かといって佐藤の口座に振り込むのも痕跡が残るのでごめんだ。これがもし後日でもよいのなら、またこの面会の時にこっそり渡すこともできるのだが…そんな猶予がないことはこいつの言動から明らかだ。
こちらの胸中を見透かしたように佐藤は「ちゃんと考えてあります」と鞄から一枚の紙を取り出した。
「こういうのはいかがですか?明日の土曜日、ムナカタグランドホテルで我が社主催の学術講演会があるんです。全国から数百人の先生方をお招きして行なうかなり大規模なものなんですが…」
説明を聞きながら机に置かれた案内状に目を通す。
講演会は第一部と第二部に分かれていた。第一部は午後3時から5時までの特別講演、第二部は6時から9時まで一時間ずつ三つの講演。
「僕は第一部のみの担当なんです。当日は会場のホテルに部屋を取っていますから、そこでお金を受け取るというのはいかがでしょう。先生も学術講演会に参加されれば、誰かにホテルにいるのを目撃されても別に不自然じゃないですし」
こいつとホテルの一室で会う…考えただけで虫唾が走る。だが落ち着け、今この男の言葉を否定したり反論を唱えても意味がない。全て受け入れて、受け入れたふりをして…その上で状況を打開する最善策を考えなければ。
「…時刻は?」
「そうですね、第一部は午後5時までですから…まあ後片付けも考慮して5時20分…いや5時半にしましょう。その時刻なら確実に部屋にいます。部屋は1215号室ですから」
「わかったわ。でもこちらが要求に従ったら…」
「ええもちろん、この写真のことは僕の胸にしまいます」
「…わかったわ。明日5時30分、ムナカタグランドホテルの1215号室に100万円を持って行くわ」
「よかった。ありがとうございます先生」
佐藤は白々しく礼を言い、ようやくあの写真が表示された携帯電話をしまった。そして鞄を手にして立ち上がる。
「先生、今後ともメロディアス製薬をよろしくお願い致します。それではまた…明日」
まるでいつもの面会が終わった時のようにそう言うと、MRは診察室を出ていく。私は何も言葉を返さず、ただその後ろ姿を見ていた。佐藤がクリニックを出て数分後、駐車場から車が走り去る音が届く。
*
…世界から取り残されたような感覚。私はその場でしばらく心も体も動かすことができなかった。静寂に包まれた診察室にはただ壁の時計の音だけが際立っている。
不思議な気分だ。どこかぼんやりしていて…まるで今の脅迫さえ夢だったような気がしてくる。しかし、あの男の悪趣味な整髪剤の残り香と私の額の脂汗がそれが紛れもない現実であることを告げている。
…考えろ、考えるんだ。この状況を打開する方法を。
少しずつ頭がはっきりしてくる。私は机に置かれた講演会の案内状を見ながら必死に知略を巡らせた。
考えろ、考えるんだ。ここは診察室、精神を集中させるにはちょうどいい。これまでだってどんなに難解な問題もここで解決策を導いてきたじゃないか。大丈夫、私なら大丈夫だ。
やがて壁の時計が午後7時を告げる。そして、心には一つの感情が膨れ上がってきていた。
…何だこれは?今までに感じたことのない、私の知らない感情。まだこの感情に名前を付けることはできない。それよりも考えるんだ、打開策を…明日までに!