第一章① ~飯森唄美~

 土曜日、午後5時。私はムナカタグランドホテルに到着した。学術講演会が行なわれるのは2階のフェニックスホール…確か300人は入る大きな会場だ。ひとまず会場入り口が確認できる少し離れたソファに腰を下ろす。
 見ると入り口周辺には人だかりができていた。おそらくは第一部の特別講演を聴き終えたドクターたちだろう。受付には何人かMRの姿もあるがあの男はいない。
 私は昨夜考えた計画を頭の中で思い返しながら会場に出入りする人間を眺める。膝に置いたバッグを持つ手にも思わず力が入る。
 そして5時15分、あの男が出てきた。同僚たちと何やら言葉を交わしながら会場を離れ、エレベーターに乗り込んでいく。おそらく自分の部屋・1215号室に戻ったのだろう。私も腰を上げる…行動開始だ。
 エレベーターを避けてフロアの隅にある非常階段に向かう。このホテルは今までにも講演会で何度か利用したことがあるから構造は把握している。非常階段は1階から最上階まで繋がっている。十分な数のエレベーターがあるためわざわざこの階段を使う者は客も従業員もほとんどいない。12階まで駆け上がるのはいささか骨だが、エレベーターを使えば防犯カメラに写ってしまう。大丈夫、学生時代の陸上部の練習メニューに比べたらこのくらいたいしたことはない。
 私は大きく息を吸うと一段飛ばしで走り出す。狭い階段に自分の靴音が響く。念のため他の靴音にも注意を払うが…予想どおり誰もこの階段を利用している者はいない。フロアを間違えないように数えながら、私は目的の階に到着した。
 ここはもう客室フロア。廊下は人影もなく静寂に包まれている。普段は不便さも感じるホテル特有の薄暗い照明も、人目を避けたい今の私には好都合だ。足早に1215号室を目指す。
 …あった。もう一度部屋番号を確認する…間違いない。
 息を整えてから軽くノックする。大丈夫、心は落ち着いている。
「はい、どなた?」
 ドアの向こうからあの憎らしい声がした。私は腕時計を見ながら答える。5時29分、時間どおりだ。
「飯森よ」
 数秒をおいてロックが解除される音、そしてドアが開き佐藤が姿を現した。
「どうぞ先生、お待ちしてました。お入りください」
 佐藤はスーツの上を脱ぎ、ネクタイを緩めただらしないワイシャツ姿だった。この男の部屋になど入りたくはないが、廊下でお金を渡すわけにもいかない。私は黙って従った。
 中は十分な広さのあるシングルルーム。右壁にユニットバスのドアを通り過ぎると手前にベッド、正面奥にはソファとテーブルの簡単な応接セットまで備え付けてある。
「それで先生、持ってきて頂けましたか?」
 脅迫者は部屋の中央で振り返るとあの薄ら笑いを浮かべた。私は黙って頷いてバッグから封筒を取り出す。
「…100万よ」
「ありがとうございます。あらためさせて頂きますね」
 佐藤は受け取ると奥のソファに腰掛け、慣れた手つきでお札を数え始めた。室内に訪れる空虚で不毛な沈黙。佐藤の後ろに広がる大きな窓には晩秋の空が臨み、夕暮れに染まる高層ビルたちが紫色の雲の下でその虚栄を称えていた。…もうじき日が沈む。
 悪趣味な整髪剤の香りが鼻につき始めた頃、佐藤はお札を封筒に戻し立ち上がった。
「確かに100万円、確認致しました。ありがとうございます」
 その全く誠意のない敬語に怒りを覚えるが、それを抑え込みながら私は言う。
「じゃあ…約束は守ってくれるんでしょうね?あの写真を…今すぐ私の目の前で消去して」
 そこでMRは鼻で笑い、私の目を見ながら答えた。
「消去って…それはできませんよ先生。だって、あと400万もらう約束でしょ?」
「だからそれはちゃんと用意して、今度の面会の時に渡すわよ」
「だとしても…要求はもう一つあったでしょう?」
 …やはりこの男、こう来たか。
「先生がこれから先、我が社の製品をちゃんとご処方してくれさえすればあの写真を誰かに見せることはありません。でも…量が少し足りないなあって思ったらまた見せに伺うかもしれませんから」
 正直、今すぐ掴みかかって殴りつけたい。しかしそれをしてしまっては全てが台無しだ。私は衝動を封じる。大丈夫、感情を抑えることには慣れている。
「先生、あの写真は念のための保険です。それでは…100万円ありがとうございました」
 佐藤は目で退室を促す。黙ってそれに従い廊下に出ると、「それじゃあまた」と言い残して脅迫者は室内に消えた。ドアの向こうからは鼻歌が聞こえてくる。
 私の心にまたあの感情が膨らんでくるのがわかった。そう、昨夜感じたあの未知の感情…今私にはその名前がはっきりとわかる。
 …『殺意』。
 ニュースや小説では幾度となく目にしたその名前。しかし自分には初めての感情…そうか、これがそうなのか。だが今はその新鮮さに酔いしれている場合ではない。
 ゆっくりと深呼吸して決断する。

 …実行するしかない、計画を。

 午後5時55分。2階に駆け戻った私は講演会の受付に向かう。
「あの、アカシアメンタルクリニックの飯森です。講演会に出席したいのですが」
「はい、飯森先生ですね。佐藤から承っております。それではこちらにご署名をお願い致します」
 名前と職場を記入する。それを確認すると受付の女性MRは私にメモ帳とボールペンの入った小さな箱を渡してくる。これは製薬会社の講演会ではいつものこと。
「本日は講演される先生方のご意向により、お手元の資料はございませんのでご了承ください」
 これも時々あること。わかりました、とそつなく答え私は会場に入る。
 もう開始直前なのでほとんどの者が着席していたが…それにしてもすごい人数だ。まるでゴールデンウイークの映画館さながら…まあここには無邪気な子供や微笑ましいカップルの姿はないが。昨日佐藤が言っていたようにざっと見ても数百人のドクターが集っている。よし…これも計画どおり。
 そんなことを考えながら、できるだけ目立たない席…なおかつ抜け出しやすい隅の席を探す。おおよそ期待どおりの席に着いたところで、会場の照明が落ちた。続いて製薬会社からの挨拶が始まる。
「皆様、メロディアス製薬関東支部長の原でございます。先生方には日ごろより我が社の製品をお引き立て頂き誠にありがとうございます。また本日はお忙しい中、全国よりたくさんのご出席を頂きまして誠にありがとうございます。それでは第一部の特別講演に引き続き、ここからは第二部と致しまして三人の先生方にご講演頂きます」
 そんなお決まりの言葉に続いてマイクは座長へと渡され、座長が流暢な語り口で最初の講演者を紹介する。それを聞き流しながら私はボイスレコーダーをバッグから取り出し録音ボタンを押した。
 …落ち着け、大丈夫だ。私は心の中でくり返す。
 やがて一人のドクターが壇上に上がり、講演が始まる。正直今は内容など頭に入らない。私はバッグからメガネケースを取り出すと半開きにしたそれにボイスレコーダーを忍ばせて机の上に置いた。
 録音は問題なく作動している。これでよし…じゃあもう一度これからの行動をおさらいしよう。

 6時50分。一つ目の講演が終了し会場が明るくなる。講演中映し出されていたスライドも消えた。製薬会社からのアナウンスが入る。
「それでは皆様、ここで10分程度の休憩となります。お手洗いは会場を出られて左手となっております…」
 休憩が挟まれることは案内状にも書いてあった。しかもこれだけの人数だ、必ず複数の人間が席を立つはず。
 …予想は的中した。少なくとも十数名の人間が出口に向かっている。私はボイスレコーダーがちゃんと作動していることをもう一度確認し、バッグを残して席を立った。頼むぞレコーダー、しっかりアリバイを作ってくれよ!
 人の群れに紛れて会場を出る。もちろん行き先はトイレではない。一目散に先ほどの非常階段に向かう。これから先は時間との勝負だ。私は再び12階を目指して階段を駆け上がっていく。
 間もなく到着。薄暗い廊下にはやはり人影はない。一度来ているから短時間で1215号室にたどり付ける。ドアの前に立った時、腕時計は7時02分…今頃会場では二つ目の講演が始まっているだろう。
 私は息を整えると、先ほどと同じようにノックした。
「…はい、どなた?」
 あの男の声。できるだけ平成を装って答える。
「飯森よ。実は追加のお金を持ってきたから…もう1度話がしたいの」
 …返答なし。大丈夫、あの男ならきっと…。
 二十秒ほどの沈黙の後、ロックが解除されドアが開いた。
「どうしました先生?まあいいでしょう、どうぞ」
 佐藤は相変わらずの薄ら笑いで私を招き入れる。完全に日も沈み室内は暗い。整髪剤よりも今度はタバコの臭いが鼻につく。男は先ほど同様に部屋の中央に立ち止まり、私と向かい合う形となった。
「それで先生、追加のお金って…もう残りの400万を用意してくださったんですか?」
「あの、もっとお金をあげるからあの写真を消去してほしいのよ」
 佐藤は少し考えるような素振りで目を逸らす。しかしすぐにまた視線を戻して言った。
「まあ…考えてみましょうか。で、おいくらほど持ってこられたんですか?」
「今、渡すわ」
 私はコートの右ポケットに手を入れる。しかし掴んだ物はお金ではない。そうそれは…この悪魔を焼却するための凶器。
 受け取ろうと右手を差し出して近づいてくる佐藤。私はその瞬間ポケットからスタンガンを出し、それを相手のスーツの左胸に押し当てる。愚かな男は驚いたような顔をしたが私はためらわずスイッチを入れた。

 バシュッ!

 まるでショートしたかのような音。佐藤は後ろから床に崩れ落ちる。床に後頭部や体を打ちつけただろうが…特にうめき声も漏れなかった。スタンガンをポケットに戻し体を揺さぶってみるが応答なし…完全に意識を失っている。
 よし、ここまでは計画どおり。大丈夫、時間は十分にある。
 私は次の行動に移った。まずコートを脱ぎ両手に手袋を装着する。そして佐藤の衣服を脱がせそれを適当にベッドの上に置く。さらに佐藤をユニットバスの浴槽に運んでいく。
 …重い。いくら小柄とはいえやはり男。しかし大丈夫、このくらい陸上部の筋トレに比べたら…。どうにか佐藤を浴槽に押し込める。まだ完全に意識を失ったままだ。よし、これでいい、次はお湯を入れなければ。私はノズルを浴槽に向け勢いよく蛇口を開いた。
 …冷たっ!
 水はノズルではなく頭上のシャワーから発射された。しまった!急いで蛇口を閉める。くそ、こんなところでこんなポカを!少し脈が速くなる。落ち着け、大丈夫、大丈夫だから。自分にそう言い聞かせながらスイッチをシャワーからカランに切り替える。そして、今度こそと蛇口を開いた。
 よし…ノズルから浴槽に勢いよく水が流し込まれている。適当に水温を調整する。順調にお湯が溜まっていく。
 そこで私は大きな鏡に映った自分を見た。ずぶ濡れ、とまではいかないが髪と服が濡れてしまった。この状態で歩いていたらさすがに目立ってしまう。
 …どうする?ここにあるタオルを使うわけにはいかない。ドライヤーもあるが、このホテルではドライヤーはビニール袋に入っている。使用するためには開封しなければならない。
 気付けば鼓動が激しく脈打っていた。腕時計は7時20分。まだ時間はあるがのんびりもしていられない。私は意を決してドライヤーを開封する。そしてその袋とドライヤーの持ち手を佐藤に握らせて指紋を残した。大丈夫、大丈夫だ。コードの先のプラグを壁のコンセントに挿し込み、スイッチを入れる。
 ブオオオ…。
 温風を浴びながらふと思う。浴槽で水没していく男とその横で髪を乾かす女…客観的に見たらなんて不気味な光景だろう。

 7時30分。髪と服はおおよそ乾いた。よし、まだ十分間に合う。浴槽を見ると佐藤はもう肩までお湯に浸かっていた。次にすることは…私はユニットバスを出て部屋の中を見回す。どこだ、どこにある?
 …あった!佐藤の携帯電話は充電器に繋がれテーブルの上に置かれていた。それを手に取る。よし、パスワードはかかっていない。素早く画像フォルダを開いてあの写真を探す。そしてそれはすぐに見つかった。昨日も見せられた数枚の写真…男性と腕を組んで歩く私が写っている。愚かだ…なんて馬鹿な女。だが今は感傷に浸っている場合ではない。
 データを消去して携帯電話を戻す。次にすることは…そう、あれを取り戻さなければ。
 私は100万円が入ったあの封筒を探す。どこだ?どこにある?脱がせたスーツの上着のポケット…ない。入っているのは名刺や財布、USBメモリーだけだ。じゃあズボンか?…ここにもない。おかしい、じゃあ…。
 部屋中を探した。しかし見つからない。ソファやテーブルの上はもちろん、鞄の中も机の中も探したけれど見つからない。おかしい、渡してから一時間しか経っていないんだ。封筒は必ずこの部屋にあるはず。私は再び脈が速くなるのを感じながら床に這いつくばって探した…しかし見つからない。
 …ザバッ!
 ふいに浴槽からお湯が溢れる音。心臓が止まるかと思った。恐る恐るユニットバスに戻る。
 …少し焦ったが佐藤が息を吹き返したわけではなかった。満杯になったお湯がこぼれただけだ。脅迫者はそのままの体勢で完全に水没していた。自分がまた濡れないように注意しながら蛇口を閉める。そして横目で佐藤を見ると…安らかな死に顔。まるで産湯に浸かる赤ん坊のようだ。
 この男だってこの世に生を受けた時は悪ではなかっただろうに…何が心を歪ませたのか。少し哀れにも思えるが同情はできない。自業自得、脅迫なんて下劣なことをしたこいつが悪いんだ。
 再びユニットバスを出てそっとドアを閉める。これで計画のほとんどは完了した。あと残る問題は…そう、あのお金の回収だけ。腕時計は7時45分。くそ、もうあまり時間がない。急いでもう一度佐藤の衣服、持ち物、そして部屋の中を探す。しかし…あの封筒は見つからない。備え付けの小さな金庫もあったがそれも空っぽ、ベッドの下やソファの脇に入り込んだ様子もない。クローゼットにも鏡台の引き出しにもどこにもない。
「あー、もういい加減にしろ!」
 イライラして思わず叫んでしまう。落ち着け、誰かに聞かれたらどうするんだ。腕時計を見る…7時54分。ダメだ、これ以上は会場に戻れなくなってしまう。
 私は深呼吸してもう一度室内を見回した。自分の痕跡がないことを確認すると、コートを手にして足早に部屋を出る。そして薄暗い廊下を抜け非常階段に向かった。

 7時59分。私は2階の会場入り口に舞い戻る。二つ目の講演が終わり、ちょうど二回目のトイレ休憩で人が出入りしているところだ。
 …よかった、間に合った。私はそれに紛れて会場に入り先ほどの席に着く。ボイスレコーダーはちゃんと録音を続けてくれていた。
 8時を過ぎ再び証明が落ちる。座長が三人目の講演者の紹介を始めた。
「皆様、本日は土曜の夜という大切なお時間にお集まり頂き本当にありがとうございました。本日最後の講演をして頂くのは…」
 講演が始まった。正直とても頭に入らない。まあいいや、後でレコーダーでゆっくり聴こう。それにしても…。
 スライドをぼんやり見ながら考える。あの100万円は一体どこに消えたのだろう。佐藤が室外に持ち出したのか?それとも私が発見できなかっただけでやはり室内にあったのか?
 やがて両膝がジワジワ痛みを発していることに気付く。まあ無理もない、戻ってくる時は非常階段を半分飛び降りてるような勢いだったから。痛みで頭がはっきりしてくると、心よりもまず体が反応し始める。手足が小刻みに震え出した。
 …私は罪を犯した。けして許されない罪を。
 気を張って震えを制する。罪を正当化するつもりはない。ただ…今のこの感情は何だろう?殺意が解き放たれた後の心は、まるで空っぽになってしまったかのように何も感じない。自分で自分の気持ちがわからない。すると手足がまた何かを実感したように震え出した。

 午後9時10分。学術講演会はつつがなく閉会した。この後は隣の会場で情報交換会…つまりは宴会が行なわれる予定だがさすがにそんな気力はない。会場を出ると私はそのまま帰路に着いた。
 大丈夫、全てうまくいった。うまくいったはずだ。あの男は浴槽で自分で溺れて死んだ、警察がそう判断してくれれば100万円の行方など調べられることはない。問題の写真も消した、私が疑われることはない。万が一疑いが及んだとしても…講演会に出席していたというアリバイがある。
 大丈夫、大丈夫だ。

 自宅のマンションに戻る。見慣れたはずの部屋が妙に落ち着く感じがする。着替えもそこそこに私は冷蔵庫から缶ビールを取り出した。そして疲れた体に一気に流し込むとソファに倒れる。
 …ああ、本当に疲れた。
 テーブルに置いた腕時計の時刻は10時過ぎ。長かった一日がもうすぐ終わろうとしている。